体制の歴史を描くこと──近代日本社会における乞食のエコノミー

天田 城介

1.当事者の歴史記述をいかに診断するか
 本論文では、私たちはいかにハンセン病当事者から投げかけられた歴史記述を受け止め、歴史診断することができるのか、その歴史診断とともに「体制の歴史」を描き出すことが重要であるかについて論じたい。最初に断っておくが、紙幅的制約などから、本論文ではハンセン病療養所の患者作業や自治会活動の歴史の全体像あるいは熊本県本妙寺集落やそれに関連する各種の出来事の詳細についてはほとんど言及できない(1)。詳細な記述は別途報告し、以下では、当事者の歴史記述を受けて私たちはいかにその「歴史診断」を行うのか、その診断をもとに「体制の歴史」を描き出すことはいかなる認識利得をもたらすのかについて簡単に記すものとする。
 かつて熊本で「ハンセン病問題研究会」という小さな研究会を開いていた。ハンセン病当事者数名と当時九州に在住していた少数の研究者で細々と続けていた研究会だ。1931(昭和6)年に生まれ、1942(昭和17)年9月29日に国立ハンセン病療養所菊池恵楓園に入所した、その研究会のメンバーであった、杉野芳武さんは、療養所における「患者作業」が歴史的にいかに行われ、その位置づけが変容してきたのかについて、こう語った。
 なお、以下では、杉野さんが当該研究会の報告記録を菊池恵楓園自治会機関誌『菊池野』平成15年12月号にまとめたものをもとに叙述する(2)。国立療養所菊池恵楓園患者自治会編『自治会の沿革』(1959年)の孫引きも含め随分長い引用になるが、本章の重要な論点であるため敢えて記しておこう。

ここでは恵楓園の『自治会五十年史』や『自治会の沿革』史のページでそれ(患者作業)を想像してみました。
それによりますと、恵楓園の開園は明治四十二年ですが、すでに三年後の明治四十五年には「作業奨励金制度」というのができて、理髪をはじめ、道路修理、庭園の手入れ、裁縫、洗濯、あるいは看護の手伝いなどをして、それが小遣銭を得る唯一の方法ということで定着しているようです。
唯、この時期における奨励金というのは、昭和二十二年に国の予算費目の中に「賞与金」というのが計上されるまでは、例えば、看護の手伝いは医療費から、裁縫や洗濯は被服費から、あるいは道路修復や庭園の手入れは営繕費からという具合に、療養所の運営費の中から捻出されていたようですから、俗に言うところの蛸足操業であったわけです。それにしても、後年、国のハンセン病政策において問題になってくる、こうした患者作業ですけれども、あるいはそれの発端というのは、残されている記録を見る限りにおいては、主として「経済的な面からの療養生活の安定を」という患者の側からの発想ではなかったのかと思われます。
というのも、当時の入所者というのは、法律第十一号「癩予防二関スル件」の第三条「癩患者ニシテ療養ノ途ヲ有セズ且救護者ナキモノハ…」云々とありますように、恵楓園の場合をみますと、それは主として本妙寺境内の、いわゆる浮浪患者と呼ばれる人々でありました。したがって、大方の者が当然のことながら蓄えなどなかったでしょうから、狂歌に謳われていますように「ひもじさと寒さと貧をくらぶれば恥ずかしながらひもじさが先」という事態は、とにもかくにも施設の中のことですから、何とか凌がれたとは思いますが、貧のほうでは随分と苦労したようです。そうした状況を偲ばせるような記録がありますので、まずは昭和三十四年十月二十五日発行の『自治会の沿革』をみてみたいと思います。(原文のまま抜粋)
(前略)九州療養所は明治四十二年四月一日開院であって、自治会が作られるまでには十八年間の歳月が経過して居るのである。
その間の吾々患者間の思想なり行動は如何であったかといえば唯もう自暴自棄的生活、酔生夢死的生活、極端にいえば豚の如き人生、即ち食うては寝、起きては食うといった生活を毎日続けつつ無為に過すと共に、飯が足らない、使い銭が無いと言っては心の向くまゝにふらりと夢遊者の如く脱柵逃走するのであった。
而して、足に傷ができたり、熱瘤が出たり、神経痛を発したりしては、唯今帰って来ました、と吾家でも戻るが如くぶらりと帰ってくるのであった。
而して、隔離所に軽くて十日、重くて二十日も三十日も、ほうりこまれて家族舎に出されるのである。金を持って帰ってきた者はその金のある間は所内の仕事をする事もなく遊び廻っては無為な生活を送りながら、「お前たちゃ一日働いて三銭か四銭しか貰わないが、自分たちは広っぱに掃除夫に出れば毎日十円も二十円も集めてくるのだ。馬鹿々々しくって此処の仕事等ができるかい、世の中は太く短く浮世は三分五里でくらす方が賢い人間だ」等と太平楽を言っては純真にして然も純情なる人々を捉えて濡れ手で粟の掴み取りをするような話を聞かせては扇動するのである。(中略)
而して、恰度その当時より熊本本妙寺附近にライ部落ができ、高等乞食を業とする人たちの集団が出現して、その中の親分株ともいうべき原田久君が入所してきて「蹴込み」商売を宣伝したので逃走思想はさながら燎原の火の如く拡がり、所内人心は乱れて堰止めることのできない事態となり毎日脱柵逃走する者の数を増すような状態を現出するに至った。(中略)当局としては無銭者、貧困者を救助するまでに手がまわらなかったのである。(中略)自分が将来必ずめぐりくるべく運命を見つめては苦悩懊悩やるせなく、不自由にして松葉杖に縋ってでも、躄ってでも、神経痛や種々の病気にかかり、たとえ野たれ死の運命が迫り来ようとも、共同生活の苦悩を思えば九州療養所の中に居る気がしなかったのである。否、居られなかったのである。吾々の境遇に於いても無銭では全く安定がないのである。就中、吾々の世界に於いては特に懐の空虚くらい苦痛はないのである。寧ろ死に勝る苦痛である。これ即ち吾々が自治会を創設せんと決意せし直接の原因であった。吾々の幸福は吾々の力を以て創造しなければならないと痛感し、やむに止まれない現実的、実利的、必要観よりして躍起せし所以であった。

と言っております。
そうしてさまざまな試行を繰り返しながら、大正十五年六月十九日の自治会創立に至るわけですが、ここでその会則というのを見てみますと、(中略)「産業」という文字が幾つも見られたり、あるいは物質的豊富を計り……などといった文言を見ると、これが果たして療養所のことかと思いたくなるほどです。
(杉野 2010: 269-272/括弧内補足引用者)

2.当事者の語る歴史を受け止めた上で歴史を診断する
 こうした当事者による歴史記述を読み、いかにその歴史を診断することができるか。
 一つには、「療養所に絶対隔離されたハンセン病当事者が『患者作業』を強いられたのは人権蹂躙も甚だしい」云々といった「施設内強制労働説」に立脚する人もいるだろう。あるいは、「絶対隔離されたハンセン病当事者は、安上がりの管理・運営状況の中で『患者作業』を余儀なくされた」云々といった「施設運営補完説」で認識する人もいるだろう。更には、「当時は脱柵・逃走が絶えなかったため、ハンセン病当事者に『患者作業』を通じて僅かな小遣銭と何がしかの生きがいを与えることで療養所内の隔離収容を強化しようとした」云々といった「施設統治強化説」で読み解く人もいるかもしれない。それ以外にも様々な歴史診断が可能である。
 しかしながら、少なくとも当時の九州療養所(現在の全国ハンセン病療養所菊池恵楓園)における患者作業の位置づけと自治会設立に関する歴史診断としては──全国の各ハンセン病療養所における患者作業の位置づけや自治会設立の歴史はそれぞれ特有の時代的・制度的・組織的文脈がある──、いずれも不十分かつ不正確である。歴史診断として全く不徹底でもある。それらは当事者の言葉から何も学んでいないのだ。何も受け止めていないのだ。当時、ハンセン病当事者の人たちがいかに命懸けで生きてきたのか、そのように生き抜こうとすることを辛うじて可能にしていた社会的仕組みがあったのか、その仕組みは明治後期から昭和初期に至るまでの近代日本社会においていかに形成・変容されてきたのか、などといった問いを当事者の歴史記述から受け止め、そこから何も学ぼうとしていないのだ。
 さて、前掲の記録だが、いわば当事者の歴史記述が二重化された形になっている。一つには、『自治会の沿革』(国立療養所菊池恵楓園患者自治会編 1959)にてなされている1909(明治42)年の九州療養所設立から1926(大正15)年6月19日の自治会創立に至るまでの患者作業に関する歴史記述であり、もう一つは『菊池野』第586号(杉野 2003)にて杉野さん自身が『自治会の沿革』や『自治会五十年史』の歴史記述を踏まえた上で当該時期の「患者作業」について改めてその歴史を振り返ったものになっている。ここでは便宜的に前者を「『沿革』歴史記述」、後者を「杉野歴史記述」と名づけておこう。
 さて、その「『沿革』歴史記述」であるが、一言でいえば、【療養所内の死に勝る苦痛たる貧しさの只中での豚の如き暮らしを当事者自身が何とか解決しようとして自治会は創設された】という見立てである。こうした経済的格差ゆえに療養所内に賭博や逃走を引き起こし、その秩序を安定化させるために自治会は創立されたというわけだ。私たちは1959年にすでにこうした歴史認識が当事者においてなされたことに深く学ぶべきであるが、まさに当事者の言葉に深く学ぶためにこそ、この「歴史記述の不思議さ」に驚くべきなのである。
 第一に、確かに療養所の中がひどく貧しいとして、療養所を脱柵・逃走して「外」に出れば少なくとも療養所よりはマシになると思えることができたのはなぜなのか。第二に、療養所で仕事をするよりも「外」で掃除夫などをしたほうが多くの金を得られた(マシになった)として、それならば療養所内での貧しさに抗うために「外」の職業を仲介・斡旋する組織を設立すればよいはずだ。なぜわざわざ自治会などという組織を設立したのか。第三に、当時は隔離収容を制度的・運用上の前提にしている以上、「職業斡旋・仲介組織」は許されないので、創設・設置・運営が許容される組織体たる「自治会」という形になったとしても、そもそも、なぜ自治会が「産業」や「物質的豊富」を創出する組織として期待されたのか。文章を読む限り、当時のハンセン病当事者にとって「自治会」とは、たんに患者の相互支援・相互扶助といった生ぬるい組織体ではなく、むしろ差別と貧しさの只中でも当事者たちの生産・産業・経営を可能にする組織体であったことが分かる。だが、それはなぜなのか。そして、そもそも、なぜ「自治会=生産・産業・経営の複合組織体」こそが「吾々の幸福は吾々の力を以て創造」する組織として認識されたのか。例えば、当事者の歴史記述にはこうした幾つもの不思議な歴史記述が書きこまれているのであるからして、私たちはまずはこうした不思議さを通して当事者に教わるべきなのである。
 他方で、「杉野歴史記述」は、要するに、【療養所内の貧しさを何とかしたいという当事者自身の思いと療養所当局の開園後間もない時期の隔離収容政策を何とか安定的に運営したいという思惑が一致した結果としての「患者作業」であり、そのことを通じた生活の向上のためにこそ自治会は設立された】という歴史的見立てである。実際、杉野さんは「そのような〔患者作業という〕発想をしたのは(中略)恵楓園で初めて患者として収容された本妙寺境内の、いわゆる浮浪者と言われた二十七人の人たちからではなかったろうか」(杉野 2010: 273)と記しており、「長い歴史の中で育まれてきた智恵として『相愛互助』とか『自治』ということに大変長けていた」本妙寺の人たちが自らの手で日々の生業を立てて生活を安定させようとしたと記す(杉野 2010: 273)。「当初は全く純粋に『小遣い銭を得るために』、あるいは『不自由で収入のない人達を援助するために』、さらに規模が拡大してからは、『慰安・娯楽を含めた文化活動の助成等』ということで始められたものであって、少なくとも施設側の補完物として施設運営の片棒を担ぐ羽目になろうなどとは夢想だにしなかった」(杉野 2010: 273)。こうした当事者による歴史認識に徹底的に学ばなければならないが、同時に、この「歴史記述の不思議さ」にも驚嘆するべきである。
 第一に、そもそも、療養所の貧しさを何とかしたいという当事者自身の思いと隔離収容を何とか安定的に運営したいという療養所当局の思惑がなぜ「患者作業」でもって「一致」するのか。そこでは「自給自足のススメ」以上に、「自治会」という組織でもって「精神的思想の向上」「安寧秩序の形成」「産業的・組織的改善」「物質的豊富の向上」「経済上余儀なく逃走するが如き者の救恤」「逃走根絶」といった課題を解決しようとしていた。だとしても、第二に、そもそもなぜ「浮浪者と呼ばれた本妙寺の人たち」がそうした課題を「自治会」という組織でもって解決しようと指向したのか。他方で、本妙寺集落における「高等乞食を業とする人たちの集団」の「親分株の原田久君」が入所してきて、「蹴込み」商売を宣伝すると、なにゆえに「逃走思想はさながら燎原の火の如く」拡がったのか。本妙寺集落の人たちは「蹴込み」商売を宣伝すると同時に、自治会を作っていったのか。繰り返すが、当事者の歴史記述にはこうした幾つもの不思議な歴史記述が書きこまれているのであるからして、私たちはまずはこうした不思議さを通して当事者に教わるべきなのである。

3.本妙寺集落の形成と変容
 では、本妙寺の患者集落と療養所の関係をごく簡単に紐解きながら、明治期後半から戦中期までにおいていかにハンセン病当事者が命懸けで生きてきたのか、そのように生き抜こうとすることを辛うじて可能にしていた社会的仕組みは何であったのか、その仕組みは明治後期から戦中期に至るまでの近代日本社会において形成・変容されてきたのかについて論考してみよう。
 すでに周知の事実であるが、熊本県内に設立された回春病院、待労院、九州療養所(現菊池恵楓園)のいずれも本妙寺の患者集落の存在が原点にある。1895(明治28)年、英国聖公会の伝道師として来熊したハンナ・リデルは本妙寺参道で物乞いする放浪患者の惨状を見て回春病院を設立。1898(明治31)年にはジョン・メリー・コールが待労院を設立。本妙寺の放浪患者の惨状はリデルを通じて中央政界や海外まで伝えられ、これを契機に1907(明治40)年に法律第十一「癩予防二関スル件」が法制化。この法律のもと1909(明治42)年、九州七県連合立の九州療養所として今日の菊池恵楓園は設立されたのだ。
 その後、ハンナ・リデルは1902(明治35)年の大日本衛生婦人会の講演にて「麗しき花の下には何者があるかと見ますれば、それはこの上もない悲惨な光景で、男、女、子供のらい病人が幾十人となく道路の両側にうずくまっていまして(中略)幼い子供に教えられて、小さい痛ましい手を出して往来の哀れみをこうております」と述べたという(3)。 ハンナ・リデルが見て取った「哀れみを乞う=悲惨な光景」はその後の「国辱論」へと接続していくことはあまりに有名だが、後述の通り、私たちの歴史診断では「哀れみを乞う=悲惨な光景」というベタな視点は当時の圧倒的な現実を見えなくさせてしまうのだ。
 当時の本妙寺集落の様子を熊本日日新聞の記事は丁寧に取材し言葉にしている。
 ハンナ・リデルが回春病院を創設した1895(明治28)年当時、参道で物乞いをしていたハンセン病当事者は「近くの墓地の中に天幕(簡易テント)を張って暮らしていた」。その後、1904(明治37)〜1908(明治38)年頃の日露戦争時には80余りの天幕が張られ、患者数は140人を超えていた。「日露戦争後、本妙寺北の花園地区側にあった陸軍の馬小屋が地元民に払い下げられた。これが長屋式の貸家に改修され、多くの患者が居住することになる。患者はここを足場に、九州一円や中国、四国地方まで足を伸ばし、『けこみ』や『勧進』と呼ばれる物ごい旅行を始めるようになった。また、患者の中には、陸軍から残飯の払い下げを受け、貧困者に販売したり、残飯をエサに豚を飼育。資産を築いて、自分で貸家を経営する人も現れた。こうした貸家の増加で、患者も定住し始めた。家族とともに暮らせない公私立療養所に比べ、本妙寺集落は家族とともに安い生活費で自由に暮らせる。このため、療養所入所者にとって『あこがれの的だった』(同集落住民だった入所者の証言記録)という」(熊本日日新聞2002年7月19日朝刊)。加えて、集落には患者とともに、患者ではない貧困者も集まってきた。昭和初期の熊本市の調査報告はその理由を「(貸家の大家は)以前他県より放浪して当地に居住したる患者もしくはその子孫にして、患者や貧困者を遇すること厚く、(中略)家賃とも一日九銭内外にて生活し得るよう仕向くるをもって、貧困者の生計上最も暮らしよき楽天地なるがためなり」と記した。
 今後更なる徹底的な歴史検証を行う必要があるが、ハンナ・リデルは哀れみを乞う姿に悲惨な光景を読み取ったが、その実、そのように外国人伝道師が「悲惨な光景」をいとも簡単に読み取ってしまうほどの「哀れみを誘う術」があったとも言えるのだ。いつの時代も嘘も騙しも居直りも含め、手練手管で乞食は命懸けで生きているのだ。「食の凌ぎ方は乞食の生存の智恵であり、技法であった。『乞食の第一の用件は貰ひ方である。貰ひ方に上手下手があるさうぢや。旦那様や奥さまや難儀不自由な此盲目に何とぞお情けを願ひますと云つて、息も絶え絶えに泣くが如く訴ふるが如く、盲目が女房や子供に杖を曳かれつつ、市中を徘徊するのは、普通大抵のことでは行かぬ』。袖乞ひには工夫が凝らされた」(青木 2011: 53)。
 青木が大正期広島県の乞食の生活世界を描出する通り、乞食の多くは労働市場の変化と経済構造の変容によって失業した者であるが、それ以外にも身体/精神障害者、ハンセン病や黴毒などの「労働不能者」も少なくなかった(青木 2011: 41)。乞食は生活の糧を失っても、命を凌がなければならない。「乞食は生きるために様々な方法で糧を得た。紙屑・襤褸・金物・果物皮などを拾う、蛭・河魚・箒・風車などを売る、にわかの藝人・僧侶・巡禮になる、博打で稼ぐ、泥棒をする、売春をする。袖乞ひは最後の手段であった。その他、葬儀に紛れて酒肴に預かる者、墓場で供え物に預かる者もいた。停留所でバスを待つ客の衣服の埃を払って駄賃をねだる者もいた。乞食は、智恵と度胸に相談しながら命を凌ぐ方法を選んだ」(青木 2011: 43/一部割愛)。乞食は、賭博・泥棒・売春・袖乞いの方法論によって、あるいは「都市雑業」(隅谷 1967: 63)における方法論によって命懸けで生き抜いてきたのである。そして、そうした乞食労働・都市雑業労働を可能にしていた社会的仕組みが存在していたのである(4)。
 本妙寺の当事者たちは、「蹴込み」や「勧進」といった物乞い行脚して食っていったし、働き口があれば掃除夫・雑用係・人夫・使い走り・小間使いなどの雑役をこなしていたであろうし、紙屑・襤褸・金物・果物皮などを拾うなどもしていたであろう。陸軍から残飯の払い下げを受け貧困者への販売もしたし、養豚・養鶏も行ったであろう。資産を築いて患者に家を貸したり、集落で各種の商売をはじめた者もいたであろう。だからこそ、本妙寺の集落は療養所入所者にとって「家族とともに安い生活費で自由に暮らせる」「あこがれの的だった」のだ。更には、貧者も含めた「生計上最も暮らしよき楽天地」であった。私たちが驚くべきは少なくとも明治後半から戦中期にかけてこうした乞食労働や都市雑業労働をもとに患者を中心とする言うなれば「乞食集落」「貧者集落」を形成することが可能であった政治経済構造が存在していたという事実である。

4.本妙寺集落の自治組織化
 だから、『自治会の沿革』に記されたような、九州療養所のハンセン病当事者の暮らしが「食うては寝、起きては食うといった生活を毎日続けつつ無為に過すと共に、飯が足らない、使い銭が無いと言っては心の向くまゝにふらりと夢遊者の如く脱柵逃走する」ような「豚の如き人生」になってしまうのは当然なのだ。たんに「隔離収容」の強制・抑圧ゆえに脱柵・逃走するのではない。そうではなく、少なくないハンセン病当事者が乞食労働・都市雑業労働で食を凌ぐことが可能であったこと、それは少なくとも療養所の「作業奨励金制度」のもとでの患者作業よりも遥かに高い小遣銭になったこと、あるいは本妙寺に患者を中心とする集落を自らで形成することができたからこそ、脱柵・逃走したのである。その意味では、ハンセン病当事者は高い小遣銭を求めて脱柵・逃走しただけではなく、乞食のエコノミーに参与するために立ち返っていったのである。志を抱いて何事かをなさんとして寄食するのが「高等乞食」であるとすれば、本妙寺集落の集団はまさに「高等乞食」そのものであったのだ。療養所にとっては「所内人心は乱れて堰止めることのできない事態となり毎日脱柵逃走する者の数を増すような状態」であったかもしれぬが、乞食のエコノミーからすれば脱柵・逃走はきわめて合理的な振る舞いだったのだ。
 とは言え、1910〜1920年代の九州療養所がこうした「混乱状態」であったにせよ、なにゆえ自治会を設立する必要があったのか。再度、本妙寺集落の歴史に立ち返ってみよう。
 先述したように、本妙寺集落はすでに患者を中心とする「乞食集落」「貧者集落」を形成していた。そこでは乞食労働・都市雑業労働をもとに独自の商売がなされ、集落全体は一つの生活の集合体であると同時に、独立した生産・産業・経営の複合組織であった。こうした事態にある中で、1935(昭和10)年頃に本妙寺南側の島崎地区の集落を本部に「相愛互助会」が設立される。当時、周辺にあった三つの集落にいた患者の三分の二が会員になった。会長の中村理登治は両足とも病気のため義足だったが、1927(昭和2)年に九州療養所から逃走した記録があるので──1927年は九州療養所で自治会が設立された翌年にあたる──、おそらく九州療養所を出て本妙寺集落に相愛更生会を結成したのだ。
 相愛更生会では春と秋の二回、当時日本に併合されていた朝鮮半島まで含め全国を回り、寄付金を募った。「蹴込み」や「勧進」と呼ばれる物乞い・袖乞いの旅ではなく、趣意書や領収証を作って熊本県に寄付金募集の認可申請も行っていたのである。寄付金は集めた本人が独り占めすることなく、生計の道がない重症者の生活費にも充てられた。そして、彼らは集落の未来に、ある夢を抱いていた(熊本日日新聞2002年7月20日朝刊)。
 実際、菊池恵楓園(菊池郡合志町)に相愛更生会役員が住んでいた集落の地図が残っており──日付は1936年10月と記されている──、そこには役員の家が建ち並ぶ一画の真ん中に「私設療養所予定地」「礼拝堂予定地」と大きく点線で空き地が囲ってあるという。彼らは集落内にハンセン病専門病院を設け、家族とともに患者が暮らせるような患者自治による「自由療養所」を構想していたのだ(熊本日日新聞2002年7月22日朝刊)。
 廣川が鮮やかに描き出したように、1907(明治40)年の「癩予防二関スル件」の法的矛盾がゆえに、故郷に居場所をなくした病者が集住する「湯之沢部落」が創出・拡大化されていくが──それは「自由療養地」と呼びうるものであった──、その中で「聖バルナバミッションという『私立療養所』の枠に収まらない運動体による救療活動が湯之沢部落のセーフティーネットとして機能し、ハンセン病者に医療と自立的な生活環境を提供した。聖バルナバミッションは、国家に本来求められていたはずの、『無資力患者』へと転落する寸前の病者の救療の役割を担った。そこでの療養形態には種々の制約もあり、経営者と病者との対等な関係を前提とした社会事業といえるものではなかったが、湯之沢部落での療養生活を『有資力患者』のみに可能なものとするのではなく、より多くのハンセン病者が選択し得るものにする役割を果たした」(廣川 2011: 296)。むろん、本妙寺集落の場合には、湯之沢部落とは歴史的経緯や規模や運営方法などで大きな相違点があるのだが、いずれにしても、1907(明治40)年法の法的矛盾を背景に、また明治後期から昭和初期における乞食労働・都市雑業労働の形成によって、少なくないハンセン病患者は本妙寺集落にて生存することが可能であったのだ。生き抜くことが辛うじてできたのだ。集落の人びとの労働状況や経済状況が安定するにしたがって相愛更生会が結成され、そこから自由療養所を構想する想像力が生まれていたのだ。
 その意味では、1926(大正15)年に結成された九州療養所の患者自治会とは、家族とともに安い生活費で自由に暮らせる「楽天地」たる本妙寺集落の自治を横目に見ながら結成された「周回遅れの組織化」であったのだ。あるいは、本妙寺集落のほうが圧倒的に自由で豊かであったであろうから、自治会設立を契機に「本妙寺集落の自治機能」を九州療養所に取り入れ、それにより生産・産業・経営を展開しようとした試みであったのだろう。語弊がある言い方になるが、「貧しさに喘ぐ療養所の患者による自治組織化の二番煎じ」というのが正直なところであったのだろう。繰り返すが、九州療養所の自治会の設置はこうした本妙寺集落の組織体なくしては誕生しなかったとさえ言える。

5.本妙寺集落の消滅
 詳細な記述は稿を改めて記すものとするが、その後、本妙寺集落がいかにして消滅していってしまうのかだけまとめておこう。
 1937(昭和12)年頃、相愛更生会は九州救らい協会ほかに自由療養所構想に協力してくれるよう依頼した。それに賛同する向きもあったが、九州療養所所長の宮崎松記は「本妙寺周辺を住み心地よい場所にしてもらっては、せっかくの隔離療養、伝染予防の趣旨が壊れてしまう」と強く反対。熊本市の方面委員も同様に強く反対。また、相愛更生会の寄付金募集に対する県の認可もおりなかった。更には、生活救護を担当する方面委員が反対の立場にあったことなどから、相愛更生会会長の中村理登治を代表とする三十二人が生活救護(生活保護)の申請をするも認められなかった。こうして相愛更生会は「兵糧攻め」のような形で徐々に追い詰められていった(熊本日日新聞2002年7月23日朝刊)。
 このように追い詰められた相愛更生会は1939(昭和14)年頃に熊本県知事の印鑑を偽造し、公認と偽って寄付金募集を始める。同年知事を退任したばかりの藤岡長和の自宅を偶然、相愛更生会員が寄付のため訪問した。藤岡は自分の印鑑が押された証明書を見て、「こんなものに、なつ印した覚えはない」と激怒。県庁に取り締まりを要請したという。かくして寄付活動は自らの首を絞めてしまった。会員たちは度々警察に検挙され、相愛更生会は「犯罪者集団」のレッテルを張られた。こうして八方塞となる中で1940(昭和15)年、厚生省が各都道府県に「無らい県運動」の徹底通知。同年、熊本県警察部長に山田俊介が就任したことで1940(昭和15)年7月6日、あの「本妙寺事件」が起こったのだ。
 その後の経緯については全て割愛するが、本妙寺集落はかくして消滅したのである(5)。

6.戦時動員体制/戦時福祉国家化体制での乞食労働・都市雑業
  労働の変容
 ここまできて、私たちはようやく冒頭で記した当事者によるハンセン病療養所の患者作業と自治会設立に関する歴史記述を受け、それをもとに歴史診断することが可能となった。 第2節にて、「『沿革』歴史記述」での「不思議さ」を受け、私たちは以下のように問うたが、それぞれに対して回答を与えていこう。
 第一に、【Q1】療養所の中がひどく貧しいとして、療養所を脱柵・逃走して「外」に出れば少なくとも療養所よりはマシになると思えることができたのはなぜなのかという問いには、【A1】少なくとも明治後半から昭和初期までの日本の都市には細々とではあれど、各種の乞食労働・都市雑業労働によって辛うじて食を凌ぐことが可能となる政治経済的構造があり、それこそが外で働けば少しはマシになると思える当事者のリアリティを形成していたのだという回答を与えることができる。
 第二に、【Q2】療養所内の貧しさから逃れるために「外」の職業を斡旋・仲介する組織を設立するのではなく、なぜ自治会という組織を設立したのかという問いには、【A2】当時、すでに本妙寺集落は生活の集合体であると同時に、乞食労働・都市雑業労働を中心とする生産・経営・産業の自治組織であったがゆえに、療養所では「周回遅れの組織化」として自治会を組織した。いわば九州療養所の自治会とは本妙寺集落の自治を参照しつつ設計されたのである。だから、他ならぬ「自治会」でなければならなかった、と回答できるだろう。
 第三に、【Q3】そもそもなぜ自治会が「産業」や「物質的豊富」を創出する組織として期待されたのか。なぜ「自治会=生産・産業・経営の複合組織体」こそが「吾々の幸福は吾々の力を以て創造」する組織として認識されたのかという問いには、【A3】本妙寺集落からすれば、自治とはまずもって自分たちで生存していけることを意味していたゆえに、自治会とは「産業」や「物質的豊富」を創出する組織として期待されたのである。逆に言えば、自治とは患者同士の相互支援などといった生ぬるいものではなく、文字通り、法的矛盾と社会的・経済的落差の事態にあっても生存することが可能な生産・産業・経営の複合組織体であり、それらを基盤にして構想された「自由療養地」を志向する事業体であったのだ。だからこそ、会則に「吾々の幸福は吾々の力を以て創造」する組織体として書き込まれたのである、と答えることができるだろう。
 他方の「杉野歴史記述」では以下のように問うたが、それぞれに対する回答はこうだ。
 第一に、【Q4】そもそもなぜ療養所の貧しさを何とかしたいという当事者自身の思いと隔離収容を何とか安定的に運営したいという療養所当局の思惑が「患者作業」でもって「一致」するのかという問いには、【A4】繰り返すが、本妙寺集落では法的矛盾と社会的・経済的落差の事態にあっても生存することができたが、療養所ではそうではなかったため、「周回遅れの組織化」としてよりマシな「患者作業」を制度化していく必要があったし、特に患者が自らで食っていき、運営・経営していく形が望まれた。他方で、「外」の乞食労働・都市雑業労働で多くの小遣銭を稼ぐことができるということが療養所の脱柵・逃走の原因であったがゆえに、患者作業という形で労働を自己調達することは確かに安定的運用をもたらす。こうした両者の利害が一致する形で「患者作業」は拡大化したと言える。
 第二に、【Q5】本妙寺集落における「高等乞食を業とする人たちの集団」の「親分株の原田久君」が入所してきて、「蹴込み」商売を宣伝すると、なにゆえに「逃走思想はさながら燎原の火の如く」拡がったのか。本妙寺集落の人たちは「蹴込み」商売を宣伝すると同時に、自治会を作っていったのかという問いには、【A5】「蹴込み」や「勧進」といった乞食労働によって当事者は生き延びることが可能となっていた本妙寺集落の「親分株の原田久君」が「蹴込み」商売を宣伝するのは当然であるが、それによって「逃走思想はさながら燎原の火の如く」拡がったのは、まさにその乞食労働や都市雑業労働を中心とする生業の自由を感受したからであり、あるいは「乞食集落」たる本妙寺集落の自由空間を感受したからである。決定的に重要なことは、当事者の乞食労働・都市雑業労働とは自治と対立するどころか、まさに当事者の自治を構成する経済的かつ社会的かつ政治的な基盤となるものである。換言すれば、自治とは自らの生存とともに立ち上がるものなのだ。
 いよいよ紙面が尽きた。最後に、私たちは、なにゆえに1940(昭和15)年の本妙寺事件によって本妙寺集落は消滅させられてしまったのかを問わなければならない──もちろん、これらに関する史資料はほとんどないため、ここではあくまで試行的に論考するのみとし、機会を改めて考究するものとする──。
 もっとも模範的な解答は【戦時体制化において本妙寺集落への取り締まりが強化されたからである】というものだ。こうした取り締まりの強化は否定しないが、おそらくそれだけではないだろう。なぜ戦時体制化では自由療養所を構想するまでに自治が可能となっていた生活集合体かつ生産・産業・経営の複合事業体であった本妙寺集落を放っておけなくなったのであろうか。集落にたくさんの患者が集まり過ぎており、警察や方面委員などにとっては目に余る光景であったかもしれぬが、基本的には放っておいても大きな損失となる話ではない。「自治」組織である相愛更生会が思想統制・組織統制に引っかかったゆえであると簡単には言えない。もちろん、九州療養所のメンツがつぶされたからなどではない。メンツがつぶされてきたのは遥か前からそうであった。
 では、戦時動員体制/戦時福祉国家化体制期においては本妙寺集落をなにゆえに放っておけなくなったのか。統制の強化や軍事権力・警察権力の肥大化という「もっともな理由」のほかに、戦時動員体制/戦時福祉国家体制における乞食労働・都市雑業労働自体がまさに政治経済構想の変容にともなって著しく先細ってきたことによって、いわば本妙寺集落の人たちの生存が困難になったこと、そのことでいわば「目につく患者」が増大したことにあるのではないかと思うのだ。
 山之内は、総力戦体制は、近代社会が自らの内部に抱え込んできた紛争や排除のモーメントに介入し、「全国民を国民共同体の運命的一体性というスローガンのもとに統合しようと試みた」。総力戦体制とは「社会的紛争や社会的排除(=近代身分制)の諸モーメントを除去し、社会総体を戦争遂行のための機能性という一点に向けて合理化するものであった」(山之内 1995: 12)と言う。だが、事はそう単純ではない。
 1938(昭和13)年の国家総動員法を受け、労働力の動員体制も整備された。また、1940(昭和15)年の労務動員実施計画では各地域間移住は政府官僚等の厳重な統制と管理のもとに行うとされた。結論から言えば、こうした国家総動員法や労務動員実施計画などはダイレクトに本妙寺集落の物乞い労働・都市雑業労働に影響を及ぼしたわけではないが──そもそも国家総動員法や労務動員実施計画などの外部に位置する労働である──、それらの社会政策によって周縁労働市場は著しく縮小化・細分化し、都市雑務労働が厳しくなったのである。また、労働の総動員化にともなって労働者の所得はひどく不安定化したため、その「おこぼれ」はひどく減少し、物乞い労働を続けていくことが厳しくなった(6)。
 実際、本妙寺集落に継続的に足を運び、相愛更生会会長の中村理登治と親交の深かった潮谷総一郎は本妙寺事件の前に強制収容が行われることを知っていた。にもかかわらず、彼が国家による強制収容を飲まざるを得なかった背景には、「一般社会でも統制が進んだ戦時体制の中で、本妙寺集落は行き詰まった状況」にあり、「当時、療養所に入った方が十分な治療ができると信じていた」(熊本日日新聞2002年8月2日朝刊)からであろう。
 つまり、戦時動員体制/戦時福祉国家体制においてこそ、本妙寺集落における物乞い労働・都市雑業労働は著しくやせ細ってしまい、それゆえに患者たちは著しく生存が困難になり、文字通り徹底的に貧しい貧者に転落していくのである。更にはそうした振る舞いこそが社会統制が強化されていく中で管理・収容の対象として発見されていったのだ。
6.創造的な歴史の導き方
 最後の最後に僅かばかりの記述をしておこう。
 ニーチェの「生に対する歴史の効用と害悪についてVom Nutzen und Nachtheil der Historie fur das Leben」は「生に対する歴史の利害について」という訳語に見られるように、その文意は誤読されているか、そもそもきちんと読解されていない(Nietzsche 1873-73=1993)。
 ニーチェはヘーゲル的な歴史認識を完全に馬鹿にしていた。軽蔑していただけではなく、それこそ我々にとって害悪であると考えていた。ニーチェにとって、自らの生を肯定するために過去を何とか克服しようと苦闘しつつ解放する者たちのために歴史はある。それゆえに、歴史とは強烈な批判を通じて深い苦悩と愛惜、憧憬と希望に引き裂かれた人間の歴史性として立ち現われるものである。その中でこそ、たんなる出来事の集積としての歴史や教科書的役割としての歴史を超え、歴史を創造することを導くのである。プロイセン国家に飼いならされたヘーゲル的な歴史認識は、こうした歴史の創造を、更にはそこに刻まれる深い苦悩と葛藤・憧憬と希望に引き裂かれた歴史の圧倒的な力を抹殺していると侮蔑しているのである。それは、生き抜かれるべき歴史を過去の史実に関する知識の集積に貶めてしまった。要するに、歴史学は知識の集積を経て、過去の文化の死体解剖をやっているに過ぎない。いや、それどころか、絵に描いたような「歴史の必然的帰結」というお話をでっち上げ、それを持ち上げてきた。大学教育の場で、未来への憧憬を抱く者たちに過去に起こった出来事を並べ立て、その歴史的帰結=物語を謳ってはならないのだ。
 過去の記憶を持たない動物は「瞬間という杭に繋がれている」状態であり、過去との関係から現在を意識することなく現在という瞬間を只管生きている。それに対して、過去の記憶を持つ人間は、それゆえに、過去を背負って生きざるを得ないのだ。そうであるからこそ、人間にとっては「過去のものが忘却されなければならない境界を画定する(die Grenze zu bestimmen, an der das Vergangene vergessen werden mus)」のであり、そのことによって自らの世界を作り上げていくのである(Nietzsche 1873-73=1993)。境界画定こそが、生の主体に「過去のものやなじみのないものを変形する力」を与え、「過去のものを生に役立て、起こったことから再び歴史(Geschichte)をつくる力」となる。換言すれば、文字通り身を引き裂くような苦しみとともに強靭な精神でもって歴史を批判することこそが、忘却されなければならない過去との境界画定を可能とし、歴史を変形させていくのである。その意味では、強靭な精神でもって批判的な歴史診断を通じて、歴史は(深い悲しみとともに)忘却されなければならないのである。そして、ここで歴史診断・歴史記述において決定的に重要な点は、ある歴史は「学園に閑居するふやけたやつら」によって仕上げられた奴隷根性丸出しの物語として「出来上がっている」のである。すると、ここで重要な点は、例えば「当事者の視点から歴史を描く」「当事者に照準した現実を描く」といったお話ではない。繰り返すが、それは(程度の差こそあれど)すでに出来上がっているのである。「当事者話」はすでにインフレ状態であると思ったほうがよい。
 したがって、我々は「学園に閑居するふやけたやつ」が必要とするのとは別の仕方で歴史を必要としなければならない。むしろ、「少数派」の視点に限った歴史診断と現実記述は容易く出来合いの物語に嵌り込んでいく。逆に、「少数派への位置取り」は常に危うさを抱えていると思ったほうがよいのだ。むしろ、「少数派」と呼ばれる人たちにおける差異や利害などを解明したほうがよい。更には「少数派」が様々な歴史的背景によって生み出されてきたものであることを知った上で、創造的に歴史を導くことが大切なのである。

[注]
(1)戦後日本におけるハンセン病療養所において当事者たちが患者作業を含む園内の生活をいかに改善していくのか、そのことを何を達成していくのかについては有薗(2011)に詳しい。また、戦前のハンセン病療養所における患者作業制度・相愛互助制度・機関誌の位置についての優れた論文として坂田(2007)、療養所で長く暮してきた職工の生きてきた現実を描出した論考として坂田(2010)が参考になる。桑畑(2011)による沖縄のハンセン病療養所における退所者の医療利用実践も参考になる。
(2)その後、菊池野に掲載された文章は杉野(2010)『連理の枝──日々を綴りて』に再録された。
(3)この有名な講演記録は複数の文献に紹介されている。熊本日日新聞社編(2004)ほか参照。
(4)中川清は明治期には雑業型・力役型労働であったが、大正期に入ると次第に工業型・日雇い的力役型に移行したと論じる(中川 1985: 347)。
(5)本妙寺事件の後、会長の中村理登治ほか相愛更生会の役員の多くは「草津送り」になるが、1942年に中村は脱走。その後、菊池恵楓園に一時入所するもすぐに脱走。その後、「樺太」にて死亡したとされる。これらの詳細については熊本日日新聞社編(2004)ほか参照。
(6)ここでは戦時動員体制/戦時福祉国家体制についても、また戦前と戦後の歴史的・時代的連続性についても言及できない。高岡は総力戦体制期・戦時動員体制期における医療を含めた戦時社会政策を戦前・戦後の福祉国家化のプロセスの視座から論考する(高岡 2006、2008a、2008b)。戦前・戦後の福祉国家化の連続性と非連続については天田(2011)、天田・北村・堀田(2011)を参照されたい。「マイノリティ」と呼ばれる人たちの錯綜した現実と歴史について記した天田・村上・山本編(2012)も併せて参照されたい。

[文献]
青木秀男,2011,「排除する近代──大正期広島の乞食世界」青木秀男編『ホームレス・スタディーズ──排除と包摂のリアリティ』ミネルヴァ書房: 33-62.
天田城介,2011,『老い衰えゆくことの発見』角川学芸出版.
天田城介・北村健太郎・堀田義太郎,2011,『老いを治める──老いをめぐる政策と歴史』生活書院.
天田城介・村上潔・山本崇記,2012,『差異の繋争点──差別を読み解く』ハーベスト社.
有薗真代,2012,「病者の生に宿るリズム──ハンセン病患者運動の「多面性」に分け入るために」,天田城介・村上潔・山本崇記編『差異の繋争点──差別を読み解く』ハーベスト社: 5-28.
廣川和花,2011,『近代日本のハンセン病問題と地域社会』大阪大学出版会.
熊本日日新聞社編,2004,『検証 ハンセン病史』河出書房新社.
桑畑洋一郎,2011,「ハンセン病療養所退所者の医療利用実践──沖縄の療養所退所者を事例として」『保健医療社会学論集』21(2): 91-103.
国立療養所菊池恵楓園患者自治会編,1959,『自治会の沿革』.
国立療養所菊池恵楓園患者自治会編,1976,『自治会50年史』.
中川清,1985,『日本の都市下層』勁草書房.
Nietzsche, Friedrich Wilhelm, 1873, Unzeitgemaesse Betrachtungen II: Vom Nutzen und Nachtheil der Historie fur das Leben text.(=1993,小倉志祥訳『反時代的考察 第ニ篇──生に対する歴史の利害』筑摩書房〔ちくま学芸文庫〕.)
坂田勝彦,2007,「〈隔離〉を構成する装置とまなざし──戦前期ハンセン病療養所における『作業』制度・『相愛互助』理念・機関誌の位置」『社会学ジャーナル』第32号.
────,2010,「ハンセン病療養所で生きることのアクチュアリティ──ある『職工』の生活史に見る生業と自己」藤村正之編『医療における排除の多層性(差別と排除の〔いま〕第4巻)』明石書房: 174-199.
杉野芳武,2003,「恵楓園における患者作業のルーツ」,菊池恵楓園入所者自治会編集委員会編,2003年,『菊池野』第586号(2003年12月号): 11-15.
杉野かおる(芳武),2010,『連理の枝──日々を綴りて』熊本日日新聞社.
隅谷三喜男,1967,『日本の労働問題』東京大学出版会.
高岡裕之,2006,「戦時動員と福祉国家」倉沢愛子・杉原達・成田龍一・テッサ・モーリス・スズキ・油井大三郎・吉田裕『岩波講座 アジア・太平洋戦争3 動員・抵抗・翼賛』岩波書店: 121-150.
────,2008a,「戦時期日本の人口政策と農業政策」『関西学院史学』第35号: 1-22.
────,2008b,「日本近現代史研究の現在──「社会」史の次元から考える」『歴史評論』第693号: 65-81.
山之内靖,1995,「方法論序説──総力戦とシステム統合」,山之内靖・成田龍一・J.ヴィクター・コシュマン編『総力戦と現代化』(パルマケイア叢書)柏書房.