性同一性障害についてのメモ

立岩真也

迷惑を蒙りやすい事情
  もう一つこの冊子に描かれているのは性同一性障害のことだ。シンポジウムで2人が報告をし、また高橋の論文が再掲され、またヨシノの講演の記録が掲載された。
  まず、それと「事故」「過誤」「犯罪」とはどう関わるのか。他の様々な身体の状態をめぐることごとがあり、その一部に事故等がある。身体の状態とそれを巡る認識の一つに性同一性障害と呼ばれるものがあり、その状態をめぐることごとの一つに、事故等もある。二つは常に一緒にあるわけではない。ただその上で、やはりシンポジウムで語られているように、両者が近づいてしまう要因はある。
  第一に、それを利用しようとする人たちがすくなくとも今のところ少ないということがある。そしてそのことにも関係して、対応する医療者や医療機関もまた少ない。すると、シンポジウムでも指摘されているように、特定の、ときには唯一の医療機関、ただ一人の医療者に依存せざるをえず、それだけ、関係において利用者は劣位に置かれがちになる。
  第二に、医療を受けていること、手術を受けるといったことを、本人そして/あるいは関係者があまり表に出したくないといった場合がある。すると問題が起こった場合にもそれが知らされにくくなる。共有されるべき問題があったとして、それが共有されることが難しくなる。過誤が過誤として知られず、事態の改善が遅れることになる。
  そして第三に、何がなされればよいのか、何が求められているのか、ときには本人においても定かでない、定かであってもうまく伝えられないことがある。それ以上に、うまく伝えているのだが、受け取り側がうまく受け取ることができないといったことがある。
  こうして、問題が起こりそうであり、また起こってしまった問題が表に現れることが少ない。性同一障害とそれを巡って医療が置かれている現況はそんな現況であり、ヨシノが巻き込まれたのもそんな状況である。
  とすれば、実際のところがどうなのか。それを調べたり、今よりはよい状態にもっていくためにどうするかを考えて言うことだ。ヨシノ(吉野)はその研究に着手している。それはとても大切なことだと思う★01。一方が適切な医療を必要とするなら、そして医療を提供する側にとってもその相手から非難を受けるようなものを提供するのはよいことでなく望んでもいないことだから、医療者・医療機関にとっても、本来、そうした改善の営み、そのための研究は歓迎されるはずだ。

「社会」
  性同一性障害であることに関わってその人が経験する不都合がある。一つに、それを「社会的」に除去すくなくとも軽減できるのであれば、それをすればよいという主張がある。問題を個人のことにせず、社会の側が対応できるのだし、すべきであるといったことが言われる。もう一つのやり方が、手術などして身体を変えることである。そしてこの二つの路線の間に対立が起こることがある。このことについて考えてみたい。
  なぜ前者の方がよい、それを先行させるべきだという主張があるのか。二つの契機があると思う。
  一つに、その不都合を社会が「作っている」からだという言い方がある。ここにはいくらかの——例えば社会学的な思考がときに自覚しない——誤解が介在することもあるのだが★02、しかしもっともな部分もある。説明しよう。
  解決すべき問題が起こっているとして、それについて何かが原因であるということと、その原因を除去すべきであることとは常にはつながらない。他の様々な対応が可能であるし、またそうするしかない場合がある。例えば地震がもたらす害があるとして、地震そのものをなくすることはできず、別のことをするしかない、した方がよい場合がある。しかし他方、人間的なものが関わっている場合には、まず、それが原因である以上は、その人間が変わることによって、人間に対して働きかけることによって事態を変えることができるはずだ、問題を解決することができるはずだということがある。地震が起こることをなくすことはできないとしても、人による災いについては、人に気をつけさせるならどうにかなるだろうというのである。人が起こした問題は人が解決できるはずだというのである。
  次に、身体に対して行なうことが、社会の側が対応することに比して、当人にとって益がないことがある。まず、たいしてあるいはまったく効果がないことがある。そして、いくらか効果があるとしても、それを得るための多くを失うことがある。支払うものがある。それは痛みであったり疲労であったりする。それよりも、人を使うにせよものを使うにせよ、別の手段を使った方がよいということがある。それなのに、いくつか理由・事情があって、本人にとって損なことを本人がしてしまうこと、させられてしまうことがある。その一つは、周囲は、本人に負担がかかるのは周囲は気にならないが、自分たちが負担するのは面倒だということだ。しかしそれでは本人に負荷がかかる★03。それでその傾きに抗しようとする。それが「社会モデル」といった言葉を使って言われることがある。
  ただ、このことはそのまま、社会の側が対応すべきであることを意味するものではない。本人の得失、本人以外の得失を評価する基準から、その本人に課せられる負担が不当に大きな場合に、その是正が支持されることになる。そしてそのような道筋で考えていくと、多くの場合に、本人はそうがんばる必要はない、社会の側がすべきだということになる。
  以上は、要するに得失についての平等、負担の公平というところから言えることだ。そしてもう一つは、この冊子に掲載させたもらったもう一つの私の文で述べたことに関係する。つまり責任に関わる。例えばある身体の状態の人に対する人々の加害的な態度・言葉があったとしよう。そしてその状態がなにかの手段で容易になくすることのできるものであるとして、ならばなくしてしまえばそれでよいということになるか。ならないように思える。不当な扱いは、それとして指弾されるべきだとされるだろう。既になされてしまい、そのこと自体は取り返しがつかない場合でも、そのことについて謝罪は求められる。差別の「もと」になっているものをなんらかの方法で除去することができたとしても、しかしその行ないはやはりよくない行ないなのだから、それはそれとしてなくすべきであり、行なってしまった時にはその責任を問われるべきであるということである。

両立する
  ではそれで終わるか。そうなるとは限らない。一つ、高橋も言うように、いまみたことがもっともであることは、他方が無効あるいは有害であることを意味しない。まず、社会の側の対応だけですむ、あるいはそれだけですませる方がよい場合は、比べて、負担が大きく、得るところが少ない場合だった。だから、するべきことはするべきだということにはなるのだが、そのことは、身体を改変することか有益である場合があることを否定するものではない。また、人々にある悪意、人々がなす悪事についても、それはそれとして指摘し改善を求めるべきであるとしても、それの解決法が人の身体を変えてしまうことであるというのは本末転倒であるとたしかに言えるとしても、しかし、そのことは身体を変更することによいことがある可能性を否定するものではない。
  みな社会の側の対応でまにあうものなのか。そうとは限らない。自分の身体を動かす代わりの他人による介助といった即物的な行ないにしても、それでまにあわせることができなさそうな部分がある。ここで主題になっている性同一性障害については、さらに多く残る部分がありそうだ。どの部分にか。それを知るにあたっては、現実に社会的障壁をなくすことが条件になるというわけでは必ずしもない。何をすることによってどのような場面での不利益が解消できるのか、その不利益がなくなってなお残るものがどこにあるのか、おおよその見当がつくこともある。性同一性障害の場合にはたしかにそんな部分があるように思われる。手術をしないと満たされることのないニーズがあると思われ、言われる。社会の理解が得られたり、様々な不便が解消されたとしてもなお変更が望まれるのだというのである。「誤解」や「悪意」、あるいは「不便」がなくなったとしても、やはり私の身体に対する違和、そのことに関わる自身にとっての不便は残るように思われる。
  するとさらに言われることはある。つまり、その心性が形成されているのだとされる。「心」が問題にされる。この社会において、さまざまにきまりのわるい思いをしたり、不当な扱いをされてきために、今の自分を否定的に見ているという部分はたしかにあるように思える。そんな部分があることは否定できないようだ。しかしやはり、それだけでもないように思える。この場面に来るとたしかに証明はより難しくなる。どうして私にはそう思えるのか、「内省」としてもなかなかわからないように思える。さらに伝えるのがむずしい。「普通の病気」の場合であっても、身体の苦痛を伝えることは難しく、その訴えが信用されない場合もある。それでもまだわかってもらえそうだ。それに比べて、性に関わる違和感を伝えるのは難しい。
  ただ、それをどのように説明したらよいのかよくはわからず、自分でも確証はできないにしても、やはりあると当人に思われる。そのことがこの冊子に収録されたヨシノの講演でも言われている。よくはわからないが、それ以上説明のしようがないというなのかもしれないが、そんなことはあると思う、
  次に、両方のことを同時に行うことは、高橋もまた述べていることなのだが、矛盾するものではない。むしろ、第一に、社会的障壁の様々を除去したうえで、除去しながらなお、残るものがあれば、それは手術といった手段によって対応してよい、そればよいということになる。第二に、身体に対する負荷のことを考えるなら、またリスクをなくすことはできず一般には身体への大きな侵襲は望ましくないということになるのであれば、画一化された性同一性障害像を除去するその他のことがなされれば、人によっては、あまり大きなことはせずにすむ、それはよいことだということになる。

残るかもしれない論点
  このようにして、すくなくとも理屈としては、話は収まるように見える。ただ現実にはそうはなっていない。その存在やそれへの医療的な対応が「公的には」何も認められない時期が長くあった後に変化はあったのだが、それは「明確に」「典型的に」性同一性障害でないと、認められないといったことになっている。
  ヨシノにしても、しっかりと男・女の身体になりたいという人がいることを否定しているのではない。しかし自分は、どうしてだからわからないのだが、そうではない。けれども、前者のような人たちだけが真性の性同一性障害の人として認められ、法もそのような人を想定する法として作られてしまう(吉野[2008b])。とすると、自分(たち)——性同一性障害同一性障害=GIDID(吉野[2008c])の自分(たち)——は迷惑をこうむる。だからそれには抗議する。そんな場から逃げ出そうとする(吉野[2008a])。かし人々はそのような、自分(たち)のような人たちかいることも知らないようなのだ。それは困る。まずは知ってもらわねばならない。だから、求められれば話をしにも行く。文章も書く。それもまたまったく正しいと思う★04。
  ではそのような具合に現実がなってしまっているのは、ただ「ジェンダー規範」がなせることなのだろうか。男と女とをはっきり分けておきたいという、そして性同一性障害は認めるが、ならばはっきり男・女の身体になる人になってもらおうという、多数派の欲望によるものなのだろうか。この要因はそれとしてたしかにあるだろうと思う。ただそれだけで説明することができるか。あるいは、現に社会にある説明はどんなことになっているのか。これは——法の制定過程で何が言われたのかの検証も含め——もうすこし見ておいてよいことであるように思う。
  基本的にどのように変えようとそれは自由であるということになれば、それはそれですっきりはするかもしれない。しかし、この手術の相当部分について侵襲性・不可逆性は高いかもしれない。そしてそこに、述べたように「社会的なもの」が絡んでいるなら、本人がその時に言うことをそのままに受け取り、言われた通りに手術をすればよい、ということにはならない、かもしれない。一つ、それを行なうか否か、どの程度のことを行なうのかについて、「社会」の側に口を出す相応の理由があると言えるのかもしれない。むろん既存の法律とのかねあいも現実にはあるのだが、そのことをいったんはずしてもこの論点は残るように思われる。
  もう一つ、それがかなり費用のかかる行ないであるとして、その費用を誰がもつのがよいのかという論点がある。手術を行なうのはかまわないが、それは自己負担で行なうべきだという考え方がある。私たちは様々な趣味をもっている。なかにはまじめに取り組めばばずいぶんと金のかかるものもある。しかし、それは各自の予算の範囲内でやってもらうということになってくるものがあり、それはそれとして認めてよいかもしれない★05。
  すると、行なうことが正当であることを人々にわかってもらうために、さらに——いまは自己負担でということになっているのだが——例えば社会保険の適用を求めるのであれば、また医療体制の拡充・整備を求めるなら、身体の改変がたんなる「趣味」「贅沢」ではなく、「切実なニード」であることを証明しなければならないということになるかもしれない。となるとその切実さを証明しなければならないことになり、そして、自分自身では変更できない強固なものであるということになる。「としか思えない」ことが語られ、強調される。するとどうしても、はっきりしたもの、まったくの苦痛でしかないもの、はっきりと変えたいもの、典型的なものに偏ることになり、ヨシノのような、半端なものが前に出てくるのはよくないということにもされかなねない。
  これは、やはり、前の私の文章に書いたことと相同の構造をもつ問いでもある。つまり、何かを受け取ろうとする時、とても深刻なことが起こっていることを言わねばならないことになってしまうということだ。すると、それにどう対するのかという問題は残るかもしれない。どういう返し方があるだろうか。
  たとえば、いずれともはっきり定まらないようなものも含めた「性的アイデンティティ」の保持・獲得を、基本的人権の一部であるとし、人が得られてよい基本財であるとして、その費用についても、社会的に負担してよいのだという言い方もあるかもしれない。また、そのことまでは主張せず、趣味は趣味であるとした上で、費用の負担ぐらいは自前でということを受け入れ、しかしそこに生じうるリスクについては、それは人の健康・生命に関わることなのであるから、他の医療行為と同様に、問題が生じることの少ない仕組み、問題が生じた時に、それに対応することができるような仕組みを作っていくべきだと主張することもできるかもしれない。このようにまとめようと思えばまとめられるかもしれない。ただ、ここにあるのは、存在はするもの、しかしそれをそう人にわかりやすく、そしてことさらに深刻なこととして言いたくはないが、しかし存在はするものを、どのようにこの社会に位置づけさせるのかという、わりあいに微妙な、しかしそこそに大きな問題であるのかもしれない。これらのことがさらに考えるべきこととしてあるのかもしれない★06。


★01 以下はその研究計画書に対する教員としての評価書の一部。
  「性同一性障害は、例えば社会学の研究対象としてありそうな主題となり、実際、研究も幾つか出てきているようだ。そしてときにはよいものもある。そしてそれらは、「語り」を集めるという、昨今常套的に用いられる研究手法で押していくだけでは足りないことをわかっているようだ。しかし、ではどのように進めていくのか。なかなか難しい。
  申請者もまたそのことを思っている。ただ、同時に「問題意識」は鮮明である。「勝手に二つに分けるな」、ということだ。すると、いずれかへの変容を押し付け、身体を変えようとする「社会」その他と、それを拒む「私」、ということになるか。そう単純でないところが、難しいが、おもしろくもある。つまり当人も、そのままでなく、(いくらかあるいはたくさん)身体を変えたいと思っているのだ。
  とすると、申請者が医療という場を調査研究の一つの主要な場所に選んだことの意義は明らかである。それは一つに、医療において不適切さらに加害的なことが多くなされてしまっているからということでもあるのだが、それと大きく関係して、身体という同じ場に、その当人と医療あるいは医療に関わる様々の力が集まるからである。
  医療を押し付ける社会とそれを拒む私という図式はここでは成立しない。問題はより微妙で複雑である。だから、その場面を選んで、それを社会がどのように規定し、当人たちはどのように思い、実際何が起きているのかを記述することの意義は大きい。そこから、なんでもどちらかに決めたがる側——ただこちら側についてはある程度のことは知られている——について、そして、そうは思わない側——こちらをうまく言い表わすことの難しさはどのようにしても残るだろうが——について、「実感としてどうもわからない」という人たちをも「そうかもしれない」と思わせる、精緻で厚い記述が生まれる。[…]」
★02 「社会的なものだから(社会的に)除去すべき」という短絡がときに起こる。短絡であることが自覚さえされていればよいのだが、時にそうでもないように思える。最低限つけ足せば、まず、あるものが、しかじかの理由で除去すべきであるという価値判断があり——だからそこには判断の相違がありうる——その上で、社会の側に義務・責任があるから、そして/あるいは対応が可能であるから、そのことについて社会が応じる、応じるべきであるということになる。cf.立岩[2004b]
★03 私がこれまでに立岩[2001][2002]等で書いてきたのは、本人にとっての得失を考えてみた場合に、自分の身体をなおすこと、自分の身体から障害をなくすことの方が、他よりもよいとは、つねには言えないということ、他方、他人(たち)から見た場合には、その人の身体の水準でどうかなってもらった方が、その水準で努力していてもらった方が得なことがあるということだった。立岩[2008](第3章「有限でもあるから控えることについて——その時代に起こったこと」3節「確認」1「なおす/とどまる:本人において」2「なおす/とどめる:援助者他において」)でも、これらを引きながら、いくらかを加えて述べている。
  「自分で動ける状態を維持するための、あるいはその状態に戻るための自らにおける負荷を算入しても、訓練でいささか痛い思いをしても、自分で動けるようになった方がよいということはありそうだ。例えば加齢にも関係し脳血管に関わる身体の不随意の場合、早期の(狭義の)リハビリテーションに効果があることがあるのは事実であり、もろもろの代償を払っても、その方がよいということはありうる。そして、この場合にはそれを始めるのは早い方がよいともいえる。
  他方の医療やリハビリテーションに対する批判は何を言ってきたのか。まず、効果がないこと、支払うものに得られるものが釣り合わないことが問題にされた。例えば脳性麻痺について言えば、すくなくともこれまでなされてきたことのすべてに顕著な効果があったのではない。しかしそれは行なわれた。そして早期の治療・療育がよいなどと言われて、子供のころ、何をされているかもよくわからないまま、苦痛の中で無駄なことをされてきた。ただそれはまた、本人が支払い失うものが多くないのであれば、また受け取るものが本当にあるのであれば、肯定されてよいことがあるということでもある。
  両者は基本的には矛盾しない。ただ考えておくべき点は残る。その人の損得をどのように評定するか、今その人にある損得の計算をそのまま認めてよいのか。これから述べる他人たちの損得を合わせて考えるなら、さらに複雑になるのだが、当人のことだけ考えても、これはときに難しい。はたからみても、この人はなまけすぎだと思えることがあり、がんばりすぎだと思えることもある。そんなことをどう考えるかである。」(「なおす/とどまる:本人において」)
  「もちろん当人にとっての利害と周囲にとっての利害とそう大きくは違わないこともある。つまり、なおすことは自分のためにであり、それが同時に他人たちのためでもあることがある。またしかじかの身体の状況を自らが受け入れ、そのことで周囲も手間がかからずに助かるということもある。いつもそうならそれでよいかもしれない。ただそんなことばかりではない。ずれることがあるのだ。それは、知らないということではなく、すくなくとも知らないというだけのことではない。むしろ場の構成による。
  1)まず、周囲の人たちは、負担、すくなくともその人の身体に関わる負担を自分たちで引き受けるわけではない。だから、その部分を軽く見る傾向がある。本人は痛くて辛いのだが、それでもがんばれと痛くない人は言えるし、実際言ってしまうことがあり、その方向に人を向かわせる傾きがある。
  2)次に、なおるためのことを行なうことが仕事である人たちがいる。その人たちはそれを大切なことだと思う傾向がある。そこで多くのことをし、多くのことをさせようとすることがある。「近代医療」と「過剰」とをつないで批判する人たちが見ているのは多くここの場面だ。その人たちは自らの信じること、自らの流儀をどこまでも押し通してしまう、そこがいけない。そう批判者は言う。
  3)そして、それが収入につながるとなれば、なお行なおうということになる。そして、ここでは成果があがることが期待されてはいるのだが、とくに医療の場合には、何がどれだけ効くのかわかりがたいことがある等の事情で、不要で過剰な供給がなされることがある。ここではなおすこと自体が目指されているというよりは、それを行なっている(とされる)ことに伴って得られる利益が目指されている。前節で老人医療の無料化がなされた時に示された懸念を紹介したが、それもこのことに関わっている。
  直接の供給者だけを見ても以上の要因が関係している。
  4)さらに、その周囲にとっての得失がある。早めになおってくれれば、あるいは病気にかからないでくれれば、その人のためにかかる費用は全体として安くなるかもしれず、その人は働けるようになるかもしれず、また伝染する病気であれば他の人たちがかからずにすんで、それもまたよい。
  以上は、促進する要因、なおすため、あるいは予防するために多くのことをなしてしまう側の要因ということになる。すると、痛い目に会うのは自分たちなのだから、このことについて、あなた方に決めさせるわけにはいかないと主張することになる。これはまったくもっともなことだ。けれども、以上だけ、あるいは以上の一部だけを取り出し、「過剰」だけを言うと、現実のもう半分が落とされてしまうことになる。実際には、たしかに一方では医療はなおそうするのだが、他方で、それが不可能なことがあること、そのことを「受容」することを奨めもするのである。また、さらに広くにいる周囲の人々も、ある時には押しつけがましいのだが、ある時には同じ理由から逃げていきもするのだ。
  5)まず、治療やリハビリテーションに伴う苦痛を周囲の人たちは直接には感じないと述べたが、同時に、それがもたらすよいこともまた直接に受け取るわけではない。
  6)その人たちが自分の仕事を貫き押し通そうとする傾向があることを2)で述べた。ただ、それはその仕事をしてうまくいく場合、うまくいく可能性がある場合のことである。自らの技が有効でない場合には、むしろ、その同じ「本性」からして、そこから手を引こうとすることも考えられる。仕事のしがいがないからしない、あるいはやめる。こんなことがまたいくらもあることも私たちは知っている。効果的な手段、すくなくとも決定的な手段はないことがある。また、加齢に伴う様々な症状はあまりに多くの人のものであり凡庸な状態であり、自らの腕を振るう仕事の対象としておもしろくはないといったこともある。
  そこでまったく撤退してしまう場合もある。医師の多くはそれができる。たださらにつきあわねばならない職種の人たちもいる。いる場によっていてほしい人間の類型も異なってはくるが、おおむね、適度になおるつもり・意志があり、しかし同時に、あるいはその営みが終わった後では、適度にあきらめられる人が扱いやすいということになる。こうして「受容」が推奨される。それがうまくできないと「受容ができていない」ということになる。うまくいったときにはそれは治療者の手柄でもあるのだが、うまくいかなかったら、それはその人に受け入れてもらう。受け入れられないのは、そしてそのために援助する側を攻撃したりするのは、その人の「受容の失敗」ということになる。なかなかうまくできている。
  7)そして、患者/障害者のために働くのはそれ自体としては面倒で辛いことでもある。だから、その人たちは、仕事をしたくない人たち、手を抜けるなら抜いた方がよい人たちでもある。これは仕事を控える方向に作用する。そこで3)対価を払う、払うしかないということにもなるのだが、それは、収益とは言わないまでも収入が得られない仕事であれば撤退する、撤退せざるをえないということでもある。また支払いを受け取りつつ手を抜けるのであれば、手を抜こうとするといったこともある。
  8)手間がかかったり生産が妨げられたりするから病気に罹ったり障害を負わないでほしい、罹ったら手早くなおってほしいと思うと4)で述べた。それとまったく同じ理由で、医療やその他の様々が控えられるということがある。この社会では、直接の仕事の担い手と、その人たちの仕事に金を支払う人たちが分かれている。その支払いを少なくしたいと思う、とくに支払ったとしてもさほどの益が期待できない場合には少なくしたいと思うとしよう。そこで金がかけられなくなったとしよう。すると7)を経由して、なされることが控えられることになる。
  すくなくとも——と言うのは、以上のいずれからも説明されない、その人になおってほしいとか、助かってほしいとか、痛みが減ってほしいといった思いもまたあるからだ——以上のような要因が関係して、行なうこと/な行わないことの線が引かれること、変更されることは見ておく必要がある。」(「なおす/とどめる:援助者他において」)
★04 ただ、「学問」においては多様であり流動的であることの方が受けがよい傾向はある。それに対し、少数派本人たちの中の多数派は、より確固としたものを支持し保持しようとするところがある。それをたんに多数派の抑圧に対する反動と考えてよいものなのか。それはそれとして考えてよい。片山知哉の論文で、ゲイや聾者の「ナショナリズム」が記述され論じられてようとしている。(ただ、性同一障害に起こることはこれとはまた異なっていて、典型的に存在するのは、ナショナリズム、分離主義…ではなく、同化主義的なものである。)
★05 なんの関係もない本のように思えるかもしれないが、立岩[2004]で「慎ましやかな欲求」「贅沢な欲求」について検討してみている。そこで述べたのは、その欲求が慎ましやかにすぎると、あるいは贅沢にすぎると言える場合には、その欲求をそのままに受け入れることはないということだった。しかしこの場面での欲求を不当な欲求とすることはできない。このことまでは言えよう。
★06 こんなことについても立岩[2008-]のなかで考えることができたらと思う。そして、知ること、知ってよいことを集め並べることが、ここでも必要だ。その必要なことが高橋[2008-]等で始められている。

文献
 *HP(http://www.arsvi.com)にこの文章・文献表が掲載され、人や文献にリンクされている。
◇石川 准・倉本 智明 編 20021031 『障害学の主張』,明石書店,294p. 2730 ISBN:4-7503-1635-0 [amazon][boople][bk1] ※ d.ds.
片山 知哉 200803 「教育における正義——言語・文化選択におけるこどもの権利」,立命館大学大学院先端総合学術研究科2007年度博士予備論文
◇野口 裕二・大村 英昭 編 20010730 『臨床社会学の実践』,有斐閣選書1646,318+ivp. ISBN:4-641-28054-1 2100 [amazon][boople][bk1] ※ sm.
◇高橋 慎一 2008- 「トランスジェンダー/トランスセクシャル/性同一性障害/インターセックス」 http://www.arsvi.com/d/t05.htm
◇立岩 真也 20010730 「なおすことについて」,野口裕二・大村英昭編『臨床社会学の実践』,有斐閣 pp.171-196
◇————— 20021031 「ないにこしたことはない、か・1」,石川・倉本編[2002:47-87]
◇————— 2004a(20040114 『自由の平等——簡単で別な姿の世界』,岩波書店,20040114,349+41p. ISBN:4000233874 3255 [amazon][kinokuniya][boople][bk1]
◇————— 2004b(20041231 「社会的——言葉の誤用について」,『社会学評論』55-3(219):331-347→立岩[2006:256-281]
◇————— 20060710 『希望について』,青土社,320p.,2310 ISBN4-7917-6279-7 [amazon][kinokuniya][boople] ※,
◇————— 2008 『唯の生』,筑摩書房
◇————— 2008/07/01- 「身体の現代」(連載),『みすず』2008-7(562):32-41〜
吉野 靫 20080301 「GID規範からの逃走線」,『現代思想』36-3(2008-3):126-137
◇————— 200803 「性同一性障害特例法は「多様な身体」に応答しうるか」,『コア・エシックス』4:383-393(立命館大学大学院先端総合学術研究科)
◇————— 20080501 「GIDID」(研究手帖),『現代思想』36-5(2008-5):222