第2部 生存を脅かす秩序 3 「保守論壇」の変容と読者の教育 ―90年代出版メディア編成と言論の存在様式の視点から

生存を脅かす秩序

「保守論壇」の変容と読者の教育
―90年代出版メディア編成と言論の存在様式の視点から

倉橋耕平

はじめに

2010年代に入り、「論壇」をめぐる研究が増えてきている(竹内 2011、上丸 2011、根津 2013、竹内・佐藤・稲垣編 2014、大澤 2015など)。とはいえ、これまでの同分野の研究蓄積は、まだまだ少ない(竹内・佐藤・稲垣編2014: 312)。とりわけ、先行研究では「論壇」の成立期と特定の媒体のマクロな変化を、特集されたテーマや知識人の動向や、創刊時の歴史経緯に着目する形で言及する歴史研究が多い傾向にある1。そして、その対象時期も成立時期から1970年代までに限られ、回顧的に記述されるものが中心となっている(田中 1999: 193、奥 2007: 225)。
他方、近年の「論壇」に着目する研究はほとんど存在しないが、2000年代に焦点を当てた検討が徐々に登場している(樋口 2014、能川・早川 2015)。それらは、現在の「右派・保守論壇」の言説と排外主義(ヘイトスピーチ)との関連で論じられてきている。例えば、樋口直人は、現在の右派言説や排外主義言説は、マンガやインターネットのサブカルチャーを背景としていることを指摘している。そして、それらサブカルチャーは保守論壇誌と参照関係にあり、かつ排外主義が運動への動員の言説機会として近隣諸国との歴史認識問題など1990年代中盤以降右派・保守論壇で取り上げられた話題を利用していると分析している。確かに、アジア諸国への憎悪の言説(近隣諸国との摩擦論)が、論壇誌やサブカルチャーに現れる時期は揃っていると指摘されている(樋口 2014: 67, 143-162、上丸 2011: 274-298)。
そのように見れば論壇誌研究、ならびに右派・保守言説研究において90年代という時代は現在に連なる右派・保守言説のあり方を検討するためにも重要であると言える。しかしながら、90年代の「論壇」を扱ったものは管見の限り存在しない。と同時に、いわゆる総合誌・論壇誌というカテゴリーにおいて、90年代は「保守論壇」誌が、『中央公論』のような戦前から続く総合誌を凌駕する発行部数を誇っていた時期である。この理由の解明はいまだ未着手の状態である。
では、90年代右派・保守論壇誌がいかなる形式の「言論の場」であったのか。この点を検討するのが本稿の目的である。便宜上、以下ではすべて「保守論壇」という呼び方に統一しておこう。
本稿ではこの問いに対して、論壇への「自己言及を行う言説」と現存する保守論壇誌『正論』を中心的な検討対象として、その質的変化を抽出する。『正論』を取り上げる理由は、90年代歴史修正主義の議論をリードした産経新聞系列の総合誌・オピニオン雑誌で、90-00年代半ばに発行部数の全盛期を迎えた雑誌であり、かつ現存するため、通時的変化を追い求められるメディアだからである。さらに、当時併存した論壇誌・総合誌の中ではもっとも自己言及を行ったメディアだからである(後述)。
これらを対象とし、上記の問いに応答するために、レジス・ドブレの言葉に倣ってメディア論の言語で言い換えれば、本稿では「メディオロジー(=高度な社会的機能を伝達作用の技術的構造とのかかわりにおいて扱う学問)」と呼べるアプローチを採用する。すなわち、言説の存在様式としてのメディアが、社会のなかで制度や空間配置などを利用してどのような位置取りをし(メディアの社会編成)、言説形成の過程でいかなる機能を果たしたのかを問いの中心に据えて対象を検討していく2。
本稿では、第1節で論壇を分析する視座としてのメディア論のアプローチをまとめた上で、90年代の事例を検討していく。とりわけ、ここでは「論壇」が「自己言及」を行う再帰的システムを実践するメディアであることが抽出され、それを90年代に最も多く行った大塚英志(マンガ編集者・原作者、批評家)の言説を検討していく。第2節は、「読者」に焦点を当てて論壇の自己言及に読者が参与していく様子を読者投稿欄に着目して記述する。そして、適宜背景となっている情報も参照しながら、かつ大塚の言及を批判しながら、同時期の「論壇」の実践がいかなるものか検討する。
以上の検討から、本稿は90年代論壇において、論壇がサブカルチャーまたはアンダーグラウンドカルチャーへと接近したものの、メディアの形式としては「論壇(=正統性のある高級文化)」であり続ける社会的規範のなかで、自覚的に読者を「教育」し、商業的に巻き込んでいく姿を抽出する。

1.「論壇」と自己言及

1−1.「論壇」メディア論
90年代の「論壇」に対象を設定して、その「論壇」がいかなる言論の場であったのか、と問うに際して、まず「論壇」と呼ばれるものに確固たる定義があるわけではないという難点に突き当たる。しかし、それがいわゆる「学会」ではないことには了解があるし、「文学」でないことにも了解がある。すなわち、自律的な評価(=ギルド的評価)を重要視する学問や芸術とはその性格を異にしている「言論」のあり方を指すという了解があるだろう。
概ね「論壇」と言われれば、A5判平綴じの「総合雑誌」と呼ばれる雑誌ジャーナリズムに掲載されるものがイメージされるだろう。すなわち、「論壇」と呼ばれるものは、流通する商品として存在することになる。しかし、その書き手たる人々は、アカデミア出身者も多く、それゆえ過去の研究では「知識人」や「戦後の教養」といった視点から論壇誌は言及されることが多かった(典型例が竹内洋)。
こうした事態は、雑誌ジャーナリズムが定着した1930年代から今に続く。日本の高等教育改革が1918年に始まり、そこから20年の間に大学数は9倍に増える(5→45)。こうした背景が、知的なものの大衆化を推し進め、ジャーナリズムの供給と書き手の需要を高めていく。こうした流れの中で、大学人とジャーナリズムを接合し、制度化していった初期総合雑誌が生まれる。『中央公論』がその最初期のものにあたる(1899年創刊)。とりわけ、吉野作造が大正期に寄稿したのをきっかけにアカデミアからジャーナリズムに寄稿する書き手が増えたとされている。そして、1930年代の「円本」ブームで出版界は活況を呈し、多くの書き手を必要とした。これによって大学知識人に対して「ジャーナリズムにおける評価」という新しい基準が導入されることとなった(田中 1999: 180-187)。
すなわち、総合雑誌における「論壇」というものが、ブルデューが言うところの、商業的価値が重視され、文化消費者の評価に価値を置く「大量文化界」として成立していく。これと対立するのが文化生産者の評価を重要視する自律的空間である「限定文化界」である。竹内洋はこの図式を発展させ、二つの界の合流地点にある「論壇」はより正確には「中間文化界」と呼べるものだと指摘している(竹内・佐藤・稲垣編 2014: 5)。
このようなまとめは妥当と言えるが、すでに述べたように、先行研究においては、特定の知識人に着目し、「論壇で何が語られたか」ということに着目することが多いため、「論壇」を雑誌ジャーナリズムの言論として自明視、あるいは無定義に「論壇誌」と呼ばれる雑誌を扱う研究が多い(例えば、上丸 2011、竹内・佐藤・稲垣編 2014)。そして、それを知的なものの所在の変遷を問う指標として見る傾向が強い。
しかし、こうした先行研究はある側面の片側しか見てない。すなわち、教養主義的アプローチは、言論の存在様式としての「論壇」がどのような性質のものか解明できていないばかりでなく、「論壇」がいかなる商業空間の社会力学(出版文化など)の中に置かれているのかもまた明確にできていない。ハーバーマスの議論を借りれば、そうした商業的媒介は、一方で言論を公権力からの自由を獲得し、「一般に近づきうるもの」にしたが、他方で消費物にもした(Harbermas 1990=1994: 217-221)。とするのであれば、検討されるべきは、言論・言説の存在様式=メディアを支える社会的編成のあり方ではないか。
この点に関し、一定の回答を与えている先行研究が大澤聡のものである(大澤 2015)。言論が「商品」である以上、その言論は、読者の反応を意識したものとなり、その言論の中身も、その言論を入れる外的価値も特定のフォーマットに編集(編輯)されたものとなる(大澤 2015: 22)。そして、出版が大衆化するとその言論を追いきれなくなるため言論ダイジェスト(レジュメ)としての「論壇時評」が作られていく(大澤 2015: 46-55)。
しかし、そこでは同時に、「論壇」それ自体が自己言及の対象にもなっていく。「論壇時評」が「論壇」の不定形な輪郭を描く。すなわち論壇誌は、その存立初期の時点から、常に「再帰的」なメディアであり、常にメンテナンスを期待されるメディアであった。「それゆえに、論壇の自画像はどこまでも相対的で暫定的なものにとどまるだろう」(大澤 2015: 70)。言い換えれば、その自己言及で語られていることが論壇的事象であり、そこで語られている人物が論壇構成員となる。そして、その内部外部の差異、ジャンルの壁が自己言及的に取り払われ、「綜合」していくのが日本の論壇誌の性格的特徴である。

1−2.90年代「論壇」への自己言及
以上のように、「論壇」はメディア形式として、常に「自己言及」「再帰性」「メンテナンス」の可能性に開かれている性質の「言論空間」または「言説様式」だった。では、大澤が検討した1930年代と現在は、形式上は違うものになっているだろうか。そんなことはない。現在でも「論壇時評」は新聞、雑誌で継続され続けている。他方で、マスコミ報道については雑誌ジャーナリズムが批評を行うという「コミュニケーションの様相」に対するコミュニケーションもまた継続されている。
ならば、本稿の対象である90年代「論壇」はどのように自己言及されたのだろうか。ここではまず90年代末から00年代初頭に90年代「論壇」を振り返る自己言及を行った大塚英志の言説から状況を検討してみたい。
なぜ大塚なのか。大塚は80年代末にいわゆる総合雑誌・論壇誌に執筆を始めたマンガ編集者・原作者であり、評論家である。大塚の言説が重要なのは、①90-00年頃に最も多くの論壇自己言及を書いた執筆者であり、また②連載を含む論壇の執筆本数でも最も多くの原稿を書いた批評家の一人である(例えば、この時期に限定すれば「新しい歴史教科書をつくる会」の西尾幹二と数量上大差がない)。そして、③従来の「論壇」の執筆者といえば、大学教員、ジャーナリストが中心であったが、マンガ編集者・原作者というサブカルチャー出身の書き手であったという3点にまとめることができる。とりわけ、(後述するが)③は大塚がそもそも「論壇」の外部の存在であったがために捉えた違和感が大量に語られていることを示している点において重要である3。

では、大塚はどのように「論壇」を語ったのだろうか。
これを検討していくために、引き合いに出しておきたいのは『読売新聞』の記事である。『読売新聞』は1995年、96年に論壇誌をめぐる記事を三度掲載している(1995/8/22、11/27, 28、1996/11/23)。いずれも戦後知識人と戦後論壇の論点を軸に記述され、「論壇」の力の低下を認め、復権が求められている、という論調で書かれている。そして「いずれも、そうしたなかで進歩派の退潮が進み、保守・現実派の論調が優勢になってきた〔中略〕その背景として、大学紛争後のシラケ・ムード、経済発展と社会の成熟による人々の脱政治化、テレビなど他メディアの隆盛―といった要因が考えられる。また進歩派の後退には、ソ連や中国の実態が明らかになり、社会主義(国)へのあこがれが希薄化したことも大きく作用しているだろう」(『読売新聞』1995年8月22日朝刊特集11頁)と述べている。
しかし、同時期に執筆を続けていた大塚英志が感じていたことは、そうした社会情勢と論壇の関係ではない。大塚が感じていたのは、ある種の「論壇」の気味の悪さである。それは「プロとアマの境界が一番ボーダレスな場所だったんですね。〔中略〕わりと手を抜いて書けて、実はお前は誰かって問われないで入れちゃうのは論壇じゃん、みたいな」(大塚・上野 1998: 11)という自身の立場の曖昧さにある。
そして、この曖昧さは、大塚がフリーのマンガ編集者だったことに由来する。編集者大塚英志にとって、論壇誌は「発行部数一つとってもどちらかと言えばカルト誌に近い」(大塚 2001→2005: 11)ものであり、なおかつ赤字採算(出版社による赤字補填)であることが大きな疑問とされる。大塚はこう述べる。

確かに言論や文学というものは金銭に換算出来ない価値がある〔中略〕けれども資本主義という社会システムの中で大半の表現が経済原則の中で否応なく淘汰されていく中でそのルールの適応外という特権を手に入れられるにはやはりそれなりの根拠が必要であるとぼくは思う。ぼくが何より「論壇」に問いたいのは実はこの点だ(大塚 2001→2005: 15)

そもそも雑誌として採算を失うということは売れない、というこうとであり、それは読者との関わりを失うことを具体的には意味する(大塚 2001→2005: 16)。

すなわち、大塚にとって、90年代の論壇はすでに「特権」を失っているように見えるにもかかわらず、かつ「読者」のいない論壇誌が今なおさも特権があるかのように振る舞える理由はなにか、という点が重要となっている。
大塚がこうした経済的観点から「違和感」を述べることができたのは、「ぼくがサブカルチャーの作り手として読者に支持されなかったら即連載打ち切りという業界で日々生きていたからかもしれない」(大塚 2001→2005: 169)という点に代表されるだろう。
以上のように、大塚の立場は論壇誌を経済的視点からみるものと言える。「現在論壇で何が語られているか」を焦点とする他の「論壇時評」と、大塚の「論壇」に対する自己言及の語りが決定的に異なるのはこの点である。
もちろん大塚がこのように語るのは彼の出自だけが理由とは言い難い。1980年代末に「雑高書低」になった日本の出版界は、キヨスクルートやコンビニエンスストア(CVS)など、販売ルートの変化を経験し、販路も販売速度も大きく変化する(村上 1984, 1988)。その過程で、いわゆる「硬派系」と呼ばれた雑誌ジャーナリズムは旧来の論壇誌に限らず、『Bart』(集英社、1991年創刊、公称11万部)、『Views』(講談社、1991年創刊、公称11万部)、『This is読売』(読売新聞社、1990年創刊、公称10万部)、『SAPIO』(小学館、1989年創刊、公称20万部)、『マルコポーロ』(文藝春秋社、1991年創刊、公称20万部)など、CVS販売で30代男性をターゲットとしたA4変形判のページの少ない「国際派ビジネスマン向け」「国際情報誌」の月刊または隔週刊のビジュアルマガジンを登場させた4。すなわち、新しいメディア形態に移行したこと、「論壇」そのものの多様化がなされていったとも考えられる。そして、商業性の強いルートに硬派雑誌ジャーナリズムが進出したことにより、雑誌メディア全体への文化消費者による評価の価値が相対的に増した、と言える。だが、上に挙げた硬派系ビジュアルマガジンも96年以降『SAPIO』を除き市場論理によって淘汰されて軒並み、廃刊・休刊に追いやられる。
こうした雑誌群の出版環境のなかでフリーの編集者であった大塚にとって、大手出版社の論壇誌ほど経済的に不効率な生産(原稿料が高い、社員編集者が多いetc)を行っている雑誌は他にないように見えたのは当然だろう(大塚 2000: 180-183)。

では、このような文脈のなかで、論壇が経済論理から免れる「特権」を有していたか。大塚はその特権の根拠に一定程度違和感を感じていた。それを前提に大塚は論壇の変節を指摘している。
大塚の感性からすれば、90年代の論壇は「サブカルチャー」と捉えられ、かつ彼はそれに「気持ち悪さ」を感じている(大塚 1997, 2001→2005, 大塚・上野 1998など)。大塚の文章や語りは断片的に展開されているので、「サブカルチャー」に対する明確な定義があるわけではないが、それらをまとめると、まず①ルーツや文脈を保持せず(大塚・上野 1998: 9-14)、②それゆえに、記事単体で消費できる「雑報」(ロラン・バルト)であることを指している。ここでは、大塚の説明が「サブカルチャー」という言葉の本質を言い当てているかどうかは、一旦棚上げしておく。むしろ大塚が「サブカルチャー」という言葉を使って論壇の何を説明しようとしたのかが重要である。
大塚は「論壇」を「サブカル」と喝破し、何を語ったのか。大塚は、「おたく系文化人」が出自を問われず専門外のことを言論にできる論壇誌の環境は、「おたくでも入り込めるほどに敷居が低」く、その理由を「ここがサブカルでしかないからである」(大塚 1998: 219)と述べる。大塚にとってその典型例は、1996年に「慰安婦」問題をマンガにし、廃刊寸前の『SAPIO』を救った小林よしのりの論壇への参入である5。すなわち、「小林さんという身体自体がサブカルチャー化した論壇とか、サブカルチャー化した事態の象徴みたいなもの」(大塚・上野 1998: 15)であり、「論壇の戯画」(大塚 1998)として受け取られている。すなわち、大塚は「おたく」「サブカル」「マンガ」が論壇に入っていけるほど、論壇の価値は失墜していると感じていた。
そして、同時にそれでも論壇が世論をリードしてしまっている現状に危険性を語っている。上記のように「論壇」を捉える大塚にとって、小林が参入していった教科書批判ならびに歴史修正主義の運動を危ういものとして何度も繰り返し言及する対象となる。大塚が指摘するのは、歴史修正主義が、単なる歴史教科書への違和感を発端に屈託なく従来の保守の言葉と接合してしまい、かつ小林と簡単に合流し、言論の消費物化が加速する危うさへの無頓着さだった(大塚・上野 1998: 10-13, 2001→2005: 17-20)6。彼はそれゆえに「小林よしのりが語っているのは言論ではなく、サブカルとしてのまんが」(大塚 1998: 218)であり、「小林さんは教科書批判あきちゃったら別の場所に行く」(大塚・上野 1998: 13)と保守を批判する。歴史の後知恵からはこれは慧眼だったことがわかる。事実、小林は新しい歴史教科書をつくる会からは離れていったからだ。こうした論壇の実態を、大塚は「際物」「サブカル」「トンデモ本」「雑報」と手厳しい言葉で繰り返し表現した(それゆえに、西尾幹二や大月隆寛を激昂させることとなる)。

ここまで大塚が「論壇」に対して語ってきたことをまとめると、読者がいないにもかかわらず「論壇」が特権を保持し続けている根拠は今日あるのかという関心に対し、論壇の現状は「サブカル」状態になっているにも拘らず、「論壇」と呼ばれているものが未だに特権を持っているかのように扱われ、それが人々の世論をリードする(=メディアに多く出て、知識人として振る舞う)危険性がある、という主旨になるだろう。それゆえに、大塚は「公共の場として論壇の再生」を随所で主張する(大塚 1999: 193, 大塚 2002: 278-281)。
では、具体的に大塚はどのようにして「論壇の再生」がありうると考えたのか。大塚は、それを1つの方法で実践してみせた。2001年『中央公論』10月号にて、大塚は編集に介入し、「読者参加型企画 夢の憲法前文を作ろう」という特集を立ち上げ、話題となった。この企画から見て取れるように、読者のいない、読者の見えない論壇に対して、読者に届く言論として、そのコミュニケーションの帰結(=言論の届いた読者の姿)を提示することが大塚の採った方法であった。なぜ大塚はこのような手法を採用したのか。大塚は、マンガ編集者時代から読者欄を充実させることをすでに行っており(大塚 2001→2005: 172)、かつ論壇誌においても成功例があったからである。大塚は他誌を参照してこう述べている。

 『正論』の部数が上を向いてきたのと同誌の巻末の読者投稿欄の充実は、僕の印象では、比例しているように思えるのだ。/他誌が投書欄を申し訳程度に二、三頁掲載しているのに対し、同誌だけはスペースも雑誌の総頁数の一割以上を占める(大塚 2001→2005: 172)。

事実、大塚の指摘の通り、『正論』は大塚が論じた2001年頃を前後して、過去最高の発行部数に到達している(それでも公称15万部なのだが)。だが、総合誌・論壇誌というジャンルの雑誌が軒並み販売部数を下げ、廃刊していくなかで、唯一右肩上がりだったのが産経新聞社の『正論』だった。
ならば、90年代を代表する保守論壇誌『正論』は、いかなる「言論の場」として機能したのか。

2.読者の「教育」―読者コーナーのメディア論

2−1.読者コーナー10%の形式―読者投稿欄で何が行われたのか
『正論』の公称発行部数は、90年代初頭に10万部台に乗り、2004年まで15万部ほどの発行部数となっている(『雑誌新聞総かたろぐ』)。この好調期は、すでに数多くの指摘があるように大島信三が編集長だった時期(90-06年)とちょうど重複している。彼が編集長であった時期、すなわち冷戦構造崩壊以降の90年代保守論壇の言説は、中国・北朝鮮などの近隣諸国問題、「慰安婦」問題、歴史修正主義、反日言説、反左翼言説などが中心となった(樋口 2014: 150-158, 上丸 2011: 274-298)。しかし、その一方で掲載される言説内容が、「事実に基づかない」(中野 2015)「愚者の楽園」(山崎 2013)「空想」(上丸 2011)「脳内『大東亜戦争』」(能川・早川 2015)と批判されていくのも同時期以降となる。

さて、前節で見たとおり大塚は、2001年の段階で読者投稿欄の充実を指摘しているが、正確には1998年の段階で『正論』の読者投稿コーナーの総ページ数は全約400頁のうち10%に到達している。その方法は他の論壇誌とも全く異なる様相を示している。
では、『正論』の読者投稿のコーナーは、どのような展開をたどったのか。『正論』の読者コーナーは大島が編集長に着任すると同時に設置された。まず、それまで編集後記の横につけられていた読者の声を、「読者の指定席」(=600字の読者投稿)として1990年6月号から設置し、徐々に拡大していく(06年3月号まで継続)。それだけではなく、1993年12月号から「編集者へ、編集者から」(=読者−編集者対話コーナー)、2000年10月号から「ハイ、せいろん調査室です」(=読者の疑問に執筆者・読者・編集者が応答するコーナー)を設置し、同3コーナーで50頁を超えることも少なくなかった。
同コーナーは、人気を得て、誌面から伺い知れるところでは、92年7月号では、100通前後の投書があることが編集後記で触れられている。93年に読者コーナーを増設したのもこうした投書の増加にあると考えられる。94年には特定のテーマに投稿が集中した時は「投稿特集」として扱い始める。そして、95年11月号編集後記では「三年前と比べて二倍は増えている」と述べられ、好調ぶりがうかがえる。
読者投稿は、①掲載論文への感想・賞賛・異論、②読者の体験記・日常の出来事、③編集への異論、④投稿欄への自己言及、⑤投稿欄内の読者同士の論争という5つの傾向に分類することができる。
これに対して他誌に類を見ないこの読者コーナーの特徴は、編集後記ならびに「読者の指定席」の末尾につけられた大島編集長の「投稿を読み終えて」という投稿への反応・応答が示されている点である。大島はこのコーナーを利用して、柔軟に思いつく企画を試している。例えば、投稿テーマを決めて募集をしたり、「同じテーマの投稿が集まったときは、特別編をつくりましょう」(95年12月号)と投稿を促したり、特定の投稿者を何度も取り上げたり様々なことを行う。とりわけ、95年9月号より、形式が安定しており、この「読者の指定席」の最後に掲載される読者投稿へのリプライが「投稿を読み終えて」に掲載される方式の多用を採用する。こうして見開き2ページにわたって右頁の投稿と左頁の編集長の言葉が、ちょうど応答関係になるように配置されることとなった。以後この対話形式でこのコーナーは安定する。

言うまでもなく、こうした「投稿」は編集者の取捨選択によって成り立っている。その方法次第で同コーナーや同誌の立場や方向性を示すことも可能だろう。では、大島はこの読者投稿欄における投稿者の取捨選択や投稿者との対話形式を用いることで何を行っていたのか。要約すれば、次の3点が指摘できるだろう。①読者投稿と誌面編成の循環、②読者投稿の独立コンテンツ化、③投稿者・読者の教育、の3つである。

①読者投稿と誌面編成の循環
大島は、94年1月号で、読者投稿を独立した特集として掲載したことを公表し、かつテーマ投稿を募集し始める。このようにして、読者投稿を積極的に論壇誌のコンテンツとして取り入れることを始める。こうした読者投稿と紙面のコンテンツは常に循環関係を持って扱われることになる。
94年12月号では、「埴生正見氏の『元小学校の記録―貶められた日の丸』に関する投稿が十通を超えました。/実はあの長文の原稿は、本欄への投稿をみて、埴生氏に執筆を依頼したものです。四百字原稿用紙一・五枚の文章が三十枚となって読者の心をどよめかした」と読者投稿由来の依頼原稿を掲載する。そして、それをきっかけに次号のテーマ投稿は「校長から見た教育現場」として関連性を持たせた募集を読者に投げかけている。
同様に、「林健太郎氏と小堀桂一郎氏の侵略戦争論争も、いわば読者投稿が発端となっています」(95年9月号)、「同じテーマの投稿が集まったときは、特別編をつくりましょう」(95年12月号)と何度となく、読者投稿を煽り、読者投稿を誌面構成のきっかけとして用いることを試みている。

②読者投稿の独立コンテンツ化
こうした姿勢は、この「読者の指定席」それ自体を独立・自律したコンテンツとして活用する姿に現れている。
第一に、大島は、「読者投稿」それ自体への言及と論争を読者投稿欄で演出する。95年9月号には、「『読者の指定席』は『正論』の翼賛会」という読者投稿欄への批判的意見を取り上げ、次号、次々号でこの投稿への異論を掲載する。
同様に、「読者投稿は社の方針に沿うべきではないか」(97年3月号)という意見を掲載し、次号で関連投稿を掲載する。これに対し、大島は「『読者の指定席』は読者の意見の公開の場であり、本誌の編集方針を示すところではない」(97年4月号)ことや、「本欄ではこれまで掲載論文に批判的な意見を意識して取り上げて」きたこと(95年9月号)を述べ、ここが読者の議論の場として独立した「アジール(=言論の自由空間)」であることを強調している。そして、「これからも論戦を仕掛けましょう」(95年11月号)で読者をアジっている。
第二に、読者投稿欄の活性化手段をも読者投稿に委ねている。98年9月号では、「このところ、『読者の指定席』への投稿が以前ほど多くありません。〔中略〕もう一度、『指定席』に活況を呼び込むにはどうしたらよいのか。なにかいい案がございましたら、教えて下さい」と読者に呼びかけ、次号でこの呼びかけに8人からリプライがあったことを紹介する(内2本を掲載)。
こうした試みによって、絶えず熱心な読者を作り出し、読者を可視化させていった。そうした手法により、読者投稿が論壇に付随的なものではなく、「独立した/自律したコンテンツ」として読者に消費される仕組みを構築していったと考えられる8。
また、それをある程度意識的に行っていると思われる。大島は、91年4月号編集後記「編集室で」では、「(引用者注:世論について)テレビよりもはるかに影響力があるのは大新聞の投書欄である。投書を選択する担当者は誰にも悟られず、かつ思いのままに他者の意見を用いて読者に訴えることが可能である」と述べている。すなわち、編集者にとって「読者」を選択することそれ自体が、「編集」となるメディアの形式を自覚的に論壇誌にも適用しているのは間違いないだろう9。

③投稿者・読者の教育
以上のように編集−読者の関係を構築しながら、そこに対話だけではなく、読者・投稿者を「教育」する機能も担ったのが、この欄の特徴である。他誌への二重投稿の禁止の呼びかけに始まり(92年7月号、93年7月号、94年4月号など)、「編集者というのは、なかなか隅に置けない人種ですから要注意。はっきりいって、初めての投稿者を優遇したい。ときどき『初めて投稿します』と書いてくる人がいます。あれは正解。二度でも、三度でも採用されるまで、この殺文句は使ってよろしいでしょう」(96年4月号)、「名文を書こう、『正論』誌への投稿だから、それらしい内容にしよう、などと意識してか、肩に力を入れすぎた投稿があります」(97年11月号)といった具体的なアドバイスや、「九月号で紹介しましたが、この会の学生十三人が集団投稿をしてきました。〔中略〕ただ、いつも全員ボツになってはアイデア倒れ。そこで採用される工夫が必要です。みなさんの文章はかたい。血が通っていない。/まず肩の力を抜くこと。自分の恋人に語りかけるように文章に艶を持たせること。抽象的な言葉を少なくして自分の体験をさりげなく差し込むこと。身近な問題を取り上げること」(00年2月号)など、投稿が掲載されるための「知のトレーニング」としてこの場を位置づけ、「ときには有能な新人、あるいは読者の寄稿文も載せて、論壇登竜門の一助になれば」(98年11月号)と考えていたことがうかがい知れる。

2−2.考察
以上のような大島信三編集長の確立した読者投稿のスタイルは、編集-読者の共犯的サイクル(読者が気になっている話題を直接誌面に反映させる)を生成し、なおかつ読者投稿自体を独立したコンテンツとして熱心な読者を取り込み、活性化させるために、対話と教育を施す編集手段であった。
では、「論壇」や「言論」の力が低下したと評されるこの90年代において、大塚や『正論』の実践はどのようなものとして理解できるか。最後にこの点を検討しよう。
そもそも、大塚は「公共の場としての論壇」の再生を主張していた。しかし、彼の行った読者参加型の企画は、いわゆる商業的出版の分野において彼が実践してきたことの論壇版であったということができるだろう。大塚の実践は、商業的淘汰の適応外になる「特権」の根拠を、商業的手法(読者の参加)によって埋めようとする行為になる。すなわち、書く読者、語る読者の形成によって商業的淘汰の適応外になる論壇の重要性を主張したと解釈することができるだろう。
このような大塚や大島の実践手法はオリジナルなものと捉えられるか。そうではないだろう。「雑高書低」となる1980年代の出版市況において、商業出版では「読者投稿」の自律コンテンツ化という現象は数多く起きていた。例えば、1985年に『宝島』に「VOW」のコーナーが設立され、87年に単行本化される。『週刊少年ジャンプ』では、『ジャンプ放送局』(1982-95)が1984年にコミックス化されている。糸井重里の『萬流コピー塾』(1984年)、中島梓の『小説道場』(86年)も読者投稿への添削を単行本化したし、他にも、『ファミコン通信』の「ファミ通町内会」、『週刊SPA!』の「バカはサイレンで泣く」もまた同時期に人気を博し、さらに80-90年の間続いた「ビートたけしのオールナイトニッポン」にて「ハガキ職人」が登場したという雑誌やラジオなど比較的小規模メディアにおいて、同様の手法は数多く存在した。
すなわち、同時期には、「読者」を情報の受け手・消費者として位置付けるだけではなく、主体的な情報行動を伴う存在として、コンテンツの製作者の側に包摂していく潮流が生じていた。そうしたコンテクストにおいて論壇誌で唯一読者を同様に用いたのが『正論』であり、同時期に部数を伸ばした。
だが、論壇は上記のような「サブカルチャー」ではない。その接点のようなものはどこにあるのか。そこで補助線として考えてみたいのは、やはり小林よしのりの手法である。小林よしのりは『ゴーマニズム宣言』の初期(第18章)から読者からの手紙を自身の作品で活用している。その手法が変化し、かつ彼が論壇に入っていく時期が転機と思われる。小林は『SAPIO』1996年8月28日・9月4日号(vol.8 no.15)の『新ゴーマニズム宣言』で初めて「慰安婦」問題を扱う。そして「慰安婦」問題に言及した2回目で、「読者参加型でいく」と小林は明言している(第26章欄外上部小林コメント)。そして、同章の「オチ」で「さあ朝日新聞が正しいか?産経新聞が正しいか?/慰安婦がホントに“従軍”なのか?“性奴隷”なのか?〔中略〕我々で結論を出そう!」と宣言する。「我々」で結論を出す、すなわち当初から読者の意見を前提とした言論(空間)の作成が前提となっている。しかも小林は、第29章で、読者意見のうち「強制連行なかった派」が8割と述べている。その8割に合わせて小林は作品を書くため「売れないわけがない」。事実、読者が求めるものを小林は書いたと言っていい。そして、小林もまた『ゴーマニスト大パーティー』と題して、読者からの手紙を書籍としてスピンオフ作品化をしていった。
その小林を1997年に論壇に初めて起用したのが『正論』の大島だった。若い読者が増えていることについて触れ「先日、漫画家の小林よしのり氏とあるパーティーでお会いする機会がありました。『サピオ』誌における氏の漫画、および氏の言論活動が直接、あるいは間接的に本誌にも影響していると思います」(98年2月号)と語っているように、当時の『正論』も小林の言論のあり方・運動のあり方にはいち早く反応していた。
このように論壇とサブカルチャーの接点を当時の動向から考えてみると大塚の論壇を再生させる実践も、『正論』の実践もいわゆるサブカルチャー分野において醸成した手法を論壇のような比較的「高級文化」に近い分野に取り込んだと考えることができるだろう。
しかし、大塚は論壇がサブカルになっていると指摘し、その論壇を再生するためにサブカルの手法を援用することを試みた。とするのであれば、それは、結局大塚がすでに論壇に特権はなく、サブカルとして徹底してないならば、せめて市場論理に近いものになれ、と考えていたと捉えることもできる。
もしそうだとするならば、大塚の行為は矛盾を抱えることになる。第1節でハーバーマスの議論を引いたように、公共圏の拡大に市場は貢献しもするが、それを消費物にも凋落させるジレンマを抱えている。それゆえに、上の大塚の考える理念的な「公共の場としての論壇」への実践の評価も『正論』もこの二律背反に陥る。
しかし、同時に大塚は「論壇の人」がポピュリスティックに消費されることにもまた危惧を抱いていた(大塚 2001→2005: 17-20)。とするのであれば、「論壇誌」が読者の取り込みを行うことにどのような意味があるのだろうか。言い換えてみれば、「サブカルチャー」(の手法)と「論壇誌」が交わることにはいかなる意味があるのか、という問いが生じる。
これに対しては、仮説的だが次のような解釈が可能だろう。それは、論壇誌の持つ規範性に関わる。ロジェ・シャルチエの「書物の秩序」という言葉を借りることができるだろう。すなわち、論壇がサブカル的な手法を用いることは、サブカル的メディア形式と「論壇」という伝統的パッケージの規範性とが、互いに互いを支えあう関係を構成するようになったことを意味する。すなわち、一方で大衆迎合的な編集-読者共同体が「教育」などの手法をとりながら取り入れられていく、他方でそれを「論壇」というメディア形式の規範性がこの構図を支える事態になっていくということである。こうした規範性は、その言説の容器であるメディアの置かれている社会編成上の状況に関わるだろう。すなわち、正統性(legitimacy)の高いメディアが、大衆迎合的な手法を取り入れていった過程が同時期に現れる。そして、その正統性の高さが言説の流通を後押ししていくメディア編成が同時期に醸成していったのではないか。

おわりに

本稿は、90年代保守論壇誌がいかなる形式の「言論の場」であったのかという問いに対し、「論壇」のメディア形式に特徴的な自己言及性(=再帰性)に着目した上で、それを行った大塚英志の言説をもとにメディオロジーの視座から分析を行った。大塚は、論壇の特権性に疑問を抱き、論壇が「サブカルチャー化」していったと論じていた。彼が評価していた論壇誌『正論』の読者の取り込みは、他の論壇誌とは異なり人気コンテンツになるが、それもまた80年代後半のサブカル商業誌の手法を取り入れたものだった。論壇が、サブカル的手法を用いることは、一方で論壇の持つ高級文化の規範性を延命させながら読者を得ていく手法であったと同時に、論壇を消費物にしていくという二律背反があっただろう。これが本稿が資料から導き出せた結論であった。
しかしながら、ここにはまだ検討課題が残されている。それは、こうしたメディア形式の変化が、00年代にどのような変化をもたらす土台になったか、ということである。送り手-受け手間、異種・同種のメディア間でどのような影響があったか、ということはかなり検討の対象にしづらいものである。その上で、今後現状につながるメディア形式の変化を追いながら言説のあり方を検討していきたい。


1 回顧的研究が多い為、70年以降に登場する保守・右派・現実路線の『正論』はほぼ取り上げられない。これは、00年代の研究においても同様であるその理由は、『正論』あるいは産経新聞の言説があまり論理的な支持を得ていないことと関係があるかもしれない。
2 ドブレによるメディオロジーの説明は抽象的だが、言語論的展開以降の記号学(構造言語学)とコミュニケーション学の間を埋めるために、言表が組織化、制度化されていく過程(言説化されていく過程)を描くメディエーション(媒介作用、触媒行為)の事象を扱う学として提唱されている。すなわち、やや大雑把にまとめるのであれば、言説が載せられる組織、制度、社会的環境、技術などの側面に着目する学と言える。
3 社会学者アルフレッド・シュッツはこうした「よその者」の指摘によって、コミュニティの実態が記述されることを分析している。すなわち、内集団は①整合性に欠け、②部分的にしか明晰ではなく、③矛盾から解放されていないが(=実践できているが言語化できていない)、よその者は、別の認識枠組みを持つため、観察者となり、むしろコミュニティのあり方を正確に記述できる側面がある(Schutz 1964=1991: 133-151)。
4 吉見俊哉は、80年代後半からの右派メディアが消費物として流通したことを指摘している。そして、それらはグローバル化と革新的な主張(とくにフェミニズム)への反動を特徴としている指摘している(吉見 2003: 274-276)。
5 倉橋(2015)参照。小林は、単にマンガという表現を使って社会問題に言論的に参入したのではなく、『ゴーマニズム宣言』の単行本が、中身はマンガであるが、流通は書籍として社会に登場したために、ベストセラーランキングに掲載され、顕在化していった。
6 小熊英二もまた、「歴史認識については当初は白紙同然の状態にあり、『東京裁判史観』や『従軍慰安婦問題』への違和感を語り始めた」はいいが、「歴史を語るうえで確固たる自前の言葉をもっていなかった彼らは、急に従来の保守派に接近し、『保守の言葉』をつぎあわせて自己の主張を固めていった。皮肉にも彼らは、批判のまなざしを浴びるなかで、まなざされるとおりの存在、すなわちまなざす側が想定したとおりの存在となっていったといえる」(小熊・上野 2003: 27-28)と指摘している。
7 「私は『正論』が届くと、先ず『読者の指定席』に目を通す。日頃自分が心に思ってることを誰かが代弁してくださる。読み終わった時、胸につかえた溜飲がどっと下がる。この快感はとても筆舌に表現し難い」(1995年10月号)という読者がいるように、この欄自体が独立して楽しまれるコンテンツになっていたことがうかがわれる。
8 「本誌の定期購読者の動向や投稿からわかります。どんどん三十代の投稿者が増えているのです」(2000年3月号)と表示されるように、ある特定の読者を取捨選択して、編集上可視化する手法は繰り返し採用されている。

参考文献
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