第1部 生命倫理と現代史研究 4 日本における妊娠相談と養子縁組をめぐる運動と立法 ―実子特例法制定運動から養子縁組あっせん法試案へ

生命倫理と現代史研究

日本における妊娠相談と
養子縁組をめぐる運動と立法
―実子特例法制定運動から養子縁組あっせん法試案へ

吉田一史美

はじめに

日本では、若年妊娠、婚外妊娠など生殖をめぐる諸規範からの逸脱に直面した女性の第一の選択肢として、中絶は戦後の早い段階から容認されてきた。1948年の優生保護法の成立、母体保護法への改正を経て、日本の「中絶法」はつねに戦後の核家族をモデルとする性、生殖、家族に関する規範を今日まで支えてきたといえる。現在の日本においては、産科医療、母子保健、児童相談のいずれの分野においても、たとえば妊娠葛藤相談、匿名出産受入、養子縁組支援など思わぬ妊娠をした女性を対象とする支援の方策は、十分に制度化されているとはいえない。
この問題を浮き彫りにしたのが、新生児の遺棄・殺害の防止を目的に2007年に設置された熊本慈恵病院の「こうのとりのゆりかご」であった。同院は、出生児を匿名で預かる業務のほか、妊娠相談窓口、民間の養子縁組支援機関と連携して非匿名での養子縁組支援を行なっている。当初は賛否がわかれた先駆的な実践であったが、「0歳児の虐待死」(児童虐待等要保護事例の検証に関する専門委員会2015)、「緊急下の女性」(柏木2013)といった福祉的な文脈と要請のなかで議論が広がりつつある。
民間におけるこうした問題提起は、日本の養子縁組に関わる福祉体制の根本的な改革の必要性を認識させるに至った。養子制度の今日的な課題が、従来の児童養護における脱施設化(津崎2009)、乳児の人身売買等が懸念される国際縁組の規制(奥田2012)から、困難な状況で妊娠・出産に直面する女性の包括的な支援へと拡大したのである。現在、厚生労働省と養子制度研究者によって、養子縁組の実践手続きに関するガイドライン等の作成に向けた検討がすすめられている(林編2015)。
本稿では、現在の妊娠相談事業の導入や養子縁組制度の改革における試みが、戦後の日本社会においてどのような系譜と枠組みをもつものであるのかを明らかにする。1970年代以降の日本における妊娠相談と養子縁組をめぐる運動と論争をたどり、人工妊娠中絶をめぐる倫理的問題について、産婦人科医らが養子縁組という方法を提示してきたことを示す。1970〜80 年代に展開した「実子特例法制定運動」と、2000〜2010 年代の「養子縁組あっせん法試案」をめぐる論争において、妊産婦の主体性・自律性がどのようにとらえられているのかを検討する。

1 実子特例法制定運動の背景

1-1 産婆制度の解体と児童福祉法の成立
戦前・戦中を通して、乳児を預かって哺育する乳児保護の分野では、産院や産婆が中心的な役割を担っていた。公立の産院付属乳児院や社会事業団体で貧困乳児や遺棄乳児が保護されるなか、民間の産院には実親が養育できない「私生子」や生活苦にある家庭の乳児が集まっており、産婆による「貰い子斡旋」が行われていた1。戦前から終戦直後まで、当時の新聞紙面上には、産院による乳児の一時預りと貰い子斡旋に関する広告が掲載されていた。
世界恐慌の翌1930年に、親が養育できない子どもを預かった者が、養育料を詐取して乳児41人を次々に殺害したと疑惑の「板橋貰い子殺し事件」が報じられた。これを受けて同年、養育料目当ての貰い親による乳児殺を防止するために東京府産婆会乳幼児哺育部が設立され、九段にある産婆会館で乳児預りと養子斡旋が開始された2。この東京府産婆会による養子斡旋事業は、1945年の空襲で産婆会館が消失したことにより終了したと推測される(白井2012)。
占領軍総司令部の方針による日本の産婆制度の解体は、児童福祉法によって乳児院・里親制度が成立する時期と重なる。1947年12月12日に公布された児童福祉法によって厚生省に児童局が設置され、児童相談所の設置や乳児院の公設、里親の利用が定められて、親が養育できない乳児を保護する公的な児童福祉体制が新たに整備されることとなった。
終戦直後に東京で摘発された産婆による乳児の大量殺害(寿産院事件3)は、従来の研究では中絶の合法化や産婆制度および助産婦職の衰退に関連づけて取り上げられてきたが(藤目1997;大林1989;田間2001)、この出来事は戦後の児童福祉法における乳児保護体制の構築に重要な意味を持っている(吉田2013)。寿産院は、同法の公布から約1ヶ月後に摘発されており、厚生省児童局保育課長(当時)吉見静江は、産院における乳児殺害への対策として「どうしても公共の立場から施設を増やすことであるが児童福祉法による児童福祉委員や児童局を一日も早く活躍させるのが大事と思う」と述べている(『読売新聞』1948.1.20)。厚生省は1948年の3月19日付で助産婦の業務に関する広告取締令を出し、当時の産院が駅前等の公共の場に掲示していた「事情ある方御相談に應ず」「乳兒預かります、秘密厳守」等の広告は厳禁された(松下1948)。
1948年10月に厚生省から「家庭養育運営要綱」が出され、里親制度の運用に関して具体的に定められた。
とくに養子縁組に関しては、「いままで自己の子供を養子に出そうと思っている者又は兒童を養子にしようと思っている者の多くが適当な機関がないため相手を見出すことに幾多の困難、不便と危険を経験してきた実情に鑑み、本要綱はこれらの人々のために児童相談所が中に立って適当な斡旋をすることにした。したがってそれらの人々が児童相談所にくるよう一般の啓発に努めること」とされ、産婆や私人にかわって児童相談所が養子と養親の仲介を行うよう求められた。

1-2 優生保護法の成立
戦後の乳児の大量殺害の摘発に際して、早稲田署長(当時)の井出勇(1948)は、乳児院等の設立よりも堕胎の法認の方が現実的であると提案していた。また、医師の林髞は「この問題を解決する方法はただ一つ堕胎を公認する意外にない」「生んだだけでロクに育てもせず、まして教育も與えない場合、それは堕胎以上の罪悪ではあるまいか」と堕胎容認の必要性を強調した(『週刊朝日』1948年2月8日号)。
そして戦後の優生政策および人口抑制政策として、1948年7月に優生保護法が成立し、合法的に中絶を行うことが可能になった。同法は「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護することを目的とする」(第1条)と明記し、「優生手術」(不妊手術)および中絶について定めた。戦時体制のもとで1940年に制定された断種法である国民優生法と比較すると、優生政策は拡大・強化されていたのだが(松原1998)、中絶が行われうる場合は極めて限られおり、また多くの場合に各地保健所内の「地区優生保護委員会」の審査決定が要件にされていた。
しかし、深刻化する人口問題と国民の生活の困窮に対して、翌1949年に同法が改正され、審査を要する中絶に適応するものに、妊娠・分娩が身体的または「経済的理由」により母体の健康を著しく害するおそれのある場合が加えられた。さらに3年後の1952年の改正では審査制度が廃止され、医師の認定のみによってすべての中絶が行えるようになり、中絶件数は飛躍的に増加した。こうして、親が養育できない子どもは、優生保護法によって妊娠を中絶されるか、出生後に児童福祉法によって保護されるかのどちらかになった。
優生保護法は太田典礼、加藤シヅエ、谷口弥三郎ら超党派の衆参両院の議員10名によって提案され、両院の厚生委員会による簡単な審議の後に全会一致で可決された。委員会における審議を記録した議事録では、中絶の適応条件、手続き、風紀頽廃などに関する質問や意見が出されたが、胎児の生命についてどう考えるのかという問題は全く省みられなかった(石井1982)。
ただし、優生保護法は成立時より中絶について「人工妊娠中絶とは、胎児が、母体外において、生命を維持することのできない時期に、人工的に、胎児及びその付属物を母体外に排出することをいう」(第2条第2項)と定義していた。同法の条文では、胎児が母体外で生存できる時期については明らかにされていなかったが、中絶の審査制度が廃止された翌年、1953年の厚生省事務次官通知によって「妊娠8ヶ月未満」と公式に規定された。

2 実子特例法制定運動

2-1 後期中絶と嬰児殺の告発
戦後、養子縁組の仲介は、産婆・産院ではなく児童相談所が行うものとされ、養子縁組を希望する人々が児童相談所を活用するように行政による啓発活動が指示された。はたして「私生子」の親たちは乳児院や児童相談所などの公的な制度を積極的に利用できたのかという問題は残るが、このような一面をもって戦後日本の児童福祉体制における乳児院制度と里親制度は始動したのである。こうした戦後の医療・福祉体制のなかで、1973年に始まった実子特例法制定運動は、産婆・産院の乳児保護事業の系譜に連なる事象として位置づけることができよう3。
産婦人科医の菊田昇が実子特例法制定運動をはじめる直接の契機となったのは、当時の人工妊娠中絶をめぐる倫理的問題であった。宮城県石巻市の産婦人科医の菊田昇は中絶にかかわる問題として子捨て・子殺し問題を取り上げた。菊田は開業して間もない頃に、妊娠8ヵ月での堕胎を希望する妊婦への施術を断ったことがあり、その10日後にその妊婦の家族が市役所の戸籍係へ死産届を出したことを知った。この一件をきっかけに菊田の実子斡旋の試みは始められたという。当時の優生保護法は妊娠8ヶ月未満までの中絶を認めていたが、菊田は母体外で生存する可能性がある7ヶ月以後の胎児には生きる権利があると考えていた。しかし、中絶を求めて菊田のもとを訪れる妊婦は7ヶ月以後に区切っても年間10人前後いたといい、その結果行われる中絶手術について菊田は次のように述べている。

両親に望まれた胎児の場合なら、母体を助けるために早く産まされても、未熟児保育器に収容されて手厚い看護が受けられる。しかし、母から望まれないまま、中絶により体外に出された赤ちゃんは、たとえ呼吸して元気でいても死ぬままに放置され、あるいは積極的に劇薬を注射されたり、水に浸けられて死を与えるのが実情である。人間として、まして医師として、まことに悲惨な思いにかられるが、これは合法の名のもとに許されていた(菊田1979:15)。
菊田は、思わぬ妊娠をして相談にやってきた母親たちを説得して分娩させ、生まれた子を不妊の夫婦へ実子として10年間で100人ほど出生児を斡旋していた。
1973年4月17日と18日の両日、菊田は例によって『石巻日々新聞』『石巻新聞』の二紙に「“急告” 生まれたばかりの男の赤ちゃんをわが子として育てる方を求む。菊田産婦人科」という広告を載せたところ、毎日新聞と朝日新聞の記者が関心を示して取材に訪れたのである。菊田は、この問題を大々的に報じることを条件に、実子斡旋の事実を告白した。実子斡旋には医師による虚偽の出生証明書作成が伴っていたが、菊田は自らの違法行為を新聞紙上で告白することによって、女性・胎児・出生児のための新しい養子縁組の必要性を広く訴えようとした。

2-1 実子特例法の特徴
菊田は、実母と子の法的親子関係が消滅し、実母の戸籍に出産・縁組の記録が残らない養子縁組があれば母親は中絶を思い留まることができると確信していた。そこで現行養子法とは異なる「実子特例法」を提唱した4。
現在の養子制度改革論を踏まえると、実子特例法の特徴は以下の3点を挙げることができる。第一の特徴は、養子縁組仲介機関の公設である。これは、現在の児童相談所とは異なる機関が想定されており、全国的かつ細やかな養子縁組仲介事業の展開が期待されていた。

(1)各都道府県所在地に各都道府県立の養子仲介機関を設置する。
(2)‌養子仲介機関は次のような業務を行う。イ.養親の申し込み受理、養親の審査。ロ.実親からの事情聴取、及び記録作成、特別養子(捨子)の受容、乳児院への委託、家裁への養子縁組申請、家裁許可後養親へ子供を収養せしめる。ハ.縁組後の養子の監護。(菊田1979: 276)

第二は、妊産婦の相談窓口と親権放棄の意思確認である。

(1)‌親権の放棄を望む実親は養子仲介機関に直接、または医師、弁護士を仲介として親権を放棄することを申し出る。
(2)‌養子仲介機関は実親の事情を詳細に聴取し、できるだけ育てるように説得するが実親の決心が固いか、または実親の親権放棄を認めることが子供の利益になると判断した場合は意思確認のため、署名捺印をさせて、親権放棄の許可を家裁に申請する。実親よりの親権放棄の撤回は、申請後2週間に限って認められる。
(3)‌実親の遺伝的情報はできるだけ詳細に記録され、保管される。しかし、実親がこれを拒む場合はその限りではない。 (菊田1979: 277)

そして第三は、出生証明書・出生届・戸籍における生母のプライバシー保護である。

入籍前の子供については、医師は事実に基づいて出生証明書を書き、出生届の欄は空欄のまま家裁に提出されるが、この書類は他の調書とともに家裁の金庫に封印して保管される。戸籍係に届け出る書類は出生証明書欄は家裁の“特別養子許可”の印が押されるだけで空欄とし、出生届出欄には、養子の出生の日時、場所が記載され、父母の欄には養親の名が記載されることになる。(菊田1979: 278)

このほか、親権を放棄された子どもの養親家庭への速やかな措置、ケースワーカーによる縁組後の「監察」、仲介機関による「縁組の廃棄」の申し立て、養子の精神的障害を理由にした養親による「縁組判決の無効」などさまざまな規定が記されていた。
制度化には至らなかった実子特例法であるが、そこでなされた提案は、今日の養子制度が抱える課題の多くをその射程にとらえていることがわかる。この1970〜80年代には政策的課題として取り組まれなかった問題群が、2000年代以降の養子制度改革論のなかで問われていく。

4 養子縁組あっせん法試案

4-1 国際養子縁組の規制の必要性
現在の特別養子法は「実親子の法的関係の断絶」という点において実子特例法と共通しているが、結果的に実子特例法制定運動と袂を分かつようにして1987年に成立した(吉田2009)。特別養子は、実親子の法的関係を断絶する形式の養子縁組として、産婆が仲介する養子縁組等における虚偽の出生届を防止、それによって不利益を被る養子を保護するために1959年に考案されていた。特別養子論は、実施特例法制定運動への呼応するように再燃し、1980年代に当時の米国児童福祉の実践にまなび、施設収容児童を対象とした児童福祉政策の一環として創設された。原則6歳未満の子どもと25歳以上の夫婦による縁組であり、現在年間300件程度で推移している。
現在の養子縁組制度の不備、児童相談所体制の限界と、それによる弊害を考慮して、養子縁組あっせん法試案は考えられた。直接の背景となったのは、国際養子縁組の規制の必要性である。子どもの権利条約や国際養子縁組に関するハーグ条約が採択されたことによる影響下、日本の新生児・乳児が、民間の国際養子縁組仲介事業者によって、海外へ送り出されていることがにわかに問題視されはじめた。
2006年に読売新聞記者の高倉正樹が出版した『赤ちゃんの値段』は、米国などの海外に養子として渡る日本の新生児・乳児についての取材をまとめたものである。社会福祉法に定められた届出を行わない養子縁組の仲介事業者、養子縁組仲介に際して海外の養親候補者に数百万円の寄付をもとめる事業者の存在、また、出産直後の実母に養子縁組の承諾書へ署名をさせる事例や、妊娠相談受付の際に「近くの公園に赤ちゃんを置いてくれれば、私たちが責任を持って引き受けます」と出生児の遺棄を誘導した事例を報告した。
乳児の人身売買、生母の意思確認、養子のルーツ探しへの対策が、養子制度の課題として浮上したことに応えるように、同書の末尾には法学者の奥田安弘と鈴木博人が作成した「養子縁組斡旋法試案」(全17条)が掲載されている。以下は、その目的を定めた第1条である。
この法律は、児童の権利に関する条約第21条の趣旨に鑑みて、養子縁組の斡旋に対する監督を強化すること、とくに不当な金銭の授受を防止すること、養子縁組ができるだけ児童の国際的な移動を伴わないようにするため、国内養子縁組を促進するための措置をとること、やむを得ず国際養子縁組を実施する場合には、慎重な手続きに服させること等を目的とする。

この試案の核心は、人権や福祉的な観点から諸種の弊害を伴う民間の養子縁組を規制するものであった。終戦直後、乳児の殺害を防止することを目的に、産婆や産院が行っていた養子縁組の仲介支援が規制され、そのかわりに児童福祉法による乳児院における乳児の収容と児童相談所による養子縁組支援の枠組ができた。いま国際的な市場で生殖をめぐる契約がなされる時代となって、戦後の児童福祉法体制のはざまにある出生児の処遇をめぐり、民間における養子縁組の実践の功罪への関心が再び高まっているのである。

4-2 産婦人科医らによる問題提起
しかしながら、現在の「養子縁組あっせん法試案」の受容は、国際養子縁組の規制という文脈だけではなかった。同試案が養子制度改革論の俎上におかれる2000 年代には、中絶手術を行わない産婦人科医ら5の新たな試みと運動が展開していた。
2007 年に産婦人科医・蓮田太二が、匿名での新生児・乳児を預かる「こうのとりのゆりかご」を設立した。蓮田は「ゆりかご」の設立にあたり、熊本県内で発見された3嬰児の遺体や、若年での出産の末に出生児を殺害した複数の事例に触れている(蓮田2007)。現在、慈恵病院では24 時間体制の妊娠相談事業、非匿名での養子縁組支援も並行して行なっており、2012 年度には 1000 件を超える妊娠相談を受けた。
社会保障審議会児童部会の「児童虐待等要保護事例の検証に関する専門委員会」は、2003年から継続している検証報告「子ども虐待による死亡事例等の検証結果等について(第10次報告)」(2014年9月)で、0歳児死亡事例についての特集を組んでいる。それによれば、0歳児の心中以外の虐待死事例の全体における割合は約4割(240人)を占め、このうちの 約4〜5割程度が0日〜0か月児(111人)であり、0日児事例は(94人)に上る。
「実母」が加害者であった事例は91.0%で、0日児事例では「望まない妊娠」が71.3%、出産場所は自宅がもっとも多かった。事例の多くに児童相談所などの行政機関による関与・支援がなかったことが指摘されており、「妊娠について悩みを抱え、支援が必要な場合、妊婦自身のおかれている孤立した状況を丁寧に受け止めながら、妊娠から出産に至るまで、切れ目のない相談・支援が行える体制を整備するとともに、それら、いつでも相談できる窓口があることを周知することが重要である」(同委員会2014:19-20)と述べられている。
児童虐待問題の枠組みで妊娠相談に関する議論が展開されている一方、そうした出生児の遺棄や殺害といった事態に直面する妊産婦を「緊急下の女性」(柏木2013)として、支援の対象とする議論も構築されつつある。2012年より、熊本慈恵病院は民間の養子縁組支援機関「命をつなぐゆりかご」と連携して、養子縁組支援を本格的に行っている。2013 年には、特別養子制度が施行した1989年から現在に至るまで養子縁組仲介をボランティアで行っている産婦人科医・鮫島浩二が、養子縁組相談や仲介に取り組む19の医療機関が参加する「あんしん母と子の産婦人科連絡協議会」を設立した。こうした2000〜2010年代の動向をみるとき、熊本慈恵病院の「こうのとりのゆりかご」という世論をおおきく揺るがした問題提起に端を発して、ふたたび産婦人科医らによる養子縁組への取り組みの規模が拡大し、養子縁組という実践が再び広い支持を得てゆく過程がうかがえよう。

4-3 養子縁組あっせん法案への批判
現在の「養子縁組あっせん法試案」(全41条)は、2006 年版の「養子縁組斡旋法試案」を増訂したものであり、正式名称も「養子縁組のあっせんにおける児童の保護などに関する法律(試案)」と改めた。その目的は、児童の保護、養子縁組の促進、不適切な養子縁組あっせんの防止を図ると明記されている。

第1条(目的)この法律は、不適切な養子縁組あっせんが児童の利益を著しく侵害することにかんがみ、民間あっせん機関の許可などについて定めるとともに、養子縁組あっせんに係る業務について、必要な措置を講ずることにより、児童の保護を図り、あわせて養子縁組あっせんの促進および不適切な養子縁組あっせんの防止を図り、もって児童の福祉の増進に資することを目的とする。 (奥田ほか2012 : 61)

この試案は、2006年度版から多くの検討が重ねられたものであり、かつ前項で述べたような新生児・乳児の保護、妊産婦の支援という視点を取り入れんとしたものである。
しかしながら、養子縁組あっせん法試案をめぐっては、養子制度研究者や実践家からいくつかの批判がなされている。たとえば、同法試案は養子縁組の支援ではなく規制の側面が強いという点、また、養子縁組にかかわる支援や仲介に関して否定的な意味合いを含む「あっせん」という用語の使用が反発を呼んでいる(白井ほか2014)。そして現在、最大の論点となっているのが、生母の同意の制限や同意撤回が可能な期間の長さに関する批判である。
この試案では、児童が出生後3か月を経過するまで、父母などの同意を得ることができないとされ、さらに養子縁組が成立するまでの間、書面によりいつでもその同意を撤回できるとされる。その規定は第29条に置かれた。

第29条
④ ‌児童相談所または民間あっせん機関は、児童の出生後三月を経過するまでは、父母などの同意を得ることができない。
⑤ ‌父母などの同意をした者は、養子縁組あっせんに係る児童について養子縁組が成立するまでの間、書面によりいつでもその同意を撤回することができる。
(奥田ほか2012:99-100、下線は筆者)

これは、従来の特別養子制度の課題であった長期施設養護にある子どもの養子縁組6にくわえて、新生児・乳児の養子縁組に伴いうる弊害、妊産婦の養子縁組支援の倫理的側面といった課題を射程に捉えた同意規定である。しかし、同試案の同意規定は、児童の福祉、妊産婦の支援、円滑な養子縁組仲介に支障をきたすとして批判されている(宮島2013など)。奥田(2014)はこの点について、ドイツにならい「出生後3か月」を「出生後 2か月」に改めるなど、現在も検討が続けられている。
こうした養子縁組あっせん法試案をめぐる支援と規制の議論には、出産直後の女性が十分な説明なく養子縁組承諾書に署名させられた事例(高倉2006)や、生後3週間で養親希望者に子どもが引き渡され、生母が1年9か月後に同意を撤回した事例(平成14年12月16日家裁月報55巻6号112頁)が示す危険性が念頭に置かれていると考えられる。試案を作成した奥田は、「出産前に母親の同意を取り付け、出産したら直ちに児童を養子縁組希望者に引き渡してしまうことがあるようである。母親が児童を抱いたら、情が移ってしまうので、可哀そうだからというが、それで本当に母親の同意が得られたと言えるのであろうか」(奥田ほか2012:100)と述べている。
この種の争いや弊害は、熟慮期間の長さや同意撤回の可否を定めることによって解決されるものもある。しかし、根本的な解決策となるのは、妊娠期から出産後かけて不安定な状態にある女性に対して、カウンセリングを通して、子どもの利益のために責任ある判断を行える母親として女性を支援することにある。養子縁組を考慮する女性たちについて、母親としての尊厳が守られ、自律性が得られた状態をつくり出すことが、養子縁組支援制度の前提である7。
立案から10年を経た養子縁組あっせん法試案であるが、今国会に議員立法で提案されると報じられた(『読売新聞』2016年2月17日付)。また現在、児童相談所における妊産婦支援と養子縁組仲介の事業を本格化するための厚労省のガイドライン作成も進められている。こうした立法や制度化が、これまで産婦人科医らが展開してきた妊娠相談や養子縁組をめぐる運動と問題提起にどこまで応えるのかが注目される。

おわりに

本稿は、実子特例法制定運動から養子縁組あっせん法試案までの産婦人科医による運動と立法化をめぐる論争をたどった。戦後の産婆制度の解体によって、戦前・戦中の産婆による養子縁組仲介が衰退し、優生保護法と児童福祉法をもとに産科医療・児童福祉体制の構築がなされた。それらのはざまにあった後期中絶と嬰児殺の倫理的問題から、1970年代に実子特例法制定運動が始まったのだが、菊田によってなされた重要ないくつかの提案は、1980年代の特別養子制度の立法化の過程で実現することはなかった。このとき残された課題を引き継いだのが、現在の産婦人科医である蓮田・鮫島らの養子縁組支援の仕組みとネットワークである。
女性の妊娠・出産は、出生児の処遇にのみ関与する児童福祉の対象になりにくく、また女性の人工妊娠中絶や生殖の自由といった倫理的な問題は、民法と戸籍法に軸足をおく養子制度の法的議論のなかではとらえきることができなかった。これが、戦前から戦後を通じて、つねに産婆・産婦人科医らが妊産婦支援、胎児・出生児保護の最前線に立ってきたことの理由であろう。産婆や産科医たちが代弁しようとしてきたもの、あるいは現在の日本の養子制度改革において欠落しているものがあったとすれば、厳しい状況で妊娠・出産を経験する女性の「声」である。
1970年代において実子特例法制定運動は挫折したものの、人工妊娠中絶や嬰児殺、養子縁組や未婚・非婚というライフスタイルをめぐり、フェミニスト、産婦人科医、法学者、宗教家らの言説空間でさまざまな視点が示され、たたかわされた(吉田2011)。特別養子制度創設から24年、現在の日本における養子制度改革論は、いまふたたびさまざまな可能性を孕む議論の段階を迎えたばかりである。実子特例法制定運動はなにを実現しようとしていたのか。こうのとりのゆりかごはなぜ病院で、匿名でなければならなかったのか。養子縁組仲介では、何のために誰をどう支援するのか。取り組まなければならない問いは多く残されている。
これまで産科医療の現場からの問題提起と運動が繰り返されてきたが、妊娠相談事業や養親縁組仲介を担う専門機関の公設はいまだ構想されていない。日本の習俗文化においては、新生児や乳児の養子縁組は長い歴史を持ち、主として私的領域で行われてきた営みである。妊産婦の意思、出産に関わる人の倫理、宗教家や市民によるボランティアといった諸々を法制度によっていかに補助あるいは取り締まるかという従来の枠組みから、女性の一生、出生児の生命に関わる養子縁組という事象を公的領域がどのように引受け、支援するのかという転換が求められている。
出生届出と戸籍記載による女性の出産・縁組の管理と公証は、人工妊娠中絶や「こうのとりのゆりかご」という選択肢が養子縁組に優先する要因になりうる。これでは、養子縁組をめぐる制度設計のなかで生殖における女性の自律性が十分に保障されているとはいえない。さらに、養子縁組における生母の長期にわたる同意制限と救済期間の併設は、カウンセリング、女性の意思決定の軽視とも考えられることができよう。養子縁組に臨む妊産婦が、児童福祉の実践と養子縁組家庭の構築のプロセスにおいて、主体として十分に扱われていないということである7。日本の妊娠相談と養子縁組をめぐる運動と論争において、妊産婦の自律性・主体性はつねに重要な課題であったとともに、現在の養子縁組支援が克服すべき体制的、規範的の限界の一つである8。


1 伊賀(2009)の聞き取り調査で、関西の都市部で1936年に開業した産婆が、戦時中に経済的理由等で子どもを育てられない女性の出産を介助し、出生児を預かって養育希望者に斡旋していたと証言している。なお、その場合には出生届に育て親の名前を記載したという。
2 白井(2012)の元助産婦への聞き取り調査で、戦争中に女性が夫以外の男性や外国人との間に生んだ子どもを産婆が産婆会館へ連れて行ったことが話されている。産婆会館ではベッドに寝かされた乳児が並び、両親の名前、体重、性別などが示されていた。養育希望者は不妊夫婦などで、性別や生年月日を確認してお金を払って子どもを引き取る。この元助産婦は当時の斡旋事業を「そういう風にね、子どもたちを大事に取り扱って。誰の子どもであろうと」と肯定的に回顧している。
3 寿産院事件とは、1944年~1947年に東京都新宿区の産婆が経営する産院へ預けられた乳児103名(推定)が殺害され、1948年にその産婆とその夫が逮捕された事件である。同年に淀橋産院事件も発覚している。
4 菊田事件の第一報の反響は大きく、各新聞は特集を組み、テレビ・雑誌等も続々と関心を示した。菊田の「実子特例法」は、新しい養子制度の名称として菊田事件の報道で使用され、市民運動やジャーナリズム等に定着していった。もっとも活発であったのは地方自治体における推進運動であり、1974年12月16日の札幌市議会を皮切りに「実子特例法立法化に関する意見書」が各地で採択されていった(中川1986)。
5 蓮田太二氏はカトリック系病院の理事長であり、鮫島浩二もクリスチャンであることを公言している。ちなみに、菊田昇の妻・静江はクリスチャンであり、菊田自身も晩年に洗礼を受けたのちにその生涯を終える。
6 特別養子制度は、こうした未成年養子縁組が発達した諸外国の児童福祉政策の影響を受けた立法であった。しかし、現在4万人を超える日本の要保護児童の大多数は、里親を含めた家庭的養護の機会に十分にめぐまれておらず、特別養子制度が児童福祉の実践に定着したとはいえない。このことから、これまで特別養子縁組をめぐってなされた実親の同意に関する議論は、長期の施設養護にある子どもの養子縁組の可能性を主眼に置いており、概して実親の「同意不要」に関する検討が重視された(鈴木1998など)。
7 その延長線上で、たとえば妊婦が主体となって養親候補の選別・面会を行うことや、養子縁組の準備が進むなかで実母が自ら養育する決意を表明すること、あるいは出生児との交流を維持するオープンな養子縁組を実親が要求することも可能になると筆者は考えている。
8 姜(2015)は韓国の未婚母子支援における青少年未婚母の教育を受ける権利保障などの仕組みを紹介し、日本においても困難な状況にある妊産婦に対して、医療面にくわえて学業や自立支援に至る包括的な支援を行う機関、シェルターの必要性を指摘している。

文献
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