死刑執行方法の変遷と物理的/感情的距離の関係

第2部 論文集

死刑執行方法の変遷と物理的/感情的距離の関係
櫻井 悟史(立命館大学大学院先端総合学術研究科博士課程・日本学術振興会特別研究員)

はじめに
 2009年の内閣府の調べによると、日本国民の85.6%が場合によっては死刑もやむを得ないと答えており、どんな場合でも死刑は廃止すべきと答えたのは5.7%にすぎなかった(1)。森巣博は、日本が死刑を存置している理由が8割以上の世論にあるならば、その世論をなくせばよいとして、そのための方法をウェブサイト「死刑廃止info! アムネスティ・インターナショナル日本 死刑廃止ネットワークセンター」にて提示している(2)。森巣によれば、死刑は「国民」による殺人であることを世に知らしめればなくなる。そのためには、まず刑務官に死刑執行を担わせることをやめ、選挙人名簿から無作為に100人ほど死刑執行官を選出する方法を導入する。次に、絞首刑という「一見『汚くない』殺人方法」も廃止し、千枚通し、あるいは文化包丁でもって死刑執行に当たらせることとする。そのうえで、森巣はこう締めくくる。「そして、じっくり考えよう。『文化包丁は文化的か?』と」。
 森巣の提案について、鵜飼哲は「いいアイディアだと思いますね」と述べ、森達也は「もし執行人についてこの夢想が実現すれば、あっという間に死刑を止めようということになるでしょうね」と述べている(森・鵜飼 2004: 41)。だが、なぜ森巣の提案が死刑廃止へとつながるのかについては説明していない。森巣自身もどうして無作為抽出のような形で死刑執行人を選ぶことが、そして文化包丁で死刑執行を行なうことが死刑廃止につながるかについては明示していない。
 意図するところは推測できる。死刑執行は犯罪としての殺人ではない。しかし、犯罪でないとしても人を殺すことへの忌避感があるだろうし、文化包丁による死刑と、文化包丁による犯罪としての殺人にいかなる違いがあるのか、両者はそれほど違わないのではないか、というところに気づけば、死刑は廃止した方がよいとなるだろう。実際、死刑執行後に冤罪が発覚したイギリスのティモシー・エヴァンズ事件のようなケースでは(3)、死刑と犯罪としての殺人の境界は極めて曖昧とならざるを得ない。そのような人を殺す行為を誰かに任せるのではなく、自分が担うと考えたらどうか。それはやはり何か間違ったことをしているのではないか。そこに賭けた提案なのだろう。だが、森巣の提案の含意は、そのような賭けに止まるものではない。森巣の提案が日本の死刑執行についての議論にどのような波紋を投げかけるのか。本稿では、そのことについての検討を行なう。
 森巣の提案の意味を検討するうえで重要なのは、死刑執行人と死刑執行方法への注目である。両者はそれぞれ無作為抽出案と「文化包丁による執行案」に対応している。死刑執行人については、櫻井(2011)ですでに検討がなされている。そこで明らかとなったのは、死刑執行を担うのが刑務官であることは自明でないこと、死刑執行人の苦悩とは人を殺すことへの真っ当な反応であり、そのことについての議論が全くなされていないことであった。事実として刑務官が死刑執行を担うことが自明でない以上、そして裁判員制度がある以上、無作為抽出案は荒唐無稽な案とはいえない。つまり、無作為抽出案は、自らを死刑執行人の立場に置いてみる想像力を喚起する案として非常に有効であるといえる。
 では、「文化包丁による執行案」はいかなる意味をもつのか。森巣は絞首刑を「一見『汚くない』殺人方法」としている。ここでいう「汚くない」とは、手を汚さないという意味であると思われる。絞首刑と文化包丁による死刑の決定的な違いは、ボタンがいくつか並んでいて誰が押したか分からなくする装置を導入している前者と違い、文化包丁は自分が殺したことがはっきりわかる点である(4)。だが、それだけではなく、絞首刑よりも文化包丁のほうがより人を殺したと感じる、ということがあるのではないか。逆からいえば、絞首刑の方がより人を殺した実感が希薄になるのではないか。たとえば、絞首刑は手で首を絞めるわけではなく、床を開いて二階から一階に落とすだけである。ひるがえって文化包丁は自分の手で包丁を死刑囚の肉に突き立てねばならず、返り血も浴びねばならない。つまり、文化包丁の方が、死刑執行人の身体に届く情報の量が多い。さらに、その情報は犯罪としての殺人という「してはならないとされていること」と密接に関わっている。そうすると、次のような問いが立つ。なぜ、死刑執行は文化包丁ではなく絞首刑で行なわれているのか。これは斬刑から絞首刑への移行、またアメリカ合衆国や中国で見られる注射刑への移行と関係がある。この問いに答えるためには死刑執行方法の変遷を詳細に見る必要がある。
 日本の死刑執行方法の変遷を辿った先行研究はほとんどない。1950年代から60年代にかけて、向江璋悦らによって絞首刑違憲訴訟が展開されたが、最終的には、1961年7月19日に、弁護士の天野敬一が展開していた絞首刑違憲訴訟に判決(昭和32年(あ)第2247号、同36年7月19日大法廷判決)が下され、絞首刑による死刑執行方法を指示した1873年2月20日の太政官布告65号が現在もまだ効力を有していることが確認された。すなわち、日本の死刑執行方法は旧刑法が施行された1882年以来、「同じ」絞首刑なのである。死刑執行方法が変化していないのだから、死刑執行方法の変遷を辿る歴史記述が少ないのは当然のことといえる。だが、同じ絞首刑であるとはいえ、細部は時代を経るごとに変化していっている。先述したボタンをいくつか並べる方式などは近年のもので、それについて言及した先行研究はある(澤野 2004)。しかし、その変化の意味については検討されてこなかった。また、櫻井(2011)では、斬刑から絞首刑の移行の意味について触れてはいるが、甚だ不十分なものでしかない。
 そこで、本稿では、第1節でアメリカ合衆国を例に、通常、死刑執行方法の変化が持つとされている意味について、「人道化」、「文明化」というキーワードを手がかりに確認し、それが日本の死刑執行方法の変化の意味とは違っていることを明らかにする。第2節では文化包丁による死刑と絞首刑の違いを鮮明にするため、Grossmanが展開する「距離」(distance)という概念を参照する。この「距離」に注目することで、日本の細かな死刑執行方法の変遷をとらえることが可能となる。第3節では日本の死刑執行方法の変遷を装置の3つの変化──○1地上絞架式、○2地下絞下式、○3複数ボタン式地下絞架式──に注目して詳細に記述する。第4節ではGrossmanの「距離」概念を用いて、それぞれの変化がどのような意味を持っているのかを検討する。そして、「おわりに」では、死刑執行と「距離」の関係についての今後の課題を確認し、本稿を閉じる。

1.死刑執行方法の「人道化」──受刑者の物理的苦痛の緩和
 死刑執行方法が問題となるとき、死刑執行の「人道化」、あるいは「文明化」といったことが焦点となる。たとえば、中国では「司法の人道化」と「司法の文明化」が並列されている(王 2005: 74)。連邦最高裁(U.S. Supreme Court)の「残酷で異常な刑罰」の定義においても、残酷さとは、たんに命を奪う以上の、非人道的(inhuman)で野蛮(barbarous)な何かであるとしている(5)。つまり、残酷でない刑罰とは、人道的(humane)で文明的(civilized)なものといえ、ここでもやはり「人道化」と「文明化」が並列されている。
 「文明化」という概念を扱い、ヨーロッパにおける数世紀にわたる精神的過程を記述した社会学者Norbert Eliasは、「歴史的事実の絶えざる観察」(Elias 1969=1977: 58)を通じて、「文明化」とはなにか、「文明化」はどのようにして起こったのかという問題に取り組んだ。ここではそれに倣って、「文明化」または「人道化」が焦点となるアメリカ合衆国や中国の死刑執行方法の具体的な歴史的事実から、「文明化」または「人道化」に込められている意味を明らかにしたい。
 日本では130年以上、絞首刑が用いられ続けているが、アメリカ合衆国や中国では、さまざまな死刑執行方法が用いられている。特にアメリカ合衆国には合衆国憲法第8修正条項「残酷かつ異常な刑罰」の禁止が1791年からあったため、死刑執行方法についての議論が盛んになされた。アメリカ合衆国の死刑についての態度は州によって異なっているが、今では絞首刑(hanging)を用いる州はほとんどない。ニューハンプシャー州とワシントン州の2州で残されているのみである(6)。それらの州も致死薬注射(lethal injection)を主な方法として採用しているのが現状といえる。
 致死薬注射の詳細については、オクラホマ州で実際に注射刑に立ち会った布施勇如が詳しく記している。布施(2008)によれば、使用する薬物はチオペンタルナトリウム(Sodium Thiopental)、臭化ベクロニウム(Vecuronium Bromide)、塩化カリウム(Potassium Chloride)の3種で、それぞれ意識不明の状態にする、呼吸を止める、心臓を止めるといった効果がある。死刑囚の腕には静脈注射が2本、両腕に挿入され、手のひらサイズの注射器で3種の薬物を順番に交互に注入する。各薬物を注入するたびに塩水が注入される。執行官は3名で、それぞれ1種類ずつ薬物を注入することとなっている(布施 2008: 170)。チオペンタルナトリウムは入手困難なことから、動物の安楽死に使われるペントバルビタール(Pentobarbital)が使用されることもある。2011年7月21日にはジョージア州で行なわれた死刑執行の様子が20年ぶりにビデオ撮影されたが(7)、それはペントバルビタールの残虐性の検証のためであった。なお、中国における注射刑はアメリカ合衆国のそれとは違って、医療研究機関が死刑執行用に開発した毒性の薬を注射することとなっている(王 2005: 74)。
 アメリカ合衆国で「残酷かつ異常な刑罰」にあたるか否かが争われるとき、大きな争点となるのは死刑囚が肉体的苦痛なく死ねるか否かである。それは電気椅子による死刑(electrocution)が合憲か否かが争われたケムラー裁判において、拷問(torture)や時間を要する死(lingering death)がともなう刑罰は残酷な刑罰であるとされたことに由来する(8)。つまり、死刑執行に時間がかかればかかるほど、死刑囚が感受する肉体的苦痛は増大し、残酷な刑罰となる。
 たとえば、2009年9月15日にオハイオ州で注射刑が失敗する事態が起こり、そこから死刑執行方法を巡る議論が沸騰したという報道があった(9)。同報道によれば、2時間かかっても受刑者の静脈が見つからず、18回も針を刺したのちに断念し、結局死刑執行は延期となったそうだ。2006年12月にフロリダ州で起こった死刑執行の失敗例でも、注射針が静脈ではなく筋肉に刺された結果、34分にわたって受刑者が苦しんだ(10)。通常の注射刑が2分30秒ほどで終わることに鑑みれば(布施 2008: 6)、かなり長時間の執行であったことがわかる。このことから、静脈でない箇所に注射すると物理的苦痛が発生することが知られていたのだろう。死刑情報センター(Death Penalty Information Center、DPIC)事務局長のRichard Dieterによれば(11)、米医師会(American Medical Association、AMA)の方針に従い(12)、医師による薬物注射は行なわれておらず、そのことも注射刑失敗の背景としてあるという。
 アメリカ合衆国では死刑執行の報道が許されている。そのため、死刑執行の失敗についても多く知られており、たとえばBorg & Radelet(2004=2009: 163)によれば22件に1件は失敗しているという。そこから死刑執行についての議論が沸騰することがある。失敗は死刑執行に不要な肉体的苦痛=物理的苦痛が生じていることを示しているからである。残酷な刑罰か否かが肉体的苦痛の有無によって判断されるのは、先述した通りである。つまり、アメリカ合衆国における死刑執行の「人道化」が意味するのは、受刑者の物理的苦痛の緩和といえる。無論、それは単純に受刑者を思っての「人道化」ではない。Moran(2002=2004)が的確に指摘するように、死刑囚の苦痛以上に、死刑執行する側、あるいは死刑執行に立ち会う側の精神的苦痛を軽減するための「人道化」でもある。すなわち、「人道的な刑罰という概念は、本来の暴力的性質を隠すことができる刑罰を意味するようになっている」(Moran 2002=2004: 332)のである。
 死刑執行方法の「人道化」について、森達也は「安楽に殺すこと、長引かせないことが人道的? 僕にはわからない。そこまで人権や苦痛に配慮しながら殺すことの意味が」(森 2008: 221)と述べ、伊藤孝夫もまた「絞首刑の導入が斬首刑より人道的だったのだろうか、という問いを立ててみると、筆者個人としてはほとんど途方に暮れる結果に陥る」(伊藤 2008: 296)と述べている。死刑執行方法の「人道化」自体に疑義を呈するのは、おそらく間違っていない。死刑執行方法をどのように変更しようが、人を殺すことそれ自体が〈残酷〉だといえるからである。だが、それゆえ死刑執行方法に注目することは無意味である、あるいは「手段の議論は目くらましにすぎない」(Moran 2002=2004: 332)と結論するのは、日本においては早計と言わざるをえない。日本では、この「目くらましにすぎない」議論すらほとんどなされていないこと、それにもかかわらず死刑執行方法の細部が変化していっていること、という現状があるからだ。これらが何を意味するのか。本稿ではそれを検討する。

2.殺人と物理的/感情的距離
 日本の死刑執行方法の変遷は、「人道化」や「文明化」といった概念ではとらえきれない。なぜなら、1節で検討したように、「人道化」や「文明化」は、死刑囚の物理的苦痛の軽減と大きく関係する概念であるが、日本では旧刑法施行以来、死刑囚が被る物理的苦痛に変化を確認することはできないからである。絞首刑違憲訴訟の結論をみればわかるとおり、太政官布告65号に記された地上絞架式であろうと、地下絞架式であろうと、床を開いて落とし、死刑囚を吊るすことには変わりない。つまり、日本の死刑執行方法はまったくアメリカ合衆国的な意味での「人道化」も「文明化」もしていないのである。そうすると、「人道化」や「文明化」概念を用いて日本の死刑執行方法を論じると、たちまち「目くらましにすぎない」議論へと陥ってしまう。
 そこで日本の死刑執行方法の変遷の意味をとらえるために、物理的距離(Physical Distance)と感情的距離(Emotional Distance)の概念を導入したい。戦争における殺人を心理学から分析したGrossmanによれば、殺人者と被殺人者の感情的・物理的距離が近いほど殺人はむずかしくなり、トラウマも大きくなる(Grossman 1995=2004: 180)(13)。ここでGrossmanの前提について確認しておきたい。Grossmanはアメリカ合衆国陸軍に23年間所属し、ウエスト・ポイント陸軍士官学校では心理学・軍事社会学の教授を、アーカンソー州立大学では軍事学教授を歴任した人物である。98年に退役後、「殺人学」(Killology)についての研究機関を立ち上げ、現在に至っている。Grossmanは、合衆国陸軍所属の歴史学者Marshallが第二次世界大戦時に行なった調査研究を引いて、当時の米軍兵士のうち、発砲したものは15%ないし20%しかいなかった事実に注目する(Grossman 1995=2004: 43-44)。すなわち、Grossmanの前提には、基本的に人間は人間を殺すことが難しいということが置かれている。同時に、環境を整えることによって、人間は人間を殺すことができるようになるとも考えている(14)。それらのことを前提としたうえで、以下の論が組み立てられていることに留意されたい。
 まず、物理的距離について検討する。物理的距離とは、殺す側と殺される側との間にある空間的な距離のことである。物理的距離の一方の極みには爆撃、砲撃があり、これがもっとも殺人に対する抵抗が小さい。相手を視認できないので、人を殺しているのではないと思いこむことが容易だからである。もう一方の極みには素手による殺人があり、これがもっとも殺人に対する抵抗が大きい(15)。自分が殺したことをはっきり認識できるからである。Grossman(1995=2004: 181)にある物理的距離の分類をまとめれば、以下のようになる。

 最大距離(爆撃、砲撃)<長距離(狙撃、対戦車ミサイルなど)<中距離(ライフル)<手榴弾<近距離(拳銃)<銃剣<ナイフ<素手

 ここで注目したいのは、科学技術を媒介とすることで、殺す側と殺される側との間に物理的・空間的距離を生み、それによって殺人への抵抗を軽減している点である。
 さらに押えておきたいのは、相手の顔が見えるか否かが殺人への抵抗度合いに大きく影響している点である。Grossmanによれば、敵に背中を向けると殺される確率が高まる。これには2つの要因が考えられ、そのうちの1つは顔が見えないことであるという。顔が見えなくなると、物理的距離の近接の度合いは無効化されてしまうのである。「物理的距離の尺度とは、突き詰めて言えば、犠牲者の顔がどのていどはっきり見えるかということでしかないのかもしれない」(Grossman 1995=2004: 224)と、Grossmanは指摘する。このことは、日本の死刑執行方法の変遷を見ていくうえで重要なポイントとなる。
 次に感情的距離について。感情的距離には、文化的距離(Cultural Distance)、倫理的距離(Moral Distance)、社会的距離(Social Distance)、機械的距離(Mechanical Distance)がある。文化的距離とは、人種的・民族的な違いなどによる距離のことで、犠牲者の人間性を否定するのに有効となる。たとえば、外見の違いや、国籍・人種による蔑称の使用などが挙げられる。この文化的距離を用いた殺人の例としては、ナチス・ドイツによるホロコーストが挙げられる(Grossman 1995=2004: 270)。倫理的距離とは、みずからの倫理的優越と復讐/制裁の正当性を固く信じることによって生じる距離のことである。ここでの正当性には2つの要素があり、1つは敵を有罪と決めつけ、非難すること、もう1つは自国の大義を正義と主張することである(Grossman 1995=2004: 274)。社会的距離とは、社会的な階層化によって生じる距離のことである。たとえば、イギリスの軍隊では、将校、下士官、兵士の居住区などは完全に分けられているし、将校が下士官を豚呼ばわりすることも珍しくない。ある上位の階級の者が、下位の階級の者を非人間的に扱うことによって、戦場で死ねと命じることが容易になるからである(Grossman 1995=2004: 279-280)。機械的距離とは、機械の介在によって、殺す人間を見なくてすむことから生じる距離のことである。物理的距離とは違い、たとえば、暗視装置を使うと人間は緑のしみにしか見えなくなることを利用し、近接戦闘を可能とするようなことを指す(Grossman 1995=2004: 282)。
 以上がGrossmanによる物理的距離、感情的距離の概念だが、当然のことながら、戦争における殺人を分析する概念を死刑にそのまま適用することはできない。戦争と死刑では殺人の条件が異なっているからである。まず、死刑の場合、機械的距離については考慮する必要はないだろう。現在までのところ、死刑の立会人が熱線映像装置のような、人体の熱だけを見る装置を使用しているという例は存在していないからだ。次に、戦争にはない感情的距離が死刑にはある。戦争ではたいてい相手の名前はわからない。顔を見る必要はないし、殺す相手と会話する必要もない。つまり、個人として認識する必要がないのである。それに、殺さなくともよい、殺しそこなってもよいという条件もある。死刑はそうはいかない。相手の名前はしっかり確認する必要がある。顔は、死刑執行の瞬間は見なくてもよいかもしれないが、死刑執行の準備をしている間は見なくてはならない。刑を言い渡したりしなければならないので、会話もしなければならない。日本の刑務官は、死刑執行前にコミュニケーションをとる場合もあるだろう。つまり、死刑には友好的距離とでもいうべき感情的距離もまた存在する。それに殺さなくともよい、殺しそこなってもよいということは日本の死刑にはない。刑務官たちに死刑執行を拒否する権利はないし、絞首刑が失敗したら死刑を免れるなどという話もない。失敗したら、再度執行するのみである。よって、死刑では戦争よりも紛れがない殺人を要求される。そのため、相手が死んだかどうかもわからない爆撃のような方法をとるわけにはいかず、ある程度の物理的距離の近さが常に求められるのである。よって、物理的距離の近さについては、道具による大雑把な分類ではなく、より詳細な分析を展開する必要がある。
 以上を踏まえたうえで、日本の死刑執行方法を分析していくこととする。

3.日本の死刑執行方法の変遷
 日本の死刑執行方法は絞首刑であるが、これは1882年に施行された旧刑法以来かわっていない。また、現在、絞首刑が合法であることを根拠づけているのは、1873年の太政官布告65号であるとされている。よって、約130年間、日本の死刑執行方法は変わっていないといえるが、細かい変更はなされている。以下では、○1地上絞架式、○2地下絞架式、○3複数ボタン式地下絞架式の3つの死刑執行方法に注目し、事実だけを詳細にみる。その後、4節で距離概念を用いた分析を行なう。

 3. 1 地上絞架式
 太政官布告65号にある図によれば、明治期の絞首刑は地上絞架式と呼ばれる方法で執行されていたことがわかる。器械の詳しい使用法が記されている岡山県訓令監第6号(死刑執行手続)と旧刑法附則によれば、死刑執行方法は以下のようなものである。
 死刑は監獄内の一画で、密行化して行なわれる。密行化とはいっても、現在のような完全な密行化ではなく、官吏が立会を認めた者は入ることができた。死刑執行は朝10時前に行なわれる。これはその時間帯が最も近隣住民を刺激しない時間だからであり、密行化をはかる措置の一つである。
 死刑囚を連れて刑場の外に着くと、まず死刑囚の目を布で被う。その後、場内に入るとすぐ刑場の扉が閉められ、臨検官(検察官)の指揮のもと、看守・押丁二人に手伝わせて死刑囚を絞架に昇らせ(16)、一人の看守がその下で床板を開けるためのレバー(機車柄)を引く準備をする。立会人がどこにいるかは、岡山県訓令監第6号や旧刑法附則からではわからないが、『図鑑 日本の監獄史』に収録されている図によれば(重松 1985: 187)、絞架の下、死刑囚が眼の前に落ちてくる位置に座っているのがわかる。絞架に昇った看守・押丁は、まず死刑囚の両足を縛り、死刑囚を踏板の上に直立させる。次に絞縄を首に回し、咽喉に当てる。そして、縄を縮め鉄環で固定すると、死刑の準備は完了となる。準備が終わると、絞架上の看守が、下で待機している看守に手を挙げて合図する。その合図を受け、絞架下の看守はレバーを引き、踏み板を開く。すると、死刑囚は下に落ち、首を吊った形となる。受刑者の身体には、顔面蒼白、筋肉弛緩による糞尿の垂れ流しなどの変化が起こり、やがて死に至る

 3. 2 地下絞架式
 正確にいつから導入されたか不明だが、地上絞架式は地下絞架式へと変更された。『死刑廃止論の研究』を著した向江璋悦に案内してもらって実際の死刑執行場を見学し、実物通りに作り上げた死刑執行場を用いて撮影された大島渚の映画「絞死刑」から(17)、地下絞架式の絞首の詳細を見たい。
 地上絞架式と地下絞架式の間に基本的な構造の違いはない。ただ、地上絞架式と違い、地下絞架式は受刑者を絞架の上に昇らせる必要がない。地下絞架式の場合にも階段は昇るが、昇ったあとに死刑執行の言い渡しをする、遺書を書く、教誨師に言葉をもらう、最後の食べ物を食べるなどした後、その隣の部屋で死刑執行となる。なお、立会人たちの位置は、「絞死刑」でみる限り、死刑囚が落ちる地下へと続く階段の上に座ることとなっている。死刑囚が落下すると、階段の奥にその姿が見えるという形である。
 地上絞架式では絞架の下にいた死刑執行人は、地下絞架式では絞架の上におり、ボタンあるいはレバーで踏板を開く(ボタンは一つ)。大阪拘置所の刑場の写真によれば(村野 1990: 114-116)、ボタンはなく、死刑囚が立つ床から少し離れたところにレバーが1つあるのみである。このように、刑場によって形に違いはあった。なお、元刑務所長玉井策郎の証言によれば、地下絞架式による7人の死刑囚の平均絶命時間は13分58秒だった(前坂・橋本 1991:62)。

 3.3 複数ボタン式地下絞架式
 地下絞架式から時代をさらに経ると、複数の執行ボタンを備えた地下絞架式が登場する。複数の執行ボタンのうち、踏板が開くボタンは一つしかない。執行ボタンが増えることは、死刑執行を担う者が増えることを意味している。
 複数のボタンは、坂本敏夫の『死刑のすべて』によれば階段の途中に(坂本 2006: 73-82)、2010年8月27日に公開された刑場の映像によれば別室に用意されている。これもやはり、刑場によって違うと考えるのが妥当であるが、2つの刑場のボタンの位置は、共に死刑囚がいる部屋とは隔たっている点で共通している。立会人の位置は、地下絞架式における位置とそれほど変わりない(18)。

4.死刑執行方法と距離
 3節でみた死刑執行方法の変遷を、2節で検討した距離概念を用いて解釈したい。

 4. 1 斬首刑と絞首刑の距離
 最初に、絞首刑における距離と絞首刑と同時に存在したこともあった斬首刑における距離の比較をしてみよう。両者の共通点は、受刑者の眼を隠す点である。殺す相手の眼を見なくてすむことは、相手の人間性を否定することを容易にし、ある程度の物理的距離の尺度を無効化する。また、立会人と受刑者の物理的距離もほとんど変わらない点も共通している。両者は同平面上にいるし、立会人と受刑者を遮る物も何もない。
 次に相違点。斬首刑は死刑執行人が刀を受刑者の肉体と能動的に接触させなければならないナイフ距離(Knife Range)にいる。ただし、ナイフと違い、首を切り落とす斬首は、刀と受刑者の接触が一時的なものでしかない。そのため、噴き出す温かい血の感触や最後の息が漏れる音などを感受することはあるだろうが、受刑者の震えや痙攣までは感受しないかもしれない(Grossman 1995=2004: 226)。震えや痙攣を感受するとすれば、それは死刑執行の介添人、斬首刑の場合は受刑者を押えておく者である。それに比べて、地上絞架式による絞首刑は機車柄を引いて踏板を開放するだけで、受刑者と物理的に何かを接触させることはない。絞首刑執行後の受刑者との位置を考えるならば、拳銃による近距離(Close Range)の殺人に近いように思われる。介添人(絞架に登らせた看守/押丁)もまた受刑者の震えや痙攣を感受する必要はない。ただし、絞首刑の場合、絞架の下に落ちてきた受刑者を、暴れないように支える者が必要となる。絞首による死刑は絶命までに10分以上の時間を要するため、支える者は受刑者の死の際も受刑者に触れているし、もしかしたら自分が首を絞めていると感じることがあるかもしれない。そうであるならば、これは素手による格闘距離(Hand-to-Hand-Combat Range)での殺人となり、その抵抗感は斬首刑以上であることとなる。なお、元刑務官の坂本敏夫がアドバイザーを務めた映画「休暇」では、この支え役がもっとも嫌な仕事とされ、支え役を担った者には1週間の休暇が与えられるとされていた。

 4. 2 地上絞架式と地下絞架式の距離
 地上絞架式と地下絞架式の決定的な違いは、踏板を開くレバーを操作する死刑執行人が絞架の下にいるか、上にいるかという点である。地上絞架式の場合、レバーを操作する者は絞架の下におり、受刑者の身体が目の前に落下してくることとなる。ひるがえって、地下絞架式の場合、レバーを操作する者は絞架の上にいるため、死刑執行後、受刑者の身体は眼の前から消滅する。顔面蒼白や、筋肉弛緩による糞尿の垂れ流しのことを考えると、絞首刑の場合、死刑執行後の受刑者との物理的距離が開いていればいるほど、人間を殺したことを否定しやすくなると思われる。
 また、死刑の介添人は、階段を昇らなくてよい分、受刑者を連れていくまでの物理的距離が短く、かつ平坦になっている。それによって、介添人が受刑者の震えなどを感受する時間が軽減されており、介添人の労苦は地上絞架式に比べ、軽減されているといえるだろう。
 立会人たちは、ガラスで仕切った、絞架の上と下が見渡せる別室から死刑執行を見学する。ガラス一枚隔てたことで、地上絞架式より物理的な距離が生まれるため、地下絞架式の方が立会人の殺人への抵抗感も軽減されているといえるだろう。もっとも、地下絞架式を有するすべての刑場が、ガラスで死刑執行室と立会人室を区切っていたわけではないことには留意されたい。
 
 4. 3 地下絞架式と複数ボタン式地下絞架式の距離
 複数ボタン式地下絞架式の特徴は、死刑執行のボタンが複数あり、そのうちの1つが踏板を開く仕組みとなっている点である。従来、この仕組みによって、誰が開いたか分からなくなるため、死刑執行人の精神的苦痛は軽減されるとされてきた。しかし、澤野雅樹が指摘するように、「私が押すのが当然であるからこそ私と同様に『誰もが押す』」(澤野 2004: 141)のであり、複数のボタンは死刑執行人の数を増やし、かつその役割から逃れがたくした。だが、さらにいえば、ボタンを押す人間が増えたうえ、匿名性が増したことは、Grossmanのいう集団免責(Group Absolution)を生み出したといえるかもしれない(Grossman 1995=2004: 253)。つまり、死刑執行人たる自分ではなく、死刑執行人という集団が死刑執行を担うと思うことで、殺人への抵抗感が減退している可能性がある。このことをGrossmanは距離の概念と絡めて説明していないが、あえて説明すると、ある集団に自らを埋没させることによって、個人の責任を分散させると同時に、自らの行為の正当性を強める──みんながしているのだから、自分もしてよい──ことで生じる倫理的距離、死刑執行人ゆえに死刑囚を殺さなければならないとすることで生じる文化的距離によって、死刑執行における集団免責が生み出されているといえるのではないか。
 複数ボタン式のさらに注目すべき点は、ボタンが受刑者のいる部屋とは別の部屋に設置されていることだ。ここからわかるのは、ボタンを押す際、死刑執行人は受刑者の姿を見ることはないし、別室であることから、物理的距離も、旧地下絞架式より大きくなっていることである。そのため、死刑執行人の殺人への抵抗感は減退したといってよい。
 また、近年の被害者遺族の感情に寄り添った死刑存置論は、死刑執行人に倫理的距離を生み出すきっかけを与えているかもしれない。たとえば、死刑執行に携わったことのある元刑務官藤田公彦は、死刑執行の際に被害者の無念を思い(藤田 2007: 41)、そのためにも死刑執行のボタンを押さねばならないと決意したということだが、これは被害者の無念(という想像)によって倫理的距離を生み出した典型的な例といえる。
 さらに、1991年以降、誰が死刑執行を担うかを記した職務規程がなくなったことにより、死刑執行人の顔は曖昧なものとなった。このことは法務大臣と死刑執行人の間に社会的距離を生み出しているかもしれない。もともと死刑執行を看守が担うとされたのは、いわゆる非人が担っていた死刑囚に直接触れる斬首刑の介添人の役割が明治期の押丁へとスライドしたこと、器械の補助(介添)を担った押丁であったが、それは器械を用いた死刑執行を担うことを意味したこと、死刑執行がダーティーワークとして位置づけられていたこと、などの複合的な条件が偶然重なった結果であった(櫻井 2011: 107)。しかし、ここに社会的距離の条件も入る可能性がある。すなわち、死刑執行を命じる者にとって、感情的距離がもっとも遠い者が、最下等の職掌である看守であったから、死刑執行を担ったのが看守であった可能性である。

 以上の考察からわかることは、日本の死刑執行方法の変遷は、死刑執行を担う者、あるいは死刑執行に立ち会う者が、いかに受刑者と物理的/感情的距離を広げるかを模索した結果であったことである。そこでは受刑者の苦痛はまったく問題にならない。受刑者の苦痛の軽減が、物理的/感情的距離を広げること、すなわち殺人への抵抗感の減退には直結しないからである。さらにいうなら、絞首刑を130年以上存置したことは、今までもずっとこれでやってきたのだから、という慣習法的な正当性を構築し、それによって倫理的距離が広がっているとさえいえるかもしれない。つまり、日本は現在、殺人への抵抗感が極めて低い状態で死刑執行を存置している可能性がある。法社会学者のDavid T. Johnsonは日本がなぜ死刑を存置しているかについての9つの仮説を提示しているが(Johnson 2011)(19)、そこにアメリカ合衆国とは異なる形で変遷してきた、日本の特異な死刑執行方法の事情を加えることがてきるのではないだろうか。

おわりに
 日本の死刑執行方法の変遷は、受刑者の苦痛の軽減を目指すアメリカ合衆国の死刑執行方法の変遷とは異なり、死刑を執行する側にとってのみ圧倒的にプラスに働く方向で変遷してきたことを4節までで明らかにした。この方向を変更するために、千葉景子元法務大臣は、2010年に刑場公開へと踏み切ったのかもしれない。しかし、それは距離の問題とともに提示しなければまったく意味がない。刑場の形は公開前からおおよそ分かっていたものであり、今さら刑場だけを見せられたところで特に新しい議論が生まれるはずもないのである。それでは、実際に死刑を執行している光景を公開すればよいのだろうか。そのような必要はない。本稿冒頭で記した森巣博による優れた提案がすでにあるからである。
 森巣の提案が圧倒的に優れているのは、死刑執行方法に文化包丁を採用した点である。これは今までの日本の死刑執行方法の変遷を一撃でひっくり返すものであるといってよい。時間をかけて慎重に受刑者との距離をとってきた死刑執行方法に対し、突如ナイフ的距離まで近づくよう要請した森巣の提案を真摯に受け止めることで、死刑執行をめぐる議論はより深いものとなるのである。
 なお、本稿では死刑執行方法の変遷を大きな歴史的社会的流れの中で記述することができなかった。とりわけ、市民と死刑執行についての関係を記述できなかったので、死刑執行方法についての言説編成を明らかにすることで、より詳細な死刑執行方法と距離の関係についての議論を展開することを今後の課題としたい。つまり、近年の厳罰化を望む世論は、殺人と圧倒的な距離を隔てたうえでなされていること、そこでは死刑という語が誰かを殺すというよりはむしろ「最高刑」を意味するものでしかないのではないか──もはや殺人との距離が開きすぎて、死刑判決を受けた人間が本当に死刑執行されたかどうかはたいした問題ではないとされているのではないか──、ということなどを考究したい。 

追記:本稿は平成23年度科学研究費補助金(特別研究員奨励費)による研究成果の一部である。

[注]
(1)内閣府大臣官房政府広報室, 2010, 「基本的法制度に関する世論調査」(http://www8.cao.go.jp/survey/h21/h21-houseido/index.html アクセス日:2011年4月25日)。ただし、内閣府調査の質問項目は偏りを生む可能性のあるものだとの指摘もあり、実際に質問項目を変えて調査すると、死刑存置に賛成する比率は60%となった(山崎 2011:92)。しかし、それでも過半数以上は死刑存置に賛成なのが実情である。もっとも、たとえばフランスが死刑廃止に踏み切った当時も62%は死刑存置に賛成であったことは付記しておく。
(2)森巣博, 2003, 「死刑制度の廃止を求める著名人メッセージ」(http://homepage2.nifty.com/shihai/message/message_morisu.html 最終更新日:2003年3月3日)。また、以下でも森巣は再び同じ提案をしている。阿部・森巣・鵜飼(2006:230-234)、森巣(2009:116-118)。森巣の名は出ていないが、森巣と同様の提案をしているものとして大澤(2009)。
(3)ティモシー・エヴァンズ事件とは、1950年に死刑になったティモシー・エヴァンズが、1953年に無実だったと判明した誤判事件。この事件と、2年後に明らかになったもう1つの誤判事件をきっかけに、イギリスは死刑廃止へと踏み出すこととなった。
(4)誰が押したか分からなくする装置は、後述するとおり、死刑執行人の数を増やすものでしかない。森巣はそのこともわかっているがゆえに、「一見」という留保をつけているのだろう。
(5)Justia.com, 2004-2011, “In re Kemmler, 136 U. S. 436 (1890)” (http://supreme.justia.com/us/136/436/case.html アクセス日2011年8月12日).これは合衆国憲法第8修正条項「残酷で異常な刑罰」の禁止とほぼ同じ内容をもつ、ニューヨーク州憲法について争われたケムラー裁判の合衆国最高裁判決である。同判決における残酷の定義は、100年以上に渡って多くの裁判で引証されている(Moran 2002=2004:303)。
(6)Death Penalty Information Center, 2011, “State by State Database” (http://www.deathpenaltyinfo.org/state_by_state アクセス日2011年8月12日).
(7)AFP BB News, 2011,「米国で20年ぶり死刑執行をビデオ撮影、残虐性検証のため」(http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2815220/7538798 アクセス日 2011年8月12日)
(8)この定義でいえば、カフカの「流刑地にて」で描かれる馬鍬は、残酷な刑罰の格好の例といえるだろう。馬鍬とは12時間かけて囚人の体に判決を刻みこむ死刑執行方法のことである。
(9)AFP BB News, 2009, 「米国で薬物注射の死刑に批判再燃、オハイオ州の執行失敗で」(http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2650248/4724891 アクセス日2011年8月12日)
(10)同上。
(11)同上。
(12)AMAが1992年に提示した、死刑への医学的参加についてのより詳細な立場表明については、Ferris & Welsh(2004=2009:67)を参照。
(13)日本語訳では心理的距離となっているが、ここではemotionalをより直訳に近い形で訳しなおしている。
(14)それゆえ、Grossman(1995=2004)の続編、『「戦争」の心理学──人間における戦闘のメカニズム』では、社会のために人間を殺さざるを得ない人々をいかにサポートし、よりよい「戦士」を生み出していくかということが模索される(Grossman 2004=2008)。しかし、この問いの立て方には大いに疑問がある。そのことについては稿を改めて論じたいと思うが、櫻井(2011)で示したことが、殺人についての私のスタンスであることはここに言明しておく。
(15)さらにGrossmanは素手による距離の先に性的距離(Sexual Range)を置いているが、その距離では殺人への抵抗というより、殺人から興奮や快楽を得るという、少し位相がずれた話となっている。そのため、本稿では性的距離についてはひとまず置くこととする。
(16)押丁とは看守の助手のような役職であり、現在では廃止されている。
(17)監督大島渚、1968年。
(18)ある死刑についてのイベントで、近年は死刑執行の場面を死刑執行指揮者から見えないようにするためのカーテンが設置されたという情報もあったが、真偽が確認できないため、ここでは脚注にて示唆するだけに止める。ただ、この情報が事実であった場合、死刑執行指揮者と死刑囚の間に物理的距離が生じ、死刑執行指揮者の殺人への抵抗感が緩和されることになっているといえる。
(19)法社会学者のJohnsonによれば、なぜアメリカ合衆国が死刑を存置しているかについての研究は盛んになされているが、日本における同様の研究はほとんどない。そのため、Johnsonは、日本が死刑を存置し続けるのはなぜか、についての研究の呼び水として(Johnson 2011: 140)、以下の9つの仮説を提示した。すなわち、【I】歴史的解釈として、【1】戦後の占領期に逸した機会、【2】(保守的な)自民党の長期支配、【3】地政学的強み、民主的安定性、法的自足による日本の特異性、【II】外在的解釈として、【4】アメリカの死刑存置が付与する正当性、【5】韓国との関係、【6】アジアにおける地域連合の貧弱性、【III】内在的解釈として、【7】死刑に対する大衆の支持、【8】贖罪と人権に関する日本文化の特質、【9】大衆迎合的刑罰主義、厳罰化、被害者を満足させる必要があるとの認識の9つである。これらの仮説の検討は、別稿で行ないたい。

[文献]
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