芸妓という労働の再定位──労働者の権利を守る諸法をめぐって

松田 有紀子
(立命館大学先端総合学術研究科博士課程・日本学術振興会特別研究員)

はじめに
 芸妓(1)は、宴席に侍り芸能によって客をもてなす、女性の専門職である。京都市では、芸妓の派遣先であるお茶屋や料理屋、そして後述する置屋が集中する地域を花街(かがい)と呼ぶ。京都市内に位置する5つの花街(祇園甲部、祇園東、上七軒、先斗町、宮川町)にやってきた少女たちは、芸妓としてデビューするまでの修業期間を舞妓として過ごす。このような特殊な労働の形態を年季奉公と呼ぶ。舞妓が所属し住み込みで訓練を受ける家を置屋(屋形、小方屋とも)いう。京都市の場合、舞妓が育成にかかった諸経費を置屋に精算し、「年季」が明けるまでにかかる期間は、中学卒業後の15歳ごろから20歳までの5・6年が平均的である。置屋と舞妓の関係性は、舞妓が芸妓として独立して居を構え、「自前」になるまで続く。現在では、年季奉公の制度の維持によって、舞妓を育成している花街は、京都市を除けばほとんどない(2)。
 また京都市は、管見の限り、現在も18歳未満の少女たちが舞妓として「お座敷」に出ることができる唯一の地域である。18歳未満の者が業務として酒席に参加することは、労働基準法や児童福祉法などの労働者や子どもの権利を守る諸法によって禁止されている。他地域の花街では、これら諸法の存在によって、18歳未満の少女に宴席を経験させることはできない。西尾(2006)は、京都花街でこうした特殊な環境が可能になる理由として、京都花街では、舞妓を労働者ではなく見習いとして解釈しているのだという説明を、複数の関係者から受けたと指摘している。つまり、舞妓は就労しているとみなされていないために、これらの法律の適用対象から外れるのだという。こうした説明の背景には、京都花街における、置屋と芸妓の特殊な関係性があると考えられる。
 本稿では、京都花街の体制をささえる、近代的な雇用契約とは異なる論理の一端に注目することで、現代の芸妓と芸妓置屋の関係性が、いかなる歴史的な背景を経て成立したのかという問題を考えたい。具体的には、労働者の労働条件の基準を法律で定めると規定した日本国憲法の制定によって、労働者の権利を守る諸法が整備された昭和20年代後半から昭和30年代前半までの時期を中心にとりあげ、芸妓を労働者としてとらえる論理と、「芸能人」としてとらえる論理のせめぎあいに注目する。
 近代日本における芸妓は、公娼制度史のなかでとりあげられ、芸妓置屋との間に、前借金の償却を前提とした労働契約を結ぶ点に注目がなされてきた。芸妓は、類似した形式の労働契約を結ぶ娼妓に準ずる存在であると考えられており、芸妓と、公的に売春を許可された存在である娼妓の混同については明確に意識されてはこなかった(牧 1971; 山本 1986; 小野沢 2010)。
 一方で、第二次世界大戦後の米軍占領期における芸妓については、藤目(2005)によって、労働権の享受から疎外された労働者としてとらえてられてきた。しかしながら、公娼制度が廃止されて以降、性産業と労働権をめぐる占領下の政策が、芸妓と娼妓(公娼制度廃止後は酌婦・従業婦)をいかに混同していたのかという検証は十分ではない。
 1900(明治33)年の娼妓取締規則(内務省令第44号)によって、国家として統一した取り締まり基準を定められていた娼妓とは異なり、芸妓の取り締まりは、警視庁および各府県に一任されていた。この点は、風俗営業取締法や労働基準法によって、芸妓の営業が管理されるようになった第二次世界大戦後も同様である。そのため、芸妓の労働条件は、現在にいたるまでに、どのような緊張関係のもとに成立したのかという問題を考えるためには、その地域における固有の歴史的背景をふまえる必要がある。
 本稿では、明治期から第二次世界大戦までの芸妓の労働契約・業態の特性を、歴史的に検討する。その上で、第二次世界大戦後の京都市において、芸妓を労働基準法が想定する労働者とは異なる存在として再定位した、芸妓置屋らの論理に注目したい。
 本稿の前半部となる第1節および第2節においては、明治期から第二次世界大戦終結までの時期に注目し、芸妓稼業契約と前借金契約を介した芸妓と芸妓置屋の関係について概観する。第1節では、芸妓労働条件について注目する。第2節では、芸妓の労働契約と娼妓の労働契約のありかたを比較したい。その上で、前借金契約による芸妓の人身拘束を背景に、第二次世界大戦末期には、国家として芸妓をどのように位置づけていたのかを検討する。
 後半部の第3節および第4節では、占領軍の指導のもと、労働者の権利を守る諸法が整備されていく、昭和20年代後半から30年代に注目する。芸妓を性産業に従事するおそれのある労働者として位置づけ、一定の労働条件の基準を順守させようとする労働省の論理と、芸妓は労働者にはあてはまらない「芸能人」であると主張することで抵抗を試みる、芸妓置屋の論理のせめぎあいについて述べる。第3節では、労働基準法に照らして、芸妓の労働条件のどのような点が問題視されたのかに注目する。くわえて、同時期に制定された風俗営業取締法および売春防止法が、京都市内の芸妓営業地にもたらした影響についても注目したい。最後に、第4節では、労働基準法や児童福祉法の整備がすすめられるなかで、芸妓置屋営業者が、芸妓という労働をどのようにとらえていたのかを、具体的な活動をとりあげながら検討したい。

1.昭和20年代前半までの労働条件──芸妓稼業契約と前借金契約
  明治期から第二次世界大戦終結にいたるまで、芸妓の労働条件は、芸妓置屋営業者との間で結ばれる芸妓稼業契約と消費賃貸契約という2つ契約によって規定されていた。消費賃貸契約とは、連帯保証人(多くは芸妓の親権者)が芸妓置屋営業者から前借金を受けとることを定めた契約である。これは周旋業者の仲介によって、親権者と芸妓置屋営業者間で交わされる契約であり、金銭消費賃借とその利息償却に関する強制執行認諾を約する公正証書である。一方、芸妓稼業契約は、前借金を返済するために芸妓本人と芸妓置屋営業者間で結ばれる。こちらは芸妓稼業に関する条件を約する私署証書である(中央職業紹介事務局 1926)。芸妓は、抱主である芸妓置屋営業者と交わした稼業契約の条件に則り就業する。多くの場合抱主が営む芸妓置屋に寄寓し、派遣先では抱主の屋号(看板)を名乗って活動した。
 法文の上では、年季奉公という労働のありかたは、1872(明治5)年に出された芸娼妓解放令により、事実上の人身売買であるとして禁止されている(3)。しかしながら、先払いされた前借金を身代金として、一定の期間労務に服する芸妓の契約のしくみは、実質的に、近世における「身代金的年季奉公契約」を継続するものであった(4)(牧 1971)。以下、芸妓の労働条件の実態について具体的に検討する。
 芸妓の労働契約は、娼妓とは異なり、前借金の償却法と、稼業年限の有無によって分類された(石井 1916; 中央職業紹介事務局 1926; 花園 1930)。
 このうち、「丸抱え」は、芸妓稼業契約で年限を定め、その定めた年限内に芸妓があげた収益の全額を芸妓置屋営業者の収入とする契約である。この契約では、芸妓の収入が一切ないために、衣装や三味線をはじめ、営業上必要なあらゆる経費に加えて、食事の世話や身の回りの小物、生活用品までを芸妓置屋が支出する。
 「丸抱え」と同様に、稼業年限があり、なおかつ年限内に芸妓があげた収益の全額が芸妓置屋の収入となる契約に「仕込み」がある。義務教育修了または義務教育中の少女を抱え、芸能の訓練や礼儀作法、接待の心得を学ばせるための契約である。多くの場合、稼業年限は芸妓置屋に抱えられた年から二十歳まであった。この場合も、必要経費に加えて、芸妓の生活の面倒の一切を芸妓置屋が負担した。芸妓としての職業訓練を施すための契約という性質は、現在の京都花街における年季奉公のありかたに近い。しかしながら、当時の「仕込み」契約は、訓練を受ける少女が芸妓として一人前になる頃に、第二の抱主である他の芸妓置屋に転売することを前提として結ばれる場合が多かった。前借金に違約損害金や習業期間中の費用が上乗せされるため、芸妓の負債は嵩み、廃業することは難しい(中央職業紹介事務局 1926)。
 また、芸妓のあげた収益を、芸妓と芸妓置屋が分割する契約も存在した。これらの契約では、稼業年限は前借金の完済時点までとなる収益分割の割合によって、「分け」・「七三」・「逆七」などのいくつかの種類が存在した。この場合、営業上必要な道具類については、芸妓置屋と芸妓で分担して負担する。例えば「七三」では、芸妓置屋が衣装と帯を負担し、芸妓は長襦袢と扱き帯、日常の衣類と三味線などを負担した。また、芸妓の営業税や芸妓組合についても、契約で取り決めた割合に則って分割負担していた。
 さらに、見かけ上は独立自営業に近い契約に「看板借り」がある。ここでの看板とは屋号を指す。「看板借り」の場合、芸妓置屋への前借金の負債はないが、芸妓は月毎に看板料を芸妓置屋に納めなければいけない。また、衣装をはじめとる営業上必要な経費は、芸妓が自己負担することになる。さらに芸妓組合費や営業税を自身で納める必要もあったため、実際には「看板借り」として生計を維持することは非常に困難であった(石井 1916; 花園 1930)。昭和初期に新橋で芸者をつとめた花園歌子は、契約で定められた年季が明けた後も、芸妓の負担が高い「看板借り」を避けて、「気儘な逆七」の身分でいることを選んだ。当時の新橋では、「看板借り」を選ぶ芸者はひとりもいなかったという(花園 1930: 50, 164)。
 一方、芸妓置屋と労働契約を結ばず、独立して屋号を取得し、芸妓を営む者を「自前」と呼ぶ。しかしながら、「自前」となるためには、他の労働契約とは異なり、寄寓する芸妓置屋を出て新たに居を構える必要があるため、実際には「自前」の芸妓は芸妓置屋を自営するものに限られていた(石井 1916; 中央職業紹介事務局 1926; 花園 1930)。
 地域によっては、何を、どこまで芸妓置屋が負担するかに差はあったものの、戦前の労働条件はおおむね以上のようなものであった。芸妓の収入となる割合が増えれば増えるほど、経費の負担が重くなる仕組みが採られていたため、花園のように、年季が明けても敢えて独立せず、芸妓置屋に寄寓し続けるといった選択をする者は少なくなかったと考えられる。
 それでは、前借金の償却はどの程度困難であったのだろうか。芸妓の収益は、花代(関東では玉代)と祝儀からなる。しかしながら、芸妓置屋だけでなく、芸妓の派遣先である待合・料理屋、そして後述する検番が収益を一定の割合で差し引くため、実際には全額が芸妓の収入となるわけではなかった(中央職業紹介事務局 1926; 417)。また、「丸抱え」や「仕込み」以外の契約の場合は、生活必需品や日常の衣類、芸能の師匠への月謝などを自己負担しなければならない。前借金は、収入からこれらを差し引いた残額から月賦で償却することになる(石井 1916; 中央職業紹介事務局 1926; 花園 1930)。前述の花園は、1930(昭和5)年3月における前借金前借金1200円の「分け」の芸妓について実例を挙げている。この月の稼高は145円56銭であり、総収入は95円28銭、総支出は45円47銭で、残額の49円81銭から前借金を償却する計算になる(5)(花園 1930: 54-5)。くわえて、芸妓が契約年限あるいは前借金の償却を待たずに廃業する場合や転籍する場合は、違約損害金を芸妓置屋に払う必要があり、芸妓の負債はさらに嵩むことが多かった。当然ながら芸妓によって稼高に差もあったため、一概にはいえないが、前借金の返済を達成することは、芸妓にとって困難であったと考えられるだろう。そのため、前借金を償却できずに負債を負い、芸妓から娼妓へ転業するものも少なくなかった(中央職業紹介事務局 1926)。

2.近代の公娼制度における芸妓の位置づけ
 2. 1娼妓の労働契約との類似点
 このような前借金を労働によって返済する芸妓の労働契約の仕組みは、昭和30年代前半まで実質的に維持されていく。それでは、芸妓の労働契約は、近代の公娼制度における娼妓の労働契約の仕組みと、どのような点で類似していたのだろうか。
 娼妓の場合、娼妓とその抱主である貸座敷営業者の間で、娼妓の親権者を連帯保証人とする金銭消費賃貸証明書によって前借金の契約が結ばれる。この証明書とは別個の契約として交わされる娼妓稼業契約が、売春による借金の返済契約を成立させていた(6)。芸妓と同様に、これらの契約締結を仲介したのは周旋業者である(中央職業紹介事務局 1926)。ここから、芸妓の労働契約のありかたは、娼妓のそれと類似したものであることがわかる。娼妓についても、貸座敷営業者の取り分を差し引いた娼妓の収益では、前借金を返済することは非常に困難であり、多くの場合、償却不能に陥った末に他の貸座敷営業者へ転売されていた。
 一方で、娼妓は芸妓とは異なり、1900(明治33)年の娼妓取締規則(内務省令第44号)の公布によって、自由廃業が公的に認められていた。娼妓取締規則は、それまで警視庁および各府県に一任されていた娼妓の統制について、はじめて国家としての基準が示すものであり、「公権力の統制の下で行われる売春をのみ合法とし、統制外で行われる売春を犯罪とする」公娼制度の体制を成立させる根拠となった法令である(藤目 2005: 92)。
 しかしながら、娼妓取締規則の公布以降も、人身売買の実態として維持され続けた。その理由は、事実上一体である前借金契約と娼妓稼業契約を、別個の契約とみなした大審院の見解にある(牧 1971; 小野沢 2010)。この見解により、届け出によって娼妓稼業契約が無効であるとされた場合についても、前借金契約については有効であるとされたのである(牧 1971)。娼妓を廃業しても前借金が残されているため、多くの娼妓はその償却のために稼業を継続せざるを得なかった。この見解は、娼妓と類似する労働契約のあり方を採る芸妓にも、影響を与えた。
 それでは、芸妓と娼妓は法文上ではどのように弁別されていたのだろうか。
 近代の公娼制度は、芸妓の売春行為は禁止されており、そのため、多くの場合は、娼妓のように性病検診を義務づけられることはなかった(山本 1986)。岩手県では、1879(明治12)年の「芸娼妓料理貸座敷取締規則」において、芸妓を料理店などに派遣され、客に遊技(ここでは三味線、歌舞など)を提供して金銭を得る業態と定義している。対して娼妓は、貸座敷において、客に自己の身体を提供する業態であると定義された。両者は、ともに客の求めに応じて密室に派遣される業態であるが、その派遣先は異なる。娼妓の派遣先が、売春を公的に許可された空間である貸座敷であるのに対して、芸妓の派遣先は、待合や料理屋など、売春が禁止された空間であった。一般に、芸妓は売春が禁止された空間である待合あるいはお茶屋や料理屋に派遣される存在であり、貸座敷への派遣は禁止されていた。しかしながら、京都府の場合は、明治6(1873)年以降、芸妓の派遣先であったお茶屋を、遊女屋と同じく貸座敷に改称することを府令によって定めている(京都府 1974)。そのため、府の統制上は娼妓の派遣先と芸妓の派遣先が混同されることになった。このような京都府の統制方針は、東京府をはじめとする多くの府県が採った、娼妓が営業する場所を貸す業態である遊女屋を貸座敷と定義し、売春が許可された場として峻別する政策とは大きく異なるものである(山本 1986)。ただし、京都府においても芸妓の売春は禁止されており、性病の検診も義務づけられてはいなかった。
 一般に、芸妓の営業は資格制限が設けられ、また所轄の警察署の営業許可を得る必要があるなど、娼妓と同じ制約が課されていた。さらに、芸妓の営業規則には、営業時間制限と外泊の禁止が盛り込まれることが多かった。これらは芸妓の売春防止を目的とした措置であり、各府県は芸妓の営業を「売春行為を行わないという条件の下で許可」したと考えられる(山本 1986: 283)。

 2. 2芸妓の業態と前借金契約の拘束力
 次に、芸妓の業態について検討したい。
 芸妓の営業地に存在する業種や、芸妓派遣の仕組みは、地域によって大きく異なる(加藤 2005)。しかしながら基本的には、待合・芸妓置屋・料理屋の三業種の集業地であり、これを三業地とよぶ。待合とは、芸妓を呼んで宴席を設けることに特化した業態であり、自家で料理はつくらず仕出しをとる家を指す。対して、芸妓置屋は芸妓を育成し、所属させることに特化した業態であり、客が立ち入り、宴席を設けることはできない。料理屋は、待合と同じく芸妓を呼ぶことできる施設だが、待合とは異なり自家で料理を提供する。このほかに、関東を中心とした芸妓営業地には、検番とよばれる施設があった。これは、待合・料理屋と芸妓置屋の中間に立って、芸妓派遣のあっせんや、花代の計算、そして芸妓の開業・廃業にともなう公的機関への諸手続きを代理して行う施設であったという。このほか、芸妓に技芸試験を課すこともあった(花園 1930; 加藤 2005)。
 第2節第1項でも触れたとおり、一般に芸妓の派遣先である待合には娼妓を呼ぶことは許可されておらず、売春行為についても禁止されていた。しかしながら、石井(1916)は、待合には「二タ通りの意味がある」と指摘している。すなわち、50畳から100畳もの大規模な座敷を構える「第一流の待合」と、複数の小間を備え、「四畳半」という代名詞で呼ばれる小規模な待合である。前者と後者は業態の上で区別され、前者については、純粋に宴会や芸妓を揚げての遊興の場として使用されるとした。一方で、後者においては、「客と芸者が宿泊することは、もう公然の秘密になつて居ります」と、下層の待合を、暗黙のうちに、非公認の売春の空間としてとらえる当時の風潮を記述している(石井 1916: 149-150)。その背景には、前借金契約による拘束があったことは疑いないだろう。
 このように、芸妓派遣先の業態は多様であり、芸妓の売春にたいする寛容さの度合いは大きく異なっていた。多くの場合、その差は地域ごと共通して表れた。京都市についていえば、松川(1929)は、「京都の八花街」として祇園新地甲部・祇園新地乙部・先斗町・宮川町・島原・上七軒・北新地甲部・北新地乙部(北新地とは、のちの五番町をさす)を挙げ、同じ市内に位置するこの8地域を、「芸妓本位」、「娼妓本位」、そして「芸・娼両本位」の3種類に分類した(松川 1929: 473)。ただし、松川(1929)は、「芸妓本位」とされた地域にも少数ながら娼妓がおり、同様に「娼妓本位」の地域にも芸妓が存在することをあわせて指摘している。
 1938(昭和13)年に入り、戦時体制下において「国家総動員法」が制定されると、芸妓の営業地に集まる業種も、国策によって再編されていく。警視庁は1939(昭和14)年6月から、待合・芸妓置屋・料理屋・貸座敷を含む娯楽にかかわる接客業に対して、営業時間制限を加えた。さらに1942(昭和17)年には、芸妓置屋および紹介営業の新規開業を禁止する方針を立てている。内務省もまた、同年7月16日現在の芸妓数より増加することを認めないという内容を各地方庁に通達した。1943(昭和18)には、芸妓置屋や、芸妓の派遣先である待合・料理店が、工員宿舎や旅館などに次々と転業している(藤野 2001; 小野沢 2010)。
 しかしながら、この時期には軍需産業に従事する単身労働者の増加にともない、芸妓を含めた娯楽にかかわる接客業への需要が高まっていた。一方で、軍需産業で財を成した高額所得者による芸妓の落籍が増加したほか、好景気の恩恵によって前借金を返済する女性も表れるなど、女性従業員の不足が深刻化していた(藤野 2001)。
 1944(昭和19)年に入ると、これらの業種に、ついに営業の抑止ではなく休業を求める政策が出された。2月22日に東条英機内閣による「決戦非常措置要綱」の一環としてだされた「高級享楽停止に関する具体策要綱」である。この「要綱」によって、芸妓の派遣先である待合や「高級料理店」は休業を迫られることになった(7)。ただし、地方長官によって「下級待合」であると判断された店は、名称を「慰安所」に改めることで営業の継続が認められた。芸妓や芸妓置屋についても同様に、「下級待合」の営業に必要な業種であると判断され、「享楽的ならざる慰安施設」として営業を許可されている。
 芸妓についても、一旦は休業に追い込まれたものの、下級待合が「慰安所」に変わると、その多くが「慰安婦」に転業している(8)。しかしながら、当時の「慰安所」とは、実質的に「性的慰安施設」であった。芸妓置屋は、「高級享楽」の停止を受けて、芸妓の前借金が少額の場合免除し、多額の場合は返済を猶予するなどの措置を採り、芸妓の自主廃業を一定促進したが、一方で、前借金の存在ゆえに「慰安婦」に転業せざるをえなかった女性も少なくなかった(藤野 2001; 小野沢 2010)。国家総動員体制下においても、第2節第1項で触れた大審院の見解は有効であり続けたために、前借金を残して他業種へ転業したとしても、芸妓置屋業者は前借金の返済を要求することができたのである(小野沢 2010)。近代の公娼制度において、芸妓は売春を許可されていない存在として位置づけられていた。しかしながら、「高級享楽停止に関する具体策要綱」は、国策によって、芸妓を事実上の私娼として体制に組み込んだといえる。この体制を支えた背景に、娼妓と同じく、前借金契約と一体化した芸妓の労働契約があったと考えられる。
 近代日本における公娼制度を規定した娼妓取締規則は、1946(昭和21)年1月21日に発された連合国軍総司令官覚書「日本における公娼制度の廃止に関する件」が通達されるまで廃止されることはなかった。これは、終戦を迎えた1945(昭和20)年8月に特殊慰安施設協会(Recreation and Amusement Association)が設立された結果、米兵に性病が蔓延したために、日本政府に花柳病(性行為感染症の総称、主に梅毒を指す)の撲滅を求めた連合国軍最高司令官覚書9号が発された後のことである(藤野 2001; 藤目 2005)。この覚書について、内務省警保局は、1946(昭和21)年8月20日に公娼や私娼のみならず、「本人の意思に反して売淫を強制されることのある婦女子」を適用対象とする指示を通達している。この中には、「給仕女」、「ダンサー」とともに「芸者」が含まれていた(1946年8月20日、警保局公安二発第11号「公娼制度の廃止に関する指導取締について」)。ここでは、娼妓と芸妓は類似した存在、もしくは、同様の問題を抱える存在として認識されていた。

3.労働をめぐる諸法の整備とその余波
 3. 1 焦点化される芸妓という労働
 以上のように、明治期以降の芸妓の労働は、前借金契約と労働契約という事実上一体化された2つの契約によって制約を受けるという点で、近代公娼制度下の娼妓と類似していた。また、第2節第2項で触れたとおり、第二次世界大戦末期においては、国策として芸妓の私娼化が助長されていたと考えられる。
 しかしながら、芸妓の労働条件は、娼妓とは異なる、独自の労働契約の内容にもとづいて定められている。その背景には、芸妓と芸妓の営業にかかわる業種の関係性、特に、芸妓の所属先であり、寄寓先である芸妓置屋との特殊な関係性があると考えられる。第一に、芸妓と契約を結ぶ立場にある芸妓置屋は、宴席に侍るという芸妓の業態上、芸妓に芸能を習得させる必要に迫られていた点があげられる。第二に、芸妓置屋に寄寓し、かつ芸妓置屋の看板(屋号)を名乗って就業するという芸妓の就業上の慣習の存在がある。
 芸妓置屋の第一の特性は、娼妓と「芸能人」である芸妓を弁別する根拠として、芸妓置屋営業者の言説のなかに立ち現われていくことになった。また、第二の特性は、労働基準法の適用をめぐる議論の中で、争点として焦点化されていった。第二次世界大戦が終結すると、芸妓という労働は、GHQの指導による労働政策と公娼制度の廃止という2つの背景によって、再定位を迫られることになった。性産業の従事者についても労働権の適用が求められていくなかで、芸妓は系統的に娼妓と混同されていく。
 1946(昭和21)年11月3日に公布された日本国憲法は、労働者の権利を保護する諸法の制定を促した。特に、労働基準法は芸妓置屋営業者に大きな衝撃をあたえたと考えられる(1947年4月7日、法第49号)。同法は、中間搾取の禁止を定めたほか(第6条)、賃金による前借金の相殺を禁止したほか(第17条)、未成年者の就業に関連して、芸妓稼業契約に影響する規制をかけている。具体的には、親権者または後見人による未成年者に代わっての労働契約締結の禁止(第58条)、未成年に代わっての賃金受けとりの禁止(第59条)である。
 さらに、1954(昭和29)年には、「半玉」や「仕込み」として就業する未成年の労働基準を規制する法律として、女子年少者労働基準規則が制定されている(1954年6月19日、労働省令第16号)。同法は、18歳未満の女性の就業を制限する業務として、酒席に侍る業務(第8条44号)や遊興的接客業における業務(同45号)を定めている。
 このように、労働基準法とその周辺の諸法は、芸妓置屋との契約によって就業する芸妓という業態を成立し得なくする可能性をもっていた。労働省婦人少年局長は、1954(昭和29)年に、各都道府県の婦人少年室長にあてて、芸妓置屋と芸妓の間に雇用関係があるもの見なし、芸妓置屋を労働基準法による取締りの対象とみなすと通知している(1954年11月5日、婦発363号「芸妓屋営業に対する取扱変更について」)。
 しかしながら、労働基準法は、労働者が消費資金の借り入れを得る機会を奪う可能性に配慮して、前借金契約それ自体は禁止しなかった(牧 1971)。くわえて、労働基準法は、芸妓と芸妓置屋との間に雇用関係が成立しない場合には適用されない。このため、芸妓置屋営業者には、置屋は独立自営業者である芸妓を寄寓させる下宿屋であり、芸妓との間に雇用関係は成立しないというロジックを展開する余地が残された。そのため、芸妓と芸妓置屋経営者の関係が、近代的な雇用契約に相当するのか、あるいは単に芸妓を寄寓させる大家と下宿人の関係にすぎないのかという見極めが、これらの法律の適用をめぐって問題となった。芸妓置屋を労働基準法の適用事業場とみなすか否かの判断は、労働基準監督署や婦人少年室などの労働省の担当地方部局(出先機関)にゆだねられた。

 3. 2売春防止法の影響
 このように、労働者の権利を守る諸法が整えられていく一方で、1956(昭和31)年には売春防止法が公布されている。同法は、前借金契約を前提とした人身売買を防止するとともに、売春を助長する行為を禁止し、売春婦の更生をうながすものである。売春防止法は、売春行為や買春行為そのものを禁止してはいないが、いわゆる赤線地帯には、一定のインパクトを与えた。
 赤線地帯の起源は、1947(昭和22)年11月14日の吉田茂内閣の次官会議において方針が決定された、私娼の取締並びに発生の防止および保護対策にさかのぼる。売春を目的とする雇用契約および金銭消費賃借契約の無効とする同対策には、売春を「社会上已むを得ない悪」であるとして、警察が指定した「特殊飲食店」における売春行為を認めるというという条項が含まれていた。この方針は、同年に内務省警保局長から地方長官にあてて通知された(1947年12月2日、警保局公安発第75号「最近の風俗取締について」)。第2節第2項で触れた通り、娼妓取締規則をはじめとする近代日本の公娼制度に関わる法規は、1946(昭和21)年の連合国軍最高司令官覚書「日本における公娼制度に廃する件」を受け、同年2月2日に一切が廃止されている(1946年2月2日、警保局公安発甲第9号「公娼制度廃止ニ関スル件」)。しかしながら、この通牒以降、娼妓は「酌婦」や「従業婦」などの名目で、私娼として存続させられていた。
 芸妓の営業地のうち「特殊飲食店」に類する業種が相当数存在していた地域は、多くの場合、この赤線地帯に組み込まれていた。第2節第2項において、京都市を例に述べたとおり、程度に差こそあれ、芸娼妓の営業地には芸妓と娼妓が混在していた。このような状況は、1958(昭和33)年に売春防止法の罰則が適用されるにいたるまで引き継がれていく。以下、終戦から売春防止法の適用にいたるまでの、芸妓の営業地の取り締まり上の位置づけについて概観する。
 神崎(1954)は、赤線地帯をどのような法律によって営業許可を得ているかによって4種類に区分した(9)(神崎 1954: 62)。このうち、「芸者町」は風俗営業法の許可を受けた業者の集合地帯であり、「準赤線区域」とされている(神崎 1954: 202)。
 また、1948(昭和23)年制定の風俗営業取締法は、風俗営業に該当する業種として、「待合および料理店」を挙げている。芸妓の派遣先である待合や料理店が営業するためには、当該都道府県の公安委員会による営業許可が必要になった。そのため、どのような業態を違法とするかの判断は各公安委員会にゆだねられることとなり、各都道府県によって異なった規制の水準が用いられることとなった。
 それでは、京都府の場合はどのような水準で芸妓の営業地を取り締まったのだろうか。京都府では、1946(昭和21)年2月2日の内務省警保局による娼妓取締規則の廃止を待たず、同年1月31日に公娼制度を廃止している。売春防止法が適用される1958(昭和33)年3月の時点では、14の赤線地帯が存在し、1,060名の「赤線業者」および1,517名の「従業婦」が存在していた(京都府 1960)。これらの「赤線業者」は、一斉転廃業の日と定められた1958(昭和33)年3月15日を機に、府下全体の約58%にあたる613名がお茶屋や貸席に集中的に転業した(10)。しかしながら、同業者が急増したために深刻な経営不振に陥り、同年4月末までに39軒が廃業し、間貸屋や旅館に転業している。また「従業婦」の多くは芸妓に転業したため、元赤線地帯では、彼女たちを抱える芸妓置屋が増加することになった(京都府 1960)。
 売春防止法の施行から2年を経た1960(昭和35)年の時点で、京都府全体でお茶屋営業者については100名程度、貸席営業者は50名程度が減少した。京都府(1960)は、お茶屋および貸席営業者減少が特に目立った地域として、松川(1929)によって花街であると識別された宮川町と祇園東を挙げている。宮川町ではお茶屋・貸席業者全体の50%、祇園東では25%が転廃業したという(京都府 1960)。
 京都市内の芸妓営業地では、1958(昭和33)年3月15日以前は、芸妓の派遣先と「特殊飲食店」に類する業種が、地域によって差はあるものの、ある程度は混在していたと考えられるだろう。売春防止法の施行は、「赤線業者」の転廃業に一定の効果をもつと同時に、生計を立てる手段を失った「従業婦」たちを、芸妓に転業させる結果にもつながったといえる。こうした状況のなかで、次節で述べるように、芸妓置屋営業者らは、芸妓と「従業婦」を芸能の習得をもって弁別する運動を展開していく。

4.芸能人あるいは労働者としての芸妓像
 4. 1 芸妓登録制および労働基準法適用外化を求める運動
 売春防止法の成立に前後して、芸妓置屋営業者は全国規模の同業者組織を結成し、自らの営業の正当性を訴えるために積極的に活動している。そのひとつ、全国芸妓芸妓屋同盟は、1956(昭和32)年3月に、1948(昭和23)年に東京都の風俗営業取締法施行条例によって定められた芸ぎ登録制を全国的な仕組みとして定めるよう、売春対策審議会に請願した(11)。
 芸ぎ登録制とは、芸妓組合に加入を求める女性に、芸ぎ登録委員会が芸能などの審査を行い、合格した者にのみ加入を許可する仕組みである。その狙いは、売春防止法の施行にともない、芸能を習得していない「従業婦」が、名ばかりの芸妓に転業する事態を防ぐことにあった。東京都は、芸妓を「主として和風の歌舞音曲による客の接待業とするもの」で、所轄の公安委員会が「風俗保存上支障がないと認める機関に登録されたもの」と定義していた。
 売春対策審議会は、全国芸妓芸妓屋同盟の請願を受けて、1959(昭和34)年に『芸ぎ登録制についての要望』を国家公安委員会に提出している(売春対策審議会会長・売春対策審議会委員 1959)。彼らの目的は、芸ぎ登録制を全国的に義務づける条例の制定を通じて、「芸ぎの特異性を判然として其地位を確保」することにあった。売春対策審議会は、同文中において、「正当な職業婦人」である芸妓が娼婦と同様に蔑視されるようになった理由を、芸妓と芸妓置屋営業者との関係が、娼妓と貸座敷営業者との関係と類似していたためだと説明した。これは、実態として前借金契約と一体化していた芸妓の労働契約のありあかたを指していると考えてよいだろう。くわえて、売春対策審議会は「最近の傾向」として、こうした芸妓と芸妓置屋の関係が不徹底ながら改善され、また芸妓の側にも、「芸能人」としての自覚が浸透してきたと述べている(全国芸妓芸妓屋同盟 1959: 133)。
 全国芸妓芸妓屋同盟自身は、『芸ぎ登録制についての要望』に添付された請願書において、芸妓を「歌舞音曲を主として酒間のあっせんをなし、客席に興趣を添える職業婦人」であり「歴史的にも伝統的にも特殊の存在」であると主張している。その上で、芸妓置屋は「其正常な在り方」にもとづいて「民主的な自治組織を結成して相互の強調と練磨に勤め、常に之が指導に努力している」が、売春防止法の発効による「脱法的な類似業者」の続出によって、指導の徹底に限界を感じていると述べている(全国芸妓芸妓屋同盟 1959: 133)。彼らの運動は、芸妓を、新たに流入してきた「従業婦」とは異なる「芸能人」として位置づけようとするものであるといえるだろう。
 同じく、芸妓置屋営業者によって結成された組織である全国花街連盟については、会長をつとめた大阪の芸妓置屋営業者・坂口祐三郎の伝記から、詳細な活動記録を追うことができる(鷲谷 1955)。坂口祐三郎は、大阪市にあった南地大和屋という芸妓置屋の経営者である。1910(明治43)年に大和屋芸妓養成所を設立したほか、芸妓による舞踊公演あしべ踊を主催するなどの進取的な試みを戦前から行っていたことで知られている。
 坂口は、戦後も他地域の芸妓置屋営業者とともに全国規模の組織結成に尽力し、遊興飲食税の国税移管および労働基準法の適用への反対運動を展開した。1953(昭和28)年には近畿の花街代表者を集めて全国花街連盟を結成し、同年10月には、東京都中央区中洲に東京・大阪双方の料理屋および芸妓置屋関係者を集めて会合を開いている。翌1954(昭和29)年4月には、赤坂で行われた東日本地方花街業者大会に出席し、さらに7月には島根県では中国花街連盟結成大会を開催して会長に就任した。また、坂口個人の動きとしては、1951(昭和26)年に衆議院および参議院に対して、芸妓を含む接客業従事者を労働基準法の適用範囲から除外することを求めて請願書を提出している。
 1953(昭和28)年、坂口は前述の全国花街連盟の会合において、芸妓の業態から見た労働基準法の弊害を主張した。その内容は、芸妓の業務は「一定の場所で時間を定めて仕事をするもの」ではなく、「客の招聘により始めて稼働」をする特殊な形態であり、労働基準法が想定する「工場、会社の従業員」のような労働者とは異なるというものである。坂口にとって、芸妓の業務の特性上、一日の労働時間を8時間と定める労働基準法の規定を順守することは、甚だしい「矛盾」であった(鷲谷 1955:127)。くわえて坂口は、芸妓の業態のみならず、芸能訓練という点から見ても、労働基準法には弊害があると主張している。労働基本法の適用をまぬがれようとすれば、本来は「芸妓の養成機関」である芸妓置屋は、「芸妓職業とする婦女の寄宿」にとどまらざるをえない。そのため、芸妓の芸能訓練に積極的に関わることができず、「芸妓の生命」であるところの「歌舞音曲」さえままならい芸妓が増えているというのである。坂口の主張の根底には、芸妓の質が低下すれば、「芸妓の名称を冠した売笑婦化」するという確認があった(鷲谷 1955:96)。同じく、児童福祉法についても、「徒弟制の抹消と共に、我が国古来の芸術習得方法を無視した」との見解を示し、幼少時からの全人的な訓練が阻害されていると弊害を指摘している。坂口にとって、同法は「国情に適しない、言い更えれば国策に添わない外来法令の強制」であった(鷲谷 1955:97)。
 坂口は、このように、労働者の権利を守る諸法の論理を芸妓の労働に適用することに批判する一方で、中間搾取や人身売買を防ぐために、旧来の芸妓置屋の仕組みを改革することの必要性を謳ってもいる。前借金の上乗せの原因となっていた芸妓置屋による諸経費の肩代わりを辞め、「芸妓営業に必要な資金調達」を「特定な金融機関」を設けることで賄うことを提案しているのである(鷲谷 1955:97)。
 坂口の見解を、芸妓置屋の総意として断定することはできないものの、全国芸妓芸妓屋同盟の主張とあわせてみると、芸能の習得をもって、芸妓と「従業婦」の識別を図ろうという、芸妓置屋の意図を確認できる。これらの大規模な芸妓置屋営業者の運動の一因に、労働基準法とその周辺の諸法が想定する労働者の就業形態と、「芸能人」である芸妓の労働実態の齟齬があったことと考えることは誤りではないだろう。

  4. 2 せめぎあう2つの論理
 それでは、京都市においては芸妓の労働はどのように再定位されていったのだろうか。
 1949(昭和24)年3月29日、京都七条職業安定所および西陣職業安定所は、所轄の芸妓組合を職業安定法第32条の定める「演芸人の職業周旋を行う」有料職業紹介事業であり、かつまた、同法第44条の定める労務者供給事業であると認定し、同法の順守を求めている。この認定は、全国に先駆けた動きであった。当時、京都市内には祇園甲部、祇園乙部、島原、宮川町、中書島、先斗町、上七軒の7地域に芸妓組合が存在しており、組合に所属する芸妓の総数は816名に上っていた(『京都新聞』1949.3.29 朝刊, 第2面, 「花街の女をボスから解放」)。
 七条・西陣職業安定所の認定は、1948(昭和23)年に、労働省職業安定局長から地方長官にあてて出された通知にもとづく対処であったと推測できる(1948〔昭和23〕年11月12日、職発1373号「接客婦等の周旋行為の取締に関する件」)。この通知は、公娼制度に関係する法規が廃止されたことで、事実上は放任の状態にあった芸妓や「酌婦」の周旋行為を、職業安定法によって取り締まることを通知するものであった(労働省婦人少年局 1955a)。1947(昭和22)年制定の職業安定法は、労働大臣の許可を得ていない有料職業紹介事業を禁止すると定め、事業の許可を得た営業者についても、中央職業審議会が定めた手数料以外の報酬をとることを禁止している。この通知以降、第2節第2項で触れた、検番による芸妓のあっせん行為は、有料職業紹介事業として認可を受けて行わるようになった(1954年10月13日、職発第581号「芸妓屋営業に対する取扱いについて」)。
 七条・西陣職業安定所は、芸妓組合への加入なくして芸妓は営業することができず、また派遣先の紹介を受けることができなかった点、芸妓組合を介して収益を受けとる仕組みを採る点から、京都市内の芸妓組合を職業安定法の定める有料職業事業であり、かつ労務者供給事業であると認定し、同法の規定の順守を求めている。七条・西陣職業安定所には、この認定によって、芸妓からの過度な収益の差し引きを抑制する狙いがあった。こうした事情を反映して、当時の新聞記事は、この認定を、「旧制度」にしばられた「非民主的な従属関係」が存在する花街の「民主化」の第一歩であると表現している(『京都新聞』1949.3.29 朝刊, 第2面)。
 しかしながら、1954(昭和29)年10月13日、労働省職業安定局長から都道府県知事にあてて出された通知によって、検番による芸妓のあっせん行為は、有料職業紹介事業の許可対象から外されている。その理由は、許可を悪用した中間搾取などの弊害があることと、検番の業務の実態を鑑みるに、職業安定法の想定する有料職業紹介事業とは認定しづらいというものであった(1954年10月13日、職発第581号「芸妓屋営業に対する取扱いについて」)。そのため、京都市における芸妓組合の有料職業事業および労務者供給事業の認定はその効力を失ったと推測できる。これを補足するために、労働省婦人少年局から各地の婦人少年室長にあてて出された通知が、第3節第1項でとりあげた、芸妓置屋を労働基準法による取り締まりとすると定めた「芸妓屋営業に対する取扱変更について」である(1954年11月5日、婦発363号「芸妓屋営業に対する取扱変更について」)。ここでは、検番は「芸妓屋の一部」とみなされている。つまり、芸妓置屋・検番があっせん業者ではなく雇用主(もしくは雇用主の関連先)とみなされたことで、労働基準法による取り締まり対象とされたと考えられる(労働省婦人少年局 1955: 23)。したがって、京都労働基準局は、芸妓置屋を取締まるために、芸妓置屋と芸妓との間に雇用関係が成立しているのか、すなわち芸妓は実態として自営業者か否かを確認する必要に迫られていた(12)。
 このような状況をふまえて、京都労働基準局が独自の実態調査にもとづいて、京都花街を労働基準法の適用事業場であると「断定」したという、1958(昭和33)年の『京都新聞』の記事について検討したい。1958(昭和33)年4月24日、京都労働基準局監督課長は、当時、京都花街連合会の会長をつとめていた祇園甲部お茶屋組合の中島取締を呼び、18歳未満の年少者の午後11時以降の深夜勤務の禁止と、月最低2日の休日を確保するよう勧告している。対象地域は、祇園甲部・祇園乙部・先斗町・上七軒・島原・宮川町である(13)。これらの地域のうち、労働基準法の適用事業場とされたお茶屋は429軒、芸妓置屋は55軒、置屋兼お茶屋は55軒であった(14)(『京都新聞』1958. 4.30 夕刊, 第3面)。
 この勧告に対して、「花街側」は「芸妓たちは芸能人だから労基法は適用されない」という反論を行っている。この「芸能人」という語においては、第4節第1項で触れた、労働基準法が想定する一般の労働者とは異なる芸妓の労働形態が想定されていると考えてよいだろう。くわえて、中島取締は、芸妓の労働を労働基準法の論理にもとづいて統制しようとする京都労働基準局に対して、独自の論理を展開している。すなわち、京都花街は他地域に比して「芸妓はかかえ(引用者注、「丸抱え」か)が少なく、自前が多く舞妓達も自分の家の子供なので、その保護育成に心を配っている」という特徴をもっているために、他地域に対する芸舞妓の権利を守る取り組みの「モデルケース」とすべく要望をされたのだと、勧告の読み替えを行っているのである(『京都新聞』1958. 4.30 夕刊, 第3面, 傍点は引用者による)。また、「深夜の定義もいろいろあろうが、あくまで児童福祉法の精神にそってやっていきたい」としている点は見逃せない。勧告の趣旨が、芸妓を労働者とみなす労働基準法ではなく、児童福祉法の問題に置き換えられていることに注意したい。
 対する京都労働基準局の側も、「古くからのシキタリもあることだから労基局としては何でも頭から“禁止”させるのではなく漸進主義でジリジリと因習の花街に新風を吹き込みたい」と、慎重な姿勢を見せている。労働基準法による取り締まりの核心部分である、芸妓の労働契約や中間搾取についても調査を行ったにも関わらず、実際の勧告では年少者労働の抑制だけに言及をとどめている(『京都新聞』1958. 4.30 夕刊, 第3面, 傍点は引用者による)。
 京都労働基準局による1958(昭和33)年の勧告から現在に至るまで、京都花街では年少者に限らず月2回の公休日が設けられているほか、国民健康保険への加入体制も整えられた(15)。また、芸妓やお茶屋の女将が、客に対して、18歳未満の舞妓に対する配慮をやんわりと求める場面をしばしば確認できる。京都花街は年季奉公による舞妓の育成と就業の仕組みを維持しながらも、労働者を保護する論理の一部を慎重に受け入れることで存続を続けたのである。一方で、当時の京都労働基準局も、勧告の指示内容を、芸妓置屋営業者やお茶屋営業者が受け入れられる程度に抑制したと推測できないだろうか。昭和30年代初頭の京都市において、芸妓の労働をめぐる2つの論理は、双方に妥協が可能な限界点を探り合いながらせめぎあっていたように思われる。

おわりに
 以上、明治期以降の芸妓の労働契約と、戦後になって整備された労働基準法をはじめとする諸法の論理がそれに与えた影響を検討してきた。
 第1節では、前借金契約と芸妓稼業契約という2つの契約からなる芸妓の労働契約について概観した上で、芸妓置屋との関係性(寄寓しているか、看板を借りているだけか)によって労働条件が定義づけられるという、芸妓独特の事情について検討した。
 続く第2節では、近代の公娼制度における芸妓の位置づけ、および業態について概観したことにより、前借金契約の拘束力が芸妓の人身を拘束していた点を確認した。くわえて、第二次世界大戦末期には、国策として芸妓の私娼への再編がすすめられていた可能性について述べた。
 第3節では、人身売買を禁止した日本国憲法の制定により、労働基準法とその周辺の法律が整備されていく過程で、芸妓と芸妓置屋の関係性が焦点化されていったことを確認した。
 そして、第4節においては、芸妓置屋営業者が、芸妓の業態を、労働基準法が想定する労働者とは異なる「芸能人」として再定位することで、占領期の政策による娼妓との混同に抵抗を試みたことを述べた。
 現在にいたるまで、京都花街において18歳未満の舞妓が宴席に侍る根拠となる法令はない。置屋と舞妓との関係に関する、京都労働局の公式な見解もまた、存在しない。京都市において、芸妓を労働者として扱う統制者側の論理と、芸妓を労働基準法が想定する労働形態では縛れない「芸能人」として考える花街の論理は、幾分の緊張をはらみながらも、ある一定の範囲内においては互いに黙認する関係にあると考えられる。
 今後の調査においては、労働基準法や売春防止法の施行を経た昭和30年代における変化が、当事者である京都花街の芸妓にとって、どのように認識されていたのかを検討する必要があるだろう。芸妓の側から、芸妓という労働の再定位から現在にいたる京都花街の変化を記述することで、他地域とは異なる環境的な特性を明らかにしていきたい。

付記:本稿は、平成23年度日本学術振興会科学研究費補助金(特別研究員奨励費)の公布を受けて行われた研究成果の一部である。

[注]
(1)筆者の調査地である京都花街では芸妓(げいこ)という呼称を用いるが、関東含む他地域では芸者が一般的である。法的な取締上の用語としては芸妓(げいぎ)という呼称を用いることが多い。
(2)たとえば新潟市の古町花街では、年季奉公に依拠する置屋による芸妓の育成をやめ、1987(昭和62)年に全国で初めての株式会社組織による芸妓養成および派遣会社である柳都振興株式会社を設立している(柳都振興 2004)。
(3)近世を通じて、一般的な労働関係は、「商品生産の発展と貨幣経済の浸透によって身分的な奉公契約から債権的な雇用契約へと推移」したため、人身売買の形態を採る身売奉公は、商品生産と関係の薄い遊女や芸妓などに限定的に残ることになった。江戸中期以降には、全国的に共通の体裁をもつ遊女奉公人請状が独立して成立している(牧 1971: 4)。
(4)一般の年季奉公人とは異なり、遊女や芸者などの「身売奉公人」に見られる「身代金的年季奉公契約」は、親権者から抱主に蔵替権を委譲することで、実質的に抱主に奉公人の転売権を認めるという特徴があった。そのため、「身売奉公人」は転売の度に前借金を上乗せされる危険性があった(牧 1971)。
(5)1931(昭和6)年当時の尋常小学校教員の初任給(基本給)は45〜55円である(週刊朝日編 1988: 92)。
(6)貸座敷営業者は、人身売買の事実を、娼妓との養女縁組によって家族関係を装うことで隠ぺいしたが、芸妓置屋営業者もまた、しばしば芸妓と養女縁組を行った(山本 1986)。近世の段階では、遊女および芸者の婚姻や転売に関する権利を強化するために、抱主が奉公人と養子縁組を行うとともに、実親との絶縁を求める「一生不通養子証文」を結ぶことが多かった。この証文は、特に上方で盛んに利用されている(牧 1971)。そのためか、京都府では芸娼妓解放令公布の年に、養女を含む家族関係にある女性を芸娼妓として働かせることを禁止している(京都府総合資料館編 1971, 1872(明治5)年「遊女芸妓改正ノ儀遊所ヘ達シタル旨布達ノ事」, 府庁文書布告原初1-11)。
(7)「高級享楽停止に関する具体策要綱の実施上留意すべき事項(1944年2月29日閣議諒解)」(「種村氏警察参考資料」90、国立公文書館所蔵「警察庁文書」)によれば、その定義は10坪以上の宴会席を有した上に、「婦女が客席に侍して接待し飲食物を供するもの」とある。戦後の風俗営業取締法における、「料理屋」の業態と類似した特徴をもつことから、「高級料理店」とは、芸妓の派遣先となりうる飲食店であると推測できる。
(8)1945年の警保局警務課による調査によれば、1944年2月末の時点で42, 568名存在した芸妓のうち、実に42, 039名が休業を命じられていた。この42, 039名中、転業あるいは廃業した芸妓は16, 614名に上る。ただし、この休業者の内、別の業種として復活した者は7, 347名にのぼり、そのうち7, 131名という圧倒的多数が「慰安施設」での労働に従事していた。「慰安施設」業者の総計は4, 842軒であるが、そのうち元芸妓置屋経営者は2, 068名であり、ついで元待合経営者1, 425名、元料理屋1, 238名と続く(小野沢 2010)。
(9)売春対策国民協議会の機関紙『売春対策』は、労働基準法の適用を免れるために下宿屋の体裁をとった芸妓置屋が、毎月の芸妓の収益から看板料や下宿料を過度に差し引いていた事例を報告している(売春対策国民協議会 1959)。売春対策国民協議会は、売春問題対策協議会のメンバーで、日本基督教婦人矯風会副会頭をつとめた久布白落実を会長とする組織である。
(9)その詳細は、○1風俗営業取締法の許可を得た業者の集合地・戦前からの遊廓・私娼窟。(赤線区域)、○2食品衛生法の営業許可で営業している地域(事実上の赤線区域や青線)、○3旅館業法の営業許可で営業しているが、実際は娼家が経営する旅館の集合地、○4普通の民家を利用した「特殊飲食店」、とある(神崎 1954: 62)。
(10)当時すでに貸座敷の営業は禁止されている。ここでは料金をとって部屋を貸す業態、レンタルスペース業のことか。加藤(2009a)は、京都における近世からの連続性をもつ「時限・日限を設けて部屋を貸す」業態を「席貸」であるとしている。
(11)売春対策審議会は、1956(昭和31)年3月に売春の禁止および処罰を目的とする売春等処罰法案可決をめざす政府によって設置され、法律案の審議および売春対策一般に関する重要事項の調査に当たった組織。同年4月には、売春対策審議会の答申を得て、売春防止法案を提出した。
(12)京都労働基準局とは、各都道府県に設けられた労働省の地方出先機関の1つである。その後、2000年(平成12年)の中央省庁再編に先立ち、都道府県女性少年室・都道府県職業安定主務課と統合されて、都道府県労働局として発足し、現在に至っている。本記事を裏づける京都労働局の史料が待たれる。
(13)同記事では、適用事業場として挙げられた家の地域別内訳を、祇園甲部144軒、祇園乙部(現在の祇園東)82軒、先斗町84軒、上七軒23軒、島原18軒、宮川町230軒としている。適用対象となる芸妓および舞妓は、祇園甲部40名、祇園乙部15名、先斗町6名、上七軒2名、島原1人、宮川町3人であった。
(14)1957(昭和32)年の時点で、京都府の芸妓総数は724名、お茶屋総数は702軒であった(京都市観光局 1958)。
(15)1960(昭和35)年、1958(昭和33)年12月の国民健康保険法の全面改正を経て、京都府は京都花街国民健康保険組合の設立を許可している(京都府告示343号)。組合員は、「京都市内に居住し、次の団体に所属し、お茶営業者及び芸妓業に従事している者並びに所属団体の事務所に勤務している職員」と定められた。尚、「次の団体」とは、祇園新地甲部、先斗町、上七軒、祇園東、宮川町、島原のお茶屋組合あるいは芸妓組合を指す。(1960年4月22日発行『京都府公報』, 第3399号)。現在、京都花街国民健康保険組合の事務所は東山区清本町に位置している。

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労働省婦人少年局, 1955a, 『婦人関係資料シリーズ 一般資料第31号 売春に関する資料(改訂版)』(再録:2005, 『編集復刻版 性暴力問題資料集成 第10巻』, 不二出版, 1-65.)
労働省婦人少年局, 1955b, 『婦人関係資料シリーズ 法規関係第11号 売春に関する法令(改訂版)』(再録:2005, 『編集復刻版 性暴力問題資料集成 第9巻』, 不二出版, 123-157.)
鷲谷樗風, 1955, 『坂口祐三郎伝』大和屋.
全国芸妓芸妓屋同盟, 1959, 『請願書(売春対策国民協議会資料34)』(再録:2005, 『編集復刻版 性暴力問題資料集成 第20巻』, 不二出版, 133).