あとがき

あとがき

中倉智徳・藤原信行

本報告書『生存をめぐる規範と秩序』は、巻頭言やまえがきにもあるように、「規範×秩序研究会」の活動の成果をまとめたものである。ここでは各論考の概要と、それらが3部構成からなる全体のテーマにどのように関連しているかを簡単にみておこう。

「第1部 生存をめぐる規範」所収の4本の論文はそれぞれ、障害学、倫理学、経済哲学、心理学史および視覚文化論、社会学理論の観点から論じられている。とくに、障害や健康といった生存をめぐるテーマを規範理論において論じたものや、経験科学の知見と規範とがどのような関わりをもつのかをめぐって、歴史的、学説史的に検討した論考が収められている。背後には平等とは何かをめぐるまさに規範理論で問われてきた問題のほか、科学研究に望ましいものとは何か、それはどのようにして探究可能となるのかといった、より広義における科学と規範をめぐる基礎づけをめぐる問題が問われている。
堀田義太郎「正義論と障害」は、正義論のなかで障害をとりあつかうさいに生じてくる論点を批判的に概観・検討している論文である。障害学において論じられてきた障害の社会モデルは、障害者の生きづらさは社会を原因としてもたらされているものだと問題提起してきた。このような問題提起を正義論において引き受けた場合どのように考えられるのかが堀田論文の主要な問いであり、社会的平等論にその可能性を見出している。
村上慎司「福祉と健康の情報的基礎としてのケイパビリティの再検討のための研究ノート―資源概念と QALY との比較」は、センとヌスバウムによるケイパビリティ概念を批判的に概観したあとで、QALY(quality adjusted life years、質調整生存年数)との対比のなかで、ケイパビリティを善き生の実現のための情報的基礎として用いるために乗り越えるべき論点を提示したうえで、先行研究で提示された解決の方向性と問題点を示した論考である。最後に指摘されているケイパビリティの平等を考えるために衡平性が導入されている。先の堀田論文や後の角崎論文にも関わる論点が示されている。
篠木涼「科学的管理法における視覚化概念―F・B・ギルブレスとL・M・ギルブレスの動作研究を中心に」は、20世紀初頭から戦間期のアメリカで活躍したギルブレス夫妻による動作研究を「視覚化」概念に注目しながら視覚文化論的に検討し、夫妻の理論内在的な論理を析出し、その「視覚化」概念が現代の視覚文化論にも示唆を与えうることを示した優れた論文である。
中倉智徳「社会学における倫理的自然主義の可能性について―フィリップ・ゴルスキ『事実/価値の区分を越えて』論文を中心に」は、「社会学はわれわれがいかに生きるべきか、何がよい社会なのかについて何かを教えることが可能なのだろうか」という問いに、倫理的自然主義を社会学にも適用することによって応えようと試みたフィリップ・ゴルスキによる論文を検討した論考である。

「第2部 生存を脅かす秩序」所収の4本の論文はそれぞれ、第一部で検討してきた生存をめぐる規範への問題関心を共有しつつ、老いを困窮とともに生きる人々やそれを支える制度の劣化、現在のヘイトスピーチがまん延する状況をつくりあげてきた、90年代以降でのメディア内での歴史修正主義の伸長、ある人の死をさまざまな不幸によっておきた自殺へと落ち着かせていく語りといった、生の在り方を脅かしている事柄について、政治哲学や経済哲学、そしてエスノメソドロジーやメディア分析を通じて社会学的に論じている。
角崎洋平「扶養義務を果たさない扶養義務者の不動産相続は不公平か?―要保護世帯向け不動産担保型生活資金貸付の問題点」は、まさに第一部で取り扱われてきた規範理論を共有しながら、生活保護を受けるかどうかの線上を暮らす高齢者およびその親族の生を脅かす問題に取り組んでいる重要な論文である。近年、生活保護における親族の扶養義務を強化する方向への制度変更がなされた。角崎論文は、この制度変更を先取りするかたちで導入された「要保護世帯向けの不動産担保型生活資金貸付」の問題点と、その導入経緯における「公平性」概念のはらむ問題点を的確に指摘している。「公平」に配慮しているような論法で実際には平等な生存の在り方を脅かす事態が進んでいくという現象は、この制度導入に限らず、さまざまな場所で散見されうるものであろう。
谷村ひとみ「熟年離婚女性の生活のリスタートと娘役割の連関―もたらされた同居介護の経済効果と想定外の葬儀・供養費用負担」は、熟年離婚後のシングル女性の生きづらさを、当事者へのインタビューをもとに介護負担と経済的脆弱さとの関連から検討した論文である。熟年離婚後のシングル女性は、自らの老後への準備を行なうと同時に、老親の介護や見取りを行なっていく状況にある。それぞれに異なる状況にある当事者の語りを、谷村は介護負担や就労状況、そして他の親族等の有無などの「条件」から分析していく。とくに老親の介護については介護保険である程度まかなえるが、経済的脆弱さをかかえる離婚後のシングル女性にとっては葬儀費用の負担が大きいものであり、自らの老後の準備としての貯蓄を失う結果となっているという指摘は興味深い。角崎論文と併せて、経済的脆弱さとともに老後を向かえる人びとの生がいかなる仕方で脅かされているのかが示されている。
倉橋耕平「『保守論壇』の変容と読者の教育―90年代出版メディア編成と言論の存在様式の視点から」は、90年代以降の歴史修正主義が伸長してきた場となったにもかかわらず、充分に検討されてこなかった「論壇誌」について、その形式から「公共的議論の場」であることが目指されると同時にサブカル化していった過程を検討する論文である。論壇誌の販売部数は減少の一途をたどり、読者からも乖離しつつあった状況下で、『正論』誌が、他の商業誌では以前から行なわれていた読者欄を増やして読者との「対話」を行なっていく戦略を採用することで発行部数を増やしたこと、そして小林よしのりもマンガ内に読者の反響を取り入れて記述していったという指摘は興味深い。ある意味では、保守論壇誌はその受け取り手としての「公衆」を捉えつつその発信を引き出すことで、相互に対話のなかで歴史修正主義的な言説をつくりだしていく「場」になったということになるだろう。そうであるとするなら、中倉論文でも触れられている、学術外の聴衆に向けた対話の重要性を指摘するパブリック・ソシオロジーの意義と併せて考えたい課題である。
藤原信行「自ら命を絶つ者は不幸でなくてはならない―突然死した者を自殺者と同定する過程をめぐる規範的秩序と実践」(以下藤原論文)は、不可解さの残るある人物の突然の死をめぐって、特定のやり方で「不幸」が語られ、「自殺者らしい生活史」が構築されていったなかで、その不可解さは後景に退き、自殺として認識されるようになっている状況を、初期のエスノメソドロジーの知見から明らかにしている。

「第3部 書評・資料読解」所収の2本の書評と1本の資料読解は、それぞれに重要な資料や書籍を検討することで、規範意識の検討や、規範と客観性をめぐる新たな動向の検討、資料にもとづいてタブーとされてきた問題へ取り組むなど、充実した内容となっている。
櫻井悟史「日本陸軍軍法会議とBC級戦争犯罪裁判の結節点―坂田良右衛門による『クラチエ』事件調査」は、近年発見され公開された軍法会議や戦争裁判に関する坂田良右衛門の『法務関係拙論集』について、とくに昭和20年8月15日以降に発生した「クラチエ事件」という冤罪事件を中心に取り扱った興味深い論考である。フランス人を殺害した上官をかばうために部下が身代わりとして軍法会議にかけられ有罪判決をうけたのち、あらためて戦争犯罪として裁かれた人物の数奇な運命について坂田が調査し、冤罪であることを立証しようとしたが断念せざるを得なかったことを克明に記している。戦時から戦後への移行期、従うべき規範が激変したなかで、生存が脅かされる出来事が生じていたことを見て取ることができる。また今回の櫻井論文では紙幅の関係上この一つの事件だけを論じているが、この資料の豊かさは、研究会での報告でも十分に感じ取ることができた。まだまだ興味深い事実がこの資料から明らかになるであろう。今後のさらなる研究成果が期待できる。
安孝淑「【書評】『われらは差別に賛成します―怪物になった20代の自画像』」は、韓国の若者のあいだで「自己啓発」が非常に流行し、努力の結果としての学歴と就職があるといった価値観が共有され、低学歴の人への差別的扱いを本人の「努力不足」だから当然であるといった仕方で受け入れるようになっていることを、インタビューによって提示した著作の書評論文である。日本語でいう「自己責任」と近い規範意識が韓国の若者にもあることが示されている。安によれば、著者のオ・チャンホは、このような規範意識の背景には、就職難によって競争が激化したなかでのアイデンティティ形成を挙げている。安はこの差別肯定を、メルヴィン・ラーナーの「公正世界信念」との親近性を指摘している。自己啓発を行えという圧力が低下し、諦めが支配的な世界に移行しつつあるなかでも差別肯定的な状況が変わらないとも安は指摘している。このような生存を脅かすような規範意識がどこから生じてくるのか、自己啓発以外の回路を探求する安の姿勢は重要であろう。
安部彰「我々の道徳的ポテンシャルの可能性と限界―来たるべき倫理のために」は、J・グリーン著『モラル・トライブズ―共存の道徳哲学へ』(竹田円訳、2015年、岩波書店)の書評論文である。安部によればグリーンは心理学や認知神経(脳)科学などの知見をふまえて「実証科学としての倫理学」を論じる気鋭の研究者である。安部論文が適切に紹介しているように、中倉論文でも取りあげられた倫理的自然主義としての功利主義の立場をとっているといえるだろう。科学的知見に依拠した多くの知見が提示されているが、とくに興味深いのは、コモンズの悲劇から転用した「常識的道徳の悲劇」や、人間が道徳的判断をせまられたときに、直観的に迅速に意思決定できるオートモードと、論理的な思考を司るマニュアルモードがあり、それぞれの倫理問題の提示の仕方によってどちらが優勢になるかが異なるといった指摘である。このオートモードとマニュアルモードの適切な使い分けによって、生存を脅かす事態から少しでも免れることができるかもしれない。
以上、ひじょうに粗い仕方ではあるが本報告書に収められた各論文と全体の関連について述べた。生存をめぐる規範と秩序について、まえがきでも書いたように、一緒に議論しているのが不思議なくらいにさまざまなディシプリンの人間があつまり、研究を続けることができた結果が本書である。ほとんど何も言わなくても短期間のうちに充実した論考が次々に集まり、メンバーの力量に驚かされるばかりであった。編者としては幸せな体験であった。本書を手にとってくださった方に共同研究の喜びが伝わることを願っている。