体制転換期モンゴルの家畜生産をめぐる変化と持続──都市周辺地域における牧畜定着化と農牧業政策の関係を中心に

冨田 敬大
(立命館大学衣笠総合研究機構ポストドクトラルフェロー)

はじめに
 1924年に世界で二番目の社会主義国となったモンゴル国(以後、モンゴルと略す)は、約70年におよぶ社会主義の経験を経て、1990年代初頭に市場経済へと移行した。こうしたなか、近年、首都および新興都市の周辺地域では、牧民の定住化および半定住化が急速に進行しつつある。その結果、都市周辺地域では、過放牧による草地の劣化や、水・森林資源の枯渇など、放牧地をめぐる様ざまな問題が生じている。これに対して、従来の研究では、旧ソ連のコルホーズに相当するネグデル(牧畜協同組合)の民営化に伴う断絶が自明視されてきた(Mearns 1996 ; Fernandez-Gimenez 2000)。それは、中央からの命令で強制的に組織されたネグデルに人びとが無批判に従ってきたこと、そして、その解体によって人びとが無秩序な実践を行っていることを暗黙の前提とするものであった。しかし、筆者がこれまで調査を行ってきたボルガン県オルホン郡では、人びとは社会主義時代の制度や規範に直接的・間接的に依拠しながら家畜飼育を行っており、彼らが無秩序な実践を行っていると想定することはフィールドの実態に合わない。現在、家畜飼育に従事する家族の大半はネグデルの民営化後に新たに牧畜を始めた人びとであるが、これは彼らが牧畜作業に習熟していないことを意味するわけではない。地方の人びとは一生を通じて何らかの形で家畜飼育にたずさわっており(風戸 2009: 251-253)、家畜飼育に関わる知識・技術が個人レベルで蓄積されてきた。そのため、これまで個人の牧畜実践に還元されてきた牧畜定着化の実態を、ネグデルの設立・展開・民営化の過程のなかで実証的に検討することが必要となる。
 そこで、本論文では、牧畜が集団化された1950年代後半から2000年代にかけて、モンゴル北部・ボルガン県オルホン郡においていかなる経済活動や社会関係がみられるか、それが当該地域における牧畜定着化といかに関わっているのかを記述し、分析することを目的とした。具体的には、次の三つの点について検討を行う。第一に、本論文の調査対象地であるボルガン県オルホン郡の自然環境と歴史を記述する。第二に、『家畜資産台帳』や『地方議会決定』などのローカルな史料をもとに、社会主義時代(農牧業の集団化以降)から市場経済化後の現在に至るまでのオルホン郡の家畜生産とその変化についてまとめる。その上で、第三に、オルホン郡における牧畜定着化と農牧業政策の関係について二地域(草原と定住地)の事例をもとに検討を行い、そこから現代の都市周辺地域に暮らす人びとにとって家畜飼育を行うことがいかなる意味を持つのかを明らかにしたい。

1.国家体制の転換とモンゴル牧畜社会
 本節では、モンゴル北部・ボルガン県オルホン郡の自然環境と歴史について紹介する。ここでは、調査対象地であるオルホン郡の自然環境の特徴について述べた後、この地域における〈地方社会=協同組合〉の成立とその展開の過程を、社会主義の放棄と市場経済の受容というマクロな政治・経済の変化を参照しながら検討を行う。

 1. 1 自然環境
 モンゴル高原は古来より牧畜民族の興亡の舞台であった。このうち北半分を占めるモンゴル国は、モンゴル族の唯一の独立国家であり、現在でも全人口の三分の一近くが牧畜業に従事している。調査地のオルホン郡は、ボルガン県のほぼ中央部に位置している。その位置は、北緯48度37分、東経103度32分であり、首都ウランバートルからは北西へ約300km離れた所にある。この地域は、世界有数の銅鉱山を擁するオルホン県エルデネト市やボルガン県の県都ボルガン市などの都市の近郊に位置している(図1)。
 モンゴルでは、国土が森林性草原(khangai)、草原(kheer tar)、砂漠性草原(gov')という三つの気候帯に分けられる。おおまかにいうと、北部が森林性草原、中部が草原、南部が砂漠性草原にあたる。北部地域の特徴は、なだらかな丘陵が続く起伏に富んだ地形であること、降水量が多く植生が豊かであること、それゆえ積雪や火災による被害が多いことなどがあげられる。オルホン郡もその例にもれず、海抜1078〜2094mの高地にあり、4214k㎡におよぶ広大な領域の三分の一をカラマツ(khar mod)やシラカンバ(khus)などの針葉樹林が占める。この地域の気温は、各月の平均で最も寒い1月の-20.5℃から、最も暖かい7月の16.0℃である。年間降雨量は200〜300mm程度しかないうえに、年較差が大きい。モンゴルには、春(khavar)、夏(zun)、秋(namar)、冬(o'vol)という四つの季節の明確な区別がある。オルホン郡では、年間の降雨の60〜70%が夏期に集中し、植物の生育に不可欠な条件となっている。そのため、夏に適度な雨が降らなければ、干害(gan)になるおそれがある。また、雪は9月頃から降り始め、積もった氷雪は3月末から4月にかけて急速に解け始める。この冬から春にかけての期間はしばしば寒害(zud)が起こるため、牧民たちにとって最も神経を使う時期だといえる。ただし、オルホン郡ではこれまでこうした自然災害による被害が比較的軽微であったという(TseenOidov 2009: 13)。
 社会主義時代から市場経済化後の現在にかけてのあいだにボルガン県オルホン郡の自然環境が変化したという明確な証拠はないが、それでも地元の人びとの話や既存の資料から以下の点を指摘することができるだろう。第一の変化は、過放牧による草地の劣化である。これについて、科学アカデミー地理研究所は、オルホン郡の多くの地域で過放牧が生じており、都市に近いほどその傾向が強くなると報告している(Mongol Ulcyn Shinjilekh Ukhaany Akademi Gazarz'uin Khreelen 2007: 4)。第二の変化は、水・森林資源の枯渇である。例えば、ある牧民は、森林の伐採が集水・保水機能の低下を招き、その結果地下水や湧水が減少したと述べていた。またこのほかにも水・森林資源の枯渇の原因を、気候の温暖化や異常気象によって説明する人びともいた。

 1. 2 体制転換期の社会と経済
 調査地であるオルホン郡の歴史には、ネグデル(牧畜協同組合)の設立と解体が深く関わっている。以下では、社会主義時代から市場経済化後の現在に至るまでの国家による牧畜開発政策の推移を概観したうえで、調査地における〈地方社会=協同組合〉の形成と展開の過程を当該地域の歴史的文脈に即して記述する。

 1.2.1 国家の歴史と農牧業開発
 社会主義時代のモンゴルでは、牧畜を集団化させようとする大きな二つの波があった。まず、1929年から31年にかけて、モンゴル人民革命党の急進左派が、封建領主および寺院から家畜や財産を没収するという「封建階級の打破」と、私有財産制を廃止し牧民を強制的に協同組合に加入させるという「社会主義の建設」を同時に推し進めようとした(モンゴル科学アカデミー歴史研究所 1969=1988: 299)。しかし、新たに組織されたコルホーズやコムーナは、家畜の頭数が少ないうえに、労働の組織方法や質が悪いという問題を抱えていた(1)。党内部では、その原因がソ連の経験を機械的に模倣し導入しようとしたことにあると批判されるようになり、1932年に政府はモンゴルの実情に合わせた発展を模索する方向へと、牧畜政策を大きく転換させることになった。この「新転換政策」のもとで、左翼偏向期に設立された800余りのコルホーズが、32年の末までに基本的に解体された。そしてそれ以降、農牧業開発は、社会主義的所有ではなく、私的所有を基礎とする、牧民個人の自発性に依拠した政策が行われることになる(2)。一方、同時期に、畜舎や井戸などの牧畜用インフラの整備が進められ、冬・春期に必要となる刈草や飼料の備蓄が広く行われるようになった(小貫 1993: 219)。
 第二次大戦後、政府は、戦時下における牧畜部門の支出の増大や、寒害(zud)の被害によって大きく低迷した牧畜業の現状を打開するために、第一次五カ年計画(1948-1952年)と第二次五ヵ年計画(1953-1957年)を策定した。そのなかで、政府は、総家畜頭数の大幅な増加を目指したが、思うような成果が得られず、次第にその理由を個人経営そのものに求めるようになった(3)。
 こうしたなか、1955年に牧民生産組合(4)の第一回先進優秀者大会が開催され、ネグデル(牧畜協同組合)の模範定款が採択された。新たに組織されたネグデルは、既存の牧民生産組合に比べて、より緊密な社会主義的生産関係のなかで家畜生産を行うものであった。55年の時点でネグデルが239、全牧民経営に占める割合が10.8%であったのが、57年にはネグデルが678、全牧民経営の34.3%を占めるようになった(小貫 1993: 231)。さらに、1958年には、三カ年計画(1958-60年)が策定され、今後三年間で個人経営を全面的に協同組合化することが目標に掲げられた。これにより、ネグデルに加入した牧民の数は、57年の34.4%から58年の75.0%へと大きく増加した。そして、59年の最初の四半期にはその数が97.7%に達し、協同組合化が基本的に完了した(上掲書: 231)。
 1955年の「ネグデル模範定款」では、牧民がネグデルに所有を移した家畜の50%までの登録、返還が可能であり、地域に応じて100〜150頭の私有家畜を所有することが認められていた。しかし、59年に改正された定款では、私有家畜が半分の50〜75頭に減らされ、個人による家畜飼育が大きく制限された(安田 1996: 45)。それと同時に、ネグデルの指導、経営に国家機関、党組織が全面的に関与するようになり、各種調達の種類、数量、価格が、各ネグデルの地理的条件や経営条件に関係なく一律に決められた。さらに、軽工業、食品工業の諸企業の原料価格を安く維持するために、ネグデルの主たる収入源である畜産物の販売価格が低く抑えられた(5)。集団化以降、モンゴルでは、およそ三十年間にわたって、ソ連の援助を受けつつ、農牧業の大規模経営化と機械の大量投入が進められていくことになるが、こうした牧民たちを取り巻く厳しい環境は、人びとの生産意欲を低下させ、家畜生産の不振を招くことになった。
 その後、1980年代になると、「畜産の停滞」が批判され始め、87年には農牧業の不振が初めて公式に発表された。政府は、ソ連の経験をモデルとした農牧業改革に着手し、87年には生産請負制、89年からは賃貸制を新たに導入した(6)。その結果、90年の時点で、全牧民の61.5%が請負契約あるいは賃貸契約を結んでいた。さらに、賃貸契約によって牧民がリースした家畜の、(ネグデルや国営農場等が所有する)共有家畜に占める割合も、88年に3.3%、89年に6.9%、90年に11.3%と増え続けた(二木1993: 119)(7)。そして、89年末の民主化運動に端を発した一連の市場経済化の流れのなかで、政府は、90年に家畜の私有制限を撤廃し、翌91年にはネグデルの民営化を決定した。それに伴い、およそ半世紀にわたって行われてきた国家調達が91年に基本的に終わり、自由契約、自由価格による畜産物の取引が開始された。つまり、これにより、モンゴルでは、それまでの集団化された牧畜労働から、各世帯が個別に牧畜経営を行うようになった。

 1.2.2 オルホン郡の形成と展開
オルホン郡を含むボルガン県の北部地域は、清朝統治下においては「ダイチン・ワン(ザサク)」旗(khoshuu)とよばれるひとつの広大な行政領域をなしていた。社会主義革命後、この地域は、1924年にボルガンハンオール旗と改称し、1931年にセレンゲ県に編入された。そして、1937年に、セレンゲ県、フブスグル県、アルハンガイ県、中央県のいくつかの郡が統廃合されるかたちで、ボルガン県が成立した。
現在のオルホン郡の領域には、かつて大小10ほどの寺院の直轄地が存在したが、1930年代初めの急激な社会主義化政策によって、そのほとんどが解体させられた。その後、この地域では、1950年代後半の農牧業の集団化の流れを受けて、「バドラル」、「チョイバルサン」、「コミュニズム・ザム」、「ソーシャリズム・トヤ」という4つのネグデルが設立された(8)。ただし、これらはいずれも生産能力が低い小規模な経営組織であった(9)。当時、全国レベルでの相次ぐ統廃合によって、一郡一組合の体制が整えられつつあった。こうした流れを受けて、この地域でも、1957年に「バドラル」、1959年に「コミュニティ・ザム」を、「チョイバルサン」ネグデルに統合・再編し、オルホン郡が成立した。さらに、1962年には「ソーシャリズム・トヤ」が統合されて、現在の領域となった(図2)。
 チョイバルサン・ネグデル(オルホン郡)は、1960年に行政区をブリガード(生産大隊)に改編した後、1963年にほぼすべての牧民をソーリ(生産隊)として組織した。このように、全国で一郡一組合の体制が整えられたことによって、〈地方社会=協同組合〉が政治・経済の基本的な単位として機能するようになった。こうしたなか、政府は、農牧業生産の社会主義的近代化を目指して、社会・経済的インフラと公共サービスの整備を急速に推し進めた。オルホン郡では、ネグデル(郡)およびブリガード(行政区)の中心地の建設が1950年代の後半から始まり、学校、幼稚園、病院などがつくられた。さらに、この地域では、日用品や畜産物の流通に関わる組織が1958年に初めて設置され、1960年には国家通商調達部隊に改組されている。それに伴い、草原で生産されたあらゆる畜産物は、ネグデルの本部が置かれた定住地へと集められ、そこから都市へと搬出された。そして、その反対に、様ざまなモノやサービスが都市から定住地へと運び込まれるようになった。
 しかしながら、こうした国内分業体制は、1991年に始まる国営企業の民営化によって、急速に崩壊していくことになる。オルホン郡では、1992年の家畜の私有化を契機として、国家通商調達部隊や動物家畜病院などが次々と廃止や縮小に追い込まれた。これにより、〈地方社会=協同組合〉は実質的な意味を失い、ネグデルとその下位区分であるブリガードはいずれも生産単位としては機能しなくなった。では、こうしたなかで、オルホン郡における家畜生産のあり方はどのように変化してきたのだろうか。次節では、家畜生産をめぐる変化と持続を、統計・行政文書などローカルな史料とフィールドデータを用いて検証し、現代オルホン郡の家畜生産の特徴を明らかにしたい。

2.家畜生産をめぐる変化と持続
 続く本節以下では、モンゴルの北部に位置するボルガン県オルホン郡の事例を中心に検討する。ここでは、牧畜が集団化された1950年代後半から2000年代にかけてのオルホン郡の家畜生産とその変化を記述する。まず、過去30年間(1971-2001年)の家畜生産の全体像を提示する。次に、家畜飼育の技術と畜産物の利用をめぐり、協同組合期と民営化後でいかなる差異がみられるのかについて検討する。その上で、現代オルホン郡の牧畜経営の特徴について述べる。

 2. 1 家畜生産の全体像
 モンゴルでは、ヒツジ、ヤギ、ウシ(ヤク)、ウマ、ラクダの五種類の家畜が、古くから飼育されてきた。五種類の家畜の分布は、自然環境の差異に対応している(10)。オルホン郡では、ヒツジ、ヤギ、ウシ、ウマが主に飼育されてきた。ラクダは数頭程度維持されてきたのに過ぎないので、ここでは考察の対象からはずす。
 およそ30年間におよぶ協同組合期を通じて、家畜飼育は社会主義的生産関係のなかで様々な改変がなされてきた。その際にまず注目すべきは、1950年代後半の農牧業集団化によって、(家畜や農牧畜用具などの)生産手段が、共有化すべきものと、個人資産として残せるものに区別されたことである。家畜の場合、前者は「共有家畜(niigmiin mal)」、後者は「私有家畜(am'n mal)」とよばれる(11)。モンゴルでは、1958年末までに牧民の協同組合への加入がほぼ完了していたが、家畜の共有化はあまり進んでいなかった。家畜の大部分は個人が所有しており、それゆえ経営規模の小さい協同組合が全国に多数存在していた。そこで党政府は、こうした状況を打開するために、1959年に小協同組合を一郡一組合体制に再編し、それと同時に家畜の再度の共有化を図った。これを受けて、当初は地域により100〜150頭まで認められていた一家族当たりの私有家畜の頭数が、その半分の50〜75頭に減らされることになった。つまり、ネグデルにおいては、共有家畜の飼育管理こそが組合員の本業(基本経営)であり、私有家畜の飼育管理はあくまで副業(補助経営)として位置づけられた。例えば、オルホン郡でも、私有家畜の全家畜頭数に占める割合が過去20年間(1971-1991)の平均で15.3%(13493頭)と低いことから、家畜生産の中心が共有家畜にあったことがわかる。しかし、残念ながら、こうした家畜生産のあり方は必ずしも家畜頭数の増加にはつながらなかった。『家畜資産台帳』(1971-2000)によると、オルホン郡では、1970年代後半以降、家畜頭数が漸減しており、特に共有家畜においてその傾向が著しい。一方で、私有家畜は、1980年代以降、わずかに増加している(図3)。このような家畜生産の不振はオルホン郡に限ったことではなく、全国な問題となっていた。モンゴルでは、協同組合期を通じて様ざまな対策が講じられたが、結果、期待されたほどの成果を挙げることはできなかった。
 これに対して、民営化後(1992-2000)、オルホン郡の総家畜頭数は、1992年の85,002頭から、2000年の12,7618頭に増加している(12)。これは後述するような牧畜業従事者の急激な増加を反映している。家畜頭数の変化を家畜種別に検討すると、ヤギ・ウシ・ウマの頭数が増加傾向にあることが分かった。なかでもヤギの増加は著しく、総家畜頭数が1992年の11,279頭から、2000年の34,937頭へと三倍近く増加している。その理由として、ヤギから得られるカシミアが牧民たちの貴重な現金獲得の手段となっていることがあげられる(13)。一方、ウシ・ウマに関しては、オートバイや自動車の普及により役畜としての価値は低下したが(14)、肉・乳の経済価値は依然として高い。
 これを踏まえて、家畜種別の去勢オスの維持率(総家畜頭数に占める去勢オスの割合)を、協同組合期と民営化後で比較すると興味深いことが分かる。まず、協同組合期(1971-1991)では、共有家畜と私有家畜のあいだで、去勢オスの維持率に明らかな違いがみられた。特に肉として供されるヒツジやウシの場合、共有家畜における去勢オスの維持率が、私有家畜におけるそれを大きく下回っている。これに対して、民営化後(1992-2000)は、協同組合期の私有家畜と同様に、(ウマを除く)家畜の去勢オスの維持率が高い水準で推移している(図4)。協同組合期の共有家畜における去勢オスの維持率がきわめて低いことは、社会主義時代の畜産業化の流れのなかで、去勢オスの商品化が進められたことを意味する。しかし、その一方で、去勢オスを大量に維持するという特徴(小長谷 2007: 36)が、私有家畜において維持されてきた。後者の畜群構成上の特徴は、ネグデル解体後の個別の牧畜経営にも受け継がれている。それらが家畜取引の減少による単なる余剰家畜でないことは、民営化後のオルホン郡における家畜取引量が協同組合期に比べて多いことからも分かる(15)。以上のことから、協同組合期の共有家畜と私有家畜の各生産領域において、異なる二つの生産様式が維持されてきたことが明らかとなった。ここでは、それを去勢オスの維持率の推移によって確認した。では、このような「二重の生産様式(dual productive modes)」(Sneath 1999)が歴史的にどのように絡み合いながら維持されてきたのだろうか。次に、これらの点を、協同組合期と民営化後の家畜飼育の技術と畜産物の利用のあり方に焦点を当てて検討する。

 2. 2 家畜飼育の技術と畜産物の利用
 2.2.1家畜飼育の技術
 前項で述べたように、社会主義時代のモンゴルでは、個々の世帯がもつ「私有家畜」において去勢オスが維持されてきた一方、「共有家畜」においては去勢オスの商品化が進んだ。後者では、去勢オスがもっぱら消費の対象となったのに対して、家畜の再生産を拡大するために成メスと子畜の育成に重点が置かれた。以下では、こうした家畜飼育のあり方がいかなるものであったのかについて、オルホン郡の『地方議会決定』(1962-1991)の記録をもとに、特に生殖管理と出産・子畜育成の方法に焦点を当てて検討を行う。
 モンゴルでは、成熟したメスを確実に妊娠し出産させるために、家畜の生殖管理が行なわれている。それは、少数の種オスを選択して残りを去勢するといった方法だけでなく、交尾そのものに直接介入することも含む。協同組合期には、獣医や畜産技術者たちが中心となって、従来にはない新しいやり方で家畜の生殖管理が行なわれるようになった。
 当時、ヒツジ・ヤギ・ウシの種オスは、去勢オスや不妊メスとともに飼育されており、成メスや子畜の群れとは別に管理されていた(16)。一方、ウマは、(種オスの選別を除き)生殖が管理されておらず、オスとメスを季節的に分離して別群に入れるようなことはない。モンゴルでは、ウシやウマなどの大型家畜の生殖管理があまり行なわれてこなかった。しかし、協同組合期には、ヒツジとヤギに加えて、ウシの生殖を直接にコントロールする管理方法がとられるようになった。オルホン郡では、家畜種毎に異なる妊娠期間を考慮して、ヒツジ・ヤギは9〜10月、ウシは5〜8月に種付けを行った。その方法は、従来の種付け法と人工授精法の二つに区別される。前者の場合、例えば、ヒツジ・ヤギでは、種オス1頭につき成メス30〜35頭の割合で数百頭規模の群れを編成し、約一ヵ月半をかけて自然交配させる。また、後者の場合、ヒツジ・ウシの人工授精拠点が、第三ブリガードと第四ブリガード(その後、第一ブリガードと第三ブリガード)に設けられた。人工授精拠点では、機能的な畜舎が設置され、さらに、種オスに肥力をつけさせるために刈草やふすま、えん麦、きびなどといった様々な飼料が与えられた。この地域では、1980年時点で全メスヒツジのおよそ半数の種付けが人工授精によってなされるなど、一般的な種付け法とほぼ同じ規模で人工授精が実施されていた。それと同時に、羊毛用の細毛種・極細毛種などヒツジの品種改良も進められた。
 以上のように、協同組合期には、家畜の生殖管理がそれまでにない新しい方法で行われるようになった。これらは他の生産部門の協力があってはじめて成り立つものであるため、社会主義的生産関係が解体した現在では、ヒツジ・ウシの人工授精はほとんど行われていない。このように、家畜の生殖管理が重視されていた背景には、全ての成熟したメスを妊娠し出産させ、家畜の再生産を最大限に伸ばすという意図があった。こうした点は、家畜の損失を可能な限り抑えようとした家畜の出産・子畜育成においても同様である。 家畜の出産時期にあたる春は、長引く寒さと飢えのせいで、家畜にとって一年で最も厳しい季節だといえる。事実、寒害(zud)の被害が拡大するのも、冬よりもむしろ春である場合が多い。そこで、社会主義時代には、冬・春期の家畜の被害を最小限に抑えるために、防寒施設の建設や牧草・飼料の備蓄が盛んに行われるようになった。
 モンゴルにおいて、冬や春の宿営地に防寒施設が備えられるようになったのは、社会主義時代に入ってからのことで、それによって移動拠点の固定化が進んだ。オルホン郡では、とくに協同組合期を通じて、畜舎や家畜囲いの建設が進められた。ネグデルの執行部は、放牧地を数年単位で交替できるように、ヒツジ・ヤギ・ウシのソーリ(生産隊)に各二組、ウマ・ラクダのソーリに各一組の(冬と春の)防寒施設を備えることを目標に掲げていた(しかし現実には必ずしも計画通りには進まなかった)。『地方議会決定』によると、1960年代末までは、牧民たちが自らの所属するブリガードの畜舎・家畜囲いの建設を行っていたが、1970年代になると、「建設ブリガード」とよばれる専門組織が固定施設の建設に従事するようになった(17)。彼らは、防寒施設や井戸などの牧畜用インフラの建設だけでなく、それらの保守・点検を担当した。これにより、オルホン郡では、放牧地として利用可能な土地が大きく拡がった。
 また、こうした移動拠点の固定化は、牧草・飼料の調達によって支えられていた。オルホン郡では、刈草作業が、各ブリガードを単位として組織的に行われた。草を刈る7〜9月、刈り終えた草を宿営地へと運ぶ9〜10月には、郡や行政区の中心地から労働者を集めて、共同で作業を行った(18)。その際に必要となる道具・機械および輸送手段はすべてネグデルが提供した。さらに、農業の進展に伴って麦類のふすまが飼料として普及するようになるなど、農業との複合によるリスク回避が実現した(小長谷 2007: 38)。
 このように、モンゴルでは、社会主義時代を通じて、牧畜の定着化が進められてきた。かつては、寒害(zud)などの自然災害にもっぱら長距離移動によって対処してきたが、次第にそれも少なくなった(19)。冬・春営地には、厳しい寒さから家畜(特にメスと子畜)を守るために防寒施設が備えられるようになり、そこで夏から秋にかけて準備した牧草・飼料を利用するようになった。さらに、郡やブリガードの中心地に定住地がつくられ、教育や医療などの公共サービスを人びとが享受するようになったのもこの時期である。
 協同組合期のオルホン郡では、家畜の再生産を維持・拡大するために、生殖管理と出産・子畜育成がより重視されるようになった。ネグデルは、「防寒施設の建設」や「牧草・飼料の調達」などを通じて、冬・春季のリスクをできるだけ低く抑えようとした(20)。こうしたなか、牧民たちには厳しい作業ノルマが課された一方で、ほとんどの作業に対して公的な支援が存在した。しかし、ネグデルの解体後、牧民たちは労働や移動に関わるコストを自ら負担しなければならなくなった。その結果、防寒施設や刈草・飼料の利用状況に世帯格差が生じている。

 2.2.2畜産物の利用
 では、こうしたなかで、家畜および畜産物はどのように利用されてきたのだろうか。以下では、協同組合期と民営化後の畜産物の利用のあり方にいかなる変化と持続がみられるのかについて、特に肉、毛、乳製品に焦点を当てて検討を行う。
 肉については、国内の流通を一手に引き受けた「通商調達部隊」という組織が中心となって、年に二回(春と夏)ほど家畜の調達が行われた(21)。そして、それらは「トーバル(tuuvar)」とよばれる長距離移動によって、大都市にある食肉加工工場へと運ばれた。トーバルとは、家畜を長期間にわたり放牧、肥育しながら、輸送するという方法で、担当者には出発時と到着時の家畜の体重差によって報酬が支払われたという(22)。また、当時、調達される家畜の多くは、去勢オスないし生殖能力が低下したメスであった。例えば、オルホン郡では、肉に供されるヒツジの15%以上、ウシの20%以上を、去勢オスが占めることが求められた。このように、協同組合期には、ネグデル執行部が定めた詳細な実行計画に従って、家畜が短期間に集中して調達・搬出されていた。しかしながら、現在、このような組織的な方法で家畜の流通は行われておらず、牧民が、直接、市場(zakh)や仲買人(chenj)に家畜を売却する場合が多い。個人取引がほとんどであるため、家畜の売却時期も各世帯の都合に大きく左右される。だが一般的には、ナーダム祭や新学期の準備にお金が必要となる7〜9月、冬の食糧(idesh)作りを行う11〜12月に家畜取引が集中する傾向にある。
 一方、モンゴルでは、豊富な獣毛がありながら、毛は伝統的にあまり利用されてこなかった。しかし、1930年代から、「家畜の毛は黄金」というスローガンのもとで、剪毛作業が全国的に普及するようになった(小長谷2003: 33-34)。当初は、家畜の毛を刈り取ることに対して牧民からの反発もあったようだが、次第にウシの柔毛・剛毛、ヤギのカシミア毛、ウマのたてがみ、尻尾、ヒツジの毛などが計画的に刈り取られるようになった。『地方議会決定』によると、オルホン郡では、ウマ1頭につきたてがみ420g、ウシ1頭につき尾10g、カシミアは去勢オスヤギ310g、メスヤギ270g、二歳ヤギ240gというように(1964年)、家畜種・性別・年齢などに応じて、剪毛作業のノルマが厳しく設定されていた(23)。当時は、こうした厳しいノルマを達成するために、死んだ家畜の毛や皮革も積極的に利用したという。また、人手が必要なヤギの毛をくしけずる作業を行う際には、郡やブリガードの中心地から労働者を集めたり、逆にヤギを中心地に連れて行き作業を行うなどして、毛の調達課題を達成しようとした(24)。さらに、毛の質を向上させるために、ヒツジの品種改良が進められた。例えば、1974年時点でのオルホン郡における全ヒツジの約41.1%が細毛種・極細毛種との混血種であり、1頭あたりの毛の収量は平均で2482gと在来種を上回っていた。しかし、混血種は、寒さに弱く、畜舎での飼育が必要なためにコストが非常にかかる。そのため、現在では混血種の飼育はほとんど行われていない。ただし、毛の売買は、現代の牧民たちにとっても貴重な現金獲得の手段となっている。特にヒツジ・ヤギの毛をほとんど全ての世帯が販売している。ただし、その反面、ウマ・ウシの毛の利用は減少しつつある。
 乳製品に関しては十分な資料がないが、『地方議会決定』の記述から、協同組合期のオルホン郡には、乳の生産・加工をめぐる分業体制が存在していたものと考えられる。その中心にあったのが、郡の中心地に設けられた乳・油の精製加工工場であり、そこでは搾乳期間にあたる4〜9月にかけて、常時16人の作業員が働いていた。その仕組みは、以下のようなものである。まず、各ブリガードで組織された「フェルム(ferm)」とよばれる集団が、メスウシと子畜の飼育を専門的に行い、そこで得られた乳をすぐに加工してバター(maslo)の原料となるクリーム(ts'otsgii)をつくる。そして、乳・油の精製加工工場で、それをさらに機械で加熱・攪拌して、バターを生産した。加えて、ウシのほかに、小家畜の搾乳も行われていた(25)。当時、ネグデルは、メスウシの搾乳を、オス・不妊メスウシの飼育を担当する家族や、定住地に暮らす高齢者や家事従事者(主に女性)に割り当てることで、ウシの乳の収量を少しでも高めようとした。また、他地域ではバターや凝固乳に加工する以外にも、様々な乳製品が作られていたようだが(小長谷 2003: 62-64)、残念ながらオルホン郡における詳細は不明である。一方、現在の乳製品の売買の中心はウシの乳と馬乳酒であり、その他の乳製品の多くは自家消費用に作られている。

 2. 3 現代モンゴル牧畜社会における経済の特徴
 1950年代の後半、モンゴルでは牧畜を集団化させようとする大きな動きが起こった。それぞれの家族が所有していた家畜は、新たにつくられたネグデル(牧畜協同組合)のもとで共同所有へと移され、牧民たちは一定の生産目標を達成することで給料を受け取る賃金労働者となった。つまり、これにより、牧畜は人びとにとっての生活様式から、国家経済を支える主要な産業へと大きく変貌を遂げた。
 これまで紹介してきたように、協同組合期のオルホン郡では、肉・毛・乳製品といった畜産物の生産量を最大限に伸ばすために様ざまな取り組みがなされてきた。当時、年間の牧畜作業のスケジュールおよびノルマはネグデルによって厳しく管理されており、牧民たちはそれに従い家畜飼育を行うことが求められた。その代わりに、彼らは社会・経済のほぼ全面に渡ってネグデルから手厚いサービスを受けることができた。
 しかしながら、1989年の民主化運動に端を発した市場経済化の波は、それまでの人びとの暮らしを一変させた。特にネグデルの解体に伴う家畜の私有化によって、地方ではいずれの組織にも属さない自営牧民が多数生まれた。オルホン郡では、民営化により農業会社(「オルホン・マンダル」、「ハリオン・タリア」)が設立されたが、それはあくまで例外的な出来事であって、ネグデルや国営企業で働いていた人びとの多くは失業者となった。そして、彼らが牧畜業へと大量に流入したことで、オルホン郡における牧畜業従事者数が急激に増加した(図5)。しかも、そこには、定住地で牧畜以外の仕事に就いていた人びとも含まれていた。このように、市場経済化に伴う社会的混乱の中で、家畜を飼育することが、草原だけでなく、定住地に暮らす人びとにとっても、重要な意味を持ったのである。
 以上のことから、社会主義体制の崩壊によって家畜飼育のもつ意義が低下したかというと現実はむしろその逆だといえよう。モンゴルの地方では多くの人びとが直接・間接を問わず何らかの形で家畜飼育にたずさわっており、そこで得られた畜産物を利用することによって、市場経済化後の経済的な困難を乗り越えようとしてきた。彼らは、社会主義時代の制度や規範に依拠しながらも、そこから逸脱するような多種多様な実践を行っている。では、同様のことは、都市周辺地域でひろがりつつある牧畜定着化についてもいえるのだろうか。

3.市場経済化後の都市周辺地域における牧畜定着化
 近年、調査対象地であるボルガン県オルホン郡では、牧民の定住化および半定住化が急速に進行している。ただし、ここでいう牧畜定着化とは、必ずしも、移動生活から定住生活への不可逆的な転換を意味するわけではない。むしろ、実際には、人びとは移動と定着という異なる戦略を臨機応変に使い分けながら、移行期の社会・経済的な変化を乗り越えようとしている。そこで本節では、このきわめて今日的な現象であるかにみえる都市周辺地域における牧畜定着化が、協同組合期の牧畜実践といかに関わっているのかについて検討を行う。そしてその上で、現代モンゴルの都市周辺地域に暮らす人びとにとって家畜飼育を行うことがいかなる意味を持つのかについて考えたい。

 3. 1 地域格差の拡大と都市周辺地域の位置づけ
 まず、市場経済化後に新たに生じた地域格差とそこにおける調査対象地の位置づけについて説明しておきたい。モンゴルでは、市場経済への移行後、社会・経済のあらゆる面で地域格差が拡がった。その最も大きな要因として、国家流通システムの解体があげられる。社会主義時代は、畜産品や日用品の流通が国家によって保障されていた。しかし、1989年末の民主化運動に端を発する一連の市場経済化の流れのなかで、政府はネグデルおよび国営農場の民営化を断行した。その結果、国家流通システムは崩壊し、これによって市場からの距離が大きな意味を持つようになった。こうしたなか、モンゴルでは、市場から遠い地域で生活する牧民たちが、首都圏へと移住する「大移動」とよばれる現象が生じている。これまで、こうした遠隔地からの人口移動はもっぱら首都ウランバートルに集中するものとして捉えられてきた。事実、首都では人口が1990年の55.5万人から、2006年の99.4万人へと大きく増加している。一方で、オブスやホブド、ゴビアルタイ、ザブハン、アルハンガイなどの西・中西部諸県では人口減少が著しい(National Statistical Office of Mongolia 1998 ; 2000 ; 2004 ; 2007)。そのため、先行研究では、首都あるいは遠隔地を調査対象地とする場合が多い。ところが、実際には、あたかも首都からあふれたかのように、ダルハンやエルデネトといった新興都市に人口が拡散している(小長谷 2007: 39-40)。しかも、その影響は新興都市の周囲に広がる草原地帯にも及んでいることから、市場経済化に伴う変動がより複雑な地域だといえる。
 さらに、これらの地域(首都および新興都市の周辺地域)は、社会主義時代から市場経済化後の現在に至るまで、都市・工業開発が集中的に行われてきたことに特徴がある。モンゴルでは、1970年代以降、農業・工業国から工業・農業国への転換をはかるべく、工業都市ダルハンやエルデネトの建設が進められた。それに伴い、政府は、都市の食糧需要を満たすために、周辺地域において農牧業開発に重点的に取り組んだ(小長谷 2010: 53-56)。それは、それまでの家畜生産のスタイルとは異なり、農牧業の分業化・機械化を推し進めることによって生産性・効率性を向上させようとするものであった。前節で検討したように、こうした社会主義的近代化の名の下で行われた農牧業政策は、現在の牧民たちの家畜飼育の技術、畜産物の利用のあり方に大きな影響を及ぼしている。おそらくこうした点は、都市周辺地域で拡がりつつある牧畜定着化においても同様であると考える。オルホン郡の場合、草原と定住地のあいだで牧畜定着化に異なる展開がみられた。そこで以下では、それぞれの地域における牧畜定着化の実態について検討を行う。ここでは具体的に第二行政区と第五行政区を、草原と定住地の各事例として選んだ。

 3. 2 牧畜定着化の諸相──草原と定住地の事例
 3.2.1 資源利用と社会変化(草原の事例)
 オルホン郡では、1992年のネグデル解体以降、企業(kompani)や組合(khorshoo)で働くわずかな人びとを除いて、ほとんどの家族が個別に牧畜経営を行うようになった。牧民たちは自らの判断で家畜飼育を行う一方、草地の劣化や土地をめぐる争いなどの問題には協力して対処しなければならない。そこで、現在は各行政区を単位として放牧地の管理が行われている。例えば、第二行政区では、行政区長による直接的な働きかけのほかに、「行政区住民公共会議(bagiin irgediin niitiin khural)」という地域住民が参加する季節ごとの会議の果たす役割が大きい。ここでは、後者の住民会議で決議された「放牧地を季節ごとに区分し利用することに関する行政区長令第二号(以後、牧地利用令と略す)」(2005)(26)をもとに、現在の第二行政区における季節移動に対する取り組みに注目した。
 図6は、牧地利用令における放牧地の季節区分を衛星写真上に示したものである。この図から、第二行政区では、各季節に利用すべき放牧地の場所が西部に集中していることが分かる。確かに、東部は地形が山がちで積雪が多いために家畜飼育が難しい側面があるが、それでも協同組合期にはウマのオトル用地(27)などとして利用されてきた。これらの土地が放牧地として利用できなくなったのは、1995年にエルデネト市の「マルチン・バグ(牧民行政区)」とのあいだで放牧地が分割されたことに起因する。マルチン・バグとは、もともとエルデネト市の鉱山労働者に提供する畜産物を生産するためにつくられた特別区であったが、市場経済化後、そこに都市へと移住してきた牧民たちが大量に流れ込んだ。ところが、彼らには家畜を飼育するための十分な放牧地がなかったため、隣接するボルガン県のオルホン郡、ボガト郡、ハンガル郡、セレンゲ県の諸郡から領域の一部の提供を受けることになった(28)。その結果、第二行政区では、マルチン・バグの人口(全272戸)および総家畜頭数(全81,773頭)が、当該地域の人口(全138戸)および総家畜頭数(全45,208頭)を大きく上回るようになった(2008年時点)。
 また、他地域からの人口流入によって、現実に利用可能な牧地面積が減少するなかで、第二行政区では、牧民たちの季節移動の距離および回数が、協同組合期に比べて著しく低下している。例えば、この地域では、四季の変化に応じて宿営地を交替する世帯は全体の半数にも満たない。さらに、家畜群の一部を連れて別の放牧地へと赴くオトル(otor)も現在ではほとんど行われなくなった。このような季節移動の距離および回数の減少は他方で、牧民たちが特定の宿営地を複数の季節にわたって利用するようになったことを意味する。この地域では、冬と春の組み合わせが最も多く(29)、次いで、秋と春、夏と秋に同一の宿営地が利用される傾向にある。ここでは、その背景として以下の二つの点を指摘することができる。第一に、ネグデルの解体によって牧地利用に関わる公的な制度や支援が失われたことで、人びとが移動や輸送にかかるコストを自ら負担しなければならなくなった。宿営地のあいだを頻繁に移動することはそれぞれの世帯にとって負担が大きく困難であり、そのため牧民たちの移動性が低下したものと考えられる。
 その上で第二に、とりわけ冬から春にかけて特定の宿営地が利用される背景として、個々の世帯が畜舎や家畜囲いなどの防寒施設を確保できないことがあげられる。すでに述べたように、協同組合期には、ネグデルの主導のもとで防寒施設の建設・解体が計画的に行われていた。また、このほかにも防寒施設の維持・利用に関わる作業や刈草・飼料の備蓄などがネグデルによって保障されていた。ただし、これらすべてを個々の世帯が負担することは困難である。そのため、現在では防寒施設の多くが、冬営地または春営地のどちらか一方に設けられるようになった。他方で、こうした防寒施設への依存は、社会主義時代に高められたものであることをここで改めて指摘しておきたい。

 3.2.2 生計活動と社会関係(定住地の事例)
 社会主義下の近代化政策によって、牧畜は、人びとにとっての生活様式から、国家経済を支える主要な産業へと大きく変貌を遂げた。何よりも、この分業システムを支えたのが地方の定住地と草原の関係であった。当時、草原で生産されたあらゆる畜産物は、ネグデルの本部が置かれた定住地へと集められ、そこから都市へと搬出された。そして、その反対に、様ざまなモノやサービスが都市から定住地へと運び込まれたのである。その結果、定住地は、社会主義時代の国内分業の枠組みのなかで、商業・貿易の集約地点としての役割を果たした。しかし、社会主義体制の崩壊に伴う国家流通システムの解体は、こうした草原と定住地の関係に新たな変化をもたらした。それが、最近の定住地における自営牧民の増加である。例えば、オルホン郡の場合、社会主義時代には、定住地での家畜飼育が原則として禁じられていた(30)。なぜならば、定住地は、地方社会の社会・経済の拠点であり、畜産物の生産を行う役割は草原に暮らす牧民たちが担っていたからだ(31)。しかし、市場経済化後のオルホン郡では、草原だけでなく、定住地においても、自営牧民と彼らの飼育する家畜に大幅な増加がみられる(32)。
 現在、草原と定住地で家畜飼育に従事する家族の多くが、ネグデルが民営化されたあとに新たに牧畜を始めた人びとである(33)。ただし、草原と定住地の牧畜経営にはいくつかの点で違いがみられる。調査対象地のオルホン郡では、いずれの地域の牧畜経営にも共通した特徴がみられる一方で、定住地の方が経営面(労働力や飼育家畜)でより小規模なものになっている。具体的に、草原では、大半の居住集団が複数の家族からなるのに対して、定住地では、全体のおよそ三分の二の家族が単独で家畜を飼育している。つまり、定住地では、年間の牧畜作業に費やせる労働力が非常に限られている。そのため、草原に比べて家畜の平均所有頭数が少なく、種類によって家畜の利用に偏りがみられる(34)。 このような草原と定住地の牧畜経営にみられる違いは、それぞれの地域に暮らす人びとの牧畜業への依存度の差によるところが大きい。草原では、一部の年金受給者を除き、大部分の家族が牧畜からのみ収入を得ているのに対して、定住地では、サービス業や年金など、そのほかの手段によって定期的に現金収入を得ている家族がほとんどである。そのため、定住地の場合、家族に食糧を供給するなど自給的な側面が強く、牧畜経営が副次的な生計手段となっている。その理由として、定住地では、市場経済化後に新たに牧畜を始めた家族のおよそ八割が、社会主義時代に定住地で働いていた経験がある。一方、草原だとその数が二割にも満たない。このように、定住地には、社会主義時代の生活スタイルを現在も維持している家族が数多くいる。そして、彼らの大部分が、その他の仕事、年金、公的な財政援助などからも収入を得ている。つまり、彼らは、家畜飼育を補助的な生計手段にすることで、それまでの生活スタイルを維持してきた。
 ただし、定住地における家畜飼育は、限られた土地を長期にわたって利用するという点で周囲の自然環境に深刻な影響をもたらす恐れがある。筆者が行った調査によると、定住地では草原に比べて日帰り放牧の距離や範囲が総じて短い。さらに、家畜に給水するための井戸が整備されていないことなどから、家畜の群れが河川や泉など地表水を利用できる場所に集中する傾向にあった。もちろん、こうした点については地域内でも問題視されているが、現在のところ具体的な解決策は見出されてはいない。
 以上のように、調査対象地のオルホン郡では、草原(第二行政区)と定住地(第五行政区)において牧民の定住化および半定住化が進行している。いずれの地域の事例にも共通していえることは、人びとが社会主義時代(特に協同組合期)の社会・経済の枠組みに依拠しながらも、それらを解体し、再編するような実践を展開しているということである。言い換えれば、協同組合期の取り組みが維持できない、あるいはそれだと対処できない状況下において、個々の世帯が創意工夫を発揮して、市場経済化後の経済的な困難を乗り越えようとしてきた。だが、その一方で、こうした様ざまな取り組みが、調査対象地に深刻な環境変化をもたらしつつあることが明らかとなった。

 3. 3 家畜飼育と生計戦略の多様性
 以上のことから、地方の人びとと家畜の結びつきは薄れるどころか、むしろ深まっているように思われる。では、実際のところ、彼らにとって家畜を飼育することとはどのぐらい経済的に意味のあるものなのだろうか。また、それとは別の理由があるのだろうか。そこで最後に、現代モンゴルの都市周辺地域における家畜飼育のもつ潜在的な可能性および不可能性について考えたい。
 モンゴルでは一般に、生体(肉)のほかに、毛(ヒツジ・ヤギ・ラクダ)、カシミア(ヤギ)、たてがみや尾(ウシ・ウマ)、皮革(ラクダを除くすべての家畜種)、乳・乳製品(ヤギ・ウシ・ウマ)などが売買の対象となる。このうち、牧民たちにとって定期収入と呼びうるものは、毛、カシミア、たてがみや尾などである。特に、ヤギからとれるカシミアは、(近年国際的な価格の下落が著しいものの)1kg当たり約40,000〜50,000Tg(35)(2010年)とヒツジの毛の十倍近い値段で取引がなされる。これに対して、家畜の売却は、本来的に群れの規模を縮小するものであるため、上述のようにナーダム祭や新学期などまとまったお金がいる時期を除いてそれほど頻繁には行われない。また、同様の理由から、家畜を売却する場合には、去勢オスや年老いたメスなど群れの再生産に直接関わらない個体が選好される傾向にある。これに対して、乳製品はすぐに傷んでしまうため、一般には売買の対象にはなりにくい。社会主義時代には、乳の生産・加工をめぐる分業体制が存在したが、現在ではそうした仕組みが失われてしまった。その結果、国内における乳製品の流通量は低下し、最近ではスーパーや商店などで外国産(主にロシアや中国)の商品を多くみかけるようになった。
 ただし、エルデネト市やボルガン市といった都市の近郊に位置するオルホン郡では、市場へのアクセスが比較的容易であるため、乳製品の売買が可能である(尾崎 2008: 491)。また、輸入品に比べて質が良く安価な乳製品は、都市で生活する人びとからの需要も多い。だが、実際に取引がなされる乳製品の種類や量は世帯によって様ざまである(36)。具体的に、この地域では、ほとんどの家族がウシの乳と馬乳酒を販売している。なかにはウシの乳からつくった乳製品(自家製ヨーグルトやバター、お酒)やヤギの乳を売却している家族もあった。例えば、ウシの乳の値段は、売却する時期によって差があり、6〜9月には1l当たり300〜500Tgで取引されるが、秋・冬になるとその額が倍近くにはねあがる。同様の点は馬乳酒についてもあてはまる。地元の人の話によると、ある世帯では約30頭のメスウマから、6〜10月で約1500lの馬乳酒をつくった。彼らは、夏・秋にそのうち300〜400lを1l当たり800Tgで売却し、冬にもほぼ同量の馬乳酒をさらに高い価格で売ったのだという。つまり、この地域では、乳製品の売却により相当量の現金を手にすることが可能であり、市場から遠い他の地域に比べて経済的に有利であるといえよう。さらに、最近では、夏・秋と冬・春の乳製品の価格差を生かして高収益をあげる者なども現れるようになった。
 だが、家畜飼育は、気候変化や病気などに対してきわめて弱く、本来的に不安定な性質を有している。これまで、オルホン郡は、自然災害による被害が比較的軽微な地域だと考えられてきた(TseenOidov 2009: 13)。しかし、1999年冬から2002年は春にかけて三年連続発生した寒害(zud)により、この地域では総家畜頭数が1997年の水準まで減少した。さらに、2009〜2010年に起こった寒害では、全家畜のおよそ12%が失われるなど(尾崎 2011: 24)、寒害に対する脆弱さを露呈する結果となった。その背景として、協同組合期には牧草・飼料の備蓄が共同で行われていたが、現在では各世帯が自らそれらを調達しなければならなくなった。そのため、個々の世帯の経済状況などに応じて牧草・飼料の利用に差が生じており、そのことが寒害による被害を拡大する一因になったと考えられる。
 このような自然がもたらした脅威によって、それまで積み上げてきたものが一瞬にして失われるという経験は、われわれにとって想像に難くないだろう。ではなぜ人びとは、このようなリスクを負いながらも家畜飼育を続けるのか。その背景には、現代モンゴルの厳しい経済状況がある。例えば、国家統計局が2002〜2003年に実施したLiving Standard Measurement Survey(生活水準測定)によると、エルデネト市の総人口の43%もの人びとが貧困状態にあるという(Coulombe & Otter 2009: 35-50)。このように、都市に出たところで必ずしも安定した収入を得られるとは限らず、大半の人びとが苦しい生活を強いられている。そこで、人びとは牧畜を主要な生計手段とすることで(あるいは他の生計手段と組み合わせることで)、市場経済化後の経済的な困難を何とか乗り越えようとしてきたのだ。その意味で、牧畜定着化は、都市周辺地域における生計手段としての牧畜の重要性の(相対的な)高まりによってもたらされたといえよう。

おわりに
 本論文では、モンゴルの首都および新興都市の周辺地域における牧畜定着化と農牧業政策の関連について検討した。具体的には以下の三つの点が明らかになった。
 第一に、国家や国際社会との関係のなかで調査地のボルガン県オルホン郡がいかにして成立し、現在に至ったのかについて検討を行った。モンゴルでは、1950年代後半の農牧業集団化の流れのなかで、それまでの行政区分を解体・再編し、一郡一組合の体制が整えられた。それはまさに新しい経済組織かつ地域コミュニティを創設することにほかならなかった(小長谷 2010: 54)。しかし、1991年に始まる国営企業の民営化によって、オルホン郡では国家通商調達部隊や動物家畜病院などが次々と廃止や縮小に追いこまれた。これにより、〈地方社会=協同組合〉は実質的な意味を失い、生産単位としては機能しなくなった。以上のことから、調査対象地であるボルガン県オルホン郡の歴史とはまさにネグテル(牧畜協同組合)の設立・展開・民営化の過程であったことが分かる。
 第二に、牧畜が集団化された1950年代後半から2000年代にかけて、オルホン郡の家畜生産がどのように変化してきたのかを、『家畜資産台帳』や『地方議会決定』に依拠して詳細に跡付けた。ここでは、去勢オスの維持率(総家畜頭数に占める去勢オスの割合)に着目することで、協同組合期の共有家畜と私有家畜の各生産領域において異なる二つの生産様式が維持されてきたことが分かった。協同組合期のオルホン郡では、家畜の再生産を維持・拡大するために、生殖管理と出産・子畜の育成に重点的に取り組んだ。ネグデルは、防寒施設の建設や牧草・飼料の備蓄などを通じて、冬・春季のリスクをできるだけ低く抑えようとした。また同様に、畜産物の利用についても、肉・毛・乳製品の生産量を伸ばすために様々な取り組みがなされた。いずれの場合でも、年間の牧畜作業のスケジュールおよびノルマはネグデルによって厳しく管理されており、牧民たちはそれに従い家畜飼育を行うことが求められた。一方、ネグデルの解体によって、オルホン郡では、社会主義時代の制度や規範から逸脱するような実践が展開されており、それによって家畜飼育および畜産物利用に世帯・地域格差が生じつつあることが明らかになった。
 第三に、このような家畜生産をめぐる変化と持続が、近年、首都および新興都市の周辺地域で急速に拡がりつつある牧畜定着化といかに関わっているのかについて検討した。調査地のオルホン郡では、草原(第二行政区)と定住地(第五行政区)において牧民の定住化および半定住化が進行している。ただし、このことは単純にネグデルの解体によって人びとが無秩序な実践を行っていることを意味するわけではない。いずれの地域の事例でも、人びとは社会主義時代(特に協同組合期)の社会・経済の枠組みに依拠しつつ、それらを解体し、再編するような実践を展開していることが分かった。言い換えれば、協同組合期の取り組みが維持できない、あるいはそれだと対処できない状況下において、個々の世帯が創意工夫を発揮して、市場経済化後の経済的な困難を乗り越えようとしてきたのである。一方で、このことは市場や公共サービスへのアクセスが比較的容易である(都市の近郊に位置している)という調査地の地理的条件によるところが大きいことを指摘した。
 以上述べてきたことから、これまで個人の牧畜実践に還元されてきた牧畜定着化の実態を、ネグデルの設立・展開・民営化の過程のなかで実証的に検討することができた。
 とはいえ、なお残された課題も多くある。なによりも本論文では、社会主義時代(特に1970年代以降)に首都および新興都市の周辺地域で行われた農業、都市・工業開発が、調査地における牧畜定着化にどのような影響を与えたのかについて十分に検討することができなかった。そこで今後は、『家畜資産台帳』や『地方議会決定』といった郡レベルの統計資料や行政文書に依拠して、首都圏における他地域の事例との比較考察を行うことで、社会主義/ポスト社会主義期の農牧業政策にみられる地域的偏差が、それぞれの地域の牧畜定着化といかに関わっているのかを明らかにしたい。

[注]
(1)(モンゴル科学アカデミー歴史研究所 1969=1988: 300)、(小貫1993: 210)を参照のこと。
(2)例えば、左翼偏向期には、個人経営に対する貸付が原則として禁止されていた。しかし、新転換政策のもとで、これを廃止し、家畜の飼育や世話の改善のために、牧民に対して国家からの貸付が与えられるようになった(モンゴル科学アカデミー歴史研究所 1969=1988: 324)。
(3)例えば、モンゴル人民共和国のいわゆる「正史」として1969年に刊行された『モンゴル人民共和国史』第三巻では、牧畜業生産の停滞の理由を「牧畜部門は五カ年計画を達成することができなかった。……牧畜はあいかわらず効率の悪い遊牧的方式で行われ、自然条件に支配されていた。新技術や科学的方法が牧民経営にあまり浸透せず、経営方法に変化がみられなかった。……国家の立案した計画は、個人牧民経営の能力を超えるものだった」と総括している(モンゴル科学アカデミー歴史研究所 1969=1988: 299)。また、これには当時、(ポーランドを除く)東欧や中国などの社会主義諸国において農牧業の集団化が急速に進められていたこととも関係している(二木 1993: 116)。
(4)「牧民生産組合規則」(1932)では、「牧民生産組合が、草刈り・耕作・家畜の放牧・輸送・畜舎の建設などの労働を共同化し、個人の家畜やその他の生産手段を社会化(統合)せずに、生産組合が得た利益を組合員が提供した労働と生産用具の程度に応じて分配するもの」と定められており(小貫1993: 218)、後述する「牧畜協同組合」とは大きく性質を異にするものだといえる。
(5)当時、各年度の生産ノルマは、人民革命党の承認のもとに、政府の国家計画委員会から県、県から郡=ネグデル、ネグデルからブリガード(ヘセグ)、ソーリへというように、トップダウン式に伝えられた。こうしたことから、二木(1993)は、協同組合期を通じて、畜産が他の産業部門に原材料を提供するだけの副次的、従属的な存在になってしまい、牧民は国から課された生産ノルマを消化するだけの受動的な性格をもつ生産者になってしまったと指摘している(pp.117-118)。
(6)「請負制」では、牧民は従来通り給料を受け取る一方で、母畜100頭当りの子畜育成数、ヒツジ1頭当りの羊毛量、搾乳量、肥育率などについて一定の生産請負契約を結ぶ。牧民は契約を上回った分について、契約の条件にもとづき、現物の何割かを自分のものにしたり、現金を受け取ったりすることができる。これに対して、「賃貸制」では、ネグデルからは給料が支払われず、牧民は賃貸料を払い一定期間(多くは3〜5年)、一定数の家畜を完全に自分の管理下に置き、契約にもとづき、畜産物から得られる利益の何割かを得る。この賃貸制は、請負制に比べ、契約の内容が牧民により一層有利になっているという(二木1993: 119)。
(7)ただし、このことは必ずしもネグデルのもとで共有化された家畜(共有家畜)と個人が所有する家畜(私有家畜)が明確に区別されていたことを意味するわけではない。後述するように、社会主義時代のモンゴルでは、私有家畜も共有家畜と同じように畜産物の供出が義務付けられており、両者の区別はそれほど厳密なものではなかった。
(8)これらは、ボルガン郡、ハリオン郡、ブレグハンガイ郡にそれぞれ設立された。
(9)例えば、「ソーシャリズム・トヤ」は、1953年に16人が、ヤギ1500頭、ウシ140頭、ウマ600頭、ラクダ160頭の家畜を持ち寄って組織した小さな組合であった。
(10)モンゴルでは国土が、森林性草原(khangai)、草原(kheer tal)、砂漠性草原(gov')という三つの地域に区分される。ヒツジは全ての地域で飼育されているが、ラクダは砂漠性草原に集中し、ウシは森林性草原に多い(二木 1993: 107)。また、ヤギは、市場経済化以降、全国的に増加している。
(11)「共有家畜(niigmiin mal)」とは、その原語の意味どおり共有(niigem)の家畜(mal)のことを指す。この対義語は、私有(khuv')の家畜(mal)であるが、より一般的には命(am')の家畜(mal)とよばれていた。後者は、生活の糧として人びとの命をつなぐものであり、その意味で「共有家畜」とは言葉のもつ意味合いがずいぶんと異なるように思われる。
(12)オルホン郡の第二行政区と第四行政区には、エルデネト市の牧民が多数暮らしている。そのため、実際にはこれよりも多くの家畜が飼育されているものと考えられる。
(13)カシミアの市場価格は、他の畜産品に比べて高い。例えば、羊毛が1kg当たり約350〜400Tg(2010年)であるのに対して、カシミアは1kg当たり約40,000〜50,000Tg(2010年)と大きく差がある。
(14)ウマとウシの数は全国的にみると減少傾向にある(1992─2006年)。
(15)例えば、オルホン郡では、ヒツジの総取引量が、1972年の20,975頭(内訳は、○1国家調達:14,461頭、○2地域内消費:5984頭、○3売却・移転:530頭)から、2000年の22,969頭(内訳は、○2地域内消費:6305頭、○3売却・移転:12,016頭、○4市場流通:4648頭)とわずかに増加している。
(16)血が濃くなりすぎるのを防ぐために、種オスは数年ごとにブリガード間で交換された。また、種オスは家畜の再生産の要であり、その飼育には最も優秀な牧民たちがあてられた。
(17)この組織は、各ブリガードから集められた計48人で構成されていた。
(18)郡の中心地で働く労働者たちは、病気などやむを得ない事情がある場合を除き、出産・搾乳、刈草などの牧繁期に労働力としてかり出された。その際、彼らは、各作業に先立って開催される講習会に参加することが義務付けられていた。
(19)利光(1983)は、居住集団を構成するメンバーの一部が一部の家畜を連れて一時的に移動する「オトル(otor)」が、生活様式の定着化と生産様式の移動化を同時に可能ならしめるものであったと指摘している。協同組合期のオルホン郡でも、家畜をオトルによって肥育することが求められていた。例えば、1982年には、全家畜の約95%に相当する102ソーリ78,072頭の家畜を、オトルによって(春に一斉計測した体重から)平均9〜10kg増やすことを目標としていた。もちろん、その数値は、家畜種や性別、年齢などに応じて差があった。具体的に、ウシの場合は、成メス300kg、三歳オス230kg、三歳メス220kg、二歳140kgとなる。ヒツジは混血種と在来種で差があり、混血種の場合は、去勢オス・成メス55kg、二歳40kg、当歳30kgとなるが、在来種の場合は、去勢オス・成メス43kg、二歳35kg、当歳25kgとなる。また、ヤギの場合は、去勢オス・成メス33kg、二歳30kg、当歳13kgとなる。これらの数値はきわめて重要なもので、もし仮に10月および12月の一斉計測で目標体重に届かなければ、牧民は自らの家畜あるいは金銭で不足分を補填しなければならなかった。
(20)そのほかにも、例えば、出産予定のメスウシを担当するソーリには、(メス15頭ごとに)腹巻き3本、(子ウシ3頭ごとに)ボーツbuuts(燃料にする畜糞)1トン、飼料10kg、(ウシ120〜150頭ごとに)牧草500kgをネグデルが用意していた。
(21)当時、家畜の調達は基本的に春(5月)と夏(8月)に行われていた。具体的に、第一・第三ブリガードは郡中心、第二・第四ブリガードは第二行政区中心に集荷され、そこから都市へと出荷された。
(22)例えば、1967年に郡内で調達されたウシ7ソーリ、ヒツジ8ソーリ、ヤギ1ソーリの計16ソーリの家畜の長距離輸送が、48人の牧民の手で行われている。当初、トーバルの担当者には、報酬として家畜が支給されていたが、1964年以降は現金で支払われるようになった。これと同様の事態は、ネグデルで働く牧民たちのあいだでも生じていたという。
(23)協同組合期には、共有家畜だけではなく、私有家畜からも毛・皮革の調達が行われた。個人所有者が定められた量の毛・皮革を供出しない場合には、実名を公表するなどの社会的制裁が加えられることもあった。このように、当時は、私有家畜も共有家畜と同じように畜産品の供出が義務付けられていた。
(24)家畜の毛刈りが最盛期を迎える3〜4月には、全ての牧民たちが総出で剪毛作業を行った。例えば、ヤギの場合、ヤギを飼育する牧民一人当たり50〜60頭が割り当てられた。また、その他の家畜種を担当する牧民にも20〜50頭が割り当てられた。
(25)当時、オルホン郡では、ヒツジは6月、ヤギは6〜8月に搾乳が行われていた。
(26)「牧地利用令」(2005)
1.ブレンブスト、チンゲル、イウェルト、ズィリーン・フンディ、デレン・ゲゼグ、テール・ボラグを夏営地、ハリオン中心、ツァンティン・ウズール、ハル・トルゴイ、タリアン・トルゴイを秋営地または春が過ぎた後の一時的な宿営地とし、ナリン・ハイラスタ、イフ・ハイラスタ、ハリオン南、ズィルなどを冬営地または春営地をもうける場所として定める。
2.上記の場所に移動する時期は別に指示する。
3.前項で定めた地域、または別に指示する時期に違反した場合、大型家畜1頭あたり小型家畜5頭の換算で/ヒツジ1頭につき一度の違反で50Tg、再度の違反で100Tg支払う。また、これに従わない場合は、裁判所の決定に従う。
4.オルホン県バヤン・ウンドゥル郡(筆者注:エルデネト市のこと)とボルガン県オルホン郡のあいだに結ばれた領域分割契約の実行は、第二行政区の代表協議会に委任する。
(27)オトル(otor)とは、短期間に移動を繰り返しながら、家畜を広い範囲で菜食させることを指す。ウマは一般に他の家畜種に比べて積雪に強い(ウマは積雪が多くとも採食が可能である)とされる。
(28)市場経済化後、エルデネト市の周辺地域では、他地域から移住してきた牧民と、隣接する諸郡の牧民とのあいだで土地をめぐる争いが頻繁に生じるようになった。例えば、オルホン郡の第二行政区では、外部からやってきた牧民世帯の数が、1990年代当初の30〜40戸から、1990年代半ばに200戸を上回るようになった。こうしたなか、郡議会は、山がちであまり利用されていなかった第二行政区の東半分の土地を(1995年時点で第二行政区の牧民30戸ほどが暮らしていた)、エルデネト市に籍を置く牧民たちのために提供し、領域を分割することで、事態の打開をはかろうとした。しかし、この地域に移住してくる牧民の数は増加の一途をたどっており、領域の分割だけでは対処できなくなってきているという。
(29)宿営地を重複して利用する世帯のなかには従来通り季節移動を行う世帯も含まれる。例えば、年四回以上移動する世帯の約半数(全31戸のうち17戸)が、冬から春にかけて同じ宿営地を利用している。
(30)第五行政区では、1992年まで中心地から半径1km以内での家畜飼育が禁止されていた。
(31)ただし、都市近郊にあった酪農場など一部の定住地では家畜が飼育されていた(小長谷 2007: 38)。
(32)第五行政区では、全世帯294戸のうち98戸が牧畜業に従事している。ただし、その多く(74戸)が他地域で暮らしており、定住地で家畜飼育を行っている世帯は24戸と少ない(2008年時点)。
(33)具体的に、第二行政区では、調査を実施した全83戸のうち54戸が、第五行政区では、全23戸のうち18戸が、市場経済化後に新たに自営牧民となった世帯である。
(34)草原では、ほぼ全ての家畜種を均等に利用しているのに対して、定住地では、ウマを所有する家族が半数にも満たない。もし仮にウマを所有している場合でも、群れとしてではなく、乗用にわずかな数が維持されるにとどまる。しかし、その一方で、舎飼いに適しているウシをほとんどの家族が利用しているという特徴がみられた(冨田 2010: 213)。
(35)モンゴルの通貨単位。調査期間中(2008)の為替レートで、100トゥグルク(Tg)=約10円。
(36)基本的にどの世帯も乳製品を自家消費に充てている。ただし、そのうちどれだけの乳製品を売却するのかについてはそれぞれの世帯の経済状況によって異なる。

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