第1部 生存をめぐる規範 1 正義論と障害

生存をめぐる規範

正義論と障害

堀田義太郎

はじめに

正義論は「正義は社会制度の第一の徳である」というロールズの定義に従って、経済活動を通して個人が得た貨幣の徴収を法的に強制し、それを再分配する分配的正義論として展開されている。「各人に相応しいものを与えること」という広義の正義の定義からも、分割可能な「持ち物(holdings)」の所有が問題になることは見やすい。これは個々人の(職業を軸とする)行為選択の自由+貨幣負担の強制という図式である。
これに対して、とくに90年代以降、この枠組みでは、社会的不遇者(worse off)に対して、貨幣をその不利益の「補償(compensation)」として与えるだけになりかねず、それは不正義の適切な是正にはならないという問題提起がなされてきた(Anderson 1999)。これらの批判は、「平等な尊重と配慮」の「尊重(respect)」の部分を強調する点で緩やかに共通しており、「社会的正義論」あるいは「社会的平等論」、「関係性の平等主義」等と呼ばれている。
こうした批判のなかでつねに範例として参照されるのが、障害者(people with disabilities)である。本報告は、上記の論争を念頭に置きつつも、この論争そのものの評価ではなく、正義論と障害という主題に絞って、主要な議論を紹介・検討することで、考察されるべき論点と課題を明らかにすることを目的とする。

1 障害の社会モデルと分配的正義論

1-1 従来の分配的正義論における障害の位置
従来の正義論は、資源の分配のあり方とその正当化根拠を問題にする分配的正義論として展開されており、障害をめぐる諸問題もヘルスケア一般の分配問題の一部として扱われている(Hurley 2007; Stein 2006)。
こうした従来の枠組みでは障害者が被る不利益は、個人の身体的機能の欠損が原因であるとされる。そして、障害者に対する分配は、天災と同様、個人的悲劇に見舞われた障害者に対する不利益の埋め合わせ(compensate)、あるいは保険事故に対する支払い(Dworkin 2000 = 2002)などと同じものと考えられている。

1-2 障害の社会モデルによる分配的正義論批判
こうした見方では、障害は「自然の不運(brute bad luck)」とされ、その不利益は社会とは独立した水準に位置付けられる。それに対して、とくに90年代以降、障害者を中心として展開されてきた議論に、障害の社会モデルという考え方がある。障害の「社会モデル」とは、障害とは、個々人の身体的な差異と社会的文化的な編成(arrangement)との相互作用によって生ずる不利益だ、とする見方である。
障害者の被る不利益の原因が社会の側にもあるという観点からは、従来の議論枠組みには根本的な問題があるということになる。「原因が社会の側にもある」というフレーズは曖昧だが、この「社会」とは情報提供のあり方や建物の構造などから、個々人の態度や価値観にも及んでいる。これら「社会モデル」にとって、障害者が被る不利益の(すべてではないとしても、その)多くは「差別」によって生ずるとされる。
たとえば、S・トレメイン(Tremain 1996)は、この観点からドゥオーキンの仮設的保険市場論を次のように批判している。ドゥオーキンは、障害者がその自然の賦与によって経験する「不公正」な不利益は、個人的不運あるいは「過酷な不運(brute bad luck)」であるとする。ドゥオーキンによれば、障害がどれくらいの補償に値するかについての多くの人―「平均人」―の選好は概ね一致するので、障害に対する保険料が、社会成員の選好や、企図(ambition)の違いによって大幅に変わるということはない(Dworkin 2000:2012: 132)。それに対して、能力(skills/talents)については、どの能力がどの程度評価されるかは、人々の選好の布置によって変わるとされている。こうした想定を前提として、「障害保険」と「能力保険(あるいは雇用保険)」を区別し、「無知のベール」の位置を変えて、別々の保険が構想されている。障害保険は、自らの障害の有無について無知だが、企図および能力の社会的分布は知っている状況で掛けられるとするのに対して、能力保険は、能力と企図を知っているが、能力の社会的分布(どの能力がどの程度社会的に評価されるか)については無知な状況とされている。
このドゥオーキンの見方では、「能力の社会的分布」とその背後にある個々人の選好の布置によって障害が当人に与える影響が変わる可能性が考慮されていない。障害が当人に与える影響は、社会的状況と選好による可変性を認められていないからである。逆に、もしそれが可変的であるとすれば、ドゥオーキンが「能力」について述べるのと同じく、どの障害がどのような影響を与えるかは分からないはずである。
この点について、トレメインは、セクシュアル・マイノリティと障害を比較して次のように指摘する。ドゥオーキンはゲイ・レズビアンについてその不利益を補償する保険市場を制度化しようと論じないはずである。もし、ゲイやレズビアンの不利益を補償する保険市場を構想するとすれば、彼ら・彼女らの生活形式を貶価するだろうということをドゥオーキンは知っているからである(Tremain 1996: 355)。しかし、障害についてはその不利益を補填する保険市場が疑いなく導入されている。これは、ドゥオーキンが障害を「自然」の欠陥であり生物医学的な「条件」あるいは遺伝的「不具(deformity)」と解釈しているからである。

要するに、もしドゥオーキンの理論装置に似た青写真をもつ補償図式が制度化されたならば、それは、障害を持つ人々が障害を持たない市民に比べて僅少な機会資源にしかアクセスできないような社会経済的不平等を再生産するだろう。(Ibid.: 355)

このトレメインの議論の前提にあるのが、障害者が被る不利益の多くが「差別」の結果であるという枠組み、つまり障害の社会モデルである。それによれば、障害は(ひとまずは)肌の色や性別などと類比的に考えられるべきであり、障害者の不利益は多くの場合、ある種の身体を標準として、そこから逸脱する身体的特徴をもつ人々を劣位化し排除するような価値観と社会構造に起因するとされる。
ただし、このように主張するからといって、この立場では、障害者の不利益を是正するための財の分配が否定されるわけではない。問題は、財の分配での理由づけである。つまりそれは、障害者の身体能力の不足や欠損を埋めるためではなく、人種差別などに類比されるように、既存の健常者中心主義的な社会の問題を是正するためだとされる。この意味で、いわゆる「分配か承認か」という二項対立図式でトレメインの議論をどちらかに分類することはできない。いずれにしても、この立場からすれば、障害を個人の身体の欠陥として見るような従来の分配的正義論は、それ自体が既存の社会構造と価値観を前提にしているとして批判の対象になる。
では、こうした分配的正義論への批判論の積極的な主張とは何か。それはじつは必ずしも明確ではないが、貨幣の分配のみならず様々な領域での社会編成の変革がまずは主張される。

2 社会的平等論による分配的正義論批判

ところで、障害と正義という問題とは相対的に独立して、90年代以降、分配的正義論に対する批判が展開されている。論者によって「社会的平等論」「民主主義的平等論」「社会関係の平等論」などと呼称も異なっており、批判のポイントも必ずしも完全に共有されているわけではない。ただ、貨幣の分配という方法に限定する従来の議論に対して「多元的」な正義実現方法を対置する点、平等な尊重と配慮という原理のなかでも「尊重」の価値を重視する点、各人の福利などを結果状態としてだけ評価するのではなく、その結果をもたらすプロセスを重視する点などでは緩やかに共通している。
これらの議論が従来の分配的正義論を批判する際、「障害者」は典型的な事例として参照されている。私見では、この事例選択は偶然の一致ではなく、理論的な理由がある。それは既存の社会構造や価値観を前提にして、各人の福利水準という結果の不平等だけに着目する議論の問題点を典型的に示す事例が、障害者だからである。
以下ではエリザベス・アンダーソンの有名な議論を確認し、障害の社会モデルの認識も踏まえて従来の議論を批判しているジョナサン・ウルフの議論を概観しよう。

2-1 アンダーソンの議論
「社会的平等論」の嚆矢と呼べるのはE・アンダーソン(Anderson 1999)である。アンダーソンは大きく二点にわたって、運/選択という区別に基づいて分配に値する者を決定しようとする議論を批判した。
とくに障害者に関わるのは第二の論点である。それは以下のとおりである。分配的正義論は、社会的状況によって不利益を受けている人々―その典型が障害者である―に対して、その不利益を生来の不運の産物として埋め合わせるために資源を分配することになる。だがそれは、障害者に対して次のように述べていることを意味する。

障害者たちへ;あなたの劣った生来の素質と現在の無能力さとは、悲しいことに健常者と比べてあなたの生を生きる価値の劣ったものにしています。この不幸を補填するために、われわれ健常者は、あなたの生きる価値を十分に良いものにすべく、あなたに追加的な資源を供与します。(Anderson 1999: 305)

これは障害者に対してディスリスペクトフルであり、また障害者をスティグマ化することになる。この指摘が典型的に示しているのは、貨幣の分配という方法では不適切な場面があるということだが、とくに重視されているのは「尊重(respect)」である。こうした批判を基盤にして、社会的平等論はとくに障害者の被る不利益の要因として、非制度的でインフォーマルな関係性における個々人の行動や振る舞いに着目する。
つまり、日常的な「他者の反応」、たとえば「他者が障害者を見る見方や行動の仕方など」の「文化的要素や個々人の態度といった要素」の重要性(Terzi 2010: 163)、あるいは「インフォーマルな社会的ネットワーク」で生ずる文化的価値観や言説構造の不正(Anderson 2010: 89-90)である。
これらが重視される一つの理由は、そうしたミクロな相互行為のあり方(の累積的影響)が、社会参加や社会関係からの排除という不利益をもたらすからである1。

2-2 ウルフの議論
上記のアンダーソンらの議論も念頭に置きつつ、J・ウルフ(Wolff 1998; 2002; 2009; Wolff & De-Shalit 2007)もまた、従来の分配的正義論の議論枠組みについて「尊重」の価値を重視する立場から、障害者を事例として批判的な議論を展開している。
ウルフの批判は、分配アプローチそのものというよりも、彼が「補償パラダイム」(あるいは「貨幣置き換え一元論」(Wolff & De-Shalit 2007))と呼ぶものに向けられている。補償パラダイムとは、ある種の不利益を「不運」として位置づけ、その「埋め合わせ」として貨幣補償を与えるようなタイプの議論である。ウルフは、貨幣によって何らかの不利益や不足分を「埋め合わせる」という発想の不適切性を、平等の指標問題と結び付けている。ウルフによれば、平等の指標問題に対する二つの立場、個人が結果的に享受する幸福感や選好充足のレベルを重視する「厚生主義」も、結果ではなくてその実現のために個人が所有する手段を重視する「資源主義」も「補償パラダイム」に収斂する。
だが、それはとくに障害者にとって不適切な場合が多々ある。まず、厚生主義では、障害者は他の人よりも低レベルの厚生に甘んじており、それを適切なレベルに高めるために補償の必要があるとされる。また、資源主義でも、障害者は他の人に比べて「内的資源」を欠如した人として概念化され、その欠如を埋め合わせるために追加的な「外的資源」を提供されるべきだと言われる。いずれの立場も、理由は異なるが貨幣による補償政策に収斂する(Wolff 2009: 114)。だが、貨幣による補償は、他に追求されるべき多くの手段の一つにすぎず、障害者は決して、障害という「悲劇」に対する補償を主張していない。むしろ、貨幣の移転のほかに、障害に対する他の多くの戦略が存在することに気づくべきである(Ibid.: 115)。
この点は、A・デ-シャリットとの共著(Wolff & De-Shalit 2007)では次のように論じられている。たとえばここに、雇用等を中心として社会参加の機会を欠いている障害者がいるとする。その人に対しては、二つの社会政策が採用可能である。一つは、社会参加のための環境を整えることであり、もう一つは、参加制約という損害を補うための慰謝料(補償金)を支払うことである。仮に、当人が貨幣による補償に満足し、かつその補償の方が安く済むとしてみよう。ウルフは、選好ベースの厚生主義理論も資源ベースの理論も、貨幣による補償を拒否する積極的な理由をもたない、と指摘する。だが、たとえば職場に参加できないという不利益の本質は、選好充足レベルが低いとか資源を欠いているという不利益を超えた何かだ、と我々は考えるのではないか(Ibid.: 27)。もしそう考えられるとすれば、それは、貨幣補償に収斂するような一元論的な指標を用いる理論を拒否する理由になる。
こうした問題意識を前提にして、ウルフは2009年の論文では障害者に焦点化して次のように論じている。障害者の不利益を是正するための方法として、従来の議論では、その福利を全体として評価し、そのマイナス分を補填するために貨幣補償を行うという方法が基本的に採用されることになる。だが、アンダーソンも指摘するように、また障害の社会モデルが主張するように、障害者の不利益の是正には複数の策がありうる。
ウルフによれば、まず、我々は何が諸個人の機会を規定するのかを問うべきである。それは二種類あり得る。第一に、その人が持っているものであり、その人がそれですることができる事柄である。「資源」というドゥオーキンの立場はこの方向性を正しく示している。しかし、それだけでは不十分である(Wolff 2009: 123)。「社会的・物質的な構造」が重要な役割を果たすからである。この観点からは、「資源」は人がそれをもってゲームに参加する資源つまりいわば手持ちのカードであり、「構造」がそのゲームのルールを提供する、と言える(Ibid.: 124)。
ウルフによれば、誰かが機会を欠いていると考えられるとき、その要因として少なくとも三つの側面を考えることができる。内的資源、外的資源そして社会構造である。内的資源については、教育、トレーニング、医学的外科手術が対応しうる。ウルフはそれを「個人的増強(personal enhancement)」2と呼ぶ。他方、外的資源には二つの形態がある。一つは貨幣保障であり、もう一つは目的に応じた現物支給―「目標特定的増進(target oriented enhancement)」―である。そして最後に、資源配分を変えなくても諸個人の機会を改善するやり方がある。「ゲームのルール」を変えることである。それは、法や社会的態度の変化あるいは物質的環境の配置の変化などによって可能となる。これをウルフは「地位向上」と呼んでいる(Ibid.: 124)。
このなかでウルフが最も重要とみなすのは、最後の「地位向上」戦略である。それは個々人ではなくて技術や法、建築物や公衆の理解の改変に主眼がある。ウルフがこの戦略を指示する最大の理由は、それがスティグマ化を伴わないからであるとされている。
このウルフの一連の議論は、F・アーミテージ(Armitage 2006)も指摘するように、必ずしも分配アプローチそのものではなく、分配アプローチの極端なあり方としての貨幣補償一元論的なパラダイムに対する批判ではあるが、社会的平等論の一つの立場として位置づけることができる(Ibid.: 29-30)。

3 社会的平等論の射程

では、以上のような社会的平等論の主張は、具体的に障害と正義という課題に即してみたとき、どのような規範的主張をしていることになるのか。そしてそれは妥当だろうか。社会的相互行為の改変をも要求する社会的平等論は、障害者問題に留まらず平等主義的正義論にとって重要な問題を提起しており、無視できない議論として位置づけられている。
だが、社会的平等論による分配アプローチに対する批判には検討されるべき論点が残されている。社会的平等論による議論は曖昧さを残していると思われるからである。分配アプローチを擁護する論者による反論の中心的な論点は、この曖昧さに向けられている。
もちろん、分配アプローチを擁護する立場も社会的平等論の意義は認めている。とくに障害者も適切な配慮があれば社会参加が可能だという指摘は、社会的包摂(inclusion)という課題の意義を示している点で評価されている。その上でしかし、社会的平等論の問題が指摘されている。それは大きく二つある。
第一に、社会的平等論による「批判」の妥当性である。つまり、社会的平等論は、分配という方法には必然的に「スティグマ」が伴うと述べているが、そうは言えないのではないか、という再批判である。第二に、社会的平等論の積極的な主張内容の曖昧さである。社会的平等論は、「過少か過剰か」のジレンマに陥り、それを避けるためには、どこかで閾(threshold)を置かなければならない、という指摘である。

3-1 批判の妥当性
障害学の議論を踏まえつつ障害と正義という課題に取り組むL・バークレイ(Barclay 2010)は、とくにアンダーソン(とポッゲ)による分配的正義論批判を、「個人の劣った性質」を根拠にした分配は「ディスリスペクトフルだ」という論点にまとめたうえで、次のように反論している。
まずバークレイは、もし資源分配一般が個人の性質を根拠にしないならば、逆にいかなる基盤で障害者のニーズに対応するのかが問題になる、と指摘する。
社会的平等論は、障害者の不利益の源泉は、「差別」にあるとする。分配的正義の基準と障害者のニーズの基準は、差別の除去によってservedされるのであり、自然のインペアメントの補償(compensate)ではない、と(Ibid.: 155)。だが、これに対して、バークレイは、彼らはいかにして、個々人の自然の賦与の不利益に対する主張に依拠せずに、資源などの不足に対応する社会正義の基準を構想できるのか、と問う。バークレイによれば、それはできない(Ibid.: 158)。
たとえば、アンダーソンは、障害者の選択肢の欠如を、自然の内的な賦与(endowment)に帰すことを拒否している。それは差別的社会と差別的文化的制度のせいだとされるからである。だが、バークレイによれば、これはもっともらしくない。インペアメントをもつ多くの人が経験する不利益すべてが、差別によって引き起こされているとは言えないからである(Ibid.: 164)。
このように述べた上でバークレイは、なぜ、「ある人の社会資源への権限を、彼女の自然の賦与が不利益の原因であるという主張に基礎づけることがディスリスペクトフルなのか」と問う(Ibid.: 165)。これに対するポッゲとアンダーソンの議論を検討したうえで、バークレイはいずれも、ある人の不利益を彼らの自然の賦与のせいにすることがディスリスペクトフルである理由を提供するのに失敗している、と指摘する。
たしかに、障害者が依然として、職場や労働市場で直接的で明白な差別にさらされていることを考えれば、彼らが、その自然の賦与が不利益の原因だという見解に抵抗するのは理解できる。だが、不利益を差別のせいにすることがもっともらしくない事例がある。そのような事例では、ある個人の不利益のある側面を彼女のインペアメントに帰することが侮辱的であるとは言えない(Ibid.: 166)。
たとえば、「ニーディー」で「依存的」だから追加的な支援が必要だ、と見なすこと自体に問題があるのか。だが、バークレイによれば、①分配論は、一般的に「ニーディーであること」を基盤にしているという考え自体に疑問がある。たとえば、社会人教育への公的ファンドは、そのニーディーさに対して行われるわけではない。また、②依存する存在という見方自体が劣位化している、という批判にも問題がある。ニードや依存によって分配に対する権限が根拠づけられるとして、たとえば、私たちは、子どもや老人について劣位化しているわけではないだろう。
さらに、身体的精神的特徴に基づく資源分配は、隔離(isolation)とマージナル化を促進する、という論拠について、バークレイは次のように反論している(Ibid.: 167-8)。この批判は、障害者が、生産的人生に参加できないことに対して補償の形態として、個人に対する貨幣支払い(cash payment)の形態を常にとる、と想定している。しかし、これは、ある種の分配的正義論には当てはまるかもしれないが、社会正義の平等主義的理論に対する批判としてはもっともらしくない。「金を支払えばよい」などという人はほとんどいないからである。
たしかに、アンダーソンが言うように、金を払うにしても「あなたは不幸にも劣った身体をもっているからどこにも雇用されず残念だからその分を補償するお金をあげましょう」というのはディスリスペクトフルである。だが、そうではなく、「ひどく景気が落ち込んだあなたの産業では、あなたのような技能の人が現在は仕事を見つけるのは困難です。私たちは、あなたが、職業安定支援と所得支援、再訓練プログラムに関心を向けるよう願っています」という手紙付きで分配がされるならば、それははたして周辺化したり孤立化を促進したりすることになるだろうか。バークレイは、そうではないだろう、と述べる。この手紙は、分配の目的が、障害者が可能な限り完全に生産的生活に従事する機会を与え、単なる恩恵の受け取り手ではなく、社会の富への貢献者になることを支援することにある、と明示しているからである(Ibid.: 169)。
要するに、バークレイによれば、分配的正義論に対する社会的平等論の批判は、たしかに障害の社会モデルに親和的なところがあり、重要な論点を指摘してはいるが、しかしそれは分配という方法を放棄する理由にはならず、むしろ分配のより望ましい方法を考察することが必要なのである。

3-2 主張の妥当性―レベルダウンと線引きの不可避性
第二の点、社会的平等論の積極的主張内容の曖昧さに起因する問題点についてもいくつかの指摘があるが、ここでは主にD・ワッサーマンの議論を確認しておこう3。
ワッサーマンは、障害と分配的正義をめぐる一連の論考で(Wasserman 1998; 2001; 2005)、社会的平等論の意義を認めつつ、しかし社会的相互行為への参加の平等(≒包摂)と生産性の間にはトレードオフ問題があり、どこかに「閾(threshold)」を設けなければならない、と指摘する。
ワッサーマンは次のように論じている。まず、障害は社会的構築物だという議論は、不利益に対する身体的(内的)原因と社会的(外的)原因という区別を否定するが、そうすると障害者の優先性はなくなるだろう。この主張は、すべての能力に社会環境を合わせるべきだ、と拡張されうるからである。だが、どんな人も優先性をもたず、すべてに対応した相互行為と環境の改変を要求するとなると、コストが非常に高くつく。ワッサーマンはこれを「社会のハイジャック」論と呼ぶ。もしアメリカで中国語しか使えない人ではなく聾者を優先するとすれば、その選択基準が問題になる。コストを無視できない以上、結局のところどこかで線を引いて一方を他方よりも優先するための議論が必要となる(Wasserman 2001: 239)。
さらに、ワッサーマンはより具体的にアンダーソンの次のような議論について、それは過剰か過少かのいずれかになると批判している。

平等な市民として活動することができるということは、単に特定の政治的権利の行使能力だけではなく、より広く市民社会の様々な活動に参加することである。……そしてこうした形で活動することは人間として活動することを前提としている。人間として活動することができるということは、個人の生物学的な存在を維持する諸手段―食糧、衣服、医療ケア―に対する実効的なアクセスを必要とするし、行為者としての基本的条件―自らの状況と選択肢についての知識、手段と目的について熟慮する能力等―へのアクセスを必要とする。(Anderson 1999: 317-8)

ワッサーマンは、これは法外な要請に見えると指摘する。たとえば、「医療ケアに対する実効的なアクセス」は、「実効的」の解釈次第では、慢性で進行性の病を持つ人に対する無際限な支出を要求するだろう。だが、そのような自由は保障され得ないだろう。つまり、結局、アクセシビリティは、限られた資源を用いて特定のレベルまで、特定の数の人々に対して達成されうるだけである。同じことが熟慮能力についても言える。このような能力を達成できない認知障害を持つ人々に対して、無際限に教育費を費やすことになるかもしれない。しかしそこには、明らかに鋭いトレードオフが存在する。精神的な機能不全(incompetence)が社会的に構成されているとして、社会は多くの複雑な事柄を甚大な社会的コストを払って単純化することになるだろう。ここにも普遍的に達成可能なケイパビリティの閾は存在しない4。
他方、同時に、アンダーソン自身は、人々が価値を置くもの、たとえば感覚的快楽やロマン主義的な達成等の多くの事柄について、その平等な達成は要求しないと強調している。
とすると、一方で、「平等な市民」というアンダーソンの概念は無際限な資源の支出を要求するように見えるが、他方、そこではある種のケイパビリティは除外されており、それでは「平等な配慮と尊重」の観念を満足させることはできないだろう(Wasserman 2001: 243-4; 2005: 225-7)。
また、ワッサーマンはA・シルバースの議論についても次のように指摘している。シルバースはワッサーマンらとの共著のなかで、差別として障害者の状況を分析する議論を展開した(Silvers, Wasserman & Mahowald 1998)。これに対してワッサーマンは次のように指摘する。シルバースは、障害者が多数派の社会についての反実仮想を前提にして現状を批判しているが、もしそこで想定されているような「認知障害がある人々が多数派の社会」では、「政治機構等を含めて現在の社会よりも非生産的になり、諸個人が抱くことができる人生プランはより悪いものになる」のではないか(Wasserman 1998: 187)。ワッサーマンは、物理的社会的組織の公正性の評価は、諸利益の比較のための何らかの指標(metric)を必要とするとして(Ibid.: 199)、結局のところ、最底辺の人々への利益の切迫性と他の人々の利益の大きさとの間でのアドホックなバランスをとる以上のことはできないだろう、と指摘する(Ibid.: 207)。
このように述べて、ワッサーマンは、分配アプローチと関係性(反差別)アプローチの収斂の可能性については否定的な結論を出している。それによれば、分配的説明と関係的説明は「平等な配慮と尊重」という理念のうち、前者が配慮を、後者は尊重を強調している(Wasserman 2001)。そして、平等についてのこの二つの説明は、相関はしているが道徳的には別種のものである。障害者にとって適切な社会環境を整備しないことと、それらの人々を劣った存在として扱うことの不正とは根本的に別の種類のものであり、これら二つの誤りは、別々の改善策を要求する。前者が再分配であり、後者は承認である(Wasserman 2001: 245)。
ワッサーマン自身は、どちらかと言えば分配アプローチを擁護する方向性をもちつつも、関係性アプローチ(社会的平等論)が重要な論点を提出していることは認めており、明確な結論は出してはいない。

4 検討―争点と論点

以上のような分配的正義論からの反論は一見妥当に見える。たしかに、社会的平等論は、批判論としてもまた積極的な主張としても十分に展開されていないと言わざるを得ない部分があるからである。
だが、分配的正義論に対する批判内容のすべてを却下できるわけではないだろう。反論を踏まえてその批判の射程をあらためて評価したい。
第一に、バークレイが言うように、たしかに、分配という方法がつねに「スティグマ化」するものであったり、「ディスリスペクト」の意味を与えるとは言えないだろう。では、バークレイの言うように、分配的正義論に対する批判は「藁人形叩き」に過ぎないのだろうか。
もしそのように評価しうるとすれば、それもまた単純であると思われる。バークレイが分配を擁護する根拠は、生産活動・社会的協働への参加という目的にあった。ここでは、「生産」「貢献」という図式自体は問われていない。しかし、むしろ障害者にとって「差別」や抑圧的な社会の根底に、生産性や「できること」を頂点とするヒエラルキーがあるとすれば、このバークレイの反論はやはり不十分だと思われる。
もちろん、生産活動や社会的協働への参加の価値を疑うとして、それらにまったく価値を与えないような社会は持続可能か、という問いが出されるだろう。ただ、障害者に対する「ディスリスペクト」の原因の一つに、「できない」こと、生産活動に参加困難であり、また参加可能だとしてもコストがかかるからといった理由があるとすれば、この点はやはり重要な論点として残ると考えるべきだろう。
第二に、たしかに、ワッサーマンらが指摘する通り、すべての人が完全に参加できるように社会的協働の枠組みを変えるとすると、能力を効率的に活用する生産体制は崩壊するのではないか、という危惧には一理ある。たとえばそれは「社会のハイジャック」あるいは「政策的ブラックホール」(Bickenbach 2008)などと呼ばれている。たしかに、ウルフの比喩で言えば、社会的相互行為というゲームのルールをすべて重度の知的障害者に合わせて単純化するとすれば―たとえばニュースなどで伝達できる―情報伝達の質量は低下し、様々な活動は停滞するだろう。では、やはり分配的正義論批判は、荒唐無稽な主張に過ぎないのだろうか。
これに対してはひとまず、この反論が、社会を単一のゲームからなるものとしてしか想定していない点に問題がある、と再反論できるように思われる。ウルフ自身は「複数のゲーム」という比喩は出してはいないが、実際には、社会は複数のゲームによって織りなされていると言えると思われる。もちろん、メジャーなゲームとマイナーなゲームはあるかもしれないが、たとえば、経済活動というゲームと他の親密な関係性(intimacy)を紡ぐというゲームとでは質的に異なり、一方に参加できないとしても他方に参加できるようにすることは、依然として重要な意義があると言えるだろう。
これに対して、それでもやはり、最も深刻な認知障害を持つ人は、いかなるゲームにも参加できないのではないか、という反論はありうる。ただ、これは経験的に確かめられるべき問題である。アッシュらが指摘するように、しばしば過度に誇張されており、ほとんどの人がintimacyについては参加が可能であると応答できるかもしれない(Asch & Wasserman 2010: 212-213)。
ただし、複数のゲーム論に対しては、むしろ社会的平等論を採用する立場からの批判もありうる。つまり、複数のゲームがあり、それぞれ場面に応じて、また当人の身体的能力に応じて参加できるゲームが違ってよいというのはその通りであると言えるかもしれない。だが、それは新たな「隔離」を生じさせることにならないか、と。全面的に最も重度の障害者に社会全体を合わせることが無理であり、また過剰な要求であるとして、他方、複数の領域での複数のルールで場を分けるという発想にも、一種の分業と、ゲーム間の敷居が固定化されることの懸念はあるだろうし、おそらくそれには一定の意味があるだろう。

おわりに

以上、正義論と障害に関連するいくつかの議論を紹介・検討してきたが、一つの重要な論点は、個々人の非制度的・日常的・インフォーマルな場面での行動選択や態度、そしてその背後にある価値観等に対する何らかの規範的なアピールにあると言えるだろう。
これはある意味で当たり前のことではあるのだが、この批判は、「貨幣費用負担の強制×行為選択の自由」という(リベラルな)分配アプローチ・制度主義の枠組みを採用し、法的強制力と制度の正当化論に規範的議論の射程を限定する議論の問題点を指摘しているという点は、あらためて確認しておいてよいだろう。
[付記]
本研究はJSPS科研費26770011(若手研究(B)、研究課題「差別の規範理論――差別の悪の根拠に関する倫理学的研究」)による研究成果の一部である。


1 こうした点をケイパビリティ・アプローチがどう扱うのかはそれ自体興味深い問題である。たとえば、ケイパビリティの射程には、アンダーソンが指摘するような「黙示的な差別(covert discrimination)」の是正や、文化的な価値観・日常的な行動に伴う諸問題も含まれるのかどうか。ケイパビリティを広く、「価値ある状態である/価値あることをする自由(freedom to do and be certain valuable things)」と理解するとして、その「価値あること」のなかに、他者の振る舞いや態度、たとえば「無視・軽視(disrespect)されないこと」といったものが含まれるのか否か。この点、「自尊(self respect)」と「等しく尊重される立場(equal respect-standing)」を区別し、後者は「他の人々が私に対して持っている尊重の程度(degree of respect other people have for me)」を示すというウルフの議論は示唆的である(Wolff 1998: 107)。自尊が本人の(自尊)感覚を中核とする概念であり「自信(self confidence)」と重なるとすれば、後者はむしろ他者の態度に主眼がある。たとえば、「自由」という語には後者のように「無視されない自由」といった他者の積極的な行為を不可欠の要素とするような側面も含まれるのか。もし含まれるとすれば、ケイパビリティ・アプローチは「分配の指標」という枠組みには収まらない射程をもっていることになるだろう。
2 なお、Wolff(2002)の翻訳では、personal enhancementは「人格的増強」とされているが、少なくともこの文脈では「個人的」の方が適切である。
3 アーネソン(Arneson 2000)も、同じ点を指摘している。アーネソンによれば、社会的平等論は、一方で、社会環境にあるバリアを解消すれば本来障害者が有する能力を有効に発揮でき、労働を通した社会参加も充分に可能なのだ、という主張として解釈できる。アーネソンは、この解釈の根拠として、ADA(「障害をもつアメリカ人」法)とアニタ・シルバースの議論を挙げる。ADAでは、障害者差別と他の人種差別などとの類似性についての認識を前提にして、現在の労働市場は偏見と差別に満ちており、これを変える必要があるとされている。また、シルバースは、障害者が直面する問題は、人種的マイノリティや女性やゲイなど、支配的な集団によって偏見や差別を被っている人々の問題と同じであり、偏見と差別を除去すれば本来の能力を発揮できると主張している。アーネソンによれば、これらは形式的な「反差別」規範、つまり「能力に開かれた職務」という理念の一般化として解釈できる。だが、このような形式的な機会平等論は不十分である(Ibid.: 18)。本当に能力がある人を障害者として不当に処遇しているという議論は、「完全に能力主義的な社会」を目指していることになるだろう。だが、障害者にとっては、むしろそれはより厳しい事態になるのではないか(Ibid.: 19)。他方で、社会的平等論をより広く、形式的な機会平等論とは異なる形で解釈すればこの「過少性」は避けられるかもしれない。しかし、アーネソンは、今度はそれは「過剰」になりかねないと指摘する。社会的相互作用の改変を要求する議論は、適切な配慮があれば障害者も社会参加が可能だと主張している。たしかに、この点について従来の正義論は主題的に扱ってこなかったし、参加のための条件整備を進めることには意義がある。だが、それには必然的にコストが伴う。そして、「コストを無視する議論は極論」である。もし、多くの障害者をたとえば職場に参加させようとするならば、社会的協働の枠組み(social cooperative framework)への参入に際して要求されるテストのハードルを下げる必要がある。要求される能力を低下させれば多くの人が包摂されるだろう。これは「包摂」という観点からは望ましい。だがそれは、より高いレベルの協働の枠組みで得られるはずの生産性を低下させ、結果的に、すべての人の暮らし向きを悪化させる可能性がある。たとえば、「深刻な精神遅滞者〔ママ〕や深刻な精神疾患をもつ人も完全に生産的なメンバーになれるように、生産貢献に対するハードルを下げることは、協働の純益をほとんど無にまで低下させるだろう」(Ibid.: 10)。もし、そうした水準低下(level down)を望まないのだとすれば、万人の社会参加における平等を追求するよりも、最底辺の人々の暮らし向きを向上させることを優先する立場(prioritarian)の方が説得的である、ということになるだろう。
4 ある種の敷居の必要性については、バークレイも次のように指摘している。たとえば、アンダーソンはヌスバウムの議論に従って、たとえば車椅子の人に対応していない建造物は差別の結果だと述べている。たしかに、建築物が車椅子の人を排除しているのは、差別だと言えるかもしれない(Barclay 2010: 160-1)。しかしバークレイによれば、この議論をすべての不利益に拡張することはできない(Ibid.)。ごく単純に言って、すべての人間に平等に配慮するような社会制度はありえないからである。「障害に中立的」な社会の組織化の方法は存在しないのは、盲人に最大限に配慮する社会は、聾者に最大限に配慮する社会とは異なるからである。たとえば、「点字ブロックは盲人にとって良いが、車椅子ユーザーにとっては障害物になる」(Ibid.: 162)。

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