[講演] 歴史社会学の方法論

第1部
歴史をどのように記述するか
─歴史社会学研究会公開研究会記録─

歴史社会学研究会 2009年度公開研究会  2009年09月18日 於:立命館大学

歴史社会学の方法論
福間 良明(立命館大学)

企画説明
櫻井:本日の公開研究会のタイトルは「歴史社会学の方法論」となっておりまして、「福間良明先生の仕事を学ぶ」あるいは「福間良明先生の仕事から学ぶ」という、そういった研究会になっております。
 われわれ歴史社会学研究会の説明をしますと、立命館大学先端総合学術研究科というのは学問横断的な研究をするというのを旨にしておりますので、さまざまな学問分野に所属する学生が多数在籍しております。そのような場で歴史をどのように記述するか、ということが共通の問題としてあらわれてきます。そこで歴史学と社会学の接点となります歴史社会学というものに注目しまして、今まで歴史社会学関連の文献を読んできました。歴史社会学研究会については、立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点のホームページにある、紹介ページ(http://www.arsvi.com/o/shs.htm)をご覧いただければ幸いです。それで、今年度から、先端総合学術研究科公共領域のプロジェクト予備演習という授業の講師に、歴史社会学を専門としておられます福間先生が来られましたので、ちょうどよい機会ということで、福間先生にいろいろお話をうかがおうというこの企画を立ち上げました。
 福間先生のお仕事は、最初の『辺境に映る日本──ナショナリティの融解と再構築』(2003年、柏書房)がナショナリズムに注目して書かれた本となっており、次の『「反戦」のメディア史──戦後日本における世論と輿論の拮抗』(2006、世界思想社)以降は、福間先生は「戦争の記憶」というふうにまとめておられました。われわれの中では「語りがたさ三部作」と言っていましたが、『「反戦」のメディア史』、『殉国と反逆──「特攻」の語りの戦後史』(2007年、青弓社)、『「戦争体験」の戦後史──世代・教養・イデオロギー』(2009年、中央公論新社)というのが3冊セットのようになっておりまして、『「はだしのゲン」がいた風景──マンガ・戦争・記憶』(2006年、梓出版社)という本の中の一章として書かれております福間先生の論文が、その外伝的な位置に当たるのかなというふうにわれわれは読んでおりました。そして、今後、展開されるのかもしれませんが、博覧会の研究もしておられます。
 今日は指定質問をいくつか用意させていただいたんですが、その指定質問は福間先生のお仕事順に沿った形でさせていただこうかと思っております。最初は『辺境に映る日本』についての質問を松田さん、岩田さんからしていただき、歴史社会学とは何か、歴史社会学に何ができるかといったことを角崎さんと私から、それ以降の「語りがたさ三部作」についての質問を小川さん、西嶋さん、大谷さん、大谷さんはちょっと、今日来られないので、安部さんに代読してもらうんですが、その3名の方から質問させていただこうということになっております。
 それでは、まず福間先生のご報告から入りたいと思います。
 では、福間先生、よろしくお願いします。

1. これまでの研究を振り返って
 研究職に至るまで──書籍編集者からの転身

福間:お願いします。(拍手)
 福間でございます。よろしくお願いいたします。
 何だか偉い先生の講演のようなタイトルで、何をしゃべったらええんかなと、かなり悶々としております。のっけから雑談で恐縮なんですけれども、実はきのう、共同研究でちばてつやさんへのインタビューに立ち会い、『紫電改のタカ』や『あしたのジョー』、満州体験等々についてお話を伺いました。そういうビッグな方の話を聞いた翌日に自分が、しかも、たかだか40年しか生きていないのに、自分の仕事を振り返るというのは、すごく気恥ずかしい感じがいたします。ただ、せっかくの機会ですので、これまであまり書いたり公にしたりしていないことを中心に、私がこれまでどんな意図で研究めいたことをやってきたのかを、お話しさせていただければと思っております。
 最初に、私の経歴というか、そのあたりから、雑談半分でお話をさせていただきましょう。「プロジェクト予備演習」でも言いましたように、私はもともと書籍の編集者です。著書の略歴欄にはかつての勤務先名までは書かないようにしているんですが、PHP研究所というところで10年間働いていました。そのことは、わりと意外に思われることも多いのですが、そこの中でも、やっていることはちょっと特殊でした。入社して最初の3年半は、社内の情報システムのSEみたいな仕事をしておりました。汎用コンピューターのプログラムをも、大小合わせて500本ほど組んだりしましたかね。今はもちろんすっかり忘れていますが、そんな仕事をやっていました。
 もともと編集志望だったんですけれども、3年半もコンピューターの仕事をやっていたら、一生これでもいいのかなと思いつつありました。そんなときに、なぜか出版部のほうに異動になりました。本当は雑誌をやりたかったんですが、最初は社会人向けの通信教育、入社前教育だとか工場で働く人向けの教材とか、そういうものを4年半ぐらい作りました。その後、普通の書籍のほうの出版部に移ったんですが、それでも引き続きビジネスの専門書籍の編集に携わっておりました。ですから、今の研究に直接かかわるようなことは、編集者時代には全然やっていませんでした。プレスの金型や組立部品・部材をいかに素早く取り替えるかとか、マーケティング、福利厚生、賃金・年金等々に関するものを多く扱ってきました。正直なところ、自分の知的関心からは遠い分野でした。
 ちなみに、大学生時代は、ほとんど勉強せず、よくあるごく普通の学生でした。いまとなっては、自分も授業をやるようになって、結構それなりに厳しく、楽勝科目にはしないようにしているんですが、私の大学生時代は週1コマ行くか行かないかみたいな感じでした。だいたい常にバイトを3つかけ持ちつつ、メインはサークルでしたから、本当に授業に行ったら、寝て帰るみたいな、そんな感じでしたね。
 それでも卒論はちょっと頑張ろうかなと思ったんですが、卒論の構想発表の直前ぐらいですか、指導教官にこてんぱんに怒られちゃって、それでテーマに変えざるをえなくなりました。でも卒論提出まで3週間ぐらいしかなかったんですね。そこまでなると、どうしようもない。だから、とりあえず図書館の新書のコーナーの前に立って、目をつぶってとったテーマをやろうと思い立ちました。すると、手にとったのが量子物理学とか何とか、そんなのだったんですね。これはいかんと思って戻してまして、もう一回引いたら、観光をテーマにしたものでした。なので、その種のテーマを設定して、その新書を適当に切り貼りしたような内容で卒論を出しました。
 おそらく研究のような仕事でなければ、多くの場合、卒論が人生の中で一番長い文章だと思うんですよね。それを、かなりいいかげんに済ませてしまったことは、その後、ずっと引っかかっておりました。そのことも、その後、大学院に行こうかなと思ったことの一つ動機ではありました。
 前の会社では、さっきも言ったように、ビジネスの専門色が強い本の編集をやっていたのですが、編集の仕事自体は結構楽しくやっていました。中には親しくさせていただいた実務家の著者の先生もいました。ただ、本の編集って、基本的に人の原稿をもらって、それを加工するのが仕事なんですね。でも、そういうのだけじゃなくて、自分で何か調べて書いてみることができたらいいかなと思うようになりました。そんなこともあって、入社6年目ぐらいのときに、前の会社から交通アクセスの面でも行きやすい同志社の大学院に入りました。

 大学院時代

 私の大学院時代について言いますと、修士課程のときは北村日出夫先生(マスコミ論・記号学)のもとで勉強させてもらいました。私が修士課程の在籍していたころの同志社の社会学専攻は、当然と言えば当然ですが、きっちりとした社会学の手続きを重んじる厳格な雰囲気がありました。ただ、私の指導教官だけは、わりと好きにさせてくれる先生でした。私の場合、同志社の社会学で出された修論の中では結構異質なテーマではあったのですが、そこでとりあえず好きにやらせてもらいました。
 また、大学院の授業の中でいろいろ学んだというよりも、北村先生が研究会を主催しておられて、それがひじょうに有意義でした。20世紀の前半ぐらいの思想とか文化についての研究会だったのですが、そこでいろんな他大学の先生・若手研究者が来て発表したりとか、私も発表したりしましたが、そういう中でいろいろ刺激を受けることが多かったですね。近現代の思想史とか、カルチュラル・スタディーズ、ポストコロニアル研究に興味を持ち始めたのも、これらの場がきっかけでした。
 修士論文は、国語学史とナショナリズムみたいなテーマを扱いましたが、博士課程では、もう少し歴史学に近づきたいと考えるようになりました。そこで、同じ京都で、京大・人環(人間・環境学研究科)で宮本盛太郎先生のもとで学ばせていただきました。宮本先生は政治思想史の先生で、北一輝やカール・シュミットの研究で著名です。戦後、わりと早い時期に、北やシュミットを再考した研究者の一人ですね。
 ただ、やっぱり、社会学の空気と厳格な実証史学の雰囲気って、かなり違うんですよね。なので、そういうところのカルチャーショックは結構受けました。逆に、実証史学の手続きとか価値観とか、そういうものを感じられたのは、一番の収穫だったのかなと思います。
 あと、それ仕事をしながら大学院を掛け持ちしていた時期もそこそこ長かったので、大学院の授業への出席は限られていた一方、土日の研究会とかで学ぶことが多くありました。とくに佐藤卓己先生や阿部潔先生の研究会で得るものは大きかったですね。また、当時、マスコミ・フォーラムという、2カ月に一回ぐらい、関西のマスコミ研究者を中心にしたセミ学会みたいなのがあって、そこで、よその大学の院生とか先生と接する機会がありました。そこで自分の研究を相対化できたようなところがあったかなというふうに思いますね。指導教官の指導を受けつつも、そのすべてを満たすこともなかなか大変ですよね。なので、ここはあきらめつつも、こっちのおもしろさをとろうとか、そういうことを考えていけたのはよかったかなと思います。

 研究領域・方法論について

 研究テーマについて申しますと、『辺境に映る日本』の後は「語りがたさ三部作」ということになっているようなんですが、私の中ではちょっと違う分類をしていています。
 とくに『「反戦」のメディア史』以降の3冊の本を出してからは、何だか「戦争」のことをやっている人みたいな、そういうイメージでとらえられがちです。たしかにそれは全然間違いじゃないんですが、私の中では、学知や思想史といったテーマと、メディア史研究という、大きく2つに分けています。
 そのうちの一つ、知・思想とナショナリズムに対する興味が、博士論文であり、最初の著書である『辺境に映る日本』(2003年)に結びついています。その後もその方面について書かせてもらえる機会があれば、実は書いています。戦後の沖縄学に関する論文ですとか、戦時期の右翼知識人のことを扱った日本主義関係の論文、戦前期の民族学、今で言う文化人類学の学会組織を扱った論文ですとか、そのあたりも一応こっそりとやっています。
 『「戦争体験」の戦後史』(2009年)も、たしかに「戦争」関係ではあるんですが、同時に、思想や関連言説に軸足を置いています。『「反戦」のメディア史』(2006年)や『殉国と反逆』(2007年)は出版史や映画史に絡むものだったので、ちょっと思想史のほうに戻そうかなと思ってやったのが、『「戦争体験」の戦後史』ということになります。
 あと、メディア史関連でしたら、『「反戦」のメディア史』とか『殉国と反逆』のほか、共編著『「はだしのゲン」がいた風景』、その他、沖縄の終戦記念日をめぐるジャーナリズム史について書いたこともありますが、そのあたりが自分の中でのメディア史研究になるかと思います。
 先ほど櫻井さんも紹介してくださった博覧会研究も、実は、5年ほど前に、大阪万博や戦前期の博覧会と異民族表象を扱ったことがあり、それが先日、2009年7月末に出した戦時期の博覧会の話につながるところがあります。
 また、自分の中で別の分類もあります。例の三部作のほか、あと共編著『「はだしのゲン」がいた風景』などもありますが、そのほか、沖縄関連の研究というジャンルも一応あります。『辺境に映る日本』第六章で戦前期の沖縄学の話をしていますが、その延長で戦後の日琉同祖論・沖縄学の変遷だとか、あと、さっき話をした沖縄の戦後ジャーナリズムのことなども、ちょっとやっています。今年から科研の助成を受けながら、戦後沖縄の雑誌メディア史についても、調べ始めております。まだ余り進んではいないですが。
 そのほかにも、これまでの研究は、広い領域を扱う研究と狭いところに特化した研究にも分けられるように思っています。『辺境に映る日本』は国語学から地理学・地政学まで扱いました。そこでは、広い分野を扱いながら、それぞれの立ち位置を比較・検証していくというアプローチをとっています。『「反戦」のメディア史』もそうですね。「わだつみ」「沖縄戦」「原爆」等を比較して何が見えるのか。そういうことを念頭に置いた仕事です。
 それに対して『殉国と反逆』のほうは、「特攻」に絞りました。『「戦争体験」の戦後史』も同様ですね。これはタイトルはちょっと広いテーマなんですが、扱っているのは、読んでもらったらわかるように、わだつみ会史です。本当は、「わだつみの戦後史」といったタイトルを考えていたのですが、中公新書の編集者は、それじゃ売れませんから、『「戦争体験」の戦後史』にしましょうということになりました。「売れるんだったら、そのほういいかな」と思って、そっちにしてもらったんですが、余り売れ行きは今のところ、とくに芳しくはないですかね。

 知の歴史社会学への関心

 以上が、自分のこれまでの研究のマッピングのような話になります。次に、私がどういうふうに今の研究に行き着いたのかという話をさせていただこうと思います。
 大学院に入ってからの研究の出発点なんですが、卒論のときのように新書コーナーの前で立ってという、そういう選択の仕方はさすがにやめて、一応は考えてテーマを選びました。修論は、先ほど申しましたように、国語学史・国語政策史とナショナリズムのようなテーマを扱いました。
 ちなみに、そのころは、イ・ヨンスクさんの『「国語」という思想』(1996年、岩波書店)や小熊英二さんの『単一民族神話の起源──「日本人」の自画像の系譜』(1995年、新曜社)がサントリー学芸賞を受けられて数年後という時期でした。そのあたりの研究に興味を持ったということもありますかね。そのうえで、時枝誠記と金田一京助と東條操という人に注目して書こうかなと思ったのが、修士論文です。これは、その後、分割したり、手直ししたりして、『ソシオロジ』に出したりだとか、あと、それを大幅に書き変えて、博論の中にちょっと取り入れたりしました。
 もう一つ、なぜこのテーマを選んだことには、すごく消極的な理由があります。私は、出版社で仕事をしながら大学院に行っていましたので、フィールドワークに行くとか、そんなことは当然できないんですね。なので、資料さえ手元にあれば何とかできるというテーマにせざるを得なかった。そのことは、大きかったですね。しかし、逆にそうであったがゆえに、結果的には興味があるところに特化できたかなというところも感じています。
 修論でそんなことをやってきたわけですが、その後は国語学の延長にある学問に興味を持つようになりました。国語学から派生した学問にはいろいろあって、アイヌ研究も金田一京助が実質的には始めましたが、彼も言語学の出身です。沖縄学にしても、方言というか、沖縄の言語の研究から沖縄研究がスタートしています。さらに、それらの学問は、人類学と重なるところがありますので、人類学史みたいなこともちょっと扱いました。
 国語学史について言いますと、イ・ヨンスクさんのほか、安田敏朗さんがその方面をどんどん切り拓いておられるところでもありましたし、一方、私自身も国語学史の研究に閉じなくてもいいかなと思い始めておりました。博士課程の一・二年ごろだったと思います。なので、ちょっと違うこともやろうということで、『辺境に映る日本』でも扱った民族社会学や地理学、ハーン研究のことをやり始めました。
 ラフカディオ・ハーン研究史のことをやろうと思ったきっかけは、自分の中では修士論文の延長とかとは実は切り離されています。たまたま私は高校のころからラフカディオ・ハーンがちょっと好きだったという、ただそれだけなんですね。もちろん子ども向けのハーンの怪談本は小さいころから読んでいましたし、あと「心」とか「東の国から」みたいな、「古きよき日本」を論じた書いたハーンのエッセイが、高校のころはわりと好きだったんですね。大学に入っても文学研究に進んで、ハーンのこととかやりたいなと思っていたこともありました。それもあって、ハーンを評価する文章の系譜をちょっと論文にしてみようかなと思って、調べ出したら、結構おもしろかった。一応論文にしたらしたで、博論に何とか入れられないものかと思いました。そのようななかで、博論の構想を考えていきましたかね。
 それ以外に、戦時期の社会学、民族社会学とか宣伝学みたいなこととか、あと地政学みたいなことも、国語とは別の近接分野ということで関心を持ち、調べるようになり、それらを博士論文にまとめたということになります。

 『辺境に映る日本』から派生した問題関心──博覧会研究・右翼知識人言説

 『辺境に映る日本』のテーマについても、その後も一応、興味は持続はしています。でも、そのころから博覧会にちょっと興味が出てきました。というのも、「○○学」のようなことばかりやるのもちょっとしんどいなと思いまして、息抜きじゃないですが、何かそういうこともやりたいなと思うようになりました。
 また、民族学言説から博覧会へ関心に行きついたという側面もあります。たとえば、明治期の民族学者たちが企画した博覧会のパビリオンで、「アイヌ」や「沖縄」の人そのものが展示されたという事件がありました(人類館事件)。これは松田京子さんという研究者が本にまとめておられますが、学知が大衆的なイベントやメディアに接近していったり、娯楽みたいなものと結びついたりということにちょっと興味を持つようになりました。それで、「『異民族』の〈博覧〉」(2004年)という論考を書きました。
 ただ、その後は別に関心がシフトしたところもあるわけですが、この方面はいずれはまとめたいなと思っているところです。
 博論の問題意識に関連テーマでしたら、戦前期の右翼知識人で原理日本社についても、少しばかり調べたことがあります。その方面を扱う研究会に呼んでもらったということがきっかけで、『日本主義的教養の時代』(竹内洋/佐藤卓己=編、2006年、柏書房)という共著に書かせてもらいました。
 右翼研究と言うと、やっぱり北一輝とか大川周明、とくに北一輝の研究は蓄積が厚いですし、私の指導教官も北一輝の研究者でした。ただ、そういう華々しい右翼知識人じゃなくて、一見、ファナティックで、戦後、ののしられるだけでだれも顧みないような、そういう右翼知識人たちに興味を持ちました。
 何となく「右翼」と言うと、ひと括りでとらえがちなんですが、原理日本社の知識人たちは、二・二六事件をこっぴどく批判しました。それはなぜかというと、彼らには「明治天皇がつくった憲法をしっかり守らなければいけない」「憲法を停止したり、戒厳令をしくとは何事か」という思いがあったので、革命志向の革新右翼たちにはかなり批判的だったわけです。あと、戦時動員体制についても、あれは計画経済だし、共産主義的な発想だということで、それについてもかなり食ってかかるところがありました。それで、東條政権に弾圧されたということもあったんですが、そんなのもちょっと調べてみたら、おもしろいなと思いました。資料を読んでいると、あまりに暑苦しくて、辟易するところも正直あるんですが、その辺も学問的な興味はありますね。ただ、その後、さほど進んではいませんが。
 ただ、そのあたりをやりながら、ポリティカル・コレクトではないような、ある意味、一見ダサそうに見えて、ベタな、そういうものとか人とかに、何となく興味を持つようになりました。『殉国と反逆』では特攻映画とか任侠映画とかを扱っていますが、それも同様の興味・関心によるものですね。

 『「反戦」のメディア史』

 その他、最近は、主に戦争体験や戦争の記憶に関する事柄を扱っていますが、そのあたりも、もともと興味があったわけではありません。その分野は当然蓄積も厚いですし、勉強しなきゃいけないことがたくさんありましたので、どちらかというと、最初は避けているところがありました。しかし、ちょうど博論を書いているころに、佐藤卓己先生の「戦後世論のメディア社会学」の研究会に呼んでもらって、「本の編集者なんだから、何か本のことやりなよ」ということになりました。そこで、何をやろうかなと思い、『ビルマの竪琴』『二十四の瞳』のこととをまず調べました。それをきかっけに、戦争の語られ方を通して戦後をどういうふうに見直すのかということに興味を持つようになりました。これが、私の初めてのメディア研究の業績になっています。
 実は、博士論文以後、一足飛びに『「反戦」のメディア史』に行ったわけではありません。さっきも言ったように、『辺境に映る日本』の続きをやるか、博覧会をやるかみたいなことで結構、自分の中では揺れていました。ちょうど香川大学に着任するかしないかのころです。
 そのころに、これもたまたま呼んでもらった研究会で、沖縄のことを書かないかということになりました。それで、博論の延長上で戦後沖縄学のことを扱ったんですね。その中で、仲宗根政善という沖縄言語学者のことを調べました。そこで初めて知ったのは、彼が沖縄戦を体験しており、彼が書いたものが映画『ひめゆりの塔』の原作になっていたということです。言わば、言語学者・仲宗根政善への興味から(『「反戦」のメディア史』で扱った)『ひめゆりの塔』の研究に移ったところがあります。
 そこで、「ひめゆり」言説を一応網羅的に調べて、単にメディア史だけの話にするんじゃなくて、仲宗根政善の思想とか、そういうものもちょっと入れ込んだ形でやったら、おもしろいかなと思って、それを書いたのが『マス・コミュニケーション研究』に書いた論文です。2005年に書きましたが、それが『「反戦」のメディア史』の3章に入れたものになります。
 そのころから『「反戦」のメディア史』を書こうかなと思い始めたわけですが、一方で、安田武という人がかつていて、戦争体験のことをどうもいっぱい書いているらしいということを、遅まきながら気づきました。それ以外でも、いくつか戦争体験論の本を集め始めてはいたのですが、安田武の本を読み出したら、個人的にはすごくおもしろくて、結構挑発的な表現も多いんですが、ぐっと引き込まれるところがあり、一時期、よく読んでいました。そのなかで、しばしば「語り難さ」にふれた仲宗根政善とも実は重なるところもあるなということに気がつきました。そのあたりを機軸にしながら、著書をまとめていこうと思い立ち、そういう問題意識の延長で、安田武が関わっていたわだつみ会や、その他、原爆関連の議論を調べたりなんかして、『「反戦」のメディア史』を書きました。

 『「反戦」のメディア史』以後

 『「反戦」のメディア史』の中では、もともと『はだしのゲン』も扱おうと思っていたのですが、いろんな理由でちょっと無理があるなというところがあって、切り離しました。また、「特攻」に関することも、時間的に厳しいものがあったので、それは別の本(『殉国と反逆』)にすることにしました。
 『はだしのゲン』については、たまたま共編著を出しましたが、別に「ゲン」で一つの論文を書くつもりはなく、せいぜい特定の論文の一節ぐらいになったらいいかなぐらいの気持ちでした。ただ、これも、『はだしのゲン』の研究会に読んでもらって、その後、いろんないきさつがあって、なぜか共編者になっちゃって、書かせてもらったという次第です。
 『殉国と反逆』については、結構、任侠映画のことを書いています。読んでくださった方はそれなりにお気づきかもしれませんが、これは正直に言ったら、私が好きだから書いているというところがあります。「何か特に、福間さん、暑苦しいよね、あの辺」とかと言われることもありますが、「私的な趣味が入ってもええやろ」と思いつつ、自分の中で「特攻」の話と任侠映画の話がつながるところもあったので、楽しみ半分、調べながら書いたという感じですかね。
 ただ、一方で、さっきちょっと言ったことにもつながりますけれども、多分、映画研究の中でも任侠映画(とくに『仁義なき戦い』以前)のことは、あまり扱われていないように思います。論文もかなり努力して探したんですけれども、ほとんどない、かなり少ないんですよね。任侠映画に関する本も探しましたが、映画の紹介本みたいな新書は少々ありますが、任侠映画の研究書は見当たらない。
 偏見かもしれませんけれども、やっぱり任侠映画って、あまり「おしゃれ」じゃないんですよね。多分、時代劇以上に「おしゃれじゃない」ようなイメージがあるんじゃないかと思うんです。ただ、私としては、そういうおしゃれじゃないものが、理由もなく好きですね。私の中の価値判断なんでしょうか。正統性だとか、格好いい雰囲気を漂わせているような、そういうようなのじゃなくて、だれもが本当は毛嫌いというか、見るまでもなく、あんなすごく低俗な映画みたいな、そういうものに、すごく惹かれます。
 それもあって、サブカルチャー研究は、私の中ではあまりやりたいとは思わない。それはそれで、「おしゃれ」な感じがありますし。サブカルチャー研究でも上流階級の文化もない、そういうベタな分野が何となく好きですね。その意味で、『殉国と反逆』は私の趣味の本ですかね。
 あと、『「反戦」のメディア史』の第二章(「『学徒出陣』の語りと戦争体験」)を書きながら、わだつみ会史や「わだつみ」の思想史をまとめてみたいとは思っていました。わだつみ会でも50年史の刊行を検討しておられるようではありますが、わだつみ会の正史だったらおそらく扱わないであろう事柄も含めて、ちょっと書きたいなという関心が『「反戦」のメディア史』以降もありました。たまたま中公新書からも話があったので、書かせてもらいましたが、そういうところが、一応、自分の研究に対する私なりの整理ですかね。
 とはいえ、これは『「反戦」のメディア史』のあとがきでもちょっと書きましたが、私としてはもともとメディア研究はやらないつもりでした。編集者のときの仕事は結構楽しかったんですが、他方で上司ともいろいろあった時期もありました。なので、そういうのを思い出すのも嫌だなと思って、なるだけ距離をとっていたんですね。だから、博士論文でも、メディア研究じゃないテーマを選びました。
 一方で、修士課程のときからマスコミ研究をやっている若手の先生とか院生の方とは結構交流がありました。ですので、マスコミ研究やメディア研究の話を聞く機会は多かったのですが、院生時代は、それに特化して研究しようという気はなかったですね。親しい研究仲間には、ポピュラーカルチャー研究とかサブカルチャー研究をやっている人も多くいましたし、彼らの研究に知的なおもしろさを感じることは多々ありました。でも、さっきも言ったように、ある種の正統性というか、上流文化を反転させたような正統性とか正しさとまでは言いませんが、何かちょっとそれは私の趣味じゃないなと思うところはありました。別にそれが悪いと言っているんじゃなくて、もうちょっと「まったり」「ベタ」な感じがいいかなというのがあったので、その方面に深入りすることは結果的になかったですね。
 ただ、『辺境に映る日本』を書いたあと、さっきもちょっと言いましたが、自分の中では、ちょっと軽目のテーマにもやろうかなと思って、メディア研究とかメディア史のことを少しかじり始めました。結果的には、以前の編集業務での企画立案のプロセスとか、そういうのも思い返しながら書いたところも多かったですね。
 もっとも、メディア研究をやるにしても、その背後にあるような社会変容や思想史的なものを、自分なりの味つけで加えたいというところはありました。さきほど「三部作」とおっしゃった仕事には、そういう感覚がありました。

 研究のスタイル──社会学と歴史学のはざまで

 これが一応、研究の遍歴なんですが、あと、研究の私なりのスタイルというか、手法というか、その辺について簡単にお話をしておこうかなと思います。
 もともとはどういう分野に興味があったのかというと、西川長夫先生の国民国家論とか、あと山之内靖先生や佐藤卓己先生の総力戦体制論みたいなところが修士のころの興味関心でした。また、そのころ、雑誌『現代思想』でナショナリズム批判とかポストコロニアル・スタディーズとかの論文が結構たくさん出ていました。酒井直樹さんとか、あと、何度読んでも、なかなか十分に咀嚼できなかったですが、ホミ・バーバだとか、そのあたりに興味がありましたかね。
 ただ、やっているうちに何だか突き放すようなナショナリズム批判のあり方に、ちょっと違和感を覚えるようになりました。正しい位置に立って批判するみたいな、そういう議論のあり方は、もともとちょっとひっかかってはいたのですが、自分の中ではっきり気になるようになってきて、これがちょうど博士課程の二・三年ごろですかね。ですので、『辺境に映る日本』も、自分の中での思考の揺れを感じながらまとめたというところがあります。
 あと、もう一つ、このころの自分には、とりあえず社会学と認めてもらえるような書き方をしなきゃという強迫観念がありました。社会学的な説明図式みたいな、そんなものをこのころは結構意識しているところがあったんじゃないかなと。とくに国語学史の論文だとかハーン研究の論文を『ソシオロジ』や『社会学評論』に出しましたので、どこかで、一応は社会学と見られやすいようなものを意識して書いていたような、そんな気がしますかね。
 しかし、大学院の半ばぐらいになってきたら、指導教官の影響というか、実証史学的な雰囲気に対する共感や、興味もあったのでしょうか、そういう突き放しモードみたいなのじゃなくて、なるだけ当事者に多少なりとも内在的に書くことができないかなということを、わりと意識するようになりました。また、分析枠組みみたいなものを前面に出すような書き方よりも、むしろ史料になるだけ語らせるような、そういう書き方ができないかなというのをこのころから考えるようになりましたかね。
 これで言うと、松田さんのご質問ですかね。ハーンの論文で「辺境」とか、そういうタームが結構出ているのに、民族社会学のほうではあまり出ていなかったのはどうなんでしょうかということなんですが、実は、私の中での方向変換が、今思ったら、あったのかなと思うんですね。掲載された時期は、ハーン論文と民族社会学論文は、二・三カ月しか変わっていないんですが、書いたのは一年ぐらい違っていたんですね。『社会学評論』では掲載まで少々時間がかかりましたので。ハーン論文を書いたときには私はD1だったんですが、民族社会学のことをやっていたのはD2の夏ごろでした。そのころに自分の中の気持ちも少し変わっていて、意識としては「辺境」だとか「西洋」だとか、そういうフレームワークは民族社会学論文でも意識して書いてはいたんですが、それを前面に出すよりも、なるべく史料に語らせるような書き口にしたいなという感じがそのころから出始めてましたね。
 ハーン論文が掲載されたのは『社会学評論』だったわけですが、それだけに、いかにも社会学っぽくという、そういう強迫観念が書いているときには強かったです。
 あと、もう一つは、ある意味、安直なというか、そういう突き放したナショナリズム批判みたいなものというよりも、それを突き詰めていった先にどういう議論が出るんだろうみたいな、そういうパラドックスを感じとるようになってきました。それがその後の「英語学の日本主義」という原理日本社のイデオローグを扱った論文や、戦後沖縄学を扱った2005年の論文の問題意識につながっていきます。テーマは戦争体験のことになりますが、『殉国と反逆』なども、そのあたりの興味・関心の延長ではありますかね。
 ということで、結構、研究のちょっとした志向性みたいなものが変わってきつつあったので、既発表の論文を集めるだけでは博論になりにくいところがあり、なかなか苦労しました。なので、自分でも、『辺境に映る日本』をちょっとぱらぱらと読み直してみると、やっぱり気持ちのぶれみたいなことを今でも思い出すことがあります。一方で、自分の中で修正できなかった部分も残っているんですが、それはそれで、何かそういうプロセスをそれなりにあらわにしておく書き方もいいのかなとは思っています。その意味で、あのころの書き口は若かったかなと思うこともありますが、そういう複雑な思いがあるのが、最初の本ですね。
 あと、この本を出して、もちろんいろんな先生に送ったんですが、そこでもらったコメイントの中で、その後の研究の中でわり意識していることがあります。ドイツ史の野田宣雄先生にも献本し、興味は持ってくださったんですが、結論部の書き方で違う書き方もあったんじゃないのかなということをお手紙でご指摘いただきました。とりあえずは社会学書に仕上げることを意識していたので、どこかで社会学的な説明図式を念頭に置いていたように思いますが、そればかりではなく、「そういうものに収斂されないような矛盾を、矛盾として残しておくというのも読者への提示の仕方じゃないですか」ということを書いてくださってました。そのことは、その後意識するようになりましたね。

 図式と史資料

 『「反戦」のメディア史』について言うと、いくつかの書評でも指摘されたように、「世論」や「輿論」という分析軸で、強引に押し通してしまったかな、というところはありました。いまにして思えば、それもどうなのかなと思わないでもないですが、一方で、それで見えたこともあるのかなという、そういうちょっと複雑な気持ちもありますね。
 『「反戦」のメディア史』とか『殉国と反逆』を書きながら思っていたのは、映画研究とは多分違うんだろうなというか、たぶん、映画研究の人はこういうのって嫌いなんだろうなというふうには思いながら書いていましたかね。読んでもらったらわかるように、映画そのものはあまり扱っていません。もちろん、それも十分に考察に値するものではありますが、私にとってはむしろ、そういう本とか映画が出ることをきっかけに、どういう議論が生み出されてきたのかに関心がありました。なので、書評や映画評を、一次資料にしているんですね。映画評みたいなものは映画研究者から見たら二次資料でしかないと思いますが、それをあえて一次資料として扱ってみようと考えながらやっていました。
 『「戦争体験」の戦後史』は、その前三冊とはちがって、わりと全体の見通しが短期間のうちに立ったというところがあります。それまでの3冊は、何だかんだいって、どういうストーリーにしようかって結構いろいろ悩みつつ、書いたところがあります。それに対し、どういう分析軸を入れなきゃいけないとかと結構いろいろ悩んではいたんですが、新書のほうは資料を見ながら自然に教養主義との接点みたいなものが見えてきました。私のなかでは、ある意味、一番素直に書いた本ですし、逆に言えば、さほど図式化みたいなものを意識せずに書いたかなという感じですかね。
 ただ、見取り図が早くできたわりには、書くのがなぜか相当に苦労した印象があります。なぜなのかわかりませんが、一つは、ちょうど香川大から立命館に移ろうという慌ただしい時期だったというのも外在的な要因としてはあったかと思います。ただ一方で、院生のころは働きながら書いたりしていたわけですから、そんなのも言い訳になるまいという思いもありました。それだけに、なかなか筆が進まないストレスが結構あって、ずっと悶々としていました。そのせいかどうかわかりませんが、なかなか頭の切り換えもできずに、通勤のバスのなかでノートパソコンで原稿を書くとか、そんなことをやっていましたかね。
 これは多分、後で西嶋さんのコメイントにもちょっとつながってくるのかもしれませんが、戦争体験の話とか記憶みたいなことを議論するときには、やっぱり体験者のインタビューをすべきだろうと考える人もいると思うんですね。歴史学のなかでも、文字にならなかった歴史をいかに拾い上げるのかというのは、最近重要視されていますね。それは確かに大事なんだろうなと思うんですが、でも、自分の中では、やっぱり文字にちょっとこだわりたいなというのが正直あるんですね。
 一つは、はやりっぽいことはちょっとしたくないなという、そういう偏固なところもあります。もう一つは、インタビューがそもそもあまり好きじゃないというか、人見知りというか、そういうのが一番大きいのかもしれません。前の仕事でもインタビューは結構やっていたので、特別嫌いとか苦手意識はないんですが、人に会って話を聞くよりも、私は書庫にこもっているほうが好きなんですよね。あの微妙な湿気と微妙な臭さが私は大好きで、何かそういう芳香剤があったら、欲しいなと思うぐらいなんですが、書庫にいるのが本当に快感なんですね。
 それは冗談として、もう少し補足すると、今、過去を語ってもらうということはもちろん大事だと思うんですが、知らないうちに記憶が創られていたりだとか、現在の状況に立った過去の記憶の再構成って、これは無意識のうちにどうしても、避けがたくつきまとっていると思うんですね。もちろんそうしないと拾えない歴史もあるとは思うんですが、やっぱり当時の言説配置の整理みたいなものを、あえて文字にこだわってやってみるということも必要なことじゃないかなというふうに思うんですね。
 特に思想などに関わる文章であれば、やっぱり、その当時の文脈といったことを意識しながら書いているし、書く側も当然、何らかの責任の意識は持って書いているわけですよね。だから、この記述の背後にはこんなことがあったというのは、あとになっていろいろ言えるとは思うんですが、あえて文字に特化するというか、文字にもっと謙虚になってもいいと思います。
 実際、「書かれたもの」の研究でも、たとえば、わだつみ会の議論の変遷にしても、それすら検証されていなかったわけですね。逆に、それを明らかにすることによって、そこからこぼれる歴史との比較対照みたいなことも初めて見えてくるんじゃないかなと思います。そんなことをちょっと考えていますかね。

 歴史社会学について

 歴史社会学についてということで、角崎さんからコメイントをいただいていましたよね。それについてちょっとお答えも兼ねてやって述べたいと思います。歴史社会学と言っても、結構、人によってかなり温度差がありますよね。たとえば、歴史社会学方面の著名な方ですと、筒井清忠先生、竹内洋先生、小熊英二さん、北田暁大さん、野上元さんなどがおられると思いますが、やはりお仕事のスタイルややり方は、いい意味で相当なばらつきがあるんじゃないかと思います。実証的な歴史学にも近いお仕事をされる方もいれば、社会学理論への深い造詣に基づき、それを自在に駆使しながら近現代の事象を捉え返すという方もおられると思います。
 だから、歴史社会学と言っても、一言で説明しにくいところがあろうかと思います。じゃあ、その中で、なぜ私が歴史社会学を名乗っているのかということなんですが、これは本当に消極的な理由で、ほかに言いようがないから、そう言っているだけなんですよね。別に私は歴史学に何かアイデンティティーがあるわけじゃなくて、歴史学ともちょっと言いにくい。歴史学と社会学の両方を行き来しているから、歴史社会学と言っておこうかなみたいな、そんな感じが本当に正直なところですね。
 この歴史社会学研究会では、その方面の方法論など、いろいろ勉強していらっしゃるようなんですが、私としては、じつは、あまりその手の勉強を意識的にやったわけではありません。もちろん、歴史社会学という学問領域について書かれた本は少なからず読みましたけれども、とくに、そういうことを意識しているわけではないですね。
 そもそも私の仕事が何なのかというと、歴史社会学をすることが私の仕事だとは規定していません。何かの事実を明らかにするだとか、こういう切り口から見たら、どういうふうに見えるのかということを提示するのが、私の仕事だと思っているんですね。したがって、手法だとかやり方が先にあるんじゃなくて、まずは事実が先にあって、その事実をどういうふうに切るかというときに、こういうふうなやり方を今回は使おうとかというふうに考えているという感じですかね。
 だから、自分の中で実証とまでは言いませんが、実証史学っぽい思想史研究とか歴史学にちょっと近いかなと思うのが、「英語学の日本主義」という右翼知識人の研究とか、あと、これは2008年ごろに書いた民族学会の歴史を扱ったものがあるんですが、これなんかは公文書館に行って史料を探したりとか、ちょっと入手しにくい史料を探したりだとか、そういうことをやってきました。
 どちらかというと、『「戦争体験」の戦後史』とか『殉国と反逆』も、ちょっとそういう傾向がありますかね、自分の中では。それに対して、それなりに社会学っぽさを意識していたのが、『はだしのゲン』の論文ですね。これはマクルーハンのメディア論をちょっと改変しながら使っていたというところがありましたし、あと『辺境に映る日本』は、明らかにフレームワークも意識しながら書いていました。『「反戦」のメディア史』は一応その中間というか、両方の要素をかなり意識していた感じですかね。
 なぜそんなふうに仕事をしてきたのかということなんですが、そもそも歴史社会学という問いの立て方は、ほかの連字符社会学とはちょっと違うと思うんですよ。農村社会学とかであれば、ある特定の社会について研究をするという、ある意味、対象がそれなりにはっきりはしているんだと思うんです。知識社会学にしても、知や認識が生み出される社会的な磁場をどういうふうに研究するのかというアプローチなので、それなりの対象がはっきりしていると思います。メディア社会学も同じですよね。
 それに対して、歴史社会学というのは、何だかんだいって、具体的な対象というより時系列が意識されているような気がします。過去をどういうふうに切るかというときに、例えば知識社会学を使ったりだとかメディア論を使ったりだとかという、どうしてもそういうふうにならざるを得ないと思うんですよね。歴史社会学者を名乗っている方々の研究の手法の幅広さは、多分そこだと思うんですよ。多くの連字符社会学であれば、その領域内のある種の共通性とか、だれもが研究する理論というのはあると思うんですが、歴史社会学はそこのところが多分違うんちゃうかなというふうに思うんですね。
 過去を読み解くために、社会学の理論を援用したり改変したりしながらやるというのが歴史社会学でしょうし、逆に言えば、過去のことを明らかにしようとしたら、何だかんだいって、歴史学にやっぱり行き着くと思うんですよ。つまり、史料をどういうふうに読むのか。思想史研究とかで口酸っぱく言われるのは、そこの記述がどういう時代のどういうふうな位置づけになるのかという、社会学も一緒ですが、その背後にあるような思想のマッピングというか、そういうものをきっちり押さえておかなきゃいけない、ということですね。やっぱり歴史学をやっても、結局そういうところに行き着かなきゃいけないし、そういう事実群を、じゃ、どういうふうに説明するのかというときに、社会学を時に使うという感じじゃないかなというふうに思いますね。
 実際、学部で歴史学にいた人だったら、イメージできると思うんですが、歴史学、特に実証史学だったら、新史料をいかに発見するのかということと、あと、史料批判をいかにきっちりやって、その史料の位置づけだとか妥当性をどういうふうに明らかにするのかということが、一番根っこにあると思います。逆に、私が博士課程にいるなかでよく感じたのは、あと図式とか説明の枠組みみたいなところには、関心が多分に薄いと思うんですね。むしろそういうのを嫌悪すらされることがありました。いかに図式に当てはめないかということが、やっぱり歴史学では常に言われることだし、これは多分、歴史社会学でも本当は重要なことだと私は思っています。
 それに対して、社会学のすべてがそうだとは言いませんけれども、ある社会現象を抽象化して、それをどういうふうに傾向や類型で説明できるのかというのが、社会学の大もとというか、根っこにあるところじゃないかと思います。そういう違いは多分、歴史学と社会学のなかにあるんじゃないかなというふうに思うんですね。
 ただ、私はいつも思っているのは、いい歴史学というのは自然と社会学に近づいてくるところがあるんじゃないかなと思うんですね。歴史学というのは、ただ公文書館に行ったり、文書を探したりとか、そういう、新史料の発掘ももちろん重要なんですが、ただ単に先行研究がないから調べましたというだけじゃ、やっぱりだめなんですよね。それは単に重箱の隅をつつくだけで、それに閉じていてはダメだと思います。
 本来であれば、それを調べるのにどんな意味・意義があるのかというのを考えざるを得ないわけだし、そうすると、ある細かなトピックから広い社会なり文化がどう見えてくるのかという、そういうところへ行き着くわけです。そこには、何らかの形で社会学との接点が自然に出てくるんじゃないかなというふうに思います。逆に、歴史社会学としていい仕事をされている人の研究というのは、歴史学の人も同業者の仕事として参照しているんじゃないかと思うんですね。その意味では、歴史学と社会学の垣根って、ほんとうはないに等しいんじゃないかなという感じですかね。

 一次資料と二次資料

 角崎さんの質問の中で一次資料とか二次資料ということがありましたので、ちょっとそれについてお話ししておきましょう。歴史学の中でイメージしている一次史料と、そうでない文脈での一次資料という言葉の意味って、実は、ちょっと違うところがあるのかなというのを何となく感じるところがあります。おそらく一次資料の一番根本的な定義となると、ある出来事とか現象を説明するための一番証拠となるような資料ということでしょうし、それが広義の一次資料じゃないかと思うんですね。
 ただ、歴史学における狭義の一次資料は、やっぱり政治史とか社会史を立証するための核たる証拠になるような史料ですかね。だから、さっきも言ったように、公文書館に眠っているような史料だとか、整理されないままに図書館に眠っている、段ボールの箱に入っているいろんな史料とかですね。あと、やっぱり重要視されるのが手紙とか日記ですよね。その人がいつ、だれに書いただとか、あと手書きのなかなか読めないような文書をいかに読むのかみたいなことはやっぱり歴史学の中で重視されるところだと思いますし、それらが一次史料とされることはやっぱり多いんじゃないかな──もちろん、それだけじゃないですけれども──というふうに思うんですね。
 その意味で、私が最近やっているような何かについての語りの歴史みたいなものは、本当は実証史学の人から見たら、ちょっと自分たちとは違うなというところがあるんじゃないかと思います。私がやっている研究であれば、何かのついての語りだとか書評だとか、そういうものを一次資料にし、その背後の言説力学を解き明かしたいと思っているわけですが、それは言うなれば、歴史学の人が思っている二次資料を、一次資料として扱っているということになるのかなと思いますね。
 ただ、私は広義の意味での一次資料を研究には常に使うようにしていて、二次資料を使わないということは私の中では実は結構意識していることなんです。というのも、さっき、冗談半分で卒論のことを言いましたが、指導教官に怒られたのはそこなんですよね。つまり、だれかが書いているようなことを適当にまとめているようなのじゃだめだということを、ガツンと怒られました。当時の指導教官はワイマール期の思想史をやっている先生だったんですが、学部時代にそこでひどく怒られて、そのことが半分トラウマだったんだけれども、その後の自分の研究のやり方でも、何よりも一番意識するのはやっぱりそこですね。だから、『辺境に映る日本』にしても、あれは日本の起源がどうかだとか朝鮮半島の文化がどうだということの研究じゃなくて、それについてどういう学説が出ていたのかについての議論なので、当然、文化人類学とかからしたら二次資料かもしれないけれども、彼らの言説を私にしてみたら一次資料として使っているという、そういうところですかね。
 二次資料を使って歴史のパターンを描くような、そういう大学者の仕事もありますよね。すぐに思いつくのは、オスマントルコの盛衰などに言及しながら論を展開しているウォーラステインの世界システム論とかでしょうか。あまり歴史社会学という言われ方はしないでしょうし、一次資料を使ってやっている議論ではもちろんない。あと、E・ホブズボームも『20世紀の歴史──極端な時代』(河合秀和訳、1996年、三省堂)とか『資本の時代 1848-1875(1・2)』(柳父国近、荒関めぐみ、長野聡訳、1981年、みすず書房)、『帝国の時代 1875-1914(1・2)』(松尾太郎、山崎清訳、1982年、みすず書房)のなかで、そういう20世紀史とか19世紀史とかを書いていますが、それもすべての一次資料を当たっているわけじゃない。ですが、二次的な資料もかなり使いながら見渡せる、そういう仕事もあるとは思います。ただ、私自身の仕事では、一次資料を使うことは常に意識していますかね。 

 記述について

 最後に、記述の仕方について、少しばかりふれておきたいと思います。私も一応、生業として研究をやっているわけですが、どこかでいつも意識しているのが、編集の仕事なんですね。テーマを練るときも、企画としてどうなのかということを考え、自分のなかで企画書をイメージしながらいつもやるんですね。読者はだれなのか。どういう特長とかおもしろさがあるのか。何部ぐらい売れそうかとか、そういうとらぬタヌキの皮算用もやらないわけではないですが、それは冗談として、そういう企画書レベルで考えることが多いですね。それはやっぱり、マーケットにどういうふうに届くのかというか──実際にはさほど届いてはいないかもしれませんが、一応意識としてはそんなことも考えますかね。
 本を書くとなると、雑誌・学術誌の論文とは違って、やっぱり読者数が1桁ということは、まずないと思うんですね。たとえば、私が書いた紀要論文とかだったら、読者数は相当限られると思いますが、本になっちゃうと、私などでも、やはりそうとばかりも言えないと思うんですね。それなりの数は、売れなきゃ、物をつくっても、採算がとれないわけですから、最低限、原価を回収するぐらいの販売が見込まれなきゃいけないし、逆に、そういう部数を刷るわけですね。そうすると、自分と全く同じようなことをやっている人以外に、どういうふうに読ませるのかというのが、やっぱり大事になってくるわけですね。当たり前ですけれども、そのあたりのことはやっぱり意識しますかね。
 記述の仕方としては、中公新書を書いているときには、編集者には、大学1年生でも辞書なしで読めるレベルにしてほしいと、よく言われました。その辺りが、ひとつの理想ではありますかね。そういう記述ができればいいなとは常々思っています。あと、もう一つ考えているのが、あまり論文っぽい書き方はなるだけしないということですかね。たとえば典型的な論文の書き方って、問いの設定とかというのが第1節にあって、本稿はこれについて調べる、先行研究はこうで、この意義はこうである、以下順を追ってみたいな、ある意味、そういうパターンってあるじゃないですか。それはそれでいいんですが、読む側にしてみたら、話がそこで途切れちゃうということもあるんじゃないかと思います。私が本の編集をするんだったら、そうじゃない書き方を著者に求めたいかなと。そのへんは好みの問題かもしれませんが、論文っぽい書き方というよりも、論文として提示すべき先行研究だとか、どういう資料を扱うのか等も含めて、自然に読めるように書くのが理想ですね。
 とくに『「反戦」のメディア史』以降は、基本的には本をイメージしながら、ものを書くことが多いです。もちろん個別の論文として書いたものもありますが、全般的には、これを書いたら、この本のどこに使おうとか、そういうことを考えながらやっています。だから、本を書き下ろしながら、その一部を必要があれば、個別論文として出すみたいな、そんな感じのことを意識していますかね。
 ということで、余りまとまりも何にもないですが、とりあえずこんな感じで。あとは、ご質問を受けて、お答えできる部分もあるかなと思いますので、とりあえずこの辺で終わりにさせていただきたいと思います。どうも失礼しました。(拍手)
(休憩)

2. 質疑と応答
  「辺境」という分析軸について

司会:時間が来ましたので、まず指定質問のほうからしてもらって、後、自由討論をやりたいと。
司会:一応、松田さんと角崎君の指定質問には先生のお話の中でご回答いただいたんですが、用意してきましたので、読んでいただいて、松田さんと角崎君の質問に関しては、さらに補足的なことがもし福間先生のほうからございましたら、していただくという形で自由に進めていくという形をさせていただきます。
福間:はい。
松田:先端研の共生領域2回生の松田有紀子です。
 私は『辺境に映る日本』を中心に、この本全体を貫くテーマである辺境というありさまの本質は、語りの主体性を欠いていることにあるのではないかなという感想を持ちました。そこで、「ラフカディオ・ハーン研究言説における『西洋』『日本』『辺境』の表象とナショナリティ」および「民族社会学のナショナリティ高田保馬・小山栄三の民族認識を手がかりにして」という2本の論文から、辺境の定義とその機能について事前に質問させていただきました。この点については、先ほど明快に答えていただいたんですけれども……。
福間:いえいえ。
松田:私は今、人類学を学んでいることもあり、民族社会学に注目された論文に関心がありましたので、事前の研究会で発表をさせていただきました。ラフカディオ・ハーンの研究についての論文については、福間先生ご自身が先ほどおっしゃっていたように、「西洋」「日本」「辺境」という3者関係の枠組みを軸に問題設定しておられます。こうした「西洋」に対して「日本」が持つ空間性についてのメインタリティーへの関心というものは、素材は違うんですけれども、民族社会学についての論文についても受け継がれていると感じました。
 後者の文中では、「西洋」を意識する「日本」と、その「日本」が「西洋」に対抗するために形成した「東亜」共同体という3者構造が存在し、さらに「東亜」の内部では日本を頂点とする位階構造があると指摘されています。こうした点から、「東亜」内部における「満州」「支那」「南洋」などの植民地のあり方は、前者のラフカディオ・ハーン研究についての論文における「辺境」概念を用いることができると私は感じました。これは語りの主体性が「日本」にあり、「東亜」の内部に位置づけられていた「満州」や「支那」にはないためです。
 こちらで「辺境」という表現を用いなかったことについては、先ほどお答えをいただきました。分析枠組みをかなり重視されて、掲載誌の問題もあって、そちらで書かれていたということで、ああ、なるなどというふうに納得しました。しかしながら、「日本」の発話の位置の優位性がもたらす暴力性が成立させる「辺境」という概念は、異なる時代や、他の素材についても適用しうるのではないかとも感じました。
 もうひとつ、これは私の個人的な関心ですが、「民族社会学のナショナリティ」の中で、福間先生は、小山栄三の戦後における活動の展開に言及されていたと思うんですけれども、ものすごく楽しそうに書かれているという印象を受けました(笑)。もし小山栄三の仕事と、福間先生のお仕事に何かつながるものがあればお聞きしたく思います。
福間:そうです。確かに、あの論文は楽しく書いていました。ハーン研究の論文も書いているときはそれなりに楽しかったんですが、やっぱりまだ書きなれていなかったということもあって、どう説明するのか、いろいろ悩んだりしながら書いていた印象がありましたかね。
 それはさておき、小山栄三のことで言うと、彼は新聞学史の研究の中では当然よく出てくる人なんですが、彼の人類学だとか、民族学というか、民族社会学のほうではあまり言及されないんですね。だから、彼のエスノロジーと彼の新聞研究がどういうふうにつながるのかというところがずっと気になっていました。そのあたりが、私の中では、そのときには結構はまったというか、おもしろかったかな、そんな感じですね。
 あと、「辺境」というタームを使ったり使わなかったりとかということは、さっき言ったとおりなんですが、あと、民族社会学の論文の中であまり「辺境」というタームを使わなかった理由はほかにもあって、それはインドの問題なんです。
 あの論文の中では、高田保馬が東亜民族を考えるときにインドを入れるか入れないかみたいな、そんな議論をしていたんですが、それもあって、東亜のレベルにあるものとインドを含めて議論するのかしないのかということがありました。なので、「辺境」という言葉でくくってしまうよりは、そういうものもあえて使わないほうがむしろ説明しやすいかなというところですかね。
 あと、ハーン研究論文の注での「辺境」の定義について「『発話の位置』という要素についてはあまり指摘しておられないと感じました」ということなんですが、本文でそれなりにちょっとは書いたつもりでした。とはいえ、この論文は字数がかつかつだったので、これ以上入れられないという消極的な理由があって、注もかなり削った記憶が何だかよみがえってきましたね。ということで、何かどうでもいいようなお答えばかりで、すみませんが、そんな感じですかね。

 時代をどう切り取るか

司会:では、岩田さん。
岩田:先端総合学術研究科の共生領域の1回生、岩田と申します。
司会:一応、皆さん、タイトルをつけてくださったので、タイトルの発表も。
岩田:はい。タイトルは「1920年代から30年代の連続性または断絶」というふうに書いたんですけれども、タイトルよりも、むしろ1920年代と1930年代の連続性または断絶というものについてのそのお考えをというふうには思っております。
 私は、先生のご研究、『辺境に映る日本』を読ませていただいた後に個人的に関心を持った点をちょっと質問させていただきたいと思います。
 この本で先生は、大正から昭和戦前期における日本のナショナリティの様相というのを当時の社会政治状況あるいは学問の状況、地理学ですとか国語学というものの学問の状況に即して説明されていると思います。
 具体的には、私が特に関心を持ったのは1920年代と1930年代の状況を説明しておられる箇所で、近代化をある程度達成して、日本が西洋から排除される事態、つまりアメリカの排日移民法や国連での人種差別撤廃条項の廃案などというふうな政治的な状況を受けて、逆に「日本」の特殊性を提示し、西洋とは異なる自己の正当化を図ろうとした1920年代、それに対して、「東亜」の範疇を超えた大東亜共栄圏を科学的に根拠づける地政学というものが見出されたように、西洋に対抗しながらも「日本」の枠を超えて適用されるべき普遍性を日本が提示しようとした時期というのが1930年代及び1940年代の時代であるというふうに書かれていたかと思います。これらの理論というのは、日本の対外政策の推移を考える上では、非常に的を射たものであるというふうに私は感想として思いました。その上で質問したいんですが、このような日本のナショナリティというものの理論というのは、当時の国内政策においてはどのように作用したのか、具体化されたのかという部分に関して疑問を持っています。
 福間先生は、ナショナリティの面では、上にもありますように、1920年代と1930年代には差異が認められるというふうに指摘しておられます。しかし、例えばハリー・ハルトゥーニアンの『近代による超克──戦間期日本の歴史・文化・共同体』(梅森直之訳、2007年、岩波書店)といった研究や、もっといろいろあると思うんですが、いろいろここには研究がありましたが、あるいは戦間期というふうな言葉もありますように、1920年代から1930年代を、先生がご指摘されるような差異をはらみつつも、一まとまりの時代としてとらえる見方があると思います。実際に、1920年代の状況、戦後恐慌とか金融恐慌によるような経済不安の時期、あるいは関東大震災以降の都市計画事業の振興がもたらした都市の拡大、都市化の進行というふうな時代、工業化や資本主義の進展、それに伴う矛盾の発生といった社会状況が事実としてあると思います。こういうものを事実として見ていくと、1920年代から1930年代をひとくくりの時代として見るというのは妥当性を帯びていると私は思います。
 その一方で、1920年代と1930年代の間に一定の線引きをするという見方も私はないとは言えない、差異があるというのは一定事実だと思います。明治期から行われてきた史蹟保存というのが、これは私の個人的な興味なんですが、この時期に至ってこのようなものが浸透してくる、あるいは愛郷運動というものがはやってくる、観光行政が発足する、明治天皇の聖蹟調査が始まるというふうな史実が1930年代にあって、このようなことをかんがみると、1930年代に特徴的、1920年代になかった特殊な状況といったものは独自な事実としてあるということも事実です。
 このようなことを踏まえまして、再び先生の著作に戻りまして、先生が理論化された「日本」のナショナリティの形成やプロセス及び結果とこのような一連の国内における状況──これは愛郷運動などには顕著だと思うんですが、ナショナリティの形成と密接にかかわっていたとみなせると思います──このような動向は果たして相関関係があると、先生の理論によって、このような事実関係がすべて説明可能なのかというふうな問題に先生のご見解を伺いたいと思います。あるいは、上に挙げましたような事実であるとか具体的な事例というものは、「日本」のナショナリティの形成の理論とは、ある意味では、方向性を異にしていた例外的な状況であったのかというふうなことも、先生の事例の見方、配置の仕方、位置づけの仕方、こういうふうな中での説明の仕方がもしございましたら、ご見解をお聞かせいただければと思います。お願いします。
福間:1920年代と1930年代を連続ととらえるか、断絶と捉えるかというご趣旨じゃないかと思うんですが、まず、その前に、重要というか、お断りしておくべきは、何だかんだいってこの本は、学知がどういうふうに編制されていったのかというテーマなんですね。書きながら考えていたことではあるのですが、学問とか学知といったものは、必ずしも社会とか政治の状況にリアルに反応するものではないんですね。政治評論とか社会評論だったら、まさに敏感に反応していくものなんだけれども、たとえば、ある事件があったから、いきなり学説を変えなきゃとはならないですよね。やっぱり過去の学説も保持しなきゃいけないから、そこでの葛藤もありながら、長い時間をかけて変わってきたりだとか、もちろんドラスティックに変わることもあるんだけれども、政治評論とか社会評論のように、ぽんぽん、時代を反映しているというわけではないと思うんですね。
 ただ、そうはありながらも、やっぱり学知といったものは、それ独自の構造の中で変化したり、創り出されてきたものですし、そうしたものを『辺境に映る日本』では扱っています。したがって、いろんな行政レベルのことだとか愛郷運動とかと密にパラレルになるかと言うと、そうでもないかなと。やっぱり一つの時代は、当たり前だけれども、一つの切り口で切れるわけじゃなくて、いくつもの層があるわけですよね。だから、お答えできるとしたら、そういう感じですね。
 ちなみに、私もあまり観光のこととかって詳しくないんですが、そういう観光行政にしたって、1920年代、いつ具体的に発足したのかよく知りませんが、1920年代とかに起こったとしても、それは同じ観光行政の中でも1931年の時点のものと1938年の時点のものはやっぱり違いますよね。15年戦争とかと言われるけれども、たとえば満州事変が起こったころと日中戦争が膠着している時期だと、当然、時代状況も違うし、そうなったら、同じ観光行政の持つ文脈だってやっぱり変わってくるわけですよね。だから、私も1920年代とか1930年代を一括りにしようとか、断絶しようとかというふうに考えているというよりは、よくも悪くも、あくまでも学知が編制されるプロセスにおいての議論ですかね。としか言えないかな。
 ただ、もうちょっと大きい社会レベルで1920年代とか1930年代をどうとらえるのかというと、これもよく言われますけれども、1925年の普通選挙法はやっぱり大きかったと思います。それでもって国民が政治に参加することと動員されることを一つの転機とするとらえ方は、総力戦体制などでよくあります。ただ一方で、そういうふうな状況がありながらも、それがずっと戦時期まで一直線だったわけじゃなくて、1937年に始まる日中戦争とかも、ある意味、一つの大きなターニングポイントだったと思いますし、もちろんその前の二・二六事件とかもありましたけれども。ですので、時代としては、1920年代と1930年代の断絶とか連続とかということは、私はあまり考えていなくて、時代をとらえるんだったら、やっぱり個々の社会現象にフォーカスしながら考えていきたいというところですかね。同時に、そういうものと学知というものとでは、ちょっと編制のされ方は違うのかなというふうにも思っていますかね。
安部:では、この流れでつぎは角崎くんから質問をお願いします。せっかくなので、事前に用意したものにとどまらず、先ほどの福間先生のコメイントにさらに何かあればつけ加えるかたちで。

 歴史社会学の研究手法

角崎:はい。先端研院生の角崎です。
 先生の考えておられる、「歴史社会学」、とりわけその研究方法、についてお伺いします。
 先ほど先生に、歴史社会学に固有の方法論というのがあるのではなく、分析の対象に応じて使い分けていく、というお話をいただきました。そして、ある固有の方法・対象があるわけではなくて、時間軸の問題であると、そういうお話をしていただいたかと思います。時間軸の問題であって、分析の対象となる社会ががっちりと規定されているわけではない、でも、何となく社会と呼ばれるものがあって、それを時間軸でもって検討していく。こういう研究方法として歴史社会学を説明いただいたと理解しています。
 そのうえでまず、例えば社会の歴史というか社会史みたいなものと、先生の考えておられる歴史社会学を、どういうふうにご自身で区別されているのか、お伺いしたいと思います。
 次に一次文献と二次資料の取り扱いについて質問しようと思ったのですが、すでに先生から説明いただいたので省きます。そこで追加で、先生の研究スタンスについてお伺いしたいと思います。先生ご自身もご指摘されておられましたけれども、大きく先生の研究のスタンスは2つあるようにお見受けします。いろんな広い知識というか、広い研究分野の中から比較して図式とかパターン、理論を抽出していく形式のものと、がっちりその領域について細かく記述的に分析されていくものの2つのスタンスです。先生の博士論文は、比較的、図式・パターン・理論抽出型に近いというふうに思うのですが、その後の研究は図式を意識することなく、メディアとか戦争についての語りをがっちり記述していくスタンスなのかな、というふうにお見受けしました。この転換というか、こういう差というのは、方法論について先生が描き出そうというものについて、たまたま方法を変えておられるというだけなのか、それとも、先生は図式とかパターン抽出といったものについて、当時、博士論文を書かれたときよりも、少し懐疑的になったということなのか、お伺いできればと思っています。
 以上です。
福間:そうですね。おっしゃるとおり懐疑的といえば懐疑的かな。そういうパターンを抽出するようなやり方は、もちろんあってもいいとは思うんですが。今も改めて、『辺境に映る日本』についての皆さんのコメイントとかを見ながら、もうああいう感じではやらないかなというのがちょっとありますね。もちろん、あの本は自分にとって何か否定すべきものでは毛頭ありません。ただ、その後、私の中では、社会学であることよりも、歴史学者から手続きとかでクレームをつけられないように、ということは意識してるんですよね。
 というのも、私は大学院の途中で社会学から政治思想史の講座に移っているんですよね。なので、歴史学をじっくり学んだタイミングは遅れているわけだし、その分、どこか歴史学の重さや怖さを意識してるというところはあるのかなと。
 あと、もう一つさっきも言った野田宣雄先生から言われたことも大きかったですかね。矛盾を矛盾としてどういうふうに読者に提示するのか、そういう記述の仕方をそれなりに意識しているということもあって、何かのパターンの抽出みたいなことへの関心は薄れましたかね。
 『辺境に映る日本』での仕事の仕方が悪かったと思っているわけでも何でもないんですが、そうね。何か……。
安部:素材による違いとかはやっぱありますか。
福間:あ、それもありますよね。『辺境に映る日本』のほうは、やっぱりロングスパンで、しかも広い対象を扱ってたんで、当然ああいうふうな仕事になってくると思うんですね。
 でも、その後は個別論文単位でいうと、ミクロな問題にフォーカスして、そこからどういうふうに話を膨らませていくのかということのほうに興味が移っていますかね。その意味で、ちょっと変わってきているところはあります。でも一方では、やっぱり『辺境に映る日本』などの仕事はやらなきゃいけないなとは自分でも思っていて、多分この仕事をやるのは俺やろうというのも、ちょこっと実はあるんだけどね。
 ただ、その後やってはないし、やるとしたなら戦時期から戦後にどういうふうに知が移り変わっていったのかということをやろうと思うんですけど、そこでも『辺境に映る日本』のときのような、何かパターンを抽出するような、そういう記述になるのかどうかはちょっとまだ見えないかな。
安部:ですから、今の先生が同じテーマについて書かれた場合には変わっていくだろうと。
福間:うん、そう……、やっぱり何か若気の至りかな。だからできたのかなと思うこともある一方で、やっぱりじかにそういう歴史とか思想史がらみの人との接触もふえてくるじゃないですか。活字でしか知らなかった人と実際に知り合いとかになると、ああ、やっぱりこの人にこんなこと言われるかなとか、過剰に意識せざるを得ないという、そういう消極的なこともあるし。あと、もう一つは、事実とか具体的な資料とかを、できるだけ深く読み込んでそこから何が言えるのかという、そういう記述の仕方のほうが、何か最近おもしろくなってきているということもありますかね。だから、今『辺境に映る日本』の仕事をやったら、多分記述の仕方は変わっただろうし、逆に果たして書きあげることができたのかな、という気もしますね。
 だから、よくも悪くも、まぁ若かったがゆえに書けたのかなという感じですかね。いずれは、あれの第二弾はやりたいなとは思っているんですけどね。
 あともう1つ何かなかったっけな。
角崎:社会史との差について、おっしゃっていただければ。
福間:社会史、そうですね。あまりそこは意識はしてないですけど、何となくイメージだけど、社会史もやっぱり歴史でしょう。社会の歴史であって、社会学じゃないですからね。だから、やっぱりある時代の文字にならないような社会状況をどういうふうに調べるのかというのが、多分社会史だと思うし、だから、ある意味歴史学の一部門ですよね。
 そこからどういうパターンなりメタレベルのものを抽出するのか、あるいはそれとも事実の確認に終わるのかというのは、多分、どういう対象を選ぶのかによっても違うと思うしね。
 だから、さっきの話じゃないけども、社会史も歴史社会学的になることもあれば、そうではない──よくも悪くもね──こともあるでしょうし、そんな感じですかね。あまり期待されるようなお答えになってないかもしれませんが。
安部:もうひとつだけよろしいですか。
 せっかくの院生研究会の企画なので、もうすこし論文作成上のヒントになるような突っこみというか、プラグマティックな観点から踏みこませてください。おうかがいしたいのは、ある素材をまえにしたときの先生の嗅覚といいますか、要するにこの素材だったらパターン型、この素材だったら記述型、とのような見立てはどうなっているのかという点についてです。というのも、素材によって、たとえばパターン的なものに落としこむことによって、新しいもの、新しい局面を見せれるという場合、むしろやっぱり事実に、事実こそに雄弁に語らすことによって同じ目的が達成される場合と、まあこれはすごく単純なんですけど、両方があると思うんですね。
福間:要は、何を基準にどういう対象のときにはどの記述の仕方を選んでいるのかということですよね。
 それはね、単純に資料を見ながら何がおもしろいと思ったのかという、そこですよね。わだつみ会の歴史とかのことは、やっぱりそこで出てる議論そのものがおもしろかったから、できるだけそこから離れないように書きました。『「反戦」のメディア史』だったら、世論popular sentimentsと輿論public opinionの交錯がおもしろかった。資料での議論を世論とか輿論とか名指すときには、ひとつ抽象化が必要なんだけれども、それをやったほうがおもしろいだろうと。そうやって見えるものもあるしね。
 だから、どういうやり方を選んでいるのかといったら、どうやって自分が何をおもしろいと思ったのかという、簡単に言ったらそんな感じですね。
安部:はい、わかりました。

 「語り難さ」「オルタナティヴ」

櫻井:ほかの質問とも関連することになると思うんですけど、私の質問は2つあります。1つは「語りがたい」ことについてで、すでに福間先生にご説明いただいたかもしれませんが、「語りがたい」ことを福間先生がどう定義しておられるのか、そして福間先生が「語りがたい」ことにこだわられている理由についてお尋ねしたいと思います。あともう1つ、私はもともと歴史学出身で、そこから社会学に行きついた者なので、歴史を記述することで何ができるのかということについて、いまだによくわかってないところがあります。それについて、何かもし先生のお考えがあればお聞きしたいなと思います。
 1つ目なんですが、たとえば「『原爆マンガ』のメディア史」では、『はだしのゲン』の作者である中沢啓治さんの、戦争の恐ろしさが感動に心地よく回収されることへの拒絶感が、「器=メディア」の力でかき消されてしまう点に注目しておられます。ここには「語りがたい」ことをわかりやすく語ってしまい、それが受容されていくことで、その「語りがたさ」自体が忘却され、「語りがたさ」の中にあった可能性すら忘れられていくことについての現代への警告、そういったものが読み取れるかと思います。また、『「反戦」のメディア史』でも、「語りがたい心情の語りがたさに踏みとどまりながら、いかにそれを開かれた輿論へとつないでいくのか」を構想すべきであると指摘して終わられているところから、福間先生が「わかりやすいこと」を否定し、「語りがたい」ことにこだわっておられることがわかります。ただ、この「語りがたい」ことということを福間先生がどう定義しておられるのかという点が必ずしも明確ではないように思います。たとえば、「『原爆マンガ』のメディア史」では、作者の中沢さんがほかの方の絵を見て、自分が体験したのはこんなものじゃないということをいって批判をするけれども、自分が描いたものもまだまだ足りないというか、そういう「語りがたさ」みたいなものを持っているというのと、あと社会的な「語りがたさ」というのがあって、つまり『少年ジャンプ』にはちょっとその内容は載せられないとかそういうことで語れなくなっていく「語りがたさ」もあると思います。任侠映画なんかでもそうだったと思うんですけど、任侠のスターたちが入ってくることによってそっちのほうにシフトしていったという、社会的な「語りがたさ」と、作者などが抱いている「語りがたさ」というものが、どう分けられていくかということが、ちょっと私には見えにくかったので、そのあたりをお聞かせいただければと、1つは思います。
 もう1つのほうは、歴史記述についてです。たとえば『「戦争体験」の戦後史』で、福間先生は「語りがたい」ことに注目され、そこから「英霊」を顕彰しようとする議論と戦争責任を考えようとする議論が二項対立する形になって硬直してしまっているのを解きほぐし、そこから新たな道を提示しようとされているように私は思いました。すなわち、歴史を記述することで、現在の議論に介入しようとしておられます。私自身、そういった態度に賛同する者なんですが、同時に、賛同するがゆえに、この後、福間先生がどういったことを述べていかれるのかがわからなかったんです。
 というのは、私自身の話をすれば、私は死刑執行人の歴史社会学的研究というのをしておりまして、死刑制度の存続か廃止かといった二項対立の図式になって硬直してしまっている議論、死刑存廃論というのがあり、その議論に新たな光を投げかけたいと考えているのですが、その後どうすればいいのか。日本における死刑執行の歴史や社会学的研究についてはまとめたつもりですが、その後、何をしたらいいのかなというところが見えない状態にあります。つまり、歴史を記述することでできるのは、こんな可能性があったという新たな道の可能性を開くまでで、その後、何らかのオルタナティヴを示すには別の手法が必要になってくるのかなというふうに思っています。もちろん、フーコーのようにオルタナティヴを示す必要がないというふうに言うこともできるかと思うんですが、また歴史を記述し、可能性を開くことが重要であることについてまったく異論はありませんが、はたしてそれだけでよいのだろうか、という思いがあります。たとえば、歴史社会学者のスコッチポルは『失われた民主主義』の中で、アメリカの自発的結社の変容の歴史を丹念に記述したあと、現在のアメリカ民主主義の新たな道というのを提示します。その中で、アメリカはこんなふうにやったらいいというんですが、それはなんだか突然出てきたような感じがあって、歴史を記述することと新たな道の提示というのがうまく連結していないように私には思えました。
 そこで、福間先生は歴史を記述した後に、現在の硬直した議論に介入し、何らかのオルタナティヴを提示するつもりがおありなのか、もしそのつもりがおありであれば、どういった手法をとられるのか、その点をお聞かせ願いたいと考えております。これは歴史社会学にさらに何ができるのかについての質問でもあると考えております。
 以上です。
福間:まず、「語りがたさ」みたいなことを、どういうふうな意味で使っているのかということなんですが、本人が語れないことと、表現できないということと、その出版のレベルで書ける、書けないとか問題があるということでしたが、私はそこのところは特段大きな区別を意識しているわけじゃなくて、むしろわかりやすさの反対として使っているんですね。
 中沢啓治のさっきの話みたいに、描きたいんだけれども表現できないとか、そんなこともあると思うんですが、私としては、そこのところは、わかりやすさとか心地やすさの対照項として、語りがたさという言葉を使っているという感じですかね。
 その関連でいうと、こんな場でこんなこと言っていいのかわかりませんけども、やっぱり学問とかやっていると、つねに定義をきっちりやってとか本当によく言われるし、多分大事なんだろうなと私も思います。でも、定義をするって、手段であって目的じゃないと思うんですよ。つまり、定義をすることによってそれがわかりやすくなるのか、そういうことも多分多いと思うんですけど、かえって何かがそぎ落とされてしまうこともあると思う。こういうふうに定義をすることによって、その周辺のものが見えなくなったりするし、そうであれば、少々のあいまいさが残っても強引にそれで書き続けるほうが、議論としては膨らむということはあると思うんですね。
 もちろん、かっちりした学問の記述の仕方でなければ、目くじら立てる人も中にはいるかもしれませんが、それはあくまでも閉じた学問の話であって、その学問の世界の人たちのみならず、それ以外の人たちにも、どういうふうに議論を提示するのがいいのか──そこを目的と考えると、何でもかんでも事細かに定義をすりゃいいというものでもないのかなというのは思いますかね。
 だから、それもあって、無理に事細かに定義めいたものをあまり書かないようにしてますかね。『辺境に映る日本』では、多少定義めいたことは書かざるを得なかったので書きましたけど。
 あと、そのオルタナティヴとか、今後の新たな道を提示しようとしているのかどうかということなんですが、それもオルタナティヴが出せたら出したらいいし、出せなかったら出さなくていいんじゃないというのが、正直なところですね。
 やっぱりどこかで禁欲しなきゃいけないことってあると思うんですね。議論してきたことのその次を、私が言うほうがいいケースももちろんあるでしょうし、逆にだれかが議論を紡いだらいいケースもあってもいいと思うわけですね。自分のなかで、次のステップまで言うのはかなりの飛躍感があるんだけれども、だれかが議論してくれる分には構わないということって、あるじゃないですか。
 その意味でそうですね。オルタナティヴ、今後の議論のあり方みたいなものは、一応『「反戦」のメディア史』とか『殉国と反逆』、『「戦争体験」の戦後史』とかもそうかな。それっぽいことは自分では書いてるつもりなんですが、それを声高に叫びたいとは思わないかな。だから、これからのあるべき未来像みたいなものを描くことには、さほど興味がない。そもそも、これからのあるべき理想像みたいなものを、私が語るのがいいのかどうかというのは、どこかで疑問に思っています。たしかに、そういうものを提示することに有用性はあると思うんですけれども、そういうものを何か華々しく語るよりも、そこまで一足飛びに行けない躊躇いというか、そういうことを示すのが、学問というか歴史学に今求められているものの一つじゃないかなと思うんですよ。安田武の言葉を使っていうと、憶病であることにあえて踏みとどまるということは、実は大事じゃないかなというふうに思っているんですね。
 だから、あえて軽々しく未来のあるべき姿みたいなのは語らないようにしている、というところはあります。そこに行く前でもがかざるを得ないところをどういうふうに提示するのか。逆にいうと簡単に未来は語るべきではないとも思うんですよね。そのなかで、いろんなものが見えなくなってくることもあり得るわけだから。そういうことを、どこかでちょっと思っていますかね。
 あと、そのちょっとオルタナティヴの問題とは若干違うような、違わないような感じなんですが、数年前の『殉国と反逆』の合評会での話をちょっとしておきましょう。そこで、ある若い研究者に、何か加害責任を追及しようとする議論に対して、水を差すような感じがあるんじゃないのかみたいな、そんなことを言われたことがありました。たしかにそれはそうだと思います。ただ、私の本心としてはむしろ「加害」「責任」をめぐる議論には共感があるし、刺激も受けてきたつもりです。しかし、記述するときに実はちょこっと「右寄り」にも見えるように書くことを、一応意識しているんですよ。
 というのも、私の中では結局、「敵」にどういうふうに届くのかということをどこかで考えているんですよね。もちろん過去の責任を問うということは大事なんですけれども、議論をする以上、そう思っていない人に届くのが、本当の至上命題のはずですよね。
 だからってわけじゃないですけれども、どこかで違う立場の人を意識しながら書くところがありますかね。私の中では、それも一応ひとつのオルタナティヴを提示しようとしていることでもあります。
 一方で、そこで一足飛びにあるべき議論のあり方みたいなものを語らないというのも、そこにあるというか、そうですね。ぼそぼそとためらっているところをどう出すのかみたいな、そんなことを多分どこかで思っているのかなという感じがしますかね。
安部:感想になるのですが、それってむしろオルタナティヴを積極的に出されている感じがするんですね。理想や未来についての語りを禁欲すべきみたいなおっしゃり方もありましたが、ためらうというその態度じたいがまさにメッセージの、それもかなり積極的な提示になっているとぼくは思っていて、そのあたりはいちおう倫理学やってる者としても、わりと気になっているところでもあるんです。「正義」という言葉や「権利」もそうなんですけど、ぼくはちょっと何か個人的な主義主張趣味嗜好もありながら、それらをもちいた語りに何か乗れないというのがあって、その理由は今日は言いませんけど、輿論と世論の話は、私は結構気になったところで、わりとインスパイアされたといいますか。つまりそういう態度が、括弧つきの倫理ですけど、やっぱりあるかなというのがあって、それはいわゆる命題的なかたちでポジティブに提示できるものではないので、またちょっと違うかたちをとらざるをえないと思うんですけど、それは我々といいますか先端研、つまり「コア・エシックス」を標榜する者としては櫻井君的な問いはぼくには結構わかるなというのがあって、今のお話もその点ですごく示唆的な感じがします。
 ちなみに、これは余談なんですけど、天田先生がよくいう「厄介さ」と、その「語りがたさ」というものとの位置関係はどうなんですかね。似ている部分があるようにも思うんですけど、すみません、天田先生、急に振って。
天田:聞いていて「なるほど。それはそうだろうな」と思っていました。要するに、「語り難さ」云々といった時に、ある意味では分かりやすく語ってしまってというところを、そうさせないために「語り難さ」と表現してしまうけどれも──実はそれ自体が「分かりやすい語り」なのですが──、むしろそこで重要なのは「語り難さ」という記述そのものではなくて、言うなれば「語り難さ」の内実や中身であったり、その「語り難さ」自体がどういう位置づけの中で語り難いのか、どういった言説の構成の中で語り難い状況になっているのか、といったことが重要であると。むしろ、「語り難さ」語りで皆が「うんうん、みんな語りがたいよね」と納得してしまう危うさのほうが大きいこともあると。
 そういう意味では、「語り難さ」それ自体もまた言説の構図の中にある一つであって、戦後日本社会において語り難いといってきたこともまた同時に構成されてきていると思うんですね。
 そうすると、ある意味では、ありていな語り難さというわかりやすいお話に落としちゃダメということになります。語り難さということでわかりやすいお話が調達されてしまう。やはり『はだしのゲン』なり何なり、わかりやすさの部分に落としてしまうことの危うさがある。「そんなふうにみんな感じていたよね」という言い方そのものが、反復されつつも、歴史的に忘却されていったという側面もあるわけで、そこを対象化するとき、福間さんはそれをどれぐらい方法論的に──方法論という大仰な言葉でいう必要もないのですが──意識化して、自らで仕事をされてきたのかというのが、1つの大きなポイントかなというふうに思ったんですけど。
福間:それでいうと、語りがたいとかいうその意味合いの言葉を使っているかどうかじゃなくて、その言葉を発話しながらどういうふうに行為しているのかが多分問題だと思うんですよ。
 いつもは当然のことながら、そこを意識しながら書いていたつもりなんですけど、要は確かに語れないよねと言ってしまったら、もうそこで終わっちゃうんですけれども、ある意味何から距離をとろうとしているのか、何を拒絶しようとしているのかという、その多分行為のあり方だと思うんですよね。
 だから……、うん。という感じですかね。はい。

 規範化との距離感

天田:そこはなかなか面白かったところで、福間さんが自分の仕事を完成させてきた時代状況を反映してか──かく言う私も同じ時代に博士論文を書き上げた者の一人ですが──、この博士論文の中で最初に書かれたのは、発話の内容以上に発話がどの場でいかなる相手に向けられ、それがいかに発せられたという問題意識──ありがちな言葉でいうとパフォーマティビティということになるのでしょうが──が背景にあって、そこにそれなりの力点が置かれて博士論文は書かれていたように思うんです。
 だからこそ、これだけ多様なテーマを1つにつなぐというか、1つの本にまとめられたのかなというように思ってます。だから、櫻井さんが指摘したように、その語り難さをあえて批判論的に論じたいというよりは、むしろそれがどういう力学のもとで発せられ、それがどういう効果をもたらしてしまうのかという意味で記述されたんだろうと思うんですね。
 そのあたりの「こだわり感」が恐らくその櫻井さんが言われていた規範への距離というか、あるいは規範論へのとまどいというか、憶病であること、そこを一定の距離をとらざるを得ないところの立ち位置へと突き動かしているというか、そんな気がしてますね。
福間:そうですね。だからそうですね。今言われて思ったのは、松田さんにお答えしたときに、私が院生時代にどういうふうにちょっと微妙に変わっていったのかということがありましたが、そうですね。ナショナリズム批判の議論とか、あとオリエンタリズム論とかも当時結構興味があって、そのことも念頭に置きながら『辺境に映る日本』を書いたんですけど、そういう高飛車な──そう言うとナショナリズム批判の議論に対して失礼というかそういうつもりはないんです──、つまり自分の立ち位置を正しいと思って語ってしまうその議論の仕方が、だんだんとちょっと引っかかるようになってきたんですよね。
 そういうのが何か悶々と思っていたなかで、その戦前・戦後の議論だとか、あと特に安田武ですよね、インスピレーションを受けたのは。それを読んで、そういう規範っぽいものに対してどういう距離をとるのかということを、わりと自分の中でも明瞭に意識化するようになったかなと思います。ちょうどそのころに、安田武の文献にたまたま出会ったことは大きかったですかね。
 あとは、ちょっとこれ変なことなんですけれども、PHPという会社がわりに規範的な社風なんですよ。その点はずっと嫌だなというのがありました。だから、自分の中では「正しさ」みたいなものに対する懐疑というか、距離をとりたいとかいうのは、そういうベタな体験もちょっとつながっているところはあるんですけどね。

 「過去の事実」の論じ方

天田:あともう一つ、ついでになんで大変恐縮ですけども、できるだけ院生の時間をとりたいと思いますので、本当に簡単にコメイントします。先ほど話してくださったように、敵に(相手に)どう説得するかという際には、過去について乱暴なことを言っている輩に対して「事はそう単純じゃねえぜ」というか、「乱暴なこと言うなよ」という感じで批判的していく姿勢のように思うのです。
 ただ、「敵」の中には、歴史記述の正確さよりも、「歴史は確かにそういう歴史かもしれないけれども、ある意味ではこれが正しいんだ」というふうに言っちゃう人もいるわけですよね。つまり、歴史はかくかくしかじかのように構成されてきたとしても──例えば、さっきの話だと、西洋からの「排除」とか「遅れ」というものを意識しつつ、日本の特殊性というものを提示して自らの正当性を企てた1920年代から、ナショナリズムに照準して大東亜共栄圏という基礎づけを行いつつ、西洋に相対しながら日本の枠を越えてその普遍性を提示したというポリティックス中で現実はあったんだ、といった筋書きであったとしても──、歴史はそのようにあるかもしれないけれども、やっぱり日本という国はかくかくしかじかであるべきだと言っちゃう人がいるわけです。たとすると、その人に対しては何がしかこちらが正しい話というか、事実認識を正すだけではなく、自らで「こうである/あるべきだと思う」という主張をすることも要請されてしまうわけです。そう言わざるを得ないというところがあるけです。事実問題をめぐる敵の想定をきちんと検証して、これは間違っている、これは正しい、といった事実命題を正すふるまいは常に重要であるのだけれど、例えば、相手が「過去の事実はどうでもいいんだ。俺はどうあるべきかを問うているのだ」と主張した時に、福間さんの態度がどうであるかと思うのです。
 安部さんが指摘したように、どこかで過去に関する言説に距離をとりながらも、福間さんの立ち位置の規範性というものがある。それは安部さんが後者として言われたところに近いのかなというふうに思って聞いていました。おそらく先端研の院生たちは多分そのあたりに関心があって、先ほどのような質問をしたのであろうと、横で聞いていて思いました。
福間:そうですね。どこまでちょっと十分咀嚼できたか心もとないんですが、どう言ったらいいかな。ちょっと整理しますね。
 確かに事実でもってねじ伏せる、それも1つのあり方だし、ある意味歴史学ってそこが一番おもしろいところだと思うんですね。
 でも、これ私は社会学の出身だからかもしれませんが、結局正しさそのものが、そもそも時代の文脈の中で発見されていくわけですよね。つまり、あるものは所与に正しいわけじゃなくて、正しさは発見されていくし、『辺境に映る日本』でも、そこを描いたつもりです。
 そういうことを考えると、事実を叩きつけるというのもありかもしれませんが、私が思っていたのはそっちよりも何というのかな。むしろ事実も何もなく情念のレベルというのかな。根拠なくこうとか、日本は正しいんだとかという議論もあるわけじゃないですか。だから、むしろ想定しているのはそっちですよね。
 そっちを想定すると、事実を叩きつけるのもひとつかもしれませんが、議論の仕方そのものを整理することのほうがむしろ大事なんじゃないかと。議論の渦中で議論するんじゃなく、一歩引いて、議論の仕方そのものを追いかけるなかで、過去にはじつはこういうふうな議論もあり得たんじゃないのか。そういうところを洗い出すということですかね。
 これまでの本では、ナショナリスティックな議論からどういうふうに自らの責任を問うような議論に持っていくのかみたいな話にもふれました。そういうふうに、相手の論理を突きつめたり、それを逆手に取った先に、何が見えるのか。そう言っているけど、実はもっと突き詰めたら違うんじゃないか──そういう論法を考えていましたかね。
 とくに『殉国と反逆』や『「戦争体験」の戦後史』では、その辺を意識してました。『辺境に映る日本』のときには、そういうことは考えてなかったわけでもないですが、それほど重視はしてなかったですね。むしろポストモダン論的なナショナリズム論というか、ホミ・バーバだとかデリダとか使いながら、ナショナルなものがずれていって覆されていくんだみたいな、そういう議論に対する違和感みたいなものがあって、じゃあ、そこを突き詰めた先に、でも実はこういうふうな暴力があるんじゃないのかみたいなところを描こうとしたのが、あの本ですね。

 博士論文や最初の著書の位置づけ

天田:そういう意味では、その相手の議論の土俵そのものが描けるような、歴史的な構図が描きだし、時代の中での「正しさの発見」ということが福間さんの仕事のスタイルかなと思ったところです。
 そういうことを踏まえて改めてお聞きしたいのですが、私の直観だと、博士論文ないしは最初の本というのは、基本的にその研究者の言いたいことを概ね集約しまっているように思うのです。極端に言えば、概ね最初の本でその人の言いたいことがほぼ言い尽くせられているという感覚があります。その後の本はもちろんいくつも新たな論点は加わっていき、議論も精緻化されていくけれども、その研究者の最も核心的な部分は最初の本に(多くの場合には粗い形であっても)概ね表現されている。
 そういう意味では、私は最初の本(『〈老い衰えゆくこと〉の社会学』2003年、多賀出版)というのは多くの課題を積み残した仕事となったと反省しながらも、それでもそこには今日に繋がるような核心の部分がやはりいくつも埋め込まれていると思うわけです。
 福間さんはそのあたりの自己診断はどうでしょうか。1つには、ご自身の博士論文に対してどう思っているのかというのを率直に聞きたいのです。それと、もう一つには、福間さんがあまり想定されないのもしれないような歴史診断の部分についてお聞きしたいと思います。つまり、ある意味では、先ほど言ったように、西洋からの排除や遅れを意識化しつつ、日本の特殊性を提示し、それで西洋とは異なる日本の正当性を打ち出した20年代と、東亜の域を越えて大東亜共栄圏というものを基礎づけつつ、日本の枠を越えて適用されるナショナリズムのせり出しによる普遍性を提示していこうとするプロセス──更には、言語の水準でのオリエンタリズムといった社会的帰結を含めて──は全くその通りであると思いますが、それとは別の水準があるとも思うのです。こうした「ナショナリズム」という水準だけではなくて、もう一つここには「言語」という水準でも書かれているように思うのです。例えば、古くて新しい問題であるフランクフルト学派系の問題系として「我々は『遅れている』がゆえに、逆に我々には西欧が相対化できる」という主題があり、要するに、言ってみれば「西洋社会に対する西欧自らによる社会科学における自己反省の文脈からすれば、『排除された/遅れている日本』は逆説的にむしろ社会科学における自己反省の中で徹底化した相対化が可能となるポジションにいる」云々といった時代が20年代、30年代というか30年代ぐらいにせり出していく。そうすると、要するに、トップランナーたる西洋よりも2番手・3番手である日本のほうが、あるいは東洋という中途半端なポジションからのほうが、逆に、相対化しうるのである、といった感じがあると思うのです。つまり、屈折しているがゆえに、あるいは遅れているがゆえに、2番手・3番手ゆえに、近代というものの限界が見えていくんだ。そこが、ある種、屈折しつつナショナリティと接合するみたいな、そういう論点もあり得ると思うんですね。
 今回も、西洋/日本、あるいは日本/辺境という構図の中でそれらを新たに問い直すという設定になっていると思うので、近代という軸を入れると、素直な近代が終わった後の各ポジションにおける自意識感という観点から──西洋からの距離の程度や濃淡や性質などの観点から──西欧・日本、日本/辺境という構図がどのように構成されてきたのかなどはどうお考えになっているかとかが気になったところです。そうした「歴史診断」をお聞かせ頂ければと思ったところです。
 繰り返しになりますが、博士論文に対する自己診断と、上記のような意味における近代を軸にした歴史診断をどのようにお考えになっているかについてお考えをお聞かせください。私からは以上です。
福間:そうですね。後のほうの質問からすると、どうでしょうね。多分、遅れているがゆえに何が見えているのか、いたのかということは、一応ちょっとは考えていたつもりなんですよ。
 ただ、それ実際見えていたかどうかということよりも、恐らく遅れているという言葉でとらえていたかどうかは別にして、日本は西洋とは違う近代化のプロセスをとったがゆえに、自分たちの特殊性を考えていた議論はあったし、でも、そうであるがゆえに西洋のあり方とは違うものとか、そうではないものが見えているとかという言説、あるいはその背後にある心性というのはあったと思うんですよ。それは柳田民俗学にもどこかにあったと思いますし、方言学だとか沖縄学とかでもあったとは思うんですよね。
 ただ、本当に遅れていたがゆえに見えていたのかどうかということも重要だと思うんですけども、私はむしろ、そういうふうな意識から何が創られてきたのかということに興味がありました。閉じた日本像みたいなものができたりだとか、逆にその延長で知らず知らずのうちに東亜民族論みたいな、閉じた日本像を覆すかのような議論が創られてきたりだとか。そこでは、日本の「遅れ」をどう位置付けるのかということが、さまざまに作用していたんじゃないかと思うんですね。
 あとは、私の評価として20年代なり何なりの議論が、何らかの意義というのかな。見えているものがあったと捉えているのかというと、そこのところは正直、懐疑的ですね。ただ、興味深いのは、沖縄学の伊波普猷の議論などでしょうか。日琉同祖論を唱えつつ沖縄の特殊性とかね、そういうふうなものを議論しました。1960年代後半になって伊波はかなり批判されるようになってきますけれども、実際、沖縄に特化したがゆえに、ある種の国民国家の暴力のようなものを、戦前期のあの時代でありながら、伊波はそれとなく描いていた。そのことには、かなりシンパシーは感じますね。
 あと、博論の位置づけなんですが、さっきも言ったように、自分としては今だったらああいうふうには書かないかなというのが、やっぱり正直あるんですが、でも、いまのようには考えてなかったがゆえに、一応あそこまで何とか話をやや強引にだけれども、持っていけたのかなという、そういう充実感というか、そういう何か微妙な感じですね。そうですね。
 もちろん最初の本もそれなりに気負って書きましたけれども、自分の中でそれ以上に大きなウエイトを置いていたのは、二作目なんですよ。つまり、一作目は指導教官がどれだけコミットするのかということもあり得ますから。私の場合、指導教官は結構自由にさせてくれてたわけですが、でも、やっぱり自分のオリジナルな仕事と見られるかどうかは、ケース・バイ・ケースだと思っていて、だったら評価として大きいのは、たぶん二作目なんだろうなと、自分の中では思っていました。
 だから、ほかの人が見たらわかりませんけれども、自分の中で根本的な議論が出尽くしているとしたら、一作目だけでなくて、一作目と二作目なのかなと思いますね。
 その後も博覧会のこととかもやりたいとは思ってますけれども、それだったら多分どこかに『辺境に映る日本』のことがあるでしょうし、戦争関連でメディア史っぽいことをやったら、『「反戦」のメディア史』をどこかで意識しながらやるでしょうし、そんな感じですかね。お答えになっているかどうかわかりませんけど。
天田:最初の本でも2冊目でもいいんですけど、出なかった感というか、これ何だったのかみたいのなのかいう感覚はどうでしたか。
福間:ここはアンビバレントですよね。
天田:もちろんそうですね。
福間:間違っていると思いたくないということも含めて間違ってないとは思っているんですよ。でも、なんだけど、一作目も二作目も両方そうですけれども、やっぱり図式をよくも悪くもですけど意識はしてました。だから、そうではないような記述の仕方がもしかしたらあり得るのかなと思って、三作目、四作目を書いたという感じですかね。
 ですから、どうなんでしょうね。間違っているとか間違ってないとかいうよりも、そこは出来不出来は措いておいて愛着があるみたいなそんな感じですかね。どら息子でもかわいいみたいな、そんな感じじゃないでしょうか。
天田:わかりました。以上です。

 ナショナリティをめぐって

小川:先端総合学術研究科の研究生の小川浩史と申します。よろしくお願いします。
 私の質問はこれまでにでた質問と若干もしかしたら重なる点があるかと思うんですが、私は『殉国と反逆──「特攻」の語りの戦後史』をクローズアップして、そこで疑問に思ったこととか、私自身の、ちょっとかなり自分自身の問題関心に引きつけた質問となっていると思います。その点はお許しください。
 まず、その著書のなかで、「あえてナショナルな戦争体験に執着しながら、ナショナルな物語を内破し、そこから自己への批判的な視座と他者との開かれた対話にいかに結びつけていくのか」というところが、最後の結論として、実は、私はかなり共感をしながら読ませていただいたんですが、その点で、まず一つ目の質問は事実確認的なものですが、「ナショナルな物語を内破する」ということが、つまりナショナリズムの民族的な境界をも内破するものであったのかどうか。実は、この本を読ませていただいたときに、かなり語りがたさということに重要性を見出していらっしゃるというか、そう理解したんですが、そのときに渡辺さんは「忠節」を潜り抜けたなかに批判的な観点を生み出していくんですが、そこでもやっぱりみずからの国民の責任を突き詰めようとしていたということが書かれていて、さらに松田さんのところでも、被害者のなかの被害者であるアジアの人々の視点がないというふうにされていたんですが、松田さんはその議論をやっぱり加害責任の問題、おそらくここは国家や国民としての加害責任の問題なのかなというふうに感じたんですが、福間先生は彼らの議論が脱構築的な契機として読めるということであったので、その内破がつまり民族的な境界、ナショナリティの境界を越える契機を孕んでいたものだったのかどうかということと、それと最後の結論として福間先生が提出された「自己への批判的な視座と他者との開かれた対話」、これはつまり国民性というか境界を維持したまま、何かしら他者との開かれた対話というか開かれた他者性のようなものを考えているのか、それともそうじゃない立ち位置、境界線を越えたところにあるような、うまく言いがたいのですが、そうしたものに立ってそうした問題を考えていこうとしているのかという点について質問させていただきました。
 2つ目については、これは現在、物語と歴史についての研究会も私たちはやっているんですが、その問題と歴史社会学の問題に引きつけてちょっと質問させていただいております。
 まず、福間先生のこの著書のなかでは、メディアとしてどのように戦争の記憶が受容されていたのかということが、とくに「特攻」の語りにおける「殉国と反逆」をクローズアップした思想史的なというか研究だというふうに私は受けとめたのですが、それでもしかしそれは歴史社会学的な研究だと勝手に解釈させていただいたんですが、そのときにそこで提出された、やはり私も重要だと思ったんですが、あえてナショナルな戦争体験に執着しながらナショナルな物語を内破するということを歴史社会学の問題として捉えたときに、歴史社会学としてやはり歴史を記述して、何かしら変容を分析していく、それが「物語」をどのように、これまでの歴史社会学はおそらく「物語」的なものは取り扱ってこなかったんだろうと思っていますが、それにどのように執着しながら歴史社会学的な研究を進めることができるのかどうか。これは、福間先生が後でおっしゃったときに、必ずしも歴史社会学的なものでもないということで、櫻井さんの質問とも重なりますが、つまり歴史の記述の可能性の議論というか、その考えというもの、ということで違いはあるかと思うんですが、私の場合はまだその歴史社会学的な研究をしていきたい。そこの問題意識から考えたときに、ちょっと漠然としていますがどのようなやり方というか、どうすればいいのかというのが私の質問です。
 それと、もう一つですが、それが歴史社会学的な方法ではないにせよ、ナショナルな物語を内破するということは、つまり歴史記述を学ぶこととかというものとは別のものであると、歴史を語ることと物語の問題ですね。語りがたさ、この2つについて、歴史と物語、それと語りがたさの問題について、ちょっと現在の福間先生のお考えをお聞きしたいというふうに思いました。
福間:そそうですね。最初のほうでいうと、ここではいわゆるナショナリティの問題というか、国民国家論みたいなそういう感じですよね──は、そういうレベルでは、たしかに特に意識はしてないんですよ。
 『辺境に映る日本』のころは、たしかに国民と名指すなかで孕まれてくるような、いろんな暴力とかに興味もあったし、今でも興味ないことはないです。ただ、『殉国と反逆』は「戦争」「特攻」をテーマにしています。なので、国民としてのアイデンティティそのものを問うというよりも、戦争をめぐるその議論のあり方に特化したというふうに考えています。それでも、その議論のなかでは、必然的に国境の問題はどこかで出てはきますかね。 
 国民としてのアイデンティティの問題とも、つなげようと思ったらつながるんでしょうけれども、ちょっと別の問題として考えるほうが、多分議論としては通りがいいのかなとは思ってました。
 あと、歴史と物語とかの問題なんですが、どう言ったらいいかな。歴史もいろんな記述の仕方があるとは思うんですけど、私は歴史をミクロに見ていくことで、これまでの見方をどういうふうにつくり変えていくのかということに興味があるんですよね。
 ただ、それが歴史でなきゃいけないのかどうかはわからないですけど、たまたま歴史に興味があるんでやっているだけという感じですかね。
 歴史学もたしかに大きな歴史のうねりとか記述するような、そういうやり方もあります。ただどうなんでしょうね。過去の史実に向き合うということは、意外な現在を浮かび上がらせるということでもあると思います。やっぱり物語というかな、そういうすっと矛盾なく予定調和的に物事が動いてきたわけでも何でもないわけだし、歴史を見るということは、そういう予定調和ではなかったところを見るということだと思うんですね。
 たしかに歴史の書き方は大先生が書くような、大きな歴史の見取り図とかもありますけど、私はそういうことをやろうとも思ってないですね。できるとも思ってないからやらないんですが、それだけではなく、逆に細かく歴史を見ていくなかで、大きな歴史の物語みたいなものを覆すようなものがいっぱい見えてくる。そこがおもしろくてやっているという、そんな感じですかね。ちょっとどこまで答えになっているかわかりませんけど。

 「文字」になっている歴史を扱うこと

司会:では、西嶋くん。
西嶋:先端総合学術研究科1回生、西嶋一泰と申します。
 私の質問は、「1950年代における「戦争体験」を語る場」というタイトルなんですが、ここで聞いていることと、あとちょっと今いろいろ考えて、この質問を何でしようと思ったのか、もう一つ新たに質問を、どちらかというと研究のスタイルというか本の置き方みたいなものについてお聞きします。
 私の質問なんですが、福間先生が『「戦争体験」の戦後史』で扱われているわだつみ会の活動と、1950年代における戦争体験を語る場というのがどういう関係性にあったのかという点です。
 私の関心に引きつけているのは、そのほかの戦争体験を語る場として、国民的歴史学分野という歴史学が民衆におりていくことというアプローチと、あと、無着成恭の『山びこ学校──山形県山元村中学校生徒の生活記録』(無着成恭編、1951年、青銅社)を端緒とする生活記録運動という中で、ある種その戦争体験があっさり流されていたというのがあります。福間先生はこの中ではわだつみ会を戦争体験を語る場の代表としているんですが、果たしてその代表させるということがどういう意味を持つのか、なぜ代表になるのか、あるいはその代表をさせることで、そのほかの戦争を語る場みたいなのがあり得た、あるいはそういう案件みたいなのがちょっとよくわからなくなってきてしまう場合もあるんじゃないのか。
 後半部では、昭和史論争という論争があって、これは岩波新書で『昭和史』(遠山茂樹、今井清一、藤原彰共著、1955年、岩波書店)というのが出たときに起こった論争で、その中で例えばその当時の生活綴り方、生活記録運動という中で、自分の昭和史、つまり戦争体験を語り直そうみたいな主婦たちの動きがある。これが、わだつみ会ほどのインパクトというか知名度みたいな、個々の団体が知名度を持っているわけじゃないけれども、そういう個々別々なサークル、小さなサークルができながら、そういう戦争体験を1950年代の場面において語る場というのがいっぱいあったんじゃないのか。
 その中で、じゃ、それとそのわだつみ会の関係をどう見ていたか、わだつみ会やわだつみの声をどう思っていたのか、この人たちが。そういうのがちょっと気になったというのが1つの質問で、もう一つ、この質問をなぜしたのかというと、私は今個人的に1950年代の日本ということにちょっと関心を持っていて、私もともと民族芸能の研究をしてたんですが、それの現代史を考える中で1950年代のサークルとか共産党の文化工作隊が民謡や民族を扱って、現在まで至る組織になっているんですが、それの影響関係をちょっと見て論文を書いたりしていたんですが、そういうサークル運動が盛んだった1950年代の中で、国民的歴史学運動や生活記録運動という、ある種民衆に近い運動、サークルとか自分たちで語り出す場みたいなのがあって、私の関心というのがかなりそのオーディエンス論みたいな、聴衆の側に近いのかなというか、例でいえば、例えば今の漫画とか考えるときに、例えば同人誌も一緒に考えなきゃいけないみたいな感じで、私はどちらかというとその同人誌のコミュニティーみたいなものに興味があるというようなイメージ、私個人的に同人誌を出してるんけど、それはどうでもいいんですけど、そういう中で、例えば先生の研究としては割とその例えば岩田さんの質問のお答えのときにあったように、学知の編成があって、それからあと知識人とかをよく取り上げて書かれるときが多いと思うんですが、そうではなくて、もうちょっとしょぼいサークルとかの中で、しょぼいコミュニティーがいっぱいある中の1つを取り上げてやる研究というのが私の関心に近いんですが、そういったこと、そういった部分のものの視点と、先生が扱っている部分というのはちょっとやっぱり範囲が違うと思うんですよね。
 だから、その研究、この例で挙げたわだつみ会と別々のサークルになるわけですが、ひょっとしたら作品としてすぐれているものを排出するとか、アカデミックなものを書くとかじゃなくて、単なるコミュニケーションや日々の生活の中のコミュニティーみたいなものが気になって、作品の論じ方、映画作品とかについても、映画作品があってオーディエンスがあるというよりは、そのオーディエンスのコミュニティーの中の文脈からその映画を見るみたいなイメージのほうが近くて、そういうその見方というのをどうやって福間先生のその話と絡めていくのか、あるいは先生ご自身がそういうオーディエンス論みたいな部分をどう思ってらっしゃるか。その自分の研究に対して触れなくてもいい部分としてやっているのかどうかみたいな部分があるので、ちょっとお聞きしたいんです。
福間:オーディエンス論のことでいうと、『「反戦」のメディア史』のほうは実はオーディエンスのことを結構意識はしていたんですね。
 ただ、メディア研究のオーディエンス論の王道は、やっぱりある映画とかを見せて、その感想をヒアリングしてとかって、D・モーレーやI・アングがやっていたような仕事ですかね。でも、そこでも書いていたように、今の時点での解釈は、私はちょっと興味がないと言ったらあれですけども、扱わないようにしていて、やっぱり当時の議論を扱おうとしました。その種の研究は、これからもどこかでやるのかなとは思ってますけどね。
 あと、「わだつみ」をなぜ扱ったのかということについて言えば、やっぱり戦争体験の継承とか思想化ということ、それのみをテーゼとして掲げた団体としては、私の知る限りではわだつみ会が唯一だと思うんですね。しかも、知名度だとか社会的なインパクトレベルでは、代表性はあると思っているし、そういう限定をつけたうえで『「戦争体験」の戦後史』も書いていたつもりです。だから、それ以外のサークルの議論が価値がないと思っているわけでもなく、当然「わだつみ」の議論といろんな差異もあるでしょう。『岩手の保険』とかね。岩手の農民文化懇談会とかの議論にしても、「わだつみ」で括れるとは思ってないです。
 でも、にもかかわらずなぜ「わだつみ」をやったのかというと、逆に「わだつみ」の議論でさえ、じつは整理されてないわけですよね。やっぱりそこは整理をしなきゃいけないし、なぜかというと、そこを見ることによって、いろんなサークルのポジションやその偏差が見えてくると思うんですよ。『岩手の保険』だとかも含めて、いろんなサークルの議論とかというのも、どこかでやっぱり(主要論壇で)書かれたり言われたりしているものは、大なり小なり意識していることは、そらありますわね。
 ということは、「わだつみ」なら「わだつみ」の系譜を見ることによって、その布置関係が初めて見えてくると思うんですね。小さなサークルの集まりのことはもちろん大事なんだけれども、実は「わだつみ」でさえなされてないわけですよ。だから、まずはここをやろうと。それを見ることによって、こことこことの違いがあるように見えていたのが、実はかなり色合いが似ていて、共通性も実はあるとかというのが見えてくるじゃないですか。それをやろうとしたのが今回の新書の仕事ですよね。
 次にやろうと思っているのは、私はそういう小さなサークルのことまでは詳しくないし、あまりできないとは思いますけれども、沖縄です。今ちょうど調べているのは、沖縄戦争体験論の変容とかを調べているんですが、議論が生み出されてくる力学はかなり違うんですよね。それも、「わだつみ」を対照項として意識するから初めて見えてくることですね。そのほか、原爆をめぐる議論とかも含めて、言ったら『「反戦」のメディア史』の戦争体験論版みたいなことを、次はやろうと思っています。それも、「わだつみ」を扱ったがゆえに、その後の仕事の中でそことの偏差が見えてくるのかなと思っています。私の中ではそういう位置づけですかね。[注:沖縄・広島・長崎の言説史については、2011年に『焦土の記憶:沖縄・広島・長崎に映る戦後』を上梓した]
 逆に、今、西嶋さんが進めておられるサークルの運動とかを明らかにしてもらえることは、この分野の研究をより精緻にしていくことにつながってくるのかなとも思ってますけどね。やっぱり私だけで、すべてをこなせるわけではないですし。
西嶋:ありがとうございます。

 「教養」の社会学

安部:では、最後に大谷さん。ちょっと本人は調査研究が今バッティングして欠席しておりますので、じゃ、代表ということで私がかわりに読み上げます。タイトルは「『戦争体験』を『教養』とする論証についての質問──『「戦争体験」の戦後史』から──」です。
 福間先生は、『戦争体験の戦後史』のなかで、戦前派、戦中派、戦後派・戦無派世代という3つの世代間関係を「教養」という視座から把握することを試みておられます。すなわち戦前派と戦中派の関係は、教養(=マルクス主義的・社会科学的知識など)の有無によって、戦中派と戦後・戦無派世代の関係は、教養(=「戦争体験」)の有無によって説明しておられます。
 私はとくに後者の関係についての説明を新奇かつ野心的なものであると思い、面白く読ませていただきました。しかし私の質問は、まさにその点にかかわっています。まず、戦前派と戦中派における教養はマルクス主義的・社会科学的知識であった。それを福間先生は戦前の知識人による戦中派の「教養の欠如」に関する言説を用いて論証しておられる。これに対し、しかし戦中派と戦後・戦無派の関係における教養が「戦争体験」であるということについての論証は、教養主義的な象徴暴力性──「正統な」知識/体験をもたざる者への跪拝効果──という観点からなされておられます。つまり戦前-戦中間の教養と戦中-戦後・戦無間の教養の論証のしかたが異なっている。いうなれば、前者は言説=資料にもとづく実証的な説明、後者は関係の構造=形式の同型性に慧眼にも注目した福間先生ごじしんの解釈にもとづく説明というかたちをとっている。すでに述べたように、私の質問はこの後者の論証の妥当性についてです。それは連続したひとつの問いでありつつも、あえて分節すれば二点あります。
 一点目は、何かしらの概念(ここでは「教養」)を用いて、ある歴史(ここでは「戦争体験」の戦後史)を記述する場合、ある事象(ここでは「戦争体験」)を、そこで用いた概念に同定する(「戦争体験」を「教養」とすること)には、いかなる論証(の装置)が必要になってくるのか。その論証の妥当性は、先生が試みておられるように、「解釈」によるだけで果たして十分なものといえるのか。
 というのも先生は、教養主義がはらむ象徴暴力構造の点から「戦争体験」を教養と位置づける。ですが、そのように構造=形式から説明可能であるなら、多くの体験や経験が教養と同定されうるのではないか。そしてそこに問題はないか。つまり教養が有する構造=形式(ここでは「教養の象徴暴力性」)によって戦争体験を教養と同定すると、同じ構造=形式を有する事象は数多く存在するため、教養概念の外延が拡張し、かえってその概念を用いて歴史を記述する理由や意義が曖昧なものになりやしないか。だから第二に、(以上の)私の「読み」が正しいとすれば、それでも本書においてなお教養概念を用いることの必然性もしくは意義があったとすれば、それはいかなるものであったのか。あるいは教養の象徴暴力性のほかに「戦争体験」を「教養」とする論拠があれば、それもあわせてお教えいただければと思います。
福間:ご本人がいらっしゃらないんで、でも、重要な質問じゃないかと思います。象徴暴力の問題をメインにした質問だったと思うんですが、ただ、別にこの新書では象徴暴力の話だけをやったわけじゃなくて、戦後の戦争体験をめぐるその議論の変遷の中で、その時代時代でどういうふうに教養が関わってきたのか──当然関わり方が違うわけだから、そこも扱ったわけなんで、このときも、その象徴暴力の話はいうたらワン・オブ・ゼムでしかないわけですね。農民兵士論争の話だとか、戦前派の評価とかもありましたが、そのあたりも教養に絡めているので、象徴暴力の話だけピックアップされると、ちょっとずれるのかなという感じはあります。
 そこがちょっと目立ってしまうというのかもしれないですが、私の中ではそれを前面に出したつもりはないですね。戦中派の戦後派に対する暴力と教養ということにつなげて言うと、象徴暴力があったから戦争体験が教養と同じなんだと言ってるわけでは全然なくて、むしろ戦争体験を語るということが、ある種の「隠れたカリキュラム」hidden curriculumになってるわけですね。とりあえず、それを何らかの形で議論することが、「進歩的」な学生のあり方であったわけだし、だからそれは何を教養とするかは別にして、戦争体験を教養としていたということは言えると思います。
 逆にいうと、大正教養主義者からしてみたら、マルクスの本なんて教養の対象じゃなかったんだけれども、大正末期にはそれが教養になっていったのと同じように、戦後は初期から戦争体験を語るということはある種の教養であったわけですね。それは、古典的な規範的な教養というニュアンスだけじゃなくて、カッパ・ブックスみたいな庶民的な教養としても流布していたし、そういうものがある種の「隠れたカリキュラム」のようになっていました。
 じゃ、若い世代の人たちが、戦中派に対してなぜ怒ったのかというと、結局そういう規範を内面化していったがゆえに怒るわけですよね。つまり、今の学生を引き合いに出したら悪いのかもしれませんけども、今の学生ってそもそも、その種の規範ってないし、気にもしてないから別に怒りもしないわけですよね。ちょっと変な話をすると、その象徴がたぶん、わだつみ像だと思うんですよ。
 今は立命館国際平和ミュージアムのエントランス付近に、わだつみ像が置かれています。あれ、引き倒そうと思ったらすぐ引き倒せますよね。しかも、あそこに入る前は、新書でもちょっと書いたけれども、衣笠の図書館の2階の防弾ガラスの中に入っていたわけです。あれは象徴的であって、そもそも今だれも教養とか戦争なんてことを熱く議論するような規範がないから、わだつみ像を壊すそうなんてだれも思わない。だから、堂々と入口付近にも置かれているわけですよね。それはちょっとおもしろいかなと。それは雑談ですが、そんなこともあるのかなと。
 あと、戦前派と戦中派の議論のときには、実証的に証明していて、戦中派と戦後派のときには、その構造とか形式に着目してるとのことですが、私としてはどっちも同じように言説に内在的に議論しているだけですし、対象となる言説が異なる以上、当然、そこから言えるものは異なるかな思っています。ただ、そこで重要なのは、教養って「内容」じゃなくて「型」だということ思うんですよ。
 つまり、何を教養とするのかはそれぞれ議論はあるんだけれども、あるものを「隠れたカリキュラム」の中で吸収しなければいけないという、そういう「型」が教養主義だと思うんですよね。だから、その点でいうと、戦前派の議論も戦中派の議論も、同一水準上にあるのかなというところですね。
 教養概念の概念が拡張しているというご指摘なんですが、言っておられるように、象徴的な暴力というのは、もちろん教養の問題だけじゃないし、逆に教養は象徴暴力に尽きるというわけでもない。それ以外のいろんな要素がもちろんあるわけですよね。ただ、教養を「型」として見る社会学な発想から見えてくるものもあるかなと。
 それともう一つ。これまでの教養主義論では、当然ながら、教養にフォーカスが当てられていたわけですが、そこをもうちょっと広げて考えることもできるかなと思います。つまり、教養そのものというよりも、何が教養として扱われていたのか。それを考えることの延長で、戦争をめぐる議論に広げていくということも、それはそれでありなのかなと思っているし、それはもしかしたら、この新書のちょっとした意義かなと、自分の中では考えています。と、まぁ、そんなところでしょうかね。
安部:一点だけよろしいですか。ちょっと個人的な話にもなるんですが、その「教養の変容」というのは奇しくもぼくの修士論文の主題でして、まあそれは仕様もない内容なんですが、それはともかくおうかがいしたいことはこうです。ぼくも修士時代には、いわゆる竹内洋ものをはじめとする日本の、このあたりの時代の研究書を読んでいたので尚更そう思うんですが、この「教養としての戦争体験」という着眼点はすごくおもしろいなあと。でもこれって私が無知なだけでそんな新しくないんですか?
福間:自分で言うのも何やけど、一応新しいと思ってるんですよ。
安部:ですよね。
福間:うん。なぜそういうふうに思ったのかというと、『「反戦」のメディア史』を書いたときから、出隆とかが戦没学者は教養がないとか言ってた、その議論に意外性があったんですね。「えっ、こんなこと言ってたの」とかっていう。『「反戦」のメディア史』のときには、それ以上突っ込んでは考えなかったんですけど、わだつみ会のこともまとめようかなってときに、改めて資料を時系列にざっと読んでいったら、これは教養なんだなと。
 だから、出隆とかが言ってたことも、別に突飛なことじゃなくて、その時代の力学からしたら当然のことなんだなと。その意味で、本当に自然にストーリーというのかな。こういう問題系なんだなというのは見えてきたという感じですかね。
安部:はい。ありがとうございます。
司会:それでは、指定質問はすべて終わりましたので。他、ご質問があればいかがでしょうか。
司会:それでは、福間先生、ありがとうございました。
(拍手)