日本人の不在証明と不在の日系人

石田 智恵 (立命館大学大学院先端総合学術研究科博士課程・日本学術振興会特別研究員)

はじめに
 「日本人」のような集団を指す名称は、いったん確立し当たり前のものになってしまえば、それが存在しない状況を想像し難く、どのようにしてその名が生まれたのかという問いを忘れさせる。逆に言えば、いかにその名が生み出されたのかは、その当時その地にあった社会状況や集団間関係を捉える視点なくしては理解できないだろう。「日系人」という名も現在では自然に用いられるが、これが戦後に広まった呼称であることはこれまでに指摘されている。ではなぜ戦後に「日系人」が必要であったのか。この答えも同時代史のなかに見出されねばならない。この観点から本稿が試みることは、「日系人」と呼ばれる集団ではなく、日本語の「日系人」というこの集団名そのものの誕生を追跡することである。先に見通しを述べると、おそらく戦後日本政府こそ、この「日系人」という名を最初に必要とした。集団名としてそれまでは存在せず、「日本人」という名に似ており、かつ「日本人」とは違う。このような特徴をもつ「日系人」が有益であると気付いた政府がしたことは、「日系人」の名づけを可能にする舞台を用意することだった。名づけられた人々は、日本に置かれたこの舞台に現れ「日系人」になることを引き受けた。法的に定められたわけでもなく他の形で明確に定義されたわけでもないが、戦後の早い段階で、日本政府の周囲で突如としてこの名は使われ始めた。それ以降、そのときまで日本語に存在していた呼称は使用されなくなり、「日系人」が標準化する。
 「日系人」という名がなかったときに同じ状況で使われていたのは、「日本移民」、「(在留)邦人」、「(在留・海外)同胞」といった語である。これらは、日本から南北アメリカ(ハワイを含む)や東アジアに移民・植民として出て行った人々以外をも対象としていた。とりわけ「同胞」は、戦前の日本帝国臣民、すなわち外地民を指すものでもあった。加えて、その対象が内地には住んでいなくても、内地人と同じ民族であり臣民である、という論理を展開するときの範疇でもあった。そして戦後は、これらの対象の一部である南北アメリカへの移民のみが「日系人」と呼ばれるようになった。このことを念頭に置いて、本稿では戦後日本における移民政策の展開と、「日系人」誕生の過程を振り返る(1)。
 本稿は、民族的範疇の生成の論理に関する人類学的議論のなかで内堀基光が提示した、民族は名であるという唯名論的な捉え方を議論の土台に置いている。すなわち、日本語でいう「○○人」のように民族、人種、国民といったカテゴリーにまたがる集団は、その名前を使うことそのものを通じて現実化、問題化する、という基本的理解である。そしてとくに、国家がおこなう名づけは、集団間で相互に行なわれる他者分類とは別次元の固定化作用をもつ(内堀 1989)(2)。この視点に立ち「日系人」を現実化してきた現代史の最初期にあたる一連の場面を捕捉したい。以下、第1節では終戦直後、占領期から独立初期までの日本において、移民送出再開が推進され、具体化していく動きを追う。第2節では、具体化していった移民事業がどのような文脈に置かれ、誰がそれに関与していたのかを確認し、そのなかで今日まで事業を担当してきた外務省の動向に焦点を当ててその関心の所在と背景を検討する。第3節では、1、2節と同じ時期に、後に「日系人」と呼ばれるようになる人々と日本国内機関の間での連絡が戦後の「日系人」誕生に結びつく過程を、そして第4節では、その過程で作用した名づけの論理を考察する。なお、本来なら戦前・戦中の移植民政策の展開を振り返った上で、戦後との関係を併せて論じるべきだが、紙幅の都合により本稿に含めることはできなかった。稿を改めて試みたい。

1.占領期─独立初期──移民送出事業再開までの動静
 1945年9月以降の占領下において、日本人は原則として海外渡航を禁止されていた。出国が許されたのは重要な公務などのわずかな例(3)といくつかの例外のみであり、1948年には貿易など商用旅行は承認されたが、それでも目的の審査や渡航中の行動に厳しい制限が課されていた。ましてや一般人の「海外移住は全くのタブーであって、強いてこれを論ずるものは往時の軍国主義、侵略主義の復活をねらうものと曲解されるおそれ」(外務省領事移住部 1971: 98)があるとして控えられた。そんななか、移民送出を目下喫緊の課題とする向きが日本政府内にあり、そのための運動・議論が占領期の早い段階から水面下で始められていた。1947年10月、戦後の移住政策実現のための組織を目指して有志による「海外移住協会」(会長は当時の衆議院議長、松岡駒吉)が発足し、機関紙を発行するなど移民送出再開の呼びかけに着手したのがそれである。しかしGHQ/SCAPが同協会の発起人代表を引き受けた人物に非公式に辞退勧告を行なうといった圧力をかけており、総会を教会で行なうなど、活動は慎重を期して進められた(若槻・鈴木1975: 97)。実質的に、移民に関する動きはこの協会の活動が唯一であった。同じく47年、国会内でも人口問題と関連づけて移民をいかにするかと提起することが何度かあったが、外交的交渉ができない段階であることを理由にいずれも時期尚早として斥けられている(4)。また49年3月、外務省内で「日本人移民に関する将来の諸問題」について研究が行なわれた際にも、GHQ/SCAPから責任者に対し厳重な戒告が与えられたという(今野・藤崎1994: 183)。
 進展がみられたのはその直後、1949年5月の衆議院における「人口問題に関する決議案」の満場一致での決議である。この文章は戦後の移民問題に関する公式の場における最初の意志表明であり、海外移住は産業振興、産児制限に次ぐ、人口問題解決の第三の手段という位置づけで取り上げられている。ただしここには、移民送出が直接、過剰人口の解決につながるわけではないとの見解も同時に明示されており、むしろ移民の効果は他の面に期待されている(若槻・鈴木 1975: 102)。つまり、移民送出は人口問題の解決策としてのみ認識されていたわけではない。この点については次節で詳しく検討したい。
 占領下という状況から公然とは進められなかった当時の移民送出事業を詳細に明らかにすることに限界はあるが、上述のとおり基本的な方針は表明されており、細々と、しかし着々と進展していた(添付の年表も参照)。なかでも注目したいのは、米国の移民国籍法案に関する動向を調査していたことである。1924年の通称「排日移民法」成立以来、米国という最も望ましい受入国を失ったのみならず、その影響下にある他の諸国との友好関係も制限されていた日本にとって、米移民法改正は常に政府の関心事であった。排日移民法の内容は帰化権のない外国人の入国を認めないというものだった(1924年当時、白人と黒人のみに帰化を認めるとする人種規定があった)のだが、1952年に成立し「マッカラン=ウォルター法」として知られることになる戦後の新法案とは、帰化の要件から人種規定を撤廃するものだった。これは戦前移民の一世の帰化を可能にするとともに、日本人が再び移民として入国できることを意味していたため(Chuman 1976=1978: 478-485)、法案提出時から日本でも話題にされていたのである。この動向を調査していた外務省関係者はとりわけ、米国への国策移民の再開を見越しており、この法案の行方を「国民が首を長くして待っている問題」(国会会議録、1952年2月6日、衆議院外務委員会3号)とも表現していた。1949年の「人口問題に関する決議案」に結実するその前年の国会の答弁のなかでも、「われわれが眞に侵略的な意図を全然棄てまして、平和國民として立つということを決意、これを実行しておる現実におきましては、[中略]われわれは國民の立場から排日移民法というようなものをつくらないで、むしろ自由な立場で入國を認めてもらうような方向に進んでもらいたいということを熱望するものであります」との委員の発言に対し、芦田均首相(当時)は「現に北米合衆國においても、從來対日移民法と稱する日本人の入國禁止に関する法律を、主義上は一應廃止すべきであるというごとき運動も行なわれておるのであります」と応えている(国会会議録、1948年6月15日、衆議院予算委員会33号)。
 戦後移民の再開は文字通り、脱占領とともに実現するが、この最初期に出国した移民は、戦前移民が現地でいち早く受け入れの準備をしていた結果であった。サンフランシスコ講和条約が1952年4月に発効し、その年の暮れには、前年にブラジル在住の日本人の働きによって許可されていたアマゾン移民の第一陣54人が、ブラジルに向けて出発している。政府主導の、すなわち国策としての移民を送出する体制が本格的に整備されるのはこの年以降のことである。各県に移住者の募集、広報活動を担う機関として「海外協会」が再び設置され始めたのも52年からであり(坂口 2011: 11)、7月にはその5年前にひっそりと結成されていた「海外移住協会」が発展解消する形で「社団法人海外移住中央協会」が発足(会長は後の首相、石橋湛山)、国会内では「海外移住促進議員連盟」が結成されている。
 1929年に移植民事業の主管としての拓務省が設置された後も外務省は旅券と査証の取り扱いを担い続けていたが、主権回復後、外務省系統の移民関連組織の編制も急展開する。内部部局としては1953年に初めて「移民課」として独立した課が設置され、それまで欧米局第二課(中南米担当)の中に置かれていた「移民係」が格上げされる(cf.若槻 2001: 15)が、「移民係」時代からアメリカ大陸の担当部署が移民の事務を担っていたことは指摘しておきたい。
 移民課は、53年9月に「戦後における移民送出機関設立問題」なる文書を作成し、移民送出事業を国でも企業でもなく公益法人に委ねることを是とする方針と、その理由を示した(5)。この論理をもとに、1954年、実務機関として「財団法人日本海外協会連合会(海協連)」が設立される。設立にあたって外務省が出資したほか、南米への移民輸送を担当していた大阪商船、そして移民船建造を受け持つ予定だった三菱重工業が寄附金を拠出している。名前のとおり、各県に置かれていた「海外協会」の連合体という体裁をとっていたが、実質的には各県の協会との結びつきは弱く、民間といえども限りなく官制に近い外務省の外郭団体だった(若槻・鈴木 1975: 741)。このことは、後に海外移住事業団、国際協力事業団と展開し、現在の国際協力機構(JICA)に至ることからも察知できよう。
 1955年には移民課が「移住局」に格上げされる。これを後押ししたとみられるのが、54年に吉田茂首相(当時)が渡米した際に交渉して取り付けた、移民送出費用向けの米国(銀行)からの借款であった(読売新聞、1954年11月25日朝刊)。米国が日本の移民に対する警戒を解いたことの証左として好意的に報道されたこの借款の成立(正式な調印は56年3月)を受けて、日本政府は55年、その運用実務機関として元外務省顧問を社長とする「特殊法人海外移住振興会社」を設立し、ブラジルに2つの現地法人(移住地の取得・造成および営農指導担当と、移民への資金貸付担当)を設置する。こうして1955年には、戦後移民送出体制の主力となる外務省(移住局)、海協連、海外移住振興会社という3つの機関が出揃ったことになるが、この体制はほとんど、戦前のブラジル移民送出体制の焼き直しであった(坂口 2011: 11)。
 以上の組織、機関に加え、南米諸国では戦前移民の有力者によって設立されていた組織が現地受入機関として協力したこともあり(若槻・鈴木 1975: 732)、1953年には海協連が担当した移民の年間送出数は1500人弱まで増えた。この数字はその後数年間にわたって漸増を見せる(54、55年には3500人前後、56年には6000人を、57年から59年は7000人をそれぞれ超え、60年には8300人に達した)が、61年から62年にかけて2000人ほどまで急降下したのち、60年代は1000人前後で低迷、70〜80年代を通して数百人規模に留まることになる(坂口 2011)。数の上では早くも1960年にピークを迎えていたのであり、その総数も、外務省の計画に明記されたほどは増えなかった(6)。この年に移民数が急減する要因は明らかではないが、ひとつには、61年から翌年にかけてドミニカ移民が集団帰国するという「前例のない事件」が起こり、新聞等でも取り上げられていたこと、その失敗の責任が政府に帰するものであると結論づけられていたこと(小野1962)も影響したと考えられる。ちなみに、1952年度から60年度までの移住者総数は約4万6000人(うち3万7000人以上がブラジルへ)、年平均にすると5000人強ということになり、戦前に比べても、戦後のヨーロッパ移民と比べてもかなり少ない(小野 1962: 98)。参考までに挙げておくと、1952年から93年までの中南米への政策移民(海協連、海外移住事業団、国際協力事業団が送り出し手続きをした渡航者)の合計は約6万7000人であった(国際協力事業団 1994: 17)。なおこれに、米国施政権下の沖縄出身移民など、海協連、事業団が手続きをしていない移民の数も加えると、戦後出移民の総数は3倍以上になる。
 このように戦後は、移民を希望する声も、それを必要と考える者も、政府の内外において戦前ほどは多くなかった。60年代初頭の移住者帰国騒動と、その頃すでに経済成長が見込まれていたことを考えればそれも不思議ではない。小野(1962)によれば、移住は必要であるという認識は世論のなかに既成観念としては確立されていたが、61年に行なわれた世論調査によれば、移住を少なからず希望すると回答した人の割合は質問対象者全体の13%にすぎなかった。また、旧植民者やそれに近しい人々にとっての引揚げ体験、すなわち満州移民の失敗が、戦後移民への消極的な態度として挙げられてもいる(安岡 2009: 136-139)。そして政府としても、移民送出が数としてそう増えることはないということが予測されていた節もあり(若槻・鈴木 1975: 107-108)、「大量」移民送出は省全体の、ましてや国を挙げての最優先課題ではなかった。ここまでをふまえ次節では、戦後国内の移民政策の力点がどこに置かれていたのかを検討したい。 

2.「平和移民」と外務省
 周知のように、政府内における戦後移民行政の主務官庁は基本的に外務省であり、現在までその後処理的な課題も外務省とその関連団体が受けもっている。海協連からJICAへの展開が示すように、現在から見れば、外務省の業務としての「海外移住」と「国際協力」(あるいは「途上国開発」)は一本の糸でつながっている(7)。だが1950年代の時点では、移民が論じられる背景や関心、推進の目的、それを担う主体(組織)は多様であり、移民という主題が紡ぐ糸はもっと複雑に絡まっていた。「移民」のこうした複数の側面に、当時の日本の社会状況が反映されていたのである。近年、そのほつれが少しずつ解かれ始め、50年代のその絡まりをなす糸の一本一本が、それぞれどのような戦前・戦中の流れを汲んでいたのかが明らかになってきている(8)。
 たとえば、前節でも触れたように政府は日本人を米国に送ることに強い関心を示していたが、日米両政府の了解の下、1956年に「派米短期農業労務者」(通称「短農」)という、数年間限定の米国での農業就労プログラムが発足する。つまりは永住する移民とは別のかたちで、農村の「二三男問題」を解決し、米国の農業と民主主義を実体験させ、外貨を稼ぐという一石三鳥の制度が用意されたのだ(9)。この「短農」制度を強力に下支えした人物は、「農政の神様」と呼ばれ満州開拓事業にも尽力した石黒忠篤であった(2011年6月26日、日本移民学会年次大会における郷崇倫氏報告より)。このように、引揚者の雇用を含め農村の経済・人口問題を背景として農林省(および建設省)関係者の間でも、満州開拓移民を推進した人的資源とノウハウを活用し、独自に農業移民の南米への送出ルートが整備されていた。そしてこの「農業青年対策」は、後の「青年海外協力隊」とも微妙に連関する(伊藤 2005; 安岡 2009)。
 本節ではこうした絡まり合う糸の一本として、のちに「日系人政策」を担うことになる外務省の方針に注目し、その背景となっていた外交問題、あるいは国際関係上の問題の解決策として模索された「移民」を確認しておきたい。すなわち、移民とは平和と民主主義の国として復活した日本を宣伝する「草の根外交官」として、裏面から見れば、他国の日本への感情、認識を何より敏感に反映する存在としての移民である。このような移民像に連なる象徴的な発言を引いておこう。

不幸にして世の中は、子供が近所で憎まれると、遂には親まで排斥されるといったような例も多少あることでありまして、(中略)今日、日本人がただ口で言うだけでは外國人は信用をとりもどさない。ほんとうに二十四時間のわれわれの行動によって日本國民信頼すべしという観念を與えるよりほかに有効な方法はないと考えております(国会会議録、1948年4月1日、衆議院外務委員会4号における芦田首相の発言)。

 これは直接的には移民政策に関する発言ではないが、移民こそまさに「二十四時間」その国に暮らし、「われわれの行動」を示すことになる「日本人」である。上に引いた発言に惹起されたかのように、続いて別の人物が海外移住再開の可能性について首相に詰め寄っていることにも見て取れるように、移民の価値はここにも見出され得た。移民が受け入れられるかどうかは、日本と日本人を、どの国がどう見ているかを示す一つの指標となる。そして諸外国(その最たる相手はアメリカ合衆国であろうが)が日本に向ける眼差しを読み取り、その眼差しが疑惑や不信などを帯びていないかを検査し、そうならないように対処するのは外務省の役目である。日本移民という試験紙を送ることができれば、それがその検査の第一段階をクリアしたことを意味する。いつなんどき検査結果は変わるかもしれず、評価が下がればそれを解決しなければならない。その国に「日本人」とみなされるまとまった移民がいれば、調査も続けられよう。そして裏を返せば、日本人移民が相手国に受け入れられ、高く評価されれば、日本そのものの評価も上がることになる。
 こうした見解は、前述の1949年「人口問題に関する決議案」の中にも示されている。「将来移民が認められることは[中略]わが国民の世界に対する感謝と国民感情に対する満足とを招来するのであって、わが国の再建に寄与することが多大である」(若槻・鈴木 1975: 102)という一文の背景に、戦前から続く日本の移民政策の根底をなす事実とその認識が読み取られよう。それは、移住地の日本人社会は日本の縮図であり日本人移民は日本人総代とみなされる、すなわち移住先での日本人に対する評価は、そのまま日本の日本人への評価を意味する、というそれまでの日本と他国の関係に多大な影響を与えてきた事実にほかならない。
 誤解してはならないのは、「移住地の日本人」とは、移住地の多数派一般住民が「日本人」とみなす個人であり集団であるということだ。それは「日本人に見える」人々とほぼイコールである。生まれた国も国籍も言語も、身につけた習慣も信念も政治的立場も一切関係なく、日本人の顔をしていれば「ジャップ」と呼ばれ、それが日本の日本人に直結していた。移住した日本人(一世)は当然のこと、米国では日系アメリカ人つまり生まれながらにアメリカ市民である二世までも、戦前から一貫して、あらゆる面で、白人米国人から日本と日本人の代表として見られた。そうでなければ日米開戦後に二世までもが「敵性外国人」に含まれ、強制収容所に送られるいわれはなかったのだ。米国政府が1941年当初米軍への入隊を否認していた二世たる米国市民を志願・入隊させるほうに舵を切り、日系人部隊に活躍を期待したことも、後にその活躍を大いに賞賛し表彰までしたことも、人種的差異より市民的平等を尊重したがゆえではなく、そうだと主張するための事実をつくることを目的としたものであり、逆に二世は彼らにとってJapaneseにほかならなかったがゆえであった。こうして対日本プロパガンダ戦における米国の急所であった人種主義の不在証明のために市民(国籍)の同一性が巧妙に使用された事実は、フジタニによる鮮やかな議論によって明らかになったことである(フジタニ 2000; 2002)(10)。
 日本政府は戦後もこのような関係が変わっていないことをわかっていた。そして敗戦の結果として連合国の占領を受けている日本にとって、国家再建と国際社会における日本の地位回復を見通したとき、独立後の諸外国から受ける評価や感情の改善は重要な課題だった。「人口問題に関する決議案」は、それ自体としては移民を中心に扱ったものではないが、この後の移民政策の方針をすべて含んでいると言われる(若槻・鈴木 1975: 102)とおり、国内事情よりも移住先の国の意向に対する配慮を優先する態度(「受入国中心主義」)や、平和主義の主張、永住・同化推進、移民当事者への配慮の欠如といった特徴が確認できる。その半年後の国会における吉田茂首相による移住問題に関する答弁は、このことをよりはっきりと示している。

日本の移民が真に平和的であり、日本の国情が民主的になり、又平和になり、平和を愛好する国民なりという善解、善き了解が打ち立てられて、日本の移民を歓迎するという気持ちにならない限りは、移民の問題は日本として甚だ困難な問題になりますのでありますから、先ず日本の国情を連合国その他が十分に了解をして、日本の移民が歓迎せられるような事態を打ち立てることが第一であると思います(国会会議録、1949年11月16日、参議院本会議12号、傍点引用者)。(11)

 言うまでもなく、こうした「日本の移民」と「日本の国情」が連動して平和であるという「善解」を得るという眼目は、帝国日本の先兵としての移民=植民の歴史が日本の外ではまだ終わっていないということを吉田が正しく認識していたことの証左である。現に当時はまだ米国は日本人に帰化権を認めておらず、フィリピンやインドネシアも原則的に日本人の入国に反対を表明し、オーストラリアにいたっては徹底的ともいえる厳格な排日主義を顕わにしていた(若槻・鈴木 1975: 95-97)。戦前多くの日本人を受け入れたブラジルでも反日感情が高まっていたことが国内でも大きく取り沙汰されていた(12)。
 各国の対日情勢がこのように芳しくないという現実を前に、「我が國はもはや戰爭を放棄して武器を持たない。侵略のための移民ではない」(国会会議録、1948年3月23日、参議院本会議21号、竹中七郎)と了解される必要があるという考えがあったのも当然と言えよう。そしてこのような問題意識をもつ一派にとっては看過できない意見・動きも政府内に共存しており、これが基となり省庁間での確執もあった。
 移住再開を目前に控えた1952年6月、少数の例外を除いて都道府県に下部組織を持たなかった外務省は、第1回アマゾン移民の募集と選考事務を農林省に依頼した。こうして50年代初頭には、両省は協力体制にあったと言えるのだが、この移民選考の依頼がきっかけとなり、以後数年間にわたって外務省と農林省の間で移住事業の担当をめぐって対立が続く。農林省側は、移民の多くが農民であるからには農業を専門とする農林省が経験を生かすほうがうまくいく、という論理のもとに外務省との共管を主張したが、外務省は「一元化」、主管を求めた。外務省が1955年に提出した「移民行政の一元化について」によれば、農林省と業務を分担することを拒んだ理由は「移民行政の中核は外交である」という考えによるもので、その含意するところは、戦後の移民は戦前の満州などへの移民とは別物でなければならないというものであった。その文書の一部を引用しよう。

戦後の移民事業は、戦前内地の延長たる朝鮮、台湾、満州等に農業開拓者を送出したのとは異り、ナショナリズムの風潮が強く、且つ、不同化を理由とする排斥の危険が依然潜在している中南米諸国に日本人を移住せしめるものであるから、外国の受入事情が国内においても一切の事業の基礎となる。よって移民行政の中核は、国際感覚による相手国事情と感情の把握であり、外交折衝による受入枠の拡大である(若槻・鈴木 1975: 713)。

 このような主張には、1953年に外務省内で移住担当官になった人物の意向と、農林省側に満州移民の経験者が責任者として在任していたこと、つまり特定の個人に帰する要因が影響していたらしい(若槻・鈴木 1975: 707-720)が、上に引用した文章に明示されているのはまさに、外務省の戦後移民政策を貫く「国内の状況より相手国の反応」という基軸である。外務省にとって、「国外に出る日本人」に関して1945年以前との差異化を図り、帝国日本とその植民地を他国に忘れさせることこそが移民政策上の至上命題だった。一方で農林省を中心とする海外移住論は、敗戦直後からの農村人口の急増に始まり50年代にピークを迎える「農村経済危機」の対策としての、「村づくり」すなわち国内農業の状況改善の一環であり、国内開拓の延長線上にあるものだった(安岡 2009: 123-126, 132)。戦時期の国策との連続性を極力薄めるというこの時期特有の意向は農林省を含む他の省庁にもある程度共有されていたとはいえ、国内情勢を背景とした移民政策を講じる農林省には、「戦後の移民送出の主導権は海外諸国」を繰り返し、移民になる人々や残される人々よりも「国際感覚」や「外交」を旨とする移民政策を設計する外務省とは相容れない側面があったのである。最終的に、54年7月、自由民主党政務調査会の調停により、分業体制を布きつつも主管は外務省とする閣議決定が行なわれ、公に農林省の要求は退けられた。
 ここまでみたように、戦後早い時期から「平和的」「民主的」「現地に同化」「居住国に貢献」など戦前の軍国主義との差異を意識した語彙が、外務省周辺では移民政策上の方針に挙がっていたが、その理由は、これらが達成されないうちは日本に関する国際世論が戦前を引きずり続けることになり、日本の国際社会での復活がその分遠のくからだった。また同じ関心から、今後送り出そうとする移民だけでなく、戦前に移住しすでに定着している日本人と連絡をとっておくことも間違いなく有効である。戦前移民が敗戦によって総引き揚げの憂き目を見た旧植民地と違い、その国の市民として一定の地位を確立するところまで日本人が定着していた国々は南北アメリカ大陸にしかなく、また戦後日本人移民を受け入れると表明していた国々は南米にしかないことは1950年代初頭の時点でわかっていた。戦後の移民政策は、その始まりから「アメリカ」に向いていた。
 これに関してもうひとつ特筆すべきは、1956年に外務大臣、57年に外相兼任のまま首相に就任する岸信介が、南米諸国との経済的関係を深める外交を目論んでおり、これに現地の戦前移民と戦後の潜在的移民を有効利用できるとの考えを持っていたことである(長谷川 2009)(13)。岸が戦前、農商務省・商工省官僚としてキャリアを積む一方で満州経営に尽力したということを想起すれば、そして戦後、吉田茂とは対象的に、岸は戦前の帝国としての日本の再起を諦めていなかったという議論(渡辺 2003)もふまえれば、彼が戦後の経済外交に「移民」という手段を再度活用しようとしたのも不思議ではなく、そうするだけの経験と人脈も十分に備えていただろう(14)。
 おそらく50年代後半のこうした政権とも連動して、移民政策はアメリカ諸国に集中することになる。「平和移民」としての再出発は、戦時のアジア侵略と支配の「失敗」という認識に裏打ちされてはいたが、それは戦時米国が選択した人種主義の否認と同様、対外的ポーズとしての路線変更であった。反省と補償よりも、帝国時代の移民政策を想起しない・させないこと、そして連合国の一員として「平和」に暮らす戦前移民との連絡、交流を回復させるほうが、復興への近道と考えられた。こうした志向が、次節以降で検討する「海外日系人大会」開催と、「日系人」という新たな範疇の導入の下地となっている。

3.戦前移民・在外日本人との連絡
 3. 1 戦中〜占領期──救援物資運動
 時間を少し戻そう。敗戦後すぐ、日本政府はアメリカ大陸に暮らす戦前移民の存在の重要性を痛感することになった。敗戦直後、食糧難、人口過密も加わって疲弊していた日本に届けられた「ララ物資」へのかれらの貢献である。ララとは、米国のキリスト教団体、労働組合を中心として民間有志の13団体から結成された支援組織、Licensed Agencies for Relief in Asia(アジア救済公認団体)の頭文字(LARA)をとった通称である。1946年11月から52年まで続き、1950年11月の時点での記録によると日本に送られた物資は「当時の邦貨で400億円に達した」(飯野 1997: 324)といわれる。そしてその約2割、80億円が、南北アメリカ大陸の日本人移民によって集められたもので、「当初、ヨーロッパの難民救済に目を向けていた人々に日本の窮状を知らせ、救援物資を日本にも送る体制作りを推進した」のはかれら戦前移民だったという(飯野 1997: 324)。米国から始まった運動(15)をきっかけに、カナダ、メキシコ、ブラジル、アルゼンチン等にも日本救援のための日本人組織が誕生し(16)、各国の赤十字社を通じて支援活動が行われた(17)。この救援物資のおかげで乳児用の粉ミルクや学校給食が安定するなど、当時の日本社会に多大な貢献をなしたということで、1949年4月、衆議院は在米日本人とララに対する「感謝決議」を満場一致で可決し、在外同胞対策委員会(後述)を通じてカリフォルニアの邦字新聞社「日米時事通信社」にその決議文(18)を送っている(長江 1987: 159)(19)。
 物理的な支援以外の点でも、他国との国交を持たない当時の日本にとって、現地の日本人は何かと役に立つ存在だった。外務省を通じて米国の邦字新聞記者に在米日本人の動向を直接問い合わせたり、日本の週刊誌を米国の日本人に読ませて日本についての認識を改めるよう要請するなど(長江 1987: 163)、その連絡回路が重宝されている。またこのころようやく日本政府の出先機関が設置され始めるが、在外公館がなかった当時に国会議員が米国をはじめ諸外国を視察した際には、現地の日本人会を頼ったという(後述)。この時にも、すでに米国で専門職として独立したり、一定の財をなすほどに身を立てた戦前移民の、「日本人」としての頼もしさのようなものを目の当たりにした議員はいただろう。食う物も働き口も満足に用意できていなかった国内から見れば、日本を占領していた当のアメリカ合衆国に暮らす日本人との間に、同じ「日本人」とは思えないほどの差異が見出されていたのではないだろうか(20)。であれば、それだけいっそうかれらを「日本人」と呼び続けることも有意義だったはずだ。
 ところで、ララ物資の日本側での受け取り、配布には「在外同胞対策委員会」という団体が協力していた。この団体はララ物資の配給のためにつくられたものではなく、皮肉にもと言うべきか、戦時中、ちょうど真逆の方向の救援物資送付活動を担っていた団体の後身にあたる。1941年の日米開戦に伴い、米国在住の日本人とその子である日系市民に対する太平洋沿岸諸州からの立ち退き、収容が実行されたことにより、収容所(転住所)内の日本人らに向けて日本から募金や物資(食料、書籍、薬品、娯楽品)が送られることになった。その発端は、強制転住の情報を受け取った(21)移民の関係者(22)の間でこの転住問題への対処を模索する動きが生まれたことであり、1942年10月には移住関係の団体も協力し、「敵国在留同胞対策委員会」(前述の「在外同胞対策委員会」の前身)が設置される(23)。ここに集まった人物はそれぞれの持つ人脈や財産を結集し、日本赤十字に協力しながら、米国に安否情報を流す、集める他、募金と物資を集めるために、日本国内各地で「激励大会」を開催するなどの活動をしている(粂井2008: 13-14)(24)。
 さらに遡ると、このような委員会が設置されたのも、開戦直前の1940年に発足していた「海外同胞中央会」が母体になってのことである。敵国在留同胞対策委員会の事務局もこの中央会に置かれていた。いずれも何らかの形で戦前移民やその政策に関わった人々の集まりだったため、この両団体のメンバーで重なる人もいた。中央会については後に再度言及する。
 さて、1940年以来の在外日本人と日本(政府および関係者)との連絡係であった「海外同胞中央会」、及び「敵国在留同胞対策委員会」改め「在外同胞対策委員会」は、1955年「海外日系人連絡事務局」として再編され、引き続き、日本と在外日本人との仲介的な役割を担い続ける(25)。ただしその方法は、それ以前のように物資・義援金のやり取りではなく、親睦集会、一種のお祭りになる。1957年に「国連加盟記念・海外日系人親睦大会」として実現するこの大会は、現在まで毎年開催され、2010年で第51回目を迎えた「海外日系人大会」の初回にあたる。ここに「日系人」という語が公的に使用されていることを確認した上で、以下、項を変えて検討しよう。

 3. 2 独立以降── 海外日系人大会
 1957年の「国連加盟記念・海外日系人親睦大会」(以後、「57年大会」)は、日本が主権を取り戻し、国連に加盟したこと、つまり元の日本のように立ち直ったことを記念し、その過程での協力に感謝するというかっこうで、アメリカ大陸諸国の日本人の代表者を日本に招待したものである。これまでに確認された米国を主とする戦前日本人とのつながりの重要性を認識し、それを維持、強化するという意図があったと考えられる。ゲストとして招待されたのが、南北アメリカの日本人社会のなかでも有力者、名士揃いであったこと、それを主催者側として迎えたのが衆参両院議長、岸信介首相以下各省大臣など政府の中心の面々であったこと、そして赤城宗徳農相と岸首相のはからいで用意された300万円の資金をもって、赤字決算も辞さず挙行されたこと(26)、報告されているこうした事実は、この大会を開催することが当時の政府にとってどれほどの意義を持っていたかを窺わせる(27)。なお、57年大会の内容については拙稿(2010b)を参照されたい。
 大会の直後に作成された報告書によれば、このような大掛かりな大会は、当初から数名の国会議員の有志によって動かされていた。戦後(おそらく占領期)に視察団として米州諸国に赴いた議員たちが現地で移民社会の人々から歓迎を受けたことと、前述のララ物資への謝意を表するため、そして大戦中の敵国における困難な時期を耐えた人々への慰労のための祭典の提案がそれら議員から提示され、157名の衆・参両国会議員の賛同を得て開催が決定する(海外日系人連絡協会 1957)。運営にあたって、前述の「海外日系人連絡事務局」の主宰者であり海外派遣議員のひとりだった社会党の衆議院議員、田原春次を中心として与野党各党から集められた数名の議員によって「海外日系人親睦大会準備会」が結成される。これが後に「準備委員会」に発展し、約2年をかけて企画が具体化していく。開催直前の57年2月には、準備委員会の2代目事務局長が直接アメリカ大陸各地を訪れこの親睦大会について広報したという(海外日系新聞協会 1979: 14)。
 日本が主権を回復した後、在外の戦前移民を呼んでこうした祭典を開催するというアイデアが政府内で浮上したのは、おそらく自然な流れだった。というのも、前項で言及した「海外同胞中央会」が発足したきっかけもまた、「海外同胞東京大会」という1940年に開催された同じような祭典だったからである。1940(昭和15)年は「皇紀」2600年を記念する種々の国家的行事が年間を通して行なわれた年であり、「海外同胞東京大会」もその一貫として軍国主義的開拓・植民政策の気運を煽るために開催された。この祭典についてはすでにいくつか充実した研究があるので詳細はそちらに譲るが(Azuma 2008; Ruoff 2011)、これは移住地で暮らす日本人を日本に集めて「大和民族発展」の体現者として展示するという性格を持ち、アメリカ大陸、東アジア、南洋諸島の海外各地に移住した日本人の代表者が1500人近くも集められ、満州開拓に向けて世論を鼓舞する大規模なイベントだった。この大会中に行なわれた総会において、海外から集められた代表者に向かって、海外の日本人をつなぐ中央連絡機関がないのは誠に遺憾でありぜひ作ってもらいたいと議長が述べた。これを受け、総会の満場一致で「海外同胞中央会」の結成が決まるのだが、そもそもこれに先立つ数年をかけて、政府は海外の日本人と接触をはかるために人材を派遣するなど尽力していた(Ruoff 2011: 250-251)。言ってしまえば、発足してすぐ翌年に日米開戦になり、大会の継続開催という前途が立たれていた組織が、戦争と占領の15年(救援物資のやりとり)を経て、やっと初発の目的に向かって活動を始められるようになった、ということになる。
 このように考えると不自然なのは、戦後、1955年の時点で大会に掲げられた「日系人」という名前のほうだろう。というのも、この頃「日系人」という語は全く一般的ではなかったからである。戦前の使用例は全く確認できず、1940年代末になると使用例がないわけでもないがその頻度はまだ圧倒的に低かった。理解されない語ではなかっただろうが、60年代を待っても、戦前と同じように「日本人」、「在留同胞」、「邦人」という名のほうがそれよりもよく浸透していた。ではなぜこのとき「日系人」が選ばれたのか、そして、なぜそれ以降、この耳慣れなかった語が定着したのか。次節でこの問いに答えを提示したい。

4.「海外日系人」の条件
 まず、1940年の大会との連続をふまえれば、なぜ「海外同胞」を流用しなかったのかという疑問があり得る。その答えを導く興味深い記述が、57年大会の報告書にある。1956年8月、第5回準備委員会で初めて大会の日時・会場・プログラム等の試案が提出されたが、これに対し当時設置されたばかりの外務省移住局局長は全面的に賛成し、同じ外務省の欧米局長は全面的に反対した(28)。その反対の理由は「大会の運営如何によつては諸外国から誤解をうける危険性があるということ」だった。これを受けて運営側は「この点にとくに留意して、大会の構成運営等に、左様な誤解を招かないよう慎重を期した」。そしてこの留意配慮の結果、最終的には反対していた人物も理解を示し、「日本国内における準備体制のわだかまりは消えた」とある(海外日系人連絡協会 1957: 3)。
 大会のプログラムに派手な「フェスティバル的趣向」を凝らしたのは、侵略主義の汚名を着せられないようにとの配慮からだったという記録はあるが(「海外日系人連絡協会概要」、1964年、外務省外交史料I'-1/8/1/1-50所収)、具体的に何をどうすることで「わだかまりが消えた」のかは明らかでない。しかし上記の「諸外国からの誤解」が暗示しているのは、戦後直後の日本政府を悩ませていた懸念事項、すなわち諸外国による「往時の軍国主義、侵略主義の復活をねらうものという曲解」のことであるのは間違いないだろう。この背景には、1940年の「同胞大会」に米国在住の日本人一世が「日本人の海外発展の先駆者」として招待を受け参加したことで、米国政府がかれらを枢軸国側のスパイとみなしたという事実(Azuma 2008: 1221)も見え隠れする(29)。米国政府当局が米国在住の日本人を危険視する要因となったこの苦い出来事を、戦後米国にかかわる外務省関係者が忘れるはずもない。欧米局長が、日米開戦前夜の軍国主義的祭典と脱占領後の国際社会への復帰を祝う平和的祭典(案)を重ねてみただろうことは想像に難くない。
 もう一つこれを証明するものがある。57年大会の計画素案について広報、説明するパンフレットを1946年に目にしたニューヨークの日本人会関係者は、往時の日本帝国の名残りを敏感に察知し、不安を抱き、いち早く同大会に反対を表明した。「出来れば早きに及んで政府が斯る有害な計画を阻止される様希望する」「外務省移住局も之に関係しておられる趣であるが、かねてから自分等海外移住者はそれぞれ移住国のよき市民となりその国の土となる様御指導を受け在紐育邦人も亦今なおその御方針が正しいと思っているが今回の計画はその趣旨に反するものであり今回の大会計画を聞いた当地日系人は皆反対している」(引用者注:「紐育」は「ニューヨーク」の漢字表記)(30)と、ニューヨーク総領事を通して外務省に訴え出たのである。米国で辛酸をなめた戦前移民たちには、米国の「軍国主義日本」のイメージがそう簡単に払拭されるとは思えなかったのだろう。米国在住の日本人は真っ先に例の「曲解」のとばっちりを食う人々だが、日本政府とて終戦後、つい数年前まで、「強いて移民を論ずる」ことで「往時の軍国主義者」とみなされないよう米国の顔色を窺い続けてきた。戦前の日本が想起されてしまうことは避けねばならなかった。
 こう考えると、「同胞」という語が使えなかったことも理解できる。1940年の大会の名称と同じ「海外同胞」のほうが、当時よく使用されており「日系人」よりも馴染みがあった。しかしだからこそ、帝国主義を思わせる危険もある。その上戦前の「同胞」の用法には、外地の日本帝国臣民すなわち「朝鮮同胞」なども含まれていた(31)。戦後民主主義の国としての再出発を記念する新たな親睦会においては、旧植民地的範疇は忘却されなければならない。平和国民の再出発にふさわしい新たな名前が必要だった。1940年の大会と比較して57年の大会で「大和民族」が喧伝されていないのも、同様にして理解できよう。すなわち、侵略者の名前であり、「海外同胞」と内地人を同一化する上位範疇として。
 また同じ理由で、「海外日本人(邦人)」も不適切だった。当時はまだ一般に、大会での「海外日系人」にあたる人々を「在外日本人」と呼ぶことは決して不自然ではなかったし、現在では「日系二世」「日系人三世」とするところを戦後直後の新聞などでは「日本人二世」とすることもあった。しかし当時は、帰化する一世や、二世、三世など法的に「日本人」とは言えない人が増えていたうえに、ブラジルに入ってはブラジル人に、アメリカに入ってはアメリカ人になれ、と外務省が指導していた以上、戦前に移住し現地に暮らしている人々を他でもなく日本政府が公的に「日本人」と呼ぶことは望ましくなかった。裏を返せば、侵略者とみなされる恐れがあるのは「日本人」なのだから、その国に住んでいるのは「日本人」でないと言えばよい。大会中の主催者側の発言における「日系人」の使い方をみれば、巧妙に、「日本人」と重ならない別の範疇として主張しようとしていることがわかる(石田 2010b)。間違いなく日本人でありそうであってもらわねばならないが、対外的には、日本をあとにした移民は「日本人」と違う範疇に該当するのだということを政府として保持する論理が必要だった。その意味で、「日系人」が選ばれたことの意味は、「日系人」という語そのものにはない。
 繰り返すが1950年代当時は「日系人」という語は現在のようには存在せず、「日本人」でことは済んでいた。「日系人」でなくてもよかったのである。そのようななかでなされた「日系人」という名づけが、耳慣れない空虚な名前のままに終るのでなく、通時的に存在する集団の名として浸透し、実際に特定の人々を指す集団名として機能するのでなければならない。では、いかにして「海外日系人」というそれまで馴染みのなかった名前がこれ以降定着するのか。それは、単純に言えば日本政府が公的にそう名づけたから、公式な名前として格上げしたからである。政府はそのような状況を、「海外日系人大会」を通して用意した。
 「日系人」を採用することには問題もあった。確かに「日本人ではない」という意味をもたせる余地はあったが、「日系人」が必ずしも「日本人」の否定を意味するわけではない。たとえば大会と同じ1957年刊行のブラジル移民に関する出版物をみると、「日系人」はブラジル生まれの日本人の子孫と日本生まれの移民を区別して前者を指す際にも用いられるが、(非日系の)ブラジル人と区別する際には「日本人」と同義である(石田 2010b)。日本人/日系人がマイノリティである国では、日系人は「日本人」に含まれてしまう。このようなアメリカ大陸における「日系人」の理解とは違い、日本政府が必要とした「日系人」は「海外日系人」であり、(日本の)「日本人」と排他的に成立するものでなければならない。
 この問題は、海外日系人大会が「日系人」の指示対象を独自に定める場、「海外日系人」の名づけの場として機能することで、解決される。本稿では一貫して「日系人」「日本人」など民族的集団の呼称を「名」として扱っているが、これは、固有名は記述の束に置き換えることができない、つまり名前に意味はないという立場を踏襲し独自の議論を展開したソール・クリプキの議論に拠っている(32)。名前に意味がないのであれば、固有名とその対象との同一性を担保するものは何か。それは「この対象の名はこれである」と最初に決める命名儀礼(baptism)と、それに従って共同体の内部で個別の名指し(命名儀礼の確認)が繰り返されるという歴史にほかならない(Kripke 1980=1985)。つまり、命名儀礼が成立し、その反復があれば、意味はなくても名は名として成立する。国家はしばしば法や制度を通じて集団を名づけるが、「海外日系人」の名づけに政府が用いたのは日系人大会という国家祭礼だった。1957年前後に「日系人」と呼ばれ始めた人々を呼ぶ名は「日系人」でなくてもよかったのであり、当時「日系人」は耳慣れたものでなかった。だが「海外日系人大会」という命名儀礼を通して日本政府が公に認めて使用することで、名づけられた人々と「海外日系人」との結びつきが固定され、公的な名としての場を占めるようになったといえよう。このように「日系人」の誕生は、「日系人」という新しい名で呼ぶべき人々が現れたのではなく、それまであったいくつかの範疇の分類をやり直した結果だと理解すべきである。そしてこの後も(今日まで)続く海外日系人大会や、「海外日系人」の名を冠した組織、出版物などを通して、この名は通時的に存在する範疇として独自の位置を獲得していく。
 他でもなく「日系人」が選ばれた理由として、それが「日系アメリカ人」のような用法としてすでにアメリカ諸国の移民の間で通用していたこと、そして「日系」が「アメリカ人」の形容詞として機能する語であったことなども考えられる。さらに「日系人」の三文字が語用論的に「日本人」と置き換え可能な名詞であったことも、それが国籍を示す語を含んでいないことも、政府にとって使い勝手がよかっただろう。そして何よりこの名は、意味あるいは定義を問われれば文字どおり「日本人の系統を引くもの」と答えることができる。1990年代に海外日系人大会を参与観察したジョシュア・ホタカ・ロスは、この「日系人」“Nikkeijin” という語そのものが、海外に移住した人々とその子孫との関係を日本人がどのように捉えているかを反映していると指摘し、この語を英語読者に的確に説明している。

“Nikkeijin”は“sun line people”を意味する漢字から成り立っており、“sun”は、ニホン、すなわち“the origin of the sun”を意味する語の最初の字を指している。日本の皇族は神話に出てくる天照大神に祖先を辿られるのだが、“Nikkeijin”という語は通常、日本に住む民族的な日本人──“Nihonjin”(または”Nipponjin”)として参照される──にはあてはまらない。Nikkeijinとは、特定の場所を参照項としないカテゴリーなのである。文字通り読めば日本人を含んでいそうなものだが、“Nikkeijin” はふつう私たちが「海外の日本人」、ジャパニーズ・ディアスポラの一員と考える人を指しているのである。この用語には、短期的に日本の外に出て働いたり旅行したり勉強したりする日本人留学生、旅行者、会社員は含まれない(Roth 2002: 23)。

 こうして語を「日」「系」「人」に分けて各々の字義を言うことは、「日系人」という語の意味を説明できるということであり、「日系人」が「意味」を持たない単なる名であることを隠蔽できる。このことは、日系人を「日系人」と呼ぶことの積極的な根拠として提示できる以上、利点である。
 一方で、英語話者に理解させるにはロスがしたような説明が必要だったのであり、Nikkeijinという日本語は英語の文脈においては「ジャパニーズ(日本人)」の代わりに使えるものではない。英語の世界で「日本人」と「日系人」を分けるためにはこれを意訳し、Japanese以外の語を付すしかない(Japanese Overseasのように)。結局のところ「日系人」という名は、海外日系人大会やそれに類する場、すなわち日本人(日本政府)と日本人移民しか想定されない言説の場でしかその意味をなさない。だが、それでよかったのである。なぜなら、日本語しか使用されないイベントについて米国に報告するのは、外でもない「日系人」自身(とりわけ現地の邦字新聞社の記者)で、そうでなければ外務省の関係者である。「日系人」が日本社会の日本人を含まず、満州その他のアジアの旧勢力圏への移民も含まず、アメリカ大陸に定着した(するであろう)移民のみを差していること。それがその場で伝えねばならないことだった。
 あえて言うなら「日本人」が「日本人」に向かって、「あなたがたはもう日本人ではない」と「あなたがたはずっと日本人である」の両方に同時に意味を持たせ、論理を与えるためには、「日系人」がそういう意味の名前であることを言外に理解させるだけの、特殊な場、状況が必要だった。海外日系人大会のように、その場で発話される名にあらかじめ特定の意味を持たせることができる国家祭礼の装いは、そのような名づけの作用を持ったのである(33)。
 日本政府が必要とした「日系人」とは、このように「海外日系人」である。「海外」は日本の日本人の立場からしか意味をなさないが、政府にとって「海外」を冠していることは「日系人」の必要条件である。それが「海外」のどこであるかにかかわらず、日本に不在であることこそが重要だったのだ。端的に「日本に不在である日本人」と言ってもいい。「海外日系人」という範疇は、それが「日系アメリカ人」「日系ペルー人」などであること、そして当時は多くが日本国籍を持った日本国民であったことにも言及しない。アメリカ諸国の住民であるという点以外で重要なのは、「日本民族」であること、世代をいくつかさかのぼれば日本に戸籍があること、そして移民政策の文脈での常套句をつかえば「勤勉」で「正直」という名声を現地で得ていることである。それ以外の事実、つまり名づけられた人々がそれぞれの国でいかなる経験をし、それぞれの日系社会の中で「日系人」をいかに引き受けていくかといった事柄は必要ではない。

おわりに
 本稿第1節では、占領軍の抑圧を受けながら戦後日本政府が移民事業を再開するまでの動向を確認し、第2節では、外務省やその周辺から提示されていた戦後移民論の目的とその推進の論理が戦後復興を急ぎ実現することと移民政策の再開を「平和主義」の言説で結びつけていたことを明示した(34)。そのことが同時に、日本における日本語での「日系人」誕生の土台をなしていること、すなわち「日系人」は「移民」の範疇を書き直し、植民地の「同胞」を忘却するための装いの役割を果たしたことを第3節で論じ、第4節では、それを可能にした「海外日系人大会」の名づけの場としての意味とそこにおける「日系人」なる名のもつ意義を明らかにした。
 こうして「海外日系人」という名は、日本人の不在証明という役目を負って誕生した。ここでの「日本人」がネイションの名であり、ネイションの名を用いてネイションの実体化を目指すことをナショナリズムと呼ぶとすれば、「海外日系人」カテゴリーの定立は、日本政府によるナショナリズムの不在証明とも言えるだろう。人種主義の不在証明としてかつて米国が市民としての同一性の論理を導入したように、日本人というネイションの不在証明として戦後日本は「日系人」という民族性/エスニシティを活用した、と言い換えてもいい。いずれにせよそれが可能であったのは、名指される当の「日系人」がその名指される場にいない、そこがかれらの生きる場所ではないからこそであった。
 このことは何をもたらすだろうか。結局のところ不在の人々への名づけは、名づけられた人々の生を反映し得ないということだろう。最初から、そのような人々の現実を捉えて名づけられたのではなかった。このカテゴリーが日本語であること(日本語以外に対応するカテゴリーがないこと)がそもそも、現地での使用を見越したものでないことを示している。「海外日系人大会」の最中にその名を引き受け、「我々日系人」と名乗った人々も、自らの居住する国に、日常に戻れば、「日系カナダ人」や「日系メキシコ人」であり、あるときは「日本人」であり、もしくは単に「アルゼンチン人」、「パラグアイ人」である。日本の日本人にとってのみ意味をなす「海外日系人」(あるいはそれと同義の「日系人」)は、かれらの日常においては空虚に響く。かれらが居住国で「日系人」を名乗り、名指されていたとしても、それはあくまで「海外」の付随しないほうの、広義には「日本人」と同じ対象を指す「日系人」である。このような潜在的なずれは、1980年代になって、多くの「日系人」が日本に「帰って」きたときに初めて明らかになる(石田 2010a)。つまり、命名儀礼の正確な反復はなされていなかった。「日系人」は、日本とアメリカ大陸諸国の各地で、同時にそれぞれ異なる歴史をたどっていくことになる。

追記:本稿は平成23年度日本学術振興会科学研究費補助金(特別研究員奨励費)による研究成果の一部である。

[注]
(1)本稿はこの着想を提示した既発表の研究ノートを基にしている(石田 2010b)。
(2)このような視点から「日系人」の歴史を再考することの意義と有効性については別稿で論じた(石田 2010a)。
(3) たとえば1950年に11名の衆議院議員が米国国務省の招聘により渡米し、「民主主義の国」の実態を視察していた様子を、戦前米国に移住し新聞記者として活躍していた浅野七之助が後に記している(浅野 1962)。
(4)とはいえ数少ない推進派は、主権を回復し外交が可能になるまでは移民政策の具体化は無理、と繰り返す慎重派に対し、臆せず「鈍い」「のんきなことを」などと真っ向から批判していた(国会会議録、1948年6月23日、衆議院予算委員会38号)。
(5)その理由とは、移民事業を官営にすると「徒らに業務を不円滑にする」ことになり、優秀移民の送出ができない、民営のほうが「独自の機動性を発揮し能率をあげることができる」(若槻・鈴木 1976: 726)というものであった。ところがふたを開けてみればその見通しとは程遠く、「何一つ官庁にお伺いをたてねば実行することができず、理事長と言えども5万円の支出も自由にはならなかった」と、元職員である若槻が明かしている(若槻・鈴木 1975: 744)。つまりは、民営という体裁が必要だったということだろう。これは次節で確認する「諸外国への配慮」の一環であり、こうした「民間の装い」は戦前からの伝統のひとつといえる(cf. Endoh 2009: 73)。
(6)外務省は移民課時代の53年に「移民五カ年計画」、翌年に「海外移住十カ年計画」、移住局時代の58年に「移住五カ年計画」を発表しており、いずれにおいても年間最低1万2000人、多くは年間5万人の送出を目標としていた(若槻・鈴木 1975: 104-105)が、本文でみたようにこの数値は現実的なものではなかった。
(7)この間に、移民送出の需要も必要性も消滅し、移民の現地におけるアフターケアとしての「日系人政策」に外務省の役割が転換していった時期が挟まれている。
(8) 後に言及する伊藤(2005)、安岡(2009)、Endoh(2009)のほか道場(2008)など。
(9)この制度を通じて米国滞在を経験した青年やその周囲の人間が、後に自ら渡米し永住するケースもあったことは、石川好のノンフィクションにも描かれている(石川 1988)。
(10)「日系市民」という語は、かれらの自称としてのJapanese American Citizen(あるいはその略語としてのJapanese American)の翻訳語であるが、フジタニが引用するライシャワーの「対日政策のメモランダム」において利用すべきとされた日系人は American Citizen Japaneseと記されている。形容詞と名詞の関係から、米国当局の重点がCitizenよりもJapaneseにあったと捉えるのは深読みだろうか。
(11)若槻・鈴木はこの発言を1949年11月17日の参議院本会議のものと明記して引用しているが(1975: 103)、国立国会図書館の国会会議録検索システム上では17日の本会議(13号)に上記の発言はなく、16日の本会議(12号)に収録されている。
(12) 1946年8月、ブラジル憲法改正審議会に日本移民の入国を一切禁止するという条項の入った修正案が上程された。その大きな原因は、終戦直後にブラジル在住の日本人の間で生じ、殺人事件にまで発展した一連の騒動である(この通称「勝ち負け抗争」について、詳しくは丸山(2010: 159-165)を参照)。これが日本移民排斥派の政治家にとって格好の材料とされ、審議会では半数が反対票を投じたのだった。最終的に議長の1票によって同案は否決され、日本移民の禁止条項は成立せずに終わった(今野・藤崎1994: 184-186)。
(13) 当時欧米が南米諸国への投資を増やしていたことも背景の一つとされる(長谷川 2010)。
(14)ただし岸は戦後もしばらくはアジアへの進出を諦めておらず、日本への拒否反応を抱く地域に対してある意味で気を配るといった、吉田茂が持ち得た戦後的認識を欠いていたとも指摘されている(渡辺 2007: 115-116, 124)。だとすれば、まさにその「戦後的」認識に立ちアメリカ向けの平和移民路線をとった外務省は、そんな岸を前にして余計に慎重になったかもしれない。確かに、後にみる「海外日系人大会」でも岸の祝辞は他の誰よりも戦前の匂いを、渡辺の言葉を借りれば「大東亜共栄圏の二番煎じ」(渡辺 2007: 124)の香りを残している。
(15) 1945年9月に早くもニューヨークで、11月にはカリフォルニアで日本救援の準備の動きが始まっており、カリフォルニアで1946年1月に「日本難民救済会」が結成された(飯野 1997: 324, 粂井 2008: 11, 長江 1987: 122)。
(16)たとえばアルゼンチンで1946年に、日本人会の中心人物などが指揮をとって「日本戦争罹災者救恤会」が組織されている(アルゼンチン日本人移民史編纂委員会ほか 2006)。
(17)「財団法人海外日系人協会」ウェブサイト、「海外日系人協会とは」より。http: //www.jadesas.or.jp/taikai/index.html、2012年2月13日最終確認。「ララ物資」は同協会の設立のきっかけになった出来事として取り上げられている。
(18)ここで在外日本人は「ハワイ並びに北、南米在留同胞及び日系市民」と呼ばれている。
(19)ただし、これらを受け取った一般人には「アメリカからの贈り物」とのみ説明されており、在外の日本人からの物資が含まれていることはほとんど知られなかったという。この事実を知った日米時事通信社の浅野七之助(注3も参照)は、これでは救援物資を集める運動に尽力した米国の人々にあまりに申し訳ないということで、後に来日した際などに在米日本人の貢献を周知する努力をしたと記している(浅野 1962: 202)。
(20) 前述の浅野七之助は、1950年に自分が数十年ぶりに日本を訪れたこと、そして旅をした国内の各地で「デモクラシー」や米国そのものに対する関心が高まっている様子を興味深く観察しており、当時の空気を伝える筆致でそのことを綴っている(浅野1962)。
(21)この情報は、イタリアやドイツの外交筋などヨーロッパ経由および、日米間の第一次交換船で帰国した者への調査によって確認された(粂井 2008: 13-14)。
(22)『季刊海外日系人』第6号に掲載された対談(海外日系新聞協会 1979 : 20-25)での榊原亀之甫の話から察するに、「移民関係者」とは、榊原本人を含め日本人の移住先に留学・公用等で滞在し交流のあった者や、いったん移住したが帰国していた者、現地邦字新聞社の東京支社勤務の者などであろう。
(23)議長は有田八郎元外相、副議長は日綿社長の南郷三郎、事務総長は丸山鶴吉元警視総監(海外日系新聞協会 1979: 21)。
(24) この日本から米国日本人収容所への救援物資(慰問品、救恤品と呼ばれた)の詳細については粂井(2008)を参照されたい。
(25)この組織の沿革は、現在の団体である「財団法人海外日系人協会」のウェブサイト、及び海外日系人連絡協会が1964年に作成した「海外日系人連絡協会概要」pp.8-9(外務省外交史料I'-1/8/1/1-50所収)にも明記されている。ちなみにここでも、戦後に関する記述に入った時点で「在留同胞」は「海外日系人」に名前を変えている。現在までの組織変遷の過程は添付の年表を参照されたい。
(26)「赤城宗徳先生を通じて首相になられた岸信介先生にお願いしましたところ、岸先生が何とかしよう、とおっしゃって外務省に話をし300万円を用意された。もう30年近くも前の300万円ですから、いまなら3千万円以上になるでしょう」(海外日系新聞協会 1984: 13、1984年当時の海外日系人協会事務局長の談)。赤木については、資金獲得を担っただけでなく「赤城宗徳氏が中南米の旅から帰って日系人会なるものを一生懸命に主張し、朝野の賛同を得て第一回の大会を開かれた」との談もある(第3回大会の移住部会長であった当時衆議院議員、海外移住審議会委員、田中龍夫が、『海外移住』161号、1962年5月15日(国際協力事業団 1979: 741)に寄せた随想から引用)。また、第2回大会の折も外務省から200万円の助成が給付されている。
(27)事前の宣伝にもかなり力を入れていたことが、デパートや駅ビルに垂れ幕をさげたり、「都電、都バスの中吊り広告、ポスター、立て看板など立ててPRに努めた」という記述から見て取ることができる(海外日系新聞協会 1979: 15)。ルオフによれば、後述する1940年の「海外同胞東京大会」とその前後の日本の社会状況において百貨店や鉄道を通した宣伝、広告、イベントの方針は、民間企業の経営下にあったとはいえかなり国策に左右されていた。それは、実質的に帝国政府の権力がそれだけ強かったというだけでなく、国策に従うことで企業も利益に与ることが確実だったからである(Ruoff 2011)。
(28)同じ外務省でも賛成した人物が移住局長であり後にチリ駐在大使に就任するのに対し、反対した人物は欧米局長で後にアメリカ局長になるという事実は示唆的である。
(29)米国軍部と法執行機関は開戦前の段階からすでに、かれらを「脅威」として検挙する証拠を得るため、それまでに出版されていた米国日本人移民史や1940年の大会における日本の勝利を祝うかのようなかれらの発言などの翻訳作業に取り掛かっていた。その結果として、主要な一世作家や大会参加者は、「安全保障上の最重要危険分子」のブラックリストに名を連ねており、真珠湾攻撃の日、彼らは真っ先に逮捕された(Azuma 2008: 1221)。
(30)1956年3月27日、在ニューヨーク日本総領事から外務大臣重光葵宛てに送付された電文(「本邦における協会及び文化団体関係/海外日系人協会関係、海外日系人大会関係」第1巻、外務省外交史料I'-1/8/1/1-50-1所収)。大会の計画については、外務省移住局から送付を受けた『七つの海』なる「海外日本人会連合会事務局発行月刊パンフレット」に掲載されていたという。
(31) ルオフは1940年の「海外同胞東京大会」という日本政府の戦略を「1899年体制」と呼ばれる国籍法と戸籍法によるダブルスタンダードの集団分類・管理と重ねて論じており、興味深い(Ruoff 2011、第6章)。1940年の大会でも、朝鮮や南洋諸島に移民した日本人はパレードに参加していたが、総会には呼ばれず、外地人(国籍上は帝国臣民でも日本の内地戸籍に入れなかった人々)は招集すらされていなかった。「先祖代々日本に住んでいた者」つまり戸籍をたどれる者のみが「海外代表団」に含まれるという事実は、戦後も変わっていない。
(32)クリプキの議論は基本的には個人の名前という意味での固有名に関するものだが、その中で、意味(内示)を持たない点では自然種名も固有名と共通すると指摘していることは示唆的である。固有名と種名について言えることが集団名にも言えるとここで証明することはできないが、集合そのものとそれに属する個体の両方を指示し得る(こういった集合名は集合を個体に、個体を集合に見せる性質を持っていると言い替えてもいい。酒井直樹(2008)はこの点を「個体と集合が媒介なしに同一化する」と表現している)という点で、民族のような集団の名と種名は共通している。また、個人の固有名の名づけは普通、名づけられた当人がその名を拒否する可能性を排している。名は自分でつけるものではないのである(出口 1995)。内堀は、国家による民族集団の名づけも名づけられる者の承認を必要としないと論じているが(内堀 1989)、この点で固有名の名づけは国家による集団の名づけに似ている。以上をふまえ、ここでクリプキの命名論を踏襲することに意義はあると仮定して議論を進め、詳細な理論的検討は別稿に譲りたい。
(33)このことはRothも次のように論じている。「海外日系人大会において “Nikkeijin” は、(中略)海外で生まれたか海外に永住する日本人の子孫を、日本で生まれて日本で暮らし続ける人々と差異化したのである。ところが同時にこの語は、系譜──“people of the sun line”──を強調することで、海外で生きる人々と日本で生きる人々のつながりにも言及している。この視点に立つと、共通の日本人の起源をもつ全ての人々は、根底的なかたちで繋がっていることになる」(Roth 2002: 25)。
(34) 公的な文書には出ないがもちろん移民には、外貨獲得の手段という経済的な意義も同時に期待されていたのであり、「平和の使者」としての移民像は、このほか過剰人口問題の解決策や、国内の反体制分子の厄介払いという目的と同じく、移民政策という多面体の一面にすぎない。たとえば遠藤(2008)によれば、戦前も戦後も移民の数が増える時期とその地方は、共産主義者や労働者(主に炭鉱)、被差別部落出身者などの抗議運動の高まりと一致しており、これを抑える手段として、いわば「ガス抜き」として移民が進められたという。

[文献]
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財団法人海外日系人協会 http: //www.jadesas.or.jp/

添付資料 年表
年(昭和) 出来事
1940(15) 紀元2600年奉祝・海外同胞東京大会開催、「海外同胞中央会」結成(11月)
1941(16) 真珠湾攻撃、日米開戦(12月)
1942(17) 米・大統領令9066号(太平洋沿岸からの日本人とその家族の退去が命じられる)(2月)
      「海外同胞中央会」を母体とし「敵国在留同胞対策委員会」発足(10月)
      拓務省廃止(1929年設置)、大東亜省設置
1945(20) 日本がポツダム宣言を受諾(8月)
      GHQ/SCAPによる日本占領開始(9月)
      「敵国在留同胞対策委員会」から財産移譲を受け「在外同胞対策委員会」発足
1946(21) 日本国憲法公布、「ララ物資」始まる(52年まで)(11月)
1947(22) 政府内有志による「海外移住協会」発足(10月)
1948(23) 「社団法人日伯経済文化協会」発足(4月)
      外務省管理局に「海外人口移動対策研究会」設置 優生保護法成立
1949(24) 『日本人移民に関する将来の諸問題』刊行(3月)
      ララ物資に対する「感謝決議」衆議院で可決(4月)
      「人口問題に関する決議案」衆議院で可決(5月)
1950(25) 「海外渡航技術者連盟」発足(海外移住協会が調整)(5月)
      「海外渡航促進協議会」発足(7月)
1951(26) ブラジル、パラグアイ両政府が日本人移民の移住を許可
1952(27) 海外移住協会と海外渡航促進協議会が統合、「社団法人海外移住中央協会」発足(7月)
      神戸移住斡旋所再開(1927年設立)(10月) 
      戦後最初の移民がアマゾンに向けて出発(17家族54人)(11月) 
      米・移民国籍法成立(アジア人に帰化権が認められる)(12月) 
      外務省「対伯移民に関する諸問題」、各県に「海外協会」再設置始まる
1953(28) 外務省欧米局に移民課・移住参事官が設置され、「移民五カ年計画」を発表
      「戦後における移民送出機関設立問題」「海外移住懇話会」発足(9月) 
      「国の援助等を必要とする帰国者に関する領事館の職務等に関する法律(国援法)」成立
1954(29) 「財団法人日本海外協会連合会」(海協連)設立(1月) 
      「海外移住に関する事務調整についての閣議決定」(主管争いの解決)(7月) 
      外務省欧米局移民課「海外移民に関する当面の諸政策(案)」(10月)
      外務省欧米局移民課「移民十カ年計画」(12月)
      パラグアイへの入植開始
1955(30) 外務省移住参事官「移民国策の確立と当面の重要施策」(3月)
      外務省移民課が移住局に再編(4月)
      米銀行の借款を基に「特殊法人海外移住振興会社」設立(9月)
      外務省移住局「移民行政の一元化について」、「米銀借款受入機関について」(10月)
      「海外日系人連絡事務局」発足(前「在外同胞対策委員会」)
1956(31) 横浜移住斡旋所開設 
      派米短期農業労務者事業(「短農」)開始
      日本・ボリビア移住協定締結
      ドミニカへの入植開始
      日本が国連に加盟(12月)
1957(32) 「国連加盟記念・海外日系人親睦大会」開催(5月)
      ボリビアへの最初の協定移民が到着
      日本・ブラジルの合弁製鉄所「ウジミナス」建設計画推進を閣議決定
1958(33) 外務省移住局「移住五カ年計画」
1959(34) 岸首相ブラジルとアルゼンチンを訪問
1960(35) 「第2回海外日系人大会」開催、「海外日系人連絡協会」発足(旧・事務局)
      ブラジルとの移住協定締結
      移民年間送出数戦後最多に
1961(36) アルゼンチンとの移住協定締結
      翌年にかけて、ドミニカ移民のうち約130家族が国費で帰国
1962(37) 池田首相、海外移住政策の方針転換を示す答申(4月)
      「第3回海外日系人大会」開催、以降毎年の開催に(5月)
1963(38) 海外移住事業団法成立
      海協連と振興会社が合併して「海外移住事業団」発足(7月)
1964(39) 「海外日系人連絡協会」が「海外日系人協会」に改称(全国知事会が参画)
1965(40) 外務省中南米移住局を設置(移住局を廃止)
      米・移民国籍法改正(国別割当制廃止)
1967(42) 「海外日系人協会」財団法人認定
1968(43) 外務省領事移住部を設置(中南米移住局を廃止)

※若槻・鈴木(1975)、坂口(2011)などを基に筆者作成