第2章 輸入血液製剤によるHIV感染に関する一考察(承前)——ジャーナリズムおよび和解所見の功罪

初出:『日本医事新報』平成9年3月8日 No,3802、pp.57-60

西田恭治
(東京医大臨床病理学教室)

はじめに
 前稿「輸入血液製剤によるHIV感染に関する一考察」は、主として、1983年時の状況に基づく医療上の判断を検証したものであったが、当時血友病治療に携わっていた医師は、私を含めて大半が、自らとった行動に関して、これまで多くを語ってこなかったように思われる。他の医師の真意はさておき、自身を振り返ると、私が発言を避けてきた最大の理由は、血友病患者のHIV感染の検証が、この間に係争中だった民事(損害賠償請求)裁判において、原告(患者)側に不利益をもたらすのではないかと考えた点にあった。
 1980年代後半においては、HIV感染者は、エイズ・パニック報道による大きな社会的圧迫をも被っていた。彼らの就業が忌避されたり、過剰な報道に動揺した無理解な病院経営者により、不必要な個室入院──高額な差額ベッド代の負担──が強要されたりした。経済的支援なくしては、彼らが治療を受けつづけることは非常に困難であると考えられた。
 大阪HIV訴訟の中心的存在であった故・石田吉明氏が提訴を検討されていた時期、そのための相談を私も受けたが、当初より、以下の二点について、共通の認識を持っていたものと思う。第一は、血友病患者のHIV感染は、そのほとんどが1984年までに成立したと推測されるが、これに先立つ感染の責任を追及するには、かなりの困難が予想されるということ。第二は、1985年以降の感染が立証されるようなごく一部の事例に限れば、損害賠償が実現するとしても、それだけでは被害者全体にとって十分な成果とはならないこと。
 すなわち、この提訴は、感染時期に関わらない全員救済が最大の目標だった。ところが、私の中には、厳密な検証を実行することは、むしろ現象的には被害者を感染時期によって分断し、全員救済への流れを疎外する結果となるのではないか、との懸念が生まれ、発言を控えるに至ったのである。しかし、全員救済を前提とした和解が成立した現在、当時の医療現場を経てきた医師の一人として、今からでも当時の状況を説明し、また、客観的な検証を行なうことにより、今後も起こり得る同様の事態に対処するための材料としておかねばならないと考える。
 前稿でも述べたように、検証すべき事項は多い。しかし、検証作業の一翼を担っているメディアの捉えかたには、今までのみならず現在も多くの課題があり、検証作業の障害になっている側面さえある。そこで、本稿ではメディアの姿勢に検証の重点をおいて述べたい。

1 「血友病患者は薬価差益の犠牲者」という図式
 1985年以降に血友病治療に従事するようになった医師から、「『医者の金儲けのために感染させられた』と恨みを抱いたまま亡くなっていく患者がいる。当時の治療医は、少なくとも患者の生前に、以前の状況を説明する義務がある」と意見されたことがある。正しい指摘であり、私自身、今年までは、前述のごとく訴訟への配慮があったとはいえ、事実、患者さんへの説明を避けてきた。
 『医者の金儲けのために非加熱製剤が処方された・多用された』という因果関係は、医師の診療行為に個人的な利害関係を仮構し、ことさらな動機を付与する誤ったシナリオである。たしかに、薬価差益が医療機関本体に利益をもたらすことは考えられても、大半の血友病専門医は大学病院など比較的大規模な総合病院の「勤務医」──給与生活者である。したがって、診療報酬の多寡は、医師個々人の財布の中身に反映しはしない。つまり、彼らが処方箋を書く時、薬価差益の多寡は、薬剤選択の要因とはならないのである。
 また、医療機関にとっても、利益に比して多額な薬剤購入費を必要とし、また、多量に使うと保険審査機関の査定により減額されるおそれ──大きな赤字を産むおそれ──のある凝固因子製剤は、必ずしも歓迎すべき薬剤ではなかった(ただし、加熱製剤販売が迫った一時期に、低価格で納入を受けていた小規模な病院はあったかもしれない)。
 しかし、たとえば、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した櫻井よしこ氏の『エイズ犯罪 血友病患者の悲劇』の中には、「大学病院の医師たちの多くが血液製剤の危険が海外で指摘され始めた後も自分の患者に、その大量投与を続けていたのはなぜか。その背景には、薬価基準のからくりから生じる利益が大きな要因としてあったと推測される。(中略)5000人の患者の治療をめぐって病院や医師の側に、この差益のうまみを求める心理が働いていたと推測することは十分に可能である」との記述がある。
 そういう例が日本中に皆無だったとまでは言い切れないかもしれない。しかし、当時の治療医を粗雑に断罪しようとするこのような推測は、当時の治療医が読むと全く見当はずれである。けれども、この種の「からくり」の推測は、櫻井氏の報道番組の中でも、“患者に死をもたらすことが明らかな危険な薬剤を処方しつづけた医師の動機”として繰り返し強調された。
 また、広河隆一氏の『薬害エイズの真相』の中にも、「大量に血友病患者を抱えた病院ほど、多量の製剤を患者に使わせる治療法によって、利益をあげようとしていた」「血友病患者たちは、薬価差益の犠牲者でもあったのである」など、同様の誤解に基づく指摘が再三登場する。
 広河氏は、家庭治療(自己注射)による出血早期の──時に予防的な──輸注、あるいは、関節内出血の頻繁な反復期に行う定期輸注をとらえ、「多量の製剤を患者に使わせる治療法」と見做しているのであろう。しかし、このような治療法は、早期であれば1回だけの輸注で止血を完結させたり、関節内出血の悪循環を断ち切ることで出血頻度を減らすなど、結果的に製剤輸注の総量を抑制すると考えられていたのである。
 金が絡むシナリオは分かりやすいが、それを医師全般に共通の動機とするのは理不尽かつ無理な話だ。ところが、一部のメディアは、「『金のなる木』非加熱製剤」(1986年8月23日付『毎日新聞』)という具合に、未だにこの種のシナリオに則った報道を続けている。
 いやしくも報道の立場から“ノンフィクション”“真相”などと称して事実を伝えようとするのならば、緻密な裏付けの必要は当然のはずだが、これらの報道については、単純明快な図式化と、それに沿った形での関係者の「証言」によって作り上げられている感は否めない。患者の誤解にもつながるそのような図式化を招くに至った経緯については、内外への十分な説明を行ってこなかった医師の側にも責任がある。

2 当時の視点に基づく医療行為の比較衡量
 前稿で私は、事実分析のために二つの手法、すなわち「医療行為の比較衡量」と「当時の視点での検証」の必要性を訴えたが、ここで、クリオ製剤と濃縮(非加熱)製剤との当時の視点における比較衡量を再現してみたい。
 血友病A患者の血液中には、凝固第Ⅷ因子が欠乏している。健常者のEQ 血漿(けっしょう)成分から取り出したクリオに第Ⅷ因子が豊富に含まれており、この輸注が一般的になった時点(米国では1968年頃、日本では1972年頃)から、ようやく血友病の治療らしい治療が始まった。濃縮製剤は、このクリオを高純度に精製したものであり、米国では1970年代初期、日本では1979年から普及しはじめた。クリオは精製度が低いため夾雑タンパクを有し、第Ⅷ因子レベルを十分に上げることは難しかったが、濃縮製剤は少量の輸注により、必要な第Ⅷ因子レベルまで容易に到達させることができた。
 本邦の訴訟では、血友病患者の日常の止血管理や手術がクリオによって可能であったか否かが争点の一つとなった。当然、一般的な関節内出血の止血──疼痛の緩和には有効だったし、大きな手術の成功例もあったであろう。しかしながら、後遺症を残さない程度に完全な関節内出血の止血や、手術時のより安全な止血管理を目指すとすれば、クリオと濃縮製剤との効力の差異は明らかだった。言うまでもなく、後の視点から見れば、ウイルス対策が不十分だった濃縮製剤は、感染症の危険性という大きな短所をはらんでいた。けれども、HIVの発見に先立つ当時は、(これも後の視点からみれば異論もあろうが)血友病患者にとって、ウイルス肝炎への感染に代表される感染症は、濃縮製剤の効果を第一義とする限り、受け入れざるを得ないリスクとも考えられていた(*1)。
 よって、濃縮製剤は普及していった。米国における血友病A患者死亡例949例の分析では、死亡年齢の「中央値」は、クリオ製剤が主流の1968年には33歳であったが、濃縮製剤が主流となった1979年には55歳へと著しく変化した(*2)。英国でも、同様の現象が認められていた(*3)。こうして、1980年代初期には、出血は血友病患者の主要な死亡原因ではなくなった。また、平均余命の延長だけではなく、関節障害などの後遺症も少なくなり、外見的には健常人と変わらないほどの患者が増えた(*1)。日本においても、濃縮製剤による家庭治療が普及し、多くの患者の社会進出が促進された。濃縮製剤には、これらの実績が確実に存在したのである。
 再び櫻井氏の著書に戻ると、そこでは、濃縮製剤が血友病患者に与えた恩恵は、全くといっていいほど無視されている。濃縮製剤とは、患者にはHIVを、そして医者・病院には経済的利益をもたらす代物に過ぎなかったかのようである。
 また、広河氏の著書には、元血液製剤小委員会委員長・風間睦美氏の法廷での発言が収められている。「血友病治療をクリオ主体のものにすることはできない」という委員会の一致した結論の理由を尋ねられた風間氏は、「クリオと濃縮製剤を比べた場合の治療効果、安全性、そういうものを総合した最終的な製剤の有用性は、濃縮因子製剤が絶対優位である、そういう結論でございます」と答えている。
 この「医療行為の比較衡量」を踏まえた見解に対して、広河氏は、「『国産製剤』と『輸入製剤』の『安全性』を比較検討すべきだったのに、『クリオ』と『濃縮製剤』の『有用性』を比較するという、問題のすりかえが行われたのである」と切って捨てている。「問題のすりかえ」は、いずれにありや。

3 和解所見への疑問
 ジャーナリズムのみならず、本年3月に東京地裁が出した「和解勧告にあたっての所見」においても、「医療行為の比較衡量」の観点は全く見当たらない。「医師の勧めに従い、ひたすら有効な薬剤であると信じて投与を受けた非加熱濃縮製剤」とするだけで、治療方法の効果には触れず、「代替血液製剤(クリオ製剤や輸入加熱製剤など)確保のための緊急措置」「米国由来の原料血漿による非加熱製剤の販売の一時停止」等の措置が期待されたとしている。
 この文脈には、濃縮製剤の出現が血友病患者の平均余命を延長させ、QOLを著明に向上させたという比較衡量のための分銅はカケラもない(なお、大阪地裁の和解所見では、そのような各論を裁断することは避けられており、「英知を集め救済の手を差し伸べなければならない。そしてその時は、今をおいて外にはない」と救済の緊急性・必要性が的確に強調されている)。
 米国では、1984年に次のような事例があった。ある血友病専門医は、患者に対して、可能な限り濃縮製剤の使用を控えるように指示していた。そして、一人の10代の血友病患者が、自宅で偶然頭部を打撲したが、濃縮製剤の投与を控えたために頭蓋内出血で死亡した。結果、主治医は「濃縮製剤の使用を控えるように告げることは、総ての血友病患者にとって壊滅的なことだ」と考えを変えるに至る(*1)。
 また、東京地裁の和解所見では、クリオ製剤や輸入加熱製剤の供給に限界があった1983年当時について、非加熱製剤販売停止によるリスクの分銅は全く考慮されず、後年の知見によって示されたHIV感染のリスクの分銅のみが用意されていることにも同意しがたい(当時のクリオ製剤への転換について、「いかようにもいたしました」との日赤関係者の一言をもって“実現可能”だったと定義するのは、あまりにも乱暴かつ非現実的である)。
 なお、本論からは外れるが、血友病患者は「何らの落ち度もないのに」HIVに感染してしまったという和解所見の表現は、まさに同所見自身の「社会一般にエイズについての無理解と強い偏見が根強く存在する」との危惧を助長する。「何らの落ち度もないのに」という言葉は、血友病被害者については事実としても、一方、性交渉等を原因とする他のHIV感染者には「落ち度」があるかのような物言いとなり、彼らに対する偏見をまさに拡大しかねない。このような偏見こそ、引いては、「血友病HIV感染者は診察するが、それ以外の感染者は“自業自得”なのだから診ない」というような一部医療機関による部分的医療拒否の原因となっているのである。

4 メディアとジャーナリストの功罪
 メディアとジャーナリストが和解成立のための世論形成に果たした「功」の部分は、たしかに大きい。従来の厚生行政に疑問を投げかけ、血友病HIV感染者に対する経済的支援の実現に力を貸した。しかしながら、同時に多くの不手際による「罪」の部分もあり、その自己検証はほとんどなされていない。
 1982年7月20日付毎日新聞の「『免疫性』壊す奇病、米で広がる」との最初の新聞報道以来、各紙は、「AIDS国内上陸の疑い」(1983年7月12日付朝日新聞)、「真正エイズと認定せず、日本は患者ゼロ」(同年7月19日付毎日新聞)、「類似二例は“シロ”」(同日付読売新聞)などと、後のエイズ・パニック報道の布石とも考えられるような社会防衛的な報道に終始した。その一方、「国内献血による濃縮製剤生産のための国内企業への委託、加熱製剤承認の簡略化」など、血友病患者にとって本当に重要だったはずの治療の選択肢に関する議論を展開することはなかった。
 1987年には、前年の「松本事件」を踏まえて、エイズ・パニック報道が沸騰する。当時、厚生省は、エイズに対して無為無策ではないことの「アリバイ作り」のごときエイズ予防法制定を目指しており、マスコミ対策を中心に周到な準備をしていた。
 1月17日の厚生省エイズサーベランス委員会は、エイズに罹患した女性が神戸市内の病院に入院中と発表。各紙は、このニュースを極めてセンセーショナルにこぞって報道した。「エイズ、初の女性患者──神戸で売春の独身29歳」(1月18日付毎日新聞)、「初の日本女性エイズ患者──100人以上と交渉」(同日付読売新聞)、いわゆる「神戸事件」の始まりである。3日後に女性は死亡、「エイズの女性死ぬ──感染経路は不明に」(1月21日付朝日新聞)と報じられる。その2日後、兵庫県知事は、現在のエイズ予防法の骨格を含む「後天性免疫不全症候群(エイズ)対策に関する緊急要望」を厚生大臣に提出した。
 この時期、女性セブン(小学館)は女性の実名、顔写真、中学時代の写真、家庭の様子などを掲載(後に遺族が起こした人権侵害を訴える裁判において、同誌側は、「エイズ患者が誰かという公共の利害に関わる事実を報道した」と反論する)。フォーカス(新潮社)やフラッシュ(光文社)は、通夜の席に紛れ、遺影を盗み撮りして公表した。
 2月3日には、法務大臣がエイズを法定伝染病とするよう厚生大臣に要請。2月17日には、「エイズ感染主婦、来月出産(高知)──拡大、エイズ禍」(毎日新聞)、「四国の主婦、中絶ならず」(朝日新聞)として、「高知事件」がメディアを賑わせる。また、「エイズ、看護婦も感染(高知)──男性と交際、今も勤務」(2月19日付読売新聞)と感染者のプライバシーが第一面で暴かれた。こうして、厚生省とメディアとの連携に基づき、病者のプライバシーが次々と切り売り、暴露されることによって、エイズ予防法制定へと世論は誘導された。
 一方、この百害あって一利ないザル法に対して、反対の声を上げた人々も少なくない。日本輸血学会、小児科学会、衛生学会などは、学術的見地に立っての反対声明を出した。また、朝日新聞の『論壇』では、故・石田氏が感染者の立場から危機感を表明。都立駒込病院の根岸昌功医師も、「感染者を規制、排除するような法律で、この疾患の拡大は防止できないことを認識すべきである」との警告を発した(実際、予防法の法案が報道されはじめた時点で、既に受診者は著明に減少し、患者は潜在化する傾向となった)。
 けれども、マス・メディアは、これらの警告を広め、予防法の問題点を追及する努力を怠り、結果、エイズ予防法は反対を押し切って成立。臨床現場は、魔女狩りのようなマスコミの論調にさらされ、周囲の医療従事者の理解さえ得られない状況の下でのHIV診療を余儀なくされた。
 1989年5月、大阪HIV薬害訴訟が提起。故・石田氏にとっては、「血友病=エイズという図式が報道されることにより、血友病患者への偏見・差別が助長されるのではないか」と悩んだ末の結論であった。同年10月には、東京HIV薬害訴訟も提起。その後、原告を支援すべく、熱心なジャーナリストたちが事態の分析、責任の追及に携わってきたが、世論の喚起を第一義的とするあまり、惜しむらくは、その大半に前述の通り「医療行為の比較衡量」と「当時の視点での検証」が欠けていた。このため、せっかくの作業が、本来あるべき「真相究明」に達せず、また、事実関係の誤り──時に恣意的とも思われる誤り──も多い。

おわりに
 目下、日本では、いわゆる「薬害エイズ」の主要原因を『医』・『官』・『産』三者の癒着構造に帰する報道がほぼ定着している。しかし、このような単純化・図式化された「真相」によってHIV被害の全体像の解明とするのは、そもそも被害者となった血友病患者にとっても、真に有益な結果ではありえない。
 米国では、14人の委員による「輸血及び血液製剤によるHIV感染研究委員会」が組織され、約2年の歳月をかけ、1995年に「HIVと血液供給──危機時の意思決定の分析」と題する報告書を発刊した。同書は、当時の論文や700件以上の資料および76人の専門家への取材などにより、政府機関、民間機関、製薬会社、医師、患者会などの情報、行動、責任、それらの背景などを細密に検証している。これにより、今後血液供給が直面する問題に対して、より良い公衆衛生対策がとられるものと期待されている。
 日本においても、このような検証作業を実現し、被害者はもちろん、将来の医療全般にも少しでも益する結果を導き出すべく議論を続けていかねばならないと考える。

■参考文献
*1 National Academy of Science :HIV and the blood supply. National Academy Press, 1995
*2 Aronson DL :Am J Hematol 27 :7,1988
*3 Rizza CR Sponcer RJD :Br Med J 280; 929, 1983