第4章 異なる被差別カテゴリー間に生じる〈排除〉と〈連帯〉 在日韓国/朝鮮人共同体における「レズビアン差別事件」を事例に

堀江 有里

1.問題の所在 ──複合的な差別問題と記述する主体をめぐって

 1.1 複合的な差別問題をめぐって
 被差別カテゴリーの重層構造から創出される多重の差別問題もしくは複合差別と呼ばれるものが存在する。上野千鶴子は、かつて「『すべての被差別者の連帯』は可能か?」という問いを取り上げ、不可能であることを前提としつつ、この問い自体がはらむ問題を論じた(上野 2002: 239)1)。
 たしかに「すべての被差別者の連帯」という言葉は魅力的に響くこともある。たとえば、一方では、「足を踏まれた者の痛みは踏まれた者にしかわからない」という言説はいまもリアリティをもって存在する。また「被差別の経験をもつ者はほかの被差別の経験をもつ者とつながることができる」という声を聞くことも少なくはない。しかし他方では、社会運動の〈現場〉に携わってきた人々は知っているはずだ。ひとつの課題が共有されたとしても、社会のなかではさまざまな要素をもつ人間が“出会う”とき、そこに生じる互いの利害関係からコンフリクトが起こりうる、ということを。また、その場に起こる力学を問題化しようとしても、その場を支配するより大きな課題としての“シングル・イシュー”へと回収されていく、という現実がありうることを。
 「反差別」を掲げる社会運動に「実践者」としてたずさわるとき、あるいは差別問題に「研究者」として向き合うとき、一方では先のような「痛みの共有」の可能性とも言うべき主張が存在し、他方ではそこに起こっている事柄を複数の軸でとらえていく視点が必要であることが強調される。このような、一見、矛盾するようにみえる事柄が同居する状況は、差別問題にかかわる人々にとって、もはや自明のことかもしれない。被差別の状態や社会運動の「行き詰まり」具合が厳しければ厳しいほど、“シングル・イシュー”を掲げての動きが要請されざるをえないのだろうし、そのために「反差別」を掲げる共同体のなかでも他者排除が起こっていく可能性はあるからだ。たとえば、全共闘運動のなかからそこにある性差別の問題を基点として立ち上がってきたウーマン・リブの一部の流れや、部落解放運動が内包する民族差別の問題化(cf. キム 1994)など、「内なる差別」が指摘されてきた例は数多く存在する。しかし、これらの告発に対する応答やそれを契機とした対話が“成功”することはあまり多くはないように思われる。
 本章では、「反差別」を掲げる共同体のなかに他者排除が起こる契機をとらえ、その動機と、それでもなお異なる差別を複数の視点でとらえようとする〈連帯〉が生じる可能性と限界性を考察することとしたい。具体的に取りあげる事例は、在日韓国/朝鮮人2)の共同体のひとつである在日大韓基督教会(以下、在日大韓教会)で起こった、レズビアン(女性同性愛者)に対する「差別事件」である。ここでコンフリクトを生み出すこととなった軸は民族差別と同性愛者差別の二つである。
 結論を先取りすれば、この「差別事件」の問題化のプロセスのなかで明らかになったことは、二つの軸を同時に問題化することの〈困難〉である。しかし、ひとつの出来事が「差別事件」として問題化されるプロセスには、そこにかかわる人々のあいだに相互作用が起こり、関係性や個々人の意識が変化することもある。そしてほんの一部であったとしても、在日韓国/朝鮮人に対する民族差別への取り組みを第一義の課題とする共同体のなかで起こったレズビアンに対する処遇を「事件」として問題化するという営為が生まれ、複数の軸のなかで差別問題をとらえようとする視点が創出されることとなった。
 本章では、このように複数の視点から生み出された行動を、使い古された言葉ではあるが〈連帯〉の可能性として描出することとしたい。扱う事例のコンテクストでは、この「事件」が問題化されるまで、いわば「民族差別」という“シングル・イシュー”に結集することが「連帯」と称されてきた。しかし、後にみるように旧来の「連帯」であれば共同体のなかで許容されたものの、そこからあらたな差別問題の軸──同性愛者に対する差別──が導入されるに従い、違和感や明確な反発の声も挙がることとなった。〈困難〉が横たわりながらも、それらの声に対する呼びかけがなされていった状況をみるとき、問題化してきた担い手のなかではあらたな〈連帯〉の模索がはじまったといえる。しかし、旧来の「連帯」と、あらたな〈連帯〉は断絶したものではない。地続きの流れのなかにあると判断し、〈連帯〉と呼ぶこととする。
 「差別事件」という出来事から生まれたコンフリクトは、「対立」構造をそのままを描出するだけでは、たんなる言いっぱなしの“告発”に終始してしまう危険性もある。このようなコンフリクトを生む可能性の基底には何があるのか──その問題へと迫るために、本章では、そこからみえてくる〈排除〉の問題と同時に、“シングル・イシュー”を結集軸にすることでは終わらなかった〈連帯〉を模索する可能性をも描き出すこととしたい。

 1.2 記述する主体をめぐって
 また同時に、本章は、記述する主体と研究・分析対象の関係についての課題をもあわせもつものである。社会運動や差別問題を研究するとき、そこにはいくつものポジションが存在しうるし、またそれぞれのポジションは変容しうるものでもある3)。本章は、キリスト教やセクシュアル・マイノリティの社会運動に携わってきた筆者が研究者として記述するという手法をとる。すなわち、このような手法自体が、社会運動の「実践者」とそれを記述する「研究者」の双方のポジションからなるものである。このような「実践者」と「研究者」のポジションが重なりつつ遂行される研究活動は少なくはない。とりわけ、フェミニズムやレズビアン/ゲイ・スタディーズの分野では「実践者」としての視点から学問が立ち上げられていったという経緯もあるため、これまでにも多くの蓄積がある4)。
 「実践者」と「研究者」双方のポジションに加え、本章に特徴的なことは、後述する「事件」の〈被害者〉が筆者自身であるという点である。すなわち、自分の身に起こった事柄を「差別事件」として告発し、そのただなかで生み出されていった言説や行動を分析対象とする。このような手法は、ともすると「客観的ではない」という反論をも生むことになるだろう。しかし、「研究者」はつねにすでに「生活者」としての日常を送っているのであり、それを「実践者」としての営為として把握するならば、そこにある自己を研究活動と完全に切り離すことはできないはずだ。とすれば、日常の延長線上にあるひとつの「出来事」を研究の俎上にのせるという手法もまた、ひとつの研究方法として提示されても良いのではないだろうか。
 このような点において、本章は、自分の身に起こった「未解決」の「差別事件」──と本人や周囲が認識しているところのもの──を記述することの困難とそれを克服するための道筋を模索しようとする試みのひとつでもある。同時に「事件」への異議申し立て運動を形成してきた人々との距離や齟齬などを含めて、どのように「応答」することができるのかという筆者自身の10 余年の課題が通底していることを付け加えておく。

2.在日大韓基督教会における「レズビアン差別事件」

 2.1 「信仰共同体」と同時に「民族共同体」としてのあゆみ
──在日大韓教会の特徴
 まず、本章で扱う事例が起こった在日大韓教会5)の特徴を素描しておきたい。
 キリスト教というひとつの宗教(信仰)を軸として形成されてきた同教団は、しばしば指摘されるように、日本社会における在日韓国/朝鮮人の相互扶助の機能をもあわせもってきた。川崎市の在日韓国/朝鮮人集住地区において、長年、地域活動に携わり、多くの論考を残した、故・李仁夏牧師は、同教団の歴史を振り返りながら、その特徴を「寄留の民と共に生きる教会」であると位置づける。とりわけ、20 世紀初頭に朝鮮半島からの留学生たちが集まり、東京での教会活動が開始された時期、そこに集う人々が「国を失い流浪の民となった」在日朝鮮人たちの「苦悩を担い、その民族的コンテキストにしっかりとその体なる教会を据えていた」という。このような歴史経緯をもつ同教団は「苦難に生きる」在日朝鮮人たちの「避けどころ」であり、「慰めの場」であった(李 1979: 28-29)。
 日本による朝鮮半島の植民地化の後には壮絶な弾圧が繰り返されることとなる。もちろん、戦時下だけの話ではない。戦後もけして「解放」ではなかった在日韓国/朝鮮人をめぐる状況が日本にはありつづけてきた。そのなかで、在日大韓教会は「信仰共同体」であると同時に、排外的な日本社会における「民族共同体」としての要素をもあわせもって存続してきた。そして、朝鮮半島にルーツをもつ人々の文化を継承する役割を果たし、日本社会への抵抗の場としても存在しつづけてきた。
 このような歴史経緯を前提とした上で、さらにわけいってみれば、その「民族共同体」のなかでしばしば指摘されてきたのは、少数民族のなかにあるほかの軸にかかわる排除/差別の問題でもある。とくに牧師や長老になる権利が男性のみに限定されていた時代があったことや、食事作りや掃除などの「家事」的役割を女性たちが担わされてきたこと、また具体的なセクシュアル・ハラスメントの問題などをはじめとして、構造的に性差別が存在することはしばしば指摘されてきたことでもある(cf. 在日大韓教会女性会 2009)。
 社会学者の鄭暎惠は、在日韓国/朝鮮人の共同体における性差別の問題について、「在日」社会が性差別を生む、というだけではなく、性差別をその構造として内包することによって「在日」社会が存立してきたことを論じている(鄭 2003)。このような「在日」社会のあり方を在日大韓教会も内包してきたといえる。

 2.2 「レズビアン差別事件」の概要
 つぎに在日大韓教会における「レズビアン差別事件」を概観しておきたい。この「事件」は問題化されるプロセスのなかで「同性愛者差別事件」という呼称が用いられてきた。しかし、本章では「問題」とされた対象が女性であったため、「レズビアン差別事件」と表記する。というのは、同じ「同性愛者」として一括されることが多いものの、ゲイ男性とレズビアンはジェンダーによる立場や状況のちがいも考慮される必要があるためである6)。この点については第4 節にてみていくこととしたい。
 1998 年1 月、在日大韓教会の一組織である「青年会全国協議会(以下、全協)」が、1998 年度「全国聖書講演キャラバン」を「女性神学」をテーマとして開催することを決定し、全国五地区のうち関西地方と西南地方での講演に、レズビアンであることを表明して活動している他教派(日本基督教団)の牧師を候補として決定した。この決定に対し、青年局長(当時)の男性牧師A からクレームが提出され、全協に対して、①教会を会場とすることを許可しないこと、②講師の再考を要請することが伝達された。これを受けて全協は、①西南地方会では講師を変更すること、②関西地方会では同講師によって開催し、その際、同性愛者の人権という切り口を前面に出さないこと7)を講師に交渉することを決定した。
 また、話し合いが継続している最中、すでに準備が進められていた他のイベント、「第29 回青年指導者研修会8)」が開催された。主題講演にて、上記の経緯を知らされていた講師が付加情報として、レズビアンに関連する文献を紹介したため、講演後、参加していた牧師や長老から「同性愛は罪だと聖書に書かれている」、同性愛者は「悔い改めないといけない」、「肉欲である」などとの発言がなされた。さらに、つづく分団討議では、男性牧師B から「同性愛を認めるくらいなら私は死ぬ」、「殺人を犯すよりも重い罪だ」、同性愛者は「悔い改めないと教会に立ち入ることはできない」などとの発言があった9)。これらの牧師たちの発言に対し、その場では全協メンバーが「差別である」と指摘したが、発言者たちの弁明や撤回もないままに終了することとなった。
 結果的に、予定されていた「聖書講演キャラバンin 関西」は、レズビアンの視点から聖書を読むというテーマにより実施された。全協は複数の教会に会場使用を申し入れたが許可は下りず、大阪教会に隣接する関連施設での開催となった(1998 年7 月12 日/於・在日韓国基督教会館)10)。当日は全協や講演者の呼びかけのもと、在日大韓教会女性会や同性愛者の人権関連の外部NGO からの参加もあり、50 名余りが参集した。
 しかし、企画が実施されたことで「事件」が終息したわけではない。この時期、日本基督教団でも「同性愛者差別事件」が起こって大きく問題化されていたこともあり11)、その影響を受け、在日大韓教会での一連の事件を問題化することとなった。上記のうち、①聖書講演キャラバンを実施するにあたっての会場として教会を使用することへの拒否と、②指導者研修会における発言が、「差別」であると指摘されることとなった。
 その結果、度重なる交渉の末に事実確認会が行なわれ、そこで確認された事柄が『報告書』として公表されることとなった。そのプロセスにおいて、青年局長であった男性牧師A(在日韓国人二世)は、「同性愛は罪である」との見解や、教会を使用することへの拒否感は抱えつづけているものの、自らの発言を「客観的には差別である」ことを認めるに至った。しかし、差別発言を行なったと告発された当該牧師二名のうち、男性牧師B(韓国からの宣教師)は事実確認会を無断欠席するななど「最後まで誠意ある態度を見せることはなかった」ことが報告された12)。

3.異議申し立て運動の形成

 3.1 全協(青年会)による問題化
 本節では、「差別事件」として名指されることとなったプロセスとその取り組みの経緯を考察することによって、そこに出現した異なる差別問題に関わる人々の〈連帯〉の可能性と限界をみていくこととしたい。
 「事件」の問題化の発端となったのは、1999 年1 月に開催されたNCC(日本キリスト教協議会)関西青年協議会(以下、NCCY 関西)の会議でのことであった。当時、〈被害者〉の牧師は、NCCY 関西の事務局長を務めており、同時に所属する日本基督教団で「同性愛者差別事件」が問題化され、その抵抗運動を担っている渦中にあった。問題化することの意義は、つぎのように表明されている。
この問題は、私が黙してしまって、それで終わるという問題ではないはず。誰かが立ち上がらなければ、また同じ言葉を誰かに向けられる危険性もある。昨年秋〔1998 年──引用者註〕の教団総会〔日本基督教団定期総会──引用者註〕にて、「大住差別文書」13)に関して立ち上がった人々がいた。「文書が一人歩きする危険」、「『差別発言は撤回、差別文書は回収』が原則」という言葉を聞きながら、自分の身に起こった事柄に、正面から取り組む必要性を、改めて痛感した14)。
 自分の身に起こったことを問題化すること──「泣き寝入り」しないこと──の必要性と同時に、ここで強調されているのは、他の「誰か」、すなわち在日大韓教会内部にもいるはずの同性愛者の存在である。「同性愛者」に向けられた差別である以上、個人の問題で終わりうる事柄ではなく、同じカテゴリーに属する人々に向けられる危険性もある。そのような危険性を少しでも減らすためにというある種の「正義感」がそこにはあった。
 このような動機により、在日大韓教会総会長宛に「抗議と要望」を送付することが提案された。その内容は、とくに牧師たちの発言が「明らかな『差別事件』である」ことに対して抗議すると同時に、①事実確認を行ない、「事件」について総会の見解を明らかにすること、②事態の理解のために同性愛者差別問題をテーマとした学習会等を開催することという二点を要望するものであった15)。
 NCCY 関西は、さまざまなキリスト教の教派を超えて青年たちのネットワーク活動を行なっており、事務局には在日大韓教会のメンバーも派遣されている。「抗議と要望」を在日大韓教会総会に送付するという行動は、かれらを含めた場で協議されたものである。この事態を受け、全協は自らの教派で起こった事柄を傍観できないと判断し、翌月、同じく総会長宛に「要望書」を送付することとなった。この「要望書」では、①教会使用拒否および差別発言についての対応、②学習会の場を設定し、教会を会場として行なうことの二点を求めているが、そこに至る経緯として、つぎのような動機が記されている。
在日大韓基督教会が、社会で疎外されていた人々とともに生きたイエスキリストに従い、差別に苦しむ人々と第一に向き合うことのできる真の、マイノリティー教会として立つ力を持つ主の肢体であると私達は信じます。そして私達青年は、その使命の一端を担う働き人でありたいと願う者であります。そのような思いから、私達は同性愛者の声を聞き、理解していく第一歩としようとこのプログラム〔聖書講演キャラバンin 関西──引用者註〕を企画しました16)。
 ここにみてとれるのは、「民族共同体」としての役割を担ってきた在日大韓教会を「マイノリティ」として規定し、それを中心的課題とする視点である。社会には、在日韓国/朝鮮人という属性以外にもマイノリティとしての要素をもつ人々が存在する。民族差別以外の差別問題に取り組むこともまた「差別に苦しむ人々と向き合う」教会という場において、その「使命の一端を担う働き人」としての役割であることが示されている。
 また、「同性愛者の声を聞き、理解していく第一歩」を踏み出そうとした背景として、つぎのような動機が記されている。
それ〔集会企画──引用者註〕は、以前から知己であった1 人の人間の同性愛者としての告白に触れ、私達が知らぬ間に同性愛者たちを多数者側に立って抑圧してきたことに気付かされたからでした17)。
 ここでは具体的な同性愛者との出会いによって、マイノリティとして自覚していた自分たちがマジョリティ──「多数者側」──に立つ可能性にあることへの気づきが示されている。すなわち、自分たちが「抑圧する側」として立つ側面の〈発見〉が具体的な出来事から認識されたといえる。
 ただ、このような見解は、当初、全協の運営を担う中央委員会のメンバー全員に共有されていたわけではなかった。先述したとおり、青年局からの要請に対し、講師に同性愛者の人権を前面に出して語らないようにとの交渉を行なうことを決定したという経緯もあった。起こった事柄に対する個々の青年たちのあいだには温度差が横たわっていたのである。
 また、「差別事件」として問題化しようとした全協中央委員会に対して、「要望書」提出の前後、全協の青年たちやかつて青年会活動に従事していたシニアたちから「全協は信仰と民族問題が一番の課題であるのになぜ同性愛問題なのか」と問いかけられることもあった18)。それはたんなる問いではなく、明確な「反発」としてさし向けられることもあった。
 ここではとくに「反発」が大きかった一部のシニアたちについてみておきたい。
 「事件」をめぐって、全協の青年たちが支援を呼びかけた人々のなかには、それまで「差別問題」や「人権」のために闘ってきた人々がいた。呼びかけた側は「人権」活動を教会内外で展開してきたことと、今回の「事件」が連関しつつ、ともに考え、行動することを期待していた。しかし、呼びかけた側の期待とは裏腹に、かれらの反応は意外性をもつものであった。その圧倒的多数は、よくて沈黙、ときにあからさまな反対を表明するものであった。とりわけ、後者──「反発」という態度を示した人々──については、「第一義的には民族差別の問題に取り組まないこと」の問題を指摘する声が多く聞かれた。
 なぜ、「差別問題」や「人権」について考えてきた人々は沈黙や「反発」という反応を示したのであろうか。その背景をより詳細に読み取ることも必要ではあるが、さしあたり、つぎの点のみ述べておく。とりわけ、シニアたちが「反発」したのは、この事件の〈被害者〉が「日本人」19)であったという点である。すなわち、それまで民族差別問題に対して歴史的な〈加害者〉としてのポジションを自省しつつ取り組むことを呼びかける対象──〈問われる者〉──でしかなかった「日本人」が在日韓国/朝鮮人の前に〈問う者〉として立ち現れるとき、そこに生じる反応が沈黙や「反発」として出現したということである。
 ここには第2 節でみた、在日大韓教会の「民族共同体」としての側面が大きく影響している。すなわち、「在日」たち──韓国からの宣教師や留学生と対比して──にとって、日本社会の多数派を構成する「日本人」は抑圧/差別を生み出す存在として〈問われる者〉ではあっても連帯の対象ではなかった。
「日本人」が問題提起するということは、「民族共同体」に“外から”問題を持ち込む厄介者であることを意味する。
 加えて、青年会という組織の特徴が横たわっていたことにも注意しておきたい。「民族共同体」としての在日大韓教会のなかで、全協は、教会の次世代を担う存在である。そこにはシニアたちが期待する青年像があった。民族差別に対して闘う姿勢を継承することがその大きな柱である。そのような全協が、民族差別以外の課題、とりわけ「日本人」が持ち込んだ課題に対して取り組もうとすること自体が、シニアたちにとっては大きな問題であった。そこには在日大韓教会のなかに同性愛者が存在するかもしれないという想像力は欠如していたともいえる。
 このような事態のなかで、全協中央委員のひとりであったI は、問題意識の共有を呼びかけつづけた。シニアたちの「反発」ほどに大きくはなかったものの、青年たちのあいだでも問題意識の共有が深まらないという状況はあった。その背景として、実際に同性愛者が身近にいないなかで「実感するのは難しい」という声があると同時に、「自分の性を真剣に見つめたことがないせい」ではないかとし、〈在日朝鮮人-日本人〉という民族の軸のほかに、自分たちがあらたに直面している課題をつぎのように抽出した。
「おとこ」であること、「おんな」であること。そして⋯⋯「異性愛のとらえなおし」。この課題が私たちに突きつけられています。当たり前で、大多数のなかにいて立ち止まって見つめることなんてなかった私たちが、問われていることです。そのことなしに同性愛者の存在を神が愛されていることを、本当に理解できるのでしょうか⋯⋯20)。
 ここで示唆されていることは、同性愛者の存在を認識し、受け入れる以前に、自らのポジションを振り返り、〈問われる者〉として立っていることを認識する視点である。
 全協は内外での話し合いを経て、問題の所在が明らかになるにしたがって、先の「要望書」に記された内容をひとつの行動指針として認識するに至った。たとえば、全協の最大の年間行事である夏期修養会に主題講演とはべつに特別講演21)を設定し、「事件」について報告・協議する時間を設けたり22)、全協内の一組織として同性愛者差別問題小委員会を設置したり23)、その後も全協と〈被害者〉とのあいだの対話がつづくこととなった。
取り組みを中心的に担ってきたひとりであるJ は、後に振り返り、自身の結婚式のなかで「異性愛主義を問うことは自分自身を問うことであることを初めて実感した」として、つぎのように述べる。
今まで、言葉として理解はしていたものの、結局まわりの問題を「あれはあれ、これはこれ」という線引きというか、都合の良いように分けて自分自身のすべてを問うことをしていなかったのだと思います。…… 日々の生活の中ですでに自分が選択してきた異性愛規範をいかに問うことができるか、毎日のように聞こえてくる「ラブ・イデオロギー」を問い、その特権を拒否できるか──今後の大きな課題です24)。
 かれの言葉からも、「差別事件」という告発を受けて逡巡し、さらに異議申し立て運動の形成へとその認識や行動を変遷させていきつつも、問いが継続されていった様子をみてとることができる。

 3.2 「問題」の共有へ
 全協による総会への働きかけは「要望書」提出の後、引き続き、総会任職員会(役員会)への出席などによって進められることとなった。その結果、全体からみれば一部ではあるものの、在日大韓教会の運営を担う総会が動くこととなった。「差別事件」として告発された事柄について、まずは事実確認会を行なうことを決定し、総会傘下機関である社会局に実施を委託するという決議をしたのである。
 1999 年5 月10 日には、第1 回事実確認会が開催された。しかし当時、社会局長であった男性牧師C(在日韓国人二世/全協出身者)は、先にみた「反発」の態度を示したひとりでもあった。他教派での在日外国人への「差別事件」の経緯が出版された直後でもあったため(cf. 日本バプテスト連盟編1998)、協力を見込めると予測していたが、結果的には正反対の態度が示されるに至った。かれは、事実確認会を行なうにはそこにかかわった人々の証言を聞く必要があるとの全協の申し入れに対し、〈被害者〉側の当該であるNCCY 関西からの陪席25)は認めず、この問題に対して積極的に忌避する立場を表明しつづけた。
 全協からの要望によって差別/被差別当事者双方が会したのは第3 回(1999年9 月23 日)であった。しかし、ここで作成された文書は参加者たちの合意には至らなかった。そのため、同月に開催された総会任職員会では報告が受理されず、継続して事実確認を行なう必要があるとされた。
 その後、事実確認会の継続は、予期せぬかたちでの変更を迫られることとなった。1999 年12 月には総会の機構改正が行なわれ、性差別問題等特別委員会が設置されることとなり26)、事実確認会の責任を担うこととなった。責任者がこの「事件」に関わることを忌避する社会局長から、あらたに結成された性差別問題等特別委員会へと移り、事態は大きく変化しはじめた。というのは、委員長に就任したD 牧師(在日韓国人二世/全協出身者)が協力することによって、実質的な事実確認会が開始されることになったからである。
 あらたな体制ではじまった事実確認会は、まず具体的な課題として、①教会使用拒否、②指導者研修会での差別発言についての二点を事実確認作業の対象とすることとなった。また同時に、①当事者(告発した側、された側)双方の陪席、②当事者双方に三人までの陪席と全協にも三人の陪席を認めること、③事実確認会という性質上、相当の理由がない限り秘密会議とすることは相応しくないため、傍聴を認めること、④資料の整理及び確定を行なうこと、⑤聖書解釈論議は行なわないことの五点を決定した。
 1999 年6 月から2001 年4 月の足かけ2 年近くの時間のなかで計8 回の事実確認会が実施された。そして最終的に「差別発言」として告発された事柄について、「一字一句としては確認することができなかった」が「だからと言って差別発言がなかったと確定することはできない」27)と結論付けられるに至った。
 具体的な文言が確認されなかったにもかかわらず、なぜ、このような見解が示されたのだろうか。その背景はつぎのとおりである。
差別発言をしたということで最も問われるべきことはその発言の差別性である。…… この時の発言者の意図はそれほど重要ではない。何故なら人を差別しようとして発言することはほとんどなく…… 、結果として差別発言であったということが圧倒的に多いからである。このこともまた我々が在日コリアンとして差別撤廃の運動を担ってきた経験から知り得たことである(強調、引用者)(28)。
 ここで明示されていることは、「発言者の意図」よりも、「発言の差別性」が重視されるべきであるという点である。この主張は「在日コリアンとして差別撤廃の運動を担ってきた経験」、すなわち、これまでの被差別者としての運動の経験から導き出された結果であると述べられている29)。
E 牧師〔〈被害者〉牧師──引用者註〕が受けてきた衝撃、発言を聞いた青年の怒り、興奮した議論の雰囲気、議論のコンテキスト等を確認・分析すると「同性愛者を認めるくらいなら私は死ぬ」と一字一句発言していなくとも、あるいはB 牧師〔「差別発言」をしたと告発された韓国からの宣教師──引用者註〕本人が主張するように「そんな解釈は死んでも受け取れない」と言ったとしても、またその発言を日本語であろうが韓国語であろうが、発言の主旨として同性愛者の存在を否定する発言であり、その発言は差別性を持っていたと言わざるを得ない(強調、引用者)30)。
 全協の青年たちが、同性愛者に対する「抑圧する側」としての自分たちのポジションを〈発見〉したように、そのような差別問題の複数の軸を導入する視点は、かれらが主張した先で、少しずつ共有されはじめ、結果的にこのように「差別性を持っていた」事柄であると表明される状況を導き出したといえる。
 この文章が掲載された『報告書』は総会全体に配布され、全協のみならず、女性会やその他の人々も含めて問題が共有されたということとなる。もちろん、先に述べたような「反発」も多くありながらも、しかし、全協の呼びかけによって、その態度を軟化させ、そこで発せられる声に呼応しようとした人々も存在した。青年たちの行動を契機として、対話が生み出され、在日大韓教会内の異なる主体が協働することとなったのである。
 この協働作業は、その後に連続して起こった「教会使用拒否」に対して、全協のみならず、女性会や性差別問題等特別委員会などが連名の要望書を各機関に送るなど、さらに継続することとなった。また、全協では同性愛者差別問題小委員会を中心に、身近なジェンダー/セクシュアリティをテーマとした学習会の取り組みなどが進められていった。
 しかし、解決されえなかった問題も存在する。ひとつには、起こった出来事が「差別性」をもっていたとされたが、その「差別性」を醸成する土壌については踏み込んだ議論がなかったことである。「差別事件」とは、差別という出来事が社会構造のなかに埋め込まれているがゆえに出現するものである。民族差別については、その事柄をかれらは熟知していながらも、この「事件」については差別が起こる土壌の問題についてはそのような認識はなかった。すなわち、あくまでも「事件」は突発的な事柄として扱われたのである。
 そしてもうひとつは〈被害者〉がレズビアン(=女性)であったがゆえに特徴的であった問題である。後者について次節でみていくこととしたい。

4.「事件」のなかで不可視化される〈レズビアン存在〉

 これまで本章では起こった事柄を「レズビアン差別事件」と記してきた。しかし、実際には「同性愛者差別事件」として問題化されたために不可視化された事柄もある。ここでは誤認や他者化によって〈レズビアン存在〉31)が不可視化されていく様子をみていくこととしたい。
 ひとつの「差別事件」は、いくつかの問題を同時に創出することとなった。先にみた、「在日」たちの「反発」もそのひとつとして数えることができる。もうひとつの事例として大阪教会留学生会による集会阻止行動がある。2000年9 月、すでに開始されていた事実確認会と並行して、公開学習会が企画された32)。主催は事実確認会の任を引き継いでいた性差別問題等特別委員会である。この学習会に講演者として依頼されたのは、先述した「事件」のなかで「問題」とされたレズビアンであった。
 会場となった大阪教会の留学生会が、この学習会の内容を知り、集会開催の阻止を訴えかけるビラを作成し、大阪教会内や近隣に配付するという事件が起こった(堀江 2003)。かれらは、そのビラのなかで「同性愛をする牧師」を講師とした集会が開催されると述べ、阻止すべきであることを主張した。そこで根拠として引用された聖書テクストのなかには、つぎのものが含まれていた。
「女と寝るように男と寝る者は、両者ともにいとうべきことをしたのであり、必ず死刑に処せられる」(レビ記 20: 13)。
「イスラエルの女子は一人も神殿娼婦になってはならない。また、イスラエルの男子は一人も神殿男娼になってはならない」(申命記 23: 18)。
 ここでは同性愛者を断罪しているとして引用される箇所をめぐる詳細な解釈には踏み込まない。そもそも『聖書』として編纂された諸書は、現代の「同性愛者」という概念自体が存在しない時代に書かれたものである(West 2005)。にもかかわらず、「同性愛者」や「同性間性行為」を断罪しているとする人々の解釈には、テクストの書かれた文脈を考慮せず、脱歴史化してテクストと向き合う態度がしばしばみられる。そのような意味で、テクスト解釈が読み手の文脈に依存した行為であることがこれまでにも指摘されてきた33)。
 しかし、それを横に置いておいたとしても、かれらの行動にはやはり滑稽さが残ることは否定できない。というのは、先に引用したものはその一部ではあるが、これらのテクストを字義通りに読んでも、歴史背景を考慮して読んでも、そこには「レズビアン」に結びつけられる理由が見出されないからだ。「レビ記」の一節ではそもそも想定される読者が男性であり、女性は員数外に置かれている。また「申命記」の一節で想定されている「女子」の「娼婦」とは男性を相手とする存在であり、そもそもレズビアンを断罪することへの意味をなすものではない。
 このような誤認ともいうべき事態のほかにも〈レズビアン存在〉を不可視化する出来事はあった。たとえば、職務上、事実確認会に参加した人々の反応には、「在日」の置かれた被差別状況と比較するものが多かった。つまり、起こった事柄の「同性愛者」という単語を「在日」という単語に置き換えて、自分の事柄に引き付けて考えようとする方法が採用された。しかし、それは〈被害者〉が「日本人」であったからこそ可能な言葉の置き換えにすぎない。ここで生じる問題は〈レズビアン存在〉を他者化し、在日韓国/朝鮮人の共同体のなかに存在するはず4 4 のレズビアンを不可視化してしまうことであろう。
 このような経緯を振り返ると、「日本人」であったからこそ、レズビアンとして表明することが可能であったという側面も浮かび上がってくる。すなわち、日本社会において「信仰共同体」と「民族共同体」というふたつの側面を持ち、様々な迫害に対する対抗とエンパワメントを生み出してきた在日大韓教会において、〈血縁〉や〈文化の継承〉を阻害するとまなざされる同性愛者は──ましてや、家父長制の背景においてレズビアンはゲイ以上に──「生きのびる道」を求めることができなかったと考えることもできる。
 「事件」の問題化は、「日本人」であったがゆえに可能であったが、しかし先にもみたように同じ理由によって「反発」という態度を引き起こした。そこに〈被害者〉が「日本人」であったことをめぐる両義性が横たわっていることにも注意しておきたい。

5.〈排除〉の契機から〈連帯〉の可能性へ

──複数の視点からみる差別問題の構想に向けて

 本章では、在日大韓教会で起こった「レズビアン差別事件」を事例として、複数の課題を問題化しつつ、〈連帯〉が生成する可能性を描き出そうと試みてきた。
 しかし、〈連帯〉の可能性として描き出した事柄は、現在、全協では課題として継続されてはいない。また、その後の度重なる教会使用拒否については、解決はおろか、対話の可能性すら開かれることはなく、まったく改善される状況には至っていない。
 換言すれば、この「事件」への取り組みは、世代交代などもあるなかで、数年後には「風化」の道を辿ったといえる。事実確認会を主導してきた性差別問題等特別委員会は総会の機構改正によって廃止された。また、全協内でも同性愛者差別問題への取り組みにリアリティがもてず、反発が起こるようにもなった。さらには、青年会の活動自体が停滞する時期も重なり、2007 年には全協の同性愛者差別問題小委員会は組織から離脱し、独自の活動を行なっていたが、その後、自然消滅的に活動を停止して現在に至っている。
 では、このような出来事を記述していくことの意義は、いったいどこにあるのだろうか。
 ここでは、“シングル・イシュー”にとどまらず、複数の軸をもって差別問題をとらえていこうとした青年たちの動きが、たとえ一時期であったとしても存在したことを記録していくことの必要性という点を指摘しておきたい。事柄を記録していくことは記憶を他者へと繋いでいくことをも意味する。歴史のなかで記録に残されない出来事は抹消されていく。多くの場合、抹消されていく出来事は存在すらしなかったものとされていく。このような現実をとらえ、歴史のなかに出現した相互作用をみるとき、そこに可能性を見出し、記述していくことは意味のあることではないだろうか。
 もちろん、記憶を繋いでいく宛先として想定されうるひとつ、「在日」の後の世代にどのような課題をもたらすのか、継承されるのかは、「事件」への取り組みが「風化」した現状では見通しを立てることは困難ではある。しかし、本章で明らかにしたことは、民族差別という軸から「被差別者」としての属性のみを認識していた「在日」の青年たちが、複数の主体を発見していったことであり、そこに重なりあう経験の共有を可能にする契機があったということである。このような経験の共有は、とりわけ、昨今、複数の視点を導入することが困難になりつつある同性愛者の社会運動34)にもなにがしかの示唆を与える可能性をもつものではないだろうか。具体的にどのような回路を切り拓くことができるかについては、今後、詳細に考察する必要があるだろう。
 最後に、冒頭に述べた自分の身に起こった事柄を描き出すという手法について振り返っておきたい。この手法によって記述することの困難のひとつには、記述する当人が直面せざるをえない脆弱性の問題が存在する。過去の資料を読み、分析を進めるなかで、当時の感情を想起せざるをえない場面が生じるからだ。そのため、何度も「行き詰まり」を生み出すこととなった。換言すれば、本章の執筆作業は、その脆弱性のただなかに身をさらしてみる試みでもあったということだ。
 しかし、記述するという作業は、どのようなコンテクストで遂行されるかと無関係ではない。あえて記しておきたいことは、この報告書自体が「マイノリティ研究会」という場を基盤とした〈共同研究〉であるということだ。アイデアから草稿、そしてひとつの論文を書き上げていく作業を、合宿をはさんで中間報告し、コメントしあう時間と空間を共有するなかで遂行していくということ──研究テーマやフィールドが異なる研究者たちとの対話のなかで、その〈共同研究〉は進められていく。このような〈共同研究〉は、筆者にとって、「行き詰まり」を乗り越えていくためのひとつの重要な手段となった。これもまた、偶然であるとはいえ、貴重な〈発見〉であることは事実である。そのような意味で、本章は結果的に〈いま-ここ〉でなければ取り扱うことのできなかった事例であったともいえる。
 本章で扱ったような事例は、筆者にとって、場は異なれど、しばしば直面しうる事柄ではある。すなわち、レズビアンであることを表明して社会運動に携わる場合、排除や差別の場面に立ち会うことは少なくはない。それはあるマイノリティの属性をもつがゆえに直面する〈生きがたさ〉と表現することもできるのかもしれない。もちろん、簡単に普遍化できるものではないだろう。しかし、マイノリティの属性をもつ者に限らないことではあるが、自分の〈生きがたさ〉を俎上に載せることで、その糸を解きほぐしていくこと、その背景にある社会構造を見据えていくこと、そしてそれを〈共同研究〉という場で遂行していくこと──これらのプロセスのなかで、隘路からの出口や、あらたな地平を切り拓いていくことができる可能性もあるのではないだろうか。
 本章で扱った事例は、複数の視点による差別問題への取り組みの可能性を模索したものであったが、また同時に明らかになったことは、その事例を記述するプロセスが〈共同研究〉という複数性が交錯する場で可能になったことである。本章でみてきたように「差別者」と「被差別者」という立場はコンテクストによって変化しうる。また、「研究者」と「実践者」のあいだに明確な境界線を引くことも不可能な場合もある。このように立場や境界を横断/越境していく営為について、それを研究分野や〈現場〉の運動論にどのように具体的に活かしていくことができるかについては、筆者の今後の課題としたい。

[注]
1)上野が「複合差別論」として展開している内容と問題点、そしてその後の議論については(山本 2007)に詳しい。
2)昨今、「在日コリアン」という呼称が用いられることが多いが、本章では「在日韓国/朝鮮人」と表記する。その理由はつぎのとおりである。現在、朝鮮半島は北緯38 度線の「休戦ライン」を境界として二つの国家に分断されている。筆者が「在日韓国/朝鮮人」という呼称を使用することは、この分断の原因を創出し(歴史的側面)、現在も固定化しつづける(現在的側面)、主体のひとつに「日本」という国家が存在することを念頭におくという意味でもある。多少ナイーヴに過ぎる印象を与えるであろうが、後述するように本章の事例を扱うにあたっては筆者自身のポジション(「日本」国籍をもつ「日本人」)を問われざるをえない状況が横たわっているので、あえてここに明記した。また、「在日」という呼称を使用することもある。
3)山本崇記は、研究者と社会運動の実践者のあいだにある境界線について「境界線は実態上、横断/往復されている。にもかかわらず『科学』としての研究を明確にしようとしたとき、この区分は強化され、社会運動/研究の実態を見えにくくさせ、また、その対自化も不可能にさせてしまう」と述べる(山本 2008: 77)。このような境界線に関する論争は「科学」や「客観性」という言葉とともに頻繁に繰り返されているが、研究と運動のあいだに境界線を引くことで担保されるものをこそ問うべきであろう。この点については、研究分野において境界線の「横断/往復」がさまざまに提示されるなかで地平が拓かれていく必要があると筆者は考える。
4)社会学の分野で日本のゲイ・スタディーズを牽引してきたひとりである風間孝は、同性愛者の人権をめぐる「府中青年の家」裁判闘争を担いながら、そのプロセスを「参与観察」として位置づけている。自らも同性愛者団体の構成員として裁判を担った風間は、従来、外部から赴き、介入することによって対峙するものととらえられてきた「フィールド」という概念を拡大し、自らの立場をも研究対象としうると述べる(風間 1996)。ここにもまた方法論に関するあらたな提起が含まれているといえる。
5)在日大韓基督教会は、1908 年、朝鮮半島から東京に来ていた留学生たちによって活動を開始した。1909 年には朝鮮半島から牧師が派遣され、1912 年には朝鮮イエス教長老会および監理会(メソジスト教会)と宣教合意が締結されたことをみても「本国」との関係性が強かったが、1934 年「在日本朝鮮基督教会」として独立した。しかし、大日本帝国の翼賛体制のなか、1940 年には日本基督教会に合併された後、宗教団体法の要請により設立された日本基督教団へと組み込まれることとなった。日本敗戦(朝鮮半島「解放」)後、1945年には在日本朝鮮基督教連合会として再出発した。近年は、韓国からの宣教師が多くの力をもっていることが指摘されてきている。現在、関東・中部・関西・西部・西南地方会の地域共同体に、100 ほどの教会・伝道所が存在し、信徒数は約7,800 人である。
6)とくに「レズビアン」というアイデンティティをめぐる議論の変遷については(堀江 2005)を、またレズビアンと性的指向の構築の関係性については(堀江 2010b)をそれぞれご参照いただきたい。
7)具体的には「『悔い改め』をテーマとするよう要請する」と決定された。「悔い改め」(回心/改心)というキリスト教用語については複数の解釈が可能であるが、当時、「同性愛者は悔い改めなければならない」との意見を青年局の牧師側から提示された点をみると、同性愛者であることは宗教的に「罪」であるとの認識に立つものと思われる。すなわち、ここで示される「悔い改め」とは“異性愛者になること”であると解釈することもできる。
8)1998 年2 月10 日(火)〜 11 日(水)、於・在日韓国基督教会館(大阪市生野区)。テーマは「ジェンダーの視点からルツ記を読む ──女も男ももっと自由に生きるために」。講師は大嶋果織(日本キリスト教協議会教育部)。主催は在日大韓教会総会青年局(当時)、後援は同青年会全国協議会。
9)これらの経緯は後述するように「事実確認会」の後、『報告書』(在日大韓教会 2001)にも掲載されているが、発言の内容については異なった意見もある。たとえば、女性会連合会はこのような発言自体は「確認されていない」ことを強調する立場をとっている(在日大韓教会女性会 2009)。
10)付け加えるならば、同日、この集会に引き続き、同じ主催者による「全国青年祈祷会」は使用許可が出ていたために会場を大阪教会に移して開催された。
11)日本基督教団における「同性愛者差別事件」は、男性同性愛者であることを表明した受験者の教師検定試験受験に際して「簡単に認めるべきではない」との発言が1998 年1 月の常議員会(総会閉会時の議決機関)にて起こったことに端を発している。当該受験者は合格し、牧師となったが、差別発言・文書の問題はいまだに解決していない。この「事件」は、性差別問題に取り組んでいた女たちが中心となって抵抗運動を担ってきたことが特徴的である(堀江2006: 第2 部)。また、この事件以前に、レズビアンやトランスジェンダーが自己を表明して教師検定試験を受験しているが、その際にはいっさい「問題」とはされなかったことを付け加えておく。
12)この二人の男性異性愛者牧師たちは、対極とも言える態度を表明するに至ったと解釈することもできる。この点については、両者の立場、すなわち、在日韓国/朝鮮人が置かれている状況と、その共同体の歴史を深く知ろうとしない韓国からの宣教師が置かれている状況とのちがいを示唆しているようにも思える。
13)第31 回日本基督教団総会(1998 年10 月)にて「同性愛者を牧師として認めるべきではない」などの主旨を含む文書が議場配布された。「大住雄一」と署名されていたことからその後「大住文書」と呼ばれることとなった。大住は、当時、東京神学大学・教員と同時に東京の用賀教会・牧師を兼任していた。
14)堀江有里、1999、「これも『氷山の一角』──在日大韓基督教会における差別事件」『ECQA ニュースレター』第6 号(1999 年3 月20 日発行)、1-3。
15)NCC 関西青年協議会「抗議と要望」(在日大韓基督教会・総会長 慶惠重牧師宛/ 1999 年3 月26 日付)。
16)在日大韓基督教会青年会全国協議会中央委員会「要望書」(在日大韓基督教会総会・総会長 慶惠重牧師宛/ 1999 年4 月2 日付)。
17)同上「要望書」。
18)「同性愛者は悔い改めなければならない?!」全協機関紙『걸음』第24 号(1999 年2 月9 日発行)。
19)ここでは、在日韓国/朝鮮人と対比したカテゴリーとして「日本人」を用いる。この場合、「日本人」とは「日本国籍保持者」という大雑把な括りであるというよりも、アイヌ民族や琉球民族(沖縄/奄美)ではないという意味での「多数派民族」が想定されている。
20)「同性愛者は悔い改めなければならない?!」全協機関紙『걸음』第24 号(1999 年2 月9 日発行)。
21)第47 回全国青年夏期修養会。1999 年8 月11 日(水)- 14 日(土)、於・竜王荘(愛媛)。特別講演「在日大韓教会青年局における同性愛者差別事件をめぐって」。特別講師は堀江有里(日本基督教団向島伝道所牧師/当時)。
22)「この内容が組み込まれることによって、各個教会の牧師や長老が疑問を呈している中、参加出来ない青年たちも実際にいた」という事態を迎えており、全協としては「大きな決断」であったといえる(堀江有里「全協が与えてくれた勇気 ──夏期修養会に参加して」『ECQA ニュースレター』第8 号/ 1999 年9 月1 日発行、11-12)。
23)小委員会の設置は、全協内での問題意識の共有を深めることと同時に、後述する事実確認会の対策会議を担うことが目的であったことをメンバーのひとりであったT が報告している(「『豊か』にされる ──在日大韓基督教会における同性愛者差別事件から」『ECQAニュースレター』第12 号/ 2000 年6 月15 日発行、5-6)。
24)「自分自身を問うこと」『ECQA ニュースレター』第36 号/ 2004年6 月20 日発行、4-5。
25)〈被害者〉側の支援には、日本基督教団における「同性愛者差別事件」への取り組みのなかで協働関係にあった日本基督教団在日韓国朝鮮人・日韓連帯特別委員会(当時)のメンバーも参加していたことを付け加えておきたい。
26)すでに性差別問題(=女性差別問題)に取り組むために女性会の働きかけを背景として存在していた性差別問題等小委員会が昇格するというかたちであった。
27)『報告書』p.12。
28)『報告書』pp.12-13。
29)以下、原文では実名が明記されているがここでは割愛する。
30)『報告書』p.13。
31)〈レズビアン存在(lesbian existence)〉とは、アドリエンヌ・リッチが提唱した概念である。リッチは、レズビアンが存在しないものとして扱われてきた歴史があるなかで、しかしそこには「レズビアン」と名乗ってきた人々の存在があると同時に、その存在の意味をあらたに絶えず作り出していくという側面からこの概念を用いている(Rich 1986=1989: 87)。リッチの〈レズビアン存在〉とその概念に関連して提示される〈レズビアン連続体〉について、詳細は(堀江 2010a)をご参照いただきたい。
32)2000 年9 月30 日(土)、於・在日大韓基督教会大阪教会(大阪市生野区)。テーマは「キリスト教の中の同性愛者差別 ──レズビアンとして宣教課題を担う」。講師は堀江有里(日本基督教団向島伝道所牧師/当時)。主催は在日大韓教会性差別問題等特別委員会。
33)日本語で読めるまとまったものとしては(山口 2008)を参照のこと。山口の方法論上の問題については(小林 2009)を参照のこと。また、聖書テクストを部分引用することによって同性愛者を攻撃することの問題性については(Horie 2010)でも考察した。
34)とくに同性間パートナーシップの法的保護を求める動きについて、複数の視点を導入することの必要性を(堀江 2010c)で考察した。

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