第5章 性同一性障害医療と身体の在り処——ガイドライン・特例法とトランスジェンダリズムの分析から

高橋慎一(立命館大学大学院文学研究科)

1 問題設定──原因と結果をむすぶ語りと身体に対するニーズ
 1990年代以降、日本の性同一性障害医療とそれを取り囲む政治状況の文脈で、当事者の身体改変のニーズの原因が様々に語られている。そこで語られる原因は、生物学的な基盤をもつ身体違和であったり、性役割を演じ切れないことで受ける社会的不利益であったりする。この原因をどちらに置くかで、性同一性障害当事者のニーズへの対し方は変わってくる。端的に言うならば、身体違和がニーズの原因であるというのは、医療従事者や性同一性障害当事者の一部である。社会的不利益をニーズの原因として強調するのは、「トランスジェンダリズム」の立場をとる人々である。前者は、現在の医療システムに内在して、性同一性障害当事者の医療へのアクセスを正当化しようとする。後者は、トランスジェンダーの医療化を、性役割を割り振る社会編成を強化するものとして批判している。

 トランスジェンダリズムと医療の関係を考察する人々の理論的背景としては、1980年代から1990年代にかけての、フェミニズム研究、ゲイ・レズビアン研究、トランスジェンダー研究、クイア研究における、性的な身体をめぐっての構築主義/本質主義論争の活性化があった(Dean 2000; Stryker and Whittle 2006)。ここでいう身体とは、男女という性別によって分離されて、セックス、出産、育児、介護等に携わる社会的役割を付された身体である。本質主義とは、自然とされる生物学的基盤から、社会編成における性役割を派生的に導き出す議論であり、構築主義とは、実は男女という性別を割り振る社会編成こそが、生物学的に決定されているとされる身体を構築しているという議論である。
 本質主義は、歴史的に特殊なニーズを、身体の自然な欲求であると考える。ここには問題がある。この見方では、社会的に過酷な状態に置かれてそれに慣らされてしまった人──被抑圧マイノリティ──のニーズ、当人の主体性が当人に不利益をなす形で構築された場合の不当さが見過ごされてしまうからである。これに対して、構築主義は、本質主義を批判し、身体の自然な欲求とされたニーズの中に社会的強制を見出している。ところが、構築主義にもまた問題がある。構築主義の身体観は、生物学的身体が社会編成によって産出されていると考えるので、論理的には、身体やニーズを社会編成による強制状況と同一視して抹消してしまう。このような、「あなたのニーズは強制状況によるもので存在しない」という言明は、当事者の主体性を深く損いかねない。性同一性障害医療は本質主義の立場であり、「トランスジェンダリズム」は構築主義の立場である、とひとまずは言えるかもしれない。だが、後に見ていくように、日本の「トランスジェンダリズム」には、医療の選択に社会的強制状況を見出すと同時に医療を肯定する、一見矛盾した語りがある。
 本稿は、構築主義の身体観を受け継ぐ一方で、そこから距離をとる。本稿の視点では、性同一性障害当事者の身体改変のニーズは、その原因を、生物学的基盤とも社会的不利益とも決めることができない。したがって、そのニーズ──構築主義の抹消する身体──は、社会的強制が解除された後の時間にしか、存在するか否かを確証できない。ここに、存在を確証できないが否定できないという形で、現に存在する身体を、論理的に設定できる(Butler 2004; Dean 2000)。
 この視座をもって、本稿は、日本の性同一性障害医療と「トランスジェンダリズム」を分析する。性同一性障害医療は、当事者のニーズの原因を生物学的基盤をもつ身体違和に置いた。その結果、性別適合手術の選択に圧力として働く社会的不利益を看過することで、医療を成立させた側面がある(2節)。現在の医療は、社会的不利益の解除を先延ばしにする傾向をはらんでいる。また、「トランスジェンダリズム」は、この同じ身体改変のニーズの原因を、社会的不利益と認識し消去してしまっている。「トランスジェンダリズム」には、当事者の主体性を損ないかねない危うさがある。医療と「トランスジェンダリズム」は一見したところ両立不可能である(3節)。ところが、「トランスジェンダリズム」には、実際には医療を肯定する人々が多い。これはなぜか。ここで本稿は、先の身体に関する視座──生物学的基盤と社会的不利益の間にある身体──を導入して、「トランスジェンダリズム」を再考する。それによって、「トランスジェンダリズム」が、当事者の身体改変のニーズを取り囲む社会的強制状況を見過ごすことなく、自由な医療の選択を肯定する論理をもっているのだと示したい(4節)。
 まず、本稿で使う基本的な用語を定義する。「性同一性障害Gender Identity Disorder(GID)」とは、日本精神神経学会によると「生物学的には完全に正常であり、しかも自分の肉体がどちらの性に所属しているかをはっきり認知していながら、その反面で、人格的には自分が別の性に属していると確信している状態」をさす医学上の診断名である(日本精神神経学会 1997: 533)。性同一性障害という分類の中には、様々なニーズをもった人々が括られている。一般には、以下のような下位分類がある。外見や服装を身体の性別とは別の性にしようとする人は、「トランスヴェスタイト」。身体の性別に身体改変でしか解消できない違和感をもっている人は、「トランスセクシュアル(TS)」。この二つの中間で身体とは別の性自認があるが手術を必要としない人は、「トランスジェンダー(TG)」。トランスセクシャルとトランスジェンダーのうち、男性から女性に身体上の性を移行している人は「Male to Female(MTF)」。女性から男性に身体上の性を移行している人は「Female to Male(FTM)」と表記される。これらの分類は、「性指向」(何・誰を性の対象にするか)により規定される同性愛者・異性愛者という分類とは異なり、「性自認(gender identity)」(自分の性に対する認識)によって規定されている。また、性同一性障害医療においては、「性自認」は生物学的基盤をもつとされ、社会的に付与される「性役割(gender role)」(男女という性別に付された役割)から区別されている。
 性同一性障害をめぐる情勢として、日本では1998年に日本精神神経学会による「性同一性障害者に関する診療と治療のガイドライン」に基づいた治療(第一段階/精神療法、第二段階/ホルモン療法、第三段階/性器切除及び性器形成等)が、埼玉医科大学で始まる(*1)。2003年にはこの「ガイドライン」による正規医療を受けた後の、戸籍上の性別の変更を可能にする「性同一障害の性別の取扱いの特例に関する法律」(以下、特例法)が成立した。本稿では、この流れに批判的な距離をとりながら形成されてきた運動という限定を付けて、日本の「トランスジェンダリズム」を検討する。これは、性同一性障害という医学上の疾病分類に依拠することなく、性別を越境する経験を肯定的に捉えて、個人の身体改変よりも社会的条件の整備に力点を置いた運動である。医療との関係では、この意味でのトランスジェンダーは、望む性別を獲得するために身体改変を希望するトランスセクシュアル・性同一性障害に対して、男女に分類できない身体改変を肯定する人々であるといえる。本稿は、このような意味でのトランスジェンダーの立場──上に書いた一般的なトランスジェンダーの分類からずれる──をとった一群の論考を扱うものである(*2)。

2 性同一性障害医療の成立──医療行為の正当性
(1)ガイドライン策定と当事者団体
 この節では、医療従事者が性同一性障害医療を正当化した論理を検討し、当事者のニーズの原因から、性役割を演じきれないことで受ける社会的不利益が除外されていく過程を分析する。まず、ガイドライン策定の過程と当事者団体の果たした役割を概観する。「性同一性障害に関する診療と治療のガイドライン」は、当事者団体の働きかけと、埼玉医科大学倫理委員会(以下埼玉医大委)の答申を受けて、日本精神神経学会の取り組みによって1997年に第1版が作成された。以降、2002年に第2版、2006年に第3版が発表されている。第1版策定までには、以下のような経緯があった(野宮 2005; 南野 2004)。
 1992年7月、埼玉医科大学の原科孝雄の診療をFTMが受診したことをきっかけに、95年5月、原科が同大学倫理委員会に「性転換治療の臨床的研究」として「男性?女性の性転換」の施術を申請するはこびとなる。原科は、1995年8月横浜で「第12回世界性科学会議」が行われたさい、関連プログラムとして開催されたシンポジウム「日本におけるトランスジェンダリズム」に参加した。このシンポジウムには、ミニコミ誌『FTM日本』の創刊者虎井まさ衛も出席し、当事者と医師、性科学の専門家が一同に向かい合う、象徴的な場となる。1996年7月、埼玉医大委が条件付きで「外科的性転換術」の実施を認める答申を発表し、同年12月、「ジェンダークリニック委員会」が設置された。同月、記者会見の席でジャーナリスト森野ほのほが委員長の山内俊雄に講演を依頼し、以降、医療従事者と当事者が研究の場をもちはじめる。1997年3月には、森野の呼びかけを受けて「TSとTGを支える人々の会Trans-Net-Japan(TNJ)」が発足、集会や勉強会を行い、各方面に影響を与えていった。そして1997年5月、ついに日本精神神経学会「性同一性障害に関する特別委員会」により、「性同一性障害に関する答申と提言」が発表され、診療と治療のガイドラインが作成されたのである。これを受け1998年10月に、原科の執刀で性別適合手術が実施されるにいたった。
 「ガイドライン」と後に法制化される「特例法」の流れには、当事者団体の動きが大きく関与し、あまた催された勉強会や研究会が、医療従事者の学習の場となった。森野によると、医療従事者の中には、生々しい当事者の痛みを聞き取ることで、ガイドライン作成の必要性を理解していく人が多かった(森野 1999)。原科も「性転換手術」の申請が承認されて施術をひかえた時期に、「その人は、自分の女の声が嫌で、金串を喉に突っ込んだというんです。喉を潰そうとしたんですね(中略)そこまでやるのかと思って、それで私、この道に引き込まれたという感じです」と述べている(原科 1998: 262)。またこの策定の中で、埼玉医大委と日本精神神経学会特別委員会の両方で委員長を務めた山内俊雄によると、議論に関わった医師たちに、「この問題を真正面から捉え、積極的に関わろうとする意識の変化が起こった理由の一つは、性転換を望む人たちの苦痛、悩みを知ったこと」であったという(*3)(山内 1999: 49)。
 当事者団体からの働きかけを受けて「性転換を望む人たちの苦痛、悩み」に動かされた医療従事者たちは、ガイドラインを整えていくためにクリアしなくてはならない条件を前にしていた。ひとつは、「ブルーボーイ事件」判決に示された優生保護法と傷害罪への抵触であり、もうひとつは、医療が身体に介入するときの根拠となる病因の特定である。以下に、埼玉医科大学と日本精神神経学会の両委員会が、性同一性障害医療を成立させるさいにもちいた手続き──違法性阻却事由、病因論──を検討したい。

(2)優生保護法と傷害罪に関する違法性阻却事由
 性同一性障害と診断された人の身体への介入を医療行為として正当化するさいに、ガイドライン策定過程の中で繰り返し言及されたのが、「ブルーボーイ事件」である。この事件は、3名の男性「性転向症者」である「男娼」に対して睾丸摘出、陰茎切除、造膣などの「性転換手術」を行った産婦人科医が1969年に告発されたものである。この手術は旧優生保護法28条「何人も、この法律の規定による場合の外、故なく、生殖を不能にすることを目的として手術又はレントゲン照射を行ってはならない」という規定に抵触し、医師は同年に有罪とされた。
 山内は、埼玉医大委の答申作成の時にはこの「ブルーボーイ事件」の存在を知らなかった。後にこの判決文をとりあげて山内は、違法という結果が下されたのは、単純に当時の「性転向症者」や「男娼」に対する偏見のせいではないと分析している。以下は、東京地方裁判所1969年2月15日判決の一部である。
 

 性転向症者に対する性転換手術は次第に医学的にも治療行為としての意義を認められつつあるが、性転換手術は異常な精神的欲求にあわせるために正常な肉体を外科的に変更しようとするものであり、生物学的には男女いずれでもない人間を現出させる不可逆的な手術であるというその性格上それはある一定の厳しい前提条件ないし適応基準が設定されていなければならないはずであって、こうした基準を逸脱している場合には現段階においてやはり治療行為としての正当性を持ち得ないと考える。(山内 1999: 87-88)
 
 その条件として挙げられたのは、精神・心理面の検査と観察、家族関係・生活環境の調査、複数の医師による手術の決定、診療記録の作成・保存、本人の同意である。この条件は、山内たちが旧優生保護法に照らして「故なく」と判断された状況を乗り越え、性別適合手術を正当化するために立てた基準とほとんど同じものだった。
 法学者たちによると違法性を回避するための事由とは、「性別適合手術について患者の同意・承認がある」、「性別適合手術は性同一性障害に対する治療を目的としている」、「性別適合手術は医学的に承認された方法に依拠して行われる」である(大島 2002; 石原 2004; 澤田 2000)。医療行為は、病気の原因があり、治療効果が見込め、医師に治療意思があり、治療内容に関する患者の同意が得られ、適切な方法で行われる場合に正当化される。医師が当人の同意をとらず患者の身体に介入することや、治療効果のない場合でもコストのかかる医療行為を行うこと等を規制して、患者の生命、身体、自由を保護するために、患者の自己決定権が形成されたのだという。したがって、原理的には、医学的理由がなかったり、社会的強制状況に左右されたりして、医療が選択されてはならないというのである。
 さて、性別適合手術は、「生殖を不能にする」、また、機能的には「正常な器官」に、不可逆で侵襲性(身体への介入の度合い)の高い外科的処置をもって介入する。医療行為として同定されなければ、それらは取り返しのつかない傷害行為になってしまう。医療従事者たちは、これらの行為を医療行為として正当化するために、旧優生保護法第28条と刑法上の傷害罪について、違法性阻却事由を提示しなければならない。そこで医療従事者たちは、前節でみた「性転換を望む人たちの苦痛、悩み」が性同一性障害を原因とするものか否かをチェックし、厳格なインフォームド・コンセントで患者の合意を真摯に取りつけ、一連の行為を医療として正当化しなくてはならない。
 ガイドラインによる治療の第一段階(精神療法)から、医師が患者に確認するのは、身体違和による深い悩みと、自らの望む性での生活に対するゆるぎない安定感である。国際診断基準として採用されている世界保健機構ICD-10とアメリカ精神医学会DSM-IV等を参照して、治療の適用範囲外となる除外診断が作られる。とくに注意すべきは、「精神分裂病、人格障害などの精神障害のために自己の性意識(gender)を否認するもの」、「文化的、社会的理由による性役割の忌避、商業的利得のため」である。診断と治療を組み立てる作業の中で、「中核的性同一性障害」からその「周辺群」が削り取られていったのである(日本精神神経学学会 1997; 山内 1997a, 1997b; 山内ほか 1999)。
 このように、性別適合手術を医療行為として正当化するには、患者の真の苦痛や悩みの存在が前提とされ、さらにそれが性同一性障害を原因にするものである、と証明されなければならなかった。しかし、次節で検討するように、医療側の語りは、性同一性障害に該当しない「文化的、社会的理由による性役割の忌避」を除外しようとしながら、性役割を配分する社会編成が当事者に与える苦痛を対象にし続けていくのである。

(3)病因論と性役割
 性同一性障害医療は、しばしば美容整形術と対比される(石原 2004)。美容整形術は、その緊急性の低さや、患者の主観的な状況改善が治療の主な判断基準であること等を理由に、医療行為の境界線上にあるとされてきた。医療行為には、病気の発生の原因そのものを治療する根治治療と、原因に技術的に介入できないが患者の苦痛を軽減する救済治療がある。さらに後者のなかでも正当な医療とは、病気といえる原因がないのに医療技術を用いるような便宜的利用(技術の濫用)であってはならない(山内 1999: 62)。性同一性障害医療における外科的措置の一切、咽頭切除、乳房切除、性器切除、性器形成等は、救済治療か技術の濫用なのか。それは治療行為なのか美容整形術なのか。この境界線が揺らいでいる。
 したがって、医療従事者たちは患者の苦痛について疾病の原因を特定して、それが便宜的利用ではないことを示さなくてはならない。前節でみたように日本精神神経学会特別委員会は、患者の真正な悩みを受取りながら、その悩みを疾病からくるものと特定しなければならない。疾病の名は「性同一性障害」である。さらに特別委員会は、この疾病の原因を特定しなくてはならない。日本精神神経学会から埼玉医科大委にさかのぼろう。埼玉医科大委のメンバーが、「きわものあつかい」されてきたこの問題に対して姿勢を変化させた理由を、山内は次のように言っている。第2節(1)で引用した「性転換を望む人たちの苦痛、悩み」にくわえて、もう一つの理由として挙げられたのが、病因の発見である。

 もう一つの理由は、生物学的性と性の自己意識の不一致の背景に生物学的な成因が考えられるという事実であった。(中略)性同一性障害を疾患と位置づけることは、医学的には、この疾患の原因を究明し、治療の方策を考え、苦痛を軽減する努力をすることができる医学的対象であると位置づけすることをも意味している。そのことによる“患者”への恩恵は限りないものである。(山内 1999: 71、尚、“ ”は原文のママ)

 疾病の原因がある限りで、医療は疾病がもたらす苦痛を医学的対象として取り扱うことができる。委員会は、「自分が男であるか女であるか」という「性自認」が、「胎生期からの生物学的機序」によって形成されると仮説を立てた。さらに「文化・風習・社会のあり方」により形成される「性役割」を切り離し、性同一性障害の原因を、性分化過程でのホルモン異常という「生物学的機序」に求めたのである。
 ところが、性同一性障害当事者の負担の原因は、「生物学的機序」ではない場所に移動していく。性別適合手術を正当化しようとする医師も法学者も、「性役割」を配分する社会編成からくる不利益をしっかりと見定めている。医療従事者が当事者から聞き取る典型的な苦悩として、たとえば原科による以下のようなものがある。

 女性から男性への転換症の場合には、皆さん女の声が嫌で、あまり喋らなくなる。男の格好をしているのに、声を出したとたん、パッと顔を見られてしまうわけですから。(中略)女子校に通っている場合は、スカートの制服が嫌さに不登校になって、退学してしまう。フリーターになったり肉体労働に従事するんですけど、夏に薄着になると胸の存在が気づかれてしまう。(中略)男性から女性への性転換症の人では、ペニスの存在が、とくに勃起が不愉快で、医療従事者ですがペニスを切ろうとして大出血した話もあります。あるいは、一流大学を出て一流企業に勤めたけれども、男でいるのに耐えられない。どうしても髪を長く伸ばしちゃうんですが、職場で「その髪を切れ」と年中言われてついに退職してしまう。(原科 1998: 267)

 性同一性障害当事者のライフヒストリーでは、「第二次性徴」での身体変化への違和感がしばしばクローズアップされる(針間・相馬 2004)。たしかに、声、胸、ペニス、体つき、これらの変化は身体違和を理解しやすい。しかしその負担を語るさいに、「パッと顔を見られてしまう」や「胸の存在が気づかれてしまう」という視線、性役割という規律を課される職場環境を実例として挙げていることからも、当事者の負担は社会的不利益であると明かされている(鶴田 2004; 竹村 2005)。それでも医療従事者たちは、あえて便宜的利用ではない性同一性障害医療の成立に賭けた。その理由は答申の中で、「性役割」の当面の改革は望めないので「性転換を望む人たちの苦痛、悩み」を鑑みて医学的処置を行う、と説明されているのである。

 以上、この節ではガイドライン策定のさいにメルクマールとなった違法性阻却事由と病因論をみてきた。そこで、医療側が「性役割の忌避」による苦悩を「中核的性同一性障害」の「周辺群」へと切り離していったことを確認した。だが、当事者の負担には、身体違和と社会的不利益が区別し難い仕方で存在したのだった。このため後に検討するように、性同一性障害医療の正当性は、原理的には不安定な状態にあるのである。

3 性同一性障害性別取扱特例法とトランスジェンダリズムによる批判
(1)ガイドラインと性同一性障害性別取扱特例法の連動
 この節では、性役割を割り振る社会編成に起因する当事者の強制状況に重点を置いて、トランスジェンダーの医療化を批判する、日本の「トランスジェンダリズム」を見ていきたい。以下、まずはガイドライン以降の動向を概観する。
 山内は、性同一性障害医療の延長として、法的条件に言及している。「性転換手術をするにあたって、法的整備が十分でなく戸籍の性別を変えることができないことが、最後まで残った問題であった。たとえ、性を転換したとしても、パスポートの性別が変わらず、保険証や履歴書の性別が元のままであれば、本人の社会生活に種々の問題が生じ、生活の質が損なわれることは明らかである」(山内 1999: 199)。性同一性障害医療が取り組もうとした「性転換を望む人たちの苦痛、悩み」は、必然的に法整備を要請していった。
 2000年8月、第6回アジア性科学学会のシンポジウム「性転換の法と医学」に、行政側のキーパーソンとなる南野知恵子参議院議員が出席した。南野は、この問題の重要さを認識し、同年10月、自民党内で「性同一性障害勉強会」を発足させる。2001年5月には、日本精神神経学会「性同一性障害に関する第二次特別委員会」が設置され、ガイドライン改訂作業が開始された。同学会は、「性同一性障害の法的性別に関する緊急要望書」を採択することになった。この間、前述の虎井を中心に、戸籍の性別変更に関する家庭裁判所への一斉申し立てが行われていた。さらに、2002年7月には改訂版ガイドラインが発表された。これは、FTMの乳房切除術をホルモン療法と同じ段階で実施可能にし、ガイドライン診療を受けてこなかった人たちへの対応等、指摘されてきた主要問題を調整するものとなった。この数年間で、当事者団体による厚生労働省での陳述、各政党の勉強会、ヒアリングへの対応、国会議員への陳情が行われることになる。2003年1月、「性同一性障害をかかえる人々が、普通に暮らせる社会をめざす会(gid.jp)」が国会や地方自治体への陳情を行い、地方自治体の公的文書から性別欄を削除させ、情勢に大きな影響を与えた。同年5月には、与党内にこの問題を扱うプロジェクトチームが発足、同年7月に「性同一性障害の性別の取り扱いの特例に関する法律(性同一性障害特例法)」を参議院法務委員会に提出した。この結果、与野党全会一致で同法案は可決されたのだった(野宮 2005; 南野2004)。
 法制化とガイドラインとの連動は、2006年に発表されたガイドライン第3版に明らかである。第3版では、性別変更の審判がなされるには、特例法第3条の「一、二〇歳以上であること。二、現に婚姻をしていないこと。三、現に子がいないこと。四、生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること。五、その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外見を備えていること」が満たされなければならず、とくに「四」と「五」の事項の充足が、ガイドラインに則した性別適合手術の正当化にとって重要である、と強調されている。
 しかし、このガイドラインから特例法にいたる流れを、懐疑的に論じる人々がいた。

(2)トランスジェンダリズム
 「特例法」推進派の当事者団体としては、「性同一性障害についての法的整備を求める当事者団体連絡協議会」があり、また「子なし要件」の削除を求めた当事者団体には、「性同一性障害をかかえる人々が、普通に暮せる社会をめざす会」「家族と共に生きるGIDの会」があったように、当事者の間にも法案成立をめぐって立場の対立がみられるようになった(『東京新聞』2003.7.17朝刊)。
 以下では、性別変更の厳しい要件やその背景を批判しているトランスジェンダリズムの語りを検討する。ここで日本のトランスジェンダリズムとして取り上げるのは、筒井真樹子のエッセイ及び『情況』に掲載されたリレー連載「逆風に立つ」(2003年10月号から2004年7月号まで、全8回)である。これは特例法成立の最中に田原牧、三橋順子、土肥いつき、田中玲らトランスジェンダー当事者が書いた連載エッセイである。
 まず、トランスジェンダリズムは、この法案に付された要件を批判した。「子なし要件」のせいで、子をもつ当事者の利益がこの法案では看過されている(筒井 2003; 田原 2003; 田中 2003)。審議の中で、「子の福祉」を理由にこの要件は加えられたが、親の性別移行が子どもに与える影響は説得的に示されなかった。子をもつ当事者は、現行制度に異議を申し立てるために、性別変更の申請を行いはじめている(『朝日新聞』2004.12.25朝刊)。また、この法案は、「生殖腺がないこと」という要件で、ガイドライン第三段階の治療(性器形成)を条件にしている。これによって、医療措置を望まない者の性別変更が除外され、性別記載を変更するために、望まないにも関わらず条件とされた医療措置を受けざるをえないケースが増えることが危惧される(筒井2003)。
 さらに、法案における条件の制約よりも根本的なところで、法律上の性別変更は、トランスジェンダーを性的マジョリティである典型的な男性や女性に同化させる方向に働きかねない、という批判がある(三橋 2003; 田原2003)。彼らは、医療と特例法の連動や要件の厳しさに反対するばかりか、医療と特例法の根幹にある発想が、トランスジェンダーのライフスタイルを否定すると考えたのである。
  ここで、性同一性障害とトランスジェンダーは、トランスジェンダー自身によって明確に区別されることになる。性同一性障害という疾病分類は、自らの身体を男か女かに振り分けて現在の社会編成に同化させていくが、トランスジェンダリズムは、性を越境している自らを肯定し、性役割を強制する社会を変化させようとする(三橋 2003; 田中2003; 田原2003)。
 当事者の「性転換を望む人たちの苦痛、悩み」を前に、医療従事者は、その負担の原因である性役割には「当面の変革が望めない」と立ち止まる。トランスジェンダーという生き方を肯定する運動であるトランスジェンダリズムは、同じものを前にして、「当面の変革が望めない」それに着手していこうとするのである。

(3)トランスジェンダリズムが消し去るもの

 しかしながら、本稿の視点からみれば、トランスジェンダリズムは、性同一性障害当事者の身体改変のニーズを社会的強制状況の下で把握しているため、結果としてそのニーズを否定してしまいかねない。
 以下には、トランスジェンダリズムの立場がよく現れている。

 当事者にとって、生まれ持っての生物学的な性はいかに外見をホルモン療法や性再指定手術など医療行為で変化させようとも変えることはできない。(中略)身体的違和の緩和(中略)に役立つ側面はあれ、性再指定手術も当事者にとっては美容整形と全くかけ離れたものではない。
 そうであればこそ、いかに希望する性で社会生活を営むか、というジェンダー(社会的性)への「トランス(越境)」こそが問われねばならない。(田原 2003: 198)

 自らを性同一性障害と規定する人たちは、[心の性と身体の性の不一致を病と考える]こうした偏った医学的認識をそのままアイデンティティにしました。言わば医学に囲い込まれた人たちです。(三橋 2003: 209)([ ]は原文のママ)

 このように、「身体違和の緩和」には役立つが「美容整形と全くかけ離れたものではない」と述べることで、田原が強調するのは、社会的不利益に立ち向かう性別越境(トランス)の経験である。トランスジェンダリズムは、生活上の不利益が、生物学的基盤という自己の内で完結する原因によるのではなく、性役割を割り振る社会編成が原因である、という認識の転換を行う。三橋は、性別越境の経験を肯定しないで、男女という二つの性別に自らを押し込もうとする人々は、「医学に囲い込まれた人たち」であると表現する。このようにトランスジェンダリズムは、医療に対して、当事者が性別適合手術を選択する自己決定の過程に、性役割を割り振る社会編成の強制状況を読み取る。
 性役割を割り振る社会編成に従って、「男になりたい女になりたい」という典型的なニーズ、「早く好きな女の子とセックスしたいです。『できるよ』って先生には言われましたけど、僕としてはちゃんと下半身の手術を済ませてから、やりたいですね」(針間・相馬 2004: 16-17)というニーズがある。これに対して、トランスジェンダリズムは、社会的強制状況を指摘することで、「それを強制する社会を変えよ」と、結果的には答えていることになる。

 この強制状況の存在と性同一性障害医療とは、単純に両立させることはできない。社会的強制状況の存在は、医療行為の正当性を揺るがすからである。トランスジェンダリズムは、生活上の不利益が当事者に手術による同化をせまっていると看破することで、第2節(3)で確認した医療の救済的利用(「性同一性障害」を理由とした身体への侵襲)と便宜的利用(「性役割の忌避」を理由とした身体への侵襲)との区別を不安定にする。このため、原理的には、身体に不可逆な仕方で深く介入する範囲での性同一性障害医療、外科的治療が否定される可能性がある。咽頭切除や乳房切除等は比較的可逆性が見込まれるので、治療から除外されても美容整形術の枠で施術ができるが、不可逆な侵襲である子宮摘出や性器切除等は傷害行為と同定され、医療から除外されて施術ができなくなってしまう可能性が出てくる。
 トランスジェンダリズムは、社会的不利益をすぐに全面的に解除することはできないので、当事者は代わりに身体改変をしている側面がある、というハードな状況認識をもつ。確かに、社会的利益を得るために、ホルモン投与後に一生続く身体のメンテナンス、膨大な金銭的負担、手術による身体の負担等を選択するという光景は、強制状況に見える。また、かりに美容整形術の枠内で一部の施術が行われるにしても、その選択に強制状況が作用しているとしたら、それは問題である。トランスジェンダリズムからすれば、医療は社会的不利益への取り組みを先延ばしにさせるのである。
 このようにトランスジェンダリズムの主張は、当事者の性別適合手術へのニーズに社会的強制状況を見て取ることで、自由な手術の選択を不安定にしてしまい、その結果、治療行為としての正当性を困難にしてしまう。強制状況の存在と医療とは両立不可能である。

4 性同一性障害医療とトランスジェンダリズムのあいだで希望されるもの
(1)トランスジェンダリズムの揺らぎ
 トランスジェンダリズムは、2節で検討した性同一性障害医療を擁護する側が、当事者の身体に性別適合手術をもって応じることで、社会的強制状況への取り組みを先延ばしにしていると考えていた。他方で、3節で見たように本稿は、トランスジェンダリズムが、性別適合手術の自由な選択には強制状況が含まれていると認識することで、当事者の身体改変のニーズを不安定にしてしまうのだと考える。
 ところが、トランスジェンダリズムは、一見すると矛盾とも思える形で医療を選択している。もう一度、先ほどの田原と三橋の引用を見てみよう。田原の引用は、性別適合手術の治療効果の限界について語っている。だが、「美容整形と全くかけはなれたものではない」という表現は、「美容整形と同じである」という表現とは異なる。この言い方は、医療行為としての可能性や、「身体的違和」という生物学的基盤を否定し切らない形をとっている。また、三橋の引用は、「医学に囲い込まれ」るトランスジェンダーの医療化に対しては批判的である。しかし、この引用もまた、医療行為そのものは否定していない。トランスジェンダーの語りの中でもやはり、身体改変のニーズの原因については、社会的不利益からくる負担を強調しようとしながらも、生物学的基盤からくる身体違和を切り離すことができない。

 たとえば、私は性別越境をしているトランスジェンダーだが、性別違和を「障害」とは思っていない。現在、男性ホルモンを定期的に投与し、「男性」と社会的には見られるファッションを楽しんでいる。(田中 2003: 173)

 田中は、「性別違和を『障害』とは思っていない」のであるが、身体違和(「性別違和」)は現にあり、「性別越境」(乳房切除手術とホルモン療法)を選択する。
 このように、トランスジェンダリズムは、選択に働く強制力を示唆すると同時に、なぜか、身体への医学的介入を自己決定できるものとして挙げて、当事者が自由に医療を選択する可能性を示すにいたる。

(2)トランスジェンダリズムが消し去らないもの
 ここでは、医療従事者とトランスジェンダリズムの両方が不明瞭にしか位置付けてこなかった、当事者の身体改変のニーズに、明確な位置付けを与える。それによって、トランスジェンダリズムにおいては両立不可能に見えた、社会的強制状況の批判と医療の選択とを、両立可能なものとして読み解いていきたい。
 本稿の視点では、当事者の身体改変のニーズは、現状では、生物学的基盤による身体違和と、望む性役割を演じきれないことで受ける社会的不利益の両方である、と言わなければならない。「自分自身のジェンダーに感じる苦痛とセックス・ジェンダー社会編成に感じる苦痛とを(中略)区別することは不可能」である(Dean 2000: 64)。論理的に考えるならば、その人の身体改変のニーズが、生物学的基盤をもつ身体違和を原因として自由な選択の下に現れるのは、社会的不利益が解除された後に他ならない。
 このことは、現在、生物学的基盤をもつ身体違和を原因にするニーズが存在しない、ということを意味するのではない。社会的不利益の解除の後まで、このニーズの存在は確証できないのである。この解除の後に明らかになるニーズは、確証もできないが否定もできないという形で、現に存在している。「男になりたい女になりたい」という典型的なニーズの存在もまた、否定できない形で存在している。このようなニーズの地位を前提にした上で、当事者の社会的強制状況が問題であるとしたら、論理的帰結として、自由な身体改変の選択を可能にする条件である、社会的不利益の解除が導かれることになる。
 トランスジェンダリズムが不安定に捉えていた、性同一性障害当事者の医療へのニーズは、このような形で表現することができる。この表現は、当事者のニーズを否定も肯定もしないで存在するものとして取り扱い、社会的強制状況の解除を実現するようにと要請するのである。

(3)社会的強制状況の解除と医療の選択
 身体改変のニーズに強制状況を看破するトランスジェンダリズムの論理と、身体改変を選択するという行為が、両立不可能にみえる一方で、トランスジェンダリズムの議論の中に、実際には身体改変の選択を肯定するものがある。だが、これは前項で位置付け直したニーズを通して見ると、両立可能なものとして読み解くことができる。
 すでに見たように、性同一障害当事者の身体改変へのニーズの原因については、生物学的基盤と社会的不利益とが分けがたい。したがって、論理的に、生物学的基盤をもつニーズの存在と自由な選択は、社会的不利益が除去される後までは、確証できず否定できない。この社会的強制状況の存在と医療の選択を、現に両立させるとしたら、医療の選択の際に、自らの周囲にある社会的強制状況を部分的にではあるにせよ解除する他ない。
 中村(2005)は、社会的強制状況の解除と医療選択を両立させる人たちのライフヒストリーを、聞き取っている。L(30台半ばMTF)は、ホルモンを摂取している。他人から女性と思われることに力を注いでいた頃には、性別適合手術も受けようとしていた。しかし、パートナー、仕事先でのカミングアウトを重ねることで、「そうは思わなくな」っていったと言う。

 Lは郵便局で新しい仕事を見つけた。Lの上司は、履歴書の性別に従い、Lに男性用ロッカーを割り当てた。ところが数日後、Lは仕事仲間から、「あんたは男なんか、女なんか」とたずねられた。Lが素直に説明すると、「書類上は何でもいいから、女のロッカーを使いなさい」と言って、女性用のロッカーを与えてくれた。(中略)Lはただ自分らしく振舞っていただけである。しかし、まわりの人たちはLに理解を示し、Lが快適に働ける環境を用意した。このことも、Lに自分らしくしていればいいという、大きな自信を与えてくれた。(中村 2005: 66)

 中村が聞き取る当事者のライフヒストリーからは、社会的強制状況の解除は、条件の改善(「女性用のロッカー」「快適に働ける環境」)という客観的な形と同時に、自己受容の感覚(「大きな自信」)として、きわめて主観的な形でも現れる。その上で、Lのように医療(ホルモン摂取)を選択する人がいる。
 田中もまた、そのようなトランスジェンダーの一人である。

 私は大雑把にいうとFTMだが、「本物の男」になろうとは思っていない。乳房は手術して取る予定だが、女性器を解体して子宮と卵巣を取り除き、人造男性器を付けるために性器の手術を受ける予定も今のところない。(中略)自分が「女」から「女ではないもの」になるには、別に「男」である必要は全くない。男性ホルモンを定期的に投与し、一見「男」に見える外見にはなったが、女性器はついたまま。乳房は取るので乳なし、女性器あり、の一般常識からすると不思議な身体だ。しかし、私はこの身体となら仲良くしていけるだろうと思う。(田中 2006: 91)

 このように、きわめて即物的な身体部位の描写を積み重ねることで(「男性ホルモンを定期的に投与」「乳房は取るので乳なし、女性器あり」)、田中は、身体の性別移行には多様なグラデーションがあると述べる。このグラデーションの間に置かれた身体は、社会編成が強制する外見・性ではない(「一般常識からすると不思議な身体だ」)。だが、これに続けて、「私はこの身体となら仲良くしていけるだろうと思う」という表現には、自らが自己の身体に向ける選択の自由さがあらわれている。
 むろん社会的強制状況から完全に自由な選択などありえないだろう。だが、トランスジェンダーたちは、社会的条件を整備し、自らの身体を自由に扱えるスペースを部分的にせよ作り出し、性を割り振る社会編成を揺るがしている。トランスジェンダーの選択は、現在、社会的強制状況が作用していることを前提とした上で、完全ではないにしても、強制状況が解除された後の身体の状態やニーズを、現在に引き寄せる試みなのである。
 強制状況を示唆すると同時に、医療において自由な選択を行うことは、この場合は両立する可能性がある。なぜならば、強制状況の下でなされる場合は自由な選択と両立できないが、強制状況の下にあるとしても、部分的にせよ自由な選択の先取りという形でなされる場合は、論理的には整合する。ただし、ここで両立しているのは、強制状況と自由な医療の選択ではない。強制状況にあるのか強制状況が解除されているのかが未確定な状態と、自由な医療の選択が両立しているのである。これはトランスジェンダーの試みによって示唆された論理ではあるが、男女の区分に収まる形での性別移行を希望する当事者にも妥当するだろう(*4)。

(4)結論
 性同一性障害当事者のニーズの原因が、生物学的基盤による身体違和とも決められず、社会的不利益とも決められないということをはっきり肯定するならば、未来にありうる当事者の自由な選択を可能にするために、社会的強制の解除に取り組むほかない。
 医療従事者は、性同一性障害の身体改変のニーズの原因を、生物学的基盤に見出そうとした。だが、その語りから見たように、現状では生物学的基盤からくる身体違和と社会的不利益からくる苦痛を切り離すことができない。また、これは外科的措置等の治療を選ぶことで、社会的強制への取り組みを先延ばしにさせる点に危うさがある。
 他方で、トランスジェンダリズムは、原因を社会的不利益に特定し、身体改変のニーズを不安定にしてしまう。しかし、本稿の視点では、この身体改変のニーズが、身体違和と社会的不利益からくる苦痛とを切り離せない限り、つまり社会的強制状況を解除しない限り、存在を否定することはできない。その上でなお、当事者の自発的な選択による身体改変が可能になるには、社会的強制状況が取り除かれるほかない。その一つの形として、本稿が最後にみたように、トランスジェンダーの未来の身体を先取りした自由な選択、強制状況の解除を深く問う試みがある。トランスジェンダリズムは医療を否定する可能性をもちながらも、医療との両立を探っている。この論理は、トランスジェンダリズムの立場をとらない当事者にも妥当するものである。

 トランスジェンダリズムは問うていた。私たちは何度でも、性同一性障害が医療の対象とされる疾病であるか、あるいは社会的な問題であるかという境界線に立ち戻るべきなのではないかと。医療とトランスジェンダリズムの間を考察することで、医療の自由な選択と社会的強制状況の批判を両立させようとした本稿は、トランスジェンダリズムから引き出したこの問いを結論に置くものである。
 (初出:『現代社会学理論研究』(2)、113-127、2008)

■註
*1 Sex Reassignment Surgery(SRS)は、「性転換手術」「性別適合手術」「性再指定手術」等様々に訳出されてきたが、本稿では引用を除き同ガイドラインで使用されている「性別適合手術」を用いる。
*2 また米沢(2003)も同じ系列の議論を紹介している。なお、本稿は、政治的な配慮を繊細に行う、トランスジェンダーたちの文章を扱っている。そのような状況即応的な文章が、揺らぎをもつことは自明であり、この揺らぎは批判の対象ではない。本稿にとっては、トランスジェンダリズムにおける揺らぎ──両立不可能なものを両立させる──を明確に把握し積極的に読解することが、重要な課題なのである。
*3 引用部分への傍点は引用者によるものである。以下同様。
*4 この選択が自由な選択であるか否かは、きわめて不安定な状態にある。自由な選択が可能になるには、どのような形でどの程度、社会的強制状況が解除されればよいのか。この度合いを測る実践的な尺度については、次の課題として残したい。

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