あとがき

櫻井浩子×堀田義太郎

 本報告書は、2008年度グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点院生プロジェクト「出生をめぐる倫理研究会」の活動を基礎に、この研究会に参加した立命館大学大学院先端総合学術研究科院生に研究員が加わって執筆した論考から構成されている。
 「出生」あるいは「誕生」とは、素朴にいえば、誰かがこの世に生を享けて存在し始めるような出来事である。とはいえ、出生に至るまでは、なにも存在しない——「無」である——かと言えば、もちろんそうではない。受精卵から胎児になり、出生して新生児になるという過程が連続的だということは誰もが知っている。「出生をめぐる倫理」の大きな主題も、生理的・物理的な意味での「出生」に至るまでの過程の存在者(胎児)の処遇をめぐる問題にある。胎児の処遇を決めるのは、すでに出生して生きている人々である。したがってその処遇は、現に存在する人々のもつ価値観や感情、それらを基盤として作られている様々な制度に、大きな影響を受ける。出生までのプロセスは、胎児にとっては徐々に成長し新生児に至る過程であると同時に、妊娠した女性にとっては、体内で胎児の占有率が高まり、分娩に至る過程でもある。
 本報告書に寄稿された論文の内容については、もちろん本文を読んで頂くに如くは莫いのだが、そして松原洋子氏の「まえがき」に加えるべきこともないのだが、ここでは編者として屋上屋を架すことを恐れずに、各論文を「出生をめぐる倫理」という論点に即して簡単にみておきたい。
 出生をめぐる倫理的な諸問題の典型的な論点は、胎児を私たちと同格の存在とみなすべきか否かというところにあるが、この論点を直接扱っているのが池端論文である。池端氏は、受精卵から私たちと同格の人間とみなすカトリックの議論に即して、慈恵病院が設置した「赤ちゃんポスト(こうのとりのゆりかご)」の意義と限界を考察する。受精卵から私たちと同格の人間とみなす立場からは、当然人工妊娠中絶は強く禁止される。また、この立場は同時に、親に子を「家庭」で養育する義務を強く課している。この立場からすれば、「赤ちゃんポスト」は一方では、さもなければ中絶で生命を断たれていた子の生命を救うという意義があるが、それはあくまで必要悪にすぎないということになる。
 ただ、このようなカトリックの立場を採らないならば、胎児の処遇について、妊娠した女性の意向を無視できないこともまた、明らかである。そして、胎児の処遇——とくに産むか産まないか——に大きな影響を与える要因の一つが、養育負担を誰がどの程度負うかである。吉田論文は、産みの親と育ての親を強固に結びつける価値規範と法制度が女性に人工妊娠中絶を強いているという認識を背景として、池端論文とは対照的に、産みの親の養育義務を軽減・解消する一つの手立てとして「赤ちゃんポスト」に一定の評価を与える。とはいえ、吉田氏の分析の主眼は「ポスト」の評価ではなく、「ポスト」を導入せざるを得なくしている現状にある。産みの親に養育負担を課している社会が、むしろ人工妊娠中絶を選択せざるを得ない状況に女性を追いやっているという問題意識から、吉田氏は日本の養子制度の不備を分析し指摘する。
 それに対して、野崎論文が扱うのは、より直截に「生」そのものに対する態度の問題である。「生きるに値する生」と「生きるに値しない生」とを区別して、後者を死なせることを正当化しようとする議論に対して、野崎氏は「すべての生は無条件に肯定される」という立場の成立可能性を問う。松原氏による「まえがき」でそのエッセンスが抽出されているように、野崎氏の論文の力点は、問題に解答を与えるというよりもむしろ一つの「問い」を様々な角度から彫琢していくところにあると言える。野崎氏の考察の主題は必ずしも胎児の位格にはないが、あえて出生をめぐる倫理という観点からみるとすれば、選択的中絶が「生の無条件の肯定」という立場からは「棄却」される、という指摘は、胎児の生もまた「無条件の肯定」の対象に含まれうることを示していると言えるかもしれない。
 「ポリオ生ワクチン獲得運動」の歴史を詳細に追った西沢論文もまた、直接「出生」を扱っているわけではないが、小児をめぐる「母親」の活動に対する視角は、出生後の倫理的な諸問題に対する関心をゆるやかに共有していると言える。西沢論文でなにより目を引くのは、ポリオワクチン獲得に至る運動に母親たちが果たした役割の大きさである。これをたとえば、子のために奔走する母親の愛情を示している、と見るのは単純すぎるだろう。私たちは、そこにむしろ、育ての親が担う負担の過重さを看取すべきである。子のために奔走したのがなぜもっぱら母親だったのか、逆に、他の人々はなぜ母親と同様の熱意をもって行動しなかったのか(あるいは、できなかったのか)という問いは、家族とくに女性に課される養育義務をめぐる問題にかかわっている。
 北村論文は、血友病の患者会内の論争を通して、出生前診断・選択的中絶をめぐる問題に「痛み」という観点から切り込んでいる。選択的中絶をめぐるこれまでの議論は、ダウン症候群が選択対象の筆頭にあげられていることもあり、胎児の「障害」を理由にした中絶の場面を想定したものが多かった。「障害」については状態が固定していることから、〈障害はないほうがよい〉という選択的中絶擁護論に対して〈本人は必ずしもそうは思っていない〉という主張に基づく批判が成立しやすい。だが、北村氏が、文字通り痛々しい文章の引用を重ねつつ記述する血友病の「痛み」は、たしかに周囲からだけでなく本人にとってもやはり「ないほうがよい」と思えてしまうようなものである。北村氏が焦点化する「痛み」は、「障害」を前提とした選択的中絶批判論の限界を示していると言えるだろう。
 次の堀田論文の主題は、出生前診断・選択的中絶擁護論の問題点と選択批判論の射程にある。選択擁護論の問題点を指摘しつつ、同時に、従来の選択的中絶批判論の射程を見定めようとしている。堀田氏は、妊娠した女性の「負担」を基盤として、選択的中絶批判論の射程を確認し、批判論も最終的には妊娠している女性の「自発性」に依拠せざるをえない、と指摘する。
 櫻井論文の主題も、これまでの出生前診断・選択的中絶をめぐる議論を超える論点にかかわっている。それは、重症新生児の治療選択問題のなかでも、特に超未熟児として生まれた子に対する蘇生処置の是非である。「出生」とは、母体外に「出」て「生」きられる人が前提である。それに対して、重篤な疾患をもち、早期に超未熟児として分娩される子は、分娩直後に呼吸をしていない場合もある。これを「仮死状態」と呼ぶのか、「出生」ではなく「死産」とするのか。これは、従来の意味で「出生」という語を使う限り、扱うことが困難である。人工妊娠中絶が許容される期間は「母体外生存可能性」を基準としているが、その期間内に仮死状態で分娩された子は、母体外生存可能性がないと言ってよいのか、あるいは徹底的な蘇生術を施すべき対象なのか。

 以上、本報告書に所収された各論文を簡単に概観してきた。もちろん、本報告書が扱うことができたのは、出生をめぐる倫理的諸問題のほんの一部にすぎないし、各論文の扱っている主題は、その各々がさらなる深い考察を待つ問題でもある。ただ、ここに少なくとも、様々な角度から「出生をめぐる倫理」問題の多様性と広がりを示すことができたとすれば、「問題提起」という本報告書の所期の目的は達成されたと言えるのではないかと編者は考えている。読者の皆様には、是非とも厳しいご批判・コメントを頂きたいと考える次第である。

 末尾になりましたが、本報告書の刊行にあたり、多くの皆様にお力添えを頂きました。限られた紙幅のため四人の方々にのみ感謝の意を表したいと思います。
 まずなによりも「出生をめぐる倫理研究会」顧問の松原洋子先生には、研究会の運営はもちろん本報告書の企画の成立にご尽力いただき、そして簡にして要を得た「まえがき」をご寄稿して頂きました。本当にありがとうございました。
 また、論文執筆と編集の両方について、立命館大学グローバルCOE「生存学」創生拠点ポストドクトラルフェローの安部彰さんに多大なご助力を頂きました。二度にわたる長時間の編集会議及び編集作業において、つねに真摯かつ的確なコメントとアドバイスを頂きました。ありがとうございました。
 そして、編集から刊行に至る全過程において、同拠点事務局の片岡稔さんと佐山佳世子さんには、本当にお世話になりました。ありがとうございました。

2009年12月