巻頭言

巻頭言

井上 彰

規範×秩序研究会は、「生存を支える思想と生存を脅かす要因についての理論的・実証的検討を自由闊達に行う研究会」として、立命館大学生存学研究センターの「「生存学」創成拠点院生プロジェクト」として存在感を示してきた。参加者は、広く社会保障・扶助の枠組みを規範理論的に検討する者から、刑罰や差別、障害や病を論点として社会秩序を反省する試みを提起する者に至るまで様々である。その各種各様の参加者の求心力となっているのが、形式上プロジェクトの研究代表者になっている私井上彰・・・ではもちろんなく、全員が「問い」を共有し、各自の理論的分析とそれに基づく考察を重視する姿勢をもっていること、これに尽きると思われる。際立っているのが、研究会の場でそうしたことをとことん追求する「快楽」を、参加者全員が享受していることである。
その「快楽」は、研究会が終わって場所が変わっても(「居酒屋」という名の「パブリックな場所」)、内在的価値であり続ける。酒や食にうるさい参加者が多いこともあってか、私も舌鼓を打ちながらディスカッションに身が入ることもしばしば・・・いや、旨い酒や肴を堪能しうることが、ここで強調したい「快楽」の源泉ではない。とにかく「問い」と「理論」にこだわって、酒を酌み交わしながらディスカッションに興じること、これこそがここで強調したい「快楽」の源泉である。
昨今、こうした院生主体の研究会は、どこの大学院でも成立しがたくなっている。その一方で、優れた研究者はほぼ全員、上記の意味での「快楽」を享受してきた。かく言う私もその一人である(私が優れた研究者であるかどうかは措くとしても)。私が院生の頃(世紀の変わり目前後だが)は研究会や読書会が活発で、研究会および研究会後の飲み会で口角泡を飛ばしながら「ああでもない、こうでもない」と議論したものである。このような研究会が日本の各大学院で稀少となっているいま、規範×秩序研究会は立命館大学生存学研究センターのみならず、立命館大学大学院、いや日本の大学院にとって「宝」であると言っても過言ではない。

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本センター報告は、その「快楽」を享受した研究会参加者による、力のこもった論文集である。社会保障、健康医療政策、障害をめぐる規範理論的考察、自殺や軍法会議をめぐる現代史的考察、そして社会科学における事実と価値についての社会学史的考察および科学的管理法の視角化をめぐる心理学史的考察を行う9篇の論文と、2篇の書評論文から成る。内容的にバラバラな印象を受けるかもしれないが、どの論文も生存をめぐる「問い」という観点を有している。何より重要なのは各自が論文執筆過程において他の執筆者の前で論文を発表し、喧々がくがくの議論を経て完成稿の寄稿に至っていることである。すなわちこの論文集の寄稿者は全員、上記の意味での「快楽」を享受しているのだ。
ところで、規範理論と実証的な経験的研究の対話の重要性が叫ばれて久しい。前者だけでは空虚な理想論になりがちであり、後者だけでは事態の望ましさを示すことは不可能である。両者を架橋し、地に足のついた規範的議論が今日ほど求められている時代はない。社会保障全般を取り巻く冷静さを逸した議論や、種々の法案審議によって露呈する政府の認識不足や抑圧的な施政は、そうした規範的議論の重要性を物語るエピソードである。まさにそうした冷静さを欠く議論や認識不足のせいで、多くの者の生存が脅かされている現況にある。重要なのは、そうした現況に「規範的ユートピア」をむやみやたらとぶつけることではなく、経験的分析をふまえた「現実的ユートピア」に基づく規範的議論に取り組むことである。管見の限り、規範×秩序研究会はそうした規範的議論の基盤づくりを目指して、たゆまなくディスカッションを続ける希有な「場」である。私は一人の大学人として、こうした「場」の、何物にも代えがたい価値―まさに参加者誰もが享受しうる「快楽」―を大事にしていきたいし、大事にしなければならないと考える。