犯罪被害者の法的救済についての歴史的考察──明治期の新派刑法学の思想的特徴から

大谷 通高(立命館大学大学院先端総合学術研究科博士課程)

はじめに
 日本において犯罪被害者の法的な救済の必要性を長らく主張してきたのは、刑法学の領域であった。国家による犯罪被害者補償の法的根拠を論じた大谷實は、補償の必要性やその法的な理論的根拠を、刑法の社会秩序の維持の機能から論じている(大谷 1976; 大谷・宮澤 1977など)。犯罪被害者の法的救済は刑法の領域に大きく関与するものとしてあり、犯罪被害者の法的救済と刑法の領域とは切り離すことのできない事柄として考えることができる。
 しかしながら、この犯罪被害者の法的救済と刑法の領域が切り離せないものとして論じられたのは、1970年代にはいってからである。それ以前は、犯罪被害者の法的救済の役割は刑法の領域ではなく、もっぱら民法の領域(不法行為法)に求められてきた。いや、犯罪被害者の法的救済が論じられ始めた70年代当時においても、刑法の公正さを保持するために、犯罪被害者の法的救済と刑事の領域とはなるだけ接合しないように/させないように論じられてきた。現在の犯罪被害者の法的救済と刑事の領域とが密接に結びついている状況は、ここ10年ほどで培われたものである。
 はじめて日本で法学の領域において「犯罪被害者」の救済が論じられたのは明治期であり、それは現行刑法以前の刑法、つまり旧刑法が施行されていた時期であった。本稿ではこの明治期に照準し、当時の刑法理論における犯罪被害者の法的救済の意味を明らかにする。しかし、本稿では明治期の刑法理論そのものを検討することはしない。あくまでも当時の刑法理論の変遷から、犯罪被害者の法的救済が刑法の領域においてどのような関係に置かれていたかを歴史的に探ることにある。
 本論が扱う時代は、明治期の旧刑法の成立から新刑法(=現行刑法)の成立当初までの期間である。その理由は、かかる期間が、日本における近代刑法の成立期であり、現行刑法の礎点としてあるからだ。旧刑法の成立を対象時期に含めたのは、旧刑法と現行刑法とのその思想的差異やその関係をみることで、当時の現行刑法に対する刑法理論の歴史的意味をより明確に考察することができると考えたからである。もう少し説明すると、旧刑法が古典派刑法学=折衷主義の刑法思想に対応しており、新刑法は新派刑法学に対応している。そして両者は、旧刑法=旧派刑法学が、新派刑法学に批判される関係にある。その批判関係を当時の歴史的文脈を踏まえつつ、新派が旧派のどこに批判の論拠をさだめて自らの刑法思想を紡いできたか、本論はこれを探っていく。
 本論の構成は、まず第1節では、新派刑法学から批判の対象とされた旧刑法の成立過程とその思想基盤である折衷主義を概説した後、旧刑法の内容から折衷主義と旧刑法との影響関係を読み解く。つづく第2節では、旧刑法施行後の社会的背景をたどることで、新派刑法学が折衷主義への批判から自らの思想を紡いできたことを概観し、そこから思想的特徴を見出していく。そして第3節では、その思想の編成を踏まえて明治期の刑法学における犯罪被害者の救済論をとりあげ、当時の救済論が何を論拠とし何を救済しようとしていたのか、これを考察していきたい。

1.旧刑法と折衷主義
 1. 1 旧刑法の制定過程
 まずは旧刑法が新派刑法学に批判される状況を理解するために、旧刑法が成立する過程当時の社会状況がいかなるものであったのかをおさえておく。
 西暦1868年、いまだ江戸の「慶応」と新政府の「明治」の二つの年号が併存していた時期、「王政復古」が掲げられる。それはその名が示すように、古の天皇政治への復古を意味している。明治元年(1868年)にたてられた「五榜の掲示」の仮刑律(1)やその後にできた新律綱領(明治3年)(2)、改定律例(明治6年)(3)も、その体裁、内容ともに過去の時代の刑律を参照し複合させたものである。
 しかしながら、上記の刑律はその内容が当時の近代化の世相にそぐわなかった。明治5年に「四民平等」が宣言されるに伴い、華士族平民のあいだの婚姻の自由が認められ、全国民に兵役義務を課す国民皆兵の徴兵制度が採用された。これを契機に武士身分の特権的地位が失われていくことになるが、上記の刑律にはいまだ士族階級に対する優遇措置があり、このことが「四民平等」に反するとして実務家からの批判を呼び起こした(佐伯・小林 1967)。このように当時の近代化の世相と古代の刑律の内容とがかみ合わず、これら刑律が施行された当初から、新たな刑法の必要性が認識されていた。
 また国内の情勢からだけでなく、国際情勢の面からも新たな刑法典が必要とされた。当時の日本は、諸外国との間に不平等条約が結ばれていた。これを改正し諸外国と対等な関係になるためには、国際社会から「文明国」として認められる必要があった。その「文明国」の要件のひとつに法典の編纂があり、そのために欧米の制度や思想を反映した近代法典の編纂が必要であった(4)。
 こうして旧刑法の編纂がはじまる。明治5年から翌年にかけて、司法省はヨーロッパ刑法を範とする刑法の編纂を進めていたが、当時、司法卿であった江藤新平の失脚と左院の法典編纂専管のため中断した。左院では、英法などの影響を一部受けた校正律例が編纂されたが、それも律の形式を基本としていたものであり、施行までには至らなかった(牧・藤原編 1992-2005: 311)。
 明治8年2月に大阪会議が開かれ、これを契機に政府の方針はヨーロッパ法を基本軸として刑法を編纂することを決定した。同年3月には井上毅が「司法省改革意見」を政府に提出し、そこには「洋律」(ヨーロッパ法)を模範として、刑法を皮切りに諸法の編纂を進めることが提言された。この意見はこの時期の法典編纂の方向を明確に示したものである。大阪会議の結果、法典編纂の遂行は司法省の所管となり、最初に編纂の対象となったのは刑法であった(岩村 2008: 76-7)。
 旧刑法の編纂作業は、当初司法省によってなされていた。明治8年9月に司法卿大木喬任によって刑法草案取調掛(司法大輔山田顕義が長)が設けられ、律令学者であった鶴田晧らがその任に就いた。この時期はお雇い外国人であるボアソナードに意見を聞きながら、準備作業と草案起草作業を進めていた。やがて「日本帝国刑法初案」が完成するが、これは元老院に提出された後、司法省に返還され草案の編纂作業はやり直しとなった。
 これを受けてボアソナードがフランス刑法(1810年制定)をもとに草案の作成を開始し、明治9年5月から、その草案を基にして編纂作業がすすめられた。編纂作業は、ボアソナードと鶴田晧との審議を中心にして進められ、明治10年11月30日に「日本刑法草案」が太政官に提出されたが、これも却下された。ちなみに旧刑法の枠組みが決まったのはこの時期とされている。刑法草案取調掛では、フランスおよびヨーロッパ諸国の刑法を踏襲することが大まかな流れとして決定されていたが、上記のボアソナード案に対して律形式の刑法思想による修正が加えられた(岩村 2008: 77-8)。
 その後、法典編纂は司法省から太政官へと移り、明治10年12月に太政官内に設置された刑法審査局によって進められることになる。審査局の総帥には伊藤博文が就任し、幹事に陸奥宗光、委員には細川潤次郎、津田出、柳原前光、井上毅、鶴田晧などが選ばれ、この段階でボアソナードは排除されたが、ここにおいてもボアソナードの刑法案に準拠して編纂作業がなされた。そして明治12年6月25日に、刑法審査修正案が完成した。その後、太政官から元老院へと編纂作業が移り、明治13年3、4月にかけて刑法審査修正案が元老院で審議され、同年7月17日に刑法が太政官第36号布告によって公布、明治15年1月1日に施行された(岩村 2008: 79)。
 旧刑法の編纂において中心的な役割を担ったのはボアソナードであるが、そのボアソナードが奉じていた刑法理論は、折衷主義とよばれるものであり、新派刑法学の批判の対象となる旧刑法はこの折衷主義の思想を反映したものといわれている。次節ではこの折衷主義について概説する。

 1. 2 折衷主義
 旧刑法の生みの親とされるボアソナードの刑法理論は折衷主義と呼ばれるものである。折衷主義は、功利主義と応報思想をあわせた刑法理論であり、この2つの主義/思想を折衷していることからこの名がついている。ここでは刑法学者の佐伯千仭と小林好信の「刑法学史」(1967)に基づいて折衷主義を説明する(佐伯・小林 1967: 225-6)。
 折衷主義がうまれる歴史的背景は、18世紀後半のベッカリーアやルソー、ベンサム等によって展開された啓蒙主義的功利主義、目的主義が隆盛だったころから説明される。この時期の刑法思想の特色は、アンシャンレジーム下の宗教と癒合した応報思想を否定し、刑法を合理的合目的的な思想にのせて国家の専断から人民の自由を守ることを重視するものであった。その結果、罪刑法定主義の確立とともに一般予防的見解を優先させるものとなり、これは1791年の革命刑法において反映されていた。ボアソナードが旧刑法を作る際に参照した1810年のフランス刑法(ナポレオン刑法)もその影響下にあった。
 アンシャンレジーム期の刑法は、刑罰の寛大化と裁判官の専断防止に傾注していたため、その運用において固定刑主義を採用していた。しかしこれは融通のきかない非現実的な刑法であった。ナポレオンは、その実用化を図るために修正を施しており、例えば裁判官の裁量(量刑)の範囲を広めたり、犯罪類型や刑罰手段の内容についても、犯罪の鎮圧という功利的目的主義の立場からその強化を図った。しかし、こうしてできあがったものはナポレオンの権力主義を反映した過酷な威嚇刑法であって、これが数々の批判を呼び起こした。その批判とは、運用の面では手続きや量刑が厳密で過酷であり寛大さが求められたこと、哲学的側面からは刑罰の純粋な正義は応報であり威嚇などの功利的目的の単なる手段ではないというカント的な厳格な応報主義思想にもとづいたものであった。
 こうした批判にこたえるかたちで生まれたのが折衷主義である。折衷主義は、刑罰の応報性を一程度引き受けつつ、潔癖ともいえるカント的な応報主義を避けて、これを功利主義的な目的主義と結合させ妥協しようとするものである。この折衷主義は19世紀前半の刑法学を支配する通説となっていた。では、その思想の内実とはいかなるものか。
 折衷主義は「犯罪」を、社会的害悪と道徳的害悪の2つから意味づけする。前者の社会的害悪は法益の侵害=「違法」を意味し、刑罰はこれを予防するためにあるとする。この点は、功利主義的な目的主義にもとづく刑罰観に対応している。そして後者の道徳的害悪は「道義的責任」を意味し、刑罰はこの責任のためになされるものであり、この点が応報的刑罰観に対応している。このように功利と応報を折衷した刑法理論が折衷主義である。ちなみに折衷主義における「犯罪行為」は、上記の二つの意味を有していなければならない。つまりいかに大きな社会的害悪の生じた行為であっても、そこに道徳的害悪が生じていなければ処罰の対象とならないし、その逆もしかりである。刑罰を科すためにはどちらの意味もかけてはならず、二つの意味がそろっていなければ、その行為は処罰の対象=「犯罪行為」とはみなされない。この点において折衷主義の刑罰論は非常に寛容なものであった。次節ではこの折衷主義を踏まえて旧刑法の特徴について概説していく。

 1. 3 旧刑法
 旧刑法はボアソナードの母国であるフランスの刑法典(1810年)を基礎としており、ドイツ刑法やベルギー刑法、イタリア刑法草案など、当時のヨーロッパ諸国の刑法を参考にしている。そしてボアソナードが編纂した草案に、明治初期につくられた刑律(新律綱領と改定刑律)の要素をとりいれる形で修正が加えられ、旧刑法は制定された。
 旧刑法は4編21章430条からなる。犯罪を「重罪」、「軽罪」、「違警罪」の3つに区分し細別するとともに、その成立要件を明確に定めた。刑罰は、単独で科しうる「主刑」と、主刑に付随して科しうる「附加刑」から構成されたが、上記の律令にあった身体刑や緑座、贖銅などは廃止された。「重罪」に対する主刑とされたのは、絞首刑、徒刑(島地に派遣して定役に服させる刑)、流刑(島地の獄に幽閉する刑)、懲役(内地の懲役場で定役に服させる刑)、禁獄(内地の獄に入れるが定役は科さない刑で、重禁獄と軽禁獄からなる)で、「軽罪」に対する主刑としては、禁錮(禁錮場に留置し、定役に服する重禁錮と、定役に服さない軽禁錮からなる)と罰金が、「違警罪」(現在の軽犯罪にあたる)に対する主刑としては拘留と科料がそれぞれ規定された。
 旧刑法の特徴としては、まず罪刑法定主義が明文化されたことがある。第2条で「法律ニ正条ナキ者ハ何等ノ所為ト雖モ之ヲ罰スル事ヲ得ス」と明記され、条文に書かれていない罪人は刑罰を受けないことが規定され、また、罪に対する罰、つまり量刑に対しても、犯した犯種に応じて細かく規定されている。この旧刑法の罪刑法定主義は、いうまでもなく国家の専断から市民の自由を守るという自由主義的な特徴を体現している。
 また、刑法不遡及の原則が第3条にあり、「法律ハ頒布以前ニ係ル犯罪ニ及ホス事ヲ得ス」と規定されている。そしてこれまでの刑律にあった僧や武士といった特定の身分に対する優遇措置を廃止し、さらに、第7条、第82条において責任条件および責任能力に関する規定を設けて責任主義を確立するなど、律型の刑法とは異なる近代的刑法典としての性格を持っていた。また、未遂犯や従犯の刑の必要的軽減規定、刑の酌量減刑規定をもっていた。
 先の責任主義は自由主義的性格を有し、結果として刑の軽減規定は寛容なものと理解されている。しかし自由主義的な性格を有している一方で、天皇制や家制度を存続させるための保守的な条項も設けられていた。絶対主義的な天皇制国家の支配秩序の中核である「皇室ニ対スル罪」や「家」制度の保護に通じる尊属に対する罪の重罪規定、さらに「官吏侮辱罪」や「兇徒聚衆ノ罪」といった規定があり、国事犯には死刑の適用を認めていた。
 ボアソナードがその編纂に携わった旧刑法は、折衷主義の思想が表れていたものとされる。たとえば未遂犯は既遂犯に比して軽減すべきものとされ(草案127条、旧刑法112条、フランスでは軽減しない)、共犯の規定も体系化され従犯の刑も軽減されることになっている(草案122条、旧刑法109条・フランスでは軽減しない)。この未遂犯への処罰の軽減は社会的害悪の事実がないために軽減されるもので、これは折衷主義の思想の表れとして捉える事ができよう。その他には、酌量軽減(草案100条、101条、旧刑法89条、90条)や自首軽減、罪数の規定(草案112条以下、旧刑法100条以下)も整備されており、犯罪者に対して寛容な刑法であることがうかがえる(佐伯・小林 1967: 224)。

2.新派刑法学の台頭
 2. 1 旧刑法後
 明治15年(1882年)に旧刑法が施行された後、ほどなく犯罪が急増する。明治15年での犯罪総数は75,857人、16年では105,844人、23年では145,281人となり、これ以後年々増えていく。明治15年と23年の総数を単純に比べれば、その数は約2倍に増加している(芹沢 2001: 23)。このように旧刑法が施行された後に刑法犯の総数は急増し、これにより旧刑法の犯罪抑制効果が疑われることになり、その機能や理念については、その施行当初から実務家や政府においてすでに批判があった。
 実務家のレベルでは、当時の地方巡察使の報告において、旧刑法は「法官」から歓迎されたが、「刑法ノ寛ナルモノノアルニヨリ不良ノ徒之ニ乗シ其悪業ヲ逞」しくする民衆においては、「新法ノ旨趣ヲ会得了解スルモノ稀」(明治15年、東山東海地方)で、「何等ノ感覚ヲ生スルニ至ラス」(明治15年、九州各県)と報告している。さらには、新法は「現今ノ民度」に照らせばほとんど「無益無効ノ手数」をかけている(明治16年・新潟県)と捜査実務家らの「本音」を報告している(岩谷 2001: 455)。
 これら巡察使の報告によれば、旧刑法が寛容であるために、「不良ノ徒」がより悪行を行うようになり、刑法の内容や理念を理解する民衆は稀で、民衆の理解度に照らせば「無益無効ノ手数」をかけているとある。このように実務家たちにおいて不評であった旧刑法は、その施行当初においてその寛容さが犯罪の増加要因として捉えられ、その手続きの煩雑さについても批判されていた。
 また政府において司法省の司法卿大木喬任が太政大臣三条実美あてに旧刑法の改正の必要性を認める「刑法中改正増補ノ儀ニ付申奉」を上申している。そこには「当一月来新法実施相成候處(明治15年1月に刑法と治罪法が施行されたことを指す)実際差支ノ件々不少候ニ付刑法治罪法トモ改正セラレタキ篠々有之依テ取調申奉致スヘク候」(カッコ内、筆者付け足し)とかかれており、旧刑法施行後わずか8カ月ですでに政府内で旧刑法改正の必要性の認識があったことがわかる。このときいかなる理由で改正が主張されたかその詳細は分からないが、明治15年の段階で旧刑法の改正作業が進められており、さらには一部修正した改正案までもが太政官に上伸されている。
 翌年の明治16年2月5日には、旧刑法の自由主義的で寛刑的性格が「理想的」であるとして、元老院では旧刑法への反対する新律綱領・改定律例の復活意見書が提出されている(岩谷 2001: 461)。また政府内部において山県有朋の「刑法改正理由」意見書(山県の意を受けて井上毅が執筆したもの)にみられるような、保守的立場からの旧刑法改正論も提唱されていた。ここには、ドイツ・プロイセン憲法に基づく国家構想の具体化を背景に、旧刑法の持つ自由主義思想の側面に対する批判の意図があったとされている(吉井1996: 165)。これ以後も、現行刑法が明治39年(1906年)に制定されるまで、一定の期間改正の議論がとまることはあったものの、政府内部では継続して刑法改正は議論され続けた。
 このように旧刑法は、施行当初からその機能や理念を批判され、実務家や政府において改正の必要性まで認識されていた。では、刑法学の領域において旧刑法はどう評価されていたのか、次節ではこれをみていく。

 2. 2 折衷主義に対する新派刑法学の批判
 旧刑法が制定され実務家や政府内で旧刑法の理念や犯罪抑止の機能が疑われたあとに、しばらくして刑法学の領域において旧刑法の思想的基盤である折衷主義に対する批判が生じるようになる。
 先述したように、旧刑法施行後すぐに犯罪者数が急増しはじめる。この事態について刑法学者である泉ニ新熊が、「1885年〔明治18年〕ごろにおいては、日本国における在監人の数は、常備兵員の数よりも多く、国帑の大部分は、犯罪人のために消耗せらるるに至るの状態を示した」(亀甲カッコ内は引用者)と第9回国際刑務会議で報告している(泉ニ 1925: 65)。
 このような事態は、成立したばかりの旧刑法とその解釈理論との犯罪対策としての無力さを暴露するもののように認識された。もとよりこの時期の犯罪の増加は、旧刑法や折衷主義の理論がもたらしたものではなく、急激な社会構造の変化に伴う混乱によるものと評価されている(5)。しかしながら、この時期の犯罪増加をあたかも旧刑法と折衷主義理論の責任とするかのように非難する意見が台頭してきた。そうした批判は当時ヨーロッパで勢力を得つつあった新派刑法学の理論をいち早く学んだ学者たちによってなされた。その代表的な学者として、富井政章、穂積陳重、古賀廉造などが挙げられる。
 とくに富井は、刑法の目的は、国家の安寧秩序の維持にあり、この目的達成のためには、どのような規則を設けても構わないとした上で、従来この明白な道理を看過して古い刑法学理を説き、犯罪人を社会上から研究することがなかったと批判する。
 富井においては折衷主義を含む古い学説は、人が動物と異なって正邪善悪を識別する知能と行不行の自由を有しており、まさに犯罪者は悪行と知っていながらも行為した者であるがゆえに刑罰を免れないのであって、この点において犯罪は自由意思の発動として捉えられていた。刑罰はこの人間の動物とは異なる特性を乱用した結果に科せられるものであって、犯罪が一国一時代の状態に関係無きものとして解釈された。このような考えを基本として刑法の学理を解明し、そこに正理という絶対的な考えが生じることで、これを万古不易の大原則と位置づけてきた。しかし、このような見解は時代おくれの「空理空論」であり、そこには社会防衛という刑法の任務が忘れ去られている、ここから富井は、新派刑法学の代表者のひとりであるガロファロが、従来の刑法は理念のみを唱えて、刑法の真の目的を忘れたために、近時の文明社会では兇徒悪漢が横行し、人命、財産が犠牲にされており、それにもかかわらず、刑罰制度はますます寛弱にながれ、ただ被告人だけの利益を擁護する結果となっていること、良民の安全や生活を保護する責務を顧みずに、空論ばかり唱へているのは学者の罪であると批判していることを卓説として奉じている(富井 1891: 7-10)。
 ここでの富井の論法はこうである。犯罪が増加しているのは旧刑法が犯罪者に対して寛容であるからで、その旧刑法が寛容であるのは、その思想的基盤となっている古い学説=折衷主義が、国家の専断から個人の自由意思を守りこれを尊重することや、「犯罪」を個人の自由意思の乱用ととらえ、「刑罰」を自由意思の乱用した者に対する「応報」として考えるような「空理空論」を刑法の基礎として考えているからであると。こうした古い学説の考えは刑法の道理的な任務である社会予防を忘れている。つまり、旧刑法が社会防衛という任務を果たさないのは、その思想的基盤である古い学説=折衷主義が自由意思という「空理空論」を奉じているからで、刑法の肝要な任務である社会予防について看過していたからだ、と富井は論じているのである。
 先に挙げた穂積や古賀も富井と同様の論法を辿っており、特に古賀は、その著『刑法新論』(1898)で、「刑罰権ハ即チ社会カ犯罪ノ侵害ヲ防衛スルカ為メニ有スル所ノ権利」(古賀 1898: 12)と述べ、また「刑罰ハ唯犯罪其者ヲ罰スル目的ノミヲ以テ之ヲ行フモノニアラス。同一ノ人ヲシテ罪ヲ再ヒスルコトナラシメ、又之ニ倣フ者ナカラシメントノ主旨ヲ以テ事ヲ未発ニ防止セントスルニ在リ」(古賀 1898: 31)と述べて、刑法の目的が社会防衛であることを主張する。
 こうした社会防衛を刑法の基礎として捉える点は、新派刑法学の思想的特徴といえ、このことは明治期の法言説をフーコー的視座から分析した芹沢によってもすでに指摘されている(芹沢 2001)。芹沢は新派刑法学の構造を3つのテーマでまとめており、そのテーマとは、一つは上述の社会防衛を基本に据えていること、二つ目は社会の敵として犯罪者を捉えること、三つ目は犯罪者の主観に準拠して犯罪者の危険性をはかることとしている(芹沢 2001: 33)。芹沢は、新派刑法学が「社会」と「犯罪者」の関係から刑法の学理を唱えている点から上記の三つのテーマを論証し、新派刑法学が古い学説を批判するさいには「正義」という理念を奉じていることに軸をおいていたとして論を進めている。が、しかし、それは少し適切ではない。
 芹沢自身も指摘しているが、批判の対象となった古い学説としての折衷主義は、先述したように応報的正義に傾注していない(芹沢 2001: 27)。むしろそれと功利主義的目的主義とを折衷するところにその思想的特徴がある。また、折衷主義は犯罪を道徳だけでなく社会の害悪からも規定していた。つまり、折衷主義はかならずしも「正義」という理念だけを奉じていたわけではないし、その学理も社会との関係からも紡がれていた。では、新派はどこに軸を定めて旧派を批判していたか。
 結論からいえば、それは旧派が自由意思への尊重を思想基盤に据えている点に批判の軸を置いていた。このことは先にあげた富井の主張からも明らかであるし、芹沢の残り二つのテーマである「社会」の敵として犯罪者があることや、犯罪者の主観に準拠してその危険性を図ることにも通底していた点でもある。次項では、新派の思想的特徴を説明する意味もかねて上記の芹沢の残る二つのテーマにそくしながら、新派の旧派への批判の軸が自由意思の尊重を基礎に置くことにあったことを論証する。

 2. 3 新派刑法学の批判の軸
 先の富井の主張において、折衷主義のような古い学説は、個人の自由意思の尊重という「空理空論」を奉じ、「犯罪」を個人による自由意思の乱用として一国一時代とは関係のないもの、つまり個人的事象と解するもので、それは社会の防衛という視座を看過した学説であった。これに対し、新派刑法学は「犯罪」をそのような個人の自由意思の問題としてではなく、社会と犯罪者の関係からその問題性を考えた。この点から、芹沢は二つ目のテーマである「社会の敵としての犯罪者」を、さきにその名を挙げた新派刑法学者の穂積や古賀の言を引用して説明している。
 芹沢によれば、新派刑法学において、犯罪とは「社会の生存を害する所為」(穂積 1889: 65)であり「社会の公敵」(古賀 1898: 7)で、その罪を犯した者(=犯罪人)は「良民の大讐なり」(古賀 1898: 7)とし、このように新派刑法学において社会秩序を乱す犯罪(人)の撲滅こそが刑法の責務であり、その関係とは撲滅する/される関係として、つまり社会と犯罪者との関係を生存をかけた敵対的な関係としてとらえていた(芹沢 2001: 31)。ここから芹沢は刑法が普遍的な性格(芹沢がいうには「正義」)を喪失し、社会と犯罪者との関係性のうちに刑法が組み込まれていること(社会防衛の用具としての刑法)を読み解いているが、本稿において重要なのは、新派が犯罪を個人の自由意思の問題としてではなく、あくまでも社会への敵対行為として規定し、社会防衛の問題系として新派刑法学者が捉えていたという点にある。つまり犯罪の概念が、旧派と新派では異なっており、旧派は自由意思の点から、新派は社会の点から規定している。これは、前項の富井や古賀の要約・引用からもわかるが、芹沢が新派の3つ目のテーマとして設定していた「犯罪者の主観に応じてその危険度を図ること」からによってより明確になる。以下はその説明をする。
 社会の敵である犯罪(人)に対して新派刑法学は、「社会」の防衛を目的として刑罰の量刑の基準を社会の敵たる犯罪者の人格に委ねてしまっている。これはどういうことか。この点についての新派刑法学の旧派への批判からみてみると、旧派が個人の自由意思の尊重という「空理空論」を謳うことについて新派刑法学は社会防衛の看過として批判してきたことは先に指摘した。「犯罪」が個人の自由意思の乱用と位置づけられるならば、その罪を犯した「犯罪人」とは自由意思を有す存在ということになる。旧派では、自由意思の尊重を基本軸に据えているために、自由意思を有した個人は不可侵の領域であり、このことは国家の専断から犯罪人を擁護する道筋を醸成する。これが新派刑法学には自由意思の尊重という「空理空論」を奉じるからこその犯罪人への無関心、引いては社会防衛の看過として映った。このことは古い学説が「犯罪人を社会上から研究することもなかった」と先にまとめた富井の批判からも読み取ることができる。
 これに対し新派刑法学は、社会防衛のためには、犯罪人がなぜ犯行に至ったのか、その人格とはいかなるもので、どうすれば再び犯行におよばなくなるのか、このように新派刑法学は徹頭徹尾、社会防衛の目的から犯罪人個人に関心が注がれていた。新派刑法学にとって個人とは犯されざる不可侵の領域ではなく、犯罪予防のための要因として捉えられていた。古賀においては、犯罪の軽重は、行為の結果ではなく、犯人の心術すなわち廉耻自愛の心から量るべきものと主張しており、「犯人ノ心ニ於テ己ニ廉耻ト慈愛ノ良心ヲ欠キタランカ、犯罪ノ結果小ナリト雖トモ、其危害甚タ大ニシテ、而シテ最モ恐ルル可キ所ノモノトス。犯人未タ廉耻ト慈愛ノ良心ヲ失ハサランカ、犯罪ノ結果大ナリト雖トモ、其危害甚タ小ニシテ、而シテ深ク憂トスルニ足ラサルナリ」(古賀 1898: 842-3)と述べている。ここにおいて古賀は、犯罪人が改悛の余地(廉耻ト慈愛ノ良心)を欠いているのであれば、結果の大小にかかわらず、その者は社会にとって非常に危険な存在であるために、無期または長期の自由刑を科し、反対に改悛の余地があれば、結果の大小にかかわらず最短の自由刑でもよいと論じているのである。このように犯罪人の人格に応じて犯罪の軽重を図り効果的に刑罰を与えようとする考え方を刑法学の領域では「主観主義」もしくは「人格主義」とよんでおり、これを芹沢は犯罪者の主観に応じてその危険性を測ろうとする新派刑法学のテーマの一つとして指摘している(6)。こうして新派にとって犯罪は個人の問題ではなく、あくまで社会の問題として、さらには刑罰も社会の礎のためにしてなされるものとなっている。
 このような犯罪が自由意思の乱用とする思想への批判は、富井や古賀とは異なる理論的立場からも、例えば本格的に実証主義刑法学の導入に勤めた刑法学者からも主張された。その代表的な刑法学者として勝本勘三郎がいる。勝本はヨーロッパから新旧刑法学派の争いを持ち帰り、その争いについての研究らしい研究を行った最初の学者だと評されている(牧野 1940: 195-6)。勝本が特に重視したのはイタリー学派の新派理論であって、犯罪人類学の祖としても著名なロンブローゾの学説について深い理解を示していた。勝本によれば、犯罪とは共同存在を害する行為であり、犯罪人に制裁を加えるのはこの共同存在への害悪があるためで、旧派の思想のように自由意思を有する存在として人があるために制裁が科されるわけではないとし、人は人に害を与える恐れのある猛獣毒蛇を殺すのは、猛獣毒蛇に自由意思があるためではなく、国家が犯罪者に制裁を下すのもこれと同じものとする。ゆえに罪を犯した者は危険な者であるために制裁を加えるもので、従って刑罰を受ける責任とは犯罪者であること自身によって生ずるもので、自由意思により生ずるものではない、このように勝本は主張する(佐伯・小林 1965: 231-2)。ここにおいて制裁、つまり刑罰が自由意思の乱用に対する反応ではなく、社会ゆえの、その防衛ための反応として解されている。このように、新派の古い学説の批判の軸には、犯罪が個人の自由意志の問題ではなく、社会防衛の問題であるということがある。新派において、刑法は、「個人」の自由意思を守るものではなく「社会」を守るものとして、被告人への刑罰は個人の自由意思を尊重するために科されるものではなく社会の危険を除去するためのものとしてある。
 本項では、芹沢の指摘する新派刑法学のテーマにそくして新派の旧派=折衷主義への批判とその主張を概観してきた。ここで指摘しておくべきこととして、これまでみてきた新派刑法学の学説、犯罪観や主観主義、刑罰論であれ、それらはみな旧派が自由意思の尊重を措定して刑法学理を説いていることの批判から紡ぎだされていたという点である。このことは新派刑法学の旧派への批判の軸が、「正義」ではなく自由意思の尊重に基本思想を置くことにあったことを示している。次項では新派の批判をまとめつつ、その思想の特徴について考えていく。

 2. 4 新派刑法学の思想的特徴
 新派刑法学の旧派の批判の軸には自由意思の尊重を基本思想におくことがあった。その批判から新派は社会に準拠する形でその学理を紡いでいた。これまでみてきた旧派批判から出された新派の学理は主に3つにまとめられる。
 一つは犯罪観。旧派は犯罪を個人の自由意思の乱用として規定していたが、新派は社会に対する危害として規定した。ここで指摘できることとして、旧派は犯罪を個人レベルの問題として位置づけていたということ、これに対し、新派は社会レベルの問題として位置づけていた。
 二つ目は刑罰観。旧派は自由意思の乱用に対する反作用として刑罰を位置づけていた。これに対し新派は、社会に対する害悪の鎮圧として刑罰を位置づけた。旧派のばあい、刑罰は犯罪者に自由意思があるゆえに科されるもので、これは刑罰が科される要件に自由意思が措定されていることを意味している。これに対し、新派の刑罰を科す要件は社会に対する危険性にある。その危険性によって犯罪の軽重がはかられるとし、なにより社会防衛のために刑罰が科されるとした。
 三つ目は個人観。旧派の場合、自由意思の尊重を基本思想としていたために、個人は不可侵の存在であった。ゆえに国家が個人に刑罰を与えるさいには、なるだけ国家の権力の恣意性を排す罪刑法定主義が遵守された。この意味で旧派にとって法は国家の権力の恣意性を抑制するものとして、そして国家は個人の自由を侵犯する存在としてあった。これに反し新派では、個人は不可侵の存在ではなくなる。犯罪者個人は社会にとって危険な存在であり、その危険から社会を防衛するためならば、国家は犯罪者に苛酷な刑を与えてもよいとさえ主張していた。ここにおいては、社会防衛を基本として個人の処遇としての刑罰を考える点で、社会の危険に専従させて犯罪人個人の処遇を考えるようになっているといえる。
 こうした新派の学理から読み取れるその思想的特徴は、つねに社会を宛名とし宛先として設定している点にあるだろう。社会防衛のために、社会への危険度から犯罪の軽重と行為者の悪性を評価し、その評価によって制裁を決定し、それを行為者に科して社会防衛を達成する。このように一貫して社会がその宛名、宛先として規定されている。そして、この新派の社会が宛名であり宛先であるその流れの閒に、人としての犯罪者がおり、人が社会を社会に循環させる弁の役割としてある。こうして新派刑法学の思想的特徴が明らかとなったが、次節ではいよいよ明治期の犯罪被害者の法的救済についての法学言説を、この新派の思想的特徴から考察する。

3.明治期の刑法学における犯罪被害者の法的救済
 3. 1 新派刑法学者としての牧野英一
 明治期の犯罪被害者の法的救済論をみていくまえに、その救済論を日本ではじめて論じた識者について紹介する。その識者とは牧野英一であるが、牧野は、明治後期から活躍した新派刑法学の大家であり、新刑法の運用に実務家が混乱していたときにその指針を示した識者である。まずはこの時期の牧野の刑法論を簡単に概説したのち、その救済論を説明する。
 牧野はリスト(1851─1919)やフェッリ(1857─1929)に学び、明治後期において東京帝国大学助教授の任にあった。牧野の主張は客観主義を維持したリストよりも、社会的責任を主張したフェッリに近いものであったが、それ以上に洗練されたものであった。この明治後期の牧野は、「主観主義」にたって社会防衛を目的とした特別予防、刑罰論を主張し、犯罪者の悪性と改善可能性に応じた刑罰の個別化、矯正不能の犯罪者の社会からの隔離・無害化を説いていた(内田 2008: 118)。
 主観主義にたった牧野の刑法学は、刑事責任と民事責任との差異についての分析から練りあげられていた。その牧野の主張とは、不法行為はいかなるものでも、その行為者に責任が生じるもので、これについては刑事、民事において同様である。しかし、ここでその責任のあり方に区分が生じる。牧野によればこの両者を隔てる差異とは、民事責任は不法な行為によって生じた損害の〈賠償〉にあるのに対し、刑事責任は不法行為によって生ずる社会的実害の〈予防〉にある。前者の損害賠償は不法行為によって生じた社会上の損害を補填して社会の「経常なる状態」を「回復」するもので、後者の刑罰は不法行為によって生じた社会上の不安を排除して社会の「経常なる状態」を「維持」するものであると。前者が過去に照準するものであるのに対し、後者は未来に照準するものである。そして両者の責任に対する法制度は、制裁や損害の補填そのものだけを達成する反射的なものではなく、社会の経常の回復・維持のためという目的のもと自覚的に科されるものへ、そしてその目的にそくしてそれぞれの役割が特化し分化されるものとして論じる(牧野 1907: 2-7)。
 牧野にとって、民事、刑事とは、社会の「経常なる状態」に奉仕するものとしてあり、それを回復することと維持することの区分によって両者の責任の差異を見出し、それぞれの制度的意義を論じていた。そしてその両者の責任の基本要件を、民事責任の場合は損害を発生せしめた者にはその損害の大小に応じてその負担を背負うものとして、刑事責任の場合は損害を発生させた危険な者に対して、その危険度の軽重に応じて刑罰を科すものとして位置づける(牧野 1907: 7-8)。この牧野の刑事責任論からもわかるように、この時期の牧野の刑法論には新派の主観主義に基づく思想がその背景となっている。続く次項ではその牧野の犯罪被害者の法的救済論を概観する。

 3. 2 牧野英一の犯罪被害者の法的救済論
 牧野の新派刑法学は、刑事責任(=刑罰の正当化理由)の理論的根拠を社会防衛にもとめるもので、牧野の場合それは民事責任と刑事責任との区分から導出されていた。この考えを背景とし、牧野は明治後期に2本の犯罪被害者の法的救済論に関する論考を出している。ひとつは明治37年(1904年)に書かれたもので、これは新派刑法学のガロファロの犯罪被害者の法的救済論を紹介したものである(牧野 1904)。これが日本の法学の領域でのはじめての犯罪被害者の救済論であり、論文ではなく「雑録」とされた救済論はまだ旧刑法が存続していたときに書かれたものである。もうひとつは明治40年(1907年)、新刑法(=現行刑法)が施行された年に書かれたもので、これは先の論文の要約に新しい論を加えたものである。
 この二つの論文の大体の内容は外国の論の紹介に留まるものであるが、重要なこととして、牧野がこれを論じる際に、先述した自説の民刑の区分を踏まえて犯罪被害者の法的救済を論じていることがある。ここから牧野の犯罪被害者の法的救済に対する立ち位置を読み取ることができる。
 牧野が論じた犯罪被害者の法的救済とは、一言でいうとそれは〈賠償〉である。賠償とは民事の領域に属し、主として私人間の問題として語られるため、刑法の領域に直接関わるものとして論じられるものではない。これは近代法の基礎に民刑分離の原則があるためで、この原則が先の牧野の責任論においても継承されていることは明らかである。しかしながら牧野は、この民刑どちらか一方の責任が完遂されることで満足してはならないとする。なぜなら、そこには「『民事責任ト刑事責任トノ調和』ナル問題」が生じるからだ(牧野 1907: 167)。では、この「民事責任ト刑事責任トノ調和」とはいかなる問題か。
 民刑両方の責任は同一事実である一犯罪により生じるもので、その犯罪に対する社会上の回復はその両者の責任が適当に解決されなければ完全に為されえない。そのため犯罪被害者に対する民事上の賠償問題は刑事政策の領域に属すものである。これに加え、民事上の救済は刑事制裁の目的を達することにあると同時に、刑事上の制裁も同時に民事上の救済を確実なものにすることとしてある。ゆえに犯罪被害者の賠償は「民事責任ト刑事責任トノ調和」の問題としてこれを考える必要があると牧野は主張する(牧野 1907: 177)。社会を「経常なる状態」にするためには、単一の犯罪事実から生じた民刑両方の責任が双方とも果たされなければならず、それには賠償・刑罰ともにそれぞれがそれぞれの役割を果たすことができるように機能しなければならない。ゆえに「民事責任ト刑事責任トノ調和」が問題となる。牧野はこのように民刑の調和を図る立ち位置から犯罪被害者の法的救済を考えていた。
 こうして牧野は具体的な賠償の実践方法を紹介する。その方法とは7つあり、○1賠償を実行するために犯人に特別な労役を科すこと、○2犯人の財産を差し押さて、その執行権を犯罪被害者に認めること、○3罰金や犯罪被害者が放棄した賠償金で、特別金庫をつくりこれを賠償に当てること、○4賠償の事実をもって犯人の恩赦、仮出獄、執行猶予の条件とすること、○5犯人の財産に関して一般の債権者に対し被害者に優先権を認めること、○6検事がその職権によって賠償請求を実行すること、○7フェッリの犯罪被害者に対する賠償を国家の義務とする説で、国家は私人から租税を徴収して私人に公益の保全を約束することで国家にはその賠償を果たす義務を有すとし、国家が被害者の賠償を実行した後に犯人にその被害者の賠償の権利を国家が実行するというもの、これら7つがその具体的な方法として提示されている(牧野 1907: 180)。
 以上が牧野の犯罪被害者の法的救済論であるが、その牧野の立ち位置とは、民刑の区分を踏まえつつその調和を図ろうとするものであった。次項ではこれに、これまで論じてきた新派刑法学の思想的特徴を踏まえて、この時期の犯罪被害者の法的救済について考察していく。

 3. 3 考察
 牧野は、犯罪被害者の賠償を民事の領域に属するものとして論じつつも、かならずしもそこにだけ限られるものではないとする。牧野は民事と刑事の領域を絶対不可分なものとして考えるのではなく、あくまでも社会の「経常なる状態」を目指すべき目標として、民事と刑事の関係のバランスに準拠した地点に立っていた。そこでは民事の賠償も刑法の刑罰もそれぞれがそれぞれの役割を遂行できるように機能させるものであることを主張していた。それは賠償が社会防衛を、刑罰が被害者の被った負担の補填を促進させるものとして語られている。損害賠償の義務を犯人に科すことが、犯罪を鎮圧するうえで大きな効果をもたらすとし、犯罪により生じた損害の補填を刑罰の中に取り入れ、または刑罰の緩和の条件とすることで、権利者としての個人を満足させることができる(牧野 1907: 179)。そして、それらは社会の「経常なる状態」のためになされるものとしてあった。
 このように明治期の犯罪被害者の法的救済論は、社会の「経常なる状態」に準拠して組み立てられていた。民事における賠償も刑事における刑罰も、その社会の「経常なる状態」の回復・維持という役割にあり、これを踏まえて犯罪被害を考えると、それは社会の「経常なる状態」が損失した事態として、さらには犯罪人と被害者の私人間の加害─被害関係も、その社会の経常なる状態の損失状態として捉えられていたことが指摘できる。そして、そのことは、社会を宛名とし宛先とする間に、明確に個人を介在させているものといえよう。こうした考えは新派刑法学の思想的特徴であった。犯罪人により生じた社会上の損害=被害者個人の損害は、その社会と被害者の損害の大小によって評価され、その評価にそくした犯罪人への賠償によって、損害を補填し社会の「経常なる状態」を「回復」する。このように犯罪人が、社会が宛名であり宛先であるその流れの間におり、人が社会を社会に循環させる弁の役割として設定されている。
 本稿でとりあげた牧野の救済論は、犯罪人の処遇に照準してその救済が論じられたもので、救済の対象である犯罪被害者という個人については焦点があてられていない。しかし、犯罪被害者についての直接的な議論は展開されていないが、新派の流れをくむ牧野の救済論は、必然的に以下の犯罪被害者に対する観点を内包する。以下をその仮説として提示しておく。
 明治期の犯罪被害者の法的救済論において、犯罪人が、社会が宛名とし宛先となる間の中におかれていることは先に述べた。では犯罪被害者をこの犯罪人の位置においてみるとどうなるか。社会の「経常なる状態」のために賠償があり、被害者の損害は社会上の損害としてあることは先に述べた。犯罪被害者は社会の「経常なる状態」の回復ために賠償される必要があり、この意味において犯罪被害者個人は犯罪人個人と同じく社会を宛名とし宛先とする流れの間のなかにいる。ここでの犯罪被害者とはいかなる意味を持つのか。
 犯罪被害者の意味は2つ考えられる。ひとつは、犯罪事実の証拠としての意味。犯罪被害者はその存在が社会上の損害の証となる。そのため犯罪行為により犯罪被害者が被った損害を回復することは、社会を「経常なる状態」に回復することを意味する。これは換言すれば、被害者の損害を回復していないことが、犯罪により社会が「経常なる状態」となっていないことの証となり、社会が犯罪を野放しにしている状況の、ひいては法が社会を防衛・維持していないことの証しともなることを意味する。ここで牧野の民事と刑事の相互補完的な制度論に接合する。犯罪被害者の法的救済は刑事の制裁機能を用いてでも、牧野の言を借りれば、刑罰の制裁機能を用いることで犯罪被害者の損害回復を図り、これにより民事の目的である社会の「経常なる状態」の回復を達成し、なおかつ刑事司法の目的である社会防衛・維持をも同時に達成する。こうした民刑の調和という牧野の観点において犯罪被害者の法的救済とは、社会の「経常なる状態」の回復から、社会防衛・維持に連なる問題としても位置づけられることになる。このように犯罪被害者の法的救済は、民事の領域に留まるものではなく、刑罰の機能で補ってまでなされるべき刑事政策の問題となりうる。そして、ここでの犯罪被害者とは、法的に救済されることによりその存在が消去されることによって、社会を「経常なる状態」へと運ぶ弁として位置づけることができるだろう。犯罪被害者の損害回復が、社会の「経常なる状態」を図る一つの指標となっている。
 ふたつめ、犯罪被害者が犯罪者予備軍としての意味を持つこと。犯罪被害者の被った損害を放置する社会は、犯罪被害者にとって不当な社会であり、それは必要のない社会である。そのため犯罪被害者は自暴自棄になり、社会に害をもたらす存在になりうる。この点において新派の教条である社会防衛・維持の監理対象として犯罪被害者がおり、犯罪被害者の法的救済がある種の犯罪抑止の意味を持つことになる。それは、つまり、犯罪被害者を法的に救済することにより、犯罪被害者が犯罪者に転化することを予防するというもの、これゆえに犯罪被害者の法的救済とは、社会防衛の点からも重要な問題として位置づけられる。こうして犯罪被害者とは犯罪者予備軍となりうるからこそ、社会を「経常なる状態」を目的とした法的救済の対象となりうる。
 さて、本稿の「はじめに」で提示した問いには、以下をその答えとして提示しておく。当時の救済論が何を論拠とし何を救済しようとしていたのか、それは社会の「経常なる状態」の回復・維持を論拠とし、その救済の対象は社会としての被害者個人であった。これが本稿の結論である。

おわりに
 本稿では旧刑法の思想基盤であった折衷主義に対する新派刑法学の批判から、新派刑法学の思想的特徴を抽出し、そこから明治期の犯罪被害者の法的救済について考察した。本稿では、まず旧派の折衷主義と、それによる旧刑法の影響について概説した(1節)。そして、この旧派=旧刑法に対し、新派刑法学がいかなる点に批判の軸をさだめてきたのかを考察した。そこで明らかとなったこととして、新派刑法学の折衷主義といった旧派の批判の軸には、旧派が個人の自由意思の尊重を基本に据えて刑法学理を紡ぐことにあった。そしてその批判から紡ぎだされた新派刑法学の学理は、社会を宛名とし宛先とする流れを循環させる弁として犯罪人個人を置いており、それが新派刑法学の思想的特徴としてあることを述べた(2節)。この思想的特徴を踏まえて、明治期の犯罪被害者の法的救済論を論じた新派刑法学者である牧野英一の刑法論を概観し、その犯罪被害者の法的救済論を考察した。その結果、この時期の犯罪被害者の法的救済とは民事と刑事の調和による損害賠償のことであり、それは社会の「経常なる状態」の回復するためになされるもので、ここにおいてこの時期の犯罪被害者の法的救済論は、社会を論拠とし、また目的としたものであったことが明らかとなった(3節)。
 さて最後に、明治期において犯罪被害者の法的救済と刑事の領域との関係について指摘しておく。「はじめに」において、現在における犯罪被害者の法的救済と刑法の関係を「接合」と表記した。その理由として、現在において刑法の領域の主題のひとつとして犯罪被害者の法的救済が位置づけられ、犯罪被害者の回復に資するような形で刑罰や刑事手続の過程が整備されていることがある。このように刑事の領域に内在して犯罪被害者の救済が扱われており、これにより「接合」と表記した。
 これに対し、明治期は「接合」ではなく、「調和」として考えることができる。なぜなら、この時期において犯罪被害者の法的救済は、刑事の領域に内在して扱われておらず、基本的に民事の域に限定されているからだ。たしかにその犯罪被害者の法的救済の問題性については、社会の「経常なる状態」を指標としていたという点で民と刑は同じであり、社会の防衛・維持に連なるものとして犯罪被害者の回復、つまり〈賠償〉という法的救済が論じられていた。この点は、前節において、民事の域を超え出て〈賠償〉が刑事政策の問題となりうると論じている。
 しかし、牧野が「民刑の調和」と謳ったことが示すように、民と刑とはそれぞれに独立した領域として区分され、あくまでも民事の領域としての〈賠償〉に資するためのものとして刑事の領域を置いていたという点において、言い換えれば、刑事の領域がそれ自体のなかで犯罪被害者の法的救済を達成しようとしない点において、犯罪被害者の法的救済は刑事の外部のものとして位置づけられていた。あくまで互いの領域がそれぞれ独自に有する機能を相手の目的に資するかたちで図りあいながら運用し、社会の「経常なる状態」という共通指標をめざす。ここには社会の「経常なる状態」を共通指標とした互いに独立した機能と目的を調和しあう関係がある。つまり、明治期において犯罪被害者の法的救済と刑事の領域の関係は「接合」ではなく、あくまで外部の領域(=民事の領域)との「調和」、それであったのである。
 本稿は、日本の犯罪被害者の法的救済の始点として、明治期の犯罪被害者の法的救済論をとりあげた。今後は、この始点をへて次なる時点を描き、時点と時点がいつしか線となるように歴史を描いていくことになる。1970年代の犯罪被害者の法的救済論と、本稿で論じた明治期の救済論がいかなる形で結ばれるのか、それはまた稿を重ねて論じていきたい。

[注]
(1)「仮刑律」は裁判の準則であり、公布されたものではない。その内容は大宝養老の律によりながら名律、清律を参酌し、さらに徳川幕府の御定書を加味したもので、名例、賊盗、闘殴、人命、訴訟、捕亡、犯姦、受贓、詐偽、断獄、婚姻、雑訟の12律からなっている。その定める刑罰は、笞刑、徒刑、流刑、死刑の4種であり、さらにそれが数等に分かれ、その大部分は、贖銅を認めた。死刑は、刎(身首処を異にす)、斬(袈裟斬)を主とし、磔(君父に対する弑逆罪に対して用いられる)、焚(放火犯に対す)を併せ用いたが、後になって、絞、梟、磔に改められた。そのほかには不応為罪が認められ、また武士、僧尼の閠刑として、自尽、禁錮、謹慎、貶官、奪禄、追院、逼塞、差扣(控)が定められている。
(2)仮刑律と同じ形式のものであるが、この新律綱領は有司に向って領布された法典である。仮刑律に比べると、職制、罵詈の二律が加わり、刑罰は笞、杖、徒、流、死の5刑、死刑は絞、斬、梟の3つとなり全体的に寛容になった。また身分刑としての閠刑は、謹慎、閉門、禁錮、辺戌(北海道の辺境守備)、自裁(切腹)の5つとなっている。また不応為罪のほかに断罪無正条の規定を置き、律例に正条無き非行につき他律の類推(援引比附)を赦し、刑法の不遡及も認めないなど、近代刑法の原則である罪刑法定主義を認めていない。
(3)改定律例、逐条体をとった点は西欧的法形式に似ているが、その他の内容形式は依然として従来のままだった。ただ五刑制が放棄され、笞、杖、徒、流の各刑罰はみな懲役刑となり、結局、刑罰体系は懲役と死刑及び財産刑(収贖)の三つになった。さらに死刑の執行方法も、原則として絞首刑の一種となった(梟首、斬首も場合により認められる)。また、その法定刑が新律よりさらに軽くなりっており、死刑が減少し、絞首刑が終身懲役に改められたりもしている。もちろん、罪刑法定主義ではない。
(4)その詳細については松井(1982)を参照されたい。
(5)その詳細については岩谷(2001)を参照されたい。
(6)これに対置する主義として、「客観主義」=「事実主義」がある。「客観主義」とは、犯罪者がなした犯罪行為の事実、引いては犯罪行為によって生じた社会的損害の大小によって刑事責任の大小を図る主義である。

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