第2章 水俣病史における「不知火海総合学術調査団」の位置 人文・社会科学研究の「共同行為」について

森下 直紀

1. 本章の題材と課題

 「不知火海総合学術調査団」は水俣病に関する人文・社会科学分野での最初期の社会調査であった。この調査団は、「近代化論再検討研究会」の構成メンバーを中心に1976 年に発足した。「近代化論再検討研究会」とは、社会学を学んだ鶴見和子と哲学を専門とする市井三郎を中心として、科学史や政治学などの研究者が集う研究集団であり「不知火海総合学術調査団」はそうしたメンバーに生物学出身の最首悟や医学研究班を率いた原田正純医師を加え、学際的な調査団として成立した。ただし、この調査団の団長であった色川大吉が明かすように、調査団メンバーと医学者とのかかわりは原田正純個人を除いてほとんどなかった。その意味で、この調査団は人文・社会科学の総合研究という枠で捉えられるべきものである(色川 1983a: 13)。この「不知火海総合学術調査団」の報告書は、『水俣の啓示』(上・下)として1983 年に刊行されているが、その上巻のなかで、市井三郎の論文とその反論にあたる最首悟の論文が両論併記の形で掲載されている。これが所謂「市井-最首論争」である。一見して内部不和とも取れるこの種のやり取りが、同一の報告書に収録されたことだけでも注目をひくが、ここでは、この論争の背景に調査団メンバーたちの水俣病問題への立ち位置の問題が潜んでいることを示す。
 「市井-最首論争」が調査団のメンバーそれぞれの立場から生起してきたことは、論争に関して触れられた調査団メンバーの座談会から知ることができる。報告書の下巻に収録された座談会の記録では、民俗学者の桜井徳太郎がこの問題への口火を切った。そして、報告書に「論争」が掲載されたことについて、以下のように述べている。

 〔不知火海総合学術〕調査団というのは一体どういうものなんだと。ここ〔「市井-最首論争」〕で論じられたようなことをこそ結成の段階、あるいはその過程ですでに解決しておるべき問題ではないかと。つまりそれをのりこえて調査を実施するということこそ、実は調査団のあり方としてあるべきではないかと。そういう批判が出るのではないかと思う (色川 1983b: 498)

 この桜井の指摘は、社会調査というものを研究者の集団が担う際に、その調査集団の意見の方向性あるいは立場は調査開始以前の段階で確定しておくべきではないかという問題提起である。「不知火海総合学術調査団」のメンバーたちは、水俣における調査開始時において、「近代化論再検討研究会」の問題意識を継承し、水俣病問題においても近代社会批判を展開しようとしていた。色川の述懐によれば、その構想は調査活動の最初期に頓挫したとある(色川1983: 9-13)。しかし、「市井-最首論争」において、市井と菊地昌典が近代社会の構造を問題にした一方で、他のメンバーは、近代社会そのものを問題とした。「不知火海総合学術調査団」は、社会調査研究をおこなう研究者の立場性の違いという問題を内包していたのである。この問題を、人文・社会科学研究の実践性の問題として考察するべく、調査団と同時期に展開された社会科学分野の所謂「似田貝-中野論争」を補助線として検討する。そのうえで、「不知火海総合学術調査団」がその後の水俣病史の研究の方向性に、近代社会批判を内在させる契機となったことを明らかにしたい。

 1.1 水俣病問題の発端から、人文・社会科学調査の開始まで
 2010 年5 月1 日、鳩山由紀夫首相(当時)は、熊本県水俣市でひらかれた「水俣病犠牲者慰霊祭」に、日本の首相としてはじめて出席し、謝罪した。政府を代表して、かつて公害防止の責任を十分に果たすことができず、水俣病の被害の拡大を防止できなかった責任を認め、改めて衷心よりおわび申し上げます。国として、責任を持って被害者の方々への償いを全うしなければならないと、再度認識をいたしました。 (朝日新聞2010 年5 月1 日付)

 「防止できなかった責任」とはどのようなことをいうのか。鳩山首相の言葉からは、政府が本来果たすべき公害防止の責任を果たせなかったことに対する謝罪が述べられた。しかし、首相が述べたように、水俣病問題において政府が果たした役割は、例えば薬害エイズと同様に、不作為の結果責任に留まるのだろうか。『水俣50 年――ひろがる「水俣」の思い』において、最首悟は以下のように政府の果たした役割を述べる。

 1959 年11 月12 日は歴史的な日になりました。厚生省の食品衛生調査会の水俣食中毒特別部会が日比谷の松本楼で開かれ、水俣病の原因は湾周辺の魚介類に取り込まれたある種の有機水銀化合物という中間答申をする。そしてこの部会は即日解散。⋯⋯翌11 月13 日、閣議で池田勇人通産大臣が有機水銀の出所については軽々に発言してはならない、と釘を刺す。⋯⋯1960 年1 月サイクレーター〔排水浄化装置〕の完成、社長はそのろ過水(実は水道水)をコップで飲む。もう大丈夫とメディアは書き立てた。幕引きの最後の儀式です。通産省と新日窒(現チッソ)はそのサイクレーターがどんな機能しか果たせないかを、そもそも有機水銀排水路がつながれていないことを知っていた。明白な犯罪です。⋯⋯当時の技術水準は色と沈殿を取るだけで、有機水銀や重金属を取る技術はまったくなく、〔サイクレーターを受注した荏原インフィルコは〕当然そのような発注は受けていないと言う。それほどまでして水俣病は終わらせなければいけなかった。(最首 2007: 10-11)

 通産省(現経済産業省)と新日本窒素株式会社(現チッソ株式会社、以下チッソ)による排水浄化装置の欺瞞をいまだに国が認めないのは、政府が、公害や公害病を生み出したことへの反省のうえに立脚していないことの確かな証拠であると思われる。水俣公害問題の教訓が活かされる形で、行政のあり方が根本から変化するまでは、公害行政を論じる際において、水俣公害事例を振り返ることはできない。

 1.1.1 水俣病問題の経緯
 1956 年に、新日本窒素株式会社水俣工場付属病院(のちのチッソ付属病院、1969 年閉鎖)の小児科を受診した少女が現れて以降、次々と脳障害と見られる患者が現れた。その後、同様の症状を示す患者が多数確認され、同病院細川一院長(当時)は、水俣保健所に「原因不明の中枢神経疾患が多発している」と報告した(原田 1972: 2)。これを水俣病の公式確認と呼ぶ。最首の言う1960 年の水俣病事件の幕引きは、水俣病の公式確認と呼ばれる出来事から3 年余という迅速さで展開したのであった。
 水俣病患者の発見直後の1956 年5 月に発足した水俣医師会、保健所、チッソ付属病院、市立病院、市役所の五者による企業対策委員会は、患者の掘り起こしとともに、8 月から熊本大学医学部が疾患の原因の解明のための研究を開始している。そして、その年の10 月には、この疾患が伝染病ではないとする中間報告が出されている。さらに、疾患の原因は何らかの中毒によるものであるとの見方が強まり、海中生物の毒性が強いことが明らかとなった1)。それは、水俣における水俣病患者の発見から1 年足らずのことであった。この時点で食品衛生法の適応により、魚介類の採取の禁止をすれば被害の拡大を防ぐことが出来たにもかかわらず、熊本県および厚生省(現厚生労働省)はこれをおこなわなかった(津田 2004: 46-71)。貧しい漁民たちは、最も危険とされた海域を除いて漁業を続けざるをえなかったが、水俣で揚がった魚介類はほとんど売れなかったという(緒方 2001: 33)。当時の水俣病患者に生活保護を受ける者が多かったというのは、そのことと無縁なことではなかった(原田 1972: 20-21)。
 国や県、そしてチッソは、水俣病患者を事実上放置し、工場も操業を続けた。1959 年11 月に水俣を訪れた国会調査団への陳情のあと、工場でデモ活動に向かった漁民たちはそのまま正門を破って構内に突入し、事務所などを打ち壊し、工員(工場長含む)と漁民の双方に負傷者を出した。この事件をきっかけにして、チッソの労働組合を中心として工場を守れという動きが高まり、市議会をはじめ諸団体がその動きに同調した(宮澤 1997: 255-257)。

 水俣市や市議会の動きは二つに集約できる。県議会で見え始めた、操業停止を命じる県条例制定の動きを牽制すること、食品衛生調査会の答申が操業停止につながらないように働きかけること、だった。あれほど原因究明を急げと言い続けていた水俣市が、百八十度姿勢をかえたのである。その動きに反対を表明したのは、被害者たち・水俣病患者家庭互助会だけだった。(宮澤 1997: 25 傍点筆者)

 このことがきっかけとなって、国・県・市そして被害者とその家族を除く水俣市民までもが水俣病問題の早期収束を望むようになっていった。そして、排水を真の意味で浄化することのないサイクレーターなる排水浄化装置の完成と、水俣病被害者への差別の高まりから水俣病であることが公にされなくなることで、水俣病患者の新規発生が表面上沈静化し、水俣病は過去のもの4 4 4 4 4 という認識が広がった。

 1.1.2 社会問題としての水俣病への関心
 水俣病への関心が再び高まるのは、1964 年に新潟水俣病が確認されてからのことであったが、熊本水俣病に対する一般の関心が低下してからも、むしろ関心が低下したからこそ、積極的に水俣病問題に関わろうとする人たちが存在した。まず、1959 年ごろから水俣病にかかわる詩歌を積極的に発表しはじめた石牟礼道子は、現在に至るまで一貫した水俣とのかかわりがある。他にも、1961 年から水俣の調査を開始した宇井純と行動を共にした写真家の桑原史成が、後に写真集『水俣病』(三一書房)となる取材を1962 年におこない(宮澤1997:357)、映画監督の土本典昭が1965 年ごろから水俣病問題にかかわるドキュメンタリー映画を制作し始めている。
 学問分野について、医学分野以外で水俣の調査を開始した研究者では、宇井をまず挙げねばならないだろう。宇井は、1956 年に東京大学で応用化学・化学工学を学び、日本ゼオンに就職したが、約3 年後に、プラスチック加工の研究を目的としてふたたび東京大学に戻った。しかし、その頃接した水俣における「奇病」の報道に関心をよせ、以後、水俣病を始めとした公害現場の調査を開始していった(宇井 1971: 12-13)。宇井をその行動に向かわせた要因としては、宇井が化学の現場にいたことから、水俣の奇病報道と工場の廃液との何らかの因果関係を理解できる立場にいたことを挙げることができる(宇井 1971: 13)。水俣病に関する社会学的な研究は門外漢の宇井によって開始されたが、宇井自身も彼自身を水俣に引きつけたものの正体について、はっきりと語らなかった。同様に多くの人文・社会科学者にとって、水俣病問題は発生から20 年ほどの間、研究活動を開始する対象とはならなかったのである。
 多くの人文・社会科学分野の研究者による現地調査が開始されるのは、本章が取り扱う「不知火海総合学術調査団」が1976 年に結成されて以降のことであった。

 1.2 「不知火海総合学術調査団」発足の経緯
 1976 年から7 年間にわたっておこなわれた「不知火海総合学術調査」は2)、「総合」と謳われているとおり、社会学・政治学・生物学・医学・哲学の専門家からなる調査団によっておこなわれた。これらの異分野の研究者からなる集団は、アメリカ合衆国において社会学を学んだ鶴見和子と哲学を専門とする市井を中心とする「近代化論再検討研究会」のメンバーが基礎となった。第一次調査団を率いた色川は、1972 年からこの研究会に参加していた。色川の述懐によると、この研究会のメンバーは、「欧米の近代化論の普遍性に疑問を抱き、それぞれが第三世界や日本の固有な発展の道を模索することを共通の課題としていた」という(色川 1983a: 7)。1974 年8 月に筑摩書房から刊行された、この研究会の報告論集『思想の冒険――社会と変化の新しいパラダイム』の「反モダニズム的な試みは、当時の学界主流の批判と反発によって迎えられた」という(色川 1983a: 7)。しかし、「近代化論再検討研究会」のメンバーたちは、自説を譲らず、彼らの理論を実地にどこかの地域で検証してみたいと考えていた(色川 1983a: 7-8)。そんな折、色川が水俣を訪れた際に石牟礼から直接依頼を受け、1975 年末頃に研究会のメンバーに石牟礼の意図を伝えた結果、1976 年春からの「不知火海総合学術調査団」の結成という運びとなったのである(色川 1983a: 8)。このような背景から、調査団発足時は研究会のメンバーからなる、社会科学班としてスタートしたのであった3)。

 1.3 石牟礼道子の問題意識
 「不知火海総合学術調査団」の結成を色川に要請した石牟礼は、熊本県葦北郡水俣町(現水俣市)栄町出身の詩歌人である4)。水俣病問題にはやくからかかわり、1968 年1 月に「水俣病対策市民会議」を結成し、69 年4 月に熊本市の知人・友人らと共に、「水俣病を告発する会」を結成、水俣病患者支援の中心的活動家となっていく(石牟礼 2004: 244-5)。石牟礼の水俣病問題への関心は、1959 年頃には鮮明となっている。「海と空のあいだに」の一首にそれを示す詩がある。

不治疾のゆふやけ抱けば母たちの海ねむることなくしづけし(石牟礼 2004: 26)

 「水俣病対策市民会議」や「水俣病を告発する会」といった政治的な動きに連動するように、1959 年以降、「奇病」(『苦海浄土』)、「水俣病」、「水俣病・そのわざわいに泣く少女たち」、「わが不知火」などを発表した。また、1970 年5月に「水俣病を告発する会」による厚生省占拠行動から盛り上がる全国的な支援運動の高まりとともに、石牟礼は、「亡国のうた」、「死民の故郷から」、「晴れの日の紅をさして」などを新聞・雑誌に発表し、直接的な抗議行動への理解を求めた。その他、テレビなどのメディアにも露出し、水俣病問題の記録映画を数多く残した映画監督の土本とも、交流している。
 石牟礼のように、政治キャンペーンの担い手が、文学や芸術の分野に表現の場を見出すことは、過去にもあった。例えば、アメリカ合衆国カリフォルニア州のシエラ・ネヴァダ山脈の保護を求めて多くの文学的作品を残し、自然随筆という分野を確立した、自然保護団体シエラ・クラブの創設者ジョン・ミューアはその好例である5)。そこには、文学やメディアを通じた表象を用いて、一般の人々の関心を呼び込むという意図があった。ミューアのこの戦略は、一定以上の成功を収めた。19 世紀末から20 世紀初頭のアメリカでは、西部開拓の影響による自然景観の損失を快く思わない裕福な人たちが増加していた。自然随筆は、そうした人たちに受入れられた。そして、シエラ・クラブや後のオーデュボン協会などの全米各地で誕生した自然愛好団体のメンバーも裕福で、社会的地位の高い人たちが多かった。彼らの関心を得ることは、自然保護運動の成功にとって必要不可欠なことだったのである。
 しかし、石牟礼の試みは失敗した。当時の日本は、「東洋の奇跡」とまで言われた経済成長の真っ只中であり、その旗手たちに、「奇跡」がもつ負の側面に目を向けさせることは容易ではなかった。石牟礼が色川に調査団の結成を依頼した1975 年は、水俣病被害者たちが熊本県庁に陳情に訪れた際に発生した騒動によって、被害者の一人が逮捕されるという事件が発生した年でもある。石牟礼は、詩作でも直接行動でもなく、学界の協力を必要としたのである。
 石牟礼は、色川に依頼した「不知火海総合学術調査団」の目的を以下のように述べている。

 不知火海沿岸一帯の歴史と現在の、取り出しうる限りの復元図を、目に見える形でのこしておかねばならぬ⋯⋯せめてここ百年間をさかのぼり、生きていた地域の姿をまるまるそっくり、海の底のひだの奥から、山々の心音のひとつひとつにいたるまで、微生物から無生物といわれるものまで、前近代から近代まで、この沿岸一帯から抽出されうる、生物学、社会学、民俗学、海洋形態学、地誌学、歴史学、政治経済学、文化人類学、あらゆる学問の網の目にかけておかねばならない(石牟礼 2004: 174-5 傍点筆者)

 このように、「あらゆる学問の網の目」によって、不知火海沿岸一帯の過去と現在とをつまびらかにして欲しいと、石牟礼は望んでいた。しかし、その一方で、悔しさもにじませる。

 そのような状態を表現するには学問でなくとも、ひょっとして文学、あるいは深い芸術が生まれうるならば⋯⋯、より望ましいのであるが。(石牟礼 2004: 176)

 とはいえ、石牟礼は加害企業のチッソにしろ、行政にしろ、科学を成り立たせているものに、少なからずの不信感を感じながらも、科学的客観性を無視できないと考えたのではないだろうか。

〔あらゆる学問の〕網の目にかけるということは、逆にまた、現地にひとびとの目の網に、学術調査なるものがかかるということでもあります。(石牟礼 2004:174-5 傍点筆者)

 水俣の公害被害者たちと彼らを支えた人たちは、医学者たちが科学の名において何をしてきたか、知っていたのである(宮澤 1997: 442-443)。石牟礼が求めた調査団の目的に、医学が含まれていなかったことは、公害被害者たちと彼らを支える人たちの強い批判があらわれている。

2.比較の目を持つ来訪者──「不知火海総合学術調査団」

 石牟礼道子が色川大吉に調査団の結成を要請し、「近代化論再検討研究会」を母体とした「不知火総合学術調査団」が結成された。『水俣の啓示――不知火海総合調査報告(上)』の冒頭、色川は、石牟礼からの調査依頼の経緯や、調査団の構成、調査内容、調査費の出所について述べている。その中で、石牟礼の調査への厳しい注文が紹介されている。

第一期のメド十年間。死ぬときは代わりの人を見つけて死んで下さい。(色川1983a: 11)

 この石牟礼の気迫に接し、この調査団の目的を、「近代化論再検討研究会」の実績を否定した「机上の近代主義者や御用学者たちにたいする挑戦であり、現代を根源から問いただす科学的実践という調子のよい声を発する者はいなくなった」(色川 1983a: 10)という。

 2.1 「不知火海総合学術調査団」の経費
 石牟礼のこの言葉を受けてのものかどうか、「不知火総合学術調査団」は、比較的長期に渡って調査活動を継続した。色川によると、調査団は1976 年3月に発足し、以来調査費用は以下のように調達された。

調査費用については、第一年目と第五年目はまったくの個人負担でおこない、中間の三年間はトヨタ財団から自然環境部門の研究助成をうけることができた。その助成額は総額で1007 万円である。(色川 1983a: 14)6)

 その後、1981 年から3 年間、原田正純を研究代表者として、同じトヨタ財団から研究費を獲得し、第2 次「不知火海総合学術調査団」の資金となっている。1981 年度の助成概要では、当時の原田の所属は「熊本大学体質医学研究所」であるが、2 年目の1982 年度では、「不知火海総合学術調査団(熊本大学体質医学研究所)」となっている。3 年目の1983 年度は、研究代表者の所属欄は空白になっているが、その助成内容は「不知火海域における生物学的・医学的・社会学的な環境変化に関する実証的研究(出版)(シンポジウムの開催)」となっている。また、トヨタ財団からの助成額は、1 年目480 万円、2 年目670万円、3 年目はシンポジウム開催および出版費の152 万円の助成額となり、総額1302 万円の助成となっている。石牟礼の注文したとおり、長期間にわたって継続的に調査活動がおこなわれたことは確かである。
 しかし、「不知火海総合学術調査団」の調査費にトヨタ財団からの助成を当てたことには、賛否両論あったという(宇井 1984: 96)。否定的な見解は、この調査研究を近代社会の批判として捉える側から発せられたものだろう。トヨタグループもまた近代社会の一翼を担う大企業であったからである。

 2.2 石牟礼道子の求めた水俣調査
 石牟礼が「不知火海総合学術調査団」に求めたものは、色川たちにとって、「私たち調査団への夢のような期待、できることなら果たしたい遙かなる理想」(色川 1983a: 11)であった。

不知火海沿岸一帯の歴史と現在の、とり出しうる限りの復元図を⋯⋯生物学、民俗学、海洋形態学、地誌学、歴史学、歴史経済学、文化人類学等、あらゆる学問の網目にかけておかねばならぬ⋯⋯出来上がった立体的なサンプルは、わが列島のどの部分をも計れる目盛りになるでしょう⋯⋯不知火海沿岸一帯そのものが、まだやきつけの仕上がらない、わが近代の陰画総体であり⋯⋯幾層にも幾色にも、多面的にも原理的にも、この中にある内部の声を聞くことが出来れば、それが尺度になりうるのではあるまいか。(石牟礼 2004: 174-5)

 色川たちは、この石牟礼の求めに対する率直な反応を示した。

そのようなことは私たちにはとうていできない。どんなにすぐれた学問をもってしても、旅人の目や一時滞在者の目で捉え得るものには限度がある。その土地の、その民の、最深の心意現象は、定住者にしか感得することはできない。水俣にとって私たちは、風のような一介の旅人、たかだか比較の目を持つ来訪者にすぎず、それも大きなドラマが終焉したあとの、落ち穂拾い屋に似た調査者にすぎないとか、「それには文学による表現こそが最もふさわしい」と反論したりした(色川 1983a: 11-2)

 文学による表現、そしてそれにより運動の支援活動を長年に渡って試みてきた石牟礼に、この反論はあまりにも陳腐だった。そして、事態の重さを理解し、萎縮した調査者たちに、石牟礼は、「けれども、外在する目たちがいまひとつなければ、球体の向こう側が視えてこない。内側からと、外側からと、これをとらえねば」(色川 1983a: 12)、という旨のことを色川たちに語り、「比較の目を持つ来訪者」たちの意義を強調したのであった。
 石牟礼の説得に応じた調査団のメンバーは、春と夏の休み期間を利用して水俣に入り、調査活動を開始した。調査の内容について、2 年目から獲得したトヨタ財団の助成概要から、研究活動の方向性を見ていく。研究課題は、「不知火海環境汚染に関する学際的総合調査――近代化と水俣病問題による生活・自然環境の変化の追究」となっている。以下はトヨタ財団ホームページに記録されている助成概要である。

 一定地域の急速な都市化・工業化が周辺の地域社会に決定的な変化を与え、自然環境や人命にも致命的な影響を与えるという事態が20 世紀後半に至って世界各地に現れるようになった。不知火海と水俣に現れた現象は、そのもっとも悲惨な問題であり、人類の未来に対して警告的な極限状態を示したものと言える。
 本研究は、この状態を生み出した社会的な背景の調査と、それが及ぼした海中生物・周辺沿岸生物の生態系の変化、及び沿岸住民の再生産構造、地域生活環境、伝統的文化や民俗慣行、人間関係、住民意識に与えた影響についての調査を総合的におこない、記録にとどめ、後世に残そうとするものである。
 水俣の問題に関しては、医学的・生物学的側面についての部分的な解明や、マスコミ報道による社会的理解がなされつつあるものの、不知火海汚染をもたらした社会的要因や、それのもたらす社会的インパクトの実態に関する総合的な調査は未だおこなわれていないのが実情である。(トヨタ財団:http://www.toyotafound.or.jp/

 1983 年に刊行された「不知火海総合学術調査団」の調査報告書『水俣の啓示』(上・下巻)は、1995 年に上下巻を統合する形で、新編が同じ筑摩書房から刊行されている。統合された新たな『新編 水俣の啓示』は、論争の的となった「市井-最首論争」を構成する市井・最首それぞれの論文や座談会、そして事務局を勤めた羽賀しげ子の「調査団日誌」が削除された。これらは、調査団やそのメンバーたちの被調査者たちとの関係を知る重要な手がかりであるばかりではなく、調査団の内実を知るうえでもかかせないものである。色川が新編を手がけるにあたって、なぜこれらの内容を不要だと考えたのだろうか。それが、石牟礼が望んだものであったのだろうか。

3.「不知火海総合学術調査」の意義

 すでに述べたように、「不知火海総合学術調査」は水俣病問題における最初期の人文・社会科学研究であった。そこでは、調査がおこなわれる時期までの民衆史や漁民たちに向けられた差別の目、そしてそうしたなかでの漁民たちの暮らしなどが、細やかに描きだされた。しかし、それらの報告のなかで、異彩を放つ2 つの論考がある。哲学の市井三郎と生物学出身の最首悟の一連の論文である。

 3.1 「市井-最首論争」──調査団の内的論争
 『水俣の啓示』の上巻の最後に掲載された最首論文の市井論文を批判する厳しい論調にまず読者は驚かされる。この中で最首は、市井論文を水俣病被害者にとって「加害的」とまで表現するのである。そう断言された論文が報告書には掲載された。調査団の内実を知る上で、この2 つの論文を検討しておかなければならないだろう。
 「市井-最首論争」を論じたものの一つとして、2008 年6 月に刊行された『岩波講座哲学 第1 巻=いま〈哲学する〉ことへ』に上梓された川本隆史の「“不条理な苦痛”と『水俣の痛み』――市井三郎と最首悟の〈衝突〉・覚書」がある。その冒頭、川本は、「哲学と現場のつながり(にくさ)を点検」するという目的を掲げている(川本 2008: 277)。この論考は、1996 年4 月28 日に日本青年館で開催された『思想の科学』創刊50 周年記念講演会における、川本の報告「『思想の科学』の哲学は有効性を取戻しえたか――社会倫理の観点から」が元になっている。この報告において、川本は「哲学が現代社会において生きた意味をもつ」ための評価軸として、鶴見俊輔の『哲学の反省』に依拠した。

 哲学は次の三条の道に従って把握される場合、現代の社会においても生きた
意味をもつことが出来る。第一に思索の方法の綜合的批判として把握される場合、第二に個人生活及び社会生活の指導原理探求として把握される場合、第三に人々の世界への同情として把握される場合、即ちこれである(川本 2008: 278 重引)

 そして、川本はこの評価軸にそった哲学の現状に対して以下のように総括し
ている。

 最初の「思想の方法の綜合的批判」は論理学・記号論やコミュニケーション理論として展開され、最後の「人々の世界への同情」は「庶民列伝」や『現代人の生態』のような調査、大衆芸術や「転向」の共同研究として結実している。この二方面の成果を評価するのに、私はやぶさかでない。だが二番目の「生活の指導原理探求」については、『ひとびとの哲学叢書』や「身の上相談の論理」という方向で個人レベルの究明はなされたものの、「社会生活の指導原理」(=社会倫理)の探求はほとんど手つかずのまま終わっている。(川本 2008: 278)

 「思想の科学」グループの手つかずの分野として挙げた社会倫理の分野のほとんど唯一の例外として、「規範倫理学の原理を案出しようとした市井三郎の努力が際立っている」と評価している(川本 2008: 279-280)。
 川本にとって、「カントの『根本悪』を修士論文で取り上げて以降、善や正義ではなく悪や不正義から社会倫理学を説き起こしたいものだと考えてきた。その私〔川本〕にとって、〔市井の言うように〕『快』の増大ではなく『苦』の減少をめざすという路線〔ポパーの「消極的功利主義」〕は、それなりにしっくりくるものだった」という(川本 2008: 287)。しかし、『水俣の啓示』に掲載された市井の論文については、市井の「苦」の取り扱いかたに問題があったと川本はみなした。

 “不条理な苦痛”と一括された「苦しみ」だが、この集計概念をもういちど個々のケース(=苦しみが発生した〈現場〉)に即してバラしてみる作業(「脱集計化」(disaggregation)(峯 1999)を欠かしてはなるまい。市井はこれをしないで「苦痛」をひとかたまりで捉えるものだから、自らが否定しようとする優生学的発想に足もとをすくわれたのではなかろうか。(川本 2008: 287)7)

 川本の採用した市井論文への評価は、基本的に最首が「市井論文への反論」として『水俣の啓示』上に上梓したものと同様であった。最首による、市井論文への批判点は、第1 に、公害を疫病や自然災害と同一カテゴリーとして捉え、第2 に、単純な水俣病像により被害者の実態を不可視化したことにあった。

 3.1.1 「人間淘汰」の衝撃
 最首による市井論文への最大の批判点は、「人間淘汰」という市井の造語についてであった。この用語により最首は、市井が水俣病を疫病や自然災害と同列に扱ったと判断している。最首は、市井のこの「人間淘汰」をショッキングであるとして、まず淘汰という概念について生物学的な文脈から解説をおこなっている。

 淘汰とは、セレクションすなわち選別、選択の訳語である⋯⋯生物進化論的に適者生存という意味をこめて使われることももちろん多い。ただこの場合、適者とは、人間が生物の歴史をふりかえり、結果として生き残った種や個体をさしているにすぎず、そして何故生き残ったかの特徴を部分的には指摘できるけれども、現在のどの生物、どの個体が未来において適者かは決していえない、ということが閑却されがちなのは残念なことである。(最首 1983a: 418)

 この淘汰の意味を踏まえ、「人間淘汰」を字義通り捉えるとどのような意味が想起されるのか。最首は続ける。

 人間淘汰となると様相は一変する。もともとダーウィンは人為淘汰から自然淘汰の着想を得たとはいえ、人為淘汰は人間の目的が介在することによって、自然淘汰とは全く異なる。⋯⋯たとえば生き残ってきた生物をみて、卵を多く産むという属性があったからという説明はできても、その逆の、卵を多く産むからこの生物(種)は存続反映するだろうとは決していえないのである。進化の歴史は、少数仔、少数卵への移行の歴史でもあるからである⋯⋯この若干の説明で、「人間淘汰」という概念がなぜショッキングか、わかってもらえると思う。人間という生物に及ぼしている自然の淘汰圧の影響を、その進行形において人間は測ることができないので、その意味するところは、人為淘汰による「人間淘汰」以外はないからである。(最首 1983a: 418-419)

 すなわち、最首の議論によれば、市井の「人間淘汰」は従来の意味の人為4 4 淘汰であった。しかも、市井は社会生物学の分野において、この「人間淘汰」の言説が強化されていると論じる一方で、その社会生物学に対する批判を徹底しておこなっていない。ここに、「市井氏は優生学的社会生物学的新マルサス的主張を公害についておこなうための、ある詐術的な論文を書いたのではないか」という最首の疑念を呼び起こす元になった(最首 1983a: 425)。
 さらに、市井が淘汰という用語にこだわったために、淘汰が起こる自然災害や疫病と、公害とを同列に扱うという効果をもってしまった。自然災害や疫病などと公害は決して同列に扱えるものではないが、最首による市井の「人間淘汰」=人為淘汰という解釈が適応されると、本来同列に扱われることのない自然災害や疫病と公害が淘汰という言葉によって接続される。しかし、市井は淘汰という言葉を使用しながらも、「人間淘汰」を本来の淘汰の意味から切り離して使用しているのであった。

 いっきょに成員数が減少するか否か、また天災であるかを問わず、人間が自然死にいたるサイクル以外の理由で、滅んでゆくことを、ここで人間淘汰と呼ぶ(市井 1983: 392)

 ここでは、それぞれの時代・地域において、統計的平均寿命あたりで死亡するのを、「自然死」と呼ぶ(市井 1983: 411)

 すべての人々が平均寿命で死ぬわけではない。平均寿命を仮に80 歳とすれば、100 歳で死ぬ人もいればそれよりも早く死ぬ人も当然いるわけである。平均寿命よりも早く死ぬことが「人間淘汰」なのであるから、その「人間淘汰」の理由については、市井論文では取り扱われない。市井が価値中立的な用語としてこの言葉を使用しているのはこのためである。つまり、「人間淘汰」自体は、自然災害や疫病、そして公害などが当該地域に発生していなくても、存在する。問題となるのは、「人間淘汰」が当該地域において高い頻度で発生し、その地域の平均寿命を低下させるような場合に、当該地域においては重篤な生存問題が発生していることだと言える。
 また、その「人間淘汰」が全体の平均寿命を下げるほどの量的効果を持っていなくても、特定の地域や特定の年代に「人間淘汰」が集中すれば、そこには社会的な要因を含む何らかの問題を想起しなくてはならないだろう。しかし、市井論文では「人間淘汰」という概念の精緻化による議論がおこなわれず、「人間淘汰思想の批判」として、「人間淘汰」という概念がすでに確立しているかのごとく論を進めている(市井 1983: 405)。市井自らが定義したきわめて単純な「人間淘汰」という概念に、思想的な基盤を求めるのは酷というものだろう。
 しかし、市井が、水俣における具体的な問題を分析し、公害の一端を「人間淘汰」という新概念とともに明らかにしたのであれば、水俣公害病問題から得られた学問上の知見であるだけでなく、他の問題への応用が期待できることから、市井論文が他の調査団のメンバーや、水俣病被害者たちに受け入れられる可能性もあったのではないだろうか。

 3.1.2 水俣病は「必要悪」か
 市井の「人間淘汰」に向けられた最首の第2 の批判点は、市井が「人間淘汰」という概念を公害の実態を明らかにする分析概念として発展させなかったことにある。それゆえ、最首や川本は、「人間淘汰」という新概念によって、公害被害の実態を一元的にとらえ、個々の人たちの苦しみを不可視化させる役割を市井が担ったとして批判した。この批判は、市井が調査団に参加する以前から主張していた「不条理な苦痛」と「人間淘汰」の質的な差異を明らかにすることで展開された。市井の「不条理な苦痛」にかかわる文章として、1974年の『思想の冒険』に上梓された市井の文章を引用する。

 人間社会の成員はすべて、自らの責任を問われる必要のないことから、多大の苦痛を蒙っている。その種の苦痛(これをわたしは、不条理の苦痛と呼ぶ)は減らさねばならないと。⋯⋯第一に、わたしの価値理念の定式化には、「責任を問われる必要のない」といった表現がある。その場合の”責任”とは何なのか、という問題である。わたしがそこでいう”責任”とは、科学的因果関係において、原因連鎖の決定的一環をなすかなさないか、という事実認定の意味に限っている。たとえば水俣病という公害発生においては、水俣湾沿岸の人々が従来どおりその湾の魚類を喰った、という事実よりも、当の魚類に従来はなかった有機水銀が(一般に知らされることなく)著増した、という事実が原因連鎖の決定的一環をなすわけである。したがって水俣病にかかった人々は、まさに自らの「責任を問われる必要のない」不条理な苦痛を負わされたことになる。(市井 1974: 46 傍点筆者)

 すなわち、市井の言う「不条理な苦痛」とは、社会の一員として生活する我々一人一人が多少なりとも蒙っているもので、その極例が水俣病の被害者たちであるという。このことは、我々の誰しもが社会という枠組みの存在を無視して存在し得ないことを強く意識させる。それは、水俣公害病の被害者たちにとっても、である。
 しかし、市井が批判しようとしたことは、「不条理な苦痛」が存在してしまうことではなく、その苦痛の存在を積極的に認めてしまう思想に対してであった。上記の引用にもあるとおり、市井は「不条理な苦痛」を減らさなくてはならないと考えていたが、一部そうした「不条理な苦痛」の存在を「必要悪」としても捉えていたため、他の調査団のメンバーから批判を受けることになった。その端的な例は、市井論文から最終的に削除されたが、1980 年6 月の「不知火海総合学術調査団」の合宿研究会において示された論点であった。それは、原子力発電所を必要悪と論じている部分があり、原子力発電所が必要悪であるならば、(例えば、日本の産業発展のためという理由で)水俣病もまた必要悪となるのではないか、という批判が市井の論文に向けられた。色川の述懐によると、「市井が『原発を必要悪として是認する』といったのは、10 年くらい後に、ほとんど無公害の水素燃料が実用化される見通しがあるので、それまでの10 年ほどのあいだは必要悪として仕方がないという意味であったというが、周囲は納得しなかった」(色川 1983a: 29)という。
 ここで市井が主張したのは、おそらく核融合炉のことを指すのであろうが、従来の(そして現在の)原子力発電所はウランの核分裂反応を利用する一方で、核融合では水素をヘリウムに融合する反応からエネルギーを取り出そうとするものである。同じ核の反応でも両者のエネルギー抽出方法に技術論的な連続性はない。仮に、両者が連続性のある技術であり、核分裂反応の技術開発が核融合にとって不可欠なものであるならば、市井の言うように従来の原子力発電は必要悪ということにならないだろうか。実際はそうではなく、市井が自然科学分野の知識に欠けていたことは明らかなのであるが、ここでの市井の必要悪という主張そのものについては、問題はない。そして、調査団のメンバーのなかで必要悪という考えを認める立場をとったのは、批判された市井と菊地昌典の2 人であった(色川 1983a: 29)。
 このやり取りから看取されるのは、調査団のメンバーの誰が水俣病を必要悪としていたかということよりも、それは近代工業社会や国家の発展といった枠組みを容認するかどうか、という前提であった。市井と菊地が他の調査団のメンバーと異なった主張をおこなったのは、近代工業社会や国家といったものを議論の前提においていたからであった。調査団のメンバーたちが「原子力発電所が必要悪であるならば、水俣病もまた必要悪となるのではないか」と主張する根底には、彼らが共通して近代工業社会批判を水俣において展開しようとしていたことの確かな証拠である。調査団のメンバーたちにとって、「日本の産業発展のため」という目的が掲げられると、水俣病は必要悪として是認される。必要悪を認めないのは、水俣で活動をおこなう研究者たちの立場性を如実に現していた。

 3.2 社会調査研究が立つ位置
 『水俣の啓示』(下)に掲載された、調査団メンバーを中心とした座談会において5 年間におよぶ調査の内容とその成果について議論の場がもたれているが、その席上、「市井-最首論争」について、鶴見和子は以下のように述べている。

 わたしはいろんな方の〔両論文が掲載された上巻の〕反応を聞いているのですけど、大変不思議な本の読み方がなされているということに気がついたのです。それはこの本の最後の論文(最首さんの論文)だけ読んで、この本がどういう本であるかということを判断するということです。わたくしにとっては非常に不幸だと考える読み方がされているということを聞きました。(色川 1983b: 499)

 本章の冒頭でも述べたように、社会調査をおこなう際に、その調査団に通底するものの考え方あるいは立場というものが存在すべきかどうかは、とりわけ「市井-最首論争」を通して浮き彫りにされる問題である。鶴見は、市井論文を引き合いにだして改めて水俣病問題を近代化という視点で論じている。

 わたしは市井論文がああいうふうな〔否定的な〕反応をひきおこしたというのは、(淘汰ということばを使う必要があったかどうか、そこは一つ問題ですが)やはり現代の文明が進行していく中で、一番弱いものが切り棄てられるという問題があるということ、そういう問題だと思うんです。⋯⋯それが近代工業文明だと思うんです。一番弱いところが最も強い犠牲を強いられる。(色川 1983b:500)

 鶴見は、そのような状況において、被害者たちが「この本を読んでいると出口なしになっちゃう」と述べ(色川 1983b: 501)、自分たちの報告が近代工業文明の持つ負の側面を明らかにしたに過ぎないことを課題として受け止める。その一方で石牟礼の文章には、その「出口なし」の状況に「どんでんがえし」があるとする。そして、自分たちの報告も、そのようであるべきだ、と考えた。しかし、市井は、近代工業文明の負の側面を認めつつ、その漸進的改善のための議論を試みたものと思われる。この負の側面を認めるか否かが、「市井-最首論争」の決定的な分かれ目であった。
 社会調査における、調査者と被調査者の関係において、鶴見に代表されるような被調査者たちの立場に寄り添う形が正しいのか、それとも市井のように、被調査者たちの意見に阿ることなく論を展開すべきなのだろうか。この問いは、この調査者のもつ立場にかかわる問題として、同時期に展開された「似田貝-中野論争」で争われた「共同行為」をめぐる論争を想起させる。

 3.2.1 「不知火海総合学術調査」は社会調査を通じた「共同行為」たりえたか
 今日の社会学の研究手段として必要不可欠なものとして社会調査があるが、「不知火海総合学術調査」が開始される1970 年代中頃を中心にして、社会調査・社会学的研究のあり方をめぐる論争が展開されていた。所謂「似田貝-中野論争」がそのひとつであるが、いまなお社会学の主要な検討課題である8)。
 「似田貝-中野論争」は、似田貝香門が創刊間もない東京大学出版会刊行の『UP』に、「社会調査の曲り角――住民運動調査後の覚書」という論文を掲載したことに端を発する。似田貝は、東京大学大学院社会学研究科博士課程を1973 年3 月に単位取得退学し、翌4 月から山梨大学教育学部の専任講師として赴任する。新たな生活環境のもとで、その年の末から開始した社会調査に関連した文章がそれである。似田貝の論文は、「新全国総合開発」に対して反対運動をおこなっている地域における、開発政策と住民運動という問題関心からおこなわれた社会調査の後に著されたものであった(似田貝 1974: 1)。この社会調査において似田貝が抱えていたもう一つの課題は、「60 〜 70 年にかけての地域社会の変動によって、従来の地域社会論やその調査法が現実に適合的ではなくなってきていることから、これまでの『地域調査法』を再検討」することにあった。『UP』に上梓された論文は、似田貝の第二の課題に対応するものであった(似田貝 1974: 1)。
 似田貝の言う、「従来の地域社会論やその調査法が現実に適合的ではなくなっ」(似田貝 1974: 1)たというのは、どのようなことを具体的に示しているのだろうか。似田貝が抽出したのは、第1 に、住民運動参加者による、研究者への強い不信、第2 に、研究者の調査対象に対するかかわり方に対する関心、第3 に、研究者から住民運動参加者への情報・知識の提供要求、以上の3 点である(似田貝 1974: 1)。
 似田貝の上記の問題意識を演繹的に捉えれば、似田貝の導きだそうとする新たな社会調査方法論上の課題とは、第1 に、研究者が住民運動参加者に(少なくとも)不信感を抱かれないように、第2 に、研究者は調査対象に対するかかわり方を明確にする必要がある。そして、その場合、研究者は調査対象のその後に対して無関心であるということは許されないだろう。したがって、第3 に、研究者は住民運動参加者に対して、戦略的な情報・知識の提供をおこなう。似田貝は、この結論を一言で「調査者-被調査者との〈共同行為〉」と表現するのである(似田貝 1974: 7)。
 似田貝の言う「共同行為」以前の社会調査において、「被調査者の調査者への執拗な質問や疑念は、かつての調査であれば、調査者が被調査者への、いわば制度化された前口上でことたりた」(似田貝 1974: 2)と、福武直の『社会調査の方法』を引き合いに出している。そして、これまでの社会調査について、似田貝のスタンスは手厳しい。

 被調査者の調査者への先のような質問や疑念や不信は、調査技法によるラポート関係や客観的調査を行おうとする調査主体の客体へのみせかけの人間関係(調査者-被調査者関係)への鋭い問題提起なのである。(似田貝 1974: 2)

 この似田貝の従来の社会調査へのまなざしは、社会調査を擁する社会科学そのものへの疑念へと展開する。

 こうした社会調査の集積によって整理された社会科学の知識体型の専門性とは一体何なのか。⋯⋯人々の、〈専門性〉や〈共同行為〉への疑念や不満は、より根源的には、今日の社会科学における問いのたて方、実証の仕方、あるいは、社会科学者の存在の仕方についての根本的な反省と結びつかざるをえないだろう。(似田貝 1974: 2)

 似田貝は、社会科学の科学としての存在意義に踏み込んでいく。その背景には、「住民運動の担い手達が調査そのものに“いらだち”を感じ、他方で、近代技術や科学によって武装された行政計画者(プランナー)に対抗・対峙していくという運動状況」があった(似田貝 1974: 6)。さらに、似田貝は、科学的根拠のもとにおこなわれる調査結果の「利用や情報公開を含めた処理が、権力の側にからめとられていく」ということと(似田貝 1974: 3)、「調査による数値は、現実の不確定要素を切り捨てた水準で成立している」ということを指摘し(似田貝 1974: 3)、研究者の科学的知見は、被調査対象者たちにとっての「リアリティ」を失っていくとする。そのうえで、似田貝は、調査者たる研究者が立脚するふたつの立場を明らかにする。

 人々は専門研究者が、科学と政治過程(政策)との間で、二重状況に置かれていることを周知している。つまり、研究者が科学のもつ客観的自立性そのものへ自己撞着するか、あるいは、住民の側のリアリティを抄うことによって既存知識体系そのものへの対抗者になるか、さらには、科学的調査が〔ママ〕政策そのものになんらかの意味で適合化させていくか、それとも、リアリティを抄うことによって政策の「非合理性」への対抗者となりうるか、という二重状況である。(似田貝 1974: 5)

 一方、似田貝の提案した「共同行為」に対して迅速に反論を提起したのが、中野卓であった。彼は、翌年の『UP』に「社会学的調査と「共同行為」──水島工業地帯に包み込まれた村々で」という論文を掲載し、似田貝を批判した。中野の似田貝批判は、非常に単刀直入である。

 調査地区の住民たちに、もし我々が「共同行為」などという言葉を使ったとしたら──、もし、市役所の人々に対して「彼ら」と呼び、その住民たちと我々調査者が、あたかも共に歩む者でもあるかのように「我々は」などと呼びかけたとすれば、彼ら公害地区住民は我々をはねつけたろう。甘ったれるな。あるいは丁重にこう言ったかもしれない。思い上がらないで下さい、と。(中野 1975: 5)

 中野は、似田貝の共同行為を調査者・被調査者の認識上の問題として捉え、これを批判した。すなわち、当時には「当事者研究」という研究スタイルは無いものの、中野が理解した似田貝の「共同行為」への理解は、当事者研究をおこなう人たちが唯一架橋できる、調査者=被調査者といった認識であった。確かにそれは無理であるだろう。しかし、似田貝は、中野が批判するような意味で「共同行為」という言葉を使用したわけではない9)。似田貝にしてみれば、中野の批判に対する再反論は、すでに1974 年の論文の中に存在しているのであろう。

人々は、私達が専門の研究者であることを十分に承知しており、しかも、当面、調査-被調査という関係の枠組みそのものを取り払うことを要求しているのでもない。(似田貝 1974: 2)

 この争点は、「不知火海総合学術調査」において、一層明確になる。調査団を構成する調査者たちは、フェリーで九州に到着して以来、石牟礼を中心とした「魂入れの儀式」によって、使徒として遇された10)。被調査者と使徒としての調査者たちの立場には明らかな距離があった。
 また、似田貝と中野をともに批判した安田三郎は、似田貝や中野の調査者-被調査者関係における、調査者を調査技術者と調査研究者のふたつに分解し、一方の調査技術者は状況に応じて被調査者との共同行為を採用することがあり得るとした(安田 1975: 491-492)。1974 年の自らの「共同行為」概念について、似田貝は、1996 年の『環境社会学研究』に投稿した論文「再び『共同行為』へ──阪神大震災の調査」において再度取り上げ、その概念的精緻化を試みている(似田貝 1996)。
 似田貝は、阪神大震災における社会学の位置について、「残念ながら社会学は、震災に関する自然科学的専門性を持ち合わせておらず、また不動産学、建築学、街づくりプランナー、弁護士、医療関係者、福祉関係者等のように、被災者の生活復旧への支援に関する専門的知識・技術を持ち合わせない学問である」と前置きしたうえで、「現実科学としての社会学」の実践を考察する(似田貝 1996: 52)。そこには、似田貝が大学に所属する研究者として、調査研究を始めたばかりの1974 年ごろから一貫して抱き続けた問題意識があった。

 学会の動向は、現実を言説分析として把握することに関心が集中し、現実問題の構造やその解決へ向けての経験的で実践的な専門家を育てることを明らかに怠ってきた。(似田貝 1996: 52)

 この教訓に対して、似田貝たちが、震災現場の調査において明らかにしたことは、第1 に、行政の対応に、緊急事態の際のマニュアルが存在せず、いつまでも初動的状況にあったことであった(似田貝 1996: 54-55)。第2 に、海外ではさかんな社会開発学なる学問分野が日本では未発達であることにより、NGOなどのボランティア組織が育たないということであった(似田貝 1996: 55)。
 似田貝たちの社会調査によって明らかとなった以上の課題に対して、似田貝の調査者と被調査者との「共同行為」、調査をおこなう研究者と被調査者との「共同行為」とは何であるといえるか。それは、第1 に、緊急状況にあっても「シビル・ソサイアティ」がきちんと機能するべく具体的問題の経験を生かした理論構築をおこない、それらを学界や官界において定式化しておくこと、第2 に、社会開発論においてボランティアの組織論を構築すること、であった。

 3.2.2 『水俣の啓示』と「共同行為」
 「不知火海総合学術調査」において、調査者と被調査者との「共同行為」とはいかなることを言うのであろうか。石牟礼の要請に応えているか、というのが可能的回答のひとつであろう。調査報告書のタイトルに「啓示」という言葉が使用されている。広辞苑によると、啓示とは宗教用語で、あらわし示すこと。人知を以て知ることのできない神秘を神自らが人間に対する愛の故に蔽いを除いてあらわし示すこと、とある。「水俣の啓示」という報告書名は、調査団のメンバーが神ならずとも使徒として遇されてきたことと無縁ではないだろう。『水俣の啓示』(下)の最後の部分に色川は、調査団が成しえたことを簡潔に述べている。

 私たちの仕事は力不足で、未完のものでした。しかし、私はこうも思い直すのです。専門や立場を異にしたこれほど多様な研究者が、ほぼ一つの志をもって、七年という長い間、苦労してきたことは決して無駄ではなかった。今まで光をあてられたことのない水俣のいくつかの深い部分に光があてられ、一つの地域が、一つの事件が、細やかに全体的に、その姿を描き出された。水俣の「啓示」はそれぞれに汲みとられた、そういう意味で、この仕事は歴史に残るものになろう、と。(色川 1983: 502-503)

 水俣の研究史という観点から見て、この調査研究が有意義であったかどうかについては、後の第4 次まで続いたとされる「不知火海総合学術調査」に、この研究がどのように継承されていったのか、あるいはそれ以外の研究にどの程度参考とされたのか、これがひとつの判断基準となる。これについては、水俣病問題に関する研究史を詳細に明らかにしなければ、確たることを示すことはできない。今後の課題である。しかし、「不知火海総合学術調査」が水俣病被害を明らかにした最初期の人文・社会科学研究である以上、その近代工業社会への批判は、その後の研究活動に強い影響を与えたと考えられる。その後の水俣研究が、国家や近代社会といったフレームに対置する形で論じられ、そうした論を受けて、被害者もまたその社会に内在する存在であるということから、水俣病被害者でありながら、被害者認定の申し立てを取り下げる緒方正人のような人物を生み出すことにもなった。そして、「不知火海総合学術調査」が水俣病被害者たちの運動を調査対象として取り扱わなかったのは、調査団のメンバーが上記のような国家や近代社会といった大きなフレームで水俣を観察し、そのフレームに抗する被害者たちとして、彼らの活動を一元的に認識していたことと無縁ではないだろう11)。
 本章の1 節で取り上げた桜井の言及のように、調査団という名目上、立場的には多様なメンバーから成っていても、対外的には共通の目的の下に調査研究を遂行しなければならない。したがって、市井論文のような内部不和に対しては、組織の面目上、両論併記の形で批判しておかなければならない。さもなければ、市井論文を許容する集団であるとして、調査団全体が批判にさらされかねなかった。しかし、学問上の議論であれば、市井論文のような議論が存在すること、それ自体は問題であるとはみなされないが、調査団の共通見解として水俣病被害者に寄り添った結果、最首論文の登場となり、「市井‐ 最首論争」が報告書において現出したのである。その意味で、水俣における人文・社会科学研究の試みは、近代工業文明をその批判の中心にすえながらも、研究という営みが抱える近代性を拭いきれないという限定を露呈した。それは、石牟礼が念頭に置いていたように、学問が「現地のひとびとの目の網」にとらわれることを意味した。再編された『新編 水俣の啓示』に収録されなかった旧編の内容こそ、第1 次「不知火海総合学術調査団」自体への肯定的な評価とは裏腹の「成果」を残したといえるのでないだろうか。

[注]
1)この段落の内容は、原田(1972: 15-29)の内容を要約したものである。
2)実際に現地調査がおこなわれたのは、1976 年からの5 年間である。
3)色川大吉は社会科学班と呼称したが、民衆史家の色川本人や、調査団結成時のメンバーではないものの、のちに調査団に合流する哲学者市井三郎など、人文科学的要素も含まれていた。
4)一般に知られる経歴では、石牟礼道子は、熊本県天草郡宮野河内(現天草市)の出身となっている。しかし、祖父と父親が営んでいた建設事業の関係で、家族が一時的に滞在していただけで、自宅は、葦北郡水俣町(現水俣市)栄町にある。1927 年3 月11 日に宮野河内で出生後、3 ヶ月経つ頃には自宅に移り住んでいるので、栄町を石牟礼の出身とした(石牟礼 2004: 241)。
5)環境思想史における19 世紀末から20 世紀初頭にかけての代表的な思想家・活動家で、特に国有林・国立公園の成立に大きな影響を与えた。彼が仲間と共に設立し、初代代表を務めたシエラ・クラブは、現代アメリカ合衆国を代表する環境保護団体となっている。サンフランシスコ市の水源としてカリフォルニア州ヨセミテ国立公園の水源開発にかかわる全米を巻き込んだ論争にも深く関与した(Jones1965; 森下 2010)
6)色川の説明によると、トヨタ財団からの3 年間の助成額は、総額1007 万円となっているが、トヨタ財団の記録によれば、助成額は、76 年度が300 万円、77 年度が384 万円、78 年度が310 万円であり、総額994 万円となっている(トヨタ財団 2006: 7, 9, 10)。
7)「脱集計化とは、概念というよりも問題にアプローチする際の構え方である。〔アマルティア〕センによれば、これまでの開発経済学は、富と貧困の指標として、国民生産や総所得、総供給といった集計化されたデータに関心を集中しすぎる傾向があった…… 究極的に重要なのは、具体的な顔をもつ個人の福祉の増進である。しかし、そこまで一挙に脱集計化を進めると経済分析としては意味をなさない。そこでセンは、個人と国家のあいだのさまざまな中間項に注目する。すなわち、一国の経済が困難に直面する場合、それが地域、所得階層、職業集団、性別、年齢の違いに応じて人々に不均等に打撃を与えていくプロセスを、できる限り丁寧に検証しようとするのである。」(峯1999: 15-16)
8)2001 年11 月に一橋大学で開催された第74 回日本社会学会大会では、社会学の社会調査をめぐっての議論が展開された。「似田貝-中野論争」は、こうした議論の際の基本的な論点を提出してきた。
9)「似田貝-中野論争」を検討した井腰圭介の社会学史研究に拠ると、似田貝の「共同行為」に対する中野の誤解をいち早く指摘したのは、安田三郎であった。安田は、似田貝や中野の論じる調査者-被調査者の関係には、実は権力という第三極が存在し、その第三極と調査者・被調査者という三者関係においては、時として調査者と被調査者は共同行為を採用することもあるとした(安田 1975: 491-492; 井腰 2003: 36)。
10)調査団団長の色川は、この「魂入れの儀式」を当初「最高級の歓迎、一種の余興」と受け止めていたが、この魂入れの儀式によって、「神さまに「使者」を派遣して下さいと願かけた人は、ひきかえに自分の命をさしだしていた」ということに後に気がついたという(色川1983a; 9)。
11)『水俣の啓示』下巻の座談会の記録では、調査団メンバーたちと水俣の人たちを架橋した土本が、調査団がなぜ水俣病被害者たちの運動を取り扱わなかったのか、という率直な疑問を投げかけている(色川 1983b: 473-474)。

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