第2部 公開研究会「生殖補助医療技術の発達史と倫理的課題」 2 質疑応答

公開研究会「生殖補助医療技術の発達史と倫理的課題」

質疑応答

〇由井秀樹・立命館大学(司会):それでは時間になりましたので再開させていただきます。先ほどアナウンスさせていただいたように、まず花岡先生から、先ほど飛ばされた部分の補足をお願いしたいと思います。では、よろしくお願いします。
〇花岡:はい。では、現在、リスクの検証がどうなっているかを簡単にお話ししたいと思います。
まず、2000年代の初め頃までの科学的な知見からお話しします。
畜産分野におきましては、体外培養などの操作を行った胚から生まれる動物の異状に関するさまざまな知見が積み上げられてきておりました。たとえば、卵や胚盤胞期以前の胚に対する操作後に誕生したウシやヒツジに、様々な異常が観察されていることが報告されております。体重が2倍の仔も珍しくなく、諸器官に影響が及んでいます。卵や胚が通常とは異なる環境に曝されることがこのような巨大胎仔症候群(LOS)を引き起こすのではないかと指摘されています。また、こうした操作によって、発生に関与する様々な遺伝子の発現パターンが変化することも明らかになってきています。こうした科学的知見が、2000年代の初め頃までに積み上げられておりました。
こうした知見から、動物実験を行っている研究者たちが、ヒトのARTの安全性に対する懸念を科学論文の中で提起し始めました。もし同じようなプロセスでやっているのであれば、ヒト胚でも何かが起きるのではないか、検証をしたほうがよいのではないかといった提言が、盛んに論文の中に見られるようになってきます。
そういった中で、2002年に、ヒトの臨床報告が発表されました。ICSIによって誕生した2人の子どもが、アンジェルマン症候群(AS)という疾患に罹患しているという報告です。この疾患は先天異常の一つでありまして、複数の臨床症状を呈する疾患です。この症候群の原因は様々ですが、この報告でICSIとの関連が強く示唆されたのは、インプリンティング異常によるASです。報告者らは、ICSIとインプリンティング異常との間に何か関係があるのではないかと指摘しています。
その後、また別の疾患の症例報告が発表されました。2003年にデバウン(DeBaun, M. R.)らが、ベックウィズ・ヴィードマン症候群(BWS)がIVFまたはICSIによる出生児に認められるという報告をしました。BWSは、比較的まれな病気で、日本における正確な頻度を私は把握しておりませんが、欧米では1万3700人に1人という頻度で発症する病気です。BWSの原因遺伝子の中に、IGF2(Insulin-like growth factor2)遺伝子があります。先ほどの畜産動物のケースではigf2rというIGF2の遺伝子産物に対するリセプターをコードする遺伝子の異常が報告されており、動物での知見との関連が強く示唆されました。デバウンの論文は、ARTの科学的検証の在り方を変化させるきっかけとなったものの一つです。デバウンは体外受精の研究者ではなく、もともとBWSの専門家です。さまざまな研究施設のデータを集めてBWSの研究をしていました。そういったデータを調べていく中で、BWSに罹患しているお子さんの中に、ARTによって生まれたお子さんの頻度が高いということに気付き、研究を進めたのです。
この後、ASやBWSに関して同様の報告が次から次へと報告されるようになり、研究者の中には、かなり深刻な懸念を医学誌・科学誌に表明する人も出てきました。こうした懸念の中で最も深刻なものは、実際に報告されている以上に、様々な遺伝子にインプリンティング異常が起こっている可能性に対するものです。ASやBWSだけであれば、症例報告は限られており、そんなに深刻に考える必要はないかもしれないが、ARTを行った胚に、非常に広範囲に遺伝子のメチル化異常というインプリンティング異常が起こっている可能性があり、その中で、臨床症状として表に出てくるASやBWSのような疾患は氷山の一角である可能性があるという懸念です。
臨床研究はもとより、動物実験や細胞培養実験も現在進行中で、医学誌・科学誌に、こうした研究論文が数多く発表されております。
これは、東北大学の有馬隆博先生の研究グループの樋浦仁先生の最新のレビューですけれども、このレビューを参照させていただきながら、簡単に遺伝子のメチル化とその異常についてご説明させていただきたいと思います。
皆さんご存じのように、発生は、遺伝子のスイッチのオン・オフを通じて、その過程が進んでいく一連のプロセスでありまして、遺伝子があるかないかと同時に、その遺伝子が働くか働かないかが、先天性疾患の発症にもかかわってきます。最もよく知られていますのは、遺伝子の発現調節領域に転写因子というタンパク質が結合することで、その下流にある遺伝子のスイッチがオンになり、解離するとオフになるという機構です。しかし、遺伝子のスイッチのオン・オフは、転写因子による制御だけではありません。DNAのメチル化という現象によっても制御されていることが分かっております。
ここにお示しした図は、分かりやすくメチル化のシステムを説明したものです。実際にはかなり複雑ですけれども、あまり細かいお話をしますとかえって分かりにくくなりますので、簡単にお話しします。遺伝子の発現制御領域に並んでいるある種の塩基がメチル化されますと、その下流にある遺伝子の転写が抑制されます。ですから、遺伝子の発現制御領域がメチル化されると、その領域によって発現が制御される遺伝子が欠損したときと同じようなphenotype(表現型)が出てきます。メチル化によって遺伝子の働きが抑制されるということです。
ただ、メチル化=異常ということではありません。メチル化されるべきでない領域がメチル化されている場合、あるいは逆に、メチル化されるべき領域がメチル化されていない場合が異常ということになります。今回のテーマに関わる科学上の議論を理解することだけが目的であれば、とにかくメチル化の異常が生じると、遺伝子のオン・オフに異常が生じる、というふうに理解していただけばよろしいのではないかと思います。
では、このメチル化という現象は発生段階のどこで起きるかという話題に移ります。ここにお示ししておりますのは、上が卵細胞の成熟過程を、下が精子の成熟過程を、発生段階ごとに示したものです。右側で精子と卵子が受精して、卵割が始まって、胚盤胞まで発生が続きます。4から8細胞の時期に、一般に胚移植が行われます。
メチル化が行われるのは、配偶子の形成過程です。ですから、この図の左側でメチル化が起きます。もっと細かく言いますと、メチル化は、ゲノムに付いた一種の印みたいなもので、ゲノムインプリンティングと言います。これが、配偶子が形成される過程で一旦全部消去されます。そして、もう一度メチル化が、精子・卵子それぞれの形成過程で行われます。ですから、実際に体外受精が関与する段階では、メチル化は起きないのです。この段階ではメチル化の維持が行われます。印が付けられてメチル化されたものがそのまま維持される、というのが後半の過程です。
この後半の過程で、はっきり分からないのですけれども、もしかしたら、ARTのプロセスの何かが、メチル化の維持を阻害しているのではないかと考えられています。つまり、きちんと正常にメチル化されて、それが維持されなければいけないのに、ARTがその維持を阻害してメチル化のパターンを変化させてしまっているのではないかということが、これまでのさまざまな臨床データおよび動物実験などの知見から、推論されているのです。
これは、インプリンティング疾患におけるメチル化の異常が生じている染色体上の領域を示したものです。BWSでは、11番の染色体の短腕の15.5という領域にメチル化の異常が起きています。また、この領域は、シルバーラッセル症候群(SRS: Silver-Russell syndrome)にも関わっています。
先ほど、氷山の一角で、実はランダムに起きているのではないかという懸念をご紹介しましたが、どうやらARTによって影響を受ける領域は複数あるようです。
実際にこういった異常がART児にみられる頻度は、たぶんご説明する時間がないだろうと考えましてデータをお付けしていないのですけれども、日本のケースで調べられています。簡単に結論だけを申しますと、BWSやSRSは、自然妊娠のお子さんに比べて10倍以上になります。ASは、2倍程度多く見られるということです。
最後に、現在の研究者はARTとメチル化異常に起因する疾患との関係をどう考えているかですが、そのメカニズムは不明であるものの、両者には関連があると考えています。ただ、複合的な要因が同時に絡み合っているのではないかとも考えられています。
ARTとメチル化異常との相関が統計学的に否定できない状況にありますので、ARTの治療を受けたいと考えておられる方々、あるいはARTに従事する人々が、この事実を熟知することが大切だと思います。ARTを検討されている方々が、自由な意思決定によって治療手段を選択する際に、また医療従事者がきちんと説明責任を果たして治療を行う際に、こうした認識を共有することが大切なことなのではないかと考えます。
〇由井:花岡先生、ありがとうございました。大変勉強になりました。では、早速ですが、指定質問に移りたいと思います。山本さん、よろしくお願いします。
〇山本由美子・大阪府立大学:大変、貴重なARTに関するご発表をいただきまして、ありがとうございます。指定質問を拝命しました、大阪府立大学の山本由美子と申します。
性と生殖にかかわる倫理的、社会的、科学技術的な問題について研究をしております。この秋に職場が変わりまして、新たに研究倫理が担当に加わったところであります。
ご教示いただきたいところがたくさんあるのですけれども、大きくは3点に絞ってお伺いしたいと思います。
まず、ARTについての基本的な理解としまして1つお伺いします。初歩的な質問で恐縮なのですが、卵子に精子を注入する際に、機械的な侵襲に伴う傷、あるいは穴のようなものについての質問です。それについては、動物におきましても、ヒトにつきましても、そのいわゆる傷というものが修復されているのかどうか、また侵襲を加えられた卵子がなぜ生き残るのかについては、解明されているわけではないと理解してよろしいのでしょうか。
〇花岡:私も十分精通していない部分がありますので、あくまでも私が知っている範囲でご説明させていただきます。インジェクションは、技能を習得された専門家の方が行っておりますが、かなり難しい技術で、失敗例もかなり多いといいます。結局、成功した、つまり、異常が認められない胚を移植に用いるということが基本なのです。侵襲によって何が起きるかについては、顕微授精の基礎研究が行われていた時代から、かなり多くの研究が行われてきまして、私もかなりの数の論文を読みましたが、ICSIがなぜうまくいくかということについては、今でもあまりよく分かっていないようです。
しかし、実際に精子が細胞質のどのあたりに入ったかを可視化する染色技術があり、これを利用して研究をされているグループがありますので、今私がお話したこと以上の知見がすでに得られているかもしれません。お答えになっているかどうか分かりませんけれども、一応の答えとさせていただきます。
〇山本:つまり、傷がなければ成功とみなし得るというのですね。
〇花岡:そうですね。細胞質を著しく傷つけてしまいますと、細胞質が外部に出てしまうので、失敗ということになります。ただ、そこまで大きな傷ではない場合、胚の自己修復能力によって修復されるようです。ですから、成功にも様々な程度があるように思います。私は動物の卵のインジェクションについては経験がありますが、ヒトの卵については経験がありませんので、お答えになっているかどうか分かりませんが、私の考えを述べさせていただきました。
〇山本:ありがとうございます。2つ目の質問をさせていただきます。ARTに関する論文を拝読させていただきまして大変勉強になりました。そこで、リアルな生殖の記述が禁欲的に抑えられているという印象を受けたのですけれども、これは花岡先生のご研究における1つの作戦であられるのか、あるいは、一次データの特性から必然的に起こってくることなのかをお伺いしたいと思います。
具体的には、たとえば「ARTによる胚からウシが誕生した」という記述がございます。実際には、卵子を採取された後にARTによる胚を移植された雌ウシが出産することによって、あるいは帝王切開によって、仔ウシが誕生することになります。この過程が省略されていることになるのですけれども、これはすなわち、雌ウシのリアルな生殖の記述が抑えられているということができます。技術が適用されているのは常に雌、あるいはヒトの女性であるという現状に鑑みますと、こういった生殖過程の介入における記述の抑制や省略は、実際のヒトの女性のARTとの関係にどんな影響を及ぼすとお考えか、お聞かせいただきたいと思います。
〇花岡:ありがとうございます。非常に重要なポイントをおっしゃっていただいたと思います。これは、方法論上のエクスペリメントです。私が興味をもっておりますのは、科学技術の進展と倫理が、どのように関連し合っているのかという問題です。非常に古い古典的な、上部構造と下部構造という構造論を、倫理的言説と現代の先端科学技術との関係を理解するうえで応用できないかと考えたのです。ある種の記述や言説を抽象化して、あえて単純化することでそうした対比が可能になるのではないかと。今おっしゃったようなリアルな記述、あるいはリアルな視点は、あえて方法論的に捨象する必要があると思ったのです。
これは方法論上の一種の実験で、意図的なものと考えていただいたらよろしいのではないかと思います。
〇山本:ありがとうございます。
3点目です。つい先日の12月3日にワシントンで開かれました科学者団体の国際会議(ゲノム編集国際会議)におきまして、妊娠させないことを前提としたうえで、ヒト受精卵へのゲノム編集の基礎研究を容認するという見解が発表されました。基礎研究は応用を目標に掲げて行われる性質があると思うのですけれども、これはARTの技術を不問の前提として、それを問うことなしにゲノムの新たな別の技術介入に向けて、科学者団体から1つの見解が出たことになっています。
花岡先生ご自身についてですが、このご論文の中で、ARTの技術を健全に発展させていくための必須条件、すなわち次世代への影響についての解明の途中であること認識するという条件の下でARTを実施する必要があると言っておられます。
このARTの問題提起がとても重要な問題提起なのですけれども、他方では、単なるアナクロニズムと認識されることが指摘されています。そのような誤認がされることなく、ARTの問題提起を主張していくには、誰がどんな方法で提示していくのが有効であるとお考えか、お聞きしたいと思います。
〇花岡:そうですね。非常に難しい問題だと思います。
まず、リスクの問題について、研究者の間でも、認識がたぶん一致していないというのが大前提としてあると思います。先ほどシャッテンの例を挙げましたけれども、一方で主導的な立場にある人々が同僚に対して、アシロマ会議的な検討の場を持つべきだという主張をする一方で、同時期のART関連の国際学会は、ARTは健全に発展しているのだという見解を発表しました。
国際的な医学誌・科学誌を読んでおりますと、日本の場合は、専門家の間でリスクに対する認識が際立って希薄なのではないかという印象を持ちます。実際に、現場の臨床の医師の方々のインタビュー調査などはしておりませんので、エビデンスとしては、かなり根拠が不充分だと思いますけれども、実際に国際誌に発表されているARTのリスクに関する論文にしましても、今ご紹介した樋浦先生の論文は少数例で、日本の論文は非常に少ないのですが、今後、学術論文によって日本人が世界に自国のデータを発信していくことを通じて、問題提起が次第に浸透していって、日本国内においても、国際社会においても、リスクに対する認識が広がっていくことが必要なのだと思います。
ただ、いわゆる専門家といいましても、様々な専門家がおられまして、ARTを臨床でやっていらっしゃる先生、メチル化の研究をしていらっしゃる先生、あるいは、特定の先天異常を研究していらっしゃる先生など、それぞれみな見方や方法が違うわけで、こうした多様な専門家の方々の協力が必要な分野がARTなのだと思います。さらに、社会科学系、人文科学系の専門家の方々の参加も、視点の多様化を確保する意味でも、大きな意義をもち得ると思います。つまり、ARTの「いわゆる専門家」の方々のみではなく、多様な専門分野の方々が、複数の視点から問題を提起し、検討していく必要があるのではないかと思っています。
〇山本:ありがとうございました。
〇由井:山本さん、花岡先生、ありがとうございました。
では、全体ディスカッションに入りたいのですが、その前に、司会者特権として、私から何点かご質問させていただきたいと思います。
まず、1点目は、これは非常に小さなところなのですけれども、IVFの歴史のところで、1900年代前半には、動物実験レベルでも社会的な批判があったというお話でしたが、この点についての補足をお願い致します。
〇花岡:一次資料によって、そうした批判の具体的な内容をお示しすることはできないのですが、そうした批判のあったことを示唆する資料についてお話しします。1934年に発表されたピンカス博士の論文で、体外受精によってウサギが誕生したとする論文が、同年、「ニューヨークタイムズ」紙に取り上げられました。タイトルが、“Rabbits Born in Glass” で、サブタイトルが、“Haldane-Huxley Fantasy Made Real by Harvard Biologists” となっております。バロンは、こうした記事を根拠に、当時、ピンカスの仕事が、「明らかにかなり敵意を持って迎えられた」と指摘しています。こうした記事は、動物実験レベルでの実験に対する社会的な批判があったことを示すものであるといえると思います。あまり確かなことを申し上げることができず、すみません。
〇松原洋子・立命館大学:由井さんの質問の趣旨を確認したいのですが、「社会的批判」についてどのような内容を想定されているのでしょうか。
〇由井:動物実験レベルでも、宗教的な批判が投げ掛けられていたのかとか、そういう意図です。
〇松原:ありがとうございます。発生学は動物実験で「奇形」という異常を人為的につくりながら研究してきたところがあるので、由井さんの質問の趣旨自体がよく分からなかったのです。
動物に対する実験であっても、動物実験の規制にみられるように倫理的問題が見出される場合もありますよね。しかし発生学については、そもそも「奇形」をつくりながら発生現象を確かめてきたところがあると思うのです。だから、由井さんが言われたような、動物実験上の倫理的な問いはあり得たのかどうか、うかがいたいのですが、花岡先生いかがでしょうか。
〇花岡:そうですね。大変難しい問題ですね。今、先生がおっしゃったように、確かに発生学者は意図的に奇形をつくり出すということですけれども、一方で、実験の手段として、例えば、遺伝子の過剰発現等々によってわざと奇形を引き起こすといったことをやるわけですが、奇形を引き起こすことそれ自体を目指しているわけではなくて、正常な発現を知りたいから操作としてやっているのです。しかし、現場で仕事をしている人々の中にも、例えば目が1つの魚をつくるとか、鰭のない魚をつくることに対しては、非専門家の方々と同じような抵抗感を抱いている人が少なくないように思います。ただ、1900年代前半の発生学者がそういった倫理的な懸念を持ち得たかどうかは、先ほどのような記事から推論しうるのみで、明確な証拠を私は持っておりません。
〇松原:科学者としては、発生現象のメカニズムを明らかにするために、仮説上想定される範囲で変異が起こるのは許容できるのだけれど、付随的にイレギュラーな何かが起こることについては、ちょっと気持ちが悪いというか、避けたいと感じる可能性はあるということですね。
〇花岡:そうです。かなり後の1900年代の後半のことになりますが、エドワーズはそういったことを感じていた可能性があります。動物実験で異常が観察されたという論文を読んだときに、エドワーズは激しい衝撃を受けたそうで、これを “metaphorical blow” と表現しています。“metaphorical”を、どう訳していいか分からないのですけれども、翻訳者は「形而上学的な」と訳しています。
〇松原:体外受精に伴う変異は目的を持って起こす変異ではない、そういう違いがあるかもしれないということですね。
〇花岡:そうですね、正常に生まれるはずの動物が、体外受精で奇形を伴って生まれてきた。ヒトへの応用を考えている学者にとっては、すごくショックだったのではないでしょうか。宗教的な次元のショックだったのかもしれません。
〇松原:生物学者の専門にもよるかもしれませんね。
〇花岡:そうですね。
〇松原:「発光させる遺伝子を組み込んで光らせるとはどういうことだ」とかありますよね。
〇花岡:はい。
〇松原:同じ生物学者といっても、分野や目的によって変異を人工的に引き起こしうることに対する感覚は変わってくる可能性があるかもしれないなと思いました。
〇花岡:はい。あと1点、先生のお話を伺っていて思ったのですけれど、発生学という分野は、1950年頃を境にして、学問の性格そのものが大きく変わってきています。それ以前の発生学あるいは胎生学は、生まれてくるプロセスだけに焦点を当てていた学問だったのです。それが、1950年代から発生生物学という学問が成長してきて、やがて胚操作や遺伝子の操作もできるようになっていって、発生のプロセスを出生だけに限定しないで、老化も含めて考える新しい学問になっていった。そういう大きな変化を考えながら、1930年代、1940年代の学者の言説を分析する必要があるのではないかと思います。
〇松原:胎生学というのは哺乳類ということですか。
〇花岡:そうです。哺乳類の発生学です。
〇松原:発生学は、そうではないところで進んできたというところがありますね。
〇花岡:そうです。
〇松原:ありがとうございました。
〇由井:ありがとうございました。
ではもう1点だけ。体外受精が不妊治療の現場に応用されたら体外受精―胚移植になるわけですね。体外受精―胚移植の基礎研究としての体外受精研究の歴史についてはお話しいただいたのですけれども、お伺いしたいのは、胚移植についてのことです。胚移植の基礎研究になり得た研究として、花岡先生も論文でちょっと触れられていますけれども、畜産分野の研究で、例えば雌Aに排卵誘発措置を施して、雄と性交させるなり人工授精するなりして、雌Aの体内でできたいくつかの受精卵を雌B、雌C、雌Dに移植して子どもを産ませる技術が1960年代ぐらいからずっとあって、日本でも農林省の杉江佶という研究者がその研究をやっていた。1970年代の日本不妊学会、今の日本生殖医学会でも、学会企画の講演として研究発表をしています。エドワーズの論文を見ても、杉江さんの論文を引っ張っていたりもしているわけです。
私は、1980年代に日本で先駆的に体外受精胚移植の研究をやっておられた産婦人科医学者の方にインタビューをしたことがあります。そのインタビューの中で、今お話した畜産の研究は人間の体外受精―胚移植にどんな感じで生かされていたのですかとお聞きしたのですが、「いや、そんな研究は知らないよ」という答えが返ってきました。そもそも胚移植は結構ブラックボックスなところがある。今の時点でも結構ブラックボックスで、仕組みがよく分からずになんとなくやっているところがあるというお話だったのです。
そういう話だったのですけれども、実際にエドワーズは杉江さんの論文を引っ張っています。ということで、お聞きしたいのは、エドワーズらが人間の体外受精―胚移植を実施するにあたって、畜産分野での研究がどれぐらい役立ったのかというところです。ちょっと気になっているので、もし何かご存じの点があれば教えていただけたらと思います。
〇花岡:その点について、私は存じておりません。実は興味を持っていたのですが、私が調査し得た限りでは、畜産分野の知見は意外と使われていないという印象を持ちました。もちろん私が見ていない文献はたくさんあると思いますので、それについては今後の宿題にしていたのですけれども、いまだに調べていなくて、そのへんは分からないです。
〇由井:すみません。ありがとうございます。私ばかりしゃべっていてもいけないので、フロアに開こうと思います。どなたからでも結構です。
〇利光惠子・立命館大学:利光と申します。日本の着床前診断の導入過程について研究しております。今日お話しいただいたこともそうですし、論文の中でも、花岡先生は、体外受精によって生まれてくる子どもの健康に対する未知のリスク、端的に言って先天的な異常をリスクと捉えておられます。
今日のお話の最後のところで、1970年代初頭から78年までのラムジーやカスの議論は、生殖そのものの意味を問うような非常に豊かなものだったと話されました。例えばラムジーがリスクとして述べたときに、子どもに対する健康被害だけではなく、生命の人為的な操作、あるいは遺伝子操作をまねくというリスクも含めての体外受精に対する懸念、反対を述べていたと論文にも書いておられます。子どもに先天的な変化があるかどうかだけをリスクとするのではなく、もう少し広い意味の、開いたかたちでの懸念が、非常に漠然としたかたちではあったけれども、70年代にはあったのだろうと思います。
先ほどの山本さんの質問にもありましたように、ヒト受精卵へのゲノム編集のように、体外受精を通じての人間の生命操作がより現実問題になりつつある今、70年代に問題提起されたことを、もう一回捉え返す、再考するというのも大切なのかなと思いました。そのあたりはどのようにお考えでしょうか。
〇花岡:非常に重要な点をご指摘いただいたと思います。ラムジーの思想は、深い宗教的な背景があって、体外受精の問題も、クローン技術や遺伝子操作技術をも含めた生命操作技術の問題として大きく捉えています。ラムジーが懸念していたことは、生殖の意味そのものが変化してしまうということだったように思われます。たしかに、ラムジーは、体外受精を未知のリスクを伴う非倫理的な実験として批判しましたが、当時、人体実験の問題がアメリカの生命倫理の中で最も大きな問題であったことを考えますと、これは当然だったと思います。しかし、ラムジーの思想は、医学上のリスクのみに集約できるようなものではありませんでした。ラムジーの考えは、一方で人間本来の生殖の在り方を守りながら、他方で、病気の治療のためだったら新しいテクノロジーを使ってもいいのではないかというものでした。ラムジーは、 “Fabricated Man” の中で、遺伝子改変技術が人間の病気を治すために使われるのだったら許容できるという主旨のことを述べています。全ての生命科学技術を否定するのではなく、人間の病気を治すとか、福祉に役立つ限りにおいて、許容できると考えていました。今、私たちが置かれている状況と照らし合わせて考えますと、ラムジーが提起した問題は、いまだに問題であり続けているということに気が付きます。そういった意味で、ラムジーの問題提起は、繰り返し想起する必要があるのではないかと考えています。以上です。
〇利光:ありがとうございました。
〇由井:では、ほかの方。
〇小門穂・大阪大学:大阪大学の小門と申します。
ARTのリスクをめぐる科学的検証の現状について、このようなリスクが今、研究されているのかというので、すごく衝撃を受けました。このゲノムのメチル化の異常については、提供卵子のときと、妊娠する女性本人の卵子を使ったときの差は、どのように扱われているのでしょうか。
つまり、精子は提供精子でも、パートナーの精子でもあまり大きな差がないと思うのですけれども、卵子の場合は、妊娠する女性の卵子か他人の卵子かで、自然の妊娠の場合とかなり異なってくると思うのですが、こういったIVFとかICSIの場合に起こり得る異常が、提供卵子か本人の卵子なのかという観点から、どのように検証されているのか、ご存じでしたら教えてください。
〇花岡:提供された卵であるか否かという点に基づいて比較をした実験が行われているかどうかは勉強不足で私には分かりません。たた、卵子をも含めて、様々な配偶子を様々な条件で調べて、メチル化の差異を検討する研究が数多く行われていますので、あるいはそのなかに、提供卵子であるか否かという基準にしたがって進められた研究があるかもしれません。重要な課題であると思います。
〇小門:はい、ありがとうございます。
〇由井:それではほかの方。
〇竹田恵子・大阪大学:大阪大学におります竹田と申します。
不妊治療している方の患者さんの認識の変化に興味があって研究しているのですけれど、1980年代半ば以降で、科学者たちの意識の倫理的言説の変化ということで、3つに分けてお話しいただきましたけれども、80年代から90年代半ばには社会的に受容できる。1990年半ばから90年代の後半でリスクを考慮するべきだと。その後に再評価ということで、その再評価というのはトーンダウンをするのではなくて、ARTは不妊治療としてこのまま発展するというか、社会的に受容しつつも新しい正しい受容に向けてどういうふうになっていくかというスタンスにちょっと変わったというようなお話をお聞きしたのですけれども、こういうふうに変化したというか、科学者集団の中で意識が変わったというのは、中で論じている人たちの科学者のバックグラウンド、何を研究されているかという分野とか興味関心が変わった人たちが、90年半ば後半と、2000年以降で変わったのか。それとも、気になったのですが、2002年以降のヒトゲノムプロジェクトで、そのあたりで科学者全体の見方ががらっと変わって、全体的にシフトしたのかとか、ちょっと気になったので、何かご存じでしたら、ご教示お願いします。
〇花岡:ありがとうございます。ご質問の点は、私も非常に興味を持っている点です。生命倫理の歴史の中に、ARTに関する議論の変化を位置付けていく必要があるのではないかという主旨のご指摘が、レビューアーの方からもありまして、やはり本質的な問題だと思っています。私は力不足でそこまで出来なかったのです。
私が確かめることができたのは、アクターが変わったかどうかです。つまり、発言している専門家が時期によって変わっていったかどうかです。こうしたアクターは、確かに変わっていきました。ただ、アクターの変化といいましても、先ほども申しましたように、ウィンストンのようにリスクに対する懸念を持っている専門家は、どちらかというと少数派ではないかという印象を持っています。リスク問題を懸念している人たちは、ARTの研究者というよりは遺伝学者、統計学者が多いように思います。専門家といいましてもひとくくりにできないので、区別して考えていく必要があると思います。
〇竹田:ありがとうございます。ウィンストンさんは、遺伝学者さんですか。
〇花岡:ARTの研究者です。
〇由井:産婦人科医ではないですか。
〇花岡:そうです。産婦人科医です。まさにARTのエキスパートです。
〇竹田:ありがとうございます。
〇由井:では、ほかの方。
〇笹谷絵里・立命館大学大学院:立命館大学の先端総合学術研究科博士課程の笹谷です。
私が1点気になったのは、先ほど卵子の違いのことを話されたのですけれども、技術の違いによってメチル化に差があるのかなと思いました。とてもメチル化が多く起きる施設で、そこの技術の差であるとか、全然起きない施設に差があるのかという点です。
もう1点は、メチル化によって起こる先天異常のもので、私はここがしっかり聞けなかったところだったのですが、たぶんベックウィズ-ヴィードマン症候群とか、アンジェルマン症候群というものについては、例えば先天異常で遺伝子の異常ということであれば、その診断を受けるためには、その疾病であるというふうに診断された後に遺伝子検査を受けなければいけないということであれば、この症候群でありながらも診断名が付いていない方がまだかなりおられることになるのでしょうか。以上です。
〇花岡:ありがとうございます。
1点目ですけれども、研究施設によって技術が違っている、あるいはそのプロトコールが違っているといった点は、非常に重要な点だと思います。特に欧米におきましては、各施設における出生児のデータがかなり詳細に集められていますが、ただ、どこの施設で多くて、どこの施設で少ないかに関する包括的な比較研究は、あるかもしれませんが、私はまだ読んでいません。
研究施設によって違っていることが分かっているのは、胚の培養時間です。これが長くなるほどメチル化の異常が発生する頻度が高くなることが強く示唆されていて、なるべく早い段階で移植した方がいいのではないかと言われています。家畜動物の結果からも示唆されていることです。
しかし、一方で、施設によって共通している要素に対する懸念もあります。例えば培養液は、市販されているものが使われていますから、共通です。ただ、市販されている培養液は組成が分からない点に問題があります。専門家が懸念しているのはこの点です。培養液の組成は企業秘密になっていて、それが、研究者の不安をかき立てているということがあるのです。ARTの開発期には、研究者が自分たちで工夫して培養液を作っていましたので、組成が分かっていたのです。ところが今はそうではないのです。これも先ほどのウィンストンが提起した懸念の一つです。ブラックボックスになってしまっていて、自分たちが何を使っているか知らないということです。
あともう1つのご質問は、ベックウィズ-ヴィードマン症候群とかアンジェルマン症候群と、メチル化異常との関連にかかわるご質問だったと思うのですけれども、申し訳ないですが、もう一度お願いできますか。
〇笹谷:こちらの症候群と診断されるには、遺伝子的な検査をしなければ診断なされないのかなと感じたので、実際にWBSとかであれば、生まれた子どもに対して親が特に何も感じなければ診断を受けていない。ASとかWBSの子どもさんがたくさんおられたとしても、その子どもさんは診断を受けていないことも多いのかなと感じたのですが、いかがでしょうか。
〇花岡:これも非常に重要な点だと思います。こういった症候群は、メチル化異常ではなく、むしろ遺伝子の変異によって起こる方が頻度は高いのです。メチル化で起こる頻度は数パーセントなのです。例えばASなどでもそうです。圧倒的多数は遺伝子の変異なのです。メチル化の異常は、それを調べる検査をしなければ分かりませんが、その検査を必ずしも皆が受けるわけではありませんので、認識されていない症例が恐らく多数あるのではないかということは研究者が指摘しています。そういった意味で、水面下にあるデータはたくさんあるのではないかということは研究者が考えています。でも、限られたデータの中でも言えることはかなりたくさんあります。
〇貞岡美伸・安田女子大学:私は、貞岡と申します。 代理出産の是非を倫理的に研究しています。1983年に日本でヒト体外受精が成功し、新生児が誕生した時に、日本の産婦人科医師が、体外受精とか代理出産についてどのように述べていたのかを調べて論文にしました。今審査中なのですが、そういう研究をしながら思ったことですが、もしかしたら先ほど利光さんがおっしゃっていたことと似ている話をするかも分かりません。
レジュメのIVFの発展と倫理的言説の変化ということで、1971年に、IVFは生まれてくる子どもに対する非倫理的な実験だと、アメリカでは複数のドクターが言ってきたけれども、1978年のイギリスの成功によって、IVFは不妊治療として倫理的に受容できるという見解に変わったというお話をされていました。日本でも1983年に成功したことによって、マスコミが成功したことをたたえて倫理的な見解が一気に肯定的に変わったような気がしたのですが、旧厚生省が出版した『生命と倫理について考える―生命と倫理に関する懇談報告』の記録を読みますと、いろいろな分野の学者が集まって意見を述べています。もろ手を挙げて、倫理的に受容できると思ってはいなかったのではないかと思います。
ただ、産婦人科医師は、ヒト体外受精が成功したということで、これからどんどんやっていこう、発展させようという意欲を持っていたと思いますが、社会的な別の分野から見ると、どうか、というか、倫理的な面で疑問視もあったのではないかと思ったのですが、この点はいかがでしょうか。
〇花岡:ありがとうございます。日本においてどういう議論があったかということは、私も調べています。今日お話ししましたのは、アメリカとイギリス、そして一部にフランスなども含んでいますが、日本以外のケースをあえて選んでいますのは、海外の方が、資料が豊富で、議論が長期に渡っていて歴史的な変化を知ることができるからです。
日本の研究者の多大な努力があったことは事実ですが、しかし、ある程度出来上がった技術と安全性を一緒に輸入してきたという側面も否定できません。そのために、欧米におけるような文化的な問題や宗教的な問題も含めた豊かな議論は、どうも十分発展してこなかったのではないかと思います。日本にも、欧米のような議論はあったのですけれども、言説と技術の発展の歴史を長期的に見る場合は、日本の例は適していないと思います。むしろ後からやらなければいけないことで、欧米の基本的な傾向が見えてきたときに、日本との比較が初めてできるのではないかと思いまして、あえて日本のことは論じないできました。
ただ、私が調べた限りでお話ししますと、先ほどの生命と倫理に関する懇談会とか、徳島大学の倫理委員会で行われた議論の詳細な記録を見ますと、おっしゃったように、科学者の中にも、リスクをかなり重視している委員がいたことは確かです。ですから、もろ手を挙げてということではなかったのです。特に分子生物学者の中には、かなり強い懸念を表明していた人がいました。臨床応用にあたっての具体的な議論もかなり行われていました。海外の状況をみてから実施するというのは日和見的で無責任であるという意見も出ていました。安全性は分からないがとにかく実施しましょうというのが推進派の意見でした。世界で成功例がたくさん出るまで待っても、分からないことは分からないではないかということで、乱暴な議論ですけれども、その後、臨床応用が進んでいきました。
〇貞岡:私はもっと勉強する必要があるのですが、がんの患者さんの卵巣を取り出して、スライスして、それを凍結保存し、がんの治療が終わってから、スライスした卵巣組織を移植し、これで体外受精をする、または、実際に自然妊娠できるように使うのか、よく分かりませんけれども、そういう先端的な技術が開発されて、もう日本でも実施されている状況があります。それに関しての倫理的な検討、または、安全性に関しての検討をどこまで成されているのかなどを疑問に思います。技術が先行していて、リスクとか倫理の問題が後回しになっているのか。体外受精とはちょっと違う話になりますけれど。
それも、卵巣の組織を凍結保存するために何かの薬を使うと推測しますが、何らかの害というか、安全性の問題などを今後の研究課題にしたいと思います。
〇花岡:その問題については、つい最近知りました。私は不勉強で、お話しできるようなことはありません。ご質問を伺って、その問題の大きさに改めて気が付きました。
〇由井:ありがとうございます。
〇松原:花岡先生、本日はありがとうございました。今回のご発表では、科学者たちの議論の変化を整理していただき、体外受精の倫理に関して検討すべき論点を見出すことができました。いろいろと伺いたいことはあるのですが、ひとつだけコメントさせていただきたいと思います。
花岡先生はレジュメの最後にある結論で、「倫理の存在理由は何なのか」という問いを出されています。本日のご発表のキーワードは「リスク」だったと思うのですけれども、1970年代前半のカスでもラムジーでも、あるいは当時の市民でも、彼らは「リスク」の観点から批判をしていたのでしょうか。それ以前に「生命操作」自体がよくない、といった規範的な問いに通じる議論をしていたのではないでしょうか。
体外受精をめぐる問題をリスク概念で論じると、途端にそれは効用の評価の問題になります。ベネフィットとハザードをはかりに掛けて最終的な落としどころを見つけていくことになります。
花岡先生は、体外受精技術を最初からリスクの問題として論じておられながら、最後に「倫理に何かできるのだろうか」と問いかけておられます。しかしこの問いは循環的になってはいないでしょうか。リスクコミュニケーションにもとづく公共政策としての生命倫理であれば、後追いになったり時代と共に変わったりするのは当然だと思います。そうではない規範としての倫理を問うのであれば、リスクコミュニケーション、効用計算とは別のところにある何かを考える必要があるのではないでしょうか。
欧米では、「生命操作」を批判する生命倫理の背景にキリスト教の影響を見て、批判されることがあります。文化的背景が異なる日本では、障害をめぐる運動や論争を通して生命操作批判に対する独自のアプローチが形成されてきたところもあり、欧米とは異なる生命倫理への理論的貢献が可能かもしれません。
最後に、今後花岡先生にご検討いただきたい点を述べたいと思います。安全性に関する科学的議論は一定重要であるのだけれども、リスクの低減を目標にするとやればやるほど障害否定になってくるところがあります。着床前診断とか胎児診断だと、その前提にリアルな生命の存在がありますから、具体的なこの胚、この胎児はどうするという問いを立てることはできる。しかし、体外受精のリスクを障害の発生や病気の発生という観点から突き詰めていくやり方は、ゼロの存在についてリスクを論じることになり、自分の子どもをもちたい不妊の人や、不妊症の人を救おうとする産婦人科の医療者にとっては響きにくいのではないでしょうか。そもそも体外受精でないと子どもが持てない人にとっては、ゼロ、すなわち生物学的な自分の子どもを全くもてないか、(障害があっても)子どもが持てるかのどちらかだからです。
例えば人類遺伝学者の議論と、体外受精を推進している産婦人科医や不妊治療医の体外受精のリスク認識をめぐる「ずれ」は、こうしたことに関係しているのではないでしょうか。
〇花岡:ありがとうございます。
まず、1点目の研究の枠組みに関するご指摘ですが、私自身も弱点と自覚しているところで、ご指摘いただいてそのとおりだと思います。方法論的に初めからリスクの問題に絞ったときから結論は決まっていたのかもしれません。このことは、私自身も方法論的に正しいのか否か、今回の発表をまとめている段階でもずっと気になっていました。たぶんどなたかに指摘されるのではないかと思っていたのですが、確かにおっしゃるとおりだと思います。
この研究を企てたときに、倫理の在り方を主題として論じる姿勢が、私自身に欠けていたのではないかと思います。つまり、初めから倫理を批判するところから出発していて、倫理的言説は技術の後から付いてくるのだという枠組みで研究を始めてしまったように思います。これは後から自覚してきたことです。どういう倫理があり得るかを提示できなかった理由は、方法論的な欠陥にあるのではないかと思っています。問えないことを後から無理に問おうとしたためではないかと思います。研究を始めてから論文を書くまでに数年かかかっていますので、その間に倫理に対する考え方もいろいろ変化をしてきて、初めは倫理を批判的なかたちでみていたのですが、そのうち、そうでなくなってきました。そこで、枠組みとしては無理なのですけれども、倫理とは何かという問いを最後に持って来ざるを得なくなって、つぎはぎ的になってしまったところがあるように思います。そういったところが、方法論的な欠陥なのではないかと思っていまして、今後研究を進めるにあたっては、そのへんをもう少し考えて、自分がやりたいのが、倫理の本当の在り方を積極的に模索していくことなのか、あるいは批判に徹することなのか、深刻な反省をしていかないといけないと思っています。
次に、2点目につきまして、不妊治療を積極的に推進する方々と、遺伝学者との視線の違いは、私も研究する中で少しずつ認識するようになりました。石原理先生のご著書を読みましたときに、私には、臨床医学の視点が欠落していることに気付かざるを得ませんでした。先生は、臨床医学においては結果が全てなのだと述べておられます。もちろん、それでいいというのでなく、科学的な検証の重要性も強調されています。私は、臨床の場にいないために、偏った考え方をしていたことに気づきました。リスクがあっても、0の場合と比較してより豊かな結果が期待できれば、肯定していかなければいけないという考え方の重要性を私も認識し始めています。東大で以前、このような講演をさせて頂きましたときにも、私の研究は、リスクのあることを初めからネガティブに考えすぎているのではないかというご指摘がありました。先天異常があってはいけないのですか、という主旨のご指摘を頂いて、反省が必要だと感じました。
私自身の立場を反省しながら、さらに研究を進めていきたいと思っております。大変貴重なご指摘をありがとうございます。
〇松原:不遜なことを申しましてすみません。こういうかたちで整理していただくことによって、議論すべきポイントを私自身確認できました。
いろいろな科学コミュニティによって、リスクや倫理の受けとめかたが異なっていることは共有されるべきで、論文を書いていただいたのは本当にありがたいです。それで私たちもこういう場で具体的な議論ができますので、今後ともよろしくお願いします。
〇花岡:こちらこそお願いします。
〇由井:議論が尽きないところですが、この後18時からこの近くで第二部として情報交換会兼懇親会がありますので、続きはそちらでということですけれども、懇親会にいらっしゃらない方で、どうしてもこの機会に聞いておかなければならないところがあれば、最後にご質問お受けしたいのですが、よろしいですか。では、第一部はここでお開きにしたいと思います。花岡先生、どうもありがとうございました。
(拍手)
(終了)

付記
・本企画に関する花岡龍毅氏の研究については、以下の論文を参照されたい。
花岡龍毅, 2009, 「不確実性の生成―体外受精技術の歴史」『科学史・科学哲学』22,25-43.
花岡龍毅, 2009, 「体外受精の歴史における基礎研究から臨床研究への移行過程の特質」『生物学史研究』82,1-20.
花岡龍毅, 2011, 「生殖補助技術の科学的検証のリスクをめぐる倫理的言説の変遷」『生物学史研究』85,21-40.
花岡龍毅, 2013, 「生殖補助技術の科学的検証の歴史的変遷―リスクをめぐる科学者・医師の言説をめぐって」『生物学史研究』89,1-21.
・本企画は、上廣倫理財団研究助成(研究代表者由井秀樹「体外受精研究のフレームに関する歴史研究-1960〜80年代の日本の展開」)と立命館大学生存学研究センター若手研究者研究力強化型プロジェクト「出生をめぐる倫理研究会」の共同主催、立命館大学生存学研究センターの共催で行われた。