現在としての歴史──まえがきにかえて

角崎 洋平
(立命館大学大学院先端総合学術研究科博士課程・日本学術振興会特別研究員)

■フィクショナルな歴史記述から現在を考える
 よしながふみの漫画『大奥』は、男女逆転の江戸期の世界を描く。謎の伝染病により男性人口が激減し、男女比が1:4になってしまったため、政治経済の要職のすべてに女性が就くことになった江戸の物語である。もちろん、フィクションである(連載中の漫画である。以下、物語の背景設定を紹介するのみで、物語の具体的内容に踏み込むことは避けるが、若干ネタバレの恐れはある。気になる方は本節を飛ばして次節から読まれたい)。物語はすでに3代将軍家光の時代から8代将軍吉宗の時代まで進んでいる。それぞれの時代において将軍(女性)と、「表」の役人(女性)と、「大奥」(男性)の、人々の関係が丁寧に描かれている。よしながの筆力ゆえだが、「もしかしたら本当に、昔は女が「主」で男が「従」だったのかもしれない」と思ってしまうほど、その世界に引き込まれてしまう。
 こうした人物描写の緻密さはよしなが作品に通じる魅力であるが、本作の特徴は、特にこのフィクショナルな歴史背景が、ある種の説得力を持って描かれている、ということにもある。単に男性人口が減少した、ということは女性による支配に直結しない。男性「供給」の減少が男性「価値」の上昇につながることは論理的にも想定可能ではある。しかしこのフィクショナルな社会はそれを選択しなかった。大きな理由は、男性人口減少下における男性支配の継続は過度な「一夫多妻」制を招来し、世帯数を減少させ、「幕藩体制」すなわち「士」「農」「工」「商」多数の世帯の階層的秩序を前提とする社会構造を揺るがすことが懸念されたからである。そのため、幕藩体制を維持するため、男性が世帯の「主」であることは放棄される。「世帯」を維持するために、男性相続は放棄されたのである。それから数世代後、女性相続が当たり前となった時代に将軍吉宗(女性)はこうとまで言い放つ。家の当主が男性の場合「誰の子か(本当に当主の子か)」という血統の正当性には常に疑念が付きまとう。ならば女性が家の当主であるほうが理にかなっている、と。
 もちろん、フィクションである。しかしフィクションであっても、出来事のあり得た可能性を探りながらの因果の記述が、ほかのあり得た「現在」の可能性を示すこともある。そして、「現在」の我々が住む男性優位とされる社会が、複数の自然的・社会的条件から、偶然的に構築されてきたものにすぎないことを暴露することもある。

■フィクションでない歴史記述から現在を考える
 本書は複数のディシプリンに属する研究者によって、各人が研究対象とする「現在」の諸問題を、関連する〈フィクションでない出来事〉の「歴史」を記述することで炙り出そうとして書かれた。
 われわれは歴史を記述しているが、「歴史学」の方法について大学院で専門的に訓練を受けてきてはいない。その意味では「歴史学」の専門家ではないかもしれない。各自が研究対象とする問題、たとえば犯罪や刑罰、福祉、芸妓、移民……などの現在的意味を探求すればするほど、歴史的経緯や文脈について考えざるを得なくなった、というところが、実際のところである。われわれの関心の核は、あくまで「現在」にある。
 しかし、ヘイドン・ホワイトが「ポストモダニズムの歴史観は現在志向であり、主として、それが現代に役立つように使用可能な限りにおいてのみ、過去に興味を持つ」(ホワイト 2010: 108)と言うのを聞いたわれわれは(1)、歴史を記述するのにむしろ専門的な歴史家であることにこだわりすぎるべきではないと考えるべきかもしれない。 また、エマニュエル・ル=ロワ=ラデュリとアンドレ・ピュルギエールが述べているように、「歴史家は、過去を生き返らせるための魔術師ではなく、自分自身を取り巻く世界に何らかの意味を与えるために過去を必要とし、また過去に何らかの意味を与えるために自分自身が生きている社会が提起する諸問題を必要とする、社会の分析家」(ル=ロワ=ラデュリ&ピュルギエール 2010: 18)なのだとするならば、そもそもわれわれは、何らかの意味ですでに「歴史家である」といえるのかもしれない。

■歴史をどう記述するのか(第1部)
 本書は2部構成である。第1部は歴史社会学研究会(歴史社会学研究会については「あとがき」を参照されたい)主催で行われた公開研究会の記録、第2部は論文集である。
 第1部では、気鋭の歴史社会学者である、福間良明氏(立命館大学産業社会学部准教授)と石原俊氏(明治学院大学社会学部准教授)の両氏に講演いただいた記録である。お二人をお呼びしたのは、お二人が、「歴史」を丁寧に扱う「社会の分析家」であると考えたからであり、そこからわれわれ自身の「歴史記述」に対するスタンスや方法論をつかみ取ろうと考えたからである。詳細は、本書に収録された講演録(第1部)を見ていただきたいが、福間氏も石原氏も、ご自身の「研究史」から語って下さり、専門とされる「歴史社会学」についてだけでなく、当時の「アカデミズム」の雰囲気も語っていただくなど、とても盛りだくさんで贅沢な研究会であった。この場を借りて、福間先生、石原先生に深く感謝したい。
 歴史を現在の関心から扱う、ということは、ともすれば現在のバイアスで歴史を歪めてしまう、ということが危惧される。研究として取り扱う「歴史」が「フィクションではない」ということを前提にするのであれば、バイアスについては注意深くあらねばなるまい。そうした点からいえばわれわれは、福間氏の、社会学者でありつつも、いや、社会学者であるからこそ、歴史学の方法論や歴史的資料の取り扱い方に敬意を払う姿勢に、多くを学んだ。また、石原氏の、文献資料だけではなくインタビューなどのオーラルなデータを丁寧に組み合わせながら、地域の歴史とそこに内在する問題を照射する技法に圧倒された。

■インターディシプリンな歴史記述(第2部)
 せっかくのお二人の講演をどこまでわれわれは活かすことができたか、いささか不安ではあるが、われわれ自身の今時点の到達点としての歴史記述を、それぞれの関心からおこなったのが第2部である。掲載されている論文に関しては、2011年3月から8月にかけて毎月1回以上の草稿検討会を設け、議論したものである。
 以下、簡単に各論文について筆者の観点から概要を述べるが、筆者の「バイアス」がかかっている可能性は否めないので、できれば各論文の「はじめに」または「おわりに」をあたられたい。各論文のテーマは多岐にわたるが、「はじめに」で、各節で展開される議論の内容を、「おわりに」で、各節で明らかにされた要点を記述する、という点は形式の統一をはかっている。
 さて、各論文の紹介に移ろう。
 まずは櫻井悟史(歴史社会学を専攻)の論文「死刑執行方法の変遷と物理的/感情的距離の関係」。櫻井は単著『死刑執行人の日本史──歴史社会学からの接近』(青弓社)を出版しているが、今回の櫻井論文はその続編にあたる。前書で櫻井は、日本において刑務官が、死刑執行を担ってきた歴史を記述した。櫻井がそこで目指したものは、刑務官が死刑執行を担ってきたのは歴史的偶然の産物でしかないことを暴露することと、そこで偶然を担わされてきた人の苦悩を描くことであった。今回の論文は、実際に死刑執行を担う者の苦しみのみに配慮して──アメリカ合衆国や中国では、死刑囚の苦しみへの配慮が主眼となる──、執行方法が変遷していった歴史的経緯を、「距離」という観点から考察している。われわれは櫻井論文を読んで改めて、死刑制度とは「人を(合法的に)殺す」というだけでなく、「人に殺させる」制度なのだと気づかされる。
 大谷通高(社会学を専攻)の論文「犯罪被害者の法的救済についての歴史的考察──明治期の新派刑法学の思想的特徴から」は、当時の刑法学における犯罪被害者救済論を考察し、法が犯罪被害者を救済することの意味を探る。大谷はすでに、「犯罪被害者の救済におけるケア・試論──〈被害〉についての考察から」(『ケアと/の倫理〔生存学センター報告11〕』所収)という論考で、「害を被ったこと」の意味を問うことから、救済する者や支援する者がもつべき自覚や姿勢についての議論を展開している。今回の論文で大谷は、その論理展開からは少し離れて、歴史社会学の視座に立って明治期の犯罪被害者の救済論について考えている。今回大谷は、当時盛隆を誇っていた新派刑法学の思想的特徴をふまえて、社会の「経常なる状態」の「回復」と「維持」という観点から、当時の司法制度における犯罪被害の救済の意味を解き明かそうとした。大谷が指摘するように、ここでの新派刑法学が考える救済は、近年の、刑事訴訟手続きを被害者の観点から見直そうとする潮流とは異なる。刑事司法制度における過去と現在の「救済」の異同から、あらためて大谷自身の〈被害〉〈救済〉論が展開されることが期待される。
 筆者(福祉政策論・福祉理論を専攻)自身は、「二つの貧困対策──戦後創設期の社会福祉制度運用における羈束と裁量、または給付と貸付」と題した論文を提出した。筆者の関心は個人の「ニーズ」の多様性や個別性をいかにして捕捉し、いかにして個別の「ニーズ」に対する支援を実施できるのか、というところにある。そうした観点から拙稿は、過去に民生委員(方面委員)がとっていた裁量的活動や、それに則した貸付型支援に注目している。そして貸付型支援が、先行研究で言われるような給付をさせないための施策(防貧政策)ではなく、戦後初期においては、給付を補完する施策(給付ではない救貧政策)として機能していたことを指摘している。もちろん、拙稿以降の歴史の検討や、それらを「手がかり」とした理論的分析はなされていないので、今回の拙稿によって「ニーズ」の多様性・個別性をめぐる社会福祉制度の「構造」や「あるべき姿」を明らかにできたわけではない。その点は稿を改めて検討したい。
 石田智恵(文化人類学を専攻)の論文「日本人の不在証明と不在の日系人」は、占領期から1950年代後半にかけての政治的背景を踏まえながら、日本から海外へ移住した人々が、「日本人」ではなくて「日系人」と呼ばれた経緯とその意味を考察している。石田が強調するのは、こうして名付けられた人が、名付けが使用される場所にいない、ということである。名付けの背景にあるのは、名付けられた側の意図ではなく、当時の戦後政策をめぐる省庁間関係や、敗戦国としての日本の国際的位置づけであったことを、石田は考察している。名前を付ける、カテゴライズする、ということの歴史的偶然性・政治性について考えさせられる論考である。
 小出治都子(化粧文化論を専攻)の論文「戦中期における「少女」の化粧──『少女の友』からの一考察」は、1941年から1945年にかけての化粧品広告について分析している。小出論文の意義はとりわけ以下を指摘した点にある。当時の代表的少女向け雑誌『少女の友』誌内では戦争に協力的な「新しい少女」像が打ち出されているものの、雑誌に掲載される1941年から1943年にかけての化粧品広告においては、ある程度「新しい少女」像と距離を置いた広告が掲載され続けている、という点である。化粧品を広告する、ということは広告の受け手である少女に、それを受容する(受容したいと思う)気持ちがあった、ということでもある。戦中期の「少女」のすべてが「新しい少女」像に染まったわけではないことはすでに先行研究で指摘されているが、小出はそのことを、化粧品広告の変遷を見る、という手法で裏付けた、といえるだろう。
 中田喜一(社会学を専攻)の論文「日本のセルフヘルプグループ言説の歴史社会学──1970年から現在まで」は、日本におけるセルフヘルプグループ概念の受容と変遷について記述している。また、セルフヘルプグループ内で良きこととされた「物語る」ことの困難性から、オンラインでのそれの歴史的意義が語られている。興味深い論考であるが、興味深いからこそ、専門家で語られる言説だけでなく、もっと実際の患者運動の動きも踏まえて記述されれば、よりセルフヘルプグループの、そしてオンラインのそれの、歴史的意義が明確になったのではと少しだけ残念に思う。
 さて、第1部の講演録のなかで石原氏は、歴史社会学をテーマ追求型の〈○○問題の歴史社会学〉と、対象地域や対象領域を緩やかに定めて歴史を記述する〈定点観測型の歴史社会学〉を区別して、ご自身の研究を後者に属するものとして位置づけられておられた。こうした区分からいえば、上記の、櫻井(死刑)・大谷(被害・救済)・角崎(福祉政策)・石田(日系人)・小出(化粧品広告)・中田(セルフヘルプグループ)の各論文は、どちらかといえば、自身の研究テーマの系譜を探り、その問題の意味を明らかにしようとする、テーマ追求型の歴史記述であった。一方、以下紹介する西嶋(民俗芸能)・松田(芸妓・花街)・近藤(エンベラ)・冨田(モンゴル牧畜社会)の論文は、自身の研究領域(フィールド)の歴史を、現在的問題を意識しながら分析する、石原氏に近い歴史記述の方法であるといえる。
 西嶋一泰(民俗芸能研究を専攻)の論文「プロレタリア音楽家同盟における移動音楽隊の実践」は、現在の「和太鼓ブーム」の起源にある「わらび座」の前身となる音楽活動の展開を記述する。西嶋は、通常の研究活動と並行して民俗芸能の紹介する活動もしている(民俗芸能に関する情報をネット配信している〔民俗芸能STREAM:http://minzokugeinoustream.seesaa.net/〕)。そうした西嶋が記述する、ある団体の、戦前における弾圧されながらの音楽活動の展開は、それだけで興味深い。しかし、そうした系譜を持つ「わらび座」が、戦後、学校教育に入り込み、多数の和太鼓サークルの起源になったということはもっと興味深い。今回の西嶋論文では戦後の展開についてはあまり描かれていないが、戦後以降の展開も踏まえた考察が、今後待たれる。
 松田有紀子(文化人類学を専攻)の論文「芸妓という労働の再定位──労働者の権利を守る諸法をめぐって」は、戦前から戦後にかけての芸妓「労働」をめぐる曖昧性に照準をあわせた考察である。ここでの「曖昧性」とは、「芸妓」と「娼妓」の曖昧性であり、芸妓とは「自営業者」なのか「被用者」のなのか、という曖昧性である。今回の松田論文は、こうした曖昧性を解きほぐすものでこそないが、かかる曖昧性を花街の経営者や社会が、どのように解釈し、どのように運用していたのかを示している。そこからみてとれるのは、制度の適用を受ける人々が制度をどのように利用(ときには逸脱)したのか、という動きだけでなく、制度制定者側もそれにあわせて柔軟に制度運用していた、という動きである。松田論文は、制度の制定過程を年表的に追うだけでは、制度の歴史を追うことにはならない、ということを示してもいる。
 近藤宏(文化人類学を専攻)の論文「変貌する集合的主体──パナマ東部先住民エンベラの現代史に関する一考察」は、エンベラの人々が、「エンベラ」としての集合的主体を形成し、組織化していく過程を描く。パナマ国内の先住民および先住民政策について、ましてやエンベラという先住民については、日本でほとんど知られていないので、近藤論文はそれを紹介するだけでも意義がある。しかしそれだけでなく今回の近藤論文は、先住民の「主体」形成を、歴史的文脈、とりわけグローバル・国家・ローカルの三層の折り重なりあいの歴史をたどることによって考察した点でも興味深い。「歴史的に条件づけられた主体形成」という近藤が提示する視点は、もともと顕在していたものでも、民族間のコンフリクトのなかで自覚化されたものでもない集合的主体としての「先住民」の、生活の様を描き出す鍵となろう。
 冨田敬大(文化人類学・牧畜社会研究を専攻)の論文「体制転換期モンゴルの家畜生産をめぐる変化と持続──都市周辺地域における牧畜定着化と農牧業政策の関係を中心に」は、モンゴル国の都市周辺地域である、ボルガン県オルホン郡における牧畜と農牧業政策の歴史を記述している。冨田の研究は、モンゴルにおけるフィールド調査、そこで入手した家畜資産台帳などの一次資料に基づいたものである。冨田はそうした資料から、モンゴルの牧畜民が、市場経済化のなかで決して手をこまねいていたわけでも、無秩序に活動していたわけでもなく、社会主義経済下での実践を活かし、時には再編しながら、活動していたことを明らかにしている。こうした研究は、牧畜民の生活実践の柔軟性を示しているとともに、社会主義という歴史的経路が与えた影響をも示しており、体制移行をめぐる研究としても意義深いものであると考える。

 本書の最後に、「生存学」創成拠点の事業推進担当者である天田城介(立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授)氏に寄せていただいた論文「体制の歴史を描くこと──近代日本社会における乞食のエコノミー」を掲載した。天田論文は、ハンセン病当事者自身による歴史記述を緻密に分析するところから始まる。そして、当事者の歴史記述を受けた「歴史診断」を、単なる当事者視点からの〈悲惨な光景の描写〉にも、すでに過去のものとなった制度の〈死体解剖〉にも留めることなく、人を生存させていく〈体制の意味についての問い〉に繋げている。
 天田論文が提示した「体制」という視点から本書第2部を振り返ってみれば、各論文においてそれぞれ、「語ってこられなかった事実の描写」や「諸問題の年表的記述」にとどまることのない、社会や制度の記述・分析がなされていることが見て取れる(……そう読解されることを期待したい)。それぞれの論文において、それぞれの関心から、諸問題やフィールドをとりまく制度・社会・当事者を含めた体制の諸相が、動態的に描かれようとしている。そうした意味で本書は、これから重厚に描かれるべき「体制の歴史」の序章でもある。
 本書に掲載された各論文のテーマは多岐にわたる。また、執筆者各自が専門とするディシプリンも様々である。しかしこうした多様な歴史記述は、「現在」の問題を写し出すものとして書かれている点では共通している。様々なディシプリンからアプローチする歴史記述が、問題を多様な視点から照射することによって、結果的にわれわれの今生きる「現在」や「体制」を立体的に描き出すことができていれば、と願う。

[注]
(1)ヘイドン・ホワイトは、2009年10月22日に立命館大学で講演を行っている。主催は立命館大学大学院先端総合学術研究科であり、共催として立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点や、本書の執筆者たちの多くが参加する「歴史社会学研究会」、「物語と歴史研究会」などが名を連ねた。詳しくは、吉田寛・篠木涼・櫻井悟史編『特別公開企画 アフターメタヒストリー──ヘイドン・ホワイト教授のポストモダニズム講義(生存学センター報告13)』(https://www.ritsumei-arsvi.org/publications/index/type/center_reports/number/13)を参照されたい。

[文献]
ホワイト,ヘイドン,2010,「ポストモダニズムと歴史叙述」吉田寛・篠木涼・櫻井悟史『特別公開企画 アフターメタヒストリー──ヘイドン・ホワイト教授のポストモダニズム講義(生存学センター報告13)』,100-117.
ル=ロワ=ラデュリ, エマニエル&アンドレ・ピュルギエール,2010,「叢書『アナール』1929-2010」序文」ル=ロワ=ラデュリ, エマニエル&アンドレ・ピュルギエール編 叢書『アナール』1929-2010』藤原書店,11-36.