第1章 社会調査の方法と実践 「研究者」であることの範域をめぐって

山本 崇記

1.はじめに

 マイノリティにかかわる研究をするうえで、研究者・調査者と当事者・被調査者との関係は、複雑にして曖昧である。マイノリティの当事者性に向き合うことが、マジョリティであり研究者でもある者の基本的作法である、という前提は容易には共有し得なくなっている。自らが当事者であり、その当事者性にかかわる問題群に研究者として関わっている人がいる。また、自分はあるマイノリティの属性を抱えながら、別の属性のなかに生きる人を対象にする研究者もいる。もちろん、ある属性にかかわる当事者であり、研究者であり、活動者である人もいる。
 この複雑な在り様に向き合うことを回避することが、「科学」(ときに「客観性」)にこだわる研究者の自己防衛に結び付いている。そして、境界線(研究者/非研究者)を設定しようとする力学をはみ出す者に対して、「被調査者と同一化している」(≒ over rapport)という批判がなされる。一方で、自らの身体を調査対象にすることを通じた「研究」が提出され始めているように、徹底した当事者性を突き詰めた先に成り立つ境界線の横断もある。ただ、その際の方法論は必ずしも十分に練成されているようには思えない。このような背景をふまえて、研究(者)とは何かという問いについて、近年の倫理的な問題に加えて、極めて実践的でもある社会学的な方法のなかで、何が考えられるのかという課題を設定してみたい。
2010年4月2日、「研究に課された倫理と実践における問い――被調査者/当事者/生活者/活動者との間で揺れる「研究者」なる存在とは何か」と題した座談会を設け、社会学・人類学、それぞれの立場から、調査法や研究者の立場性をめぐる議論を行った。その記録は前章に掲載した通りである。本章では、座談会の解題に代えて、企画者である私の問題意識を中心に、この主題について論点を深めてみたいと思う。

2.研究倫理と社会調査(教育)

 2.1 日本社会学会での「ディスコミュニケーション」──「科学」という防衛線2009 年10 月、立教大学で行われた第82 回日本社会学会大会のシンポジウム「社会学と社会調査教育」に傍聴者として参加した。200 名以上の参加者がいただろうか。会場はそれなりの活気があった。司会者は、牟田和恵・稲葉昭英・小林盾の三氏。登壇したのは、盛山和夫、平松闊、佐藤郁哉、江原由美子の四氏。コメンテーターとして、量的調査を代表して谷岡一郎、質的調査を代表して好井裕明の二氏が登壇した。本シンポジウムの報告が、小林によりいち早く『社会と調査』第4 号で報告されている。
 小林による議論のまとめでは、各登壇者が共通して言及した点として、「社会調査教育の標準化の意義」と「社会学のアイデンティティにとっての社会調査」の二点が挙げられている(小林 2010: 57)。社会調査士制度が整備され、それにより資格認定科目が設置され、各大学間での教育法やカリキュラムの在り方が共有できるようになったことがそのメリットとして挙げられている。また、何よりも社会調査を行うことが社会学の本分であるとされる。そして、その多くが量的調査によって占められている。
 しかし、社会調査士という資格自体が持つ社会的な有用性の是非や社会調査士の大量生産という事態が起こりつつあるなかで、送り出した社会学部・社会学科の教員たちはどのような責務を負っているのか/負えているのか。そのようなフロアーからの質疑に関する議論は発展しなかった印象がある。小林のよるまとめのなかで触れられていない点で改めて気になったのは、盛山が、質的・量的とわけるのではなく、双方を含むものとして社会調査はあるのだという「大前提」を確認したことである。当然、その立場を以前から表明している佐藤は、「質の良い量的・質的研究」とそうでないものとの対立を強調した。この点は、社会調査(教育)では、共通了解とはなっていないのか。シンポジウムの作り方(質と量を分ける)とは対照的に映った。
 さらに、興味深かった点が二つある。それは佐藤による報告であり、それは、「赤ペン先生」を通じた徹底した個別指導という案の方ではなく、なお社会学が「科学」であるとするならばと前置し、Gary Alan Fine の“peopledethnography”を参照し、その条件の一つとして「調査者と対象者のあいだに分析的距離を保つ」ことを挙げた点である。そして、もう一つは、谷岡が「調査をめぐる法整備が、欧米と比べて日本では遅れている。アメリカでは、調査実施者が実施まえに、大学などに調査目的や調査方法を提出して審査される」という議論を行っていたことである(小林2010: 57)。
 専門的研究者である社会学者を、他の社会調査やその担い手から分けるものは、やはりその「科学性」にある。社会学研究の根幹であり社会調査というアイデンティティを担保するのも、この「科学」としての社会学という共通了解があってこそであろう。そうでなければ、資格認定機構などは必要ない。専門性という名の「業界」の形成とは、そのような性格を持つ。一方、共通了解になっていないのは、谷岡のいう審査制度である。これらの二つを強引に合流させようとしているのが、「調査倫理」という文脈だと思われるが、それに対する危機感は、「質的」とされる研究者からはしばしば聞かれる。

 2.2 倫理綱領の制度化の加速
 研究倫理の制度化の流れは、2000 年代後半に入り加速している。2005 年10月、日本社会学会は倫理綱領を制定し、「日本社会学会会員が心がけるべき倫理綱領であり、会員は、社会学研究の進展および社会の信頼に応えるために、本綱領を十分に認識し、遵守しなければならない」と呼びかけ、社会学教育の際には、この綱領にもとづいて、注意を促す必要性も強調されている。翌年10 月には、同倫理綱領にもとづく「研究指針」を施行しているが、その一節には、綱領とは多少の温度差があるように思われる一文がある。

この指針は、社会学研究の全体を統制しようとするものでも、社会学研究の自由と可能性を束縛しようとするものでもありません 。むしろ教育・研究のレベルを高め、社会の信頼に応え、さまざまな圧力や誘惑から社会学研究を守っていくために 、倫理綱領および本指針を策定しました。倫理綱領および本指針の規定と精神をふまえて、会員が主体的・自律的に研究・教育をすすめていくことを期待します。(強調は引用者)

 「社会正義に反することがない」「個人の人権を侵害する恐れがない」「個人や団体、組織等の名誉を毀損したり、無用に個人情報を開示したりすることがない」といった文言がみられるなかで、「圧力や誘惑から社会学研究を守っていくために」倫理綱領と指針を策定したというのは、何を指しているのか分かりにくい表現である。「日本社会学会倫理委員会」が設置され、質問・相談に応じるということである。これ以上は進まない/進めない、そのような「中途半端」さが残る日本社会学会の最大公約数なのか。
 日本社会学会の倫理綱領の制定を受けて、私が属する日本都市社会学会や後述する地域社会学会など、各学会でも倫理綱領が定められているが、特に目新しい規定はなく、「無難」な内容が多い。それに対して、例えば、立命館大学では、研究倫理指針を2007 年3 月に制定し、「研究の対象となる個人や組織、そして研究者自身4 4 4 4 4 をも4 4 、研究プロセスにおける侵害行為などから保護4 4 する観点と具体的な仕組みが不可欠」であるという目的から、「遵守すべき規範」として位置付け、谷岡が述べるような法整備を指向するように、研究倫理委員会の設置と研究倫理審査制度の運用を2009 年度から開始している。そして、社会調査教育関連の授業でも、この審査制度を通じた注意の喚起以上4 4 のものが求められ始めている。

 2.3 倫理と実践性の葛藤──地域社会学会での報告から考える
 2010 年5 月に行われた地域社会学会第35 回大会において、私は「地域社会における研究・調査に際しての倫理と実践性の葛藤――被差別地域の調査経験から考える」と題した報告を行った。2008 年5 月に施行された「地域社会学会倫理綱領」の第10 条「共同調査による調査対象者の保護と科学性の確保」と第11 条「データ・知見改竄の禁止」が両立し難いものであるという趣旨で報告した。ちなみに、それぞれの条項とは次のようなものである。

第10 条(共同調査による調査対象者の保護と科学性の確保)
 会員は、研究機関との共同調査のみならず、行政、企業、各種団体との共同調査においても、調査対象者の保護ならびに調査過程における実証性・科学性の確保をつうじて、実践的な課題の解決に貢献しうる調査をおこなうよう努めなければならない。

第11 条(データ・知見改竄の禁止)
 会員は、調査母体となる団体・企業の利益に反する結果が得られた場合でも、
知見を偽ってはならない。

 どちらも、もっともな規定のように思われるが、意外にも両立は困難であるというのが、調査経験から率直に思うところであった。特に、第10 条が規定する(a)調査対象者の保護と、(b)実証性・科学性を通じた実践的な課題の解決に貢献することが、第11 条の(c)調査母体となる団体・企業の利益に反する結果が得られた場合でも知見を偽ってはならないという規定と衝突するのである。つまり、まず(a)と(b)は容易に整合せず、分けて考えることができる。そして、(a)と(c)、(b)と(c)も容易には整合しないのである。
 この点を、私の調査経験から考えてみたい。在日朝鮮人が集住する地域で活動を続ける団体A、そして、被差別部落(現在は「旧同和地区」という行政用語も使われている)において活動を続ける団体B と共同で調査を行い、研究を進め、成果を生み出していくという過程のなかで、何よりも重視したのは(a)であり、それは(c)に含まれる「団体・企業の利益」とも重なる。その利益がなければ、そもそも、調査者であり研究者という位置付で関わる私の主体性は存在しない。
 フロアーからも意見が出されたが、ある情報が得られ、それが団体の利益に反する場合に、成果としても公にしない、知見としても発表しないという取捨選択は、大方の調査では出くわすことであり、それは改竄とまではいえないのではないか、という指摘があり得る。しかし、ある共同作業のうえに立った成果の性格からして、得られた実証データを表に出さないということが、明らかに科学性・客観性に欠ける偏りを持ってしまうということもある。
 知見とは、調査者による認識でもある。しかし、団体にとっても同様に得られた認識である。それが対立した場合、その研究は、(b)よりも(a)を重視することで、公表を断念するか、記述の変更を迫られることがある。「偽り」「改竄」と受けとめるか、それとも、適切な相互行為のなかで認識の変容が起こり、合意に達したものと受けとめるのか。私はその交渉過程こそが、実は大事なのではないかと考えている。あらゆる調査につきまとうこの過程は、ほとんど明るみに出されないし、マニュアルにもなりにくい。一つの成果物のなかでも、濃淡があり、合意形成可能な部分、調査者の知見を押し通す部分、団体の利害が押し通される部分とが混在している場合が多い。特に、団体・企業から委託された調査ではなく、団体・企業と調査方法からデータの収集・保存、さらに成果物の作成の過程までが共同で行われる場合、その可能性は高まってくるだろう。現行の倫理綱領では、このような事態には応えきれないものであるが、応える必要もないともいえる。
 団体の利害が、団体内で分岐することは良くあることである。団体A、団体B に関しても、それぞれが、非対称な関係性を抱え、管轄する/されている関係が内部にあり、行政機関との関係性にも差異を持つ複合的な「一つの団体」であった。その際に、調査者は、どの団体(人)に向き合い、どの利益を想定し、誰にとって解決が必要な課題に向き合っているのか。それらは、特に調査地に関わりもち、そのなかから問いを立て、また、課題を発見し、調査・研究・成果・還元の往復を繰り返すことで、再び、当初の問題意識が変容するような場合は、決して珍しい調査経験ではなく、容易に想像がつくことである。私にとっては、「葛藤」ではあっても、他の研究者にとっては、「考えすぎ」「誤認」しているとしか映らなかったのかもしれない1)。

 2.4 皮肉?なエピソード
 20 年以上前に『同和はこわい考』(阿吽社、1987 年)という一冊の本が大きな波紋を呼んだ。執筆者は藤田敬一。この『同和はこわい考』をめぐる事態については、以前、簡単にまとめたことがある(山本 2007)。藤田は、「同和はこわい」という社会にまことしやかに蔓延する意識を差別から来るものだとしながらも、第三期の部落解放運動を考えるために、糧として生かすこと、そして、その際に差別/被差別関係のなかでも可能となる批判的議論を形成することを主張した。しかし、部落解放同盟中央本部は機関紙を通じて、「これが味方の論理か」と痛烈な批判を向けた。当時、設立されたばかりの日本解放社会学会もまた、稲田勝幸らが、学会誌を通じて、藤田の議論を批判した。その流れに、好井裕明、山田富秋らが「確認・糾弾会」といった、地域改善対策協議会の答申で問題にされた民間運動団体の「行きすぎた」やり方に、「実証性」を通じて積極的な意義を与えようとした。しかし、その試みは、成功したとは思えない。
 むしろ、藤田が属していた京都部落史研究所(京都部落問題研究資料センター)は、『京都の部落史』(全10 巻、阿吽社、1984-1995)の作業を通じて、従来の部落史研究の根本的な見直しを図っていた。そのなかでは、京都が発祥とされ、強い影響力を持っていた差別行政糾弾闘争というスタイルからの転換が目されていた。この指向性は、当時の部落解放同盟を中心とした解放運動の「利益」とは明らかに逆向きであった。しかし、私が関与した団体B は、同研究所による部落史の見直し作業のなかで「再発見」された建築物であり、その保存運動の契機を作りだし、地域でのまちづくりの新たな主体形成と活性化の方法に、調査・研究を通じた文化運動を定位することにも繋がった。「実践的な課題の解決」とは何か。保存運動の成果は、未だ、地域にとっての財産となっているが、部落解放運動史や部落問題研究では見事に等閑視されており、同和行政の打ち切りのなかで、その意義が否定できないものとして評価されており、団体B は年間3,000 人近い来館者の対応に追われている(山内 2010)。
 確かに、調査の基本姿勢としては、被調査者に何かしらの負担をかけるものであるという前提があり、被調査者に知る権利、拒否する権利がある。そのため、調査そのものが「一次資料」を入手するために、本当に人を対象にしたものである必要があるのかを精査する必要があるという桜井厚の意見は最もだ(桜井 2003)。しかし、学術論文のオリジナリティを担保する際に、一次資料が持つ比重は大きい。いったい、それとどのように整合性を付けるのか。「2次分析のための研究環境の充実化」は必要だが、桜井に、(業績主義が吹き荒れる現状に)踏み込もうとする様子は見えない。

3.「研究者」とは誰か

 3.1 職業的研究者たちの分岐
 「研究者」とは誰か。社会調査(教育)をめぐる議論のなかで、この問いを突き詰めた議論は皆無といえる。社会学者の集まりを話題にしているのであるから、当然といえば当然なのだろうが、ここでの研究者とは社会学者であり、大学(院)でキャリアを積んだ大学教員を主にその主体として想定している。もちろん、近年、さまざまな学会が門戸を拡げ、「市民」会員も増えている。社会人院生が増え、大学院の門戸も拡がり、研究所・シンクタンクなどから、NPO / NGO の調査・研究機能の充実化など、研究者の範域はますます拡がっている。ただ、「博士号」や「社会調査士」といった資格が、線引きの際に一定の効力を持つ。それもまた、インフレーションを起こし始めており、境界設定がよしとされるのかという疑問もある。既存の労働市場は、それほどまでに職業的研究者を必要とはしていない。
 宮内泰介のいうように、「市民調査」という視点から職業的研究者に調査主体を固定化しない「ずらし」の可能性をみる議論は興味深い。そのための支援が職業的研究者には可能であるという意見である(宮内 2003)。だだ、職業的研究者は、狭い学問的業界への貢献を第一にし、市民調査では、問題解決志向型であると両者の違いを分けてみる宮内だが、両者の領分は明確に分けられておりながら、明確でないような気もする。市民調査の「社会的な力」を向上させることと同時に、専門家=社会学者が、倫理綱領などで、何よりもまず社会的な問題の解決に貢献することを命題にしていることを考えれば、境界は途端に溶解してくる。専門家を必要とする社会性は乏しくなっていく。日本社会学会第74 回大会の司会を務めた桜井に対して「社会学なんてしょせん役に立つものではないという趣旨の発言が(桜井から)あったように思うが、本当に役に立たないものであるなら、消滅4 4 してしかるべきである」とした玉野和志の指摘は、あながち突飛なものではない(玉野 2003: 549-550)。つまり、市民調査が徹底される先に行き着くのは、社会学(者)=研究者の消滅である。
 その玉野が最も共感を示した宮内の議論が、「市民調査の系譜」として辿った歴史は、必ずしも十分ではない。宮内が引用した高木仁三郎の言葉「職業的科学者は一度亡びねばならぬ」は、科学としての社会学にも向けられている。市民調査という言葉に拠らなくても、自主講座「公害原論」、PARC(アジア太平洋資料センター)、原子力資料情報室、そして、京都部落史研究所といった1970 年代以降の実践がある。これらは、大学の外に出た研究者たちを中心に、また、何らかのかたちで大学に残る研究者たちを巻き込み、専門家でもない人をも含みこんだ研究実践であった。研究倫理が大学という教育研究機関において急速に制度化されていることの問題点は、二つある。一つ目は、機関としてのリスク回避の側面が強い点である。二つ目は、「職業的」という名のもとに、研究の専門性が、大学という社会の一部でしかない組織に占有されていくという点である。
 1970 年代には、反公害運動のなかで、近代主義と符合する「科学」に対する根本的な疑問を投げかけ、住民自らが実態調査を行い、国策や自治体政策を変更させ得る対抗的な研究が提示された歴史がある(道場 2002; 山本 2009b)。職業的研究者(大学/民間)を含めて、住民が主導する調査・研究活動の歴史は長い。そのなかに、高木の言葉が位置付き、さらに、似田貝香門から発せられ、中野卓が応答した「調査者―被調査者論争」の文脈がある。職業的研究者たちの立場の分岐や市民調査の提案よりも、主題にされるべき論点はここにあるというのが私の考えである。地域社会学会での報告の先には、研究倫理なるものの問題点に切り込む契機をつかみたいという意図があった。

 3.2 当事者研究/当事者学
 市民調査のなかに「地元学」という言葉が含まれつつあるのと同様に、当事者による研究を「当事者研究」あるいは「当事者学」と表現することがある。すぐに思いつくのは、倉石一郎が指摘するように、「一方には、日本社会の差別・排外主義の矢面に直接立つ人々がおり、他方には、社会のそうした問題点に気づくことなくノホホンと日常生活を送る、ごく一般的な意識レベルの人々がある。そして前者だけが、差別問題のいわゆる「当事者」とよばれる人たちである⋯⋯私たちは誰でも、つねに/すでに差別問題の当事者である」という言明である(倉石 2009: 45)。これは「当事者主権」ということがいわれた際にも強調された点であり(中西・上野 2003)、浸透しているかどうかは別として、既にいわれてきたことである。沖縄問題、在日朝鮮人問題、障害者問題等々、特に差別問題にかかわる主題においては、繰り返し、強調されてきた点である。ただ、「当事者性」を拡げること、あるいは、突き返すことで可能となる認識や関係性の変革と同時に、「当事者研究」が持つ射程には、「可視的変形の問題を『当事者』として語ること、またそれを研究というフィールドでおこなうことの政治的な有効性が強く意識されていたといえる。すなわち、主題化することすら容易でない『社会的に隠蔽』された困難を『直接的に扱』うためのツールとして、『当事者』という言葉が持つ力を利用しようと」しているという性格がある(星加 2008: 213)。星加良司は、当事者性に基づいた研究の学術的な意味を、(1)「障害者」は、非障害者の経験とは相対的に区別される何らかの共通の経験を持つ、(2)共通の経験は特有の認識を生みだす、(3)障害問題に関して、障害者は非障害者よりも適切な認識を得ることができるという前提に立ったものだと指摘する。
 ただ、「内在的な学術的な価値に関していえば、「障害者による障害の研究」という意味での当事者性を主張する根拠は見出しえず、むしろそのような立論をすることによって多様なディスアビリティ現象に対する偏った言説の生産につながる危険性がある」という注意も喚起している(星加 2008: 226)。もちろん、「ただし、『障害者』という社会的位置からの学術的な認識の提示が従来の知のあり方を揺さぶる可能性は否定されるものではなく、そのように限定された意味の当事者性には一定の学術的価値がある」と補足している。
 社会学のなかでは、障害者が担う障害研究としての障害学、女性が担う女性研究としてのフェミニズム・女性学、沖縄人が担う沖縄研究、在日朝鮮人が担う在日研究、セクシュアル・マイノリティが担うクイア研究といったかたちで、それぞれの属性に基づく位置取りと研究の主体は明確なように見えて、ときに相互乗り入れの状況にあり、各自の立場は曖昧であることが多い。「当事者研究」という括りを取らないが、その「学術的価値」に付与される意味に、「当事者による」という痕跡を残そうとしているのか、そうでないのか。研究者の属性をひたすらにさらすことはないし、問い質す必要もない。しかし、このような問いは消えない。それはときに、曖昧なかたちで、強いインパクトを持つことがある(鄭 2003; 野村 2005 など)。それで、よいのかどうか。
 後述するが、中根敏光は、当事者であっても、その当事者性に関わる研究という欲望に突き動かされる主体であるならば、「よそ者」であることを避けられず、「社会学的暴力」も引き受けざるを得なくなると指摘する。その点について、自覚的な調査法は極めて少ないのが現状ではないか。その点で、曖昧さを拭えないのである。「科学」であろうとする社会学、職業的であろうとする社会学は、この問いにどのように応えるつもりなのだろうか。その意味では、例えば、福島智が進める「バリアフリープロジェクト」は、社会工学的な研究でもあり、「具体的な問題の解決を当事者の視点から推進していく研究拠点づくりを進め」るという立場を表明し、実に分かりやすい(http://bfr.jp/aboutus/, 2010/04/02)。
 また、浦河べてるの家が試みている「当事者研究」は、実にユニークである。多様な研究スタイルで行われたその作業には五つのエッセンスがある。それらは、(1)〈問題〉と人との、切り離し作業、(2)自己病名をつける、(3)苦労のパターン・プロセス・構造の解明、(4)自分の助け方や守り方の具体的な方法を考え、場面をつくって練習する、(5)結果の検証である。以上をノートに記し、実践し、結果を検証し、次の研究と実践に繋げ、さらに成果をデータベース化する(浦河べてるの家 2005: 5)。「アクション・リサーチ」と異なるのは、厳密に統制された実験・調査と学問的な文脈にとらわれない融通無碍さであるだろう。このような「当事者研究」は、宮内のいう市民調査に何を投げかけているのか。専門家としての研究者は問われざるを得なくなる。
 臨床心理士という支援の専門家として、べてるの「当事者研究」に率直に狼狽したのは信田さよ子である。「客観性と知識の量を武器に、それに依拠することで私は自らを専門家として権威付けていた」とし、「自分の経験を自分の言葉で語れれば、別に他人に表現などしてもらわなくていいだろう」とまで、いう(信田 2002: 79)。「当事者が自分のために、自分が生きるために行う研究の意味に比べたら、客観性など、ふっと手のひらから吹けば飛ぶようなものかもしれない」(同上: 81)。しかし、援助者もまた、援助の当事者として、援助方法の研究の担い手であり得る。信田の議論には、一見、懺悔風、悔悟系の専門家にありがちな湿った論調が見え隠れするが、結論部は明快だ。

 3.3 当事者が組織する研究(1)──薬害HIV 感染被害
 当事者と研究者の区別を前提に、当事者が研究に関わることが違ったかたちであり得る。それは、当事者を中心に研究グループ・調査団などを組織化するという場合である。ここでは、二つの事例を取り上げる。一つは、血液製剤によるHIV 問題に関する実態調査である。2003 年に東京大学医学部の山崎喜比古研究室を中心として、『薬害HIV 感染被害者遺族調査の総合報告書』(薬害HIV 感染被害者(遺族)生活実態調査委員会)が作成されている。「当事者参加型リサーチ」ともいわれるこの『報告書』は、被害者が被害者になる4 4 という目的から行われた量的調査であった。そして、それは、国の責任、医療従事者・機関の責任を認めさせ、補償させる効果を、目的通り、発揮したといわれる。
 しかし、再び同様の薬害を起こさないという実践的な課題にとって、上記の実態調査は、有効足り得たか。ジャーナリズムが、臨床場面に携わった医師たちを告発し、医療機関や省庁を痛烈に批判するなかで、加害性を国・医療者・製薬会社の側に付与することに「成功」する。それに一役買った実態調査は確かに科学的であり、実証的であり、被害者の思いに応えることで本分を全うした。ところが、薬害HIV 感染の当事者でもある医療従事者に対する調査が抜け落ちていることは、薬害という実態を明らかにし、再発防止に資するという課題にとっては、十分ではなかった。むしろ、医療従事者こそが、臨床の場面で、どのような思いで、どのような関係性のなかで、どのような行為により甚大な被害を与えることになったのか、そして、それをどのように自己のなかに定位/忘却しているのか。
 しかし、医者の語りを聞き取るといっても、それがすぐに可能となった訳ではない。養老猛司を委員長に据え、村上陽一郎を副委員長に据えるかたちで組織された「HIV 感染問題調査研究委員会」では、第一次報告書のなかで強調された「健常者中心主義」批判と医師と患者の「パターナリズム」批判が、患者・医師双方から反発を受けることになった。そのため、「私たちの調査の目標は、家庭治療において医師と患者が、実際にどのような決定を協同で行ったのか、また、それがどのように変化していったのか、個別の聞き取り調査によって、ていねいに明らかにすること」であり、「できるだけ医師の視点に立って再現することが必要」だとされた(山田 2005: 21)。
 そして、社会学者を組織化し行われた研究成果が、『輸入血液製剤によるHIV 感染問題調査研究最終報告書・医師と患者のライフストーリー』(三分冊)としてまとめられた。「医師の多くの語りから見えてくるのは、エイズ情報やHIV 抗体陽性反応に対する戸惑いと混乱のストーリーであり、親身に患者の治療に専念したがゆえに皮肉にもHIV 感染という結果を招いたという逆説のストーリーであった」とする桜井厚の指摘にみられるように、前述の実態調査との大きな違いを感じさせる(輸入血液製剤によるHIV 感染問題調査研究委員会編 2009b: 4)2)。
 医療と人権ネットワークMERS の理事であり、HIV 訴訟関西原告団代表である花井十伍は、この研究委員会を組織する際に、実に興味深いことを述べている。少しが長くなるが、引用してみたい。

 「薬害被害者」が行政を始めとして、社会に認知されてゆく事はある意味「薬害被害者」という専門性を期待される事である。「薬被連」の当事者は、人によってはさまざまな専門的知識をももっているが、いわゆる専門家ではない。専門家と議論しながら専門家ではない「薬害被害者」という名で呼ばれる『専門家』は、常に自らの苦しみや、悲しみを再生産しながらでなければ、「薬害被害者」であり続ける事ができない。だとすれば、「薬害被害者」による当事者運動は、常に身を削る事でしか持続できないのかもしれない。いわば、薬害被害者の『専門性』は、そのまま当事者性という言葉に置き換える事が可能であり、当事者性は被害者の実存的所与の変容によって規定される。こうした変容は「薬害被害者」の役割の内面化過程において基礎となる。もし、「薬害被害者」がこうした過程を観念的に合理化してしまえば、当事者であっても当事者性は失ってゆく事になるだろう。(花井 2005: 172)

 花井は、自らを「活動家」あるいは「当事者」と自己規定し、その地点から研究にかかわるということを意味付け、研究者・専門家を組織化する。当事者にも、研究者にも揺さぶりをかけ続けるスリリングな主体として、「当事者研究」とは、また異なる方途を示している。

 3.4 当事者が組織する研究(2)──公害としての水俣病
 二つ目は水俣の事例である。1976 年に、石牟礼道子の呼びかけで結成された「不知火海総合学術調査団」が、『水俣の啓示──不知火海総合調査報告』(上・下巻、筑摩書房、1983 年)を残している。色川大吉が編者となり、土本典昭を現地の案内役に、原田正純、最首悟、鶴見和子、石田雄、市井三郎など、様々な学問分野の研究者により構成されていた。色川によれば、石牟礼の意図は「生きのびるのであれば、不知火海沿岸一帯の歴史と現在のとり出しうる限りの復原図を目に見える形にしておかねばならぬ⋯⋯この沿岸一帯から抽出されうる生物学、民俗学、海洋形態学、地誌学、歴史学、政治経済学、文化人類学等、あらゆる学問の網の目にかけておかねばならぬ。出来上がった立体的なサンプルは、わが列島のどの部分をも計れる目盛りであったらいいな。不知火海沿岸一帯そのものが、まだ焼きつけられざるわが近代の4 4 4 陰画総体4 4 4 4 であり、居ながらにしてこの国の精神文化のすべてを語り続けているのではあるまいか」という点にあった(色川編 1983a: 11)。
 住民のなかに融けこみ、内なる声を聞き出そうという態度を基本とし、「水俣病は近代化と企業犯罪としての「公害」を根源から問い直すもの」「人類史の予兆として、迫りくる危機を警告するもの」と捉える視点を、医学的にも社会科学的にも提起したことが成果とされた(色川編 1983a: 38)。とはいえ、「机上の近代主義者や御用学者たちにたいする挑戦であり、現代を根源から問いただす科学的実践であるなどという調子のよい声を発する者は」、現地に入るといなくなったという「たじろぎ」も告白している。
 『水俣の啓示』上・下巻が興味深いのは、色川が赤裸々に、調査団のなかにある不協和音を記し、また、当時も内部にある意見対立を両論併記(市井三郎と最首悟)していること、さらに、座談会を設け、調査の過程(7 年間)を批判的に対象化する作業を一連の『報告』として公にしていることである。座談会では、川本輝夫の実践に対する記述が抜け落ちていることが批判され、また、反近代を標榜した調査団のなかで学者の「限界」を示した市井三郎と同罪だったと自戒する鶴見がいた。さらに、批判すべき近代工業文明のなかにある学問体系が「出口なしのという推論が最も客観的、科学的」にならざるを得ないのを、石牟礼のように「どんでんがえし」で突破できないかと、その点を課題にする鶴見に対して、色川は、そのような近代の「凄さ」を見据えることが出発点だと切り返す。
 運動のなかで持ち上げられる石牟礼自身も、天草からマレーシアに行き着いた女性「スマさん」の身の上を聞き取る際に見せた「躊躇」──「フィリピンのマグサイサイ財団からと説明するのはひどく難しかった。ものを書いているというのはさらに憚られた」「記録者たちと被観察者たちは、目まな交か いのところにあってかこの世とその涯ほどにへだたっていた」(色川編 1983b: 376-377)──とは、トヨタ財団から1,000 万円近い助成を得ていることに感じる何かしらの「躊躇」とも繋がっていたのかもしれない3)。「学問の網の目にかけておかなばならぬ」のと同時に、「現地のひとびとの目の網に、学術調査なるものがかかる」ことは、石牟礼にとっては、「近代の陰画総体」に同様に含まれている。決して、学問である必要はなく、文学でも、運動でも、表現の手段にこだわりはなかったものの、学問を選択した理由はここにある(石牟礼 1977: 173)。「私のような無学者には学問という概念は狭くるしく、便宜的に使っているにすぎませんが、これを表現、と言い替えてもよい」とする石牟礼は、一方で、一個の生命は、あらゆる時代の最高水準の学問をはるかに超えて存在してしまうようなユーモアを持ち合わせている。それでも、外在する目から水俣の全遺産を鳥瞰したいという「欲望」と「狂気」を持つ石牟礼といえでも、豊かな表現力を持つ言葉の使い手(記録者)であることを自覚していなければならないことはいうまでもなかった。
 石牟礼が、学問が本質的に抱える「無知」を吐露する研究者たちを肯定的に引用するのとは全く逆に、「科学者は、無知であることを謙譲の美徳」とし、「人間としての痛みはあっても、科学者としての責任はとりようがない」と、水俣への回路を自ら塞いでしまったのは最首自身であった(最首 1984: 159)。全共闘以降も「自分で選んだ職能」が「否定 ― 否定 ― 否定」ではなく、「否定― 肯定 ― 止揚」という磁場に引き摺られ、悶え、宇井純に呼び掛けられても、「研究の意義、対象、方向性を問題にする、その土台に何か大きな欠落があると感じている状態では、被害者や4 4 4 4 住民運動に資する科学という一つの解決」にも向かえない自己を煩わせていた。それでも、水俣では影が薄くなりつつあった調査団に関わり、市井に厳しい批判を加えることになる最首を動かしたのは、「私は今のところわが子である(ダウン症の)この子に、もっと寄り添うことのできるように、そのような人たちに会いたいと思った」「一歩近づきたいと欲した」という人間的な感情であり、それにより水俣へ飛躍していった。
 その成果が、『水俣への啓示』上・下巻であった訳だが、この著作はその後に絶版となり、後に復刊されたが「新編」というかたちで、座談会も、市井と最首のやり取りも省かれ、実に、以前のものに比べると内容が薄まってしまった(色川編 1995)。規範倫理学から最首と市井の〈衝突〉を取り上げる「哲学の現場/現場の哲学」の議論もあるが(川本 2008)、市井が露呈したように、水俣のような「現場」に哲学が必要であるとは思えず、日高六郎、宇井純、宮本憲一、中野卓なども巻き込んだ社会調査の方法と実践を考える貴重な実験であったように思う一方、「ひとびとの目の網」にどのようにこの調査が引っ掛かったのか。現在において、この調査団の活動に言及するとしたら、その位置価こそ定める必要があるだろう。

4.社会学による社会調査へのアイデンティファイ=占有に抗す

 4.1 「質的」社会学からの違和感と頑強な境界線
 前述した信田は、「援助者、専門家が占有してきた〈研究〉と、当事者にもっぱら期待され専門家はその聞き手であった〈語り〉が、いまや最先端(といっていいだろう)において交差しているように思える。研究者の自分語りと当事者研究が同時に生起していること、これはやはり大事件だと思う」と記している(信田 2002: 81)。しかし、この「交差」は、自覚的か、無自覚的かは定かではないが、相互乗り入れしているようにみえるものの、頑強なまま占有によって非対称性を担保する機能を果たしているように思われる。
 特に、この点は調査倫理の制度化に対して、違和感を表明している、人を直接的に調査対象にし、被害や被差別の経験を聞き取る「質的」調査を主に行っている研究者たちに当てはまる。彼らは、研究倫理の制度化に違和感を表明し、過度に客観性や専門性に執着することよりも、目の前の痛みに向き合うなかから、人々の生を描き出す点において優れている。前述したHIV 感染被害の医師・患者の聞き取り調査に携わった社会学者を中心に、その調査の方法からして、厳格な制度化が、調査者 ― 被調査者の関係性を、逆に歪めてしまうのではないかという懸念が表明され続けている。
 例えば、日本社会学会の「研究指針」では、「研究・調査対象者の保護」の条項で、「対象者から直接データ・情報を得る場合、収集方法がいかなるものであろうと、対象者に対し、原則として事前の説明を書面または口頭で行い、承諾を得る必要があります」と規定し、「社会調査とはどのような方法であれ、対象者に負担をかけるもの」という前提がある。「立命館大学における人を対象とする研究倫理指針」では、「インフォームド・コンセント」の条項のなかで、「研究対象者からの同意は、原則として文書4 4 4 4 4 4 4 により行い、研究者は、その記録を作成の日から起算して最低5 年間保管しなければならない」と、より拘束性のある内容になっている。
 はたして、「原則として文書」による被調査者からの同意をとることが倫理的にも、調査方法としても適切だろうか。「そういうことなら、遠慮させてもらいます」と、対象者が二の足を踏むということが容易に想像できる。また、座談会における永田報告にもあるように、被調査者との関係性の変容のなかで、自らの問題意識が変わり、それは、「調査」という格好を取らない日常会話から得られる情報によって、生じるケースもある。問題意識の形成とその際の情報をどこまで、どのようなかたちで文章にするのかという段階に来て、初めて「被調査者」となる相手に同意を求めるという場面もある。
 蘭由岐子は、ハンセン病療養所における調査経験を振り返り、調査対象者の人生や人間関係に大きく踏み込まざるを得ないような立場に立たされたとき──ハンセン病であることを肉親に告白するという場面や裁判闘争をする人/しない人との関係のなかでの位置取り──「〈人として〉どう関わるか」が問われ、「調査ではない」と他の研究者からいわれたけども、それを「もはや調査ではないというかたちで切ってしまう」のではなく、「調査の場にとどめる試みもした方がいいんじゃないかなと思う自分も」いると、その「悶え」を対象化している(蘭 2005: 74)。
 私にはナイーブにもみえるこの「悶え」は、研究内容との関係性から、被調査者から得られたデータの質を検討する手がかかりとして、研究としての記述に含まれるべきであると考えている。それは、調査方法とその過程、進展具合による被調査者との関係性の対象化という作業と位置付けることができるのではないか。そのなかで、繰り返し参照することになるが、永田報告にあるように、ビザの取得や在日フィリピン人コミュニティの潤滑油の役割を果たす研究者が、同時に友人でもあるという、単一・無機質な研究者というフィクションを相対化する姿がみえてくる。相手の要求を断ることで、得られた/得られなかったという調査の質は、単なる「失敗談」や「調査マニュアル」にのみ書きこまれる類のものではないだろう。

 4.2 ラポールは病か
 ラポールを社会学病として退ける中根敏光は、「被調査者のリアリティに対して行使される調査者のリアリティの優位性とその正当化を⋯⋯『社会学的暴力』」とし、調査とは「被調査者のリアリティを調査者のリアリティの優位の下に抽出し、解釈しようとする試み」であり(中根 1997: 43)、「欺瞞的な作為としての参与観察」を行う社会学者が引き受けるべきものだとする(中根1997: 45)。ラポールとオーバーラポールのバランスは、「職人芸」として各個々人の技に委ねられてきたのが現状であり、中根としては、方法論的課題としてオーバーラポールに対峙するためには、この「暴力」を引き受け、「病」を治さなければならない。
 中根は、ラポールに信頼関係といった独自の意味合いを与えてきた背景に、「欺瞞的な作為」に対する負い目を隠蔽する社会学者の姑息さを見出している。また、この点は、現在の研究倫理の制度化という文脈では、被調査者に負担をかけるという本質的な調査の性格を強調しながら、同時に被調査者の保護を謳い、さらに、科学性・実証性を偽らないかたちで社会に貢献する研究者たれという、ある意味では矛盾だらけの倫理綱領の内実を見透かしているようで興味深い。さらに、中根が「余所者」とする調査者の立場からは、例えば、当事者がその当事者性にかかわる研究をするとしても、当事者というカテゴリーには還元できない別の欲望を携える存在として「余所者」であるとする点は、重要である。
 そのうえで、中根が信頼関係=正確な語りという前提を批判する際に、「被調査者集団において、調査者がどのようなタイプの人間として定義されているかによって、被調査者が語る内容は異なる傾向がある⋯⋯参与観察においては、被調査者(集団)によってどのような役割を付与された人間として定義されているかは、データの取得とその解釈の際に決定的な影響力を及ぼす」と強調するとき(中根 1997: 47)、その過程を対象化する方法論的課題に接続させていないのが惜しい。
 また、オーバーラポールを「被調査者のリアリティに調査者のリアリティが呑み込まれてしまうために生じる問題」とし、その極限状況に「研究者の放棄」を想定している点が解せない(中根 1997: 48)。被調査者の主体性やリアリティを強調するのなら、呑み込まれるか(「研究者の放棄」か)/社会学的暴力の引き受けしなかないかのように論じるのは、次節で触れる、宮本憲一の宇井純批判と、「共同行為」(似田貝香門)のナイーブさと同様に、単純な図式化と研究者の開き直りを感じる。被調査者が、当事者であり、研究者であり、専門家たちの業界を揺るがしかねない存在へと至る道を塞ぐ科学の防衛線がここでも迫り出してきているように思われるのである。社会学は、社会のなかに解体されてよい。宮内の市民調査が中途半端なのは、その地点まで、社会調査の主体の拡張を徹底できないからである。

 4.3 自己解析の必要性
 前述した蘭が、被調査者から様々な属性を持ってみられてきた経験から、「そういういろんな役割がわたし自身にあって、単なる一人の調査者ではないということに気が付かされ」たと、吐露している(蘭 2005: 70)。そのような「気付き」以上に必要なことは、「社会学的知識の構築と現地調査のポリティクスに関わって自己を意識化し透明化する作業」であり(桜井: 2003: 466)、「両者のセルフ構築の様式の検討」(松田 2003: 508)が必要であるだろう。何よりもそれが、調査者としての関わりを「まるごと」対象化することによって担保される「科学性」であるだろう。

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図1 自己のモノグラフ化

 例えば、私の調査活動に関していえば、図1 のような関係図になるように思われる。もちろんこれは、調査する「私」に対する印象や役割期待などをも、被調査者から聞き出し、記述するという過程のなかでのイメージでしかない。
 この図のなかで、私は、研究者(Researcher「R」)であると同時に、ボランティア/フリーター、団体/学生活動家、相談者としての関わりを通して、被調査者との関係を形成していることになる。
 そして、ただ単にそのような役割を果たしているというだけではなく、その過程で、研究活動の円滑化が図られているという重要な実態がある。多くのフィールド調査を行っている研究者が同様の関係を形成していると思われるが、その内部構造は明らかにされていないし、その必要性も指摘されていない。
 興味深いのは、早川洋行の『ドラマとしての住民運動』(社会評論社、2007年)である。早川は、栗東産廃処分場問題に、自らが当該住民でありながらも、あくまで、社会学者として関与した。しかし、そこには、法律家などの専門領域に対する需要はあっても、社会学者に対する需要はなく、地域住民が組織した対策委員会の代表として、また、栗東市が組織した環境調査委員会の委員長として関わることになった経緯を紹介している。それでもなお、早川は社会学者としての関わりにこだわった。早川によれば、社会学にできることは、ひろい情報宣伝、人的・組織的ネットワーキング、批判的な知的介入、そして、歴史的総括の四つの役割にあるとする(早川 2007: 49)。
 住民運動に対して「距離を置きつつ寄りそう」という立場に力点を置く早川は、宮本憲一が宇井純に対して行った批判に触れている。「君(宇井)は住民運動に行ったときには研究者のような顔をして、研究者のところに行ったら住民運動家の顔をする、そういうふうにするとだれも太刀打ちできない⋯⋯環境問題に携わる研究者は、あくまで研究者でなければならない」(早川 2007: 40、重引)。早川の立場もまた、宮本と同様である。しかし、早川においても社会学者が明らかにすべき課題に、自らの関わりの在り様も含めたモノグラフの作成という点が入ってこないのは、導入部において赤裸々に自らと栗東産廃問題の関わりを明るみにしているだけに惜しい。「住民運動の現場に行ったときには住民運動家の顔をし、研究者のところに行ったら研究者の顔をする」。そう書き換えることを想起してみることはできなかったのか。

5. おわりに──社会という隠れ蓑に潜む社会学を剔抉する

 本章を終わるに当たって、改めて何のためにこの文章を書いているのかと問われると、研究者なる存在は一体何であるのか、そして、特に社会学とはそもそも社会にとって必要な学問なのかという問いを深めるという目的があるといえるだろう。そして、歴史の浅い社会学が、「科学」にしがみつき、その専門性を自己証明し、アイデンティティを維持しようとする現代的形態に、社会調査(教育)と倫理綱領の制度化があるのではないかという、捻くれた直感から、私自身が行っている研究の位置がどこにあるのかについて見定めてみるという作業を行うことになった。
 それでもなお、「研究」という営みを掬い出すことができるとしたら、また、必要だとしたら、それはどのような条件において可能なのか。それは、社会学を自己再生産することでも、大学法人にその営みを占有させることでもない。そのための方法と実践、系譜を辿り直すことが、まずは必要な作業内容となってくる。そして、論点の提起対象は、本報告書の性格からして自ずと決まってくるだろう。社会学は一端、丸裸にされたうえで、その生存には限りがあることを自覚しなければならない。だからこそ、多くの社会学者は、批判的なものを含めて社会を成立せしめているものを否定する構想力を持ちえないでいる。大学もまたその軛にあり、社会学の誕生もまた、近代国家の成立と不可分であり、それはまた、自らの「生存」条件にもなっているからである。

[注]
1)後日発行された地域社会学会の会報(161 号)では、「山本氏の想定する「実践的な課題」、団体の「利益」は、短期的なスパンでの把握に過ぎるように感じられた。たとえ、当座は不利益を生ずるように見えるとしても、科学的な妥当性を持った知見こそが、実践的な課題の解決に資するように思われるのだが」という印象記が、新藤慶氏により記されている(地域社会学会事務局 2010: 8)。
2)医者の語りを聞き取ることの困難に、調査者自身の常識の相対化から迫ろうとする好井裕明は、同調査に関わって、「社会調査とは”常識的な”前提を相対化する営みを含みこむものであり、調査者は緻密かつ徹底した相対化の営みを自覚的に行い、さまざまな問題や現実を生きる人びとの”生”に埋め込まれた”公共的なるもの”を常に明らかにしようとする志向をもつべきである」と指摘する(好井 2007: 84)。
3)宇井純は、この点について、「賛否両論がある」が、報告の内容と現地再生の努力にどれだけ役立ったのかという点から、「一応以上の水準に達した」と評し、「及第点」を与えているが(宇井 1984:96)、果たしてそうか。この点については、本報告書所収の森下論文を参照して欲しい。

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