はじめに

はじめに

坂本徳仁

 本書は、立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点院生プロジェクト「障害者の生活・教育支援研究会」(2008-2009年度)、日本学術振興会科学研究費補助金 若手研究(スタートアップ)「ろう教育の有効性――聴覚障害者の基礎学力向上と社会参加を目指して」(2008-2009年度、研究代表者:坂本徳仁)、文部科学省科学研究費 新学術領域研究(研究課題提案型)「異なる身体のもとでの交信――本当の実用のための仕組みと思想」(2008-2010年度、研究代表者:立岩真也)、文部科学省科学研究費補助金若手研究(B)「聴覚障害教育および障害者雇用政策に関する理論・実証分析」(2010-2013年度、研究代表者:坂本徳仁)での研究活動の一部を取りまとめたものである。これらの研究資金を用いた活動の中には、2010年2月12日に開催された公開研究会「聴覚障害者における文化の承認と言語的正義の問題」と2010年3月22日に開催された公開シンポジウム「聴覚障害者の情報保障を考える」も含まれている。公開研究会「聴覚障害者における文化の承認と言語的正義の問題」は、経済学、社会学、政治哲学、文化人類学といった異なる分野に属する若手研究者を集めて開催した企画であり、そこで報告された内容の一部は本書の第一部に収録されている(第3章坂本論文、第4章古川論文)。また、公開シンポジウム「聴覚障害者の情報保障を考える」は、聴覚障害関連の主要4団体(全日本ろうあ連盟、全日本難聴者・中途失聴者団体連合会、全国手話通訳問題研究会、全国要約筆記問題研究会)が初めて一堂に会し、聴覚障害者の情報保障問題を論じた記念すべきシンポジウムであり、そこにおいて報告された内容は全て本書の第二部と第三部に収録した。この他、本書には、編著者のこれまでの研究活動を通して知己を得た将来の期待される優秀な若手研究者に執筆依頼した論考が収録されている(第2章北林論文、第5章藤井論文)。
 さて、本書の構成と内容は、以下の通りである。
 第一部の目的は、聴覚障害者の情報保障を巡る制度や文化の諸問題について学際的に考察することにある。最初に、坂本論文(第1章)において、聴覚障害者の置かれている就学・就労の状況について過去30年間の統計データを確認した上で、現在の課題を考察する。第2章では、文化人類学者で、手話通訳士としても活躍している北林氏が、国立障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科での聞き取り・質問紙調査をもとに、聴者がろう文化を学ぶ際に直面する困難を描いている。この他、第一部には、ケニアの初等聾学校を事例に、多言語社会を人類学的に考察した古川論文(第3章)、多言語社会における言語政策と言語学習にかかる費用負担の問題を経済学的に考察した坂本論文(第4章)、アメリカの障害者給付制度や「障害を持つアメリカ人法(Americans with Disabilities Act: ADA)」の政策効果に関する計量分析の結果をまとめた藤井論文(第5章)が収録されている。
 第二部は、シンポジウム「聴覚障害者の情報保障を考える」にて編著者の研究チームが報告した(1) 音声認識字幕化システムの試験的導入の結果、(2) 手話通訳制度の調査研究、(3) 日本版障害者差別禁止法導入の政策効果に関する研究、の三つのものを収録しており、情報保障に関連する国内制度と音声認識字幕化システム運用上の課題を明らかにすることを目的としている。なお、立命館大学における音声認識字幕化システムの試験的導入の困難さについて論じた第6章の報告と、日本の手話通訳制度が抱える諸問題について論じた第7章の報告については、シンポジウム時点での報告原稿を大幅に加筆・修正した上で、その後の研究の進展を新たに補論として付け加えた。具体的には、第6章の補論では、現時点で最高水準の成績を誇る音声認識字幕化システムであっても、人件費の高さおよび人材育成・確保の困難さといった理由から安定的な運用は困難であることを論じた。第7章の補論では、手話通訳者の人材不足と地域間格差に悩まされている日本の手話通訳制度について、どのような諸施策が必要であるのか経済学の観点から論じている。この他、第8章の坂本論文は、障害者差別禁止法の導入により予想される障害者雇用と賃金格差への悪影響を回避するために為すべき諸施策を提案している。
 最後に、第三部では、シンポジウム「聴覚障害者の情報保障を考える」での4団体による基調報告とパネルディスカッションの模様をほとんどそのままの形で掲載した。各団体の主張が端的にわかるという意味では、第三部は聴覚障害運動の歴史を知る上でも貴重な資料となっている。
 さて、本書の最大の特徴は、聴覚障害者の情報保障を推進するために必要とされる社会的仕組みや社会の在り方の検討を主目的としている点にある。この意味において、本書は現在の制度や技術を前提とした上で、聴覚障害者の情報保障の手段と環境整備の進め方を解説したマニュアル本ではないことに注意されたい。聴覚障害をもつ人を前提とした情報保障の優れたマニュアルが何冊も出版されている状況において、本書がそれらのマニュアルに対して具体的な貢献をすることはないし、既刊本の完成度の高さを考えれば、そのような貢献の必要性もほとんどないだろう。もし読者が情報保障の具体的な進め方を知りたいのであれば、以下のマニュアルを購読することを薦めたい。

 ◆手書き・パソコン要約筆記については、 (1)日本聴覚障害学生高等教育支援ネットワーク情報保障評価事業グループ[編著](2007)『大学ノートテイク支援ハンドブック――ノートテイカーの養成方法から制度の運営まで』,人間社. (2)聴覚障害学生支援ボランティア育成プログラム開発研究会[編](2007)『ノートテイカー養成講座テキスト 書いて伝える人〜よくわかるノートテイク〜』,独立行政法人日本学生支援機構京都支部. (3)日本聴覚障害学生高等教育支援ネットワーク[編](2008)『パソコンノートテイク導入支援ガイド――やってみよう!パソコンノートテイク』,筑波技術大学障害者高等教育研究支援センター.

 ◆聴覚障害学生支援全般については、 (1)日本聴覚障害学生高等教育支援ネットワーク聴覚障害学生支援システム構築・運営マニュアル作成事業グループ[編](2010)『一歩進んだ聴覚障害学生支援――組織で支える』,生活書院.

 ◆学会や会議、職場内での配慮については、 (1)電子情報通信学会情報保障ワーキンググループ[編](2010)『会議・プレゼンテーションのバリアフリー――だれでも“参加”を目指す実践マニュアル』,電子情報通信学会. (2)独立行政法人高齢・障害者雇用支援機構[編](2008)『聴覚障害者の職場定着推進マニュアル』,独立行政法人高齢・障害者雇用支援機構.

 上述のマニュアルとは異なって、本書は、現行の社会的仕組み(制度)や私たちの基本的な考え方(思想)が抱える諸問題を検討し、どうすれば障害の有無に関係なく私たち一人一人にとって望ましい社会を構築することができるのか、その解決策を模索することに主眼を置いている。もちろん、その課題を完全に解決するほどの完成度を本書の議論に期待することはできない。聴覚障害者の情報保障を取り囲む制度・思想・技術の諸問題を生産的かつ建設的に論じるためには、一つの分野にとらわれることのない学際的なアプローチが必要であるし、信頼のできるデータに基づいた精緻な計量分析を欠かすことはできないためである。残念ながら、本書内でも再三触れているように、日本の障害に関する統計資料は皆無に等しい状況にあり、精緻な計量分析など到底望むことができない。さらに、異なる分野の研究者が一堂に会して本当の意味で“学際的に論じること”や、各団体と連携しながら、適切な議論の場を構築することもなかなか困難な状況である(ここで、編著者の意図する“学際的に論じること”とは、○1異なる分野の単なる寄せ集めでもなく、○2感情的な批判や不勉強から起こる無意味な批判に終始することでもなく、○3中身のほとんどない、当り障りのないような官僚的議論に堕することでも勿論ない。それは、お互いの研究を尊重した上で、異なる分野の強みは最大限に生かし、ある分野の弱みについては他の分野の強みで補うような建設的な議論のことを指す)。その意味において、本書は編著者の研究の単なる出発点であり、これから障害者福祉や社会保障施策に関する血の通った研究を展開するための荒削りな見取り図にすぎない。しかしながら、どんなに時間がかかろうとも、一歩一歩着実に歩みを進めている心ある人たちの活動や研究に編著者は大いに勇気づけられており、データの収集のために必要とされる様々な機関・団体との骨の折れる交渉も、その後に待っている面倒なデータの整理・分析作業にも立ち向かうことができている。前途は遥か遠くにあるが、現在行なっている研究がいつか実を結ぶことを信じ、今はただ研究に専念するのみである。

編著者を代表して
坂本徳仁