第1部 生存をめぐる規範 4 社会学における倫理的自然主義の可能性について ―フィリップ・ゴルスキ「事実/価値の区分を越えて」論文を中心に

生存をめぐる規範

社会学における倫理的自然主義の可能性について
―フィリップ・ゴルスキ「事実/価値の区分を越えて」論文を中心に

中倉智徳

0.はじめに

近年、社会学において規範的価値をめぐる議論が改めて注目されている。この動向を触発するきっかけとなったのが、当時アメリカ社会学会長であったマイケル・ブラヴォイが2004年に基調講演で行なった、「パブリック・ソシオロジー」(公共社会学)をめぐる問題提起であるだろう。この問題提起は非常に大きな反響を呼び、パブリック・ソシオロジーやその論争をめぐる著作が複数刊行されるまでに至っている。
ブラヴォイはパブリック・ソシオロジーを提案するに当たり、社会学を4つの分業体制にわけている。「何のための社会学か」という問いから「道具的知識」と「反省的思考」、「誰のための社会学か」という問いから「学術的な聴衆」と「学術外の聴衆」という区分をつくり、表にあるように、それぞれ①プロフェッショナル社会学、②政策社会学、③批判社会学、④パブリック社会学という四つの分業体制として描き出す1。このように分類したのち、これまでのアメリカ社会学ではプロフェッショナル社会学と政策的社会学が優勢であったが、むしろ批判的社会学が行なってきた社会学そのものへの反省的思考を継承しつつ、公衆とともにつくりあげていこうというパブリック・ソシオロジーがより発展していくことをブラヴォイは提案している。

表:ブラヴォイによる社会学的分業の四類型【省略】
(出典)Burawoy, Michael, 2005, “2004 Presidential Address: For Public Sociology,” American Sociological Review, 70: 11. Table 1、および、京谷栄二,2011,「パブリック・ソシオロジーをめぐる国際論争」『長野大学紀要』33(1): 18.表、を加工して作成。

パブリック・ソシオロジーの対象である公衆は多様であるとされつつも、典型例として「エイズとともに生きる人びと、乳がんとともにいきる女性、ゲイ」といった「カテゴリー」が挙げられている。京谷栄二はそれらを「サバルタン」とまとめている(京谷 2011)。パブリック・ソシオロジーではこれらのカテゴリーの人々に働きかけ、「公衆をつくりだす」ことが求められている。そして、それは啓蒙的であるというよりは対話的であり、社会学者と公衆のあいだに「相互教育」のプロセスであるといわれている。公衆からの意見を聴きながら、受刑者の権利擁護や大学の低賃金労働者の苦境をとりあげるなど、ある種の規範的価値へのコミットメントを行なっていくことが、パブリック・ソシオロジーの特徴であるといわれている(Burawoy 2005: 8)。
ブラヴォイのパブリック・ソシオロジーは日本でも論じられている。すでに挙げた京谷の紹介(京谷2011)のほか、瀧川裕貴(2007)や横井修一(2012)による検討や、2011年東北大学でのシンポジウム記録として『社会学研究』に掲載されている伊奈正人(2012)や矢澤修次郎(2012)による議論も注目に値する。
他方で、ブラヴォイに触発された派生的な展開も現われている。例えば盛山和夫は、ブラヴォイのパブリック・ソシオロジーを「党派的」であると批判し、むしろ「公共社会学」を「社会学が純粋に経験科学であろうとすることを放棄し、望ましい社会的世界を探求する規範的な社会構想の学」(盛山 2005: 29)と定義して、独自の公共社会学を構想した。また、武川正吾による「公共政策の社会学」や「政策志向の社会学」などの問題提起(2007)をうけて、『社会学評論』でも、「社会学は政策形成にいかに貢献しうるか」という特集が66巻2号で組まれるなど、ブラヴォイの社会的分業に言及しながら、プロフェッショナル社会学や政策社会学のさらなる発展の必要性を求める動きがみられる。このように日本の社会学においては、パブリック・ソシオロジーの間接的な影響がみられる。そのなかでも、社会学における規範的問題へのアプローチが問題になっている。
本稿では、社会学においていかに規範を位置づけ対象としうるかという問題に、別のルートから回答を与えようと試みたフィリップ・ゴルスキによる論文「事実/価値の区分を越えて―倫理的自然主義と社会科学」の議論を検討する。ゴルスキは、価値が実在すると考える「道徳的実在論」のうち、とくに倫理的自然主義 ethical naturalism を擁護することで、社会学が価値に取り組むことが可能になると主張している。本稿は、社会科学における倫理的自然主義の立場が、公共社会学を含む、規範的問題へと取り組もうとする社会学にとって採用すべき立場であるのかどうかを明らかにするための予備的考察である。

1.フィリップ・ゴルスキと検討する論文について

ここでゴルスキ自身と本稿で中心的に検討する彼の論考の位置づけについて簡単に紹介しておこう。フィリップ・ゴルスキは、カリフォルニア大学バークレー校出身でロバート・ベラーの元で博士号を取得し、ベラーから「私がかつて指導した大学院生のなかでもとりわけ聡明なひとり」と評されている(ベラー 2014: 3)。現在はイェール大学社会学部教授で、同大学の比較研究センターの共同代表も務めている。自らを「比較歴史社会学者」と位置づけており、単著としてThe Disciplinary Revolution: Calvinism, Confessionalism and the Growth of State Power(2003)やThe Protestant Ethic Revisited(2011)があるほか、ブルデューに関する編著もある。彼の仕事の中心は宗教およびその世俗化に関する研究があり、その関連のなかでヴェーバーやデュルケームなどの古典社会学に関する研究も著している。近年ではロイ・バスカーらの批判的実在論を評価する論考を複数発表している。これから検討する倫理的自然主義も、「批判的実在論から導かれる弱い形態の道徳的実在論」として位置づけられている(Gorski 2013b: 666)。
本稿の中心的な検討対象であるゴルスキの論文は、2013年のSociety誌50巻5号の特集「事実、価値、社会科学」に掲載され、特集の中心をなしている論文である。じっさい掲載されている他の複数の論文がゴルスキの議論に応答する形をとっているほか、後にみるように51巻5号にもゴルスキ論文へのコメンタリーが2本掲載されている。またこのゴルスキ論文は、社会学が規範的価値の問題に取り組むための枠組みを提示しているが、パブリック・ソシオロジーへの言及はまったくない。しかし、後に見るように、応答する議論の多くがパブリック・ソシオロジーと関連付けて検討している(Smith 2013; Campbell 2014; Fein 2014)。本稿でもゴルスキの議論を概観したのち、この点について若干の検討を加える。

2.フィリップ・ゴルスキによる倫理的自然主義

ゴルスキは、先ず「社会学はわれわれがいかに生きるべきか、何がよい社会なのかについて何かを教えることが可能なのだろうか」と問い、通説的な回答は否定的なものであった、というところから始める(Gorski 2013a: 543)2。その否定のもっとも大きな根拠となってきたのが、「である」と「べき」のあいだの「越えがたい溝」があるのだという通説である。しかし、事実は「価値付加的 value laden」であり、それはバイアスとなることが知られているし、さらにそれ以上に価値は事実に影響を与えるとゴルスキはいう。他方で、価値も事実からの影響を受けないのではなく、「事実負荷的 fact laden」であると指摘する。その意味で「価値は原理的には経験的な調査に開かれている」という。よってゴルスキの論文における中心的な検討課題は、「事実の領域と価値の領域のあいだのどこかにある道徳的事実の中間領域」である(Gorski 2013a: 543)。
この中間的領域を取り扱うさいにゴルスキが採用する立場が倫理的自然主義である。これは道徳的実在論の一形態であるとされる。道徳的実在論とは、「人間精神と独立して実在する道徳的真理が存在しており、そして人間はそれについての本当の知識を得ることができるという立場」である(Gorski 2013a: 549)。ただし、実在するといってもさまざまな仕方がありうる。ゴルスキは「非―有神論的」(Gorski 2013a: 549)としか書いていないが、補足するなら、倫理的自然主義においては、道徳的価値は、イデアのような仕方で形而上学的に実在しているのではなく、神のような仕方で実在しているのでもなく、「自然」のうちに実在しているとする立場である。
倫理的自然主義の代表的人物であるフィリッパ・フットの翻訳者である高橋久一郎の解説によれば、自然主義は、事実の世界とは別に「価値の世界」があるとは考えず「「事実と価値の連続性」を主張する立場」である。功利主義は「快苦」という経験的事実から「善悪」という価値を決める点で、まさに倫理的自然主義の一形態である(高橋2014: 220-222)。
ただし、ゴルスキが自らを位置づけようとしているのは功利主義ではなく、倫理的自然主義のなかでも、アリストテレス主義と呼ばれる立場であり、人間本性=人間的自然 human nature に内在する徳の実現を幸福とする考え方である3。
アリストテレスにとって、人間の究極目的は「エウダイモニア」(幸福、開花、善き生といった訳語が当てられる)であった。功利主義とアリストテレスの論理の差異について、ゴルスキは、功利主義的論理でいけば幸福とは快い情動の蓄積であるが、アリストテレス的論理では、幸福は感覚的経験を含んでおらず、自分からみても仲間から観ても「徳が高い」生活、「善き生」を生き抜くことだ、とまとめている(Gorski 2013a: 549-550)。では、ここでの「徳が高い」とはどのような意味か。人間における徳は、アリストテレスにおいては卓越性として理解されている。卓越性にはさまざまな種類があるが、なかでも人間の持つ最高の卓越性として知性がある。この最高の卓越性=徳である知性を充分に発揮し活動する「観照的生活」こそが、最高の幸福であるとされている(アリストテレス 1973: 223)。ゴルスキはこれを、「言語と理性のための能力」という人間の有している高次の能力として解し、それを充分に開花させ、適切にもちいて活動することが「徳が高い」ことになるとしている。
ただし、ゴルスキもアリストテレスの議論をそのまま採用しているわけではない。言語や理性以外にも、創造力など人間には高次の能力があるとかんがえられるため、「より開かれた」人間本性に関する考え方にもとづいて議論されなければならないとする新アリストテレス主義を採っている。ゴルスキの採用するネオ・アリストテレス主義的アプローチでは、人間本性は、それぞれの個人において多様に配分されている。その能力の多様性に応じて、開花させるべき徳がことなるために、それぞれに「善さ」が異なることになる。この意味で、倫理的経自然主義は多元主義を、各人に備わる能力の多様性として理解し、採用する。「善き生の技法」には、「万人にフィットするワンサイズ・モデル」などはなく、「善はそれ自身多元的」なのだとゴルスキは述べている(Gorski 2013a: 550)。この含意は、新アリストテレス主義的アプローチを採用することで、人間にとっての善が多様でありうることを認めつつも、道徳的価値は主観的なもの、文化的なものであるという点から敷衍して「道徳的相対主義」に陥ってしまうことを避けることができる点にあると主張されている。

3.倫理的自然主義と社会科学

さて、このように理解された倫理的自然主義は、社会科学とどのように関わるのだろうか。ゴルスキは、倫理的自然主義として、各人の人間本性に備わるさまざまな能力の開花を挙げていた。彼はもう一つ、「人間は社会的動物」であり、その能力の開花の成否は「彼らの暮らす社会がどのようなものかによって決定される―社会が産み出す富の総量だけで決定されるのではない」と仮定していた(Gorski 2013a: 543)。後者の仮定が倫理的自然主義を社会科学に導入する際には重要である。社会のありようによって人間の善き生が決定されるのだとしたら、事実としての社会のありようを研究する社会学も、事実から導き出される「善き生」の在り方を論じることができるようになるからである。ゴルスキにとって倫理的自然主義が魅力的なのは、まさにこの点にある。「もしこの種の倫理的自然主義を受け入れるなら、そのとき社会科学は善き生と善き社会についてわれわれに何かを教えることが「出来る」(Gorski 2013a: 543)ようになるのである。
実際、経済学や政治学などの社会学以外の社会科学においては、すでに倫理的自然主義を採用した研究が複数出現しているとして、心理学におけるマーティン・セリグマンによるポジティブ心理学、リチャード・イースターリンによる幸福の経済学を取り上げている。そして、センおよびヌスバウムによるケイパビリティ・アプローチを紹介している(Gorski 2013a: 551)。
また、これは社会学の近接領域で起こっている動向というだけではない。そもそも社会学の「創設の父」たちは、ヴェーバーを大きな例外として4、倫理的自然主義者だったとゴルスキは指摘する。ここで挙げられているのは、マルクス、デュルケーム、そしてトクヴィルである(Gorski 2013a: 552)。ゴルスキが「類的存在」概念や疎外された労働について注目しているように、ここで倫理的自然主義と呼ばれているのは、マルクスの疎外論であるだろう。『自殺論』のデュルケームについても、道徳的規律の過剰でも過小でもない社会が実現されるべき社会であるという善き社会の構想があったとゴルスキは指摘する。またトクヴィルも、共和主義においていかに平等主義的な社会秩序を実現するのかという問題に答えようとしている点で、倫理的自然主義であったとゴルスキは位置づけている(Gorski 2013a: 552-553)。ただしこれらの指摘は非常に短く、ゴルスキ自身が論じてきたような倫理的自然主義や新アリストテレス主義にうまく合致しているのかどうかはさらなる検討が必要であるだろう。マルクスの疎外論はたしかに人間本性として実現されるべき能力の開花こそが問題にされている点で、ゴルスキが議論してきた倫理的自然主義といえそうだが、デュルケームやトクヴィルの議論はいかなる意味で倫理的自然主義なのかは充分に明瞭ではない。
またゴルスキは指摘していないが、社会学における「社会的なもの」の再評価は、まさに19世紀の社会学者たちの議論のなかに、ある特定の価値へのコミットメントを見出し、積極的に評価しようという動向であったのではないか。これらを倫理的自然主義と呼ぶかどうかについては、やはり倫理的自然主義の定義の問題となってくるだろう。
結論として、ゴルスキは、社会科学も倫理的自然主義を採用すれば価値について論じることができるといっても、科学だけで価値の問題に応えられるわけではなく、「道徳哲学および政治哲学」が欠かせないと述べている点は重要な指摘であろう(Gorski 2013a: 550-551)。倫理的自然主義を採用することで社会科学は道徳的相対主義に陥ることなく、道徳的事実について経験的な調査対象とすることができる。とはいえ、社会科学は、自らだけで道徳的事実を調査し、いかにあるべきかを価値判断をし、その正当化を行なう「絶対君主」ではないとゴルスキはいう。むしろ、それは「ポリスの市民」のようなものだという。

もしかしたらそれは、都市の中心に倫理的自然主義をおいた古代の都市国家と比較したほうがより望ましいかもしれない。社会科学および行動科学はこのポリスにおいて市民権を有している。それは会議にその声を届ける資格を与えるものだ。しかし、これらの科学は、彼らの従兄弟である道徳哲学や政治哲学からだけではなく、同様に、相対的には疎遠である宗教的倫理および神学的倫理からも、きくべきアドバイスを受けるだろう……。「高次」と「低次」の能力を区別することは理にかなっているだろうか? 幸福の一次と二次のかたちのあいだには―ポジティブな情動と人生の満足のあいだには―いかなる関係があるのか? どんなものであるにせよ、人間の善き生にとって、犠牲や苦しみはどのような役割をもっているのか? 経験的なものを指向する社会科学者および行動科学者は、これらの問題に対して自前で答えるための装備に乏しい。さらに対話があまりに狭いものであったなら、「主知主義」の危険もあるだろう。つまり、知識人じしんが価値があるとおもっている種類の善を過剰に高い価値だとみなしてしまう危険である。この段階において、善き生の科学的研究は、世論からの裁きを避けることができない。政治も逃れることはできない。このことについて、ほとんど間違った理由によってだけれども、ヴェーバーはたしかに正しかったのである。問題は、あらゆる価値が究極的には主観的で非合理的だということにあるのではない。むしろ、人間の能力が多様で、可変的で―限定されている、ということにあるのだ。人間の能力が多様で可変的だという事実が意味するのは、善意の人々でさえ、しばしば善のリストを同郷の市民のそれと混同してしまうだろうし、悪意ある人々は、他者のための善き生へのあらゆる妥協を忌み嫌うだろうということである。(Gorski 2013a: 553)
ゴルスキによる社会科学への倫理的自然主義の導入は、このような道徳哲学や政治哲学、さらには神学を含む諸学との、人間の善き生、善い社会への共同の探究への参加を促すものであった。ゴルスキの議論は、現代リベラリズムの規範理論だけではなく、もっと広範囲で、とくに神学が共同の探究者のなかに含まれている点が特徴的だろう。またパブリック・ソシオロジーにおいて「対話」の対象であった知識人以外の人々については、「主知主義」をさけるための「世論」という形でしか言及されておらず、公衆との相互的な対話ということは原則として想定されていない。ここではやはり学問間の共同に重点が置かれている。

4.おわりにかえて―倫理的自然主義とパブリック・ソシオロジー

はじめに指摘したように、ゴルスキはパブリック・ソシオロジーにまったく言及していないが、彼の議論への応答においては関連するものとして理解されている。とくにクリスチャン・スミスの論考はゴルスキの議論を「社会学者なら全員読むべき」重要性をもったブリリアントで明晰な論文としながら、パブリック・ソシオロジーを倫理的自然主義として擁護できるかを検討している。そもそもスミスはパブリック・ソシオロジーを「特定の政治的プログラムやアジェンダ」を前提としすぎているとして、盛山による「党派的」という評価に近い批判を行なっている(Smith 2013: 601)。そして留保をつけながらも、結局はゴルスキの議論は「現存するパブリック・ソシオロジー」を支持しないだろうと結論づけている(Smith 2013: 599-600)。ゴルスキの議論は、価値を取り扱いつつも、「党派的」でない、「イデオロギー的」でない対案の一つとして受け止められているようである。
また同じSociety誌の51号には、ゴルスキに応答する2本のコメンタリーが掲載されている。その一本であるブラッドリー・キャンベルの「アンチミノタウロス―社会学的道徳の神話」(アルヴィン・グールドナーの論文タイトルをもじっている)は、ゴルスキの議論を「社会学の破壊」「人間の社会社会的生活の科学の損失」であると厳しく批判している(Campbell 2014: 448)。ただしキャンベルもまたパブリック・ソシオロジーには「党派的」として厳しく批判し、アメリカの大学で「公共社会学」で学位が取れる状況になっていることを危惧してさえいる5。ゴルスキは価値判断への扉を「少し広く開けよう」としたが、すでにこの扉は「開いて」おり、社会学者は価値中立を放棄してプロパガンディストになってしまっていると嘆いている(Campbell 2014: 449)。キャンベルはこのように倫理的自然主義もパブリック・ソシオロジーもともに批判しながら、改めて「価値自由の社会学」を擁護しようと試みている。もう一本のメルヴィン・L・フェインもやはりゴルスキの議論は成功していないと批判しつつ、このような試みが社会学が「真の科学」ではなくなるのではないかという危惧を表明している(Fein 2014: 453)。
このような反応からみると、倫理的自然主義が、「社会学はわれわれがいかに生きるべきか、何がよい社会なのかについて何かを教えることが可能なのだろうか」というゴルスキの最初の問いの最終的な回答となるためにはさらなる検討が必要だろう。また、パブリック・ソシオロジーについて、問題提起から10年が経過し、大きな成功を収めたあとで、この後どのように展開していくのか、そして大きく異なる仕方で展開してきた日本の公共社会学を巡る議論もどのように展開していくのか。これらの問いは今後の課題としたい。


1 ただし、この社会的分業は理念型であり、完全な分業が行なわれているわけではないし、これらの部門の一つが発展することが、そのほかすべての部門の発展につながることをブラヴォイは何度も指摘している(Burawoy 2005: 4; 17)。
2 ただし、瀧川裕貴が指摘しているように、社会学においても規範に関する反省的な考察は行なわれてきた。ブラヴォイじしん、1970年代において規範をめぐる議論としてのアルヴィン・グールドナーの議論を反省的思考として位置づけているほか、伝統的パブリック・ソシオロジーとしてライト・ミルズを参照するなど、規範を問い直す社会学的系譜の継承を試みている(瀧川 2007: 20-21)。
3 このようなアリストテレス的な立場からの倫理的自然主義は、その後、倫理的自然主義はメタ倫理学のなかの一つの有力な立場として認識されている。ゴルスキが倫理的自然主義の代表的な論者として参照しているのは、前述のフット、リチャード・クラウト、アイリス・マードックといった、いわゆる「徳倫理学」の代表的人物たちである。
4 ゴルスキは、ヴェーバーの価値自由(Wertfreiheit)概念を「価値中立 value neutrality」として訳している。ただし詳細は2012年の著作『プロテスタンティズムの倫理再訪』の結論部を参照せよと書かれており、本稿では検討できていない。
5 「党派的」であるという批判を先取りするかたちで、ブラヴォイ自身はパブリック・ソシオロジーの価値へのコミットメントには、「公衆との対話」以外には多様性であることを明確に主張している。「パブリック・ソシオロジーの多様性は、様々な公衆がいるということの反映というだけではなく、社会学者の側のさまざまな価値へのコミットメントがあるということも反映している。パブリック・ソシオロジーは、社会学のなかで、そして社会学によって取り上げられた諸問題をめぐる対話へのコミットメント以外のいかなる本来的な規範的誘因性ももたない」(Burawoy 2005: 8)といわれている。「それはキリスト教原理主義と同様に、解放社会学あるいはコミュニタリアニズムも支持しうるだろう。社会学が現在よりリベラルなあるいは批判的なパブリック・ソシオロジーを支持しているとしたら、それは社会学コミュニティの進化的なエートスの結果なのである」(Burawoy 2005: 8-9)とされている。

参考文献
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