座談会企画 研究に課された倫理と実践における問い 被調査者/当事者/生活者/活動者との間で揺れる「研究者」なる存在とは何か

【報告者】
(1)永田 貴聖(ながた あつまさ)
(略歴)1974 年生 2008 年3 月、立命館大学大学院博士課程修了(博士・学術)。現在は、立命館大学大学院先端総合学術研究科研究指導助手ほか。専門は人類学(在日フィリピン人のトランスナショナリティ研究)。主要論文に、「フィリピン人は境界線を越える──トランスナショナル実践と国家権力の狭間で」『現代思想』35(7)、青土社(2007 年)など。
(2)有薗 真代(ありぞの まさよ)
(略歴)1977 年生 2010 年3 月、京都大学大学院文学研究科社会学専修修了(博士・文学)。現在、日本学術振興会特別研究員(立命館大学)。専門は社会学・文化人類学(医療・社会運動研究)。主要論文に「物語を生きるということ――『性同一性障害』者の生活史から」(『ソシオロジ』49 巻1 号、2004 年)、「国立ハンセン病療養所における仲間集団の諸実践」(『社会学評論』234 号、2008
【特定応答者】北村 健太郎・堀江 有里
【司会】山本 崇記
【参加者】梁 陽日・高橋 慎一・吉田 幸恵・森下 直紀・村上 潔

第1部

〈山本〉本日は、お忙しい中、お集まり下さりありがとうございます。司会をすることになっています山本です。立命館大学グローバルCOE の院生プロジェクトの一環ということで、梁陽日さんが代表をしているプロジェクトとして実施しています。院生プロジェクトは、去年の6 月から開始して、研究会を主に積み重ねてきたのですが、生存学のセンター報告書を作るということを目標に今年度は進めようと考え、その中で、調査研究する際の方法について各人の問題意識や経験を議論しあうような場があったらいいのではないかと常々考えていました。
 ですので、報告書に向けた座談会でもあることをご了解下さい。生存学は外部からいろいろ人を呼んで大きな企画をすることが好きなようなのですが、座談会ですので比較的身近といったら身近だし、身近じゃないと言えば身近じゃない、つまり、お互い顔や名前は知っていて、研究しているテーマも知っているけれども、深く問題意識を聞き合うような場がなくて、場を設定すればそれが可能な方々に来て頂いた格好になります。それを通じて、少し密な議論がしたいなということです。私の独断的な企画立案という側面も否めないのですが、ぜひ話を聞きたいあるいはコメントしてほしいという4 名の方に本日は来て頂きました。それでは、参加者の自己紹介から始めていきましょう。
〈高橋〉立命館大学グローバルCOE のRA の高橋慎一といいます。セクシュアルマイノリティの社会運動について研究をしています。実際に調査に行くこともあるのですが、調査を受けることもあって、その場合は労働組合の活動をしている「若者」として、また、重度障害者の介助労働者として調査対象者になったりすることもあります。
〈北村〉北村健太郎といいます。よろしくお願いします。私の研究テーマは、血友病の歴史です。戦後日本の血友病者の歴史を調べています。
〈梁〉マイノリティ研究会代表の梁陽日です。専攻は、臨床教育学や福祉臨床です。元々教育相談など支援の現場の人間で、現在もカウンセリングやソーシャルワークの仕事をしています。個人的には、発達障害を中心とした障害を持つ人たちや、あるいは生きづらさを持って社会に漂流している若者、それとニューカマーを含めた在日外国人の人たち、その3 つを柱にした臨床研究をしていきたいと思っています
〈堀江〉堀江有里と申します。花園大学などで非常勤講師をしています。専門は社会学で、レズビアン・スタディーズをやっています。フィールドはキリスト教関係の日本の同性愛者差別に関する研究をしています。博士論文では調査せず、理論的な研究がメインでした。承認論など、レズビアン・アイデンティティに関する研究を続けています。
〈吉田〉吉田幸恵です。先端総合学術研究科の4 回生です。元々は奄美大島のハンセン病療養所においてライフヒストリー調査をやっていました。訳あって中断し、その後独居の精神障害の方について聞き取りなどを行い研究を続けています。
〈森下〉同じく先端総合学術研究科の森下直紀です。研究は調査研究というより、歴史研究で、アメリカ合衆国サンフランシスコの国立公園をめぐる政策史になります。100 年ぐらい前の歴史研究をやっています。
〈村上〉生存学PDの村上潔です。女性の労働、女性の貧困の問題などをやっています。

■本座談会の趣旨

〈山本〉進め方としては、第一部で永田さん、有薗さんに自己紹介を兼ねて話して頂きたいと思います。第二部では、北村さんと堀江さんにコメントをして頂き、そのまま議論に入っていきたいと思います。事前のレジュメと以前ある学会誌に載せた拙稿があるのですが、そこで社会運動研究に関する方法論みたいなことを書きました。「調査者―被調査者論争」といわれる、似田貝香門と中野卓の「論争」ですね。そのタイトルにも反映されているんですけれども、「研究者」というカテゴリーというか立場があるとしたら、その中で主に被差別や被害とか、非常に厳しい状況を強いられている自らの立場との関係から研究をされている方が少なからずいます。そうなると、この「研究者」というものが必ずしも調査者と直結せずに、一つの主題をめぐって被調査者との間にある境界線を何らかのかたちで揺るがしている現実があると思うんです。また、生活者と活動者を切り分ける議論も多いですが、そこも私の研究活動からすれば、相互置換しながらいろいろ揺れて研究活動を実践し、「研究活動」というつくりではない運動や生活を送っている人もいる。特に住民運動の場面ではそのようなことはよくみる光景です。
 そのような問題意識のなかで、大学という特異な教育研究機関に規定されながら、大学に属している人たちの集まりであることを前提にしながら、そこからはみだすような人でもあるということを念頭に、その辺りの境界線の揺らぎに焦点を当ててみたいとも思っています。それぞれがどのようにふるまったり、所作を工夫したり、位置取りをしているのか。湿っぽい「ポジショナリティ」といった議論をしたいのではなくて、平たく言えば調査方法に関する議論になるだろうし、その際に自らの持つ属性やそれに基づく社会関係のなかでの位置取り、特に研究という環境でありツールである文脈のなかでのスタンスをどのようにコントロールしているのか、していないのか。
 「調査倫理」という言葉もチラついてくるのですが、これは現在の学会であったり、研究環境の動向というぐらいにおさえておいて頂き、研究倫理の制度化にどう対処したらいいのかという論点に関しては今回はあまり踏み込むつもりはありません。他の方が踏み込んで頂くのはもちろん構いません。どんな倫理制度がいいのかとか、そんなことよりも違和感を持っているならば、この違和感を研究レベルでどう具体化するのかというところまで議論を前に進めたいという意味合いで話の材料にする程度の位置づけで考えています。
 では、第一部ということで、永田さんの方から、よろしくお願いします。

■永田報告

 「在日フィリピン人研究」から「フィリピン人のトランスナショナリティ研究」へ
 皆さん、こんにちは。2010 年4 月1 日から、先端総合学術研究科の研究指導助手という立場で皆さんと関わっている永田です。さっそく、今日のテーマに入りましょう。今日は、調査する側の日本人のことをお話したいと思います。どうしてこういうテーマにしたかと言いますと、私の調査対象としているのが、日本に80 年代から主に定住しはじめて、今も増え続けているフィリピン人です。日本でのフィリピン人の増加は、多くの女性たちが、「興行」というエンターテイナーのビザで来日したことに始まります。もちろん、この在留資格の「エンターテイナー」のなかには、いろんな幅広い人たちがいました。本当のプロダンサーで、ショーをする人から、シンガー、ホステスをやる人までと、いろんな「エンターテイナー」たちが興行ビザで日本からフィリピンにやってきました。そして、その後、一部の女性たちが日本人と結婚して定住し、増えていったというのが現状です。
 その後、フィリピンからは、別の境遇の人たちが来日し続けています。現在、私は、主に、国際結婚した女性たちよりも、これらの「新しい」フィリピン人たちが日本とフィリピンを往来する中でできる社会関係を調査しています。この企画で山本さんといろいろ話をしているときに何を問題提起しようかとずっと悩んでいました。とりあえず、ここで、いきなり問題提起します。今日は、当事者と研究者にとって「当事者研究」とは何かというようなことを考えたいと思います。しばしば、議論される調査者、被調査者の位置という問題があります。私は、ここ6、7 年間ぐらい調査をしていて、考えていることがあります。それは、過度に当事者であること、研究者であることにこだわり過ぎると単なるアイデンティティの表明、言いっぱなしで終わってしまうのではないかという危惧です。当然、立場が違うということは大きな問題です。しかし、仮に当事者であった人がその当事者の研究をする、といっても立場はやはり違います。個人の立場はかなり多様なので、一概にこうだとは言えないのです。私は人類学者なのですが、問題は各調査者がインフォーマント、つまり、被調査者と関わることによって、どのような社会関係が構築されるのかを考える必要があります。
 学者も人間です。当然、人間的な関わりがあります。どのような関わり持った後に、どのような社会関係が構築されるのかを考える必要があると感じています。特に、私は、いわゆる社会関係を調査する人類学者なので、いったいどこからどこまでが「フィールドワーク」なのかを検討する作業をすべきだと思っています。実際に私と調査対象の人たちとの関わりを考えると、「フィールドワーク」がどこから始まって、どこまでということについてなかなか線を引けません。特に、そこでできた人間関係は、もしかしたら、死ぬまで続くわけです。人間関係があるというのはそういうことなのかと思います。最初、自分が興味本位で、あるカッコつきの対象と関わります。いつの間にかフィリピン人の人たちが社会関係を作っていて、その社会関係のなかに、巻き込まれていきます。学者としてこの過程を、つまり、調査全貌を振り返ってみたいと思っています。

[ph(永田氏)]

 まず、人類学者としての私自身の研究を簡単に説明していきたいと思います。さっきも説明しましたように、80 年代から現在、将来にかけてフィリピン人が多様な理由で来日します。80 年代、エンターティナービザでやってくるフィリピン人女性が急増して以来、2005 年にエンターティナービザの発給要件がすごく厳しくなります。その後、フィリピン人全体の来日数は少なくなります。ですが、より定住性が高いビザを持ったフィリピン人たちが来ているという現実があり、現在は、そのことを調べています。
 フィリピン人が定住する特徴は、集住地域を持たないことです。例えば、在日ブラジル人は派遣会社を通して、来日して、住居も全部用意されているので、結果的に集住地域的なものを形成しています。中国人の場合も集住します。ところが、フィリピン人の場合は日本人との結婚や、親の再婚など、日本人と家族関係を結んで来日します。なので、フィリピン人単独でやってきて、家の中でも日本人に囲まれながら生活するという傾向があります。集住することなく、フィリピン人同士の社会関係をネットワーク的に広げていくのです。その場合、フィリピン人は、時にパトロン的に日本人というのを在日フィリピン人の社会関係に介在させていくのです。そのことも含めて、在日フィリピン人が形成している社会関係の時代ごとの変化を主に調べています。
 次に、今、私が一番注目している「新しい」フィリピン人たちの来日と定住について簡単に説明します。「新しい」フィリピン人たちの状況は、在日ブラジル人や、ペルー人、中国人と状況が似ているかもしれません。90 年に入管法が改定され、日系人3 世であるとか、日系人3 世の配偶者であるとか、日本人と再婚した外国人、つまり、連れ子であるなど、「日本人の配偶者等」、「定住者」ビザが取得できるようになりました。これらのビザでは定住も、就労もかなり融通が利きます。現在、フィリピン人のなかにも、日本人と再婚した人であるとか、その子どもが来日しています。もしくは、親が日本人とフィリピン人の国際結婚で、日本国籍を維持しながらフィリピンで育っている。たいていの場合、母親側なのですが、または、国籍とまではいかなくても、父親との法的な親子関係が明確で、ビザが取れたりする子どもたち、その後、こういう二世たちが日本のパスポートを再取得する場合や、ビザ取得して、来日しつつあるのです。こういう「新しい」フィリピン人、年間、おそらく4,000 人から5,000 人ずつぐらい来日しています。これらの人たちの場合、エンターテイナーのビザで来た人たちよりも、より定住性が高いです。こういう人たちのことは意識的に調べはじめたのではないです。偶然、知り合いになって、調べるようになりました。以前は、主にフィリピン人既婚女性のことを調べていました。「新しい」フィリピン人と、いろんな関わりを持っていくうちに、彼らが行っている日比間のトランスナショナルな移動を調べることになったというのが現状です。
 フィリピン人への調査を始めた経緯を簡単に説明しておきます。元々、私、ある外国人支援組織でボランティアをしており、たまたま、そのときに子どもプログラムという日本で生まれ育った外国人2 世の子どもたちが集まる場所であるとか、あと、家庭教師のボランティアをするプログラムに参加したのです。私は、それの家庭教師ボランティア派遣1号だったのです。それで行った家が、お母さんがフィリピン人の母子家庭だったのです。これがおそらく2 度目か、3 度目のフィリピン人との出会いです。最初の出会いは、小学校のとき、少年野球をしていて、その時に私が住んでいる寝屋川市の選抜チームがフィリピン人のチームと対戦しました。フィリピンは野球がそんなにメジャーなスポーツではないのでいま考えるとなんだか不思議です。このチームにコンセプション君というすごく素晴らしい4 番で、エースの良い選手がいたのです。しかも、なんと、うちのチームの監督の家にその子がホームステイすることになり、2 日間ぐらい私のチームと一緒に行動したのです。なので、今、コンセプション君はどうしているのかと、時々、考えますね。
 外国人支援組織でのフィリピン人との再会、ここから紆余曲折して、大学院に行くことになり、日本に住んでいるフィリピン人の人たちの社会関係を調べていきたいということを思い出しました。その時、ちょうど京都市内にあるフィリピン人コミュニティ、当時は西院カトリック教会でミサをやっていたのです。今は河原町三条です。そこにちょこちょこ行くようになりました。フィリピン人コミュニティというのはカトリック教会の小教区的な位置づけみたいです。ただ、地域を持たない。PAG-ASA という名前なのですが、ちなみにこれは、英語でHOPE という意味です。ここには、パストラルソーシャルワーカーとして、フィリピン人のシスターが常駐しています。PAG-ASA に行き始めた頃、当時の担当シスターだった人にわりと気に入られて、行きやすくなったというのがあります。そこから、行ったり、行かなかったりという感じです。当時、タガログ語が全くできませんでした。これはまずいと思ったわけです。例えば、いろいろ小話が聞きたいわけです。なんとか留学でもできないかと思っていたら、立命館にはフィリピン大学との交換留学制度があり、留学することになりました。留学して帰ってきた後に、「新しい」フィリピン人に出会いました。フィリピン人の調査を始めた頃は、自分のことを「在日フィリピン人研究」と説明していたのですが、今では「フィリピン人のトランスナショナリティ研究」と紹介しています。
 そして、今、気にしている存在があります。さきほども当事者のことを話していましたが、なかなか一概に同じ境遇の当事者とは言えない存在も増えています。例えば、京都のフィリピン人留学生などは、フィリピン人コミュニティに参加しています。こういう存在にはいま非常に注目しています。

■「新しい」フィリピン人に関する調査と研究者の位置
 次にいきたいと思います。フィリピン人は日本で生活していくために外国人支援団体、NPO と関わっています。もちろん、彼らはフィリピン人コミュニティとも関わるわけなのですが、日本人よりも言語や、制度へのアプローチや、差別とかもあって、いろいろ制約があるわけです。彼らは、それを回避するということを考えます。いろんな関係を使って、生きているという感じです。その関係は日本人も、フィリピン人もいるのですが、そこに、調査をしたい私のような存在が入ってきたという状況です。在日フィリピン人というのは、生きるために関係を操作せざるをえない。調査する私はその関係を描こうとしているということです。ですので、フィリピン人と私には立場上の大きな違いがあります。私は大して困っていないということです。それが断裂ですね。
 山本さんの論文(「社会運動研究の方法論的課題に関する一考察――「調査者―被調査者論争」が提起したもの」『現代社会学理論研究』第3 号、2009 年)では、似田貝香門先生が中野卓先生と「論争」したことに触れられていますね。似田貝先生が、調査する側とされる側は、権力性だけに集約されない関係があるという議論ですね。単なる、調査者・被調査者という議論に乗っかると、結局、権力関係に集約されてしまう。私はそれだけではちょっとまずいのではないかというスタンスです。
 最初、既婚女性の調査をしていると、だいたい皆さん、年齢が私よりも10歳以上年長なのです。ところが、「新しい」フィリピン人たちになると、私と同じ年齢ぐらいから、若いのです。ですので、関係を作るときには、まあ、向こうは調査する人間といっても、人間関係なので、私のことを単に「調査者」というふうにはみないですよね。
 私は今、35 歳なので、既婚女性たちは、45 歳前後ぐらいの方が多いです。知り合った頃は、今よりも7、8 年前なので、子どもさんが小学生ぐらいでしたね。今、大学受験で立命館とか同志社に行かせたいとかも良く聞きますよ。女性たちは年齢的に上なので、どちらかというと私がよくしてもらっているというところです。
 そんななかで、何年か前、しばらくPAG-ASA コミュニティにいっていなくて、シスターから久しぶりに、メンバー向けのワークショップをするから来なさいという連絡が入りました。その時、参加者はだいたい、国際結婚している女性たちだったのですが、偶然に自分と同年代の男性がいたのです。
 私よりちょっと下。今は、32 か、33 かな。後になって知ったのですけど、彼は母親が日本人と再婚していて、10 代のころから日比を往来していたのです。来日して、母親に紹介されたレストランでバイトして、大学進学するためにフィリピンに戻ったのだけど、目標が見出せなくて、中退したらしいのです。フィリピンは、大学を卒業しても、職がなくて、結局のところ、日本で働いている方が、人生設計を立てやすい場合もあります。彼の場合は、大学時代に知り合った女性(フィリピン人)と結婚しました。配偶者の方も、日本でビザが取れるので、来日して、一緒に住んでいる時期もあります。ただ、子どもが二人いるのですが、フィリピンの親戚に預けていて、離れ離れの状況になっています。彼が言っていたのですが、教育のことを考えると日本に連れてくることができないと。本人は日本で働いて、フィリピンの私立学校に行かせていますね。彼のような人、けっこう多いですね。こどもはフィリピンに置いている場合ですね。ご当人は、日本のビザを持っていたりしたら、どちらかを基盤にするというよりも、往来することをベースにするのです。 
 別の例も紹介します。私がフィリピン大学に留学して帰ってき後、逆にホームシック的な感じになりました。それで、祇園のフィリピン料理レストランによく行っていたのです。そうしたら、そこのウェイターさんが、わざわざ、「こいつ、フィリピン大学に留学していた」というようにフィリピン人のお客さんに私を紹介してくれるのです。そのときに、どこかのラウンジのホステスさん(フィリピン人)が、日本国籍のフィリピン人がいるから紹介するよと言われたのです。私、その時、ラウンジに行けるようなお金がなかったので、躊躇したのですが、今日はタダでいいからということで行きました。
 その時、日本国籍をもった当時20 代後半、私より1 つか2 つ下のフィリピン人女性がいました。彼女が日本国籍を持っている事情を聞くと、父親が日本人で、母親がフィリピン人で、3 歳まで日本に住んでいたのだけど、母親と父親の両親の関係がうまくいかず、離別して、母親に連れられて、フィリピンに行ったらしいのです。その間、ずっと日本国籍を維持していた模様です。彼女が説明するには、これは後で知ったらしいのですが、フィリピンでオーバーステイ状態だったそうです。フィリピンでは、市民権とか、在留資格とかを持っていなくても、例えば、洗礼証明とかあったりしたら小学校に入れる。何にも問題なく入れてしまう。だから、経済的に苦しい家族などはなかなか出生証明を提出しない。婚姻届もそうですが、届け出をするだけで、わりと費用がかかります。例えば、パスポートを取るときに、そういう届け出がないことに気づくケースも結構多いです。ともかく、この方の場合は少々理由があり、日本で働きたかったらしく、日本人男性と結婚しているおばさんを通して、父親と連絡を取ったらしいのです。
 とにかく、この二人の「新しい」フィリピン人と出会ったのが非常に大きかったです。今まで、80 年代にエンターテイナーとして来日してきたフィリピン人たちは、いわゆる典型的な在日フィリピン人というふうに研究の世界でも考えられてきました。しかし、実はこの2 人のような例がそんなに少なくない数に上るということが統計などをみるとなんとなくわかってきたのです。そこで、この2 人の例は先駆的な事例になるのではと思いました。2 人と出会った後、最初の人の子どもの出生手当を取るための書類作成を手伝ったりもしました。手伝っているときはあまり気づかなかったのですが、こういうことを手伝うと言うのは、日本人である私が彼らの生きることを手伝っている部分があるわけです。日本の在留資格、国籍、またフィリピンの市民権の両方を持っている人たちの中には、日本とフィリピンと両方関わりながら両方の制度をうまく利用して生きている存在もいるのだと感心しました。これがトランスナショナルだと実感しました。そして、私自身が、彼らのトランスナショナリティを支える社会関係の一部になっているということに気付いたのです。もちろん、これはかなり楽観的な解釈ですが。
 また、もうひとつ付け加えると、2 人がわりとそうだったのですが、ずっとフィリピン人コミュニティに関わりたいわけではない。だけど情報は欲しいというときに、私みたいなのがいたら「便利」なのです。これは世界的な外国人の傾向だと思うのです。日本人でも、他の国籍の人でもそうだと思います。海外での、同じ国同士の人間関係というのは狭いので、噂話みたいなのが嫌で、自分の国の人間を避ける人もいます。後の女性がわりとそうでした。だけど、コミュニティの情報は欲しいのですね。だから、もしかしたら、私みたいな日本人は、彼らにとって都合が良かったかもしれませんね。私としては、こういうつなぎ的な役割も必要かと思っています。

■消えない断裂
 ただし、やはり、どうしても調査する側、される側の間にはどうしても断裂があります。例えば、私の場合は、お金もらって研究している身分で、そんなに悪くない身分なのです。でも、例えば、はじめに話した男性なんて、在留資格を更新したとか、また、不安定雇用の状態におかれているわけです。なので、同じでもないのですね。特に、そう思うのが、後の女性の場合です。この人、実はかなり高学歴で、フィリピンでは国立大学の3 年生まで修了していて、英語がものすごくうまいのです。おそらくTOEFL とかならかなり高得点が取れると思います。フィリピンはほぼ全部の授業が英語なので相当できるはずです。日本では、そういう人たちが、不安定な仕事についているわけです。これは、ある種の矛盾ですね。
 また、こういう調査者が被調査者の人間関係に入っていくと当然影響されることもあります。これは、当事者性に関係するかどうか分かりません。こういう人たちと出会うことによって、私の場合、特にそうだったのですが、人類学者である私が、自身の生き方に気づくというようなこともあります。私、在日コリアンの3 世と言ってよいのか、うちの場合、両親が私の生まれる前に帰化をしています。ですので、在留資格のことなどはある程度、若い時から知っているわけです。システム的な事はある程度わかります。また、人間関係の話をしますと、私の家族の場合、集住地域を離れて住んでいました。日本人との関係の方がメインなのですよね。ですから、「外国人」というのを範疇にしても、当事者性というのはおそらくないのですね。ただ、最近は言うようにしています。2007 年ぐらいまでの論文ではほとんど言及していませんでした。その場合も「在日コリアンの孫」という表現を使っています。別に、在日コリアンの孫ということは隠していたわけではないのです。あまり公表する必然性がなかったのです。但し、ある時期から、こういうルーツが人類学的に考えていても、テーマ設定、方法論などに影響している部分があると考えて、公表するという発想になりました。つまり、問題の設定というのは調査以前からの人類学者の生活やルーツに関連していて、影響しているということです。これは、自分のアイデンティティの強調ではなく、あくまでも調査方法論的に考えてということでした。
こだわり過ぎると単なるアイデンティティのぶつけ合いに終わってしまうのではないかと思うのです。重要な事は、調査した後できた人間関係をどのようにみるかだと考えます。中野・似田貝論争というのは、最初、中野卓が勝ったというふうなことを言われていた。しかし、そういうレベルの話ではないですね。調査者には当然、権力性もある。だが、それ以外の調査する側とされる側の人間関係も当然ある。重要なのは、継続してこの様な議論を続けるということだと思います。人類学の場合、「『ライティング・カルチャー』ショック」以降、人類学者の権力性の議論に固執するあまり、民族誌が書けなくなったわけです。しかし、逆に、中野・似田貝論争のようなことを継続させるために、どんどん書いていった方がいいと思います。
 また、当事者性の話からすると、日本には、ミドルクラス出身のフィリピン人の留学生というのが増えてきています。90 年代前半は、超大金持ち、いわゆるフィリピンの上から1割ぐらいの人たちが来日していました。ところが、いまはそういう超富裕層だけではなく、例えば、親や、上の兄弟姉妹が海外移住労働者である家族のようなミドルクラスの人たち、貧困層が下位に7割ぐらいおり、上の方に1割ぐらいの超大金持ちがいます。その間の2 割ぐらいがフィリピン人のミドルクラスなのです。フィリピン人留学生は、以前は理系が圧倒的に多かったのですが、今は社会学などを専攻していて、フィリピン人コミュニティなどにも来るわけです。彼らは自分の国に居るときは、もしかしたら、日本人と結婚したフィリピン人女性と会う機会はほとんどないかもしれない。そんな人たちが日本では同じ空間で時間を共有するのです。
 また、フィリピンのことを研究している日本人も、在日フィリピン人と何らかの関わりを持ちます。去年のPAG-ASA コミュニティのクリスマスパーティーは、ある日本人研究者がタガログ語で司会をして、彼、フィリピン人留学生、私で歌も披露しました。もしかしたら、同じフィリピン人、異なる日本人、出身の階層などは違うのだけれど、一緒に同じ雰囲気でやっていくことが、どのような変化を生じさせるのかということについて考える必要があるでしょう。このような混在状態が今後どうなるのかということが、今、私の注目点です。フィリピン人の留学生がフィリピン人女性のことを調べるのがはたして当事者研究なのか。むしろ、当事者性の有無ではなく、調査の段階で形成される調査する側とされる側の関係が何を作り出すのかに注目すべきであると感じます。というふうなところで、私の方からの報告は終わりたいと思います。ありがとうございました。
〈山本〉永田さん、ありがとうございました。特に、(1)社会関係のなかで役割を果たす/果たさざるを得ないことを肯定し、(2)その関係性も含めて記述する必要があるのではないか、という点について、興味深く思いました。永田さんによって提起された各論点については、討議のなかで深めていくことにしましょう。それでは続いて有薗さん、お願い致します。

■有薗報告

 調査をめぐる今日的課題

 有薗です。レジュメはお手元に2 種類、問題意識を簡単に箇条書きしたものと、それを論文というかたちで文章化したものと、お配りしています。後者の文章化されたほうのレジュメは、『〈体験型〉社会学のすすめ』(三浦耕吉郎編、ナカニシヤ出版、2010 年)という本のなかに書かせていただいた、「痛みと怒りをつうじて『問い』をつかむ」という拙文をコピーしたものです。今日の座談会のテーマと関係がありそうなので、持って来ました。すべてをお話しすると時間がかかってしまいますので、本座談会のテーマに沿った論点をピックアップしながら、要点だけ説明しつつ進めさせていただきます。この報告の時間内に言及できないこと、たとえば方法や視点、事例の詳細な説明などについては、拙文のコピーのほうを補足的に参照していただければと思います。
 いまの永田さんのお話と関係がありそうなところから入っていきますと、「調査」という研究者側の実践を批判的に捉え直すものとして、たとえば人類学には「『ライティングカルチャー』ショック」と呼ばれる一連の議論がありました。この「『ライティングカルチャー』ショック」を経て、あるいはその渦中で、「ポジショナリティ」という言葉が盛んに用いられるようになります。自らの立場性を問う、ということです。さらにそこでは、「調査」や「書く」という営みそのものに対して懐疑の眼差しが向けられ、こうした研究者側の実践のうちに孕まれている権力性や暴力性などが、執拗に問い直されてきました。

[ph(有薗氏)]

 このこと自体、つまり、自己の暴力性に自覚的であろうとすること自体は、他者と関わりつつ調査をするうえでは確かに、重要なことです。
しかし、こうした自己反省が行き過ぎてしまうと、「調査」や「書く」ことに対して、なんだかニヒリスティックになってしまったり、悲観的になってしまったり、現場で身構えすぎて大切なことを見落としてしまう⋯⋯といったことが生じてきます。慎重になりすぎるあまりに、身動きがとれなくなってしまう危険性もあると思います。
 それで、今回の座談会は、先に述べたような状況、つまり、「調査する」「書く」という自らの営みそのものに対して、絶えざる自己反省が課されるような時代状況のなかで、あまり自虐的にならずに(笑)、かつ、なるべく他者に不利益を与えないように、調査をし書き続けることはいかに可能か、ということについて話合う場であろうと、私なりに解釈いたしました。
 本題に入らせていただきます。レジュメの1 番は、「調査」という営みをめぐる今日的な問題の布置というのを、本座談会のテーマと関連づけて図式的に整理したものです。簡単に説明しておきますと、まず、研究者/非研究者、調査者/被調査者、書く/書かれる⋯…といった、スラッシュで区切られた二者の関係性をめぐる力学というのが、今日の調査研究において問題とされている。そのなかで、両者のあいだにある権力関係とか非対称性とか、あるいはオリエンタリズムなどが、批判的検討の対象とされてきました。
 次に、研究者/ 非研究者、調査者/ 被調査者、といった線引きを超えてしまう現実と言いますか、理念や理想としてではなく現実として、双方の立場を横断しているということがあります。この研究会のメンバーのなかにも、そういう方が多くいらっしゃると思います。たとえば、研究者でありつつ活動家でもあるとか、当事者でありつつ研究者であるとか、そういうことです。この状況をどのように捉えるか。この2 点が、調査をめぐる今日的な問題の要点であり、今日の座談会のテーマでもある、ということだと思います。
 レジュメの2 番にいきます。この問題をめぐっては、立場は大きく二つの方向に別れているように思います。ひとつは、研究者/非研究者、調査者/被調査者、書く側/書かれる側⋯…こうしたスラッシュによって区切られる前者と後者を、別個のものとして分断して考えるべきだ、とする立場があります。言い換えれば、社会調査の場面において、厳密な「科学性」や「客観性」を重視し、主観や共感といった情動的なことがらを極力排除しようとする立場とも言えます。
 もうひとつは、これとは逆に、実感や共感といった情動的な要素を、他者理解のための重要なツールとして位置づける立場があります。人類学では松田素二先生や、社会学では好井裕明先生などが、「実感の復権」という言葉でこの立場を表明されていたと思います。これは、調査者と被調査者を分断しない立場と言えます。調査者と被調査者との関係は、必ずしも交通不可能なものではなく、共感したり反感を持ったり、そうした人間臭いところも含めて双方がもつれあいながら進めていく調査もあって良いのではないか、という立場です。私自身もどちらかというと、こちらの側に立っています。
 レジュメの3 番です。それでは、調査者と被調査者の境界が曖昧化したり、分断不可能な状況があるとして、それに対して研究者はどのような構えを取ることができるのか、という問題が次に生じてきます。
 例えば、調査という営みは被調査者の世界に何らかの影響を及ぼしてしまうことになりますが、それに対してどう責任を取るのか、というかたちの問いの立て方があります。これについては、事前に「調査倫理」という形で明文化しておいたり、あるいは調査の成果を現地にフィードバックしようとする試みなどがなされています。さらに、「書く」ということで言えば、研究者側の営みや立場性などを観察対象とすること、例えば「調査する私」について記述する、といったこともなされています。調査に関する自己言及的な記述といいますか、自己反省のプロセスを描く、と言いますか。こういったことも、わりに多くなされています。
 「本報告の目的」に移ります。以上の整理をふまえて、私自身の考えを述べさせていただきます。まず、これまでなされてきたようなかたちで調査をめぐる力学を意識化するのは、確かに大事なことです。しかし、そのとき、研究者側の実践や内省を問い続ける方向ではなくむしろ、こうした力学をめぐる問題意識を調査の方法論へと深化させることこそ、必要ではないかと思います。自己批判を方法論へと結びつけることによって、再び「他者」へと開いていこうとすることが必要だと思います。
 もう少し詳しく説明します。調査に際して、自らの内なる暴力性を意識化することや、それを反省的に捉えなおすことなどは、もちろん大事なことです。しかし、ライティングカルチャー・ショック以降、調査をめぐる力学が語られるときは、調査を自己言及的に記述するという方向に議論が偏りすぎているような気がします。「調査する自己」にばかり関心が向きすぎているように感じるのです。
 調査というのは、基本的には、「他者」を理解するために行うものです。ここでは、当事者による研究はさしあたり別にしておきます。他者を理解することを目的とする調査が、「自己」理解へと結びつくのは、あくまで副産物のようなものだと思います。自分についてではなく、相手について書く。調査というのは、本来的には、「他者」理解のためにある。この基本に立ち返ってみたとき、やはり、自己反省を他者理解へと再度引き戻すことが必要ではないかと思うのです。
 「本報告の目的」として書いてある、「力学をめぐる問題意識を、調査の方法論へと深化させる」とは、このようなことを念頭に置いています。方法論へと深化させることによって、「他者」へと開いていくことができるのではないか、ということです。

「自己」と「他者」を重ねてみる

 以上のような問題意識があります。そのうえで次に、それを現実化させるために、どのような方法論が可能なのか、ということを考えなくてはなりません。私はここで、調査者-被調査者という非対称性や、「調査」「書く」という実践に孕まれる暴力性や加害者性を念頭においたうえで、あえて、両者、つまり「自己」と「他者」を、重ね合わせて考えてみるということを提起したいと思います。調査者と被調査者、「私(たち)」の世界と「彼ら」の世界を分断せずに、両者の世界を実験的なかたちで重ねて考えてみる。そのことによって、いままで見えなかった意味が見えてきたり、知られていなかった事実が浮かび上がってくるといったことが、あるのではないでしょうか。
 さらに言うと、これまで問題化されてきた調査をめぐる権力性や加害者性といったものの本質も、じつは、「自己」と「他者」を分断するのではなく重ね合わせて考えることによって、はじめて明瞭に見えてくるものではないかと考えています。自他の距離が縮まることによって、葛藤・対立が生じることは当然ながらあります。しかし、そのプロセスを経ずして、「他者」をより深く理解したり、「自己」の加害者性を知るということは、難しいのではないでしょうか。
 なぜそのようなことを考えるのか。なぜ、「自己」の世界と「他者」の世界を分断せずに、重ね合わせて考えようとするのか。この点について、私自身の研究テーマであるハンセン病にそくして、以下で説明します。
 ひとつは、ハンセン病のことを「特殊」な事例として閉じてしまいたくない、という気持ちが前提としてあります。こうした「特殊」な病を持つ人たちは、しばしば、マジョリティの側にいる健常者から「自分たちとは全く関係がない人」と位置づけられてしまいがちです。一番解りやすいのが、ハンセン病に関する講義をしたときの学生の反応です。素直な学生さんは「あまりにも自分とかけ離れた世界なので、わからない」「自分とは関係ない」とストレートな反応を示してくれます。学生さんだけでなく、多くの健常者にとって、ハンセン病者というのは遠い存在、自分とは無縁な存在、という感じだと思います。特殊な病であり、かつ隔離もされていましたから、「自分とは関係ない」というかたちで距離化され他者化されてしまいやすいんです。しかし、こうした無関心こそが、悲惨な隔離政策を放置し長期化させることになる遠因となってしまったことは言うまでもありません。
 「『研究者』なる存在とは何か」という本座談会のテーマに引きよせるならば、次のようにも言うことができます。研究者になしうるかもしれないひとつのこととして、学生などのいわゆる「普通」の人達と、彼らが「自分とは関係ない」と思っている人達、たとえばハンセン病者を、つなぐ、あるいは媒介するということがあると思います。被調査者と、それについて書かれた文章を読む人達の世界とを、媒介する役目を担うことはできるのではないかと思います。
 もうひとつの理由は次のようなものです。自己と他者、ここでは「私たち」と「ハンセン病者」ということになりますが、なぜ両者の存在様式を重ね合わせて把握しようとするのか、という話の続きですね。なぜそうするのかといいますと、もうひとつの理由は、すこし理論的な話になります。
 管理・監視システムが高度に発達した現代社会を、刑務所や強制収容所などの比喩によって把握しようとする理論があります。これについては、フーコーやアガンベンを思い浮かべていただくと解りやすいと思います。現代社会における人間のあらゆる行為は、権力のさまざまな機構や打算のうちに、つねに/すでに含みこまれてしまっており、そこにおいては、いっけん「主体的」にみえる行為ですら、支配体制のなかに組み込まれてしまう、あるいは、あらかじめ組み込まれている、というよく知られた議論があります。あるいはバウマンのように、現代社会で「不要」のレッテルを張られた人間と、強制収容所の人間とを類似のものとして把握する議論もあります。
 現代社会全体が「収容所的なもの」に変容しつつある、ということですね。そうであるならば、現代社会に生きる私たちの生は、潜在的には多くの部分が、かつての強制収容所の人々の存在様式と重なることになります。
 このことは、特に、現代社会のなかで底辺労働を強いられている人や、マイノリティとされている人々にあてはまるように思います。たとえば、低賃金・重労働を強いられている底辺労働者は、時間も体力も労働によって消耗しつくされてしまい、アガンベンの言うところの「生の形式」、ライフスタイルと言い換えても良いかもしれませんが、そうしたものを構築するエネルギーを失っていきます。こうした生のありかたは、強制収容所の被収容者とかなり似たものです。
 例えばいまお話したような底辺労働者と、ハンセン病者の生を、つなげて考えてみる。あるいは、DV やセクハラを受け続けてきた女性と、ハンセン病者の生を、つなげて考える。
 拙稿をそのままコピーしてあるほうのレジュメを、ご覧下さい。この文章は、今まで述べてきたようなこと、つまり、自他の世界を重ね合わせることを実験的に行うこと、それによって何が見えてくるのか、ということについて書いています。「底辺労働者」「DV・セクハラ被害者」「ハンセン病者」という一見関係のない3つの事例が並列的に挙がっているのは、そういう理由からです。私たち(調査者側)と彼ら(被調査者側)の世界を重ね合わせるという、いままでの話と関連づけていえば、「底辺労働者」「DV・セクハラ被害者」というのが「私(たち)」の世界で、「ハンセン病者」が「彼ら」の世界ということになります。
 自分を「底辺労働者」と位置づけているのは、私自身がつい最近まで、その日暮らしの最底辺の生活をしていたからです。去年からようやく、研究や教育に関係する仕事で収入を得ることができるようになりましたが、それまでの10 年以上のあいだ、私はフリーターの人達と同じ働き方をして生計を立ててきました。製造業・接客業・飲食業⋯…など、ありとあらゆる職種を転々としてきました。私は病気がちで体力もありませんので、毎日のアルバイトをこなすだけで精一杯でした。研究に回すことのできる時間もお金も体力も、ほとんどありませんでした。そのような絶望的な生活が長かったので、現代社会に生きる底辺労働者の生と、強制収容所の被収容者の生が似ているというのを、実感として感じてきました。
 話を戻します。お配りした拙文では、「底辺労働者」であり「DV・セクハラ被害者」である「私(たち)」と、「ハンセン病者」である「彼ら」の世界を、重ね合わせて把握することで、何がみえてくるのか、ということについて論じています。時間がありませんので、いまこの場ですべてをお話することはできませんが、関心を持ってくださる方がいれば読んで頂けると嬉しいです。

 大学という場について

 時間があまり無いので、第二部で山本さんが問題提起をされる議論とも関連するかもしれない、「大学」についての箇所だけすこし触れておきます。私自身はこのテーマに関してあまり詳しくはないので、この論文のなかでも少し言及しているだけですが、座談会2 部の議論ともしかしたら繋がってくるかも知れないので、ここで触れておきます。
 話をわかりやすくするために最初に申し上げておきますと、私自身は、大学や研究者の業界といったものに対して、すこし違和感があり、愛着も持てずにいます。それはおそらく、セクハラやパワハラ、誹謗中傷などを、さんざん受け続けてきたことが原因になっていると思います。お配りした拙文の前半部では、大学におけるハラスメントの諸様相について、私と友人達の実体験を具体例として記述しています。これは、次の世代の人達のあいだで、ハラスメントや社会的排除がこれ以上ひどいかたちで再生産されないことを願って、あえて書きました。
 もちろん、悪い人ばかりではないということは知っています。私には、幸いなことに、尊敬できる仲間や先生もいます。しかしそれでも、ハラスメントや陰湿な嫌がらせといった、研究者世界のダークサイドを何度も見せつけられ痛めつけられてきた身としては、どうしても、大学や研究者の世界に対して、冷めた構えを持ってしまいます。
 しかしその一方で、まっとうな人達が研究を続けていくことのできる仕組みや雰囲気というのが、大学とか、あるいはそれ以外でも良いのですが、あれば良いなとは思っています。面白い人に限って大学の世界を離れてしまうのは、本当に寂しいです。
 大学院をめぐる状況が厳しくなっていくなかで、常勤職どころか非常勤職ですら、ゼロサムゲームに近い奪い合いになっています。また、能力や業績を唯一のモノサシとして人を計る、という業績主義や能力主義の内面化もさらに進行しつつあるように感じます。そうなると、最悪の場合、院生どうしが互いを貶め蹴落としあうようになってしまいます。誹謗中傷というかたちで情報操作を行うことによって特定の人を排除しようとしたり、立場の弱い人を踏みつけにすることによって自分を引き立てようとしたり、このようなことは実際すでに頻繁に起きています。他者を攻撃することによって、自分を守ろうとするんですね。こうして、要領の良い人だけが生き残ることができるという状況になりつつあるように感じます。
 ただこれは、もしかすると、私自身が九州大学から京都大学へと移動したために、状況が変化したように感じているだけなのかも知れません。地域差とか、大学による違いというのもあるのでしょうか。九大はみんなのんびりしていましたので、同じ仲間である院生を誹謗中傷によって貶めたり、非常勤職を奪おうとしたり、なんてことはありませんでした。京大はちょっと⋯⋯詳しくは言えませんが(笑)、違いましたね。
 私が九大にいた頃、大学院には面白い人がたくさんいました。人間的にも、もちろん研究も、志が高くてかつ有能な人が多くいました。しかし彼・彼女らの多くは、お金が無くて学生を続けられなくなったり、あるいは、この業界の仕組みに耐えられなくなったりして、研究の世界から離れてしまいました。「私は(俺は)もう無理だけど、有薗は頑張って」と言い残して、彼らは去ってしまいました。私は、こうして友人達が去っていくのを、本当に寂しい思いで見てきました。私なんかよりも、研究の世界に残るべき人達はたくさんいたのです。こうした経験があるので、まっとうな人達が研究を続けていくことのできるような仕組みとか、そのためにはどうしたら良いのかとか、そういうことを考えることがよくあります。

自/他の世界を接続するという方法へ

 話がすこしそれました。調査をめぐる力学とハンセン病、というテーマに戻します。先ほど述べましたように、私自身が長いこと底辺労働者であり、なおかつ大学の世界ではハラスメントを受け続けていたり、というシビアな状況にいましたので、療養所にフィールドワークに行ったとき、どうしても、自分の世界と彼らの世界が、重なって見えてくることがあったんですね。痛めつけられかたとか、逃げ場の無さとか。
 もちろん、「ハンセン病者」である彼らのほうが、圧倒的に厳しい現実を生きてきたのは確かです。私(たち)の痛みと彼らの痛みは、その質と程度において、比べ物にならないものであることも解っています。それでも、「ハンセン病者」である彼らの話を、全くの他人ごととして受け取ることができなかったんです。
 当時の私は、自分の置かれた状況をすこしでも前向きに切り抜けていくこと、つぶされないように生き続けていくこと、そのためにはどうしたら良いか、ということを考え続けざるを得なかったので、フィールドに行っても、「彼らはこんな悲惨な状況のなかを、どうやって切り抜けてきたんだろう、何を支えとして生き続けてこれたのだろう」ということがどうしても気になりました。このようなかたちで、自分の世界と彼らの世界を、自然と重ねてみていたんですね。
 「逃げ場のない状況のなかで、人はいかにして生き抜く力を養うことができるのか」という「問い」が、私のなかに根付いていました。このようなかたちで自分のなかに根付いている問いは、ときに、自分とはかけ離れた世界に住む他者を理解するための回路となることがあります。これまで問われていなかったことを問うこと、つまり、視点を変えてものごとを見ることによって、それまで気がつくことのなかった、現実の隠された側面が浮かび上がることがあります。私の場合それは、人々の心の支えとなっている記憶を辿るための手がかりとなりました。
 入所者達はかつて、絶望と孤独の日々のなかで、療養所生活を少しでもましなものにするために、様々な試みを行っていました。たとえば文学サークルを組織してミニコミ誌を発行したり、バンドを結成して音楽活動を展開したり、いろいろな形式の試みがそこにはありました。
 そのなかで特に私が関心を持ったのは、療養所に独特の生活実践でした。かれらは療養所内で数々のユニークな商売を発案し、それを実行に移していたのです。こうした「仕事」の場は、入所者による自主管理のもとで営まれ、施設側からの監視の目をくぐりぬけ長期に渡って維持されていました。その内容は、酒造からビニールハウス製作まで多岐に渡るものでした。それらの活動の具体的な内容については『過去を忘れない』(桜井厚編、2008、せりか書房)に書かせていただいたので、そちらを参照していただければ幸いです。
 日本の国立ハンセン病療養所に収容させられ、隔離下におかれた入所者が、「患者作業」と呼ばれる強制的な労働に従事させられていたことは、比較的よく知られています。しかし、こうした形態の労働とは別に、いまお話ししたたような、入所者たち自身によって運営・自主管理されてきたもうひとつの仕事の場が療養所内に存在していたことは、当事者以外には殆ど知られていません。逃げることの許されない状況のなか、絶望的な現実に対峙する実践は、患者運動を組織して闘うことだけではなく、日常的なつきあいという社会関係の編目のなかから、こうしたユニークな場をつくる営みとしても立ち現れていたのです。
 この仕事に参与していた人の多くは、ハンセン病の後遺障害を抱えていました。したがって入所者達は、身体に障害のある人でも続けることができる仕事のスタイルを、知恵を絞って考え試行錯誤を重ねました。こうして編み出された「仕事」の場においては、自分たちの生がどのようなものでありうるのか、自分たちの身体がなにをなしうるのか、その可能性を少しでも押しひろげるための実験的な試みがなされていました。かれらは、仲間どうしで多彩な実践を展開することによって、ハンセン病者に押しつけられた「陰惨さ」とは別種の生き方と、それを可能にする別種の時間・空間をつくりあげていたのです。
 「私(たち)」の世界と、隔離施設で暮らす「彼ら」の世界を分断せずに、両者の世界を実験的なかたちで重ねて考えてみる。それによって、以上のようなことがらがみえてきました。そろそろまとめに入ります。
 本報告では、はじめに、研究者/非研究者、調査者/被調査者、書く/書かれる⋯…といった、スラッシュで区切られた二者の関係性をめぐる力学というのが、今日の調査研究において問題とされていることを確認しました。そして、こうした問題への対処の仕方が、調査する側の自己言及的な記述へと収斂してしまう傾向があることを指摘しました。
 このような状況認識を踏まえて、本報告では次に、調査をめぐる自己批判や自己反省を、再度「他者理解」へと引き戻す必要性があると述べました。そして、そのための一手段として、調査をめぐる自己批判的な問題意識を、「理解」のための方法論として深化させることを提起しました。それは、調査者-被調査者という非対称性や、「調査」「書く」という実践に孕まれる暴力性を念頭においたうえで、あえて、私たち(調査者)の世界と、彼ら(被調査者)の世界を、重ね合わせて考えてみるという方法でした。
 「私(たち)」の世界と、「彼ら」の世界を分断せずに、両者の世界を実験的なかたちで重ねて考えてみる。そこからどういう可能性が拓かれるのか。この点について、本報告では「底辺労働者」「女性」「ハンセン病」というテーマを事例として検討してきました。
 この可能性について、本報告では、2つのことを指摘しました。ひとつは、両者の世界を重ね合わせることによって、これまで認知されていなかった新たな問題系・主題群がみえてくることがある、ということです。この点について本報告では、ハンセン病療養所の生活実践やサークル活動を例として検討してきました。このようなかたちで、いままで見えなかった意味や知られていなかった事実が浮かび上がってくるということが、まずひとつあると思います。
 もうひとつは、これは本報告ではあまり言及できなかったのですが、調査者-被調査者という関係性に敢えてこだわらないことで、逆説的なかたちで、調査という実践に孕まれる加害者性や研究者の権力性などが、浮き彫りになるのではないか、ということです。これまでの調査論において問題化されてきた権力性や加害者性といったものの本質も、じつは、自己と他者を分断するのではなく重ね合わせて考えることによって、はじめて明瞭に見えてくるものではないでしょうか。
 本報告では、このようなことを念頭に置きながら、自他の世界を接続することによって生成される想像(創造)力とその可能性について検討しました。報告は以上です。
〈山本〉有薗さん、ありがとうございました。自己(調査者)と他者(被調査者)を分離させてみたり、逆に、自己反省的に自らの立ち位置を問い詰めてみたりすることにとどまるのではなく、あえて両者を重ねてみえてくる世界を記述していくという方法論、具体的に提起して頂いたように思います。
(第一部終了)

【資料 当日配布のレジュメ】
研究に課された倫理と実践における問い
──被調査者/当事者/生活者/活動者との間で揺れる「研究者」なる存在とは何か
日時 2010 年4 月2 日(金)13:00-16:00
場所 立命館大学学而館201
【タイムスケジュール】
趣旨説明(10 分)
第1 部 報告とコメント
 [報告1]永田貴聖氏(30 分)
 [報告2]有薗真代氏(30 分)
 [質疑応答]
第2 部 討議
 [コメント1]北村健太郎氏(15 分)
 [ コメント2]堀江有里氏(15 分)
 [ 自由討議](60 〜 90 分)
まとめ(5 分)
※各報告者・コメンテーターには、自らの研究活動の紹介とそれに伴って経験してきた調査や研究活動上の課題にどのようにぶつかり、対処(スルーも含む)してきたのか。語って頂くかたちを想定しています。コメンテーターも同様に、自身の経験から報告者の議論に対して考えたこと話してもらうような格好で反応してもらえればと思っています。参加者も、まず意見を述べる際に、問題意識や経験について切り出してもらい、議論を交差させるように工夫して欲しいです。

【企画概要】
 「マイノリティ」にかかわる研究をするうえで、研究者・調査者と当事者・被調査者との関係は、複雑にして曖昧である。マイノリティの当事者性に向き合うのが、マジョリティであり研究者でもあるという前提は容易には共有し得なくなっている。自らが当事者であり、その当事者性にかかわる問題群に研究者として関わっている人がいる。また、自分はあるマイノリティの属性を抱えながら、別の属性のなかに生きる人を対象にする研究者もいる。もちろん、ある属性にかかわる当事者であり、研究者であり、活動者である人もいる。
 この複雑な在り様に向き合うことを回避することが、「科学」(ときに「客観性」)にこだわる研究者の自己防衛に結び付いている。そして、境界線(研究者/ 非研究者)を設定しようとする力学をはみ出す者に対して、「被調査者と同一化している」(≒ over rapport)という批判がなされる。一方で、自らの身体を調査対象にすることを通じた「研究」が提出され始めているように、徹底した当事者性を突き詰めた先に成り立つ境界線の横断もある。とはいえ、その際の方法論は必ずしも十分に練成されているようには思えない。このような背景をふまえて、研究(者)とは何かという問いに、近年の倫理的な問題に加えて、極めて実践的でもある社会学的な方法のなかで、何が考えられるのか。「研究に課された倫理と実践における問い──被調査者/ 当事者/ 生活者/ 活動者との間で揺れる「研究者」なる存在とは何か」と題した座談会を設け、その場を設定したい。

【私的論点──山本メモ】
(1)どのような主題なのか──研究者/当事者、調査者/被調査者、生活者/活動者(という境界線の無自覚な横断と再編強化に潜む知識生産労働の階層性)
1-1「生存学」という/における方法とは何か──現時点では不明確ではないかという問い。→研究対象に関わる文脈において、当事者性を持つのが同時に研究の担い手でもあるような環境と「寄り添い」というより共同作業を行う他の研究者 が集う場所(職業的活動家、研究者(民間)=実践者との積極的な共同も含む──)。
1-2「当事者性」ということに賭けられたアカデミズムにおける文脈とは何か
→学術研究(政策・制度に直接・間接に反映する言説・統計)の世界が当事者抜きで進行していることに対する批判(障害学──べてる含)、あるいは、ある被害・被差別の状況に「ある」と自称・他称する当事者の語りを重視する研究姿勢(社会学におけるマイノリティ研究、差別研究)。日本型のCS・PC なのか、当事者性を出発点に研究者となる者が、女性、在日、障害者、セクシュアルマイノリティと徐々に増えてきた。一方で、「余所者」「変化するセルフ(自己)」を対象化するような方法論的手続きが模索されておらず、不満。
(2)研究倫理の制度化という事態をどうみるか(どう交わすか)
2-1 放っとけばいいのだが、放っておけない事態になっている研究倫理の制度化。特に社会調査を基本とし、人を対象にした研究を行うことの多い社会学や人類学にもその波は押し寄せてきた際に、「質的研究」を自認する人々から、違和感の表明がなされている。
→まず、共感する。枠をはめることで進むような研究活動ではないという同様の経験。一方で、その際に踏みとどまる「科学的研究」や「社会学」、ましてや、「客観性」とは何かが疑問。これらを担保するものが「大学」という教育研究機関であるという無自覚の前提があるような気がして、拒絶反応が出る。
(3)研究は誰が、そして、どこから輩出されるものか/されるべきものなのか
3-1 90 年代の高等教育政策の「自由化」以降、大学院が増え、OD 問題はいつのまにかPD 問題へと移行しつつある。それは、博士号のインフレを意味し、科学技術立国という政府の方針(財政措置)と実際の労働環境の全般的流動化という事態がまったくかみ合っていないなかで翻弄される博士が増産されている。他方で、「博士の生き方」「スユノモ」なるものが各COE 絡みで俎上に上げられ、それらの議論さえも「研究」に包摂される気味の悪さがある。
→大学を経由したものと、そうでない者が、またある意味での「当事者」を交えながら、また、活動者も交えながら、大学内外を問わず無視できない「研究」成果を残すことがある──京都部落史研究所(1979 年設立、初代所長・師岡佑行)、原子力資料情報室⇔自由大学や市民大学などといった大学研究者の手慰みやスユノモとは明らかに異なる実践性と研究性の統合。このような活動への想像力を、大学院の増殖はかき消している/消されていることに極めて無自覚なことに、大学にいる人間としてどう対処することができるか。上記の流れはある種の「68 年」的な主題旋律のなかから生じてきたものといえる一方で、予備校・塾講師化という決定的な「矛盾」もあった。

【今後の計画】
・2010 年6 月末日発行予定の生存学研究センター報告書に、座談会企画の記録を掲載する。
・記録の文字起こしを行い(研究会予算とは別途でできないか)、各自に原稿のチェックをして頂き、担当者の方で最終的な編集を行い、各自に確認して頂く(5 月〜 6 月初旬頃)。
以上

第2部

〈山本〉それでは第二部に入ります。永田さん、有薗さん、それぞれすごくコンパクトに報告をして頂いたので、助かりました。ちょっと無茶な問題意識をぶつけてしまったかなと思っていたので、心配でしたが。では、コメントは北村さんからということで、お願いします。

【北村コメント】
 北村です。よろしくお願いします。正直に言うと、私は座談会に参加している理由がよく分かりません。コメント依頼を受けたとき、いったんは断りました。けれど、結局断れなくて参加しています。正直、企画趣旨がよく分からなかったのです。
 お二人の話を聞いて、面白いというか、共感できる部分がありました。一つに、立場という重要なキーワードがあると思いました。それと関連して、私の企画に対する違和感について話そうと思います。その方がお互いの理解によいかなと思いました。まず、私は、当事者研究をしているつもりもないし、マイノリティ研究をしているつもりもありません。ただ、血友病のことを調べているだけです。私はそういう立ち位置にいます。
 永田さんも個人的なことを話されたので、私も個人的なことを話そうと思います。最近、自分の来し方を振り返ります。「なぜ自分は今も大学にいるのか」とか、です。

[ph(北村氏)]

 よく考えてみると、中学3 年のときに「なぜ学校はこんなに窮屈なのか」と思ったのが最初だと思います。そんなことをうねうねと考えながら、どうにかして、うねうね考えることから逃れて就職しようと思っていました。でもなぜか、うまく逃れられずに、周りから見ると「研究者」と呼ばれるような、考えることを仕事にする立場にいます。
 だから、博士後期課程への進学は非常に悩みました。いろんな人に相談したら、素晴らしい先輩たちから「後期課程行ったら就職がないよ」「生きていくのは大変だよ」というアドバイスを受けました。「生きていけるか分からないのだ」と思いながら、「もうちょっと調べてみたいな」という欲求に負けて、京都に来ました。
 最初の問題意識に戻って、「なぜ学校はこんなに窮屈なのか」を一言で言うと、有薗さんのレジュメの「能力/人格の否定」と関係します。能力と人格を結びつけて否定するという話があります。それを私も中学3 年のときに考えていて、「なぜ学校は能力と人格を結びつけるのだろう」と思いました。当時、まさか研究をするとは思っていなかったけど、そんなことを考えていました。博士前期課程の進学は端的にモラトリアムで、学校のことを考えていました。
 あるとき、身近に血友病というフィールドがあることに気づきました。血友病から現代社会はどう見えるのかと考え、誰も手をつけてなかったので調べてみようと思いました。当時の指導教員も「やってみれば」という軽いのりでしたし、私自身も調べてみて面白かったから「続きをやりたいな」と思ったのです。でも同時に、生きていく方策も必要なので悩みました。「博士後期課程まで行くと仕事がないよ」と繰り返し言われたのですが、決心して進学しました。だから、京都に来たとき、院生だけれども「仕事に来たぞ」「仕事するぞ」みたいな気持ちでした。
 個人的な振り返りを、永田さんへのコメントへつなげます。永田さんの報告に「研究者は、フィールドや調査対象者と出会って研究した結果を論文などの成果にする。でも、それ以前から研究は始まっている」という話がありました。私もその通りだと思います。私は中学3 年時のもやもやを引きずったままの駄目なやつで、たまたまいろんな縁が重なって人様から見ると「研究者」という肩書きで見られる立場にいます。多くの人からは、血友病をテーマとする研究者と見られていて、別にそう見てもらって全然かまいません。
 永田さんの「以前の思考」という言い方を引き受けると、研究者としてではなく、その人がこれまでに何を考えて生きてきたかが関わらざるを得ないと思います。有薗さんは有薗さんで何を考えて生きてきたかということが、当然、現在の仕事に関わっていると思います。それらの集約が、現在の永田さん、現在の有薗さんだろうなと思います。
 次に、有薗さんへのコメントです。一点目は、「収容所的なものと現代社会」「現代社会の裂け目」という捉え方です。私も血友病をテーマにしていますが、最大の関心は血友病が現代社会のどこに置かれているのかを考えることです。現代社会をどこから見るか、どう捉えるか、それらを自分の言葉にして記述するという基本的な問題意識が、想像以上に近いかなと思いました。何を参照点として、どこから社会に――カギカッコつきの社会ですが――切り込むのかは、それぞれのフィールドや方法があると思います。
 二点目に、闘う/逃げる話です。私は「薬害エイズ」の闘う/闘わない話を『生存学』第1 号「侵入者――いま、〈ウイルス〉はどこに?」に書いています。有薗さんは「しかし逃げることもできない」と報告されましたが、血友病も別の意味で逃げることができません。それは、身体から逃げることができないのです。私の提示した結論は「ただ生きている」です。闘わなかった人は、何らかの能動的な動きではなく、「ただ生きる」という道を選んだのではないかと思います。いずれにせよ、闘うこと、逃げること、あともう一つ、第三の選択肢が何かあるのだろうと思います。
 最後に、有薗さんも「書くこと」という言い方をされましたけど、この企画全体に関わって書くことです。私は書くことや表現することが、「研究者」や「大学」を考える以前に大事だと思っています。私は、書くか書かないか、読者に伝わるか、に重要な基準を置いています。実は、私の論文には理論や方法論はほとんど書いていません。私の勉強不足が80%ぐらい原因ですが、意図的に書かないこともあります。また、カタカナを少なくしています。なぜなら、血友病者とか家族、その他いわゆる学界以外の、多くの人たちに読んでもらえるようにと思って書いているからです。学会の最低限の水準を維持しながら、難しい言葉を使わずにどこまで学会の投稿論文に通るのかという挑戦をやっています。以上で、私からのコメントを終わります。
〈山本〉ありがとうございます。それでは、堀江さんに重ねてコメントしてもらいたいと思います。

【堀江コメント】
 よろしくお願いします。それぞれのご報告、そして事前に山本さんから提示していただいた論点をあわせると、かなり多くの話し合うべきテーマがあります。山本さんから提示された論点には、たとえば、当事者/活動者/研究者/生活者というポジショナリティの問題や、運動と研究がどのように連関していくのかという問題、さらには研究倫理の問題もありました。また、個人的に非常に興味深いと思っているのですが、研究の「場」の問題もあります。どのような「場」で研究していくのか、という問題。大学という「場」が非常に困難なところに置かれていること、また博士が大量生産されつつも受け皿がないという、まさにここに集まる私たちを取り巻いている現状があることを考えると、真剣に考えていくべき問題であると思いました。
 これらの問題意識を念頭に置きつつ、まずは永田さんと有薗さんのお話をうかがってのコメント、そしてつぎに私自身の研究に関する紹介、そこで考えていることについて述べていきたいと思います。

[ph(堀江氏)]

 永田さんと有薗さんのご報告に共通していた点は、研究者/非研究者、調査する側/調査される側というポジションは、さまざまなポジションの違いがありつつも、しかしかならずしも分けることができないという点だったかと思います。もちろんお二人のご報告のなかでも異なる点はありますし、多少強引かとは思うのですが、この「切り分けることはできない」という部分にあえて注目してみたいと思います。というのは、私自身、一方では研究者であり、社会運動の担い手でもあるという、自分のなかに切り分けることができない立場があり、他方では、しかし、事柄を記述するなかでそれはすでに自分の関わっている社会運動のほかの担い手とは異なる位置に置かれている、もしくは自分を置いているという、ある種の矛盾した状況がある。また、研究の場面では、最近、研究倫理の問題とも絡むかとは思うのですが、安易、安直にインタビュー調査をしようとして声をかけてくる大学院生が多いという実感があります。まず関係性をつくろうとしないで、「誰かセクシュアル・マイノリティの人、紹介してください」と。土足でコミュニティに入り込んでくるケースも決して少なくはないですし、そこには大いに問題を感じています。研究者による搾取の問題として。そういう自分の背景がありつつも、今日は、お話をうかがいながら、あえて「切り分けることができない」という視点に注目してみたいと思いました。
 たとえば、有薗さんは、フィールドでの「生活者」がもっている「実感」と、そこで出会っていくことによって「研究者」が得る「共感」があり、それらを表現していくときに分断できない、もしくは分断しないという方向を示されました。とくに自分の体験や身近な体験から問題意識を得て、それをいかにして他者の生きる世界へと接続していくか、たとえば、第三者にアプローチしていくとき、調査された研究の内容を提示していくときに、どのようなつながりを生み出すことができるか。その際には、「研究者」という一括りのカテゴリーはたしかに有効ではないと思います。この点についてもう少し掘り下げたい部分もあり、とても興味深くうかがいました。
 永田さんのご報告でも、文化人類学者としてのフィールドへの分け入り方というか、そこにすでにある関係性を「おしのけて」、自分のスペースをつくっていく、関係性をつくっていく、という点では立場の切り分けられない状況が示されていたと思います。たとえば、「仲介者」としての人類学者と表現された部分は非常に興味深いものでした。コミュニティのなかで、あえて仲間内に相談するのではなく、少し距離の取れそうな、客観的に物事をとらえていそうな人類学者に、あえて相談するという場面が紹介されました。この場合、そのコミュニティの構成員にとって、「研究者」でありつつも、具体的な相談相手として立ち上がってくる存在である。先ほどの「実感」と「共感」をつないでいく契機がそこにあるのではないかと思った次第です。
 お二人のお話から感じたことは、ポジショナリティについての差異はあるということ、それを自覚しつつ、調査が行なわれているのだけれど、同時に「媒介者」であるというポジションが明確に浮かび上がってくる点です。これは非常におもしろい点だと思います。いくつものポジショナリティの違いがありつつも、「媒介者」として存在することで、そこにいくつもの軸を横断する可能性もみえてくる。そこではすでに出来事に巻き込まれているわけで、「研究者」としてフィールドに入るということもまた何らかの「当事者」になるということなのだという点が示されているのだと思います。このあたりが、あくまでも研究のプロセスのなかで、“結果的”に浮上してくる、ということを示してもらったのではないかと私は感じました。もし解釈が間違っていたら、後ほどご指摘いただければ幸いです。
 次に私自身の研究活動について述べさせていただきます。先ほど自己紹介でも申しましたように、社会学を専攻していて、「レズビアン・スタディーズ」をやっていますと名乗っています。専門領域が「レズビアン・スタディーズ」であると、あえて表現しています。もっとも、「レズビアン・スタディーズ」とは何か、という定義の問題もありますが。
 私の場合には、社会学に移ったのはずいぶんと後になってからです。もともと以前の修士課程では歴史神学を専攻し、いわゆる「明治」期の日本のキリスト教史を勉強していました。その後、牧師になって教会や青年団体(キリスト教のNGO)で働いていました。その頃に梁陽日さんにお会いしたのですが。
 社会学に移ったのは、社会人になって、ふたたび大学院に行こうと思ったときでした。具体的には、自分が所属している日本基督教団という宗教集団で「同性愛者差別事件」が起こった。もちろん、問題化したから「事件」になったわけですが、ある男性同性愛者がカミングアウトして牧師になろうとしたところ、「同性愛者を牧師として認めるべきではない」という発言があり、その発言を撤回すること、話し合いをすることを申し入れるような運動が起こりました。そして全国的な運動が展開されていく。そのなかで「差別事件」という名づけが行なわれていきました。おかしなことではありますが、わたしはすでに牧師になっていたけれど、その点については何も「問題」はなかった。その運動を進めていくなかで、かなり疲弊したのですが、何よりも「運動論」のようなものをつくることができないかと思って、社会学を選んで、勉強することになったんです。
 1998 年です。時期的には、日本でゲイ・スタディーズがまとまって出てきた時期でもあります。ゲイであることを表明しつつ、ゲイ・スタディーズを研究する人たちがいて、その人たちと出会いながら「レズビアン・スタディーズ」にかかわりたいと思ったので、社会学を選択しました。名乗りとしての「レズビアン・スタディーズ」は、私にとって、運動のなかで「運動論」を作っていきたいという思いが出発点にあるからです。
 「レズビアン・スタディーズ」は必ずしも「当事者研究」ではないという現状が日本でもありますが、「レズビアン・スタディーズをやっています」と表現すると、「それどんな学問ですか」とたずねられることもあります。時に、「あなたは、じゃあ、そういう人ですか?」とたずねられることもあるのですが(笑)。なんで「レズビアンですか?」ではなく、「そういう人なんですか」とか「そっちの系統ですか」とか、たずねられるんでしょうね。
 そっちの系統って何? と突っ込めば良いのですが、おもしろいことにこちらは明示しているにもかかわらず、返答としては名指されないわけです。「レズビアン」という言葉や、授業の内容として「同性愛者の人権」といった場合に、それらの単語が繰り返されることはなく、巧妙に「ああ社会学ですか」と切り返される。たとえば出講しているいくつかの大学の非常勤講師控室の場面で多いですね。どういうことを研究しているのかとたずねられるので、内容を説明すると、一瞬、相手は引く(笑)。場合によっては、「私もレズビアンとして活動してきて」と説明する。それもまた、ある意味では私にとって「運動」ではあるわけです。レズビアンは存在しないと思われているので、「いる」ことを提示する、という。もちろん、対話の文脈にもよりますが、現時点では、表明していくという選択をしているということです。
 そこから派生していることでもあるのですが、私の現時点での研究活動は、調査をするというよりは、先ほど言いましたように自分のスタンスとして、やってきた運動を記述していくということを進めてきました。起こった出来事を客観視していく、相対化していくという作業を続けているように思います。だから、調査をするよりも、理論的研究に重きを置きたいと思ってきました。出来事をどのような枠組で分析するか、ということが目の前にある課題だった、ということです。
 今日は、自分自身の研究活動の紹介とこれまで経験してきた課題についても考えてくるようにということだったので、研究のなかで自分がぶつかってきた問題についてもご紹介したいと思います。私の場合、レズビアンとしてレズビアンの運動をしてきて、社会学でレズビアン・スタディーズをやっています、という意味では「当事者研究」という範疇に入るのだと思います。しかし、「当事者」という言葉自体、その定義自体は確定されたものではなく、つねに文脈によって変わりうるものだと思います。それは大前提としてあります。
 ただ、「当事者研究」という枠組でいえば、大学院時代に困ったことは、たとえば、ゼミで報告する際に批判が出てこない、という問題がありました。なんていうか、ここでもみんな、引く(笑)。「堀江さんは運動の人だからね」というモードがどこかにあったのだと思います。運動に関わっていないから言えない、レズビアンではないから言えない、ということも。しかし、それ自体はもしかして確率としては低かったのかもしれません。20%くらいでしょうか。同時に、山本さんが『不和に就いて』(生存学研究センター報告書第3 号)の「あとがきにかえて」で書いていらっしゃるように、研究者が社会運動の担い手に対して、ある種の「引け目」のようなものを持っている、という側面も考えられるとは思います。瑣末なことではあるけれど、私の感触としては、「社会人」枠で入学しているので、ある部分では、どうせあんた研究していく気はないんでしょ、という切り分け方をされてきたこともありました。
 そのほかの場面では、たとえば大学の講義でも自己紹介の際に言っていますが、「レズビアン」として「レズビアン・スタディーズ」をやっているというと、客観性がないと判断されることです。この点は「レズビアン当事者」であることを表明することにより、必要以上に「客観性」が求められる。そのあたりは記述するなかで気を遣わなければならない点だとも思っています。方法論としてクリアできる問題はあると思いますので。
 また、表明することによって、おもしろい体験をすることもあります。これまでにも何人かの方々から声をかけていただきました。多くは大学の専任教員をやっている方々ですが、「私もレズビアンで」とか「私もゲイで」とか。カミングアウトできない/しない(クローゼットのなかにいる)人たちです。お話をうかがっていると、専任の大学教員というステイタスがあると、なかなか表明できない状況があるのだと感じさせられることも少なくはないです。もちろん、表明することが良いことだとは一概には言えませんが。
 このように声をかけてくださる人々の態度は大きく分けると二つあります。一方では応援してくれる人たち。他方では、足を引っ張るといったら言い過ぎなのかもしれないですけど、攻撃のようなものが起こる場合。いずれにも分けられないもので、気になっているのが、「身体的に痛い」という表現をもらったときでした。拙著(『「レズビアン」という生き方――キリスト教の異性愛主義を問う』新教出版社、2006 年)にいただいた感想でした。
 その言葉の意味は、いまだにわからず、しかし大事なものだと思って、自分のなかでずっと考え続けています。表明すること、しないこと、できないこと、という点では、いろいろと分岐点が生じるように思えるけれど、その分岐点は社会構造のなかで要請されているものではないかと思います。たとえば、私は「表明できる人」としてある人々からは認識される。しかし表明することを、当初、自分自身で選択したかというと、そうでもない。運動のなかで追い込まれていって、表明せざるをえなかった。闘うために(笑)。しかし、表明するという行為が、表明しない人たちに対する、なにがしかの感情を呼び起こしてしまうのだということを「身体的に痛い」という表現から考えさせられたわけです。それは私にとっても非常に大きな宿題で研究者としてそういう人たちにどう応答していけるかは、課題でもあります。長くなってしまったので、「当事者」とは何か、という問題については後に話し合えればと思います。
 私は少なくとも「レズビアン」であることを表明することが、そのまま「当事者研究」と等号で結ばれるわけではないと思っています。少し補足すると、日本基督(キリスト)教団という集団のなかで起こった「同性愛者差別事件」への抵抗運動にかかわってきたのですが、そこでは「当事者」とは誰か、ということがずっと議論されてきました。「同性愛者」に対する「差別事件」であれば、そこで被差別の属性をもつ人たちが「当事者」であると解釈されがちだけれど、抵抗運動のなかでは、担い手を「闘い」の「当事者」だと位置づけることになりました。
 具体的には、これまで性差別(=女性差別)問題に取り組んできた人たちが中心となったからです。ゲイ男性が当初、全然、動かなかった。動かないくせに「私たち当事者は」とかいうから、むかついたくらいの話なのですが。そんな経験を重ねてきたので、「当事者」という言葉が属性を共有する人々を想定するというよりは、文脈によって変わりうるということを確認しておく必要があると、いつも思うようになりました。
 長くなってしまったので、不十分ではありますが、このあたりでコメントを終えさせていただきたいと思います。ありがとうございました。
〈山本〉ありがとうございました。とりあえずお願いした報告・コメントは以上で終えるという形になります。それでは、全体での討議に入っていきましょう。

■論点整理

〈北村〉先ほどの堀江さんの論点に、追加コメントします。「研究者」としての私がフィールドとの関係性にどう対応しているかです。私と血友病コミュニティとの関係は、意識的に切るようにしています。私が調査に入っていて調べたらこうであったと学会発表もしたし、論文も書きました。「調査者」「被調査者」という言葉で言うなら、調査者は北村で、被調査者は血友病者とか、その他であると、できる限り切断した意識を持つようにしてきました。
 自分の立場が混乱するといけないので、意識的に切り離そうと考えています。だから、フィールドにおける「研究者」「調査者」である私、それ以外のフィールドの私、その他のプライベートな時間の私は、意識的に切り離すことにしています。私は京都に来る時点で自分の立ち方を決めていました。〈山本〉いくつか論点が出ているので、ある程度司会者の権限で差配していこうとも思います。私のレジュメ(前掲)のなかで2 ページから3 ページに「私的論点」ということでメモが書いてあります。四者四様の意見、立場、考え方が示された訳ですが、この企画の主題が何であるのかを自分自身でもう一度考えていました。
 研究者、当時者、調査者、非調査者、生活者、活動者など、いろいろなくくりがあるけどもという話があったんですけど、一つは「1-1」で生存学という研究センターというのを立命館大学でやっているんですけども、いくつかの授業あるいはいくつかの研究プロジェクトを見るなかで、生存学における「方法」というのは何なのかというのが、非常に不明確であることに大変不満を持っています。研究対象に関わる文脈において当事者性を持つものが同時に研究の担い手でもあるような環境に――これはきわめて狭い意味での当時者性ですけど――寄り添い、共同作業を行う研究者が集う場所になっている。当然、職業的な活動家と呼ばれる人もいれば、民間の研究者と呼ばれる人も含まれる。そういう積極的な意味を含んでいる研究拠点であるように思うんですけども、ただそういう境界線がいかんせん非常に無自覚に横断されているような感じがしていて、これは放っておいてもいいんですが、けちをつけてもいいという部分もあって(笑)。一つはそういう部分があります。
 「1-2」で当事者性ということにかけられたアカデミズムにおける文脈とは何かということで、堀江さんが言ったように当事者性というのは、文脈によっても異なってくるということがあるんですが、今日も福島智さんのことにも触れますけども、東京大学の教員になられたいわゆる全盲全聾の方が研究室を持って活動しています。福島研究室の理念と目的として、「バリアフリープロジェクト」というのをやられているわけですが、一つは研究の理念と目的で「現代に生きる私たち」、これですね。三行目に「学問を通じた社会貢献を目指すのが大学の使命」だと書いてあります。
 つまり、大学というのは個人がどう思うにせよ、一つの制度体であるというのは私もずっとこだわっていて、それはこだわる必要はないのかもしれませんけども、国の科学技術政策に位置づけられた、明確な機能を持たされた制度体であって、そういう意味で、そこの研究者になっていくということは、ある意味をもたされるわけですね。そのなかで福島さんなんかは「社会貢献」をということで誰でもよく言うことですけれども、その後に「具体的な問題の解決を当4 事4 者4 の視点から推進していく研究拠点づくりを進めていきます」と謳っている。これも別にどこでもある話ですけども、彼自身がその当事者であり、また研究を進める担い手でもあるという形で、このバリアフリープロジェクトを進めていく。
 これは星加良司さんが、崎山治男さんが編集した『支援の社会学――現場に向き合う思考』ですけども、「当事者性の(不)可能性」という論文のなかでも書かれていることですが、「ソーシャルバリアーの存在はこれまで障害当事者主導のバリアフリー研究があまり進んでこなかったことが一因となって、障害者の研究活動を行う際にもバリアがある」と。そういうような失敗も、ある種限定された当事者性というものと研究ということが、それなりに明確に意識されていて、具体化されてきた。例えば、さき程の「府中青年の家」からスタートしたときかわかりませんけども、そういうゲイ・スタディーズなんかでも、研究という領域、大学という領域のなかで発信していくことにそれなりの戦略性を持って、という人たちが当事者性ということの担い手になっていった例かと思います。
 それを当事者研究とするならばどう評価するのかという論点が、先ほど堀江さんの話で、「レズビアンです」ということで引いてしまう二割の層がいるという話。まわりがぐっと発言しなくなるというのは、例えば在日朝鮮人の研究、あるいは被差別部落の研究をしている私などでは、例えばそのなかに当事者であり研究者であるという立場を表明してなくても自身が当該者であるということになると、やっぱりその人の発言の重みが非常に強くなるということがあり、「尊重モード」みたいなものができてしまうというのは、よくみかける光景ですね。
 それはそれとして誠実な姿勢から出てきていることなので、別によいと思うんですけども、それ以上にその先に進もうとしていないというのは研究者というか、教員にみられる態度かなというのを、力を込めて言いますけど、学術研究が政策制度に直接・間接に反映される言説でもあり統計でもあるということの世界が、当事者抜きで進行していることに対する批判が、例えば障害学なんかも含めてあるのかなと。あるいは被害、被差別の状況にあると自称/他称する当事者の語りを重視する研究者がいる。これは社会学のなかでの当事者性なのかな。さらには日本型の――これはカルチュラルスタディーズやポストコロニアル研究に親和的な一部に顕著なのかもしれませんが――当事者性を出発点に研究者になっていく者が現実にいて、女性、在日、障害者、セクシュアル・マイノリティと確かに徐々に増えてきた。
 黒人や女性に関して、アファーマティブ・アクションでアメリカではかなりそういう人たちが研究分野を切り拓いてきましたし、日本はかなり遅れて、事実上そういう形で研究者になっていく人たちももちろんそれは特別対策ではなく、その人の能力という面もあるのかもしれないけども、福島さんであればこういう言い方がいいのか分からないけど、東大としてはある程度「目玉」にしたいという思惑も絡まりながら、具体化してきたように見られます。姜尚中さんなんかも含めて。それを本人としては利用する。それは蜜月なのかどうなのかというのは、ちょっと微妙なところなんですけども、そんな状況に巻き込まれてしまう難しさもある。これは中根敏光さん、松田素二さん、桜井厚さんなんかにもある程度共通しているといえる部分があると思いますし、堀江さん、北村さんとも共通するところかなと推測するのですが、研究するという者である以上、自分がそういう属性を抱えていたとしても、中根さんのように「よそもの」とはいっていませんでしたけども、違うものとして位置づけている。それはそうかなと思いました。
 その中で自分自身の問題意識が研究対象との間で変わっていくということを永田さんが『生存学』第1 号の方にも書いていたように、今日も話にあった変化する自分を対象化していくということがやっぱり必要かなと思いました。これを学問的あるいは研究の方法論としていくことが、桜井さんとか松田さんなんかはある程度それが必要だというようなスタンスだと思うのですが、十分に詰められていませんね。方法論的には社会調査教育の中でもそこのところがちょっとまだ模索されておらず、不満な部分もあります。当事者性との関係で言うと、そのように整理できるのかなと思います。
 その他では研究倫理の話もあるのですが、これは今日の議論のなかではあんまり皆さん縛られずに、というのもあるんですが、永田さんが後で文化人類学会の倫理綱領を紹介してくださると思うので、この辺、かわしたり、かわしていなかったり、皆さんがどう思われているのかなというのは余談程度でもいいんですけど、聞きたいなと思っています。特に質的研究をしているという研究者なんかは、違和感を表明している人もたくさんいますね。そういう違和感にすごく共感するというのは、枠をはめることで進むような研究活動はしていないという経験があるからなのかなということを私自身は思うんですが、一方でそういう人たちも踏みとどまるのは「科学」あるいは「客観性」というものなんですよね。その裏には先ほど最初に言った大学という教育研究機関と社会学という学問が前提にあるような気がしていて、当然その人たちはそうではなくていつか自分は「独立系」の研究者になるかもしれないし、鶴見俊輔や日高六郎みたいになるかもしれないと思っているかもしれませんが、必ずしも本人の自覚のレベルではそんなふうに、こだわってはいないということになるかもしれませんけども、制度体に巻き込まれている現実、あるいは研究や社会学の延命にこだわることが、どういう意味を持つのかというのが気になっています。
 さっきの北村さんの話でいえば「書くこと」というのは別に大学じゃなくてもできる。でもあえて大学で、あるいは学会で「書く」ということを出来る限りしていくということであれば、それはやはり問われるものがあるはずです。別に自分のホームページで丸山眞男をひっぱたくにしても、フリーターにとっての自由とは何かを叫んでみてもいいわけでね。そういう人たちがブログなどで言説を積み上げていく時代でもあるわけです。そのなかで研究やあるいは学会誌みたいなところに「書く」という行為を続けていくということがどういう質のものとしてあり得るのかなというのはやっぱり問いとしては消えない部分もある。質的研究といっている人々の違和感に共感しつつもそこでとどまっている何かが自分のなかには不満としてあるということです。
 堀江さんが触れていていた研究する場としての大学という問題ですね。この間の博士号のインフレの状況であるとか、大学院(生)が増えているということ、一方で「博士の生き方」という切り口で各大学がCOE 絡みで俎上に乗せている気持ちの悪い現状があって、「スユ+ノモ」などが東大のグローバルCOE の研究対象にもなっているし、なんと、生存学でも先日訪れた訳ですね。そういう包摂のかたちが生じ始めているという「不幸」があるわけです。
 私が重視したいのは、大学を経由したものとそうでないものが、またある意味での当事者を交えながら活動者も交えながら大学内外問わず無視できない研究成果を残すことがありうることを想起したいということです。それが京都部落史研究所であったり、原子力資料情報室であったり、かつてのPARC(アジア太平洋資料センター)であったりということですね。大学によって民間の研究職市場を切り拓いていきたい欲望は見え隠れするんです。あざといですね。つまり、大学にポストがないから外にそういった研究環境を作る可能性を探るというね、問題を外在化させることを、運動の力を利用して実現しようという傾向があるということです。そのような流れを吹っ飛ばすような場が私たちの身近な系譜のなかにあることを参照したいですね。
〈高橋〉韓国の「スユ+ノモ」が、つい先だって日本の研究と運動をつないでいる界隈で小さくブームになりました。『インパクション』(第153 号、2006年)で紹介されたり、『歩きながら問う』(インパクト出版会、2008 年)が出版されたり。私らもまた「スユ+ノモ」がこうやって紹介される前に、同書の編集・翻訳をされた金友子さん宅の二階に宿泊しに来たメンバーと交流する機会があり、大学の外で非正規労働者、もやもやした若年層、おっちゃんやおばちゃんも含め、大学からあぶれた院生などが勉強をし合ったり、署名活動をしたりデモに行ったりということを自然にしているスペースが韓国にあるということで、すごく触発されました。そこで、日本でもそういうスペースをつくろうとして、あちこち物件を探しもしました。いま周りを見ても、同時発生的というか「スユ+ノモ」なんかも意識しながらスペース作りをしている人たちがいます。学知を大学の外に持ち出し共有するという。いま日本でなされているそれらの試みは、ずいぶんと質が違うのかなと思います。
〈山本〉日本への紹介や輸入の在り方とはやはり別の意味で質が大きく違うと思います。わざわざ、スユ+ノモを参照しなくても、私たちの目の前に数々の実践の歴史が転がっている。一方、韓国では、やはりアカデミックな研究者には無視されているわけですよね、スユさんとノモさんの実践は。そこに価値があり、社会に切り込む力を持ち得るということがもっとあってよい。大学の外に。それは、大学の矛盾を外に出すというわけじゃないですけど、当然もっとそこに人々の資源が向けられてもいいんじゃないかなというのはある。こういう手づくりの今でいうNGO ですけど、本当にそのはしりだった原子力資料情報室だったり、PARC だったり、京都部落史研究所であったり、無視できない研究水準、無視できない運動論(社会運動論研究ではなくて)とか、運動家あるいは当事者に響くものを確かに持っていた現代史があった。それが想像力のレベルでも、参照点になるということがあまりないことが大学院の増殖と関わって、苛立つわけですね。ですので、大学の博士ではない研究、専門性、論文ということは十分ありうるわけですが、ここで話していること自体が大学という制度に回収されてしまうということもあります。一応問いとしては出しておきたいという感じで、私としては皆さんの議論を、自身の論点にひきつけることができるのかなと思っていますが、討議のなかでそれぞれ深めていければと思います。

■研究者と活動家の「無自覚」

〈高橋〉大学院をめぐる情勢って、この10 年間で大きく変わってきたんだろうなと思います。大学のなかにいながらもその変化は実感としてあります。大学で研究者として研究するというのがどういうことなのかということは、大筋フィールドに入ってものを書くという社会調査や論文作成という行為が変わっていなかったとしても、それを取り巻く制度が変化したという感覚が強くあります。
 私が大学に入学したのは1998 年、大学院は2002 年入学で2008 年にいったん休学しています。学生運動の名残などがちょうど学内から刷新されていった時期で、立命館では学費からの代理徴収制度に支えられて自治会がかろうじて維持されていました。また、ちょうど大学が企業体としての体裁を整えていく時期でもあり、立命館大学でもクレオテックという会社を設立し非正規労働者を派遣する体制を整えました。国際的競争力を獲得するために、労働者にもグラデーションをつくり、コストカットし、キャリアアップの仕組みを構築するなど。競争力をもった労働者や研究者が、日本学術振興会特別研究員、科学技術研究費、GP、グローバルCOE、各種民間の助成金などの外部資金を獲得して運用し、それによって雇用も行っていく。日本の雇用の再編に応じて、正規と非正規の区分、専門職と非専門職の区分を作っていくというのをかなり体系的にやり始めていた時期だなというふうに思います。
 今さらだけど原則的に考えると大学が企業になってきたと思います。企業体というのは昔からなのでしょうけど、この間の学内の雇用の流動化を通じて改めて感じます。なぜか学内の管理体制が強化されたのもこの時期で、監視カメラを付けたり、学内の夜間立ち入りが禁止されたりなどがありました。2005年にカルチュラル・タイフーン(CT2005@ 立命館大学)で、立命館の学生・院生で作っていたノンセクト系の反戦ネットワーク「PACE」が中心になってその管理志向を批判しました。
 そんななか、森下さんと私は院生連合協議会に入り、2006 年に大学院政策をめぐって大学と交渉を行いました。日本学術振興会と学内奨学金が連動されはじめ、インセンティヴ制が強化され、助手制度が廃止されるというときで、高学費のまま学内奨学金がなくなるという状況になりそうになっていました。それで博士後期課程の学費を下げることに貢献したりとか、修士課程の就職活動支援などをしました。
 常勤の教員と非常勤の教員との対立も目立ってきたように思います。例えば立命館大学のイタリア語非常勤講師だった遠藤礼子さん(当時、ゼネラル・ユニオン立命館支部)が、自分の雇用をかけてハンガーストライキをやったときに(2007 年7 月)、正規労働者の人が見事によりつかなくて、非常勤とか不安定雇用の人とか有象無象の人々(笑)、だけしかやって来ないというのを見ていたりすると、不安定だからこそ言えることとか、不安定じゃないと言えないことというのがあるんだなと思って。大学で研究する研究者も社会のなかにあり、何がしか自らの立場に態度決定をしたり、それを避けたり、やりすごしてみたりと毎日を過ごしている。そこに私はちょっぴり敏感肌になってしまいました。その後も常勤教員の立場性が問われる場面をいろいろ見るにつけ、ますます博論を書いて就職して正規雇用になっていくという大学のなかでのある種のロール・モデルに対する魅力が私のなかでどんどん失せていった。能力不足もあります! けど、あの時期はすごくその魅力の喪失があったように思うんですね。
 私のなかではそれまで自分が関わってきた運動を研究対象にすることは避けてきていました。やはり研究対象にするというのは、こんな大学の中でキャリアアップしていくための商売道具として利用するという側面が絶対にあると感じたからです。研究者としての利害が入ってくる。
 たとえば、「性同一性障害医療過誤裁判」(『不和に就いて』参照)の支援に山本さんと関わった時期がありました。この裁判について研究したら、一気に支援グループとの関係がゆがんでしまうだろうなと思いました。それは友人として裁判に関わっていて、年下の仲間たちがたくさんいる場所だったので、ますます力関係的にもやったらあかんなと感じました。なので、直接その運動を研究するのではなくて、運動から見えてきた課題を研究しようと考えました。
 いまは障害者運動と介助者の運動、非正規労働者の組合運動の場にいますが、やはりほとんど研究しようという意識もありませんでした。でもやっぱり関わっていると運動的課題がいろいろ見えてきて、現場で解決できないものがあることもわかってきた。現場の中にも研究が必要で、活動家も本当に勉強しています。目先のことだけやっとたらいかんなとあらためて感じています。それで当事者と一緒に共有した課題を研究としてあらためてやれるんじゃないかというところにこれた、という感触をつかみ始めています。この現場から離れることなく現場で研究をしたい、できるという感触です。
〈山本〉やれるというのはどこでやれるんですか。
〈高橋〉たとえば、今回のセンター報告書に書いたものです。労働組合で私自身が担当していた労働相談から労働争議にいたったトランスジェンダーの人から話を聞くことになりました(第1 部第6 章)。「PACE」の出している同人誌や友人が出している手作りの詩集に書く機会ができるようになり、書くことのイメージも広がりました。学会誌や一般書籍ではできない関係性がある。どういう形態で出すかというのはあるけど、やっぱり私は書くことに対するこだわりというのがあって、書いて現場に還すことができる形もようやく見えてきたという部分もあるのかなと思います。大学から一旦離れてとある現場に入ってようやく書いてもいいのかなと、書けるようになってきたのかなというふうに最近は思っています。
〈山本〉高橋さんが現場から着想を得て論文とかエッセイを書いても、誰もそのことについて問い質したりはしないですよね。ある場でぶつかっている課題というのは、障害者がよりよく生活するための制度改変だったり、具体的な目的があったりするわけじゃないですか。担当の行政窓口に納得させるための論理を構築するとか、法的な合理性を構築するとか。そのときに「研究」という括りで攻めてみると、様々なせめぎ合いの場で力を持ち得る、持ってしまうということがありますよね。
〈高橋〉ある時期「もう研究者いいわ」と思って現場にいたら、現場の当事者から研究者として必要とされることもでてきて。まだ手伝い始めて間もないうちに、「高橋君、君の問題意識は何なんだ」と聞かれて、かなり無理に主体化されそうになって。おもしろいなーと思ったりして(笑)。でも、たんにお手伝いじゃなくて、自分自身の運動的な関わり方とか動機をもってほしいと思われたんだろうなと。直接に研究者役割というのでなくても、研究者としてえた知識や技術を期待される場面もあります。活動の現場であえて研究者としての自分を使うときもあります。
〈山本〉社会政策は、研究者を使ってオーソライズするので、実質的には権力は行政が握っているわけです。そこを、揺り動かしたいですね。
〈永田〉ちょっといいですか。おふたりのやりとりを窺っていて、堀江さんや北村さんの話をまとめて言うと、私の場合はどちらかというと、自称「市民活動」に近い人たちと少し運動をやっていたことがありました。思ったのは、結局のところ、トップダウンなのです。そして、結局、資源の分配に関しては、自分たちの取り巻きの人脈にまわしているだけと感じることが多かったです。それがいやになって大学に来ました。確かに、今の大学政策、良いとは思いません。しかし、私などは、私が通っていた大学からまず学者を輩出することは、ほぼ20 年前だったら不可能だったと思います。それが現在の大学院を拡充する施策によって私は学問の世界に入れたし、私個人としては、一定の利益はありました。もちろん、これからどうなるかわかりません。
 なので、高橋さんが言っていることも、山本さんが言っていることも多分正しいとは思います。ですが、いろいろチャンネルはあった方がよいかとは思います。ちょっと気になるのは、私は社会運動に対してわりと懐疑論者だから言うのですが、結局、運動していた人同士がその運動系だけで非常勤講師をまわしあったりしていますよね。これって、結局自民党の派閥順送り的な人事とやっていることは同じですね。私に言わせると。だから、この構造をまず変えないといけないと思います。だけど、それを自由市場にしたからといって良いかというと、もしかしたら、余計にぐちゃぐちゃになってよくないかもしれないのです。だから、そこは私にはまだよくわからないですね。どうしたら良いのでしょうかね。
〈堀江〉いま、ご指摘がありましたが、例えば運動関係で非常勤講師の職を回しているということが実際にあるんですか。
〈山本〉やっぱりありますよ、いわゆる1 つの講座に関する⋯⋯
〈永田〉講座に関することとか、昔の運動とか。
〈高橋〉意図的に運動界隈でまわしたというよりは、知り合い同士でまわしたら、結果的に運動界隈でまわってしまったというところもあるんじゃないですか。基本は非常勤は人づてですよね。
〈山本〉だから人脈が運動という資源なんだと思うんですよ。それが学閥であったり、いわゆる大学の出身であったりすることも当然あると思うんですけどね。
〈堀江〉学会での人脈もありますよね。
〈永田〉社会運動というのは、理念として、自由とか平等とかを考えているけど、でも実態としては、資源の分配のことになると、結局、自民党の派閥と同じような形になってしまっている部分がどうしてもあるのですね。ずっと亀岡の大学から〔京都大学などがある京都市〕左京区などを観察しているとそういうところがあったような気がしますね。
〈有薗〉左京区で、「左翼」とか「ノンセクト」を自称してる人たちのことでしょうか。確かにあのへんは、風通しが悪いですね。非常勤を仲間うちで回そうとしたり、誹謗中傷といった情報操作を巧みに駆使して、自分の気に入らない人を排除しようとするところがあります。永田さんがおっしゃる通り、あれはひとつの「派閥」だと思います。彼らの振る舞いをみていると、京大で左翼のフリしてれば、メディアに書かせてもらえるとか、非常勤を回してもらえるとか、そういう損得勘定が透けてみえることがあります。あれは非常に残念なことだと思います。もちろん、なかにはものすごくまっとうな人もいますし、私も親しい人がいます。でも全体的な雰囲気としては、閉鎖的な「派閥」のようなところがあると思います。
〈永田〉だけど、それはそれで効果もあったから、一概に全てを批判するのは難しいのですよね。
〈有薗〉確かにそうですね。
〈森下〉それは講座に対する大学のポリシーのなさというのも影響しているわけでしょ。
〈山本〉そうそう。そこはもう担当者に任せていくというのが基本で、いわゆる理念、理想、ポリシーから人材を選ぶというのも任せているわけだよね。自由市場にしたら、その基準にはまる人や能力がある人が着任するということも起こりうる。
〈永田〉北村さんと私の話で言うと、あんまり自分がこうだっていうポジションにこだわりすぎない方がいいんじゃないかなと思います。自分は運動家であるとか、自分は研究者であるとか、自分は当事者であるとかね、こだわりすぎる気持ちもわかるし、こだわりすぎないといけない部分ももちろんある。だけど、あんまりこだわりすぎると、逆に、関係の多様性を失うと思っているのです。最近は。なぜ、そう思うかというと、在日コリアン研究だったら、在日コリアンじゃないと在日コリアンの研究してはいけないみたいな感じが、気になりますね。

〈山本〉堀江さんと対立する部分ではないんだけど、永田さんが例えばこの間、社会学や文学の領域で増えてきましたけど、在日3 世、4 世以降の人たちでディアスポラやアイデンティティ・ポリティクスだったりを研究している人が増えてきたように思います。それは研究という領域の間口の拡がりを感じれるポジティブな傾向でもあります。ただ、当事者が当事者に関わる研究を担うという在り方に関して、永田さんは多分さっきの堀江さんが例示した「身体的に痛い」というようなナイーブな反応に対する違和感とかすかに「共鳴」している。つまり、在日研究をしている在日に対して、ちょっとどうかな、というような見方も持っていてる。見方は違うんですが、二人の問題意識は共通しているようにも思うんです。
〈堀江〉やっぱり文脈によって違うと思うんですよね。誰が語るのか、という問題です。簡単に普遍化できる問題ではないとは思いますが、日本でゲイ・スタディーズが1990 年代半ばに主張してきたことは、「同性愛(homosexuality)」がつねに「語られる〈客体〉」であったというところから、「同性愛者(lesbian/ gay)」としての「語る〈主体〉」を取り戻していく、ということであった。それは大きなパラダイムの転換です。自分たちも語るのだ、という。私はこのような転換は必要だったと思っています。自分自身、「レズビアン」であることにこだわってきたのは、そういう部分でもあります。誤解を恐れずにいえば、ゲイ・スタディーズは、日本である程度体系的に構築されてきた。批判も含めて、展開されていると思います。しかし、レズビアン・スタディーズは、まだ体系的というよりも、学問の存在自体が知られていない現状にある。もちろん、レズビアンという存在についても同様に「存在している」ということ自体が知られていないことが多い。このような現状を考えれば、ある程度プレゼンスを得ていくためには、表明していくことの必要性を感じています。もちろん、そこで表明される「アイデンティティ」とは、私はつねに暫定的なものでしかないとは思っていますが。
〈永田〉暫定的っていうとよくわかるのですよね。一緒にしてはいけないと思うのです。在日コリアン研究の場合はもうその時期は過ぎたかなと感じます。だから、逆に言うとフィリピン人の留学生が在日コリアン研究してもよいかと思っています。社会的な地位を確立するために在日コリアンが在日コリアン研究をするというテンションの時期はもう過ぎただろうと考えています。
〈山本〉梁さんのように現場経験を経てから大学院に入ってきた方はどう思われますか。今の話は、学としての話だとは思いますが。
〈永田〉学として、運動として、まだまだですよ。
〈山本〉例えば北村さんもそうだし、堀江さんもそうなんだけど、在日の人にとっては特に本名を名乗るということが一つの運動の大きな基軸にもなってきたなかで、ぱっと見てわかるんですよね。身体障害の場合はぱっと見たらわかるけど、ぱっとわかる場合とそうでない場合で特に「署名」、名前でこの人は当事者だとわかる。研究の場合は在日の場合はわかってしまう。当事者が当事者の研究をやっているということが。在日の人は在日を語っているという前提に縛られてしまうというのもあると思います。つまり、読み手の先入見を発動させてしまう。
〈堀江〉ただ、「在日」の人たちが「ぱっと見てわかる」のは、民族名を使っている人だけですよね。
〈山本〉そうなんですよね。梁さんであれば、どのように思われるか聞いてみたいのですが、いかがでしょうか。

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■「現場」に還す研究

〈梁〉私は研究が苦手ですけど、研究は何のためにやるのかとか、その研究をやってどうなるの?という問いが自分のなかにあります。私たちの研究が当事者とどう関係するのっていうのが、他のみんなはどんなふうに思っているのかなという話ができたらいいなと思っています。
〈北村〉大事なことです。
〈梁〉権力関係もそうだし、学問としてどうかというのもあるんだけど、何で私がその研究に取り組むのか。それをやってどうなるのか。その対象者、当事者が自分たちの研究とどう関係するのかというのが、本当に自分とその他者との関係であったり、どう整理されているんだろう。
 例えば私はね、大学教員になりたいと思っているわけです。それには背景があって、なぜ大学教員をめざすかというと、80 年代以降によく調査研究と称して研究者たちが民族コミュニティや民族サークルに大量に来たんですね。その調査に来た人たちは私たち在日コリアンを絶滅寸前の希少動物のごとく扱って、結果的に私たちをネタに出世の道具として研究搾取をやったと思うんです。その後、発言力を得て教授とかえらい人になっていくわけです。ところが、現場にいる我々の願いはいつまで経っても社会的には反映や評価がされない。そういう悔しさを持っていたときに、やっぱり名もない人たちとか声なき声が出せない人たちの代表者として、あるいはそう言う人たちが一生懸命生きてきたことをちゃんと残せることが必要だということで、当事者としてそのポジションに挑戦しようというのがあります。
 それともう1 つは個人的なことですけど、階級移動しようと。私は在日三世ですが、家庭の事情で在日一世のおばあさんに育てられていて、二世に近い生活環境だったんです。ですから、非常に不安定な生活環境を経験したことで、やっぱり階級移動して次の世代にちゃんと安定したものを提供したいというのがあるんですね。それと自分に関わりのある夜間中学のハルモニたちが書いた願いとか、今も釜ヶ崎の子どもたちの必死な姿とか、ああいう名もない人たちが本当に生きていてよかったな、自分たちは間違っていない、ということをちゃんと文字に残すという意味で、大学教員というポジションをなんとか目指そうと思った。そういう意味では、自分自身にとっても何のために研究をするのかという問いが常にあるんですね。
 そういう個人的な思いと併せ持って言うと、有薗さんの話しを聞くと、重ね合わせることが可能だというのは、例えば関係性というのがすごく大きいなと思っています。臨床の解決というのはね(これは否定する人もいるんですけども)、関係性にすごく左右される人ですね。だからどうしても私は問題解決思考で研究の話を見てしまうんですけども、やっぱり自分の課題として、同時に、関係性のなかでどうお互いが綺麗事じゃないんだけども、調和というか、関係性を作っていけるかということにも可能性はあるだろうなと感じています。
〈堀江〉山本さんが論点として提示された、研究の「場」の問題、つまり研究を遂行する場は大学に限定される必然性/必要性があるのかどうかという問題と、いまの梁さんのご指摘は相いれないものというか、真っ向から対立する話だと思いますし、それも一つの論点になりうると思います。まず、確認ですが、梁さんがおっしゃったのは、大学教員というポジションに関する話ですよね。
〈梁〉その前に「研究は何のためにやるのか」っていうことがあります。
〈堀江〉研究者に対して「研究は何のためにやるのか」という問いは、私たちも研究者であるわけですから自分自身にも返ってくる問いだと思いますが、そのあたりはいかがですか?
〈梁〉返ってきますよ。その研究がどうなるのかって。それが当事者に何の関係があるのって。影響力というかな。
〈堀江〉たとえば、「当事者」とは誰かという点についても考えておく必要があると思います。「在日コリアン」を当事者としてとらえれば、すでに大学教員である在日コリアンはたくさんいる。しかも「当事者性」をもって研究している人たちもたくさんいる。そのあたりはいかがですか?
〈梁〉いや、あまり知らない。
〈山本〉いや、いますよ。
〈堀江〉立命館大学にもコリア研究センターがある。「当事者」の研究者もたくさんいる。であれば、なぜ「私が当事者として」という話になってくるのか。そのあたりが気になるわけです。梁さんご自身の「私」という存在が、その一個人が世代を超えて「何を」残していくのか。そのあたりをもう少し具体的にお話してもらわないとやっぱりわからない。

■大学という「場」にこだわらない可能性

〈堀江〉梁さんがおっしゃった「声が残されない人たちの声を残していく」という研究のモチベーションは、私にとっても重要な点です。そこで先のお話から二つの問題が生まれてくると思います。ひとつは、具体的にそれをどのように遂行していくのかという問題。もうひとつは、山本さんの企画書にもあったように、研究の「場」は大学に限定されるものなのかという問題です。梁さんがなぜ大学という場にこだわるのか、現在、すでに非常に多くの問題をはらんでいるにもかかわらず、それでも大学に期待することができるのはなぜか。そのあたりをもう少し具体的にうかがえれば嬉しいです。
〈山本〉例えば、ちょっと私が補足しますけど、梁さんが民族学級の卒業生たち、民族学級の梁さんの教え子たちに聞き取りしている論文がいったい何の役に立つのか。そこで聞いている子たちの声は本当に「声なき声」なのか。今出された問いをご自身に向けるとしたらどうでしょう。文化人類学でもそうですし、社会学でも、貢献するとか、問題の解決に資するということが少なからず謳われているわけですね。当事者は100 人いたら100 通りである。AさんにとってプラスになったことがBさんにとってマイナスになることがある。でも研究者は真理を探求しないといけないから、それをごまかしてはいけないという倫理規定があり、貢献することと真理を曲げてはいけないという規準が矛盾せざるをえないようなこともあるわけです。
 例えば部落でもそうですけど、ハンセン病だってそうだと思うんですけど、その人にとって公表してほしくないということとかが一つの事実をまげてしまうようなこともあると思うんですね。そのときに研究者は葛藤して、それでも公表のタイミングをどこかで見計らうということをやるわけです。一方で、それがその人にとっては表面上、体面上では公表してほしくない、使ってほしくないとういこともあるわけですよね。エイズの被害実態調査でも患者オンリーの聞き取りをしている。でもそのエイズ、HIV 感染という事実というか、一つの社会現象を正確にとらえる上では医者の話もやっぱり聞かなきゃいけない。でも医者の話を聞いたら被害を受けた人たちの言葉はやっぱり弱くなってしまう。それを厚生省に認めさせるということ、あるいは法廷で認めさせるということに関しても弱くなってしまうかもしれない。だからまずその実態調査を研究者として担うんだというのと、「医療と人権ネットワークMERS」というNPO の花井十伍さんは、当事者として研究者を組織化し、それこそ桜井さんとか、蘭さんとか山田富秋さんとか好井裕明さんなどの社会学者を連れてきて医者にも話を聞こうという研究成果を生みだした。
 その人に「役に立つ」ということは、一概に言えない。そういう部分は特に梁さんなんかがやられている研究テーマが発達障害とか不登校とか困難な状況に置かれている若者たちの臨床現場における支援ということとご自身が歩んできた民族学級の講師のなかで経験されてきたことにある。差別され抑圧されていることに対して特に子どもたちとか、教え子に何かしら資するようにという問題意識を持って大学に来られてというふうに私は理解していますが、そう簡単に論文なり学会報告なり、研究者というステイタスでどれぐらい目的が実現できるものなのかというのはよく分からない。
〈梁〉あんまりつなげて考える必要はなくってね。
〈山本〉どことどこをつなげないという意味ですか?
〈梁〉なんと言うのかな。例えば現場で頑張っていることが正当に評価されないことなど。
〈山本〉そうでもないと思うんですけど。
〈梁〉ちょっとだけ来てつまみぐいしたような研究者がもう権威となっていろんな形で周りも含めて展開していくというか、あるいはその人が代表者みたいな形で発信される、そういう経験をたくさんしてきました。制度からも除外されているし、なんぼ頑張ってもなかなか報われないという現場のなかでやってきた。そういうのを見たときに何と言うのかな、やっぱり悔しい思いとかしながらも、だけどやっぱりそのことをちゃんと残していかないといけない。勤めているなかでの大きな事件がきっかけで、やっぱりそのことをちゃんと残していかなアカンというのがきっかけだったんです。それと博士課程に行くのを勧めてくれたある教員が「あなたのようなマイノリティというか、あなたのような当事者が大学のなかに入って世の中を変えないといけない」と言われたことも要因にある。
 だから本当に私は専門的な知識は無いですよ。いやそういう当事者がいるべきだということで入ってきたというのが元々ですけれども。でも根っこには一生懸命に生きている人間がちゃんと生きていてよかったなと思えるためにも、やっぱりそれを発信していく必要があるんだろうなというのが出発点だなと思います。
〈堀江〉大学教員という立場でなくとも、発信していくことはできると思います。大事なのは、ステイタスではなくて、発信していく内容ですよね。
〈梁〉すごくこの話をするとね、各人のホットボタンにひっかかって、感情を刺激する話題になる。
〈堀江〉感情を刺激されているのではなくて、私はやっぱり「権威主義」について自省する必要があるのではないかと指摘しているわけです。理想論かもしれないけれど、内容で勝負していきたいと思う。物事を発信する影響力を、ただステイタスに依存させてしまうことで、権威主義は再生産されてしまうからです。その権威主義をこそ問うべきだと思うのです。
〈山本〉例えば、朴慶植と姜尚中、どっちが梁さんにとっては評価できますか。在日が在日として在日の研究をして、学問レベルの水準に到達するということを日本社会のなかでやってきたわけですが、朴慶植の方が研究としては圧倒的に寄与している。姜さんは、メディアを通して大衆のなかに影響を与えていくというやり方です。
〈梁〉せっかく例を言っていただいているんですが、私には自分の人間観にあるんだけど、それは社会的立場とかそんなことではなくて、一生懸命生きている人間のあり方が大事なんですよ。
〈山本〉相対化しすぎだと思うんですが。
〈梁〉いろいろ社会の中で翻弄されながらも一生懸命生きることが、尊いと思っている。それは自分の臨床というか支援しているなかで得たものだけども、だから例のように研究者限定で比較しているというのはなくて。自分も大学教員になることは一つの手段としてしかとらえてないから。
〈山本〉でも権力性は持ちますよね。
〈堀江〉そもそもここにいる人たちだけを見回したとしても、そんなに簡単に大学教員にはなれないという現実は十分に示されていると思います。
〈吉田〉話が進む前に、梁さんに一つだけ確認しておきたいのですが、一生懸命現場でずっと仕事をやってきたのに報われなかったということですが、自分の中で大きな理由は「在日だから」というのがあるんですか。
〈梁〉そういう部分もあるし、そういう部分でないのもある。
〈山本〉それはちょっと抽象的に言いすぎかな。
〈永田〉いや、それはね、やっぱり抽象的だから。
〈吉田〉これから議論するうえで、大学教員にこだわる大きな理由ついて、そのもとになっている部分を先に聞いておきたかったんです。
〈梁〉どちらかとかはわからないけど、でも在日からは逃げることはできない。例えば「梁陽日」という変な名前を名乗っている。そのことによって受けるいろんなコンフリクト、差別っていっぱいあるわけですよ。残念ながらね。ありのままに自分らしく生きたいと思っても生きさせてくれない現実が、この変な名前を名乗っているからついてまわる。もういつになったらちゃんと受け止めてくれるのかなと思いながら、でもそれをどうとらえるかは人によってまた違うわけです。日本名、民族名を名乗ることのどっちがよくって、どっちがだめって全然ないし。でもその名前を自分で名乗るというふうに決めてからは、悲しいかないろんな嫌な思いはするし、もちろんいい出会いもたくさんあります。だけどそのことは在日ということから逃れることはできない。生き方のウエイトがどちらにしても、自分がどう受け止めるかというのは個々人の選択の差なのかなとは思うんですけど。
〈山本〉もし大学教員になるのならそういう学問的な手続きというふうに限定しないですけど、研究の方法論とか、いわゆる調査の在り方とか自分がその名前でいたときどうしてもそういうふうに見られてしまって、人はどういうふうに自分の研究テーマを論じるのかということがあらゆるところで問われるじゃないですか。ある種のアカデミズムの「お作法」として、どういう方法でということについて、まさに今いろいろ問われているわけで、どういうふうな方法で自分は研究をするのかということについて考えを持っている必要があります。
〈梁〉一つの矛盾としては私自身が本当は実務家なのに、先端研という研究者養成の場にいること自体にあるかも知れません。
〈山本〉そんなことないです。多くの人が実務家ですよ、先端研/生存学関係者は。
〈梁〉よく他の心理や福祉専攻の大学院の授業にゲストスピーカーに招かれるんですが、そこで関係者に言われるのが「なんで先端研なんですか」と言われます。自分でも目の前の人間をどう救おうかということにこだわってきたからこそ、今の位置は矛盾しているのかも。
〈永田〉梁さんは、私から見たらアカデミックだと思うんですよね。もっと問題なのは、大学というのは再生産の場所だというふうなことを全肯定するとよくないのだけど、一応とりあえず、一定肯定をしておいたうえで言います。私ちょっと違和感を持ったのは、当事者というのはわからないのだけど、ある種の知の理論の部分というのを、みんな習得してやっている。それにもかかわらず、習得をするという発想を持たない人がいる。医療従事者であるときに過度な現場性、既に大学院に入っているのに大学院に入っていないという感じの院生がちょっと多すぎると思うのですよね。あえて言っちゃうと。その部分をどうした方がいいかなというのはずっと思っています。自分の興味ある発表だけ聞いてすっと帰っていくみたいなのも多いし、社会人だから時間がないというのはわかるんだけど、それがね、どうしたらよいかと。
〈山本〉「ストレート」で上がってきた(純)院生が――私もそうですが――いわゆる高踏な理論を滔々と諭すように社会人院生に語っている場面は、実に痛々しい。一方で、現場主義の過度な強調を通じて、その圧迫感を(純)院生が交わしてしまうのも、それはそれで、何のために大学院に来たんだと問われかねない。そういう光景はよく見かけます。「社会人院生」と「全日制院生」。下らない分け方だし、想像物でしかないんだけど。
〈永田〉当事者でいうと、「大学院生」であるという当事者意識をもうちょっと持ってほしいなって思いますね。
〈山本〉先端総合学術研究科の授業である「リサーチマネージメント3」などは、本当にそういう雰囲気ですね。自分のやっていることは研究になるんですかというふうに例えば桜井厚さんに聞いてみる、蘭由岐子さんに聞いてみる。そうするとお二人とも優しいので「もちろん」と答える。福島智さんという東京大学の教員もいますけど、それは究極の当事者性を貫いた研究スタイルだと私はすごく問題提起的な方法だと思っているんです。ただ、そういう研究者もいるから、じゃ自分もそういうことができるということになるのかどうか。その先に方法論があって初めて、その「もちろん」という言葉は説得力を持つはず。しかし、それを教えられる教員はいない。大学院は「カルチャースクール」でいいという教員もいますしね。
〈北村〉いや、研究以前に、言葉として、文字として表現する能力が必要です。
〈山本〉そうなのかもしれないですけど。そこまで言ってしまうと、元も子もないのでは⋯⋯
〈北村〉自らの思考を表現しないことには、議論が始まりませんから。
〈永田〉そうなってくると大学という器というのはいったいどういうものになるのか。さっきの大学政策という高橋さんの話しでいうと、大学っていう器自体をどういうふうなものにしたいのかということを考えたいですね。
〈高橋〉大学っていう器をつくりなおそうということですか?
〈永田〉私はそう思っています。私は、大学にポストが足りない原因というのは、市場的に負けているからだと思うのです。大学というのは知の集積地で、私はすごい資本主義者だから、大学というものを資本主義的にこれだけ情報社会の中で活かさない手はないと思うわけです。それにもかかわらず、少子高齢化で結局マーケットがしぼんでいるわけですよ。他の問題ももちろんあるのだけど、少子高齢化でマーケットがしぼむということは、産業としては先細りなわけです。それって、ちょっとやばい。変な話をすると、知が多様化して大衆化しているのだから、逆に言うと若年層だけじゃなくて、いろんな人が大学に学生・院生として来ていいわけ、お客さんとして。
〈高橋〉だとしたらこの学費の高さとか、そこでそもそも階級的な縛りが変化したりする必要があるじゃないですか。
〈山本〉大学という存在がいろいろ矛盾しているんですよね。大学院を増やす、学費は高い。だけどニーズは多様化している。いろいろな形でマッチしていない。ではそのなかで大学という手段を選んだとしても、労働市場としては極めて狭い。だからそういうことを在野で、NPO やNGO で活動しつつ研究して、それを政策・制度に具体化して、あるいは声として記録してという人がたくさんいるわけですけど、在日にしても、部落にしても。今は大学を出ても博士課程を出てもやっぱり就職先がないという状況があるので、そっちの方(学外)が有効だということで選択肢として選ぶ人ももちろんいるわけですけど、それも「個々人の選択だから」というふうになっちゃうと、議論としてはなかなかかみあわないので、あえてその点についても考えてみるという作業が必要だと思うのですが。
〈永田〉もちろん。産業としてよくないということじゃなくて、仮にそう考えたとしても、国に学費とか多く出してもらうとか、そういうことをしないといけないわけですよね。だっていろんな新しい産業体が国から補助金をもらっているじゃないですか。学資援助も同じですよ。また、そういうことでさらに存在意義も出てくるし、知の再生産は、当然、強化されるわけです。そこはやっぱり当然、「声なき声」を記録として残す機能というのは、当然大学院にもある、もちろん、大学以外にもあってもいい。そういう仕組をやっぱりつくらないといけないよねというのはちょっと聞いていて思いました。

■〈文脈〉を紐解く

〈山本〉有薗さんはどうですか。いろいろ議論が噴出していますが。
〈有薗〉話を戻してしまうことになって申し訳ないのですが、まず、堀江さんから頂いた最初のコメントについて、少し応答させてください。堀江さんは、「『立場を表明する・闘う』という行為が、それをやらない人たちに対して、なにがしかの感情を呼び起こしてしまうことがある」ということを指摘されていました。これは重要なご指摘だと思います。私自身は、ハンセン病関連の裁判支援の活動をずっとやっていたのですが、その過程で、この問題に直面したことがありました。九州でセクシュアル・マイノリティの運動を少しやってたときも、同じ問題につきあたったことがあります。「つきあたる」というより、正確にいうと、この問題にはいまだにうまく対峙できずにオロオロしてるといった状態です。
 ハンセン病関連の裁判の話でいうと、療養所入所者のなかでも、当然のことながら、裁判や運動に参加する人と、それに反対する人がいました。そのなかで板ばさみになってしまうという状況を、私はかつて経験しました。「おまえ、どっちの味方やねん」と言われたらもう、価値中立性がどうのなんて、言っていられなくなる。自分の立場を選ばざるを得なくなる。そのときに、私自身は「闘う人」を支援する側にいたのですが、彼らに対して、「闘えない」あるいは「闘わない」人達から「なにがしかの感情」が向けられているというのは、すごく感じました。
 あと、国賠訴訟には協力するけど、療養所内の医療過誤の裁判には協力しない、とか、同じハンセン病経験者でも裁判の内容によって、当事者になる/ならない、という選択が生じる場合があります。「当事者」であるということが、文脈によってゆらいでくるということですね。私はまだきちんと論じたことは無いのですが、これは重要な問題だと思います。
 もうひとつ、「活動家の既得権」という話が、だいぶ前にでていましたね。この論点に関しては、まず、「運動」とか「活動家」というカテゴリーの内実を確認しておく必要があると思います。たとえば、同じ「運動」でも、サウンドデモのようなわりとドリーミーな運動と、ある具体的な政策の実現に向けて障害者が行政に交渉する運動とは、まったくその質が異なっています。また、同じ「活動家」であっても、当事者であるか支援者であるか、という違いはあります。さらに、その人の階級的・社会的位置による質の違いは大きいと思います。運動の担い手が、エリートか労働者階級か、男性か女性か、健常者か障害者か、そういう背景の違いは無視できないと思います。
 特に、「活動家の既得権」について論じようとするときには、このへんのことを念頭に置いておかないと、混乱が生じてしまいますし、まずいような気がします。非常勤をもらうとかメディアに書かせてもらうとか、そういったしょうもない既得権にしがみついているほんの一部のエリート左翼と、現場で身を削って運動をしている当事者の方と、両者を一緒に論じるのは、後者に対してあまりにも気の毒です(笑)。
 まとめますと、まず、「研究者」「活動家」「当事者」⋯⋯というポジションは文脈によって変わりうるということ。さらに、たとえば「活動家」というひとつのカテゴリーのなかにも、一括りにして論じることは不可能なほどの幅がある、ということです。
〈山本〉私も博士論文を書いているときに、自分がフィールドに入ったときにちょっといくつかの文書で書いたりしたこともあるんですけど、ときには活動家とみられるし、ようわからん院生だと思われることもあるし、研究者と扱ってくれる人もいれば、よく働く便利屋だというふうに思われることもあるし、なんかよう見る変な兄ちゃんやなと思う人もいる。だからいわゆる自分の思う自己役割と向こう側からの位置づけが多様に走っているわけですね。そのなかで自分がどういうふうな選択、どういう立場で研究に入っていくのか。また違った立場から入っていくのかというグラデーションや変化というものを記述する試みをしました。「私のことどう思っていました」とか、調査が終わった後に聞いてみるっていうのも考えたんですけど、それはアリバイ的すぎてちょっとできなかった。それをモノグラフに入れないと作品としては成り立たない。そうでないと、「共感」にしても、社会学者の自立性を強調するにしても、また、自己反省的・自己語り的なもの含めて、それこそ依拠したいところの科学性は担保できないのではないか。
〈高橋〉結局、こう思っていましたというのがない?
〈山本〉その言葉を信じることができるかどうかもあるんだけど、それを文字にする。さっきもちょっと話題になりましたが、立場性の表明が空転しうるということも絡んできて、それが一つの研究のスタイルとしてしらじらしいというかね、そういうことにもなってしまうから、博論の「あとがき」のところには書いたんですけど。変な図をね(第2 部第1 章参照)。そういうグラデーションがある期間の中でどういうふうに変化してきたのかで、「研究する私」というものを微細に描くことが研究になってしまうような自己遡及的/リフレキシブルな社会学や教育学の一部の傾向ではない方法を構築できるのではないか。自分がどういうふうに見られているのかとか、どういうふうな関わりで入ってきたのか、どういうふうな形で「加担」したのかということがある程度時をおいてもいいんですけど、モノグラフ化するというか、失敗談とか経験談というレベルを超えて、何か方法の部分まで到達するとしたら、どうできるのかなということを考えたりしています。
〈永田〉私も私自身のやり方がよいとは思ってないです。さっきのお話でいうと、私自身も男性中心の運動にちょっと微妙な感じを持っていました。その時に、フィリピン人の人と出会ったんです。フィリピン人たちは、状況に応じて、個人が関係を操作するんです。彼ら、いろんなNGO を知っていていましたよ。私は、この生き方が今の日本人の大きなヒントになるのではないかと。今の閉塞した居場所がない日本人はいろいろチャンネルを持ったほうがいいですよね。
〈山本〉チャンネルがいろいろあっていいというのはそうだなと思う。
〈永田〉チャンネルがいろいろあって、言語も3 つぐらいしゃべれて。
〈北村〉血友病コミュニティは男性が多く、ジェンダーの視点を忘れがちになるので、注意しなくてはいけません。でも、最近の血友病コミュニティでは、女性血友病の方や家族歴から血友病の子どもを産む可能性がある女性の方も参加しています。だから、具体的にそういう方々を念頭に置いておかないといけません。あと、どうしても、ジェンダーのバランスとして、ケアは女性の方に傾いてしまいがちなのですが、血友病コミュニティでは、子どもに関わるお父さんは深く関わるので、それは見ていて面白いなと思います。最近、元気なお母さんから連絡をもらったのですが、「患者会会報を書くときに論文を引用させてもらいたい」というので、「もちろん、いいですよ」と快諾しました。これまでずっと、論文が家族に届いてほしい、響いてほしいというのがありました。ようやく淡々と書いてきたのが届き始めたかなとちょっと思いました。血友病コミュニティに論文という媒体が認められたかなという経験でした。既得権の話ですが、元HIV 原告団の人たちも、ある種の既得権を持っています。和解直後から厚労省でロビーイングできる力を持っています。他の患者会はそういう特別な力は持っていません。つまり、訴訟のときに闘った人とそうでない人の差です。私は、少し引いたところから、今後の血友病コミュニティはどうなるのかなと見ています。

■不安定労働者から「特権」へのスライド──どう付き合うか

〈梁〉さっき大学教員の権力性がどうなのかという議論がありましたが、おもしろいのはそんなこと言いながら、みんな大学教員をめざしているということですよね。
〈堀江〉いや、それ以前に博士課程を終えたという時点で「権威」とか「権力」の問題はそもそも逃れられないと思っています。だって、やはり学歴社会で生きているわけですから。
〈梁〉例えば権力を持つということ、特権を持っているということ自体が単純に悪いとは考えられなくて、こういう解釈しているわけです。特権をどのように、全体の権益のために濫用せずに、正しく使うのか。
〈堀江〉先ほどの話自体がうまくかみ合っていないと思うのですが、私が強調したかったのは、ステイタスに依存するのではなく、まずは研究の内容、発信していく内容が大切なのではないかということなんですけど。
〈梁〉もう一つは特権を持っているということをどう自覚していくのか。あるいは人と関わるとか、社会参与も含めて、例えば私たち自身は博士課程まで行っている。あるいはPD であるとか、博士号があるというだけでも特権なんだという。例えばその自覚を持ってどう人と接するのか、あるいは社会に関わるかというのをやっぱり求められるだろうなと。また、自分も含めて在日外国人のなかでも、ニューカマーと比較すれば在日コリアンはある種の権力を持っていることも自覚すべきかと。例えば社会的な学歴であったりとかね。
〈吉田〉梁さんが、という話で?
〈梁〉一般的な話です。在日コリアンは二世、三世と世代を積み重ねるうちに、当事者の運動もありましたが、一般のニューカマーの外国人と比べればその社会的位置は違います。生活上の不利益の度合いが質的に違うということです。在日コリアンのなかには日本人並みの地位を求める人たちがいますが、私はむしろ現在の到達点で得た特権に安住するのではなく、そこで得た権力を後から来たニューカマーや、生きづらさを抱える人たちとどうつなぐかに大きな関心を持っています。
〈堀江〉その「特権」をどのように活かせるのか。そこが重要だと思います。しつこいですが、梁さんのお話では、大学教員というステイタスを得ることがひとつの目標にされてしまっている。そうではなくて、研究の場にいるのであればどのように何を研究して、どのように周囲の人たちに還元していくのかということを考えたほうが有意義だと思うのです。ステイタスありき、というのはおかしい。それは単なる権威主義です。
〈梁〉それは先ほども述べたように私は大学教員になることで、その研究成果を当事者に還元することが目的であって、大学教員をめざすことは手段にすぎません。ただ、さっきも言ったように特権を持っているものとしての自覚を持ちながら、その特権をどう賢く使うかという自覚や自制は求められると思います。
〈高橋〉特権ですね。私はいま、非常勤講師と他の仕事で食べていこうと思っています。介助の仕事をしながら暮らしていこうと思って、このままやれるものならずっとこうして暮らしていきたいと思っています。大学教員になってから、そういう活動の現場から離れていった人たちもみていますし、大学教員というルートは怖いという感じを持っています。この現場から離れた生活は想像できません。
〈森下〉常勤になると、現場から離れるということですが、非常勤講師から常勤になるときに、どんな変化があるのですか?
〈高橋〉常勤になると、大学の事務とかも増えるんでしょうけど、フィールドワークもなかなか行けなくなりますし、現場からの距離もできるし、そのせいで運動に対してコンプレックスみたいなのができて、ねじれた関わりとかしている人もいます。そうじゃない人もいるけど。私はやっぱり現場にずっといたいなって思う。現場って何なのかってなるけど、少なくとも。
〈山本〉大学教員にとっては大学が現場だっていうのはありますよね。山田潤さんなんかが強調する点ですよね。なのに、「今日は○○の現場から来てもらいました」だって紹介されるのに、あんたたちの現場はないんか! と怒っていた。研究者は専門職として、職人性があるので、自らの労働者性を自覚にしにくいし、認めたがらない。一方で、労働者の権利を主張し出すと、連合と同じで、白々しいだけなんですよね。そういう意味では、「底辺」や「周縁」に魅せられるより、マジョリティ側からの接近法についても、様々な試みを掘り起こしておく必要はあるでしょう。今回の報告書であれば、窒素の労働組合などがありますし、革新自治体期の公務労働者の実践も参考になります。
〈高橋〉それはでも、なんか言えない部分だってあるなって。
〈山本〉 重度障害者でなかったら。
〈高橋〉そうそう。重度障害者の人たちがいる場にずっといたいなって思うしね。
〈山本〉常勤になると「つまみぐい」が多くなるから。それを強いられている側面もある。
〈高橋〉実際の社会学系の論文を見ると、2、3 回当事者に会いにいって、ちょろっと話を聞いて、それを論文にしたりしているから。こんなのでいいのかって本当に思うんだけどね。
〈山本〉それを強いられる構造もある。
〈高橋〉構造の中で量産しなきゃいけないと、やっているんでしょ。それでいいんかと、別の生活を選んだ。だけど、とはいえなんですよ。だから「パスポート」としての博論を書かないといけないとは思う。そんな非常勤的な働き方をしようと思っていても、実際には大学にぶらさがっていて、RA として仕事をもらって金を稼いで、ある場においては研究者であることを使ってそれで発言力を得ている部分もあります。向こうから要求されるときもあるし、それはやっぱり私も自覚せなあかんと思うし、それがなんというかな、持ってしまう力があって、でも本当は持っていはいけない場面もたくさんあるんですね。だから、必ずしも常勤職をあきらめたからといって、そういう大学が持っている(権)力から逃れられるかというとそうではなくて、今後もつきあっていくんだろうなという感じはしています。
〈梁〉私のような議論のたたき台になるような人がいた方がいいかなと思いながら、同時に話の進行を止めているようで申し訳なく思いながら今日の議論に参加しています。また個人的な意見で恐縮ですが、座談会参加者の中で私が一番年上かと思いますが、自分にはもう年齢的にも40 代で時間がないというか、次の世代に繋げていく取り組みを進める必要性を痛感しています。これは在日問題に限ったことじゃないですよ。いろんな意味で社会を担う次の世代に、バトンタッチを今からしないと間に合わないなというのがすごくあるんです。
〈山本〉今の立場ではそれがやっぱりしづらい、邪魔されるとかいうこともあるということですよね。
〈梁〉はい。後継者などの人を育てるということもそうだし。発達障害の人たちの支援現場でも当事者主体でできるようなコミュニティをどのように作るかということやニューカマーの人たちを含めてすべての在日外国人が日本で暮らしやすくなるための取り組み。あるいは生きづらさを抱える若者たちなどもです。
 そのための施策であったり、コミュニティづくりであったり、そういうことをやっていく人をちゃんと育てて次の世代に渡せるようにしたいですね。本当は自分がそのサポートなり、チャンスを受けたかったけど(自分はそれを受けてないという不満がどっかにすごくあるんですけども)、年齢的なことも含めて、いつまでもできないので、これは1、2 年で見極めようと思います。
 もう無理だと思ったらどこかでけじめをつけて、いい意味で割り切ってちゃんと働いて、やっていかなきゃだめなんですけどね。だけど、次の世代には安心できる環境だけはちゃんと残していくということだけは自分のミッションだから。そういう意味でも焦りというかな、限られたなかでどうするのかという悶えというか苦しみがあるので、座談会ではちょっと皆さんとは違う視点になってしまったのかなと思います。
〈山本〉論点も多く出され、議論は拡散してしまったところもあり、司会の至らなさを申し訳なく思います。各論点については、まだ、生煮えなところもあり、言い足りないところもあると思います。この座談会が文字になったら、再び、研究会としても、さらにその枠を拡げた場でも、継続して議論していった方が有益でしょう。とりあえず、以上で今日の座談会は終わりたいと思います。一応、私の方で、この座談会に関する「解題」のようなものは、報告書(第2部第1 章)に掲載したいと思っています。本日は、長時間、ありがとうございました。