第4章 言語の費用負担と言語的正義の問題

第一部

第4章 言語の費用負担と言語的正義の問題(*)

坂本徳仁(†)

1.はじめに

 異なる言語を母語とする集団が複数存在し、共通の言語を介して集団間で取引が行なわれることで相互に利益を享受できるような状況を考えよう。このような状況において、集団間で共通に使用される言語は何であるべきだろうか。また、仮に共通に使用される言語が決まったとしても、その言語を習得するために各集団が負担しなければならない費用はどのように分担されるべきであろうか。この問題に関する古典的な回答は以下のようなものである。
 効率性の観点からは多数派の使用している言語が共通言語となることが好ましい。しかしながら、公平性の観点からは多数派・少数派を問わずに社会の構成員全体が異なる言語を平等に使用できることが好ましい。したがって、言語を巡る効率性と公平性の問題にはトレードオフの関係が存在する(1)。
 これまでの経済学や政治学の理論モデルにおける研究の主要な関心は、各集団の自発的な共通言語の習得状況における非効率性の問題を改善するために必要とされる政策的措置を考察することにあり、効率性と公平性のトレードオフの問題については二の次であるか、公平な費用分担のあり方については研究の対象外として、ほとんど考慮されることがなかったと言えよう(2)。しかしながら、前述の効率性と公平性のトレードオフの関係を巡って、多数派の使用言語が共通語として採択されたとしても、多数派から少数派への所得移転などの形で何らかの補償がなされることで公平性の問題はある程度解決されるとする研究がある。たとえば、van Parijs(2003)は、言語の自発的習得状況における不公平性の問題を○1多数派言語集団による少数派言語集団へのフリーライダー問題、○2多数派・少数派言語集団間の非対称な交渉能力の問題、の二つのものとして考えた上で、Pool(1991)の提案する分配方式やGautier流の分配方式などの複数の方式を比較検討し、多数派言語集団から少数派言語集団へ言語習得にかかる費用への補填がなされることで、言語習得に伴う不公平の問題がある程度は改善されるものとしている。
 さて、本稿はChurch and King(1993)の素朴なモデルをベースとした上で、ネットワーク外部性の下での効率性と公平性の問題を再検討することを目的とする。とくに、言語における公平性の問題について、従来の議論でなされてきた論点以外の問題が存在することを論じ、それが多数派言語集団から少数派言語集団への単純な所得移転では解決することが困難であることを論じる。
 本稿の構成は以下の通りである。続く2節ではネットワーク外部性が存在する二言語モデルにおいて、フリーライダー問題による非効率性とその改善策について論じる。3節では、先行研究での議論を踏まえた上で、本モデルにおける公平性の問題を4つに類型化・分析することを試みる。最後に、4節では本稿で得られた結果のまとめと今後の課題について論じる。

2.言語政策上の効率性

 本節では、Church and King(1993)およびSelten and Pool(1991)のモデルを基本として、異なる言語集団における言語分布の効率性の問題について確認する。
 いま、二つの言語(EおよびJ言語)が存在するものとしよう。このとき、全ての人はEないしJのどちらか一つの言語を母語とし、各々の母語話者の人口をNE、NJとする。本モデルにおける全人口はN(=NE+NJ)で与えられ、一般性を失うことなくNE>NJと仮定しよう。各人は生来獲得された言語を自由に話せる一方で、他の言語については費用をかけて習得しなければ話せるようにならないものとする。また、言語にはネットワーク外部性があり、各人の選好はlevel-plus comparabilityを満たすものとする(3)。簡単化のため、二つの言語については完全代替が成立するものとしよう。言語の完全代替が成立するもとでの各人の選好を、以下のような準線形の形で定式化する(4)。

UEi = v(N) ? CJ if 個人i(E言語の母語話者)がJ言語を習得する場合
v(NE + NEJ) otherwise.

UJi = v(N) ? CE if 個人i(J言語の母語話者)がE言語を習得する場合
v(NJ + NEJ) otherwise.

 ただし、記号CJ(resp. CE)はE言語(resp. J言語)の母語話者が第二言語としてJ言語(resp. E言語)を習得するためにかかる費用、記号NEJ(resp. NJE)はE言語(resp. J言語)の母語話者でJ言語(resp. E言語)を習得した者の人数を表すものとする。また、関数vは連続性、厳密な単調増加性、強凹性を各々満たすものと仮定する。
 このモデルのもとでは、各人の選好を集計した社会的余剰を最大にする条件とPareto効率性の条件は同値になり、Pareto効率的な言語分布について以下の命題が得られる。

命題1:
Pareto効率的な言語学習者の組み合わせ(NPEJ, NPJE)が内点解であるときの必要十分条件は以下で与えられる。

[v(N)? v(NE + N*JE)] +(NJ ? N*JE)v'(NJ + N*EJ)= CJ   (1)
[v(N)? v(NJ + N*EJ)] +(NE ? N*EJ)v'(NE + N*JE)= CE   (2)

 上記の二式を満たす実数値の組(N*EJ, N*JE)とPareto効率的な整数値の組 (NPEJ, NPJE)は以下のような関係で結ばれる。

NPEJ =,
NPJE =.

 ただし、任意の実数xに対して、記号xはx よりも大きい整数の中で最小のもの、記号xはxよりも小さい整数の中で最大のものを各々意味している。また、これらの論理的な組合せは4通り存在するが、NPEJ + NPJE = Nを満たす組の中で社会的余剰が最も大きな値をとるものをPareto効率的な整数値の組(NPEJ, NPJE)とする。

【命題1の証明】
社会的余剰の一階条件および関数vが凹関数であることから命題1は自明に成立する。

これに対して、端点解のケースでは命題1の条件式(1)ないし(2)について不等号が成立し、(NPEJ, NPJE)=(NE, 0)or(0, NJ)となる(5)。

次に、各人が自発的に言語習得を選択する場合の結果について考察しよう。いま、各人は言語習得費用を所与として、自分が第二言語を習得するか否かを決定するものとしよう。すなわち、各人の戦略集合は{第二言語を習得する、第二言語を習得しない}によって与えられる。この状況の下での各人の最適応答は以下のようになる。

(a)E言語の母語話者が第二言語Jを習得する iff v(N)? v(NE + NJE)≧ CJ
(b)J言語の母語話者が第二言語Eを習得する iff v(N)? v(NJ + NEJ)≧ CE

 このような非常に素朴な設定のもとでは、言語習得費用の任意の値について純粋戦略Nash均衡(以下の議論ではPNEと記すこともある)が常に存在することが判明する(6)。

命題2(Cf. Church and King 1991, Prop.1):
 いま、記号(N+EJ, N+JE)を純粋戦略Nash均衡によって成立する言語習得者の人数の組としよう。このとき、以下が成立する。
 (i)もしv(N) ? v(NJ)≧ CE かつ v(N)?v(NE)≧ CJ が成立するならば、PNEは二つ存在して、(N+EJ, N+JE)=(NE, 0),(0, NJ)である。
 (ii)もしv(N)? v(NJ)> CE かつ v(N)? v(NE)< CJ が成立するならば、PNEは一意に存在して、(N+EJ, N+JE)=(0, NJ)である。
 (iii)もしv(N)? v(NJ)< CE かつ v(N)? v(NE)> CJ が成立するならば、PNEは一意に存在して、(N+EJ, N+JE)=(NE, 0)である。
 (iv)もしv(N)? v(NJ)> CE かつ v(N)? v(NE)> CJ が成立するならば、PNEは一意に存在して、(N+EJ, N+JE)=(0, 0)である。

【命題2の証明】
 各人の最適応答の条件から、命題2の(i)〜(iv)で挙げられた(N+EJ, N+JE)の組が、各々PNEによって成立する言語習得者の人数の組であることが分かる。これらの組以外のものがPNEの下で成立しえないことは、(i)〜(iv)の各々の前提条件の下で背理法を用いれば容易に証明できる。

命題2から読み取れるように、言語習得について各人が自発的に習得する状況は○1片方の母語話者集団だけが第二言語を習得するか、○2誰も第二言語を習得しないという極端な状況に限られ、一般にPareto効率性は保証されない。この非効率性の問題は各人がネットワーク外部性に伴う社会的余剰への正の影響〔命題1における(1)(2)式の左辺第二項〕を無視することに起因している。したがって、以下では言語習得の自発的選択がもたらす非効率性の問題を解消するために、言語政策上効率的である言語習得者の組合せについて考察しよう。
さて、本稿では言語政策として言語習得費用に対する補助金のみを考えることとする(7)。補助金の総額は各人に対する一律課税 tで賄われるものとし(8)、各言語の習得者への補助金を各々sE, sJ としよう。すなわち、tN = sENJE + sJNEJ が成立する。
この状況の下では、言語政策によってもPareto効率的な言語習得者の組合せを一般に達成することはできない。各人の最適応答 (a)および(b) 式からもわかるように、言語習得への補助金を行なっても、到達可能な純粋戦略ナッシュ均衡はどちらかの母語話者集団の全員が第二言語を習得するというものになってしまい、Pareto効率的な言語習得者の組が内点解である場合に対応することはできない。すなわち、言語政策によって到達可能な純粋戦略ナッシュ均衡における言語習得者の組は(NEJ, NJE)=(NE, NJ),(0, NJ),(NE, 0),(0, 0)の四つに限られ、Pareto効率的な組が端点解であるケースには対応できるが、内点解については言語政策によって誘導することができない(9)。したがって、以下では政策上到達可能な四つの言語習得者の組における社会的余剰の大小関係のみを分析することにしよう。
いま、誰も第二言語を習得しないときの社会的余剰をWN、E母語集団全員がJ言語を習得するときの社会的余剰をWEJ、J母語集団全員がE言語を習得するときの社会的余剰をWJE、両方の母語集団全員が第二言語を習得するときの社会的余剰をWNと各々記すことにしよう。このとき、以下が成立する。

WN = NEv(NE)+ NJv(NJ),
WEJ = Nv(N)? NECJ,
WJE = Nv(N)? NJCE,
WB = Nv(N)? NECJ ? NJCE.

上式より明らかに、言語政策上達成可能な社会的余剰について以下の関係が成立する。

命題3(Cf. Church and King 1991, Prop.2):
 (i) WEJ > WB & WJE > WB.
 (ii) WJE > WEJ iff CJ >(NJ/NE)CE.
 (iii) WEJ > WN iff CJ <(NJ/NE)[v(N)? v(NJ)] + [v(N)? v(NE)].
 (iv)WJE > WN iff CE <(NE/NJ)[v(N)? v(NE)] + [v(N)? v(NJ)].

【命題3の証明】
 WN, WEJ, WJE, WB の各々について比較することで上記の関係は自明に成立する。

 さて、命題3の(i)から全員が第二言語を習得するのは常に効率的でないことがわかる。これはエスペラントなどの人工言語を共通言語として採択しようとする場合においても同様の関係が成立する可能性が高いことに留意されたい。一般的に言って、人工言語の習得費用が全ての人にとって極端に低いものでもない限り、流通していない言語を世界言語として全ての人に習得させようという主張は効率性の観点からは明確に否定される。(ii)のケースについては、言語習得費用の相対的な関係によってどちらの母語話者集団が第二言語を習得することが安上がりか決定される。(iii)および(iv)のケースについては第二言語の習得費用が「言語を習得しない集団に与える正の外部効果の平均」と「第二言語を獲得することによる自分への正の効果」の合計分を超えない限り、誰も第二言語を習得しないよりはどちらかの母語話者集団が第二言語を習得した方が望ましいことがわかる。
 以上が、言語政策による効率性の分析である。ネットワーク外部性が存在する下での言語習得の自発的選択は一般にPareto効率的ではないが、言語習得に適切な補助金を課すことによってその非効率性を改善することは可能である。しかし、言語政策によって実現される状態は端点解に限られるため、内点解に対応するPareto効率的な言語習得者の組を実現することはできない。以上が本節で得られた結果である。次節では、第二言語習得による社会的余剰の増分を二つの集団の間でどのように振り分けるべきかという費用負担と分配の問題を考察することにしよう。

3.言語費用の負担問題

 本節では、言語政策によって実現された政策上効率的な水準にあるもとでの社会的余剰をどのように分配するべきか考察する。具体的には、言語の習得費用は既に習得者によって負担され、新たな余剰が発生しているという状況の下で、その余剰をどのように各人に帰属させるかという問題を考察する(10)。
 最初に、言語習得と費用負担の問題に伴う諸問題を論じることによって、先行研究でも論じられてきた言語的正義の問題を類別・精緻化することにしよう。
 第一に、多くの先行研究で触れられているように、言語にはネットワーク外部性が存在するため、何の補償も為されていない状況の下では、支配的な言語の母語話者がその外部性がもたらす便益を対価なしで享受できる場合が存在する。たとえばE言語が共通言語となっている均衡の下で、Eを母語とする話者は一人当たりv(N) ? v(NE) だけの便益を何の対価も支払うことなしに獲得することができてしまう。この点が不公平と考えられる問題の一つである(Pool 1991; Church and King 1993; van Parijs 2003; 2006)。
 第二に、異なる言語集団の初期時点での格差も問題となりうるかもしれない。本モデルではE言語もJ言語も完全代替で便益関数は共通のものを仮定していたが、母語話者集団の大小関係から多数派であるE言語話者の方が初期時点の厚生が高かった。しかし、たまたま多数派であるという理由だけで、少数派よりも多くの便益を受けるに値するという理由はない。したがって、初期時点での格差を是正することについて何らかの分配上の配慮がなされることはリバタリアニズムを除く現代の代表的な倫理学説のどの立場から考察しようとも、自然のことのように思われる。
 第三に、第二言語習得者はその言語の母語話者と比較した場合に同等の便益を享受できるとは限らない。たとえば、E言語を習得したJ言語の母語話者はE言語の母語話者との取引において有利には交渉を進められないかもしれない(van Parijs 2003; 2006)(11)。また、第二言語の不完全な習得はある言語集団に対する差別的な意識を醸成・内面化し、経済的な不遇を更に悪化させるものになるかもしれない。この問題は本モデルの設定を若干変更して、たとえば、第二言語を習得した場合に受け取れる便益をαv(N)(ただし、0 <α< 1)のようにすれば考察することが可能になろう。
 最後に、第二言語習得にかかる費用は個人や言語集団によって多様である。たとえば、言語獲得前に失聴した聴覚障害者の音声言語と書記言語を獲得する能力は個人間で大きく差が出る問題として知られている。また、一般に先天的な聴覚障害者は音声言語を獲得することが苦手であるものの手話言語を獲得することは相対的に容易であり、聴者は音声言語の獲得は容易であるものの手話言語の獲得は相対的には困難であると考えられている。本モデルではE言語とJ言語の習得費用が異なる状況を考察したが、その習得費用の差は均衡水準での共通言語の決定を通じて、相対的に習得費用が低い言語集団に有利に働く効果をもっている(12)。この点も言語に付随する公平性の問題として認識する必要があろう。
 さて、上述の4つの問題のうち、第一の外部経済のただ乗り問題、第三の便益における非対称性の問題、第四の習得費用の非対称性の問題は、相対的に利益を得ている個人からの金銭移転によって問題をある程度緩和することが可能である。具体的には、言語習得によって増えた社会的余剰の増分を、ただ乗りしている共通言語の母語集団から共通言語を学習した言語集団に移転することで公平性の問題を改善することができる(13)。
 さて、このような移転を行なえば、社会的余剰の増大に寄与した個人や相対的に不遇な立場にある個人に対する補償的支払いがなされ、外部経済のただ乗りや意思疎通の便益における非対称性の問題、習得費用の非対称性の問題を緩和することが可能となる。もちろん、このような補償がなされたからといって、異なる言語集団への差別的態度や不利益が完全に解消されるわけではないし、「逆差別的な措置」と看做されて差別的意識をかえって助長する可能性もあることには留意すべきである。しかしながら、補償的支払いには、それが為されない状態よりはいくつかの不正義の問題を緩和できるという効果も存在する。
 最後に、本節の第三番目に挙げた初期時点での格差の問題について考察をしよう。一般に、初期時点での格差を埋め合わせることは政治的に困難な問題である。各言語集団が他の外部集団と取引を行なうのは、その取引が両者にとって利益をもたらすためであると考えられるが、取引とともに各集団間の初期時点での格差を埋め合わせるための補償的措置がなされれば、相対的に優位な位置にある集団が取引をしなかった場合の状況よりも悪い状態に陥る可能性があり、外部集団との取引がそもそもなされなくなってしまう可能性がある。すなわち、取引に参加したことにより片方の集団が確実に損をしてしまうのであれば、その集団は取引を最初から行なうという選択をしなくなってしまう。この取引破綻の問題を回避するために、通常は分配スキームを個人合理性を満たす配分ルールのクラスに限定するのだが、これは初期時点での格差を容認することを意味している。したがって、言語的正義の問題には政治的に緩和が困難である問題が存在することに留意されたい。

4.結語

 本稿では、Church and King(1993)のモデルを基本にして、○1自発的な言語選択のもとで生じる非効率性の問題と、○2第二言語習得に補助金を付ける言語政策によって効率性は不完全ながらも改善されること、の二点を確認した。その上で、マイノリティ集団にしばしば押し付けられてしまう言語獲得の費用負担について、その負担をマジョリティ集団と分担するスキームで、ある程度不平等の問題は改善できるということを論じた。しかし、費用負担を分担して改善される問題は○1外部経済のただ乗り問題、○2便益における非対称性の問題、○3習得費用の非対称性の問題に限られてしまい、○4初期時点での格差の問題を解決することは政治的に困難であるということに留意されたい。
 さて、本稿を閉じるに当たって、本研究に関して留意すべき点および今後の課題を何点か挙げたい。
 第一に、本モデルにおける言語習得費用の他、言語習得のための努力を追加的に導入して、第二言語の習得度合が個人によって異なる場合には、情報の非対称性の存在によって言語政策上の効率性は大きく損なわれることに留意されたい。すなわち、各人の言語習得費用を固定ではなく個人の努力と能力の増加関数とし、さらに、第二言語習得の度合いも努力と能力の増加関数とした場合には、情報の非対称性に伴ってモラルハザードの問題が発生し、言語政策の効果が複雑になる。
 第二に、通訳制度を考慮した場合に、本モデルにおける効率性および公平性の問題は大きく異なったものになりうる。たとえば、2つの言語集団の間で取り交わされる取引頻度および通訳者の養成費用・利用料金を内生化したモデルを考えると、競争的な通訳市場に任せた方が効率性の問題が改善される場合もある。
 第三に、効用の個人間比較可能性を前提にするか否かにかかわらず、様々な衡平性の概念(効用の個人間比較を前提としない場合には、レキシミン原理、羨望に基づいたアプローチもしくは平等等価に関するアプローチなどの概念。個人間比較を前提にする場合には、功利主義などの概念)の下で、望ましいとされる分配がどのような性質をもつかについては、何を個人の福祉とし、何を補償の対象とすべきかという問題を考察する必要がある。経済学の伝統的なアプローチである厚生主義(Welfarism)の下では、「効用のみ」を個人の福祉として捉えて、補償すべき対象についても「個人間における効用水準の格差」としてきた。しかし、この伝統的なアプローチにおける問題は、セン教授の批判(Sen 1985)にもあるように、多様な存在としての人間がもつ福祉の概念を矮小化してしまうことにあり、福祉の概念および補償の対象とすべき事柄について洗練されたアプローチが求められている(14)。
 最後に、言語固有の価値や言語に基づく諸芸術の価値をどのように評価づけるのか、本研究では考慮できていない。言うまでもないことではあるが、○1言語や文化には内在的な価値があり、それこそが本質的で重要なものであるとする立場にたつのか、○2言語も芸術も道具的価値をもつにすぎず、言語や文化自体には何ら価値がないという立場にたつか、あるいは、○3その中間的な立場(言語の内在的価値も道具的価値も認めるものの、両者の間で融通することが可能であると考える立場)にたつかで、本稿で議論した効率性や公平性の問題の解釈も大きく異なってくる。残念ながら、筆者はこの点について明瞭な回答を持ち合わせていないが、少なくとも言語の内在的価値ないし道具的価値のみを認めるという極端な立場には与しないだけの十分な理由があるように思われる。この種の問題については、言語権の理論とも併せて今後精緻化される必要があろう。

[謝辞]
本研究は日本学術振興会科学研究費補助金若手研究(スタートアップ)「ろう教育の有効性:聴覚障害者の基礎学力向上と真の社会参加を目指して」(研究代表者:坂本徳仁、課題番号:20830119)から研究費の助成を受けている。また、本研究の報告機会を与えてくれた公開ワークショップ「聴覚障害者における文化の承認と言語的正義の問題」は、立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点および文部科学省科学研究費補助金「異なる身体のもとでの交信――本当の実用のための仕組みと思想」(研究代表者:立岩真也、課題番号:20200022)から開催費の助成を受けている。これらの研究助成に対して心から感謝を申し上げたい。

[注]
(*)本稿は2010年2月12日に開催された公開ワークショップ「聴覚障害者における文化の承認と言語的正義の問題」において報告された論文を加筆・修正したものである。
(†)一橋大学大学院経済学研究科特任講師、立命館大学衣笠総合研究機構客員研究員。
(1)たとえばPool(1991)を見よ。
(2)言語の習得と費用負担に関する理論モデルに基づく研究としてChurch and King(1993), Grin(1992), Marschak(1965), Pool(1991), Selten and Pool(1991), van Parijs(2003) を挙げておく。これらの研究の中で、ネットワーク外部性の下での効率性の問題について議論している研究は、Church and King(1993), Pool(1991)の研究であり、公平性の問題について言及しているものはPool(1991), van Parijs(2003)である。なお、Selten and Pool(1991)の研究は、多言語状況における自発的な外国語習得の状況をゲーム理論の枠組みで考察したものであり、各人の自発的選択の下での外国語の習得状況について必ず純粋戦略Nash均衡が存在することを証明している。
(3)Level-plus comparabilityの定義についてはBlackorby, et al.(1984)を見よ。仮に序数的かつ個人間比較不可能な選好を仮定したとしても、本節で得られる効率性に関する諸結果について本質的な変更はない。
(4)本稿では単純化のために準線形の選好を仮定したが、一般的な選好を仮定したとしても本稿で得られる一連の結果に本質的な変更はない。また、自分の母語に対する特別な愛情を考慮に入れた場合であったとしても、議論に本質的な変更はない。
(5)比較静学の議論について本研究では省略する。
(6)Selten and Pool(1991)は、m個の言語集団が閉区間[0, 1]上に分布しているモデルを用いて、純粋戦略Nash均衡が常に存在することを示した。彼らのモデルは本稿のモデルと本質的には同じものであるが、その設定はずっと複雑である。
(7)Pool(1991)は言語政策として言語習得の費用負担額と公用語の組を考察している。本稿の言語政策では公用語を政府が指定することはないが、言語習得費用に補助金を付与することによって特定の母語集団に特定の言語を習得させるよう促し、「事実上の共通言語」を政府が決定していることになる。
(8)本稿の後半では言語的正義に関する議論の中で一律課税ではないケースも考察するが、現時点では単純化のために一律課税のケースのみを考える。
(9)言うまでもなく、政策空間と帰結関数を変更することによってPareto効率性を保証するようなメカニズムを構築することは可能である。もちろん、理論的には効率性を保証するようなメカニズムであっても、現実にどの程度機能しうるものなのか十分な検証が必要であることは言うまでもない。メカニズム・デザインの展望論文として、Maskin(2002)を挙げておく。
(10)費用や余剰の社会的な分担の問題については社会的選択理論の枠組みの中で膨大な蓄積がある。たとえば、破産問題における分配問題の展望については、Thomson(2003)を見よ。また、費用や余剰の分担問題の展望論文としてはMoulin(2002)が優れている。しかしながら、これらの先行研究は本モデルの分析に機械的に適用できないことに留意されたい。一般的な費用ないし余剰の分担問題では、投入要素ないし請求権は完全代替が可能な要素として取り扱われているが、本稿のモデルではEないしJ言語の母語話者が支払う費用は社会的余剰の増分に対して異なる効果をもたらす。したがって、各人の習得費用を同質的な要素として扱うことができないために、たとえばSerial Cost Sharing法やShapley値による分配法を適用することはできない。
(11)労働経済学分野における近年の移民に関する実証研究は必ずしもこの論点をサポートするわけではない。高学歴の移民労働者は英語を母語とするアメリカ人高学歴労働者と同等の賃金を獲得し、未熟練の移民労働者も英語を母語とするアメリカ人未熟練労働者とそれほど大きく違わない賃金を獲得している可能性が報告されている。詳細はCard(2005; 2007)を見よ。
(12)ただし、均衡水準での共通言語の決定には、習得費用の相対価格の他に、言語集団の相対的規模も影響を与えていることに注意されたい。
(13)いま、実数値関数W*: RN→Rをデフォルトポイント(誰も第二言語を習得しない状況)からの各人の費用供出状況に応じた社会的余剰の増減を示す関数としよう。すなわち、W*( {Ci}i∈N)= W({Ci}i∈N)-W(0, 0, ?, 0)である。このとき、個人の集合Nと社会的余剰の増減を示す関数W*、各人の費用状況{Ci}i∈Nに応じて以下のような関数φ: E → RNを考える(Eはそれらの組の全体集合とする)。

  φi(N, W*, {Ci}i∈N; Λ)= ξi(λ, W*({Ci}i∈N)),

  ただし、任意の正の実数値λ∈[0, Λ]および正の実数値xに対して、関数ξi(λ, x)はλについて連続かつ単調非減少で、φi (0, x)= 0 かつφi (Λ, x)= xとなる実数値関数とする。
  さて、この関数のクラスには、たとえば比例配分ルール「iの受け取る効用値 = Ci/ΣjCj W*({Ci}i∈N)」や均等配分ルール「iの受け取る効用値 = 1/N W*({Ci}i∈N)」、それら二つのルールの一次結合の配分ルール「iの受け取る効用値 =α1/N W*({Ci}i∈N)+(1 -α)Ci/ΣjCj W*({Ci}i∈N)」なども含まれる。上のように定義された一般的な割り当てルールはYoung(1987)によって定式化・公理的特徴付けがなされたものである。しかし、Young(1987)の設定では割り当てるべき資源量が固定されているため、彼の特徴づけの公理をそのまま機械的に本モデルの設定に適用することはできないことに注意されたい。
(14)これらのテーマに関連する規範経済学の近年の発展については、Arrow, Sen, and Suzumura(2002; 2010), Fleurbaey(2008), Roemer(1996; 1998)を見よ。

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