パネルディスカッション「性同一性障害×患者の権利——現代医療の責任の範域」

高橋慎一(コーディネーター)
勝村久司
田中 玲
ヨシノユギ
上瀧浩子

高橋(コーディネーター)
 それでは、パネルディスカッションのほうに入ろうと思います。進行役を務める立命館大学の高橋です。よろしくお願いします。
 冒頭にも司会から話がありましたように、現在、性同一性障害医療とそこにアクセスしようとする当事者の状況が変わろうとしています。この変化の要因として、一つには、「性同一障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」(通称、特例法)の改正があり、もう一つは国内各医科大学で行われていた医療の一時停止があります。特例法は見直しの年度に入ろうとしていて、とくに「現に子がいないこと」要件を削除する当事者の運動が起こり、たとえば、「GID特例法『現に子がいないこと』削除全国連絡会」などが活動しています。また、埼玉医科大で性別適合手術を担ってきた原科医師たちが、2007年度に退職したことで、新規患者の受け入れができない状況になっています。
 ガイドラインと特例法の連動とその変化は、当事者をどのような状況に置いているのでしょうか。1997年、日本精神神経学会の性同一性障害に関する特別委員会が「性同一性障害に関する答申と提言」(通称、ガイドライン)を発表して、1998年には原科医師の執刀で、国内初のガイドラインに基づいた外科手術が行われました。そして、2003年には自民党の議員立法で、ガイドラインにそった手術後に、戸籍上の性別を「男性から女性」、「女性から男性」に変更できる特例法が成立しました。ガイドラインの「性同一性障害」概念と、法律の「性同一障害」概念には多少のズレはありますが、ガイドラインも版を重ねて特例法に言及する箇所が加えられ、特例法もガイドラインに準じた診断を前提に戸籍変更を認めているなど、両者の連動は明らかです。
 特例法の適用には、婚姻していないこと、子がいないこと、生殖腺がないこと、性器が望む性別の性器の外見に似通っていること等の厳しい要件があります。この特例法の要件から逆に、医療の枠付けをさせ、医療を受ける当事者のニーズに圧力として働きかねない可能性が、すでに幾度となく指摘されているところです。
 田中さんのお話は、特例法に、ある意味オーソライズされた医療ガイドラインによって、性同一性障害の中で「中核群」と「周縁群」の区分が設定されるということを示唆してくれました。そして、その区分を当事者が内面化して、望まない手術を選択したり、性別変更ができた当事者にそうでない当事者が負の感情を抱いたりという悪循環を作る可能性が実際にあるのだと。これは「当事者間に持ち込まれた分断」と表現されることもあります。また、日本の運動が性同一性障害、つまり医療との関係で進展しているために、患者の医師に対する従属関係がより強く運動にも反映されるというお話もありました。このため、医療に対して不正を訴える作業はきわめて困難な状況にあるといえます。
 勝村さんからは、患者の権利を訴える医療過誤裁判は、専門知が必要な高度な裁判というよりは、ひたすらに医師の偽証との闘いなのであり、患者は非常に困難な立場に立たされているのだと示唆していただきました。とくに、m3の事例などで示していただきましたが、医療過誤裁判を訴える患者へのバッシングがあり、「患者の理不尽な訴えが医師の労働環境を強化している」というような医師と患者の対立状況がメディアで強調されています。ただでさえ、医師との従属関係が強くなるマイノリティ医療において、このようなメディアの喧伝は、患者の状況を著しく制約しかねないと思います。
 お二人の話を踏まえると、特例法見直しと医療の一時停止は、ますます患者としての性同一性障害当事者の立場にかかる圧力を強化させかねないのではないか、という危惧を抱きました。
 さて、このような中で、京都ではヨシノユギさんが大阪医科大、正規医療を相手どって、初の性同一性障害医療過誤裁判を闘っています。この裁判でもやはり、マイノリティ医療に特有の困難が反映しており、医師や、ときには他の性同一性障害当事者と対立する場面さえあると伺っています。ヨシノさんの裁判をめぐる困難な状況を解消するヒントが、講師のお二人の話にはあったように思います。また、ヨシノさんの裁判が、現在の性同一性障害当事者と医療との関係を考え直すヒントを与えてくれるとして、それはどのようなものなのか。ヨシノユギさんの裁判の弁護人をしておられる上瀧浩子先生から、コメントをいただきたいと思います。

GID医療過誤裁判の代理人として
上瀧
 ご紹介にあずかりました弁護士の上瀧です。できれば「先生」というのはやめていただきたいんですけれども(笑)。ヨシノさんの裁判を引き受けて、私自身もGIDのことがよく分からない、というような段階から訴訟を始めました。GIDについて色々勉強し、ヨシノさんとディスカッションを重ねながら、今回の裁判は一体何が争点なんだろうかということを手探りで、お医者さんの話を聞き、ヨシノさんの話を聞き、文献を読み学習してきたわけです。
 司法を教育するというお話がありましたけれども、弁護士自身も相当教育されないと当事者のことはなかなか分からない。少なくとも私はそうです。当事者のことをどのように理解して、どういうふうに裁判所に伝え、かつ説得し、裁判所を味方につけていくのかということが一つの大きな課題だと考えております。
 ヨシノさんの裁判については、いくつかの争点があります。ヨシノさんが受けたのは正規医療です。大阪医科大学で初の乳房切除手術を受けたということですけれども、これが本当にガイドラインに沿った正規医療の質を備えていたのかということが、一つの争点だと思います。
 確かに勝村さんのお話では、少数者の医療の特殊性というものがある。性同一性障害というのは、医療に携わる人が少ないという意味では、非常に限られた選択肢しかないんです。しかし、性同一性障害の医療については、いちおうガイドラインという医師がよって立つべき基準がある。その意味では医師によっての個人差はあるとしても、少なくともガイドラインに沿った最低限の基準はあるんです。しかし、ヨシノさんの場合には、そのガイドラインに沿った医療がなされていなかったではないかということが一つの争点です。
 たとえば、ガイドラインには、手術方法について事前によく打ち合わせをして、どういう手術方法にするのか、この点は患者に対するきちんとしたインフォームド・コンセントを前提にして、その患者が自己決定をする、そういうプロセスを経ないといけないと書いてある。しかし実際にはそういう説明がなされていなかったのではないか。事前には大きく切る手術だとずっと言われていて、前日になってやっぱり小さく切る手術でもできるかもしれない。リスクは変わりませんがどうしますか、と提案されているんです。きちんとした情報を与えられないまま自己決定をさせられているという状況が生まれています。
 また、執刀医はGIDの心性についてはよく理解をしているとガイドラインには書いてあるんですが、ヨシノさんの執刀医は性同一性障害という病名すら正しく書けないくらい──病名という言い方もちょっと抵抗があると思うんですけれども──GIDの理解がなかった。乳房切除の手術をする技術だけを埼玉医科大学で学んできたので、心性に配慮するなどのガイドラインに沿った医療はできなかった。大阪医科大では担当の精神科医がいましたが、精神的に一番動揺する手術の前後の時に担当の精神科医に連絡を取っていない。手術の前後というのは誰でもそうだと思うんですけれども、不安とか悩みとかを抱えながらそれでも目的に向かって一所懸命自分を支えています。そんなときにも、ヨシノさんは、何ら精神的ケアを受けずに放っておかれた。
 ヨシノさんの乳輪はその後壊死してしまうわけですけれども、その間もずっと、もしかして壊死したのかもしれない、そうでないのかもしれない、3週間くらいずっと苦しい気持ちでいるわけです。そういうときにもやはり精神的ケアを受けられない。
 そういうことを色々と考えていくと、GID医療があちこちでたくさんできあがりつつあった中で、その先鞭をつけて、医療のドル箱を作りたい、そういう観点があったのではないかと思わざるを得ない。GID医療をする準備も十分にできあがっていないのに、です。
 それからもう一つは、GID当事者の「生活の質」をどういうふうに考えていくのかということが争点だと考えております。私自身も、はじめはよく分からなかったのですけれども、ヨシノさん自身が、自分の日常生活を快適に過ごせるかということが自分の手術の目的だということを、しつこく、しつこく言っていました。私にはその時にはよく分からなかったんですが、今回のシンポジウムではそうではありませんが、アンケート用紙をみるにつけ、申請用紙をみるにつけ、男・女と書いてある。
 また、男女どちらのトイレに入るのか、それが自分の気分感情と合うのかどうなのか。あるいはお風呂をどうするのか。人前で上半身裸になるのかどうなのか。そういう日常生活における細やかな選択のあれこれが積み重なって、その人の日常生活が快適に送れるかどうかが決まってくる。いつも意に反することを自分の選択とさせられるということは、毎日を快適に送れない。これがやはり、手術の大きな動機だったというふうに考えているんです。そういう快適な生活の質ということを期待したのに──本当は手術でできるはずだったんです──手術の失敗によってできなくなったということが、もう一つの問題だと思います。
 どういった形でこれについて損害賠償請求をするのか。いわゆる典型的なGIDの人たち──田中さんの言葉を借りれば中核的な人たち──からは、乳房がなくなりさえすればそれでいい、女性的な特徴を備えた外形がなくなってしまっているから、それで満足するべきじゃないのかという話もありました。でも、そうではないでしょう。自分の生活の質を改善するために手術を受けたのだから、その期待を裏切ったということはやはり損害賠償の額として反映されるべきだろうということを一つの争点にしています。
 そういう意味では、GIDの中でも色々な人たちがいるのだということ、GIDの中の多様性、性的な多様性を認めさせるという一つの契機になると思うんです。そういう多様性を社会のなかで認めさせていくということが、裁判での大きな目的だと考えています。
 最後になりましたが、これが本当は一番大事なんですけれども、手術の失敗例が多いというお話を田中さんがしておられましたね。闇医療でもそうだし、正規医療でも失敗数は非常に多いと。しかし、やっぱり訴訟にまでは至らないんだと。その理由は、一つは勝村さんも言われたとおり選択の余地がないということもあると思うんです。ただ、やっぱり誰かが声を上げなければこの失敗が埋もれてしまうと思うんです。誰かが声を上げなければ、何が行われているのかが世の中に明らかにならない。そういうことが続くとずっと事実が埋もれたままになってしまって、その医療が改善されないということが起こるのではないかと思っています。
 やはり、これを顕在化させて社会の問題として提起していくということがGID医療を支え、進歩させていくということの大きな意味だと思います。社会を教育するということですかね。マスコミにも今回の件はけっこう取り上げられているんですけれども、社会を教育すること、社会へのレクチャーと勝村さんがおっしゃいましたけれども、この一助となればいいと思います。
 患者は弱者だとずっと言われてきましたけれども、それは少しずつであるけれども変わりつつあるし、変えていかなければならないと思っています。弱者というよりむしろ適切な医療を受ける権利者であるというように、その立場を転換していかなければならない。それは司法の場でもできるし、運動の場でもできるのではないかと。私は司法の場で、原告と一緒にやりたいと思っているわけですけれども、みなさんともご一緒に支援活動を通してやっていきたいなと思っています。
 
高橋
 どうもありがとうございます。それでは引き続き、ヨシノさんからお願いします。

GID医療裁判の原告として
ヨシノユギ
 今回のシンポジウムは性同一性障害と患者の権利ということで、私はいちおう国内で初めての性同一性障害に関する医療の裁判を提訴した原告として今日出ています、ヨシノユギといいます。よろしくおねがいします。
 私はGIDらしく見えないでしょ、ということを最初に言っておきたいんです。これは最初から言い続けてきていることなんですが、私にとってGIDという診断名は一つのツールでしかなくて、それを使って自分の体と折り合いのつかない部分をいかに快適にしていくかという上で、たまたまそのGIDというところにはまりました。
 安全に、ガイドラインに沿った医療を提供しますという標榜だったので、大阪医科大で治療を受けたというのが大きな経緯なんですね。だから私は、GID、性同一性障害のヨシノということには抵抗がありますし、あんまり自分でもそういうふうに思っていない。一般的に言われているGID的な規範というのがあって、生まれつき女性だったらいかに男性らしく見えるかとか、生まれつき男性だったらいかに女性らしく見えるかとかいったことですが、そういうところには全然興味がないですね。さっきの田中さんのお話にも出ましたが、よくパスするとか、リードされるとか言いますけれど、もともとの性がバレてしまうこととか、いかにもともとの性を隠して通用するかとか、そういうことも、私にとっては意味のないこと、価値のないことというふうに思っています。
 GID医療という枠の中で医療を受けたので、GID医療ミスの裁判ということになっているんですけれども、もうちょっとわかりやすい例だったら、理解が得られやすかったのかもしれません。男性ホルモンを打って、すごく男性っぽい感じの外見になって、その上で胸が変になったなら可哀相だなって言ってもらいやすいのかもしれない。けれど、私の場合は全然そういうところにこだわりがなかったので、広く混乱がもたらされたというか。
 そもそもGID医療ミス裁判という枠組みの中で、自分がいかに矛盾を起こさないでそこに乗っていくか、なおかつこの問題をどのように世の中に提起していくのかということをすごく悩みました。最初に弁護士さんと打ち合わせをしたときも、「性同一性障害っていうのがあってですね」みたいなところから、「でも私は、診断されながらそこには当てはまってなくて」と、そういうところから始める必要があった。そういう意味では、かえって、よく分からんような人がこういう裁判をやっているってことで言えば、個人的には面白くていいんじゃないかなと思います。
 私の身に起こったことというのは、結果的には左側の乳輪部がすべて壊死し、腐って落ちるということがありました。乳首が落ちるって話は、割とよくあるんですけど、乳輪部、つまり縫合したところがすべて腐って落ちたので、左胸は今ケロイド状になっていて、何もない状態。右胸も一部が壊死して、そこに関しては再縫合したので、いびつだけども、何とか元の皮膚が保てている部分もある、という状態です。
 乳房切除手術は大阪医科大の1例目ということでしたので、もちろん私は、主治医にすべてのことを質問しました。術式はどうなのか、時間はどうなのか、出血量はどのくらいなのか、どういうふうにメスを入れるのか、全部図を描いてくれ、と。また、あなたの経験はどれくらいあるのか、そのなかでどれくらい失敗したのか、すべてをメモしたり、必要だと思ったら録音したりして、万全の体制で臨みました。そしてGIDというものに対する考え方を、執刀医に対して伝えるように努力したんですね。胸さえ平らになればいいと思っているかもしれないけど、そうじゃないんだよ、と。
 その中に個人の望む生活というのがあって、一概にGIDという枠で括れないような多様な思いがある。医療の限界は承知しつつも、私という、ヨシノユギという個人が、生活の質をいかに上げていけるかというところが大事なので、間違っても「胸さえ平らになればいい」というような姿勢で手術をされては困る、と伝えていました。だけど結果的には、残念ながら、言葉を尽くしていても、医療側にはよく伝わっていなかったんですね。なぜなら、壊死した後、「皮膚移植すればいいから深刻になる話じゃない」という言葉がすぐに医師の口から出てきた。これっていうのは、身体は代替可能であると、本人にとってかけがえないものじゃなくて、他のところから皮膚を拾ってきて移植すれば済むと考えている医師の見解が、端的に現れた言葉だったんじゃないかなと思っています。

田中
 手術費用はヨシノさん持ちですか?

ヨシノ
 もちろん。その後の手術費用に関しても、その後のケアに関しても、再縫合に関しても、もちろん全部自己負担ですし、医師から謝罪の言葉、うまくいかなかったということに対する遺憾の言葉というのは一切聞くことができなかった。なぜ壊死が起こったのかということについても、「分からない」の一点張り。なぜ壊死が起こったのか分からない、こんなこと想定もしていなかったというのにも関わらず、その原因をつきとめることなしに、私の後にも何人か大阪医科大で同じ手術が行われている。これは無責任であると言わざるを得ないと思うんですね。非常に怖いことです。
 さまざまなバッシングもありましたけれども、やはり私の身に起こったことは厳然たる事実ですから、これを世の中に言っていくことがどうしても必要であろうと思って提訴したわけです。しかし最初に言ったように、私は「GIDらしく見えない」とか色々な要素を持っていますから、そういったものもひっくるめて、男性/女性という二元的な枠の中で捉えきれない、表現しきれない(生の)在り方がある。そして、そういう人がいるということを、いかに社会に認めさせていくかという点が重要なんじゃないかなと考えながら、講演や勉強会に呼んでいただいたり、そういう活動をやっているわけです。
 裁判自体はまだまだ序盤で時間がかかると思いますけれども、今回こういうイベントをやって、ある程度の方に関心をもっていただいているんだなぁということが分かったので、私としては嬉しいなと思っています。

高橋
 それでは、ディスカッションのほうに入っていこうと思います。ヨシノさんと上瀧さんから、勝村さん田中さんの側に、質問をご自由に投げてもらいます。あらためて上瀧さんからお願いします。先ほどの話のなかに、すでに質問がちりばめられていたと思うんですけれども、コンパクトに幾つかの論点を出していただけませんでしょうか。

少数者医療の特殊性
上瀧
 一つはですね、少数者医療の特殊性というのを勝村さんが言われたんですけれども、選択の余地がないという、医療が患者を支配する構造についてです。その支配の結果、どういう精神的構造が患者の側にできあがるのかということは、少しお伺いしたい。それから、偽証とカルテ偽造との闘いだと言っておられたんですね。さらに批判しない鑑定というのも言っておられました。カルテについてはちょっとよく分からないですけれども、偽証というのはこれから大いに予想されるところです。それに対してその批判しない鑑定が出てくる社会的な条件としては、一体どのようなものが考えられるのか。
 それから、事例の原因究明分析に基づく再発防止対策の徹底ということを最後のところで言われていたと思うんですけれども、裁判の中でもう既にそういう問題が起き上がっていまして、こういうふうにしたら壊死したっていう論文はないって言われているんですね。セカンドオピニオン先の先生に、壊死に関する論文はありませんかとお聞きしました。そしたら、「そういう失敗事例はなかなか論文になりにくいからない」と言われました。それで、非常に困っています。やはり失敗をどういうふうに事例研究に載せていくかということ、そのためにどういうシステムが必要なのかということについて少し具体的にお聞きしたいなと思いました。
 
勝村
 少数者の医療について僕の知っている限りでは、血友病の患者だった子どもたちが薬害エイズの被害者になっていったという事例があります。それぞれの主治医が地域にいて、血友病というのはきわめて少数の子どもたちに限られています。主治医との関係というのは、絶対的なものだったという感じの話は彼らから聞いたことがあります。血友病の子どもたちがみんな薬害エイズの被害者になっていくわけです。それで今度はHIVの治療を受けなきゃいけないということになり、国とやりとりしていく時には、そういうふうにならないように、地域、各都道府県に、拠点を複数設置してもらう。
 それから先ほどの話にもありましたけれども、ガイドライン的な、標準的なものも作る。海外も含めて、少しでも、患者の立場にたって受けたい医療であればどんどん受けられるようにしていく。ある種、弱者で何も言えなかったという感じとは全く逆の患者として、こういう医療が受けたい、こういう医療提供体制を求めるという形を、一定程度実現していく経緯もあったわけです。実は、その中で、相当被害者が出て、たくさん亡くなっているということもあったんですけれども、最終的にはそういう動きもあった。そんな経緯があるんです。
 たとえば、僕たちの産科の陣痛促進剤の被害でも、色々相談を受けますが、きわめて裁判がしにくい。泣き寝入りか裁判かのどちらかを迫られて、結局裁判まで行けないということもある。一番多いのは田舎だからという話もありますよね。つまり、そこの村には一個しか病院がないため、村八分になるみたいな。そういうある種少数・マイナーというか、そのような意味でも、地域のお医者様を訴えるというようなことはしにくいということもありました。与えられている、担任の先生を決められないのと似ているのかなと思うんですけれども、そういうプレッシャーが常にある。
 偽証に関しては、これまでかなり指摘してきました。偽証や改竄は、今の時代、けっこうバレるんですね。僕たちの裁判でも、裁判官自体が、一番露骨な偽証をした助産師に対しては、最初に言っていることと、最後に言っていることと全然違っているじゃないんですかと、その嘘を指摘するぐらいのことがある。偽証とか改竄に悩まされるんですけど、それを証明できたら勝てるかといったら、そうじゃない。難しいんですね、やっぱり。
 鑑定書の件は、アメリカでは、裁判に医療側が負けないための論文みたいなものが露骨にあるんです。明らかにそうなんですよ。そういう論文を書いているところがけっこうあってね。日本もそれを10年ほど前から真似しはじめている。脳性麻痺と陣痛促進剤は関係ないというような論文を急に出してきたりするんです。本当は、アメリカの医学界自体が内々で、陣痛促進剤で脳性麻痺が起こるから気をつけろというのは、30何年前に書いていて、やっているんですけど、いざ脳性麻痺が増えてきますと、それとは絡んでないんだというような論文を、わざとハワイ大学かなんかに行っている日本の医師が書いて出してくる。
 そういう手法は、アメリカの裁判ではよくやられています。一方、アメリカというのはけっこうNPOとかがしっかりしていて、お金を持っています。だからまともな人にたのんで、それがいかにおかしいかっていう論文もけっこう書いてやっていたりします。日本では、原告なり弁護士が必死で、そんな鑑定書はおかしいと書いてくれる鑑定医はいないかと探している状況で、なかなか難しい面もあったりします。
 だから、医学という学問の問題なんですね。僕の裁判の鑑定書は、合わせて5、6通出ています。明らかに医者のストーリーに合わせて、非がないと書くのが3人もいるかと思うと、こんなおかしいことはないと、良心に従って書いてくれる人もいます。結局、五分五分で終わってしまうのが鑑定書ですね。そういうものと闘うといっても、自分たちがずっと黙っていると、偽の鑑定書を書く鑑定医と偽証と改竄の前に敗れてしまうわけで、それに対抗する努力をしてはじめて闘うことができる。
 それから、再発防止策なんですけど、患者に一番権利がなかったのは情報なんです。情報の格差があった。17年前に日本にインフォームド・コンセントという言葉が初めて入ってきたんです。ヨシノさんもある意味でインフォームド・コンセントを、非常にきちんとやってきたんだと思います。インフォームド・コンセントという言葉が入ってきたときに、お医者さんにまかせきりにせずに、患者が色々聞きましょう、賢い患者になりましょう、被害を受けるような馬鹿な患者にならないようにしましょうといった流れがすごく新聞に載っていました。
 当時、被害者団体が一堂に会し始めた時期ですが、インフォームド・コンセントなんて全く意味がないって言っていたんです。なぜ意味がないと言っていたかというと、17年前は、カルテとかレセプトとか、患者が情報を絶対に見ることができなかったんです。それに関しては、厚労省に──医師会に言われてでしょうけど──患者本人には見せるなという指導の頃があり、裁判所から見せてくれという要請があっても見せるなという形で、なんのために保管しているか分からないぐらいに医療情報が患者に伝わらなかった。
 被害者運動は、17年前から、レセプト開示に集中してやってきました。ちょうど10年前の1997年にレセプトは開示されるように変わりました。その後、個人情報保護に合わせて、厚労省が初めてカルテ開示の検討会を始めるということになりました。それまでは自分がどのような医療行為を受けているのか、どんな薬が点滴で入ったのかということを知るのは本当に至難の業でした。そういう意味で権利というのは、今はとりあえず得られるようになってきているわけです。それでも改竄との闘いはあるので、日常的に見られるようにしないといけない。
 もう一つは、事故の情報です。事故の情報というのは全然蓄積されてない。覆い隠すからです。ただ一つだけ事故の情報が残っている場所があって、それは医療者側が使う医事紛争処理の保険、医師が入っている保険です。つまり車でいうと、運転手が入っている保険の保険会社。そこは医師たちが、裁判で負けた時や、和解や示談をした時に、お金を支払っている保険会社です。その部分の蓄積はあるんですけれど、それを公開しないのです。あるとしたらそこにあります。たとえば20年ほど前ですが、大阪の産科で医事紛争処理を5年やっていた医師が、自分が経験した事例を全部本にしています。その中で、陣痛促進剤で子どもが死んで、自分はいかに安い示談金で解決したかを、手柄のように書いているわけです。
 そういう蓄積があるからこそ、産科の医師会は30年ほど前に、陣痛促進剤の被害で脳性麻痺の子どもがたくさん生まれているから気をつけろと、内々に冊子を出していたりしています。けれどもいざ裁判となると、学会をあげて、関係ないということを論文で書いていくような動きもあれば、それに反発する良心的な医師もいる。そういうやりとりになってくると思うんですよね。
 今、医療安全対策とか、医事、医療の保険制度の部分にも僕なんかも入れてもらっているし、色々な被害者が入ってその人たちが言っている安全をある程度確保しないと、保険会社としても問題になる。本当にこんな被害を漫然と繰り返していると国がもたないということで、医師会べったりの厚労省や保険会社も、さすがに被害者をちょっとは入れて、色んな人のことを考えなくてはいかんという雰囲気にはなってきている。情報公開もある程度しなきゃいけないということになってきている。厚労省の中にも良心的な人はある程度いるという感じもあって、少しずつ動きはじめてはいます。

高橋
 ありがとうございます。医療過誤などの裁判だけに留まらない、裁判以外の要素、裁判を難しくさせてしまう医師会や保険制度の現状、また被害者救済制度の不十分さもふくめて、医師が謝罪しにくい状況ができているのはなぜなのか、という点に踏み込んでいただけました。今のようなお話は、医療の外にある政治──狭い意味での政治はなくて、当事者の日常生活におけるポリティクスも含めて──の話にも関わりますが、この話をもう少しだけ展開できたらと思います。田中さん、ヨシノさんからお願いします。

GID医療の特殊性
ヨシノ
 勝村さんがご説明してくださった産科医療の話と、このGID医療の話は、条件的に近いところが多くて、絶対数が少ないからそこに頼らざるを得ない。そもそも、GID医療そのものが医師の慈善で始まっているという部分があるので、それに対して患者側が感謝するような立場になりやすい。あと、一昔前であれば「変態」とかで終わらされていたものが、治療してもらえるだけありがたいとか、そういうふうな状況になりやすいですよね。先ほど、村に一人しかお医者さんがいないから、訴えたら村八分にされるという話がありましたけど、まさに私の裁判でも、様々な状況が絡んでいます。提訴して以降は、大阪医科大が手術をストップしている状況なので、そのことについて私に批判がきます。
 また、これはタイミングがたまたま重なっただけだったんですけど、私が提訴して1週間後くらいに、埼玉医科大でGID医療の受け入れを当面ストップするという記事が出たんですね。内実は学閥争いと待遇面で医師との折り合いがつかなかったという話らしいんですけれども、すさまじく紛糾したらしいです。ほらみろ、ヨシノが裁判したから埼玉医科大でも医療が止まったと、別に壊死したくらい黙っといたらいいのに、あいつのせいで医療が受けられなくなったと、そういう話があったんです。でも、私はそこがどうしても理解できません。正規医療でも死にかけた人がいるし、自分の身体を、受け入れがたいような形状にされてしまった人もたくさんいるにもかかわらず、なぜ黙っていなければいけないのか。
 本来であれば患者側が「これはこうなんじゃないの」と意見を言って、医師が知って、そういうふうに事例が蓄積して、ベースアップが図られなければいけない。だけど、このGID医療とか産科医療とか少数の医療に関しては、患者側が首根っこをつかまれたような状態になっていて、医療を持ち上げなければいけないとか、そういう圧力を私自身は感じました。提訴をやめろ、というメールもきましたし、また、古典的なジェンダー観によって、「男だったら別に体に傷が残ってもいいはず」「胸に傷が残ったくらいで提訴するっていうことは、やっぱりこいつは男じゃないんだな」とか、そういう様々なジェンダー観や、私がいわゆるGIDらしく見えないことであるとか、国内の医療状況によって複合的なバッシングを受けた。今回の提訴というのは、そうでしたね。難しさを実感しています。

高橋
 田中さんからもコメントをいただいてもよろしいですか。

田中
 埼玉医科大は権力闘争で原科さんが負けたそうなんで、退官してジェンダークリニックをサポートすると言っていたんですけど、それがもうなしになったんですよ。だから埼玉医科大が悪いんです、あれは。それを分からずにヨシノさんのせいにする人の神経が分からないですね。

高橋
 その点は、後ほどフロアとのやりとりで展開できればと思います。次はヨシノさん上瀧さんから、田中さんのお話に対するご質問をお願いします。

GID当事者の多様性
ヨシノ
 手術が上手くいかなかった人の事例を調べたりしていると、かなりひどい例に陥った人がいたり、死にかけた人がいたりっていう話があるんですけど、問題が顕在化しない理由はいくつかあると思っています。私のように、男女の枠組みから逸脱したいから別にどう見られてもいいっていう人もいるけど、暮らしている状況とか就労環境によって、医療ミスにあったとしても、それを言い出しづらい人とか、色々な状況があると思うんです。私はGID関連の自助グループにほとんど関わってきた経験がないので、ぜひ伺いたいところなんですけど、自助グループ間でも、医療に対する意見というのがなかなか揃わないということがありますか?

田中
 全然バラバラですね、みんな。大阪は特に。

ヨシノ
 バラバラというと?

田中
 バラバラというのは、もうGID医療にまっしぐらみたいな感じで全部条件を呑んでやっていく人もいるし、私みたいに、ジェンダークリニックには足を踏み入れず、ずっと治療する人間もいるし。戸籍上の性別変更をしたいから、自分ではしたいと思ってないのに正規の治療を受けるという人が、3割以上いますね。それはESTO(「性は人権ネットワーク」)の調査に現れています。

ヨシノ
 そうですよね。私もそのデータは拝見しているんですけども、自分がこうありたい、自分が快適な身体はどこかというのは、すごくグラデーションがある。中核群の人たちや医療側は、「男性から女性へ、女性から男性へ」という極めて単純化したところをイメージしているがために、本当は性器形成手術までしなくていいと思っているのに、特例法の要件などによって、本人が望む以上の手術に差し向けてしまう、身体に介入してしまうというのが、ものすごく重大な問題じゃないかなと思います。

高橋
 上瀧先生お願いします。

上瀧
 自助グループの中でも、医療に関する要望がすごく多様だと今お聞きしたんですけれども、その多様な自助グループ、要求を持っている自助グループの中で、性的マイノリティはこうあるべきだとか、むしろ多様性を認めない意識が育っていく、その理由はなんなのでしょう。

田中
 私のグループではそれはないですけどね。私たちはバラバラやったら、バラバラのまま。一つの筋道をたてて押し込めようとはしませんから。

上瀧
 ただ、中核者と、それ以外っていう形で、色分けみたいなのができるような素地みたいなのはあるんですか?

田中
 それは関東のほうが大きいと思いますよ。

上瀧
 地域差があるんですか。

田中
 関西はバラバラでいいやんかって感じ。関東のGID研究会とか行ったら、FTMはみんなネクタイにスーツ、MTFはみんなミニスカートか女性用のドレスなんですよ。なんでかしらんけど。MTFのほうは体が大きいし、FTMは体小さいのに、なんか不思議な感じですよ。スーツする仕事あんたしてへんやん、みたいな子がね、いっぱいスーツ着ている。なんかそういう憧れがあんのかな、とも思うけど。

上瀧
 コード化しているんですかね。

田中
 そうですね。関西はそんなことないですけど。

GID医療の困難さ
高橋
 先ほど出た話の中から一つだけ質問なんですけども、ヨシノさんのお話は、男になりたい女になりたいという、典型的な、中核的な、性同一性障害の事例ではないわけですね。あえて伺いたいのですが、そのような主張を何の条件付けもなく行うと、医療を否定しかねないのではないかな、と私は思います。
 医療自体がかなり厳密なガイドラインに沿って、不可逆性の高い外科手術を合法化するために、事前に高度な合意を調達する必要があります。そこでガイドラインの作成過程における議論から分かるように、「男性になりたい女性」、「女性になりたい男性」が、その他の周縁群と区分されました。ヨシノさんのような主張は、ガイドラインに準じた医療の否定ないし、それをゆるがすようなものになるのではないかと。そもそも性同一性障害の医療自体が、医療かどうかという根本的な部分を問うています。性同一性障害医療は、美容整形なのかあるいは医療なのかが揺らいでいる領域です。
 この点に関して、田中さんとヨシノさんからコメントをいただけませんでしょうか。

ヨシノ
 そうですね。私のような性の表わし方をしている人間が、こういう裁判をやることで正規医療の根底が揺るがされる、正規医療を崩壊させるんじゃないか、という懸念は多く聞きましたね。埼玉の問題とか、色んなタイミングが重なったっていう状況もあったと思うんですけど。私は私の身体に対して違和がある、これを大前提として、ジェンダーとかに縛られない生き方を模索していくうちに、だいぶ楽になった。それでもやっぱり胸の存在とは折り合いがつかないな、という時期に、ちょうどGID医療が噛み合ったという感じですね。だから、私ははじめから精神科医に対してライフヒストリーを偽ったり、それらしいストーリーを語ったりもしていませんし、服装も男性らしさをアピールするような服を着ずに、まったくこのままで通って、GIDという診断が出たんです。
 だから、診断現場そのものが非常にあいまいだということは感じていて、タイミングによっては、私にGID診断が出なかったかもしれないというのは十分考えられると思います。しかし私は、自分の乳房に対しての違和感はすごくあって、壊死したこと以外に関しては、胸という存在が無くなって楽になった部分はあるんです。でもそれは、性別に対する違和なのか、身体そのものに対する違和なのかっていうのを突き詰めていくと、GID医療なのか、美容整形の領域なのかは、簡単に分けられない問題だなというふうに感じています。でもたぶんGIDの正規医療とか、特例法の要件、あの枠を限りなく緩めて、オーダーメイドで体の色んなところを作り変えられるっていうふうになったとしても、それはそれでまた新しい圧力っていうのが生まれる状況が常にあると思うんですよね。
 いわゆる当事者という枠でくくられる人たちの間での相剋、「おまえのここが変だ」「わたしの方がいい」というやりあいも、GID医療という形態がなかったとしても、別のベクトルからかかってくる圧力や、規範があるだろうと。それって何なのだろうなというのを研究したいと思っているわけなんですけれども。
 
田中
 私は男に見えますけど、でも基本的にはヨシノさんと同じですね。性別二元制に違和があって、性別違和はなかった。だから、ホルモンを打って、自分の体が変わっていくのは楽しかったです。旅みたいで。他の人と経験が違うんですね、やっぱり。生まれたときから男だと思ってなかったし、女とも思ってなかったし、だから人造インターセックスです。

高橋
 上瀧さんからもお願いします。

上瀧
 今、ヨシノさんのあり方が正規医療の中でどのような位置にあるのか、あるいは、後退させるような役割に一見みえるのかもしれないというお話があったけれども、私は決してそんなふうに思っていません。そもそも二元論に属さないということそれ自体に、インパクトがあるんですが、属さない中でも多様なんだということで、ガイドラインも変わってきて、最初のうちはホルモン注射をうけて、それでだめだったら手術なんだと、第2版までのガイドラインはそういうふうになっていた。それが、性同一性障害の多様な形態の中で、色んなメニューを選択できるという形に変わってきているということがある。GIDの中でも色んなあり方があるんだ、その多様性の中でヨシノさんのあり方も一つのあり方なんだということは、正規医療をより豊富化するような形でこそあれ、後退させるだとか、ストップさせるものではないと、私は確信を持っているんです。
 それから、もう一つ、GIDをどのように捉えるかという問題が、ヨシノさんから言われました。ヨシノさんは、戦略的にGIDという形をとっているのだと、それは乳房に対する違和感を除去するために戦略的なものとしてとったのだ、という話がありました。生物学的な性というのはやはり連続性があり、男と女とその間の人たちはいっぱいいるわけで、それがGIDとひとくくりにされてしまうという違和感もあるんです。それでも、私自身はですね、GIDという概念が社会的に出てきたということについては、ある意味では積極面があるんじゃないかと思っているんです。
 どういう形で認知されるかということが問題なのではなくて、そういう人たちがいるんだということが、社会的に認知されることが非常に大事だと思っています。たとえば、女性が社会的に認知された大きな契機の一つは、「軍国の母」だったわけです。日本ではそういう形で女性の社会的認知が高まっていったわけです。そういう認知が正しいかどうかは別として、それを基礎にまた次のステップがあるだろうと私は思っているので、GIDという位置については限界はあるものだけれども、それを基礎にまた次のステップに歩むことができるのではないか、という印象を持っています。
 
高橋
 上瀧さんのお話は、性同一性障害という概念の限界はありながらも、それは戦略的に利用しうるものであり、その積極的側面は評価できるということですね。
 それでは最後に、勝村さんにお話を伺います。今までみなさんの話を聞いていて思ったことを自由に話していただくというのでもよいのですが、私の方から一つ質問をさせてください。なぜ多くの人たちが正規医療というかたちで医療を成立させることにこだわっているのかというと、性同一性障害医療に保険適用への道を開きたいという目的が、一つにはあるんじゃないかなと思います。もしそうだとするならば、性別違和をもつ人の医療に対する保険の適用は、今までの話に出てきたような医科大を通じた正規医療化以外の道があるのか、どういう条件で保険適応が可能になるのかということを、よろしければ伺いたいのですが。

勝村
 良いか悪いかという話ではなく、実務的にどういう状況、どういう制度なのかというとですね。厚生労働省の中医協(中央社会保険医療協議会)というところが全部決めることになっているんです。今僕が、中医協の委員をしています。2年に1回、診療報酬を改定するというもので、今もまた、非常にばたばたしています。毎日どこかの新聞に載っているんですが、ついていけないくらい、様々な日本の医療のすべての診療報酬、つまり医療費の単価を決めている状況です。その中医協の下で先進医療という分野があって、従来ほとんどやられていない医療をはじめていかないといけないというものに対して、一定の安全性とか倫理性とかを判断した上でいけるかどうかを検討する専門家による下部組織があります。
 どんな制度かというと、それぞれの大学が手あげ方式で、うちでこんな先進医療をやりたいから認めてくれということを、先進会議か専門家会議に出します。それを審査し、原案を作って中医協に上げて、中医協のほうで「認める、認めない」という話になります。先進医療が認められたら、混合診療を許すという感じです。実質、混合診療は禁止ということになっているので、混合診療という言葉は使わずに先進医療という言葉を使っています。まだ保険で認められてない部分も、一定保険の中でやりましょう。特に先進医療と認めたものに関しては、保険の点数つけて、こういう点数でやっていきましょうと実験的にやっていく。
 大学が手がけていくやりかた自体がよくないので、やるって決めるのだったら拠点病院を地域に密に置くべきです。一定数は置ききれないだろうけれど、地域拠点は置くということをしていく。最近、混合診療問題で裁判があって、診療を認める判決が出て、大きく報道されました。これは、実は先進医療の話で、ある大学ではそれを先進医療として認めているのに、自分の近くの病院でやっているのは保険が効かないじゃないかということで、裁判をして、勝ったという形になっています。先進医療が認められるには、安全策として施設基準があって、それを一定クリアしているところからOKさせていこうということです。同じ治療法なんですけど、そのへんの病院でまだやられたら困るということになっています。
 安全性を担保する意味からは、もうちょっと数を増やすべきだということがある一方で、どこでもOKだというのはやばい、危ないだろうとなる。ある人たちにとって必要な医療が先進医療として認められていないという問題があるならば、それを認めていくということをしていくべきだし、先進医療として認めても日本中で1個とか2個という形からはじまるから、あまりに遠い。せめて近畿圏に一つぐらいは最低なければならない。都道府県に一つを前提に、拠点病院みたいなのになっていかなければならないだろうし、そういう動きもしていかなきゃいけないと思います。希少疾患とか、そういう形で進んでいくと思います。

高橋
 よろしければ、今日の全体の話に対するコメントをお願いします。

勝村
 ヨシノさんが言われているこだわりみたいなのは、精一杯本当に親身になってやってくれたのかっていうのを問うているんだと思うんです。なぜ自分たちは訴えているのかというと、自分の気持ちっていうのを全く考えてもらえていないのではないか、そういう意味で本当に自分と同じような形で精一杯やってくれなかったんじゃないかということが大事なんだと思うんですよね。
 そういう部分が、裁判すべきなのか、すべきでないのかに関わる当事者の実感なんだと思います。それは表面的な部分の言動ではなくて、前後の文脈や不誠実な対応の繰り返しだったりします。そういうことは他の人は分からないから、バッシングになってしまう面がある。相手の立場になって考えられる、人権感覚的な発想というのがやっぱり医療に欠けている面があるのではないか。ちゃんと言っていくことが結局質の底上げに繋がっていくし、ほっておいたほうがいいのか、糾していったほうがいいのかってことですよね。動いていくことですね。
 たとえば、さっきの奈良の大淀病院の事件も同じようなバッシングがされて、裁判をするからそこの地域の産科医が一人もいなくなったって言われたんだけど、そのことを受けて奈良県が初めて本気で、産科の医師を統廃合していくということに着手するわけですよ。福島県立大野病院もそれでなくなったと言うんですけど、割と大きな病院に一人ずついた産科医を、病院を二つ閉鎖して一つの病院に三人集めようということになりました。少し遠くなるけどそのほうがいいでしょう。それは実はずっと被害者が求めていたことで、そうしたほうが安全だし、質も高まる。
 あまりに遠くなっては困るけど、別に小学校みたいに歩いていけるところに専門病院がなくても、安全性が高まるんだったら別にいいというのは、当事者たちの主張です。初めてその方向に動いたということがあるわけです。目先のことだけではなくて、本気で動かしていくには視野を広げていかなければならない。先ほどの大阪と東京の違いは、他の色んな被害者運動でもすごく感じましたね。一緒なんだなと思いました。

■会場からの質問
質問(1)
 かつてトランスジェンダーの人は医療を受けること自体、たぶん医療側が拒絶する向きがあったのではないかと感じています。アカー(動くゲイとレズビアンの会)が都内の施設利用を拒否され闘っていたころから20年くらいたったと思いますが、現在当事者の人は医療にかかることに拒否感、拒絶感が薄れてきたのでしょうか。

田中
 それは性同一性障害医療ってことですか?

高橋
 質問用紙にはトランスジェンダーと書かれていますね。もし当事者のトランスジェンダーなり、性同一性障害の人なりの医療にかかりにくいっていう思いが軽減されているとしたら、それは運動の成果があったんでしょうか。そのあたりの経緯を含めて聞かせてもらえたらと思います。

田中
 性同一性障害という疾患名がついたことで、流通しやすくなりますよね。トランスジェンダーじゃないけど、これまでは、当事者が全然医療を受けられなかったんですよ。保険証の性別が女性とか男性とか生まれたままの性別だったじゃないですか。だから、特例法で救われた人もいます。けれども特例法で救われなかった人たち、子どもがいたり、結婚したり、性器が変わってなかったり、内性器をとってなかったりすると、変な目で見られたりしますね。私も病院行ったら、保険証は女性じゃないですか、女性ですよとか看護婦さんに言われたりして、いらんこと言うなと思うんやけど、そうなんです。そういうことあります。女ですって言いますけど、そんときは。すみませんでしたって言われます。

高橋
 関連してなんですが、田中さんがやっておられる運動といいますか、運営に関わっておられる団体について、幾つかお話を伺えたらと思います。

田中
 Tジャンクション(*12)というのがあって、それはFTMとFTXのための自助グループなんですね。月に一回集まってまして、三時間くらいかな、色んな話をします。それと、QWRC(クィア・ウーマンズ・リソース・センター)で、資料センターですから、セクシュアリティやジェンダー関連の資料を集めてるんですよ、寄付ばっかりで。マンションの一室を借りてそこでミーティングとかできるようにしてます。だから、色んなレズビアン団体、ゲイ団体、トランスジェンダーの団体がそこを利用してくれてます。あと、ESTO(「性は人権ネットワーク(*13)」)という秋田に本部があって、東京と大阪に支部があるグループに関わってるんですけど、そこでは、年に一回だけ関西交流会がありまして、色んな当事者と交流してます。

質問(2)
 クレーマー患者、モンスター患者と呼ばれる人たち、この人たちは、なぜ生まれるのだと思いますか。勝村さんの『ぼくの「星の王子様」へ』の第4章に、ハーバード大学の医師のコメント部分があります(*14)。それが日本の医療界の現状をあらわしていると思いました。ご説明をお願いします。

勝村
 僕は、大阪で高校の教員をしています。教員に対するクレーマーも非常に多いということを、NHKとかが報道してるんですけど、僕はあれもちょっと納得できなくてですね。職員室には色んな先生がいまして、あの保護者はたまらんとかですね、色々保護者への文句を言っているのが聞こえてきます。けれどもやっぱり言われている教師というのは限られている感じがしますし、ある程度的を射てるんじゃないかと思う時があります。僕たちもときどき一方的に意見を言われることはあるけど、それを単にクレーマーだとか思ったことはあんまりないです。
 クレーマーだと言っている教師というのはどうなのかなっていうのが一つあるんです。僕たちも自分の子どもが行っていた学校で、ちょっとこれは意見を言ったほうがいいのではという先生もやっぱりいるわけです。そういうことも含めて全部クレーマーと言っている風潮があるんじゃないか。医療においてもそういうのがあって、もう少し謙虚であるべきなんじゃないか。
 もう一つ、クレーマーは裁判をするのかという問題があります。クレーマーって、たとえば「やーさん」とか言われてる人たちをイメージしているのではないと思うんですよね。そんな人は昔からおるとか、そういうことを言っているわけでもないと思うし、何をみてクレーマーと言っているのかなというのが確かにあります。少なくとも言えるのは、お金目的の暴力団のようなクレーマーは、裁判をするのかというと、僕はしないと思いますね。裁判は儲からないですよね。示談とか和解の方が儲かるし、世の中よくできたもんで示談とか和解のほうがたくさんお金を払うよと司法が常識を作っているわけで、だから和解を一生懸命すすめて、みんな和解にのるわけです。弁護士も和解にのった方がいいし、色んな意味で和解はうまく作られているんですよね。
 僕たちのように和解にのらないというのは、非常にこだわりがあるケースで、ある種非常識なのかも知れないんですよね。裁判や判決にこだわると、賠償される金額も明らかに減ります。しかも裁判をしたとしても、大変だし、なかなか勝てないし。むしろプロは示談を求めてくるでしょう。裁判する人のほうがおかしいということになる。学校相手に裁判をしている知り合いなんかもいて、学校のいじめや学校のプールの事故で死んだといった被害者の立場の人から相談を受けたりします。
 職員室では、何で裁判までするんやとか、クレーマーだとか、やっぱり言う人が多いんですけど、みんな実情を知らないんですね、情報が入ってこないから。実は被害者と会って話を聞いてみると学校側のものすごい隠蔽工作があったりして、結局、事実を知りたいのに教えてもらえないから裁判をせざるを得ないところに追いこまれているような感じでこれはひどいなというようなことを学校側がしているんですね。
 けっこう、医療も教育も似ているなと思います。ちょっと上品さにかける言葉遣いで文句を言ってくる人たちが増えてきたみたいな感じだったら、あるのかもしれません。けれども文句を言ってくる人たちが全く的外れだということでもなくて、言われる側と言っている側の中間ぐらいのグラデーションのところで色んな事例があるという認識でいいんじゃないかなと思います。それと、裁判の原告とは全然レベルが違うということがあります。そこはもうテーブルにつかないんだから。相当な不誠実や隠蔽などの問題があるのではないかと思います。
 それから、『ぼくの「星の王子様」へ』という本の中の4章で、李啓充さんという『アメリカ医療の光と影』(医学書院、2000年)を書いた、医療事故に関しての第一人者がでてきます。当時、この人に僕たちの医療事故をどう思いますかと聞いたら、これはアメリカでいうところの医療事故ではない、こんなのは犯罪だということを言ったわけですね。本当のことを言わずに薬を使っているとか、嘘ばっかり言ったとか、患者の命や健康よりも完全にお金のことに意識が向いているとか、色んな面を捉えて言っているのかもしれないですけど、「これは医療事故ではない」と言った。アメリカは医療訴訟社会だと言ってますけど、日本と違っているのは、犯罪は犯罪だという面がもっとはっきりしているんですね。
 一生懸命やってるけど結果が悪かったで済ますのではなくて、これはちょっとほっといたらあかんということに関しては、反省を求めているんであって、反省してくれるってことが一番嬉しいんですよね。
 僕たちの時も、枚方市民病院が潰れそうになるんですけど、潰れるというのでは勝った気にはならない。僕たちの事故を受けて枚方市民病院がすごくいい病院になったと言えたら、嬉しいと思う。反省を迫っているわけで、厳罰を求めているんじゃないという証しなんですよね。そういうごく普通の素直な感覚みたいなものが、なかなか伝わらないというもどかしさがあります。日本では医療事故は医療事故の枠で扱われてきました。それに対してパッと一言、これは事故じゃないと言ってくれる発想を、僕は本当に嬉しく思いました。そういうふうに自然な感覚で見てくれる人がいるというのも大事なんじゃないかなと思いました。

質問(3)
 裁判ではなくて、調停、和解を勧める裁判外制度を利用することについてはどう思っておられますか。

勝村
 僕が一つ考えているのはADR(裁判外紛争解決)です。今こういう動きが出てきているのですが、これはあったらいいと思います。精一杯やっても結果が悪かった場合に、きちんと被害者に支援をする。一生懸命運転したって、事故するときはあるじゃないか、それは略式でやればいいじゃないかと。
 でも、ひき逃げをしたり、めちゃくちゃな運転をして何回も事故を起こしているのはちょっと反省してもらった方がいい。そういうケースを僕たちは裁判にしているから、それを裁判外で紛争解決だというのはやっぱりおかしいと思います。
 僕は、ADRはあったほうがいいと思っているんだけれど、一つ間違ってもらったら困るのは、これまでやってきた医療裁判の代わりになるというのは大きな勘違い。これまでやってきたのは本当だったら刑事裁判になるべきものです。富士見産婦人科病院事件と同じ。医療とは呼べない犯罪行為だということで刑事事件です。やっぱり民事というのは被害者を救済し生活を保障するものであって、刑事は、やってしまった側に反省をせまるものです。だからこそ、反省をきちんとしたら、もう一回社会で頑張ってくださいというのが、本来の刑事のシステムだと思うんですよね。これまで刑事で扱われるべきものを代わりに民事でやらざるを得なかったということが言えると思います。
 今までの医療裁判のようなケースはADRではなくならないと思うし、ADRの制度ができてもこれまでと同じ事例が出てくるのだったら、それをADRでやろうとすることは非常によくない。でも、ADRの制度を作ることをきっかけにして、簡単に改竄できていたものをなくしていく、情報がきちんと共有されて改竄をやりにくくするとか、医療事故の情報の蓄積の中から、同じ事故が繰り返されないようなシステムを作っていくとか、ADRも制度としてそのように動いていけばいいなと思って、そういうことに関連した委員会にも出ています。
 今までの医療裁判は、医師が精一杯やっているのに、たまたま結果が悪かったら患者が訴えるというような裁判だ、だから、医療者たちはとてもやっていられない、医療が崩壊するなどと思われてきました。だからADRを作れという主張が出てきます。でも、本当はそうじゃないということをきちっと伝えながら、同じような事故をなくすという視点とか、事故情報をきちんと蓄積するとか、医療犯罪的なものをなくしていくとか、情報をしっかり共有させていくとかいうことを、きちんとなされるようにしていきたい。ADRがあってもいいけど、だめなことはだめときちんと言えるという形に、このADRの議論がなっていかなければいけないと思って関わっていますが、非常に難しい感じがあります。
 
高橋
 ありがとうございました。会場のみなさんも質問用紙を書いてくださった方もありがとうございました。最後に、ヨシノさんと上瀧さんのほうから一言ずつお願いします。

ヨシノ
 今日のところでも様々な文脈があって、捉えきれない、考えきれない論点がたくさん出ていると思います。GIDという存在が、今出てきた。しかし既に、GIDというものが、何か規範のようなものになってしまっていて、そこからはみ出すような、私のような表現の仕方をする人間に対しては圧力がかかってくる。だから、そこから抜け出ようとする。でも、そこからはみ出した組に名付けをして、層をつくると、そこにさらに新しい規範が出てきてしまうと思うんですよ。だから、そこから逸脱を繰り返しながら、最終的には俺の人生勝ちだぜ、と言えるようなやりかた、生き方っていうのを、色んな人がしてくれたらいいだろうなとも思う。
 私に関しては、今こういう闘い方をしていることが一つの挑戦であると思っています。希望は持っていますよ。難しいし、時間もかかる問題だと思いますし、GID医療っていうのをどこに位置づけるかという大きな問題もありますけど、いずれ良い形で、色んな医師同士がちゃんと交流して、経験を蓄積していくことを働きかけたりもしたいなと思います。この裁判をやるということに関する意義は、私の中で揺らぐことはないと思っています。

上瀧
 まず、先ほど勝村さんが少し述べられましたADRのことなんですけれども、やはり民事裁判というと公開ということが非常に大きい特徴になります。社会的に一つの事実を明らかにしていくという裁判の意義というのはやはりなくならないのかなと思っています。ADRはそれを望んだ人が利用すればいいし、そういうオプションはたくさんあるほうがいいと思っています。けれどもそれで裁判というものがすべて代替できるということはないかなと思います。
 それから、最後ですけれども、弁護士と原告というのは車の両輪みたいなところがありまして、裁判に勝つという目的でお互い不可欠の存在で、相補い合って、教えてもらいながら、私なんかもそういうかたちでGIDの医療、あるいはトランスの方のありかたを学習しながら、進めていきます。
 私はそもそも世の中が多様な生き方を承認できるようになることを目指して弁護士になったようなところがあります。そういう中で、ヨシノさんの裁判をたまたま受けられたのは非常に幸運だったなというふうに思っております。こういう形でみなさんとお会いできて、色んな意見を伺えるのは私にとって非常に勉強になりますし、ヨシノさんには失礼ですけれども、天はそういう立場に耐えられて、かつそれを切り開いていける人にそういう立場を与えたんだ、というふうに感じております。私自身もこの裁判を、やりがいをもってやっています。みなさんも支援を、長いことかかるかもしれませんけど、よろしくお願いします。

高橋
 これでパネルディスカッションを終わりたいと思います。長時間お疲れさまでした。講師・パネラーのみなさんから伝えていただいた知恵や技術を、それぞれの場所に持ち帰って活用していただければと思います。

山本
 本当に長いことお付き合いいただいてありがとうございました。今日は、勝村さん、田中さん、そして、上瀧さん、ヨシノさんと長いことお話していただいて、本当にありがとうございました。以上を持ちまして、「性同一性障害×患者の権利──現代医療の責任の範域」シンポジウムを終わりたいと思います。

■註

*12 「TジャンクションのHP」は、http://www.geocities.jp/ gotjunction/(2008年5月3日アクセス)。「T-junction(ティー・ジャンクション)は、FTM(female to man)のための交流の場です。現在身体の男性化のためにホルモン投与や外科手術を行っている人、これからホルモン投与や外科手術をしたいと考えている人、何らかの理由でトランスができない人など、性別違和を持つFTMが集まり、大阪市内のプライバシーが守られる場所でミーティングを開いています。ミーティングのテーマは特に設定しておらず、話題はその日の参加者次第。ホルモンや手術のこと以外にも、仕事、家族、恋愛についてなど、色んな話が出ます。近い立場の仲間からアドバイスを受けたり情報交換をしたりなどができ、気楽な雰囲気です。T-junctionが大切にしているのは、FTMゲイやFTMバイセクシュアル、Transfagの人たちが居心地良く過ごすことができる雰囲気。同性愛嫌悪や女性嫌悪のない場所作りを目指しています。」

*13 「ESTO」のHPは、http://akita.cool.ne.jp/esto/(2008年5月3日アクセス)。「ESTOは、すべての人がその性の在り様に関わらず存在(Est)を尊重(Esteem)されることを願い、人と情報の交流によるネットワークを目指しています。自覚する性別と身体や書類上の性別に違和感がある人、生まれつき身体の性別が曖昧な人、同性を好きになる人などへの支援活動を通して、自分の「性」を考える活動をしています。“多様な性”への理解を進めるために、交流会・講演会の開催やニュースレター・メールマガジンの発行、行政への要望書の提出などを行っています。」

*14 同書pp.246-247。枚方市民病院のシンポジウムに李啓充氏が寄せたコメントが転載されている。