第3章 突き返される問い 「研究」「研究者」「大学」を問う手前で考えるべきこと

北村 健太郎

 字を知っとる者は、なかなかツブケじゃ。ツブケじゃ言ういうがのう(というのは)、気が馬鹿じゃ(だということだ)。何も考えちゃおらん(考えてはいない)。⋯⋯皆さっさっさっさっ書こうが(書くだろう)。書くけえ、それより他のことを覚えんのじゃ、物事を(小川 2006: 77-78)。

1.問題の所在

 私は血友病者本人もしくは彼らに深い関わりを持つ人々の視点から、日本の血友病者とその家族の患者運動の歴史を記述し、医療技術、公費負担、学校教育、マスメディア、優生思想などの様々な主題を考察してきた。その過程で、血友病コミュニティに入って参与観察を行ない、ときには血友病コミュニティの活動の一部を担っている1)。
 私のこれまでの経緯から座談会「研究に課された倫理と実践における問い──被調査者/当事者/生活者/活動者との間で揺れる「研究者」なる存在とは何か」2)の特定応答者の打診をされたと思うが、一度は丁重にお断りをした。お断りをした理由は明快である。私は多くの人々に「研究者」と見られているだろうが、私自身は「研究者」と思って生活していないから、特定応答者には適当でないと考えたのである。しかし、企画者の強い要請を受けて受諾した。私は自らの定義づけを好まない。人にいろいろな側面があるように、私にもその場面にあった様々な表情があって当然だと考える。あえて何らかの定義づけを行なうとすれば、「表現者」「観察者」「記録者」3)というあたりだろうか。もちろんこれらは、私のすべてを表さない。
 私たちには「研究」「研究者」「大学」を問う手前で、肩書きや立場、言葉や文字、沈黙や存在など、多くの考えるべきことがある。本章の目的は、「研究」の手前に踏み止まって、生活に密着した基本的な営みである「考えること」「調べること」「在ること」「書くこと」「伝えること」について、今一度、問い返すことである。また、「研究者」と呼ばれることに気恥ずかしさを覚える私の基本的姿勢や考えを述べる。本章では、市村弘正「考える言葉」(市村1994=2004)、小川徹太郎「現場の知」(小川 2006)を補助線として、一般的に「研究者」と言われない作家や作詞家、劇作家などの文献も活用して論を進める。
 あらかじめ、本章の展開を示す。第2 節で私がこれまで考えてきたことを披露し、第3 節ではフィールドワークと私の取り組みを述べる。第4 節で言葉の限界と沈黙に言及したうえで、第5 節では「伝えること」について論じる。以上を踏まえて、第6 節では「時間」の堆積とその含意を述べる。第7 節で「研究者」「大学」に少し触れてから、フィールドから突き返される問いを提示する。

2.思考の軌跡

 まず、私の個人的経緯を説明する4)。様々な紆余曲折があり、現在、「研究者」と呼ばれる立場にある。正直なところ、このような立場になるとは思っていなかった。
 振り返ってみると、幼い頃から計画性がなかった。良く言えば、目の前のことに集中する性質である。小学生くらいまではよいが、中学校の後半くらいには高校受験などの進路について決断しなくてはならない。高校受験のとき、何も考えていなかったので「これから考えるから1 年休みたい」と親に高校浪人宣言をした。すると「それは許さない」と親と担任によって、とある高校に推薦で放り込まれた。高校時代は何事に対してもやる気を失っていた。その理由は「高校の勉強に何の意味があるのか」と考え込んだからである。高校の勉強は、味気ない薄っぺらな知識の断片のような気がした。もし、高校の勉強と日常生活や将来の仕事とのつながりを感じていたら、少しはやる気が起こったかもしれない。私の様子を見かねた当時の担任が、校内弁論大会に出場することを勧めた。気まぐれに原稿を書いたところ、出場することになった。以下は、当時の原稿の一部である5)。

 例えば、鳥が鳴いているとします。あなたは本で名前を知っていますが、はたしてその鳥自身は自分がそんな名前だと知っているでしょうか。ひょっとすると別の名前があるのかもしれません。名前や分類を知ると鳥や草花のことを、「自然」を知ったような気になります。しかしそれは人間のいいように「自然」をつくりかえているだけなのです。「石は重力で落ちた。」なんて生活には何の関わりもないことです。落ちたいから落ちるのです。
 もちろん、勉強することは悪いことではありません。
 しかし、最近は、教科の内容が高度になり、教科と教科の溝が深まったような気がします。ところが生活は総合的で、「自然」を基本としています。さらに教科と「自然」は遠ざかっています。ですから、「将来のためだ。勉強しろ。」と言われても、ピンと来ません(中山 1993: 42)。

 引用箇所は、知識による生活の分節化を述べた部分である。事象を分析するにあたって、必要な分節化は避けられない。しかし、分析された知識は(ときは批判も含めて)再び「現場の知」へと還流されるべきではないだろうか。
 高校を卒業する頃、ようやく現実的に「何らかのデスクワークで生きていこう」と真面目に予備校に通った。一浪して大学に入ったとき、20 歳の記念に懸賞論文に応募した。高校時代に考え込んだことについて、「為」の思想と「在」の思想6)として一つの結論を出して区切りをつけた(中山 1997)7)。学部生のときは、講義も部活も、ボランティア活動も謳歌した。大学に入った直後は、大学生活を楽しみ、普通に就職し、淡々と生きようと考えた。しかし、計画性がない私は、例によって就職活動に乗り遅れた。4 年間を終わって、大学院前期課程などで時間稼ぎをしながら就職先を模索した。
 転機は、修士論文のテーマを考えていたときに訪れた。ふと、日本の血友病者の現代史を誰も書いていないことに気づいてしまった。私の身近なフィールドであったがゆえに、これまで気に留めていなかったのである。修士論文を執筆した後、今後について考えた。問題は二つである。第一に、研究で将来の生計が立てられるのか。第二に、身近な血友病を研究対象として客観視できるのか。諸先輩にいろいろ相談したところ、懇切丁寧に待ち受けている困難を教えてくれた。繰り返し悩んだが、心の奥底からの「血友病者の現代史を書け」という声に背中を押され、大学院後期課程に進学し、現在に至っている。私は研究対象を分析するとともに、研究で得た知見を統合して生活場面へ還元することに注力している。私の基本姿勢は「ある主題の具体例として血友病を扱うのではなく、血友病を視座に社会を捉え直す」こと、「血友病を立脚点として現代社会の一側面を描き出す」ことにある(北村 2007)。したがって、私は「マイノリティ」研究や「当事者」研究をしているつもりはない8)。例えば、これまで一貫して考察してきた論点の一つに能力主義がある。この論点の考察は、(中山 1993)、(中山 1997)、(北村 2001)と続けられ、血友病の視角から(北村 2007)(北村 2008)に到達した。
 他方、日本の血友病者の現代史に取り組むにあたって、「基本的視座を血友病者の日常生活、ライフヒストリー」(北村 2007)に置いている。これは、先に述べた生活の分節化への抵抗である。研究として事象を分析的に捉えつつも、研究で得た知見が生活場面に還元され、生かされるように努めている。その一端は、次の第3 節で少し触れる。知の分析と統合は、簡単なことではないが、決して矛盾するものではない。人文社会科学をはじめとする諸科学が高度に専門化し、細分化している今日、その専門性を追究すると同時に、知の統合も必要だと考える。
 高校の勉強はつまらないと言っていた者が、いつの間にか「研究者」と呼ばれているのだから何が起こるか分からない。奨学金を返還している途中とはいえ、大学院進学を可能にした周囲の環境に改めて感謝せざるを得ない。

3.フィールドへ

 フィールドワークと聞くと何やら特別なことのように思われる。しかし、人文社会科学の研究対象は、現在、私たちが生活している世界である。「誰もが、地球上の具体的な場所で、具体的な時間に、何らかの民族に属する親たちから生まれ、具体的な文化や気候条件のもとで、何らかの言語を母語として育つ。どの人にも、まるで大河の一滴の水のように、母なる文化と言語が息づいている。母国の歴史が背後霊のように絡みついている。それから完全に自由になることは不可能」(米原 2001=2004: 188)なのだ。身の周りを研究対象だと自覚した瞬間、そこはフィールドになる。大学院後期課程の進学時に決めたことは、血友病コミュニティに留まり、逃げ出さないことであった。鵜飼正樹を大衆演劇の世界に導いた役者の勝富朝隆が示唆的なことを述べている。

 論文に書くのはいいけれど、こういう団体生活は、外から見るだけじゃわからないよ。それより、一カ月でもいいから、一緒に生活して、同じもんを食べて、街風呂へでも一緒に行ったら、団体生活のよさも、また悪さもわかる。役者さんの世界というのは、ほんとうに人情味のあるあたたかい世界。もし私が病気で入院でもしたら、それこそ全国から見舞いに来てくれるような世界よ。それに実際に触れてみて、見たこと、聞いたこと、感じたことを記録にでもつけながら、やってみたらいいと思うよ。(鵜飼 1994: 7-8)

 縁あって、血友病が身近であった私にとって、フィールド内部に視点を持ち、「留まる覚悟」が重要であった。血友病コミュニティに「錨を下ろす」とでも言えるだろうか9)。
 しかし、血友病コミュニティに留まることは容易ではない。現在でも、血友病者やその家族、血友病コミュニティが1980 年代から1990 年代に受けた「傷」は完全には癒えていない。HIV 感染は、血友病者の生命を激烈に奪い、身体的/精神的苦痛を与えただけでなく、血友病者同士の関係や血友病コミュニティを破壊し、血友病コミュニティをHIV 感染/非感染という二つに切り裂いたのである(北村 2009a)。現在から、患者会会報などの「書きのこされた文字のつらなりを丹念になぞること」は「記しとどめた文字の背後にひそむ数知れぬ「嘆きや苦しみ」に、記しとどめた者とともに思いを馳せる」ことになる。「小さな文字のつらなりは、まさしく紙碑として立ち現われてくるだろう。「鎮魂」の思いの深さは文字をただの文字にとどめ」ず、「それは祈ることとして読むこと」につながる(市村 1994=2004: 59)。記録からこぼれる「だれもが体か心を冒されている」という厳しい現実は、「過去を変えることはできないが、未来は変えることができる」「愛あるところに命あり」「命あるところに望みあり」「今を生きよ」(Stratton 2004=2006: 347)という未来への祈りへと転
じる。
 だからこそ、目で観察するだけではなく、身をもって血友病コミュニティを経験することが必要となる。真木悠介は「〈目の独裁〉からすべての感覚を解き放つこと。世界をきく。世界をかぐ。世界を味わう。世界にふれる。これだけのことによっても、世界の奥行きはまるでかわってくるはずだ。⋯⋯「身」による認識は、文字どおり「身をもって」せねばならない。熱ければ火傷、冷たければ凍傷、その他対象による捕捉等々の危険を賭することなしに「知る」ことはできない。ここでは「知ること」と「生きること」とはほとんど未分化である」(真木 1977=2003: 102-103)と述べる。
 血友病者の現代史研究にとって、真木の「身をもって」という表現は比喩ではない。血友病をめぐるフィールドでは「コミュニティ」の次元とともに「身体」の次元がある。血友病を論じるとき、「痛み」という論点を忘れてはならない。北村(北村 2009b)では、「痛み」が血友病にとって重要な鍵概念であることを示した。

 遺伝にしても世界経済にしても、血友病者をめぐる各論点が「痛み」という鍵概念でつながっていることを示唆した。世界経済と直結した身体を持つ血友病者は、今後ますます産業社会との関係に鋭敏になっておく必要がある。しかし、血液製剤が普及してもなお、身体から切り離して置き換えられない「痛み」は、血友病者にとって思考の重要な基点となる(北村 2009b: 133)。

 私自身が血友病コミュニティに留まり、血友病者の身体の息遣いも含めて認識しようと努めるとき、私自身が血友病コミュニティや血友病者の身体というフィールドに深く潜り込むとき、北村健太郎という一人の人間であろうとする。そうでなければ、「傷」を受けた血友病者や血友病コミュニティの苦痛や沈黙に届かない。あらゆる肩書きは邪魔になる。必然的に被調査者/研究協力者や調査者/研究者は未分化な状態にならざるを得ない。
 しかし一方で、私は研究者/調査者であることを意識している。血友病者や血友病コミュニティについて考え、調べ、書くとき、意識的に距離を取る。研究者/調査者として血友病コミュニティに接するとき、私は闖入者/暴力者である。研究者としての私は、血友病者や血友病コミュニティに対して厳しいことも論文に書く。私はフィールドに入り込んで、ときに血友病コミュニティと未分化な存在であり、ときに切断された存在である。
 血友病者や血友病コミュニティが、一人の人間として北村健太郎という存在を認めてくれるのか。そこが勝負どころである。「自分の帰属性を括弧に入れること」「身動きのとれない状態を引き受け」ることが、フィールドに関わる者の態度ではないか(市村 1994=2004: 117)。私たちは肩書きを名乗る以前に、一人の人間としてフィールドに「在ること」を忘れてはならないと考える。前述したように、血友病コミュニティは危機を経験した。「その経過報告ないし生存証明が記録と呼ばれる。⋯⋯私たちに手渡された記録は、闇のなかにかき消された無数の「声」によって支えられ」る。「二十世紀という時代の「記録」は、その記録という行為そのものの危うさにおいて際立っている」(市村 1994=2004: 54)。私の肩書きが「記録者」かもしれないと思うのは、フィールドから様々な記憶や記録を渡されるとき、これらを生かさねばと感じるからである。松下竜一は自らの歌は日々の記録であると述べる。

 ぼくのつくるものなんか、ほんとうは歌じゃないと思っています。いわば歌の型を借りた生活綴り方で、歌人の歌とは断絶したところにあるものです。ぼくは、自分が文芸をやっているのだとは思っていません。ただ、日々の生活記を歌や文の形で残そうとしているのみです。ぼくにとっていちばん大切なのは、日々の現実生活そのものです。それを充実する手段として記録に励むのです(松下1969=1983: 182)。

 私の取り組みは、松下の「歌の型を借りた生活綴り方」を言い換えれば、「論文の型を借りた血友病者の現代史記述」である。マスメディア10)と研究者の両者を意識しながら、訴訟に偏った強固な認識枠組みを壊すことを考えたとき、事実を淡々と積み上げていく論文の形式が適切だろうと考えた。さらに、単に過去に遡るだけではなく、これらの作業が未来へ向けた認識枠組みを構築する一助になることを願っている。
 2010 年4 月17 日から18 日にかけて、全国社会福祉協議会灘尾ホールにおいて、全国ヘモフィリアフォーラムが開催された。私は、全国ヘモフィリアフォーラム実行委員会からの依頼を受けて、新しい血友病コミュニティ参加者向けのスライド「日本の血友病者たち――1960 年代から現在まで」の原案作成に協力した。後日、送付された報告書によれば、「歴史のスライドはとても分かりやすくて良かった」「若い人・若いお母さんたちに過去の様々な出来事をもっと伝えていきたい」「若い医療者に聞かせたい」「過去に戦った方々のおかげで現在の状況があることを実感」「未来を拓くという意味で重要」(全国ヘモフィリアフォーラム実行委員会編 2010: 85-86)と、おおむね好意的に受け止められたようである。血友病コミュニティの今後の活動に期待するとともに、これからも支援していきたい。

4.言葉と沈黙

 言葉はすべてを表さない。言葉に限界がありつつも、私たちは何事かを伝えようとする。そんなことを考えて「言葉」という詩を書いたこともあった。11)他方、マスメディアなどではやる言葉もあり、「リア充」「婚活」「育休切り」などの新しい言葉が次々と作り出される。私たちは普段どのように言葉と向き合っているのだろうか。ただそこにあるから、すらすらと出てくるから、使っているのだろうか。言葉の重要な働きの一つに「考えること」がある。ところが、私たちは普段の生活で「考えて」いるにもかかわらず、「言葉」の「考える」という働きをしばしば忘れる。上農正剛は、聴覚障害児の書記日本語能力の育成という観点から「言語力とは、具体的、実践的には、ことばの正確な運用に裏打ちされた「思考力」のこと」(上農 2003: 253)だと考察する。もし、普段の生活以上に何かを「考えて」書いたり言ったりする必要があるのなら、言葉を充分に吟味して選び出さなくてはならない。
 市村弘正は「新しい言葉の多くは早晩古くなる。しかし、いっこうに古びない「古い言葉」も身のまわりにたくさんある。「すべて価値あるものは手垢のついた名前で呼ばれやすい」(オーソン・ウェルズ)という言葉を思い出してもいい。私たちが目を向けるべきは、新しさと古さの境目だ。言葉が形成される場所である。古びるにまかせるか、それに新しさをもたらすかの分岐点。その境目にあって、形成力をもって分岐させてゆくのが「考える」ということである」(市村 1994=2004: 209-210)と述べる。また、中島みゆきは「能書き」という詩で、以下のように言う。

自由という能書きが もてはやされた頃があったな
その前は 思想というのもあった
平和というのもあった
明るいというのが はやった頃もあったな
それから個性というのもあった
ゆとりというのが 取り沙汰された頃もあったな
自分らしいというのもあった

遊びだよ
ないものを言い当てる遊びだ
結局どれも ないものねだりだ
実際に人間がやることは なんの変わりもありはせんな(中島 2001: 46)

 なぜ、私たちの周りで多くの「能書き」がもてはやされるのか。市村は「手垢にまみれることが忌み嫌われる新しい言葉の帝国。そこでは、出来立ての名詞が歓迎され、洗いざらしの形容詞が愛用され、手垢のつきにくい抽象語や難解な言葉が重んじられるだろう。その分かりにくい言葉たちは、いわばわかりやすい欲求に支えられている」(市村 1994=2004: 212)のだと答える。
 「薬害エイズ」も「わかりやすい欲求」に支えられた言葉である。もちろん、当時の国家賠償訴訟やその運動が分かりやすい言葉を必要としたこともある。私が日本の血友病者の現代史に取り組み始めたとき、マスメディアや研究者の言説は、国家賠償訴訟の被害/加害の対立的な認識枠組みが強固だった。第18 回日本エイズ学会学術集会・総会の会長シンポジウム「HIV 感染症と血友病――回顧と展望」において、私は「薬害エイズ」という呼称の問題点を指摘し、認識枠組みに揺さ振りをかけた。

 中長期的に将来への教訓とする場合、「薬害エイズ」という呼称を問い直す時期に来ていると思われる。それは「薬害エイズ」という呼称が、その事象の構造を何ひとつ表していないことが最大の理由である。⋯⋯「薬害エイズ」がどういう事象だったのかを明確に認識しなければ、将来への教訓を引き出すことはできない。⋯⋯「薬害エイズ」は、血友病者本人、家族、医療専門職、製薬企業、行政という、少なくとも五つのファクターが複雑に絡み合っている事象である。⋯⋯これを「産官医の癒着」などという薄っぺらな一言で片付けてはならない(北村 2005: 69-70)。

 私たちは言葉の「深さ」を考えなくてはならない。市村は「言葉が言葉であることをやめる瀬戸際で引き返すという経験の堆積」「様々な意味を担い、あるいは抽きだされるという言葉がおびる運動、厚みと奥行きと重層をもたらす運動」を捉えるために、言葉に対する「動態視力を要請する」と言う(市村1994=2004: 208)。
 しかし、どのように言葉を並べても沈黙には辿り着けない。平田オリザは「『黙ってしまう』『いない』『コミュニケーションしない』⋯⋯それを全部合わせて人間の言葉なんだ、しゃべらないのも言葉」(平田 2003: 109)だと述べる12)。松下は「父の沈黙に圧倒されることがある。⋯⋯文筆を生業とするようになっておのれのことを書き散らす機会が多くなればなるほどに、父の底知れぬ沈黙は私にこたえた。父の沈黙の前では、私の文章の軽薄さがあぶり出される」(松下 1994: 56-57)ようだと言う。

 父はまったくおのれのことを語らない。そのことでは仰天させられたことがある。⋯⋯私が仰天したのは、父が思いもかけず隻眼であったという事実にではなく、そのことをついに一度も洩らすことがなかったという父の徹底した沈黙に対してだった。おそらく、亡くなった母にすら語っていなかったと思われるのだ。もし母が知っていれば、母は必ず私には告げたはずだという確信を抱くだけの理由が私にはある。⋯⋯片眼しか見えないことを妻にすら打ち明けなかった父の沈黙を、どう考えればいいのだろう。別に恥じて隠したのだとも思えない。ただ単に、おのれのことを語らないという父の習性によっているとしか思えないのだ。⋯⋯無理に書いてもらった父の鉛筆書きの略年譜に眼をとおして、唖然としてしまった。〈明治三十九年二月九日に生まれる〉に始まる年譜はわずかに十項目しかなく、そのうちの六項目が〈長女陽子生まれる〉〈長男竜一生まれる〉といった六人の子供の出生記録で占められていたのだ(松下 1994: 57-58)。

 それでもなお、何事かを考え、調べ、書き表そうとする者もいるだろう。何かが自明だと指摘されるときは、言葉の「深さ」が足りないのである。「見たとおりの追認ではないところで、言葉は生きる」から、「見ていて見えていないもの、埋もれているもの、隠されてあるもの、伝わりにくいもの」を捉えなくてはならない。「考えるという機縁を手放さずにもちつづけようとすれば、私たちの言葉は動態感覚をともなう深度」を保持したまま、考え続けることが必要である(市村 1994=2004: 208)。沈黙に抵抗して、何事かを書き表さんと欲する者は、よく考え抜かれた言葉を使わねばならない。そうでなければ、前述の「能書き」のように一瞬にして消えてしまい、圧倒的な沈黙に塗りつぶされる。
 触れるものすべてを傷つけるような言葉は、私は言葉だとは思わない。けれども、吟味された言葉は守りたいものを守り、斬りたいものを斬る力となり得る13)。私は常に言葉を畏れながら、言葉の可能性に賭けて書いている。

5.まだ見ぬ読者へ

 私たちが何事かを書き表そうと欲するのは、どのようなときだろうか。いろいろあると思うが、人に「伝えること」がある場合ではないだろうか。医師の岡井崇は、人生初の小説を書こうと思い立った。

 学会や研究会で如何に関係者の理解が得られようと、一般社会の方々にその声〔産科医師が直面している困難――引用者注〕を届けるのは難しいことでした。社会の理解が得られなければ厚生労働省も動けないのではないかと考えていたところに前述の余韻〔産婦人科の医局説明会で口惜しさから学生の前で号泣したこと――引用者注〕が重なり、小説を書こうと思い至ったのです(岡井 2007: 434)。

 岡井は、親戚の試読で指摘された素人執筆の“おかしな箇所”の直しで「根を詰め過ぎたせいで、髪は白くなり、目には飛紋がちらつき、前歯が二本抜け、頸椎症まで患う破目」(岡井 2007: 435)に陥ったが、努力の甲斐あって出版にこぎつけた。岡井が体調を崩しながらも原稿を直したのは、まだ見ぬ読者へ伝えたい強い意思があったからである。
 私は、論文をはじめとする執筆活動は読者がいて初めて完結すると考える。つまり、執筆して発表しただけでは未完成である。だから、発表するならば、読者に対する謙虚な姿勢を忘れてはならない。執筆者は自分の原稿に責任を持つ覚悟を持たなければならないし、どんな批判も受け止めなければならない。積極的な存在に見える執筆者も、実際は受身であって、それも「積極的な受身」の存在である(北村 2000a)14)。他方、米本昌平は、科学の説明責任の観点から「社会の側が専門論文についての「攻撃的な読み手」を確保すべき時にきている」(米本 2000: 29)と論じる。
 「研究」を問う手前で、私たちは論文とは「伝えること」であると認識しなくてはならない。ときに、興味深い研究テーマを選んでいながら、まったく伝わらない論文がある。研究は「抽象語や難解な言葉」を駆使することだと誤解し、「書くこと」に気を取られ、読者に「伝えること」を忘れている。上農は、自分の考えや気持ちを他者に伝えることの大切さを述べる。

 思考を論理的に組み立てて、自分の考えや気持ちを表す、つまり他者に伝えるというこの基本姿勢は、家庭においても小さい時から日常的態度としてしっかり育んでもらいたい事柄です。その際、重要なことはそれが音声言語で表されているのか、手話言語で表されているのかという言語の種類(モダリティ)なのではありません。本質的問題はその表された思考が論理的に組み立てられているかどうかという「中身」の問題です。そして、論理的に組み立てられているという意味において、他者との言語的コミュニケーションに向けて開かれたものになっているかどうかということです。論理という骨組みがなければその思考を他者に伝えることは出来ません。つまり、重要な点は言語コミュニケーションの「種類」ではなく、思考の「中身」(論理性=組み立てられ方)なのです(上農 2003:223)。

 平田もまた、演劇の視点から言葉を「開いていく」こと、観客との共有の幅を広げることを強調する。

 口語ではない、難しい言葉を使うと、「ごまかす」ことになるからでしょうね。ごまかすのと権威主義的になるからだと思うんです。先日、たまたま谷川俊太郎さんと対談したんです。⋯⋯「平仮名で書くと当たり前のことだけど、漢字を使わない。それは漢語を使わないということで、漢字や漢語を使った瞬間に何か自分を権威づけたり、それがわかる人とわからない人を区別したり、そういう作用が働くからだ」と。それをやめることでしょうね。⋯⋯言葉を「開いていく」というのは非常に重要なことで、基本的には、私たちはどんなに難しいことでもそれを相手と共有する努力をしなくてはいけないんです。⋯⋯偉そうにすることをやめるということだと思います(平田 2003: 36-37)。

 では、難しい言葉を使わなければ、読者に「伝えること」を意識した論文が書けるのか。物事の理解と説明の関係について、池上彰とともに確認しよう。

 自分がそのことを本当に知っていないと、わかりやすく説明できないのです。⋯⋯出来事の全体像が理解できていれば、それぞれの要素の価値が評価できますから、大胆に切り落とすことも可能になるのです。⋯⋯イラク政治の専門家である酒井啓子さん(当時はアジア経済研究所の所属、現在は東京外国語大学大学院教授)に、「こどもニュース」のゲストとして解説していただいたときのことです。酒井さんは、イスラム教やイラクという国について、本当にざっくりと説明してくださいます。⋯⋯「え、そんな説明でいいの?」と思うぐらい、子どもにもわかりやすい説明でした。/本当に理解している人は⋯⋯大胆に省略できるからです。⋯⋯よく理解していれば、わかりやすく説明できる。わかりやすく説明しようと努力すれば、よく理解できる(池上 2009: 78)。

 よく理解できているから分かりやすい説明ができる。よく理解できていなければ、読者に伝わりやすいと思われる言葉を選ぶことができない。
 「伝えること」についてまとめる。第一に、まだ見ぬ読者へ伝える強い意思があること。第二に、読者に対する謙虚な姿勢と具体的な読者像を持つこと。第三に、読者と共有する部分を広げるような適切な言葉を選ぶこと。論文執筆が「伝えること」の一手段である以上、読者を無視した執筆は本末転倒である。

6.時間の堆積

 本節では再びフィールドに立ち戻り、捉えることが難しい「時間」の堆積15)について考える。ここで指す「時間」とは、日が昇って日が沈むまでの時間や雨が降り続く時間である。生活に密着した研究では「時間」の記述は避けて通れない。西の魔女のおばあちゃんは、まいに「人々は皆、先祖から語り伝えられてきた知恵や知識を頼りに生活していたんです。身体を癒す草木に対する知識や、荒々しい自然と共存する知恵。予想される困難をかわしたり、耐え抜く力。そういうものを、昔の人は今の時代の人々よりはるかに豊富に持っていたんですね」(梨木 1994=2001: 53)と話す。小川徹太郎は、瀬戸内の漁師たちが一人前として「食えるようになる」までの過程に「時間」の堆積を見る。

 漁師たちが自分の腕や勘をたよりに漁を行い、しかも、そのことを通じて一人前として「食えるようになる」には、「一〇年」前後といわれるような、親、船頭、ジュウセンを手本として、徐々に種々な技能を身につけていくだけの期間を要したのであり、しかも、船具・漁具などの仕掛けの修理、加工、製作を行う手は、出漁中以外にも片時も休められることはなかったのである。そして、前述した、終始無言のまま遂行される漁行為のその沈黙の背景に、こうした「時間」の堆積の認められることについて、私たちは思いをいたすべきであろう。もちろん、ここでみられたような漁行為にかかわる種々な作業が「できるようにな」ろうとする「前向き」な気構えや行い、あるいは、終始、手先や体を動かしながらの生活リズムなどは、一人前になったあとも、むしろ「何十年かかっても、それで満足というのはない」といわれるように、終生保ちつづけられたことであろうが、こうした着実な営みのなかで、⋯⋯漁師としての自信が培われていくことも、無視されてはなるまい(小川 2006: 36-39)。

 「時間」は微妙にずれながら堆積する。例として、瀬戸内の漁師たちを想起すれば、漁法の技能の授受・習得は「道具やそのあつかいはつねに改良・改変され、それに応じて漁の「流れ」の構成のされ方やシオの見方も一様では」(小川 2006: 35)ない。しかし、「シオをつくる」16)という言い方に代表される「身体性の強い漁行為のコツ」(小川 2006: 13)は確実に授受・習得される。漁師たちは「一人前の船頭になるには一〇年前後の歳月」(小川 2006: 35)が必要だと口をそろえる。

 「一〇年」という期間は、およその目安としてシオ・ヤマ・網代をみることができ、自分の腕や勘をよりどころに、一人前として一家を構えて「食えるようになる」にはなかなか難しいという含意があるのであろうが、一〇年というと、ほぼこれまでみてきた親の船、他家の船で漁を行う期間に該当する。⋯⋯ヤマ・シオ・網代の見方や道具のつくり方、あつかい方などの技能の習得とは、上達した腕の者を手本として、「同じように」自分の体を動かしながら「やる」ことのなかで身につけられていく性格を有していることがわかる(小川 2006: 35-36)。

 「時間」は少しずつずれながら堆積することで、何事かを譲り渡し、手渡す。何事かがゆっくりと伝わる。瀬戸内の漁師たちは、腕のよい漁師を真似ることで、漁における「勘どころや経験」(小川 2006: 36)を自らのものとした。いったん、ここでまとめよう。換言すれば、「時間」の堆積とは「人生」であり、伝えられてきた知恵の「相続」である。また、人に限らない「生命の連なり」17)である。これらを記述するのは困難をともなう。私たちもまた、「時間」の堆積の一部であることに変わりはない。私たちは過去を受け取りながら、未来の読者に向かって書くのである。冒頭で、私を定義するなら「表現者」「観察者」「記録者」ではないかと記したのは、血友病者の現代史研究が未来に向かう強い志向性を持つからである。埴谷雄高は、講演で「精神のリレー」について述べる。

 魂の渇望型の文学は読者の向こうに独立していると共に、読者に向かって何らかの放射的なものを投げかけている。⋯⋯渇望型の文学というものは自分の中から、ある目に見えない放射を放っていて、同じような魂の渇望をもったひとにまた同じようなことを考えつづけさせることを強制しているわけです。⋯⋯ある触発性をもっていて、それに触れるものに向かってある精神のリレーの競争者になることを強要する。そして、その魂の渇望が強ければ強いほど、精神のリレー競走の場へひきこんで、ある意味では永遠に離さなくなってしまう。⋯⋯リレーする時渡されるバトンをよく見ますと、そのバトンには「より深く考えること」と刻り込まれている。そんなふうに「より深く考えろ」といわれても、ドフトエフスキイ以上により深く考えろということなど大変なことであります。とうていできないことであります。けれども、リレーのバトンには「より深く考えること」、と刻まれている以上、仕方がないから、より深く考えようとする姿勢だけはもって、リレーに走り出さなければならない(埴谷 1976: 15-17)。

 別言すれば、「時間」の堆積とは「リレー」である。想像してみよう。一人ができることには限界があるのだから、可能ならばフィールドにある課題も多くの人々によって「リレー」されたほうがよい。また、論文で先行研究の整理が求められるのは、研究の堆積の「リレー」に参加するからである。
 私たちは「時間」の堆積に対して、今まで以上に動態視力を働かせるべきである。僅かにずれながら堆積する「時間」は、譲り渡すこと、手渡すこと、ゆっくりと伝わることを促す。それは人生や相続や生命の連なりである。人文社会科学の研究は知のリレーに否応なく巻き込まれている。

7.突き返される問い

 本章では、あくまでも「研究」「研究者」「大学」の手前を論じてきたが、本節で少し「研究者」「大学」に触れる。第一に「大学」組織や学校制度、第二に「研究者」という立場、第三に「研究者」「大学」、ひいては現代社会を支える認識枠組みについて述べる。
 まず、確かに「研究者」「大学」特有の問題や課題はある。私見では、五味太郎や米本が言うように、将来的には「大学」組織や学校制度の平和的「解放」(米本 2000)か、もしくは根本的「解体」(五味 2010)に向かうだろう。もちろん、簡単ではないし、現行制度を固守する動きも現われよう。しかし、大学院生や大学生の多様化は着実に進行しており、内部からの「何らかの変化」は確実に起こると思われる。むしろ、私が興味深く注目するのは、現在「大学」に属する「研究者」と呼ばれている人たちが、制度や組織の変化に対して、いかなる態度や立場を取るのか、である。
 私は「研究者」の肩書きと仕事を分けて考えている。私が重きを置くのは仕事である。ときには、肩書きは名刺に印刷された文字に過ぎないと思っている。一方、その文字によって、私は禄をはんでおり、なくなれば困窮するに違いない。また、「研究者」と見られることで利益を得ていることも多々あるだろう。これらは率直に認めなくてはならない。しかし、フィールドで「一人の人間として北村健太郎という存在を認めてくれるのか」という賭けを繰り返し、常にフィールドでの関係を模索し続けるとき、肩書き云々を頭で考える余裕はない。フィールドでの関係の模索それ自体が「研究者」の肩書きの問い返しである。少なくともフィールドから拒絶されない関係を築きつつある私は、おそらく「新たな段階」の関係を試されているのではないかと感じている。
 踏み込んで言えば、私はフィールド以外の生活でも「研究者」という肩書きは捨ててしまいたい。できる限り「研究者」と名乗りたくない。けれども、「研究」という仕事を果たすことに異存はないから、「研究者」という社会的立場を引き受ける18)。肩書きは可能な限り空白に開きながら「研究者」の仕事を引き受けるのが、私の基本姿勢である。「研究」「研究者」「大学」に対する私の態度は、他の座談会参加者と比べて異質かもしれない。
 次に、「研究者」は本質的に孤独な存在である19)。孤独に耐える力を必要とする。それは「個人事業主」「独り立ち」「一人前になる」と言い換えることができる。再び、瀬戸内の漁師たちを想起してみる。

 構成された「時間」「土地」「シオ」に、実際にうまく自らの船、漁具、体を「合わせ」られるか否かが、漁の善し悪しを決定するということであろう。だから、この一連の行為を「抜け」なく行えることは、そのまま一人前の船頭としての自立をも意味することになる。⋯⋯漁行為全般にわたっても、「自分の腕」というような個々人の技能・技量がことさらに強調される傾向も認められる(小川2006: 15-19)。

 では、最近「大学」で推進される「プロジェクト型研究」は、いかに考えられるか。これも瀬戸内の漁師たちのカタフネあるいはジュウセンと呼ばれる漁形態が示唆的である。以下は、カタフネおよびジュウセンの説明である。

 沖で行動をともにする集団(船団)、および、それを構成する個(船)を表す。本拠地を同じくする者の間のみならず、たまたま沖で漁をともにすることになる者についても、この名で呼称される。関係のあり方としては、(1)「張り合う」(漁のさい)、(2)「助け合う」(事故、故障、病気、出産、死亡、餌の購入、魚介の販売のさい)、(3)「付き合う」(出漁、共食、寄合などのさい)、(4)「固まる」「いっしょにやる」(漁その他)などがいわれる(小川 2006: 41-42)。

 ここで注意すべきは、一人前の漁師たちが自立して関係を持っている点である。突き詰めて言えば、孤独を基礎として関わりを持っている。
 私は「研究者」を問う前に、一人の人間として考えるべきこと、なすべきことは山積していると考える。座談会の副題は、「研究者」なる存在とは何か、であったが、What という問いは静的な問いになりやすい。そうではなく、「研究者」なる存在はいかに在るのか、とHow で動的に問われるべきだろう。
 最後に、本章は、言葉で、文字で、「帳面」に付けるように構成されている。この記憶 ― 認識の仕組みに対して、瀬戸内の漁師たちはまったく違う仕組みを提示する。

 記憶 ― 認識を成立させる二つの仕組みが対比されて説明されている。一つは、道具で遊びながら、また、道具をこの石に引っ掛けたりして、「現場」で仕事をしながら、この山にはあの石があるということを覚え、再び道具を手にしてみることによって記憶が呼び戻される、「腹」と「分かる」・「知れる」という言葉で言い表わされる仕組みであり、もう一つは「口」で話したり聞いたりすることによって、「図面」として書き込まれ(読まれ)ることによって、成立する仕組みである。そして、漁労を基本的なところで成立させているのは前者なのであると(小川 2006: 52)。

 小川は、瀬戸内の漁師たちの説明が「その場に居合わせた私」になされた説明であることを踏まえるなら「『帳面』や『図表』を扱うものとしての私やその他の者による、自分および自分たちの日頃行なっていることへの『無理解』に対する不信の念が潜んでいるように思われる」から、「『無理解』を支える仕組みに対する批判と不信の念をこそ、この主張のうちに読み取らなくてはならない」と述べる(小川 2006: 52-53)。小川は「書くこと」が自明化されてしまった社会の仕組みの問い返し、捉え返しへと向かう。

 「書くこと」や「書かれたもの」の影響は、私たちのものの見方、感じ方、考え方、あるいは生活のすみずみの様々な事物にまで浸透しているわけだし、漁師や漁商のおじさん、おばさんたちにしてもこうした動きから逃れられているわけではない。問題は、このようにあまりに「書くこと」や「書かれたもの」を読むこと、あるいはそれらを通じて形成される社会の仕組み自体が自明化されてしまっているためにそれらをしっかりと把握できず、しかも、そのことによって知らず知らずのうちに本稿でも触れたような様々な「無理解」を起こすことになっている、ということではないか。それ故、課題となるのは、このような問題をしっかりと認識しようとしたり、認識していくためにはどのようにすればよいのかを考えていくことであり、「書くこと」や「書かれたもの」の単純な否定では、自分の日々行なっていることからの横着な責任逃れにしかならないであろう。そして、このような課題と取り組むことによってのみ、「身に染みる」分かり方や道具を介した「知り方」、あるいは「現場の知」についても問題にしていくことができるように思われる(小川 2006: 80)。

 瀬戸内の漁師たちに直観的に指摘される「私たちの社会や学問の仕組み」(小川 2006: 79)とはいかなるものか。漁師たちから突き返される問いに、私たちが答えようと思考するとき、「研究」「研究者」「大学」に対する一つの答えを見出すのではないだろうか。

8.考え続けること

 本章では、生活に即した営みである、物事を「考えること」「調べること」、フィールドに「在ること」、論文を「書くこと」、書いて「伝えること」について、言葉の限界を念頭に置いて論じた。そのうえで、「時間」の堆積が含意する「人生」「相続」「生命の連なり」「リレー」について述べた。最後に「研究者」「大学」に若干触れ、瀬戸内の漁師たちから「研究者」に突き返される「批判と不信の念」を記し、「私たちの社会や学問の仕組み」を問われるべき課題として提示した。
 私の基本的姿勢や考えを記述するにあたって、古い拙稿はもちろん、一般的に「研究者」と言われない作家や作詞家、劇作家などの文献を多数引用した。ふざけていると思われたかもしれないが、物事を「考えること」、何かの表現を使って「伝えること」においては「研究者」を凌駕する方々は多い。むしろ、「研究者」は、そういう方々に学ぶべきである。
 私は生活を、世界を、自然を感受したいと思って生きてきた。たとえ言葉にならなくてもよい。「複雑さは複雑なままに」「近道言葉は、事態に向かいあうことを阻む力として作用する」から。「考えること」「書くこと」に身を置く現在、私は可能な限り、「埋もれているものの深さ、隠されてあるものの奥行き、沈黙するものの拡がり、見えないものの動き、忘れられているものの遠さ」(市村 1994=2004: 213)を捉えたい。
 私は「分かった振りをしない」ことを自戒としている。それは、瀬戸内の漁師たちに指摘される「書くこと」によって形成される社会の仕組みと「書くこと」では分からない「現場の知」も含まれる。換言すれば、「分かった振りをしない」ことは「考え続ける」ことである。私の最終的な研究目的は「血友病を立脚点として現代社会の一側面を描き出す」ことにある。そのためには、私に現代社会を的確に捉える動態視力、それらを表現する言葉の力20)がなくてはならない。だからこそ、あえて「研究」「研究者」「大学」を問う手前に踏み止まって、基本的な営みを確認したのである。
 言葉への畏怖、言葉の限界を感じつつ、これからも私は、未来の読者に手渡したい何かを紡ごうとするだろう。

 最高の目的を達成するために努力策励し、こころが怯むことなく、行いに怠ることなく、堅固な活動をなし体力と智力とを具え、犀の角のようにただ独り歩め(Sutta-nipata 1-3-68)。
 音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように、犀の角のようにただ独り歩め(Sutta-nipata 1-3-71)21)。

[注]
1)2008 年3 月から、ヘモフィリア友の会全国ネットワーク世話人を務めている。
2)本章は、座談会「研究に課された倫理と実践における問い――被調査者/当事者/生活者/活動者との間で揺れる「研究者」なる存在とは何か」に対する応答として書かれている。
3)「表現者」は言葉によって何かを表現する者、「観察者」はフィールドを含む社会を観察する者、「記録者」は記録したいと思うことを記録する者という緩やかな意味合いである。
4)本節は、座談会でのコメントと一部重複するが、永田貴聖の報告「以前の思考」及び有薗真代の報告「収容所的なもの」を念頭に展開されている。
5)当時は「中山」姓を名乗っていた。
6)後に「為す思想」と「在る思想」に変更した(北村 2001)。端的に言えば、「為す思想」とは「学校に限らず、業績で人格評価を行うこと」、「在る思想」とは「共同体のなかに「身を置くこと」を重視する考え方」である。当時の指導教員から似たような概念があると指摘を受けた。
7)懸賞論文を書き終わったとき、「これを超えるもの、匹敵するものは、一生、少なくとも10 年は書けないだろう」と感じた。私は書き上がっただけで満足だったが、思いがけないことに論文集に掲載された。この予感は間違いではなく、それから博士論文完成まで10年の歳月を要した。
8)戦略的に「当事者」研究と名乗る必要のある者は名乗ればよい。なお、私は「当事者」は曖昧な概念だと考えているので、基本的に引用以外では使わない。
9)永田報告の「死ぬまで続く人間関係」に対応している。10)医師の西田恭治がマスメディアの訴訟前後の偏った報道を指摘している(西田 1997)。問題のある著者として、櫻井よしこや広河隆一の名前を挙げている。
11)詩「言葉」全文。スラッシュは改行を示し、原文の行間を詰めて表記した。
読書感想文/この感動を どう言葉にすればいいのだろう?
初恋をして/このときめきを どう言葉にすればいいのだろう?
社会の矛盾/この憤りを どう言葉にすればいいのだろう?
大人たちは いつも/はっきりしなさいと迫る。
でも/すぐに言葉にできないことだってある。
微妙な 繊細な この気持ちを/大切に心の中で温めておこう。
そしていつか/言葉を選り抜いて この思いを伝えよう。
けれど この思いが/半分でも伝わるだろうか?
言葉はとても曖昧だから。
それでも人は/気持ちを伝えようとするのだろう。
声と 手と 顔と⋯⋯。/すべての言葉を使って。
12)管見では「語り」や「ナラティヴ」を無自覚に称揚する研究が見られる。アーサー・フランクの批判を行なった論文に、山口(2009)がある。
13)この言い回しは、ロロノア・ゾロに剣術の手ほどきをした師範、コウシロウの教えがもとになっている。“最強の剣”を“最高の言葉”などに置き換えて読むことができる。
 「“最強の剣”とは⋯ 守りたいものを守り 斬りたいものを斬る力」「触れるものみな 傷つけるような剣は 私はね⋯ “剣”だとは思わない」(尾田 2001: 161)
14)北村(2000a)の冒頭と第1 節「シンガーとオーディエンスの在り方」で、「発信者」という大きな括りで論じた。論文執筆の文脈に合わせて改稿している。
15)バルトークは樹木や森から「時間」を感受した。「私たちもバルトークとともに、「昆虫、鳥、毛虫」の働きを忘れないようにしたい。この生成過程には、人間が作るどんな高価な絨毯よりも「労力」がかかっているだろう。すなわち、人間の力の及びえない、「時間の堆積」だけがそれを作り上げることができるからである。この大いなる「時間」に対する畏敬こそが、かれを樹木へ向かわせるのである。そうしてその時間は、たえず生と死が相半ばする持続的な運動を内包するものであった。バルトークが新鮮な驚きをもってその生成過程に立ち会うのを知るとき、私たちはこの畏敬の念の大切さを肝に銘じるべきだろう」(市村 1994=2004: 18)
(6)「漁行為全体を一言で言い表す、格言めいた言い方」(小川 2006:12)である。
17)例えば「いのち愛づる姫」は、以下のように歌う。
たった一つの細胞が
生きものすべてのはじまり
自然界に手ぬきはない
ものみな 一つの細胞から
生まれたいのち 尊いいのち(中村・山崎・堀 2007: 50)
18)「名乗ること」と「引き受けること」は異なる。含意は各自で考えてほしい。
19)「孤独」と「孤立」は異なる。念のため、混同しないように注意を促す。
20)あさのあつこは現代社会で言葉を扱う困難を述べる。スラッシュは改行を示す。「非力なのだ。わたしの言葉があまりに、非力なのだ。/今、この国で言葉を使って表現しようとすることは、力が要る。若い魂と肉体を余すところなく書き切りたいと望むなら、なおのこと、言葉の力が要るのだ。癒しのためだけの優しい言葉も、威勢の良いだけの空虚な掛け声も、巷に溢れたありきたりの修辞も、砕けてしまえ。無用だ。そんなものをいくら駆使しても、少年の髪の毛一本、表すことはできない。/力が欲しい。本物の言葉を創りあげる力を手に入れることができるなら、惜しむものなど何一つないのに。/⋯⋯/わたしは書かねばならない。⋯⋯力が欲しいなどと嘆いてみせて、どうなるものでもなかった。自らの身体感覚を感性を欲望を想いを研ぎなおさなければならない。言葉を自分自身から遊離させない。耳触りの良い、ふわふわと浮遊するような言葉を砕くのだ。粉々に。/⋯⋯/決して砕けぬ強靭な言葉をもって⋯⋯/⋯⋯/自らが自らを引き受けて屹立すること」(あさの 1998=2004:346-350)
21)Sutta-nipata の訳は、中村元訳(1984,『ブッダのことば――スッタニパータ』岩波書店)を利用した。ちなみに、引用は「第一 蛇の章 三、犀の角」の一部である。中村の註には「「犀の角のごとく」というのは、犀の角が一本しかないように、求道者は、他の人々からの毀誉褒貶にわずらわされることなく、ただひとりでも、自分の確信にしたがって、暮すようにせよ、の意である」(中村訳 1984:253)とある。

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