*再録にあたって

北村健太郎(立命館大学衣笠総合研究機構ポストドクトラルフェロー)

 第1章、第2章には、西田恭治・福武勝幸「輸入血液製剤によるHIV感染に関する一考察」『日本医事新報』1996年8月31日No.3775(pp.53-55)、西田恭治「輸入血液製剤によるHIV感染に関する一考察(承前)——ジャーナリズムおよび和解所見の功罪」『日本医事新報』1997年3月8日No.3802(pp.57-60)を再録した。1996年3月29日に「薬害HIV訴訟」が和解した直後に、医療者の立場から非加熱輸入血液製剤を媒介としたHIV感染について論じている。
 これらの論文を再録する理由は、本報告書の母体となったシンポジウム「性同一性障害×患者の権利——現代医療の責任の範域」では、医療事故等に遭った本人や家族の発言が主であり、医療者の意見が少なかった。そこで、一概に比較はできないが、医療事故等における医療者の意見の一例として掲載することにした。
 西田・福武論文は、医療行為を論じる際に考慮すべき二つの要点を提起する。第一に、医療行為を考えるときに「医療行為の比較衡量」を用いることであり、第二に、医療行為の適否を判断するときは「現在(後年)の知識による過去の現象の判断」を避けることである。これらは、「薬害HIV訴訟」の訴訟戦略において「封印」された視座であった。なぜ医療者はこれらの視座から医療行為を決定するのか、なぜ訴訟戦略においてこれらの視座が「封印」されたのかは、ぜひ論文を直接読んでいただきたい。

 医療事故等が明らかになるとき、その被害に遭った本人や家族に注目が集まる。その一方で、加害者とされる医療者の意見が顧みられることは少ない。医療者が意図的に医療事故を起こすことはまずあり得ない。医療者には医療者としての考えがあって、医療行為を行なっている。何も問題が起こらないときは、医療者の判断を吟味することなく「お任せ」にする場合も多々あるが、ひとたび問題が起これば医療者の決定を問い直すことになる。そのとき、あまりの身体的/精神的苦痛のために医療者の決定を全面的に否定することも少なくない。
 しかし、医療とは不確実な営みである。「100%安全な医療」は存在し得ない。私たちは、意識のどこかで「医療を受ければ問題が必ず解決する」「医療者が何とかしてくれる」と必要以上に思っていないだろうか。作家の大西赤人は、ウェブサイトのコラムで以下のようなたとえ話を紹介している。

 知人の医師と『医療崩壊』〔——小松秀樹の著書・引用者注〕について話していて、こんなふうなたとえ話になった。患者は、野球で言えば必ず”生存・健康”という勝ちゲームを確信し、味方プレーヤー(医療者)にその実現を期待している。しかも、その勝ちゲームは、限りなく完勝に近い形であるべきと信じている。即ち、完封どころか完全試合が当たり前、従って、たとえ1点でも取られたらプレーヤーに何かしらミスがあったからだと受け止め、その責任を追及すべきと考える。しかし、そもそも人間には寿命が備わっているのだから、究極的な意味での”勝利=永続的な生存と健康の維持”はあり得ない。つまり、生きている以上は、言わば最低でも毎イニング1点ずつを失なっているようなもので、放っておけば自然に九回を終えて敗戦=死亡を迎える。しかも、時には一回表から3点取られたり、七回表に一挙6点取られたりすることもある。医療とは、その必然的な負けゲームを闘いながら、懸命に同点にする、点差をつけられても何とか七回コールド・ゲームにはならないようにする、あわよくば同じ負けるにしても延長戦まで持ち込もうとするというようなものなのではないか……。

 「医療は必然的な負けゲームである」という命題は、ある種の核心を突いている。この命題と、シンポジウムのテーマ「性同一性障害×患者の権利」との間に齟齬があるとすれば、それは私たちが考えるべき問題の在り処を示している。

■参考ウェブサイト
大西赤人 2006「医療崩壊」(2006年9月1日)
http://www.asahi-net.or.jp/~hh5y-szk/onishi/colum324.htm 2008-04-30

cf.『日本医事新報』日本医事新報社
http://www.jmedj.co.jp/index.jsp