二つの貧困対策──戦後創設期の社会福祉制度運用における羈束と裁量、 または給付と貸付

角崎 洋平 (立命館大学大学院先端総合学術研究科博士課程・日本学術振興会特別研究員)

はじめに──ニーズの同一性と個別性(1)
 社会福祉政策は、かつて個人のモラルの問題と捉えられてきた貧困(ないし生活困窮)を、社会全体の問題と捉え直すことで展開してきた。貧困を「社会全体の問題」「みんなの問題」と捉え直すことは、ある人が貧困状態にあること、すなわちその人がニーズの充足を求める状態にあることを、私たちみんなにとっても看過できない状態であると認識することに他ならなかった(2)。この認識は、「〈救済〉の対象となるニーズ」を判断する同一の尺度が、個々人の主観的レベルを超えて客観的(間主観的)に存在することを前提とする。ある状態に陥れば誰であっても〈救済〉を受ける権利があるという「普遍性」が、かかる状態に陥れば必ず〈救済〉を受けられるという「実効性」を持つために、「〈救済〉の対象となるニーズ」の判断が羈束されることが必要となった。
 しかし、私のニーズ(の尺度)とあなたのニーズ(の尺度)が全く同一であるはずはない。マイケル・イグナティエフが危惧するように、「誰のニーズも同一であるかのようにすべての人びとを遇する」ことは、多様な身体的・社会的境遇にある一人ひとりの多様な思いを「物のように」扱ってしまいかねない(Ignatief 1984=1999: 26)。確かに、すべての人に差別なく平等に〈救済〉の手を差し伸べつつ、多様な一人ひとりの個別ニーズを捕捉し、画一的でない柔軟な支援制度を整備することは難しい。判断や行為の羈束の追求は、個別に異なるニーズに対する柔軟かつ裁量的な支援と矛盾するし、柔軟で裁量的支援の実施は普遍性と矛盾しかねないからである。とはいえ、貧困を社会全体の問題としてとらえつつ個別ニーズの多様性に配慮するような仕組みを整備することは、福祉を単に「最低限の生活で食わせていく」ことに留めないために、そして一人ひとりの自尊(self-respect)の基盤を毀損させないために、必要なことであると筆者は思う(3)。
 このような観点から本稿で検討するのは、社会福祉政策、とりわけその運用における「羈束」と「裁量」をめぐる問題である。本稿でいう「裁量」とは、行政法学上「羈束」の対概念である。「裁量」とは、当該条項をどの個別具体的事例に適用するのかという「要件」を担当者の裁量に任せる「要件裁量」と、要件に基づく「措置」の実施を裁量に任せる「行為裁量」に区分され、要件裁量も行為裁量もない行政行為が、「羈束行為」とされる(芝池 2001: 72-5)。行政法研究者の芝池義一も指摘するとおり、現在、行政訴訟上、両者を判然と区分する必要性は乏しい(芝池 2001: 77-80)。しかし、ある要件や措置についての判断や行為が、どの程度裁量に任され、どの程度羈束されているのか、されるべきなのか、という政策上の論点は消失してはいない。
 政策運用上の観点からいえば戦前の貧困対策としての給付制度は、まさに給付の要件と措置について、裁量を推奨していたものとして理解できる。そして、戦後初期にかけて整備された日本の社会福祉制度は、かような裁量行為を羈束行為へと転換する方向で展開してきた、といえる。第1節では、(旧)生活保護法時代まで貧困対策としての給付制度を現場で担ってきた民生委員(旧称方面委員)による裁量的な貧困対策が当時持っていた意味と、それが問題視される過程、そして貧困対策の要件と措置を羈束しようとする戦後の社会福祉制度の再編過程を記述する。続く第2節では、こうして問題視された民生委員自身が、貧困対策においてどのような役割を自らに見出していったかを確認する。第3節では、給付制度から排除された民生委員が、給付制度ではない裁量的支援手法として有力視した、福祉的貸付制度の特徴と運用実態について考察する。ここで行われる分析を通じて、貸付による裁量的貧困対策の可能性と問題性も確認される。
 本稿では、戦前における裁量の何が問題とされ羈束へと転換してきたのか、戦後の裁量的な福祉的貸付は、羈束的な給付政策の何を補おうとしてきたのか、を明らかにしたい。またそうすることで、従来先行研究で指摘されてきたものとは異なる福祉的貸付制度の歴史的位置を確認したい。もちろん「歴史分析」によって、個別ニーズの多様性を配慮するような仕組みや「あるべき姿」そのものを捉えることはできない。とはいえ、そうした仕組みや「あるべき姿」を考える上での「手がかり」の一つは提示することができよう。

1.貧困対策としての給付制度における裁量と羈束
 1. 1 救護法下における方面委員の個別的・裁量的救済活動
 近代日本最初の全国統一的な貧困対策は、1874(明治7)年に制定された恤救規則で定められた。これは全国の生活困窮者に対して給付を行う基準を定めたものであったが、これに対しては当初より、政府や衆議院議員の一部が、救助対象や救助内容の貧困対策としての狭小性を問題視した(厚生省五十年史編集委員会 1988: 239-49)。帝国議会や内務省・内務省社会局などでは、より体系的かつ一般的な給付制度が模索されたが、1929(昭和4)年の救護法制定、および1932(昭和7)年の同法施行まで結実しなかった(4)。それまで軍人が対象の給付制度(軍事救護法〔1917(大正6)年〕、1937(昭和12)年より軍事扶助法)は存在したが、本格的な一般的制度の整備は救護法によってなされた。
 救護法は、救護要件に納税や保険料納付などの反対給付を要求しない(という意味で)扶助制度である(第1条)。そして国・道府県・市町村に財政的な手当てを命じ(第25条)、加えて実施機関として市町村を規定した(第3条)、公的な制度でもある。しかし実施にあたって「補助機関」として大きな役割を果たしたのは、方面委員(現民生委員)という民間の「篤志家」であった。救護法第4条では、「市町村に救護事務の為委員を設置することを得」「委員は名誉職とし救護事務に関し市町村長を補助す」と規定された(5)。
 内務省社会局は、市町村という公的機関とは別に、補助機関として方面委員を配置した理由を以下のように考えていた(6)。

濫救漏救の弊害を少なからしめんが為には従来の補助機関のみを以て足れりとすべからず。更に特別の補助機関を設置し以て救護の運用の全きを期せざるべからず。蓋し救護の適正有効に実施せんが為には細民の状態を精査し、個々の家族の実情に応じて懇切なる指導と救護を行い進みては貧困の根源の芟徐迄に努ることを必要とす。而てこの目的を達せんが為には是非共細民に直接し以て其の指導並に救護にあたるべき機関の活動に俟たざるべからず。現在斯る使命を帯びて発達し来れるものに所謂「方面委員」なるものあり。本条〔第4条〕は主として此の方面委員を本法の救護体系に融合し以て其の全国的統制を行わんとするものなり。(内務省社会局社会部 1929: 288)
 
 つまり内務省社会局は、従来の市町村機構のみでは、個々の生活困窮者(世帯)に対する「懇切なる指導と救護」や、その前提となる個々の「状態の精査」の実施に心許ないため、「特別の補助機関」の設置を意図した。当時貧困は個別的多様性をもち、多様な生活困窮者を綯交ぜに取り扱うことは「濫救漏救」を生むものと捉えられていた、と見てよい。そしてそのための「補助機関」に、すでに民間レベルで生活困窮者への生活指導や救護を実施・展開していた方面委員制度の利用を図ったのである。
 方面委員制度とは、当時、地方で先行的に展開された政府主導・民間主体の救済制度である。方面委員制度は、その設置に地方長官の影響力が大きかった点で政府主導であった。その嚆矢とされる岡山県の「済世顧問制度」(1917(大正6)年)や大阪府の「方面委員制度」(1918(大正7)年)では、委員の選任は知事の嘱託によった(全国社会事業協会 1964: 24, 53)。そして、嘱託制度は1936(昭和11)年制定の方面委員令で確立した(第5条)。またその担い手に(多くの民間人が存在した一方で)少なくない地方公務員が存在した面でも政府の影響力は大きかった(菅沼 2005a)。
 とはいえ方面委員制度は、あくまで、地方の名望家や社会事業団体が積極的に参与する民間主体の制度であった。特に、個別救済事例に対する政府(地方長官・市町村長)の指揮命令は、彼らの行為の羈束には至らない点に注目する必要がある(7)。上述の方面委員令でも、方面委員の役割は「隣保相扶の醇風に則り互助共済の精神を以て保護指導のことに従うものとす」(第1条)と抽象的に定義されるのみで、具体的な行政事務や手続きを定めてはいなかった(全国社会福祉協議会 1964: 152-61)。加えて、政府に救護法の制定・施行を迫るなかで、いわば圧力団体として全国統一組織(全日本方面委員連盟〔1930[昭和5]年〕)が結成された点(全国社会福祉協議会 1964: 172-3)から考えても、方面委員は民間主体の制度と捉えて差支えないだろう。
 それではなぜ、内務省社会局は、救護法の体系に、政府機関ではなく方面委員を組み込むことで懇切な救護と精査を行おうとしたのか。なぜそれが行えると考えたのか。その答えは救護法第4条後段、方面委員の「名誉職」規定に対する、内務省社会局の解説にある。

現在方面委員は設置区域在住の社会事業従事者、神職僧侶、官公吏又は教育者等に之を嘱託するを普通とす。蓋し此等の者は其の土地の事情に通暁するのみならず又相当の人格教養ある者なるを以て貧民の救護指導に当たらしむるに於て適当なればなり。而て此の方面委員の特色は社会事業に趣味を有する者が其の篤志を以て社会奉仕的活動を為すことに在り。故に同様の趣旨に基づく本法の委員も之を有給職員とするときは却て公共心、社会奉仕心を基礎とする委員制度の本来の趣旨に反するに至るべく又救護が其の本来の精神を失い単純なる事務と化する虞なしとせず。且有給職員とするときは却て人物を得難き感あるを以て、本項は委員を名誉職員と為したるものなり。(内務省社会局社会部 1929: 289)

 内務省社会局が方面委員に期待したのは、「土地の事情に通暁」し「相当の人格教養のある者」の調査・指導能力である。内務省社会局は、こうした能力の源泉としての「篤志」を重視した。そして給料を得る=事務として仕事をする、ということを超えて救護にあたることを方面委員に求めた。そのために「有給職員」ではなく無給の「名誉職員」とされたのである。この「名誉職」性は方面委員自身も望んだことであった。彼(彼女)らは、無報酬でありながら救助に携わることに誇りを持っており、救護法施行の段階で構想された、業務に関する実費弁償制度ですら「名誉職」性を損なうとして反対した(全国社会福祉協議会 1964: 160-1)。このようにして救護法による給付体系は、「土地の事情に通暁する」方面委員が担うことになった。菅沼隆は、このような「名誉職」方面委員による、単なる「事務」を超えた、「個々の家族の実情」に応じた個別裁量的救済を展開する体制を、「名誉職裁量体制」と呼ぶ(菅沼 2005a; 2005b)。したがって方面委員は、一人ひとりの個々の事情を把握する、いわば〈目利き〉であることを政府から求められた、といえる。単なる羈束的行政事務では捕捉できないものを、「土地の事情に通暁した」 〈目利き〉が把握し、「懇切なる指導と救護」という有給職員にはできないであろう〈職人芸〉をもって個別裁量的に対応するのである。まさに戦前の貧困対策としての給付制度は、名誉職方面委員の、〈目利き〉による「要件」をめぐる裁量と、〈職人芸〉による「措置」をめぐる裁量を、推奨していたものとして理解できる。
 たとえば、『民生委員制度七十年史』(以下『七十年史』)では方面委員活動の機能を、「仲介機能」「介入機能」「代弁機能」の三つに類型化して記述・紹介している。仲介とは、生活困窮者の問題を発見し、市町村機構や医療機関などでの救済に結び付けることである。介入とは、生活困窮者に対する生活相談や生活指導である。代弁とは、社会資源に乏しい生活困窮者に代わって各種手続きを代行・補助することである(全国社会福祉協議会 1988: 110-20)。かような仲介・介入・代弁それぞれにおいて、誰の、どのような問題を救済するかという「要件」をめぐる裁量と、それらをどうやって救済するかという「措置」をめぐる裁量は、まさに現場の方面委員に委ねられていた。つまり方面委員とは、〈救済〉の「要件」を検出する役割(「要件裁量」)と、〈救済〉の実践の方法と程度を決定する役割(「措置裁量」)、この二つを兼ね備えていたことが確認できよう。
 もちろん、『七十年史』でも指摘されているとおり、このような裁量的給付制度は各方面委員の個人の能力や知識や心情に左右されるところも多い。ときには方面委員は、「介入」に際し警察官の同伴を求めたり(全国社会福祉協議会 1988: 116)、給付による支援を求める生活困窮者の希望をそのまま「代弁」することなく「自力更生貧困克服の精神涵養」を「訓戒」しその要望を拒んだり(全国社会福祉協議会 1988: 118-119)、ということもあった。かかる裁量的対応は、後述のとおり戦後とくに問題視されることになる。しかし、方面委員による裁量的給付制度が、生活困窮者一人ひとりの個別性を捉えようとした制度構想のなかで成立したことは、ここで確認しておきたい。

 1. 2 「無差別平等」と民生委員制度の動揺
 敗戦により、貧困対策としての給付制度は再編を余儀なくされた。まずGHQは占領政策の観点から、旧軍関係物資を指令第1号(1945(昭和20)年9月)によって凍結した。そしてその物資を、旧軍人を含む軍部関係者へ優先配分することを禁止した(SCAPIN151(同年10月))。SCAPIN151は、人々のニーズに基づいた、旧軍関係者を優遇しない物資配分を求めたことから、現代の(新)生活保護法にも連なる「無差別平等の原則」の原型として理解されている(村上 1987; 菅沼 2005b)。この原則は、その後制定された「生活困窮者緊急生活援護要綱」(同年12月)にも反映された。この要綱は、旧軍関係物資の配分の問題から定められた過渡的なものであるが(菅沼 2005b: 111-5)、一般的・恒久的公的扶助政策は、SCASPIN404(同年12月)、SCAPIN775(1946(昭和21)年2月)を受けた(旧)生活保護法(同年10月施行)で実施される。そしてここでも、旧軍人優遇防止の観点から、無差別平等の原則は継承された。無差別平等の原則により、戦前、一般的公的扶助法である救護法に加えて制定されていた、軍人扶助法、母子保護法(1937(昭和12)年)、医療保護法(1941(昭和16)年)、戦時災害保護法(1942(昭和17)年)は、救護法とともに廃止され、「総合福祉立法」としての(旧)生活保護法へ統合された(厚生省五十年史編集委員会 1988: 765)。
 こうしたなかで、方面委員令は民生委員令に変更され(1946(昭和21)年9月、1948(昭和23)年7月民生委員法へ改編)、方面委員の名称は、民生委員となった。改称の理由について『民生委員制度四十年史』(以下、『四十年史』)は、「国家社会全体の大きな変革の中にあって方面委員制度のみがひとり従来のままの組織と態勢で存立運営されることは却って本制度を時代の遺物と化せしめられるおそれ」を述べている(全国社会福祉協議会 1964: 308)(8)。
 とはいえ、SCAPIN151では、旧軍関係物資の配分に際し、民間機関の利用を認めており、民生委員(当時方面委員)の排除を企図した様子はない(村上 1987: 26)。生活困窮者緊急生活援護要綱でも、(旧)生活保護法でも、民生委員(方面委員)には、救護法同様に「補助機関」としての活動が求められていた(厚生省五十年史編集委員会 1988: 764-5)。しかも、誰を救済すべきかについての「要件」をめぐっては、無差別平等の原則によって一定程度は羈束されていたものの、どの程度・どうやって救済すべきか、という「措置」については多くを民生委員の裁量に委ねたままであった。個々の生活困窮者の必要生活費は相違しており、多様であるとの観点から、保護基準はあくまで「目安」とされていた(菅沼 2005b: 202-5)。
 したがって、戦前からの民生委員の「名誉職裁量体制」は、この時点では動揺していないし、個別具体的に貧困問題を発見・解決を図る姿勢もほとんど変化していない。1947(昭和22)年当時の全日本民生委員連盟(1946(昭和21)年10月、全日本方面委員連盟から改組)の会長原泰一と方面委員制度の創設者の一人である林市蔵は、アメリカからの社会事業に関する調査団に対し、自身と誇りを持って民生委員の「名誉職裁量制」の意義を語っている(原 1947: 69-71)。少なくとも当時民生委員は、名誉職による個別裁量的対応を問題視されることはなく、むしろ、海外にも誇り得る制度として認識されていた。
 しかし、このような名誉職による制度運用は、無差別平等の原則のより厳格な適用、すなわち無差別平等原則による羈束を強め、その原則を「要件」のみならず「措置」についても厳格に適用することに、適さない。なぜなら、菅沼が指摘するように、「名誉職裁量体制は生活困窮を個別的なものと見なし、名誉職委員と受給者の人格的・情緒的関係の中で生活困窮問題を処理」するものであり、ともすれば、貧困に至った原因や社会的身分や性別等を差別的に取り扱ってしまうからである(菅沼 2005b: 224, 254n79)。換言すれば、かかる「措置」についての〈職人芸〉的裁量の余地が大きければ、結果的に適用「要件」についても差別的な裁量の可能性を惹起してしまうからである。
 かような問題は、1948(昭和23)年8月のマーケット・バスケット方式による保護基準の改定で解決が図られることになった。この方式では、日本国憲法(1947(昭和22)年5月施行)第25条1項の生存権規定が保障する「最低生活費」を、栄養学上の必要カロリーという客観的基準により必要な物資量を設定し、それを当時の価格水準に直すことで算定する(厚生省五十年史編集委員会: 766; 厚生省社会局保護課 1948)(9)。保護基準が社会的かつ客観的に定められ、「目安」から遵守すべき「基準」に変質した段階で、裁量の余地は狭められ、行政行為は以前より羈束されることになる。
 こうした裁量制見直しの背景には、民生委員は「濫給」や「漏給」を生んでいるのではないか、という疑念があったと見られる。当時厚生省は、民生委員による保護基準の裁量的運用による「濫給」の助長を危惧していた(菅沼 2005b: 208)。一方でGHQは、民生委員が厚生省の指導のもと、有資格者の保護を意図的に絞っているのではないかと疑念を抱いていた(六波羅 1984: 141-3)。「濫給」や「漏給」は、技術的に根絶は不可能としても、その存在が多ければ、無差別平等原則を空文化させてしまう。こうした問題意識から上述のマーケット・バスケット方式、そして保護請求の棄却に対する異議申立制度(1949(昭和24)年4月)が確立していったと考えられる(菅沼 2005b: 238-48)。異議申立制度は、当然に、個別的裁量的判断の結果を審査するものとなる。このため個別的判断に対する、全体的客観的基準の優越がさらに明確化され、ひいては個別的判断も(異議申立回避のため)客観的基準に羈束されるようになる。
 こうした貧困対策としての給付制度の客観的基準化が、名誉職による個別的裁量を重視してきた民生委員制度に大きな動揺を与えたことは想像に難くない。以降、有給の事務調査員制度が徐々に整備されていく(10)。そして、(新)生活保護法(1950(昭和25)年5月)において民生委員は「補助機関」から「協力機関」に格下げされ(第22条)、生活保護施策は、有給の事務職員である社会福祉主事が担うことになった(第21条)。
 それでは、民生委員による裁量体制が捕捉しようとしてきた生活困窮者の個別性・多様性は、客観的基準によってどのように捕捉されるのか。(新)生活保護法における無差別平等は、生活困窮者に対する単なる一律給付を帰結しない、ということに留意する必要がある。(新)生活保護法制定時の厚生省社会局保護課長の小山進次郎による解説をみよう。

無差別平等の原則というのを余り機械的に考えることは危険でもあり、且つ、この法律の意図するところではない。無差別平等の第一義的に期するところは、保護の受給資格において優先的又は差別的取扱いをしないことである。従って、保護の種類や方法の決定は勿論保護の程度の決定さえも、その処理における直接的な指導原理は無差別平等に求むべきものではなく、〔(新)生活保護法〕第9条に掲げる必要即応の原則に仰ぐべきものなのである。(小山 1951: 107-8)

 したがって、無差別平等の原則は、必要即応の原則、すなわち「保護は、要保護者の年齢別、性別、健康状態等その個人又は世帯の実際の必要の相違を考慮して、有効且つ適切に行うものとする」(第9条)(11)、という規定と合わさって機能するものとされる。無差別平等の原則を機械的に考えないということは、無差別平等の原則の適用を裁量的に行うことではなく、「年齢、性別、健康状態等」の多様な必要のカテゴリー別に客観的基準を設けて、カテゴリー内で差別・不平等が生じないように羈束的に判定することを指す(小山 1951: 208-19)。ここでいう貧困はもはや、単に個人的・個別的なものではなく、社会的に認知可能なカテゴリー別の「相違を考慮して」分類されるものである。
 個別的貧困は、民生委員の裁量的救済方法で捉えられてきたものであった。しかしここに至って裁量的手法は否定的に捉えられた。事務職員が社会的に認知可能なカテゴリーを羈束的に判定し、羈束的に救済することこそが求められることになった(12)。

2.民生委員制度の転換と世帯更生運動
 2. 1 世帯更生運動のはじまり
 (新)生活保護法以降、民生委員制度は存立の危機に曝された。救護法以来、長く給付制度の補助機関として位置付けられながら、その役割から排除されたのであるから、当然の帰結ではある。この時期、全日本民生委員連盟は、中央社会福祉協議会(1951(昭和26)年1月創立、のちに、全国社会福祉協議会連合会(1952(昭和27)年)、全国社会福祉協議会(1955(昭和30)年)へと改称)へと統合され、単独の団体としては解散した(13)。
 以降、民生委員に対する廃止論も取りざたされる中、全国民生委員児童委員大会において、(新)生活保護法下での民生委員の新たな役割について議論されていく(14)。第6回大会(1951(昭和26)年10月)、および第7回大会(翌年7月)では、「補助機関」ではない「協力機関」としての新たな民生委員役割を定義するよう政府に求め、かつ、自ら法改正の内容について積極的に提案もした(全国社会福祉協議会 1964: 525-36)。しかし、政府自身も(新)生活保護法施行直後の情勢において民生委員の位置づけを測りかねていたようであり、民生委員法の改正は1953(昭和28)年7月になってようやく達成された(全国社会福祉協議会 1964: 537-8)。一方で民生委員は第6回大会で「民生委員信条」を定めた。「隣人愛をもって、その力を社会福祉の増進に捧げる」「常に、地域社会の実情を審らかにすることに努める」「誠意をもって、あらゆる生活上の相談に応じ、その更生を援ける」ことが定められている(全国社会福祉協議会 1964: 605)。とはいえ、これも、抽象的方針にすぎず、救護法・生活保護法に直接的には携わらない形で、いかに生活困窮者に対する支援を行うかを示すものではない。
 こうした中、第7回大会において「『世帯更生運動』実践申合決議」が採択された。世帯更生運動とは、民生委員の自主的活動として、貧困対策関連の諸機関と連携して世帯の「更生」を図る運動であり、一部の県(岡山・千葉・愛知・神奈川・石川・静岡)で先行的に実施されていた取り組みである(全国社会福祉協議会 1964: 606-7)。民生委員制度は、この地方において展開されていた取り組みの全国展開に、自らの新たな役割を見出すことになる。決議に関する『四十年史』の記述を確認しよう。

全国大会の決議によって発足した世帯更生運動の目的は、当時全国で183万世帯970万人といわれるボーダーライン階層を(中略)、被保護世帯への転落を防止するため地域社会の協力を背景とし、各種資源の動員活用により組織的総合的に推進することを第一義として、更には70万世帯190万人に及ぶ被保護世帯に対しては公的保護機関に協力し、その自立を助長することにあった。〔原文改行〕要するにこの運動は要保護世帯を主眼とし、被保護世帯をも含めた低所得者層の防貧と更生の促進をはかることねらいとしている。更にもう一つは、民生委員活動の本義の確立をねらいとしたことも見逃せない。(全国社会福祉協議会 1964: 607-8)(15)

 世帯更生運動が、「民生委員活動の本義の確立をねらい」として誕生したということを『四十年史』は重視している。また、これが地方の「自主的」な取り組みから生まれてきたことを強調し、評価もしている(全国社会福祉協議会 1964: 608)。そして、その本義たる活動は、「協力機関」としての「公的保護機関」への協力よりも、「ボーダーライン階層」「要保護世帯」の「被保護世帯への転落防止」を重視していることも読み取れる。
 そして民生委員は続く第8回大会(1953〔昭和23〕年10月)において、「低所得者」に対する貸付制度の創設を政府に要望することを決議する。貸付制度が必要とされた背景について『四十年史』は以下のように述べている。

母子福祉資金貸付は母子世帯に限られ、国民金融公庫や営農資金など国や地方公共団体の融資制度があっても経済基盤の脆弱な一般低所得者への融資は不可能に近く、皆無の状態であった。しかし世帯更生の実をあげるためには資金を必要とすることが極めて大きいことが痛感され、低所得者に対する資金貸付制度を養成する声は日を追って熾烈になった。(全国社会福祉協議会 1964: 636)

 低所得者支援のために資金が必要である、しかしそのために利用できる制度はない、ここから貸付制度の創設が要望された、と説明されている。結果として1955(昭和30)年、国が必要資金1億円を予算計上することで、「世帯更生資金貸付制度」(後述)が創設されることになった。
 この『四十年史』の記述から、少なくない先行研究は、「救貧的活動から排除された民生委員が、防貧的活動に新たな役割を見出した過程」として、世帯更生運動・世帯更生資金貸付制度誕生の経緯を捉えている。例えば、中垣昌美は、「いつ、どこで被保護層に転落するかも知れない生活保護基準すれすれの低い消費実態を観察し、自主的更生指導による落層防止という防貧的救護活動に着想した民生委員の積極的な試み」として世帯更生運動の登場を理解している(中垣 1981: 27)。そして、『四十年史』の記述を踏まえて、「被保護層対策は生活保護制度において、要保護層対策は貸付金制度において、それぞれ救貧と防貧の役割分担」をしていると指摘している(中垣 1981: 37-8)。
 また佐藤順子も、世帯更生資金貸付から現行の生活福祉資金貸付へと続く歴史記述の中で(簡略的ではあるが)、(新)生活保護法の体制下で独自活動の意義を見失っていた民生委員が、自主的活動として「低所得者に対する防貧と更正活動に活路を見出していった」ことを記述している(佐藤 2001: 264)。そして、「生活保護法が救貧的な性格を持つのに対し、生活福祉資金貸付制度はむしろ生活保護法の適用となる前段階の防貧的な性格を帯びている」(佐藤 2001: 261)と指摘している。生活福祉資金貸付の実務担当者向け手引書である『生活福祉資金の手引』の「生活福祉資金貸付制度の沿革」の節においても、同様である。(新)生活保護法下の民生委員の「士気の低下」「活動の停滞」に対する反省から、「防貧と低所得者層の自立更生とを促進しようとする」ものとして世帯更生運動・世帯更生資金貸付制度が形成されたと記述している(生活福祉資金貸付制度研究会 2010: 23)。
 先行研究は、民生委員が給付制度から排除され、世帯更生運動へと移行する流れについて、〈被保護層への支援〉=救貧から、〈被保護層にしないための支援〉=防貧への転換として理解している。確かに、民生委員が、民生委員制度を維持する意図で、公的扶助制度とは別の支援制度に自らの役割を見出そうとしたことは容易に理解できる。また緊縮財政下の1950年代、ボーダーライン層に対する施策が必要とされた経緯を考えれば、かかる階層対策に民生委員の新たな役割を求めることも理解できる(16)。公的扶助制度から排除された民生委員が、自らの新たな役割を求めて、生活保護の被保護層とは別の階層を対象に、そして、給付とは別の手段で、社会福祉における支援を担おうとしていた。かかる世帯更生運動の側面は否定できまい。

 2. 2 民生委員による世帯更生運動の対象
 しかし民生委員は、被保護層の支援に戦前より長く携わってきた。そのような彼らは、「時代が変化したから」と、被保護層に対する「救貧的活動」から、より生活が「まし」だとされる要保護層ないしボーダーライン層に対する「防貧的活動」へとスムーズに活動を移しえたのだろうか。そこには何らかの「葛藤」があったのではないか。1. 2で記述した通り、確かに戦後民生委員は、公的扶助制度の領域から撤退を求められてはいた。とはいえ一方で、現場で支援する「名誉職」の篤志家が制度の変更とともに、支援する対象をすんなりと変えた、ということも容易に理解しがたい。 
 概観した先行研究からは、前者の過程は理解できるものの、後者の過程は見えてこない。結果的に先行研究は、戦後の社会福祉制度史における民生委員制度の、民生委員による再定位という観点からのみ分析しており、世帯更生運動とそこにおける民生委員活動の実態に踏み込んだ充分な分析を行っているとは言い難い。
 1節で記述してきたとおり、以前の民生委員(方面委員)活動は、「要件」と「措置」についての裁量権を有していた。そしてこうしたの〈目利き〉と〈職人芸〉により貧困対策を担ってきた。菅沼は、世帯更生資金貸付制度に対する国庫補助によって、民生委員は「裁量権を行使しうる道具」を再獲得し、「組織の再興」に踏み出した、と指摘している(菅沼 2005a: 81)(17)。それではかかる「裁量」は、世帯更生運動の中でどう行われてきたのであろうか。民生委員制度自体の再定位、組織の再興、という観点を超えて以下、世帯更生運動における支援対象と支援手法について再検証してみたい。
 本節の残りの部分で、実際に現場の民生委員が(新)生活保護法体制下で、要保護世帯ないしボーダーライン層の被保護世帯化を防ぐ、という目的をどこまで念頭に置いていたのかを確認したい。世帯更生運動の全国展開の契機であった第7回、世帯更生資金貸付制度の創設を要望した第8回大会を経た、第9回大会(1954〔昭和29〕年5月)で、各地より「被保護世帯への民生委員による支援」の必要性が訴えられたことにまず注目する。

〔東京都代表〕
民生委員の職務に関する厚生省の指導によれば、民生委員は生活調査や要保護者の発見等をすることによって社会福祉主事の行う保護事務に協力するものであり、(中略)被保護者の保護指導を公的機関の業務とすれば、それ以前のいわゆるボーダーライン階層の者に対する後援や生活指導を行うこととされている。〔原文改行〕(中略)然しながら民生委員が社会奉仕への旺盛な気魄と責任感と自発心に基づき献身努力して、問題を解決する所謂自主的法外活動の対象をボーダーライン層に止めることは民生委員の活動意欲を甚だしく阻害する(第9回全国民生委員児童委員大会開催要項 1954: 17)

〔京都府代表〕
現今被保護者でない貧困階級が夥しい数に上り彼等は自立更生の熱意を以って困苦と戦っているが、些細な原因によって忽ち再起不能になることがある。これが未然防止策を講じようとする応急措置を取り得ない場合がある。〔原文改行〕次に被保護者であっても保護の限度が狭少厳格であるため、せっかくの援護精神を生かし得ない場合がある。〔原文改行〕又市井に於いて日常偶発する緊急事件に際し、最小限度の措置を講じようとするも手段が与えられていない。〔原文改行〕民生委員の手に若干の資金を保有せしむれば、これらに対し臨機の処置を執りうるものである。(第9回全国民生委員児童委員大会開催要項 1954: 17)

 東京都代表の発言は、支援の対象をボーダーライン層に絞ることへのあからさまな反論である。京都府代表の発言は、要保護層のみならず、被保護層やそれ以外の階層にも広く支援の手を伸ばそうとする発言である。加えて京都府代表の被保護層支援に対する発言は、保護限度が狭小なことを理由として、民生委員が追加で資金支援する必要について述べたことも注目に値する。したがって、すべての現場の民生委員が、先行研究が考えるほど明確に「要保護世帯の被保護世帯化を防ぐ」ことに自らの存在意義を見出したわけではなく、むしろそうした対象を絞り込む方法に違和感を持つ者も少なからずいた、と指摘できる。
 加えて表1では、世帯更生運動を現場で担う民生委員が、その対象として被保護層にかなり目を向けていたことが見て取れる。民生委員が主に支援の対象としたのは、あくまで被保護層以外の要保護層・ボーダーライン階層であった、と断定することは不可能である。
 しかも「世帯更生運動」実践申合決議がなされた翌年の1953(昭和28)年時点では、被保護世帯の割合が6割を超えている。徐々に被保護世帯の割合が減り、要保護世帯の割合が増えているとはいえ、1957(昭和32)年時点においても被保護世帯の割合は3割を超える。このことについて『四十年史』では、「要保護世帯の増加」をもって「運動が漸く軌道に乗ったことを示している」、と述べている(全国社会福祉協議会 1964: 632)。しかし上述のように世帯更生運動とはそもそも(『四十年史』自身が記述しているように)地方の自主的活動からスタートしたはずである。表2は「実践申合決議」以前から世帯更生運動を展開していた地域の1953(昭和28)年から1954(昭和29)年のデータである。1953年以前のデータはないものの、両年において、両県とも、要保護世帯よりも被保護世帯を世帯更生運動の主な対象にしていたことがわかる。おそらく両県とも運動当初は要保護世帯をメインとした世帯更生運動を実施していない。地域の自主運動からスタートしたことを誇りながら、中央の方針に、地方の活動が沿ってきたことをもって「運動が軌道に乗ってきた」というのは矛盾であろう。
 これらのデータは『四十年史』にも掲載されているデータなので、この矛盾を、『四十年史』内の〈叙述〉と〈実際のデータ〉の矛盾、ともいえる。この背景には、民生委員制度の再定位をはかる指導部(『四十年史』執筆者側)側と、現場の民生委員の間の認識の齟齬にあったのではないか、と推測できる。指導部側は(新)生活保護法の経緯から、また、ここ数年来批判を受けてきた民生委員の立場の弱さから、公的扶助の領域に、すなわち被保護層に対する支援の領域に、踏み込むことを避けようとした。そしてそうした経緯に、戦前とは違う民生委員の存在意義を見出そうとした。これに対して現場の民生委員は、これまで裁量的に生活困窮者の個別的問題に取り組んできた経緯から、以前からメインの支援対象としてきた被保護層に対する支援から手をなかなか引かなかった。指導部側が意図した公的扶助制度と民生委員の支援対象の棲み分けは当時充分にできていなかったといえる。
 先行研究が指摘するような形で、救貧的活動から防貧的活動へのシフトがこの時点、すなわち世帯更生運動開始当初からあったとは、断定できない。むしろここから確認できるのは、給付制度(公的扶助制度)が社会福祉主事などの専門職員によって担われることを容認しつつも、給付制度の「狭小厳格」を「臨機の処置」で補おうという現場の民生委員の姿勢である。この姿勢に、救護法下・(旧)生活保護法下で期待された民生委員(方面委員)の役割、すなわち「状態の精査」をし、「実情に応じた」「懇切なる指導と救護」を担うこととの連続性を読み取ることができるのではないだろうか。

3.裁量的貧困対策としての貸付
 3. 1 世帯更生資金貸付制度
 それでは公的扶助の行政ラインから排除された民生委員は、世帯更生運動において、どのような支援手法を用いて、どのような活動をしてきたのか。まずは、世帯更生運動の中で、その有力な支援手段として設置が求められたという(上述)、世帯更生資金貸付制度について改めて詳しく確認する必要があろう。
 以下、制度概要を記す。世帯更生資金貸付制度は上述のとおり、1955(昭和30)年に設立された貸付制度である。この制度は1990(平成2)年に生活福祉資金貸付制度と改称され現在に至っている。この制度は国や都道府県の資金援助をもとに、都道府県社会福祉協議会(以下、社協)が貸付実施をするものである。都道府県社協は、1950(昭和25)年から1951(昭和26)年にかけて、上述の全国民生委員連盟を吸収した全国団体である中央社会福祉協議会設立と並行して(一部先駆けて)全国各地で設立されている(19)。また、国や都道府県が直接の実施主体でないこともあり、公的扶助制度のように実定法上の根拠に基づくものではない。制度の設立は「昭和30年8月1日発社第104号都道府県知事宛厚生事務次官通牒」(以下、厚生事務次官通牒)およびその別紙「世帯更生資金貸付制度運営要綱」(以下、運営要綱)、そして、同時に発せられた同制度の運営細則である「昭和30年8月1日発社第104号の2 都道府県知事宛社会局長通牒『世帯更生資金の取扱いについて』」(以下、社会局長通牒)に基づくものである(20)。
 運営要綱によれば、貸付主体は設立当初から各都道府県の社協であり(世帯更生資金貸付運営要綱第3(1)「貸付主体」)、申込および返済の窓口は各市区町村の社協が担うことになっている(同要綱第3(3)「貸付の第一線機関」および同要綱第8「貸付金の交付及び償還」)。また、貸付の可否を決定するのは各都道府県社協であるが(同要綱第3(2)「貸付審査機関」)、実際の判断材料となる調査を実施するのは各地の民生委員(同要綱第6(2)「民生委員の調査」)、ということになっている。貸付の対象や金額などについては現在まで変動があるものの、〈都道府県社協―市区町村社協―民生委員〉という制度の骨格については現在の生活福祉資金貸付制度にかけて大きな変動はない。
 世帯更生資金貸付制度について厚生事務次官通牒では、「防貧施策が強く要望されている」事情を見定め、その制度目的を生活困窮者、とりわけ要保護世帯の「経済的自立」「生活意欲の助長」に置いている(同通牒)。そして運営要綱ではさらに明確に「防貧」や「被保護層への転落防止」が制度目的として記されている(同要綱第1「趣旨」)。さらに社会局長通牒では、貸付の対象者を「生活困窮者」としつつも、生活保護法による被保護世帯に対しては「原則として貸し付けない」とも定めている(社会局長通牒第1(2))。
 先行研究が、当初世帯更生運動の対象が要保護層に限られなかったという事実(上述)を考慮せずに世帯更生資金貸付と世帯更生運動の開始を「救貧政策から防貧政策へ」という経緯で捉える理由の一つには、世帯更生資金貸付に明確に定められた、こうした制度目的の存在もあるだろう。しかしそうした先行研究は、世帯更生資金貸付制度を世帯更生運動と「イコール」で捉えているため、世帯更生運動全体における世帯更生資金貸付制度の位置を見誤っているのではないか。そのことを以下で説明したい。

 3. 2 世帯更生運動のなかの世帯更生資金貸付制度の位置
 本稿が注目するのは民生委員が、世帯更生運動を実際にどのように展開していったかであり、世帯更生資金貸付制度をどのように支援手法として扱っていたか、である。留意すべきなのは、世帯更生運動の中の貸付的支援手段として利用・斡旋されていたのは、世帯更生資金貸付だけではない、ということである。
 表3は社会福祉協議会が作成した調査による世帯更生運動における各種資金活用状況である。当時調査可能であった13県分のものでしかないことは留意する必要があるが、それぞれが地域的に分散していることもあり一定傾向を窺い知ることはできる(21)。まず、世帯更生資金貸付が年度途中の8月から開始された、ということもあり、世帯更生資金貸付の利用率が低いということを確認しておく。そしてここで注目すべきは、民生委員が、世帯更生資金貸付以外(または以前)にも複数の資金貸付制度を、世帯更生運動の手段として活用しているということである。とりわけ利用が目立つのは、母子福祉資金と国民金融公庫の更生資金貸付、そして法外支援資金である。
 母子福祉資金貸付は、1952(昭和27)年施行の「母子福祉資金の貸付等に関する法律」によって実施された母子世帯向け福祉的貸付制度である。貸付の実施主体は都道府県(第3条)であり、財源は都道府県と国の折半である(第12条、第13条)。貸付申込窓口は福祉事務所であり(母子福祉資金の貸付等に関する法律施行令第2条)、貸付の可否は、都道府県の児童福祉審議会の審査で決定される(第7条)。民生委員は、当初からその業務に関与していたようであるが、改正された民生委員法にともなう厚生次官通知よって明確にその協力者としての位置を与えられていた(全国社会福祉協議会 1964: 543)。なお、本制度の実施にあたって「身上相談」に応じるものとして母子相談員が設けられているが(第15条)、これは当時の法案作成責任者(厚生省児童局長)の解説によれば、直接には資金貸付業務には関係しない、とされている(高田1953: 211)。
 国民金融公庫の更生資金貸付は、1949(昭和24)年7月より実施された福祉的貸付制度である。その対象は「引揚者、戦災者その他の生活困窮者で独立して事業を遂行する意思を有し、且つ具体的な事業の計画を持つ者で成業の見込があって返済確実なもの」とされている(国民金融公庫 1959: 276)。国民金融公庫は、1949(昭和24)年6月に、国民金融公庫法(同年5月施行)によって設立された政府系金融機関である。前身である庶民金庫(1938(昭和13)年設立)においても同様の貸付制度、特別小口貸付(1946(昭和21)年5月)、生業資金貸付(1946(昭和21)年9月)を実施しており、更生資金貸付はこれを継承したものである(国民金融公庫調査部 1959: 26-33, 276)。民生委員は、庶民金庫・生業資金貸付制度時代の1948(昭和23)年より、貸付金申込等についての関与・協力することになっており(国民金融公庫調査部 1959: 33)、これは国民公庫・更生資金貸付においても引き継がれていた(国民金融公庫調査部 1959: 279-80)。そして、表3から、「国民金融公庫や営農資金など国や地方公共団体の融資制度があっても経済基盤の脆弱な一般低所得者への融資は不可能に近く、皆無の状態であった」としていた『四十年史』の記述(上述)は疑わしいと指摘しておかなければならない。この調査の解説では、被保護世帯が多く更生資金を利用していることを「意外」と記述している(全国社会福祉協議会1957b: 10)。
 法外支援資金は、内容が地方によって異なり、すべてが貸付制度というものではない。これは、生業資金や生活資金を、給付したり貸付したりする制度で、生活保護法など国の法制度外の支援制度である。市町村などが主体となり、市町村補助金、共同募金からの配当金、寄付金、廃品回収などの事業収入等で原資を得ていた(全国社会福祉協議会 1964: 635)。この制度は、給付や貸付の決定が、民生委員の判断により迅速に実施できる点から、重宝されていたようである(全国社会福祉協議会 1964: 635)。
 したがって、世帯更生運動において民生委員が利用・斡旋できる貸付制度とは、世帯更生資金貸付制度だけではなかった。実際に、世帯更生資金貸付導入前における地方作成の民生委員向け世帯更生運動の手引書では、母子福祉資金や更生資金といった貸付制度の利用方法などが案内されている(茨木県社会福祉協議会 1953; 福井県・福井県社会福祉協議会 1954)。
 次いで、世帯更生運動本格実施後である翌年の実績と比較してみよう(22)。
 翌年度に入り、要保護世帯における世帯更生資金貸付の利用率が上昇している。反面で減少しているのは国民公庫の更生資金である。しかし一方で、被保護世帯においては、世帯更生資金の利用は全く進んでいない。これは上述のとおり、当該制度が「被保護層への転落防止」を目的としていたことから当然の結果である。とはいえいずれにせよ、母子福祉資金などの他施策による貸付制度の利用世帯は依然として多く、世帯更生資金貸付制度の利用世帯率は少ない。とりわけ被保護世帯に対しては、こうした世帯への利用制限のない母子福祉資金貸付や法外援護資金による貸付が利用・斡旋されていた。世帯更生運動の中で民生委員は、複数制度に協力・関与することによって、世帯更生資金の利用制限に縛られることなく、複数制度を支援のために柔軟に、選択的に、斡旋していたと思われる。
 もちろん、民生委員が貸付審査の最終決定権を有していたわけではない。しかし民生委員が、かかる貸付制度の「斡旋者」として存在したということは、彼(彼女)らが単なる「紹介者」として存在したということを意味しない。民生委員は、貸付申込手続きに関与・サポートするとともに、貸付支援実施後も世帯更生の対象世帯として、支援を継続している。実際に「更生」が実現されたかの継続調査もするなどして、長期的に経過を見守っている(全国社会福祉協議会 1957b; 1958a)。そのことは後述の事例からも確認できよう。民生委員は他の貸付機関と協力して貸付型支援を実施している。民生委員を通じて複数の福祉的貸付制度が、「世帯更生」を目的とした支援活動(世帯更生運動)の中に組み込まれているのである。
 また、貸付支援をするかどうか、どのような支援制度に生活困窮者を結びつけるかという一次的判断が、世帯更生運動のなかにおいて、民生委員を中心に裁量的に判断されていたことにも注目する必要がある。貸付支援が世帯更生運動において重要な手法であることには違いないが、それ自体、あくまで民生委員が採用する支援方法の一つでしかない。まず表3・表4からも明らかであるように、民生委員による世帯更生運動における資金活用型支援のオプションに生活保護給付の一つである「生業扶助」が含まれていることに注目したい。上述のとおり生活保護給付の実施機関は福祉事務所であるが、民生委員は当時生活保護の「協力機関」としても機能していたことを見逃すべきではない。そして、貸付・給付といった資金を利用した支援以外にも民生委員は世帯更生運動の対象世帯に対して、生活指導、医療保健衛生指導、児童の保護育成事業、相談補導なども行っている(全国社会福祉協議会 1967, 1958)。このように民生委員の支援は貸付に限定されておらず、多様な支援のオプションを持つ。しかも、民生委員に対して「どの場合に、どの制度を、誰に適用すべきか」という行為を羈束する規定は、存在していない(23)。給付の方がふさわしいのか、貸付支援をするかどうか、資金支援の他にどのような支援を行いうるか、の判断は(最終決定権を有してはいないにせよ)世帯更生運動においては複数の支援オプションを持つ民生委員の裁量に多くを依存していたといえよう。
 したがって世帯更生運動において民生委員は、世帯更生資金制度に縛られて活動していたわけではない。民生委員は、世帯更生運動のなかで、誰にどの制度を適用して支援するかという裁量を有していた。裁量的であったがゆえに公的扶助制度から排除された民生委員は、世帯更生運動の中で裁量的に、被保護層をも対象とした生活困窮者支援を実施し得たのである。そのことを以下の事例から確認してみよう。

 3. 3 仲介・介入・代弁
 以下確認するのは世帯更生運動についての民生委員の記録集『灯はともる』(全国社会福祉協議会編 1958b)に掲載されているうちの4事例である。この記録集は、厚生省と全国社会福祉協議会が、世帯更生事例として全国に公募して、応募のあった中から選考委員が選別したものである(24)。もちろん、誇張や脚色が含まれていないかを判断する術はないが、当時どのような支援が是とされていたのかを確認することはできる(25)。

事例○1:世帯更生資金貸付を利用(1)
男性。家族は妻と子供3人。復員後、農業、菓子製造業、料理業を営むも失敗。過労も原因となり妻が体調不良となり、本人も自暴自棄となりヒロポン中毒で入院。民生委員が社会福祉主事ともに生活保護受給を受けるよう説明、渋る本人を説得。受給に至る(生活扶助、医療扶助)。回復退院後、本人より生活保護辞退の申出あるも、保護廃止前に、民生委員が心配して本人と今後の生活について相談。検討の結果、豆腐製造業を開業することになる。その後、開業前の生活にも何とか目途がたち、保護廃止。後日すみやかに開業のための必要資金として世帯更生資金貸付を申込し、貸付決定。申込・貸付金受領手続きにあたっては民生委員が斡旋・サポート。(全国社会福祉協議会 1958b: 41-9)

事例○2:世帯更生資金貸付を利用(2)
男性。家族は妻と子供4人。本人は肺疾患で自宅療養。妻は日雇いで働いてはいるが薄給。生活保護を受給(生活扶助、医療扶助、教育扶助)。狭いが田畑はあり、秋に耕作収入あったことから保護廃止。民生委員は本人所有の未開拓農地があったことから、開墾と農業による自立を勧め支援。民生委員が農業について専門知識を有していたこともあり積極的に協力・指導。並行して本人が手先器用であることに注目し竹細工の副業も勧める。その後開墾・農地整備・肥料用に牛の購入が必要になり、世帯更生資金申込を民生委員が斡旋、貸付決定。牛購入については民生委員を通じて、農協の畜産係の支援も得た(全国社会福祉協議会 1958b: 159-69)

事例○3:母子福祉資金貸付を利用
女性。祖母・亡夫の母・子供2人の5人暮らし。夫死亡後、生活保護受給(生活扶助)。祖母は介護が必要な状態で、本人が勤務労働を行うことは難しいと民生委員が判断。民生委員は、過去に同地で酒・菓子小売業が存在していたこともあり、本人に酒小売業の開業を勧め、開業に至る。民生委員が、運転資金として母子福祉資金利用について説明し、申込を斡旋、貸付決定。事業については民生委員が種々支援。例えば、本人が介護のため長時間外出できないこともあり、酒・菓子などの遠方からの商品ついて配達するよう民生委員が当該取引先に交渉した。また掛け払いする顧客に対して支払いを督促し回収したりもした。その後事業が軌道に乗り、保護廃止。(全国社会福祉協議会 1958b: 91-7)

事例○4:貸付利用を進めるが利用に至らず
女性。家族は子供3人。売春容疑で逮捕。その後福祉事務所に連絡され、生活保護受給(教育扶助、住宅扶助)。民生委員が協力し、就職活動をはじめるも「元・売春婦」であることを理由に不調。たまたま訪問中に本人が裁縫得意であることに民生委員が気付き、ミシン裁縫業での開業とそれに伴う資金の借入勧める。しかし本人はあまり乗り気ではない。そのうちに就職が決まり、開業の話は一旦立ち消え。民生委員は就職先給与水準が低いことから、長期的には生計維持困難と考え、継続して開業・貸付制度利用を勧めようとしている。(全国社会福祉協議会 1958b: 65-90)

 これらすべて、生活保護を受給しているか、過去にしていた世帯の事例である。稼働能力のない(または低い)世帯に対しての生活保護支給の一方で、そうした稼働能力のない(または低い)世帯が稼働能力を確保し「自営」していくための支援として、貸付が利用されてきたことが読み取れる。また、世帯更生資金貸付についても実際の運用では、単に防貧目的ではなく、被保護層の自立という点から、給付と連続的に貸付支援が検討・実施されていたことも、確認できる。
 以下、本節の最後に、事例を踏まえて、貸付型支援の可能性と問題性について簡単に整理しておきたい。
 まず、「可能性」について。本稿は1. 1で、方面委員の個別裁量的活動における仲介・介入・代弁の機能について触れた。これらの事例でみられるのもやはり、仲介・介入・代弁である。それぞれの事例において民生委員は、彼/彼女らが該当する生活保護や福祉的貸付制度の仲介者であった。また、生活保護受給や借入について説明したり説得したり事業についてサポートしたりする介入者であった。そして各種機関や商売上の利害関係者の間に立ち、彼/彼女の利益を代弁し交渉するものでもあった。そしてここで見られる貸付決定は、かなり民生委員の「措置」や「要件」に対する個別裁量的判断に依拠しているものであった。豆腐製造業を開業する、開墾をする、菓子小売を行う、ということは支援対象者の過去の職歴や、支援者の持つ技術や、その土地の経済環境、そして本人の意欲などに基づいて総合的に決定されている。これを客観的基準によって羈束的に支援決定することは不可能であろう。また、事業の新規開業のために必要なまとまった金額を支援することは、給付方式では無理であろう。こうしたことは、支援対象者本人の意欲やライフプランをも捉える〈目利き〉的・〈職人芸〉的技術と、それに付随する裁量権がなければ難しい。
 このとき、民生委員が持つとされた、一人ひとりの生活困窮の個別性を捉えようとする性質は、貸付のような現場担当者に裁量的で柔軟な運用を要求される施策に、うまく合致していたといえる。例えば、母子福祉資金貸付法の解説では、被保護世帯をこの制度による貸付対象とする理由について、「母子世帯の特殊事情を加味して自立更生への援助のみちが講じられなければならない」「その福祉を図るためには国民の平等原則に基づく保護を行うだけでは不十分」と記述されている(高田 1953: 76)。一人ひとりの「特殊」のニーズは、支援者(民生委員)が貸付を検討する際にとった、対象者の来し方(経験や背景)を聞き取り、行く末(豆腐を作る、農業を営む、菓子を売る……)を共に考える、事例のような姿勢でこそ捕捉できるのではないか。ここに福祉的貸付の可能性を見ることもできる。
 とはいえ、福祉を目的に生活困窮者に貸付することの以下の「問題性」は等閑視できない。まず指摘すべき点は、事例○1○2では、本人申出があったとはいえ、貸付決定の前に生活保護が廃止された点である。『四十年史』において、当時指摘された世帯更生運動の問題点として、「扶助の打ち切りが世帯更生」という誤解があることを指摘している(全国社会福祉協議会 1964: 613)。こうした事実からも貸付が給付廃止の手段として使われる危険性を見逃せない。また、事例○4のように、本人に開業する気があまり見受けられない場合に、どの程度パターナリスティックな介入をすることが適切なのか、という厄介な問題もある。こうした問題が発生する蓋然性があるのも、ここでの貸付が「裁量的」だからであろう。
 そしてなにより江口英一が「名目的自営業」と呼んで問題提起したように、貸付によって開業・自営したことを持って「福祉」なのか、ということも問われなければならないだろう(江口 1980: 3-5)。開業・自営が生活の改善・安定化に結びつかないのならば、貸付を受けた資金の返済はおぼつかない。返済できないことがさらなる問題を引き起こすことも容易に想像できる(26)。当時の福祉的貸付がボーダーライン層のみを対象としたものではないにしても、被保護層・ボーダーライン層の安定的な生活改善に資すことができないならば、それは不安定なボーダーライン層を供給する施策でもあったとも指摘せねばならない。

おわりに──社会福祉制度史のなかの給付と貸付
 本稿では、その活動の裁量的性質が問題視され、給付制度のラインから排除された民生委員が(第1節)、初期の世帯更生運動において、被保護層をも対象とした支援活動を展開したことを指摘した(第2節)。そしてそこでは、福祉的貸付を主要な手段とした裁量的支援を行っていたことを指摘した(第3節)。
 すでに指摘したとおり先行研究は、民生委員が公的扶助から排除され、世帯更生運動へと移行する流れについて、〈被保護層への支援〉=救貧から、〈被保護層にしないための支援〉=防貧への転換として理解していた。客観的基準に基づく羈束的な「無差別平等」「必要即応」が求められる公的扶助の領域では、民生委員の裁量的活動は不適であった。しかし本稿が確認したように、少なくとも世帯更生運動の初期実践(1953〜1957)においては、民生委員は被保護層への支援から撤退したわけではない。被保護、すなわち生活保護給付を受けている者に対する、別の、個別的・追加的支援もなされていたのである。
 そうしたなかで、福祉的貸付は、裁量的支援の手段として存在した。確かに、貸付支援が給付支援を駆逐してしまう危険性や、被保護層やボーダーライン層の生活改善についての決定力を欠くという問題は残る。とはいえ客観的基準に基づく羈束的な公的扶助制度が確立された後でも、民生委員のような福祉施策運用上の担い手が裁量的貸付支援を実施する余地があったことを、そしてかかる支援が支援対象者の来し方と行く末を共に考える姿勢のなかであったことを、あらためて最後に確認しておきたい。もちろん、そうした担い手として名誉職である民生委員が、歴史的文脈を超えて相応しい存在であるかどうかは、別問題である。本稿以降の世帯更生運動の歴史を追うならば、民生委員と世帯更生資金貸付・世帯更生運動について否定的な見解を述べざるをえなくなるだろう。それは別稿で論じたい。

追記:本稿は、平成23年度科学研究費補助金(特別研究員奨励費)による研究成果の一部である。また、本稿の2節および3節は、2011年6月11に福祉社会学会第9回大会で発表した「世帯更生資金貸付制度の成立過程と初期実践──貸付することの福祉的意味と可能性・問題性についての考察」を基に加筆・修正したものである。

[注]
(1)ニーズとは何か、について残念ながら本稿で詳しく検討する余裕はない。本稿では、主観的とも客観的とも、潜在的とも顕在的とも限定せずに、単にその人が自身の尊厳を保つために必要不可欠なもの、としておこう。
(2)こうした貧困観の「旋回」と、それに伴う福祉国家形成の関係については毛利(1990)に詳しい。
(3)自尊の(社会的)基盤を保持することを、公共政策の目的として明確に見定めたのは、Rawls(1971[1999])である。また、単なる財の平等分配を超えた多様な個人一人ひとりの「できること」「なれること」の達成可能性に配慮した福祉(well-being)を考察したのはSen(1985)である。筆者はこうしたロールズやセンの著作から影響を受けている。
(4)救護法施行までの紆余曲折については寺脇(2007)が詳しい。
(5)本稿では以下すべて、カタカナで書かれているものはひらがなに、旧字体で書かれているものは新字体に、旧かなづかいは現代かなづかいに変更して記述する。また引用文中に亀甲カッコがある場合は引用者の補足、傍点がある場合は引用者の補足である。
(6)この資料は、寺脇隆夫がそれまで未刊行の一次資料をもとに編集した寺脇編(2007)に収録されている。寺脇によればこの資料は、完成が実議会審議に間に合わず未刊行・未配布のまま保存されたものである(寺脇編 2007: 250)。
(7)方面委員が、救護法により救貧体制(行政)の一部に明確に組み込まれながらも、行政機関と一定の距離を保ち得た制度的精神的基盤として「天皇の貧民救済に関する御下問をきっかけとして方面委員制度が形成された」というストーリーがあったことは否めない。菅沼(2005a)は、こうしたストーリーが救護法施行直後の1932(昭和7)年から1934(昭和9)年にかけてクローズアップされたものであることを指摘している(菅沼 2005a: 73-6)。
(8)いったい誰が「時代の遺物」と見なすおそれがあったのか、ここでは明確ではない。おそらくGHQだと思われるが、実際にはGHQがこの時点で方面委員を否定的に捉えていたという客観的証拠はない(菅沼 2005b: 162-3, 188n51)。
(9)とはいえ、定められた基準は必要カロリーを充足し得るものではなかった(岩永 2011: 63)。
(10)公的扶助制度の「羈束」化に伴う有給事務職員の設置過程は六波羅(1984)に詳しい。
(11)(新)生活保護法では、第6条において「この法律において「被保護者」とは、現に保護を受けている者をいう」「この法律において「要保護者」とは現に保護を受けているといないとにかかわらず、保護を必要とする状態にある者をいう」と定められている。したがってここでの「要保護」とは、被保護者を含む生活保護制度対象者を指す。かかる法律上の用語規定が設けられた理由として小山(1951)は、「一般には要保護者という言葉はこの法律における用語例の外に、所謂ボーダーライン層に属する人々を含める意義において用いられる場合がある」ことを指摘している(小山 1951: 156)。
(12)もちろん、生活保護における行政行為が完全に羈束される、ということはない。なぜなら、どんなに客観的なニーズの基準を定めて行政行為を羈束しても、誰がそのニーズを本当に持っているかどうかの判定について、機械的・マニュアル的に行うことは不可能に近いからである。小山進次郎は、(新)生活保護法によって保護行政が、「自由裁量」(裁判所の審理が及ばない裁量的行政行為)から、「羈束裁量」(行為が一定程度羈束され、裁判所の審理が及ぶ行政行為)へと明確化されたと指摘している(小山 1951: 214)。本稿で指摘しているのは、「裁量行為がなくなった」ということではなく、裁量があることが否定的に捉えられ、判断や行為が羈束される度合いが高まった、ということである。「自由裁量」「羈束裁量」の詳細な意味については芝池(2001: 74-81)を参照のこと。
(13)解散・統合の是非をめぐって民生委員連盟は深刻な内部対立を引き起こした。その当事者の一人は上述の原泰一である。統合は、反対派の原が退陣させられて以降のことになる(全国社会福祉協議会1988: 178-81)。
(14)児童福祉法(1947〔昭和22〕年施行)の児童福祉法により、民生委員は児童委員を兼務することになっていた。
(15)ここでの要保護層という用語は、ボーダーライン層と互換的に利用されている。すなわち註11の法律用語ではない、一般用語としての「要保護層」である。世帯更生運動においての要保護層は、常にこちらであった。
(16)当時の公的扶助をめぐる動向は、岩永(2011: 89-97)を参照されたい。
(17)菅沼(2005a)は、世帯更生資金貸付の制度化による裁量的手段の確保を指摘してはいるが、本稿のように、世帯更生運動や世帯更生資金貸付による民生委員の裁量的活動の実態を記述したり、検討したりはしていない。裁量権に触れつつも、裁量制度の実態ではなく、裁量権行使の背景となった天皇制の影響力について検討を加えているに留まる。
(18)要補導世帯とは、被保護世帯でも要保護世帯でもないが、生活支援等を必要とする低所得世帯を指す(全国社会福祉協議会 1957b: 1)。
(19)ただし当時アメリカの直接統治下にあった沖縄県は未結成。
(20)厚生事務次官通牒、世帯更生資金運営要綱、社会局長通牒の内容については、全国社会福祉協議会(1957a)に付属している参考資料を参照し、確認した。以下の本文についても同様である。
(21)青森、秋田、千葉、新潟、石川、静岡、愛知、奈良、山口、香川、愛媛、熊本、鹿児島の13県である。
(22)1957年度も全国データではない。集計されているのは、青森、宮城、秋田、山形、千葉、神奈川、新潟、静岡、滋賀、奈良、山口、愛媛、佐賀、熊本、鹿児島の15県分である。
(23)そのような規定は管見では存在しない。「ない」という裏付け資料の確認は、(性質上困難ではあるが)今後の研究課題である。しかし、民生委員が「民間」の篤志家であり、また世帯更生運動自体「民間」の運動であることから、政府があえて包括的統合的運用規定を定めたとは考えにくい。
(24)選考委員は、安田巌(厚生省社会局長)、高田浩運(厚生省児童局長)、木村忠二郎(日本社会事業大学長)、佐伯藤之助(民生児童委員協議会委員長)、新国康彦(全国社会福祉協議会事務局長)、吉田行範(NHK社会部長)の6人。
(25)事例については紙幅の制限があるため、要約のみを記す。
(26)このような問題から江口英一が、世帯更生資金貸付について以下のような改革案を提示していたことに注目する必要がある。すなわち「現在の貸付制限基準に、いわば一種の「保障基準」のごとき位置を与え、もしそれ以下の所得水準の場合は、貸付金や利子の返還、支払いの減免をかんがえるべきである(中略)。このような大きな改訂を加えることになると、世更資金制度〔=世帯更生資金貸付制度〕は第2の生活保護制度になるといわれるかもしれない。しかし、現在の生活保護法が病人、老齢者等、無業者にますます集中する時、働きながらしかも困窮するものに対し、生活保障の新しい手段が考えられることはよいことであり、絶対必要なことである」(江口 1972: 30)。

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