「痛み」への眼差し──血友病者をめぐる論点の構図

北村健太郎

「まあ、俺らはサイボーグやからな」
私がある血友病者と話していたとき、彼は何でもないことのように言った。(北村 2007c: 176)

1.本稿の意図
 血友病者本人もしくは彼らに深い関わりを持つ人々の視点から、日本における血友病者とその家族の患者運動の歴史を記述し、そこに立ち現れる諸問題を考察した。その結果、血友病者やその家族にとって、1960年代後半から1970年代が発展的で楽観的な時代だったことが明らかになった。血友病者とその家族が1970年代に経験した根本的な変化として、以下の点が指摘できる。第一に、“ホーム・インフュージョン”(家庭輸注/自己注射)の獲得に象徴される血友病医療とそれを支える公費負担は、血友病者の社会参加を容易にした。第二に、当時は古い血友病の表象が一般的であったので、社会参加を目指した血友病者は繰り返し抗議を行ない、周囲の認識を正しく改めさせた。その過程で、血友病者は患者会/コミュニティ外部との軋轢だけでなく、内部においても様々な葛藤を経験した。1970年代から1980年代初頭に血友病者とその家族を取り巻いた“ホーム・インフュージョン”を歓迎する空気を鑑みると、HBV/HIV/HCVの単独感染あるいは重複感染は、医療が常に内包する不確実性の帰結と言える(北村 2007a)。
 血友病者は、現在も血液製剤(1)を日常的に使いながら生きている。血液製剤は、産業社会の象徴といっても過言ではない。血液製剤は人体利用の先駆であり、科学化や工業化の時流に沿った製品であり、自然との境界を曖昧にさせた一端を担っている。血液製剤は様々な文脈で理解することが可能な多面性を持つ。進藤雄三は、ウルリヒ・ベックのリスク社会論(Beck 1986=1998)を背景に、血液製剤を治療法における「遺伝学のインパクト」と正確に捉え、医療の「個人化」の例として挙げた(進藤 2004)。
 本稿の目的は、リスク社会論を背景として、日本の血友病者と血友病医療の置かれた社会的位置を確認することである。特に血友病の遺伝(2)と血液製剤の歴史的経緯に注目して論点を析出し、血友病者の置かれてきた現実を明示する。
 本稿では、血友病者を基点にして遺伝から世界経済までを論じる。血友病の出生と遺伝に関わる事例として、「神聖な義務」問題を取り上げて論点を整理する(北村 2007b)。遺伝子組換え製剤と世界経済に関わる事例として、ごく最近の注射用ノボセブン不採算品再算定を取り上げた中央社会保険医療協議会総会の議事録の確認を行なう。両者はそれぞれ独立した問題であるが、血友病者の身体と血液製剤を媒介にして通底する。そこにあるのは「痛み」への眼差しである。血友病の出血時の激痛を念頭に置くと、両者は別々でありながら簡単には割り切れない。各論点のつながりを示すのが、本稿の意図である。
 血友病の遺伝形式を確認しておきたい。血友病は伴性劣性遺伝の先天性疾患である。ヒトの染色体は常染色体22対の44本と性染色体2本の計46本からなり、血友病に関わる第VIII凝固因子、第IX凝固因子を伝達する遺伝子は性染色体のX染色体に存在する。男性はX染色体とY染色体の組み合わせでX染色体を一つしか持っていないため、X染色体に異常があると血友病者となる。女性はX染色体を二つ持っているので、一つに異常があってももう一つが正常であれば発病せず、次世代以降に血友病を伝える可能性のある保因者になる(Bolton-Meggs and Pasi 2003)。血友病は、イギリスのビクトリア女王の王女を通じて、プロシア、スペイン、ロシア各王室に伝わったことから、宮廷病(Royal Disease)と呼ばれ、その遺伝的側面が有名になった(Potts, D. M. and Potts, W. T. W. 1995)。しかし現在では、血友病者の3割以上は家族歴がない突然変異であることが明らかになっている(Bolton-Meggs and Pasi 2003, Erik[eds] 2005)。

2.「医療化」以前
 先に、血友病者は血液製剤を日常的に使っていると述べたが、あくまでも一部の血友病者に限られるのであって、世界の血友病者に血液製剤が行き渡っているわけではない。したがって、いわゆる「医療化」されていない血友病者のほうが多い。また、戦後直後の血液製剤が普及する以前は、血友病者に対する効果的な治療法は皆無に等しかったし、血友病という診断さえも的確になされなかった。紫斑病とか血小板減少と診断されることもあった。また、現在の医療が社会に及ぼした影響として「現在の医学の発展がもたらした診断と治療の分裂」(Beck 1986=1998: 410)が指摘される。
 1965年のクリオプレシピテート発見以前、血友病出血時への対処法と言えば、輸血もしくは止血剤の投与ぐらいであった。当時の日本で流通していた止血剤としては、トロスチン(中外製薬)、トランサミン(第一製薬)などがあり、どちらも注射とカプセルの二つのタイプがあった(全国ヘモフィリア友の会 1967)。大平勝美は子どものころ、供血者から注射器で採血してそのまま輸血する枕元輸血を受けていた。枕元輸血は1940年代から1950年代に盛んに行われ、供血者は患者の家族・知人以外に、主として業者があっせんする売血者がいた。大平は医師が売血者を諭していたことを覚えている(玉木 2005)。また、東北在住の血友病の子どもを持つ母親は、血液を確保するために奔走した(全国ヘモフィリア友の会 1967)。この母親は、繰り返し自らの血液を子どもに供血していたので、倒れることもあった(父親は血液型不一致)。当時は血友病者に何らかの医学的処置をしても、芳しい予後が得られることは少なかったので、特に地域の開業医にとって、血友病者は「面倒な患者」であった。やや極端な例かもしれないが、中京在住の血友病者は、以下のように書いている。

どこの病院に行っても、血友病の医療設備などというのは皆無に等しく、適正なる処置も施して貰えないまま、とかく面倒くさがられ、なおざりにされてしまう場合が多いのです。そんな冷遇を受けて、僕達母子は何度、気分を害したかしれませんが、それでも診て貰わなければならないという弱味から、丁重に頭を下げて生きてきたのでした。治りもしないのに、止血剤しか注射してもらえずに、腕は青黒く腫れ上がり、治癒しないのは患者の責任とまで言った医師……どうせ輸血をするだけなのだからと、患部診察の手間まで省いて、往診には看護婦一人だけを使わせた〔ママ──引用者注〕医師(その時は、母の献血だったが、看護婦の不始末から百ccの血液を無駄にしてしまい、母は二百ccの採血をしなければならなかった)………〔ママ〕輸血後、いかなる副作用が起きようと、その後の責任は一切負わないという前置きで処置を施してくれた医師(当時、僕は連日の輸血で副作用の起き易い体質になっていた。)………〔ママ〕など、こんな例を数え上げればきりが有りません。誇張した言い方かもしれませんが皆、自分の体面を考え、打算的で、人命軽視の、利己思想発現の窮極を極めた様な医師ばかりであった様な気がするのです。(鶴友会 1971: 21-22)

 出血時の激痛で苦しんでいる血友病者本人からしてみれば、「輸血後、いかなる副作用が起きようと、その後の責任は一切負わないという前置きで処置を施してくれた医師」は、腹立たしい医師であろう。しかし、輸血という医療行為が危険を伴うこと(3)を考えれば、その是非を別にすると「正直な」医師とも言える。
 イヴァン・イリイチは、医師たちを「生命を操作する官僚」(Illich 1999: 238)と名付け、「かれらの宗旨に従わなかったり、かれらの言う通りにしない連中を社会から放逐する」(Illich 1999: 238)と述べている。1960年代以前の血友病は、まさに医師たちの「言う通りにならない」疾患であった。「医師の言う通りになる」という意味では、血友病は医療に完全に組み込まれていなかった。医療は、すべての人を「患者」として取り込んで肥大化しているように思えるが、決してそうではない。診断と治療が分裂している近代医療では、診断ができても治療ができない患者は「面倒な患者」とされる。イリイチやベックは医療が社会に与える影響を指摘したが、近代医療は社会のすべてを引き受けているわけではない。むしろ、巧みに患者を峻別して引き受けるのを避けてもいる。

3.「神聖な義務」問題
 ここで、1980年に波紋を呼んだ渡部昇一のエッセイ「神聖な義務」をめぐる言説の構図を確認する。「神聖な義務」は、出生前診断について考える具体例として多くの先行研究で言及されている(大谷 1985; 日本臨床心理学会 1987; 佐藤・伊坂・竹内 1988; 保木本 1994; 松原 2000)。出生前診断とは、母体内で生育中の胎児の状態を出生前に把握するために行われる様々な検査と、それらの検査結果に基づく診断の総称である(玉井 2002: 80)。出生前診断をめぐっては、優生思想との関わり、女性の身体の自己決定権などの角度から多くの議論がなされてきた。以下では、エッセイ「神聖な義務」の論点とそれに対する抗議や反論の全体を総称して、「神聖な義務」問題と呼ぶことにする。
 1980年に上智大学教授の渡部昇一が発表したエッセイ「神聖な義務」は、血友病者やその家族にとっては、明らかに血友病者の存在を否定されたと受け取れるものだった。そのため、特に血友病者本人たちの間で問題とされた。当時、渡部は『週刊文春』に「古語俗解」というエッセイを連載していたが、「神聖な義務」は、『週刊文春』10月2日号に掲載されたものである。この中で渡部は、2人の血友病者の父親である大西巨人に関して、以下のように述べた。

血友病の子供を持つということは大変に不幸なことである。今のところ不治の病気だという。しかし遺伝性であることが分かったら、第2子はあきらめるというのが多くの人のとっている道である。大西氏は敢えて次の子供を持ったのである。そのお子さんも血友病でテンカン症状があると報じられている。既に生まれた子供のために、1千500万円もの治療費を税金から使うというのは、日本の富裕度と文明度を示すものとして、むしろ慶祝すべきことである(注:「既に」に傍点)。既に生まれた生命は神の意志であり、その生命の尊さは、常人と変わらないというのが、私の生命観である(注:「既に」に傍点)。しかし未然に避けうるものは避けるようにするのは、理性のある人間としての社会に対する神聖な義務である(注:「未然に」に傍点)。現在では治癒不可能な悪性の遺伝病をもつ子どもを作るような試みは慎んだ方が人間の尊厳にふさわしいものだと思う。(渡部 1980a: 135)

 それに対して、大西は11月1日付発行の『社会評論』第29号に「井蛙雑筆 十七 破廉恥漢渡部昇一の面皮をはぐ」を書き、「破廉恥漢渡部は非人間的デマゴギーに立って“なぜお前(大西巨人)は「既に生まれた生命」次男野人を「未然に」抹殺しなかったのか”と私(の「人身」)を攻撃批難したのである」(大西 1980: 114)と述べ、痛烈に反論した(注:「既に」と「未然に」に傍点)。10月15日付『朝日新聞』が、大西の反論を『社会評論』発刊直前に7段抜き記事として大きく取り扱ったことで多くの人々が注目した。10月21日付の朝日新聞には「神聖な義務」に関する投書が載った(藤原 1980; 佐々木 1980; 山下 1980)。渡部に対して反論をしたのは大西だけではない。横田弘を会長とする「青い芝の会」神奈川県連合会、作家の高史明、野坂昭如、遺伝学者の木田盈四郎、当時朝日新聞記者の本多勝一、上智大学学生の組織「渡部昇一教授発言を契機に障害者問題を考える学生連絡会議」などが挙げられる。上智大学内でも大きな波紋を呼び、エッセイ発表直後の11月1日付『上智新聞』第一面に取り上げられたほか、その後も関連記事が掲載された(4)。
 問題になった「神聖な義務」の背景を丁寧に見ていきたい。まず、渡部が「神聖な義務」を書くにあたり、下敷きにした記事がある。『週刊新潮』9月18日号の「1ヶ月の医療費1500万円の「生活保護家庭」 大西巨人家の「神聖悲劇」」という記事である(5)。この記事では、大西巨人が生活保護を受けていること、次男・野人(ルビ:ののひと)が手術をした2月の1ヶ月の医療費が1500万円だったことを伝えている。そして「納税者の負担によって支えられている福祉天国──。……が、個々の問題について、今は問うまい。ただ、現在の状態が続いていけば、福祉天国は、いつの日かパンクすることだけはハッキリしているのである……」と結んでいる。「個々の問題について、今は問うまい」と言いながら、「“過剰医療”はなかったか」という中見出しが挿入されるなど、記事全体として「有限である税金を医療・福祉に使い過ぎではないか」というメッセージになっている(週刊新潮編集部 1980)。これを受けて渡部の「神聖な義務」は書かれた(6)(渡部 1980a: 134-135)。直接的な表現こそないが、渡部は「障害者/病者が生まれることは社会の負担であるから、それを未然に減らすために障害者/病者が生まれないよう、自発的受胎調節(7)をすべきだ」と読めるように書いている。
 大西も「青い芝」も、最初の批判の時点で、渡部の「既に生まれた生命は神の意志であり、その生命の尊さは、常人と変わらないというのが、私の生命観である」という一節の欺瞞を見破って指弾している(注:「既に」に傍点)。「青い芝」やなべ実が息の長い運動を展開したが、渡部は「神聖な義務」問題に関して公的に謝罪することもなく、大学教授の職を追われるなどの決定的な社会的制裁を受けることもなかった。渡部はその後も「神聖な義務」問題が話題になると「既に生まれた生命は神の意志であり、その生命の尊さは、常人と変わらないというのが、私の生命観である」という一節を繰り返し用いて批判をかわした(注:「既に」に傍点)。

4.血友病者側の反論の困難
 大西を除いた血友病者とその家族は「神聖な義務」問題に対して、公的には明確な反論をしなかった。大西の場合、血友病者の子どもを持つ親の中でも、自らの子どもが攻撃されたことや作家という職業、自説を明確に言い切る性格など、特殊な条件が重なっていた。しかし、多くの血友病者やその親にとって「神聖な義務」問題は反論しにくい内容だった。
 「神聖な義務」問題には、大きく三つの論点がある。第一に、自発的な親の決定であれば生まない選択が認められるという点(8)。第二に、既に生まれた障害者/病者の生命を否定しているのではないという点。第三に、障害者/病者が生まれることは社会の負担になるという点である。
 第一の自発的な親の決定の論点に関して、血友病者の家族は個々の判断で保因者診断や羊水穿刺検査を受けていた。血友病の子どもを持つ親の中には、子どもが血友病と分かったら次の子どもは諦める人もいた。それは結果として自らの遺伝子を残さないのだから、渡部の主張に同意したように見える。けれども、渡部の言うような社会や民族のために子どもを諦めたというより、子どもに辛い思いをさせたくないという理由から諦めたのではないか。諦める理由が異なるから、渡部に完全に同意したとは言えない。しかし、子どもを持たないという選択は、渡部に親和的であると言える。また、Young Hemophiliac Club(9)(以下、YHC)の議論の中で「思わぬところで意見の対立もあった」のは、この論点である。血友病者本人たちの間で、血友病に生まれたのは不幸なのかという論争が「神聖な義務」問題以前に起こっている。1978年発行のYHCの機関誌『アレクセイの仲間たち』第8号から、「血友病患者の間における無理解」と題する匿名の投稿を引用する。

実は、数年前、YHC内部で、N君と、他患者とに論争があった。そしてこの論争は、まちがえば青年患者を分断しかねない(事実、ある地域では現実化した)。
それは、羊水診断(血友病においては、胎児の性別を検査し、遺伝されるおそれのある性別は妊娠中絶させるための診断)をめぐり、血友病の出生は不幸であるかの論争である。N君は、血友病患者を、不幸になるという認識で抹殺することに反発し、前述のように、血友病に生まれたことに価値をみいだす。これに対し、血友病に生まれたことは、やはり不幸であり、生まれないようにするのもやむをえないとN君に反対する。N君の論拠は自己経験に基づき、反N君の立場も同様である。
この問題は、羊水診断が適応なる疾患の患者の間で、論争され、N君の立場は、その疾患患者の生存権的権利を侵すという立場に極論され、反N君の立場は、遺伝される疾患には、優生保護の立場より、羊水診断を義務づけようとする。
YHCにおいては、この極論がでなく〔ママ〕、ともかく、既存の血友病患者の幸福は獲得されるべきだという点では一致した。(YHC 1978b: 20-21)

 ここに登場するN君は「僕は血友病に生まれたことで両親を恨んだりはしない。いや、むしろこの境遇においてくれたことを感謝しているくらいだ」(YHC 1976: 11)と言い切り、血友病に生まれたことを積極的に肯定する。しかし、N君の主張は血友病者に広く受け入れられたわけではなく、反N君の立場の血友病者も大勢いた。つまり、血友病者本人たちの中には「青い芝」に親和的な立場と、渡部に近い自発的優生の立場とが併存していたのである。匿名の筆者は、この併存状態を以下のように分析し、両者の相互理解を呼びかける。

N君は血友病患者でも軽症者である。通常の生活に支障は、なかったように思われる。一方、反N君的立場の者は、重症者もしくは、過去にそうであった患者が多い。
思うに、重症患者の場合、いく度となく、入院をし、寝たきりの状態に長くあったり、またそのため、したいことも大幅に制限された経験を持つ。
……私見は、N君の主張を基本的には賛同しつつも、血友病に生まれたことをよろこべない。失なった〔ママ〕もの、それは余りに多大だ。得失を較量〔ママ〕すれば、やはり失なった〔ママ〕ものの比重は大きい。N君と同様、血友病でない、自分の精神の醜悪さを考えつつ、血友病でない、自分の素晴らしい青春も思いうかばれる………〔ママ〕。
……“理解”を、一方的に押しつけるのではなく、彼らが何故理解を拒絶したのか、自分の方に無理解はなかったか再考してほしい。(YHC 1978b: 21-22)

 匿名の筆者も「N君の主張を基本的には賛同しつつも、血友病に生まれたことをよろこべない」と揺れている。YHC会長を務めた西村聡文は以下のように語る(10)。

当然いろんな人がいるから「自分の遺伝子は絶対残したくない」と思っている人も実際いるからね。我々の血友病の場合〔血友病者が父親の場合──引用者注〕だったら、女の子は作らない。産み分けができるんやったら、男の子だけにする、という人はいるわけや、実際。渡部の論点としては「金がかかるから」という方が大きいけれども、子どもを産まない理由が「金がかかるか」それとも「痛い思いをさせたくない」ということか、理由はさておき、結果としては一緒なわけやろ。遺伝子を残したくない、残さない、というね。そういう人は今でもいるやろうしね。そういう人らにとったら、金のことはさておき、結果として遺伝子を残さないというのは渡部の論点と同じやな。YHCでの意見の対立は、「実際にどうすんねん、自分が親の立場やったら」ということだったと思う。男の子を残すか、女の子を残すかっていう話もしたと思う。〔保因者になる──引用者注〕女の子はいらんという人らにとっては、理解できる部分もあるわな。
特に、各地のヘモフィリア友の会は、この頃は親が主体の会。親やったら、兄弟のおる子も多いけれども、実際に生まれて血友病と分かったら、もうその次は諦める、っていう人が多い。「しんどい、辛い思いをさせたくない」という理由でも、結果としては遺伝子を残さないのは一緒や。友の会全体として、意見を出すのは難しいやろ。せいぜい、会として出すとすれば「他人からとやかく言われる性質のものじゃない」「個人の自由や、夫婦の人権である」という程度。反論としては弱いわな。「個人の自由よ、放っておけよ」っていうだけやろ。

 血液製剤が普及した1970年代後半から1980年においても、血友病性関節症(11)の悪化から日常生活で不便な経験をして、血友病であることを積極的に肯定し難い血友病者は少なくなかった。そのため、YHCは「神聖な義務」問題に組織的に取り組むことができなかったのである。
 マスメディアにおける血友病の表象の問題では、1977年の「錆びた炎」問題(12)も1980年の「神聖な義務」問題も同じである。「錆びた炎」問題が組織的な抗議運動にまで発展した理由は、第一に、「和也は五歳だった。患者の六十パーセントが、八歳までには出血死するという、いわば“危険な年齢”にあたっている」(小林 1977: 36)などの「血友病=危険=死」というイメージを助長する表現が多かった点がある。第二に、「既存の血友病患者の幸福は獲得されるべき」というN君と反N君的立場の合意点から抗議運動ができた点がある。第三に、医学的知識の誤りを指摘して追い詰めていく抗議運動の戦略が分かりやすかった点などが挙げられる。それに比べて、「神聖な義務」問題では、前述した若手血友病者の意見の相違から、渡部への反論を集約できなかった。もし、無理に意見集約をすれば「青年患者を分断」しかねなかった。もちろん、血友病者とその家族の中には、第一の論点を無視して次の子どもをもうける人がいるから、その行動が渡部への反論だと言えるかもしれない。
 第三の社会的負担の論点について、血友病者とその家族からは正面から反論しにくい。1967年の全国ヘモフィリア友の会(13)(以下、全友)設立当初から血友病治療の公費負担を訴え、1974年の小児慢性特定疾患治療研究事業成立後も、年齢制限撤廃を求めて各地域で運動を続けてきた経緯がある。公費負担の要求は社会に医療費の負担を求める運動だから、第三の社会的負担の論点に直接に関わる。しかし、公費負担の年齢制限撤廃運動にも積極的に関わっていた(14)西村は、「神聖な義務」問題と公費負担は別だという認識を示す。けれども、社会の理解を得て負担を軽減しようとする親中心の運動では、渡部に暗黙にでも「血友病者は社会的負担をかける存在」と言われると、それを正面切って敵に回すような主張はしにくかっただろう。
 ここで、血友病者側が「神聖な義務」問題に対する反論が困難だった理由を整理する。まず、自発的な親の決定であれば生まない選択が認められるという論点に関して、渡部に親和的な立場、自発的優生を容認する立場の血友病者やその家族が少なからず存在し、血友病者やその家族が羊水穿刺検査や保因者診断を完全に否定していなかったことである。これが「神聖な義務」問題に対する組織的な反論が不可能だった最大の理由である。次に、公費負担の年齢制限撤廃運動を行っていた当時、社会的負担の論点に直接には反論し難かったことである。少なくとも全友の北村千之進会長は「決して社会に大きな負担や迷惑をかけるものではない」(北村千之進 1981: 50-51)と述べ、多少気にしていたふしがある。しかし、西村のように「神聖な義務」問題と公費負担は別という認識もあった。最後に、1980年当時の若手血友病者(15)が「神聖な義務」問題をめぐる思想的対決よりも、進学や就職などの目の前の具体的な問題への取り組みを優先したと考えられることである。「錆びた炎」問題における血友病の誤認は、進学や就職に直接響くので組織的な抗議運動に発展した(北村 2005)。
 以上の点から、血友病者側からの「神聖な義務」問題に対する組織的な抗議運動が起こらなかったと考えられる。大西の渡部に対する反論は別として、血友病者にとっての「神聖な義務」問題は、組織的な反論を行うことなく終結する。

5.激痛からの解放
 「神聖な義務」問題は、血友病の特徴や歴史的経緯を端的に示している。血友病者が生きていくにあたって止血の困難はもちろんだが、出血時の激痛がとても辛い。こうした経験から、子どもに辛い思いをさせたくないという渡部に親和的な立場を生んだと考えられる。血液製剤の登場以前から、出血時の激痛や血友病性関節症に悩まされながらも、血友病者は生きてきた。「血友病者は夭折する」という社会通念は、少なくとも正確ではない。確かに血液製剤が登場する以前は充分な治療を受けられず、若くして亡くなった血友病者が多かったのは事実だろう。しかし、血友病者は出血時の激痛に耐えながら、しぶとく生きてきたのである(16)。徴兵された経験を持つ北海道の福川宗二は、極限状況にあった自らを振り返って手記を書いている。

……血友病の診断書は一片のちり紙の用も果たさなかった。今にして思へば〔ママ〕敗戦へと傾斜しはじめた軍国日本には兵士としての人間が必要であって病は問うところではなかったかもしれない。不忠者、非国民とどなられ乍らの身体検査の一瞬、私は血友病の無残な死を覚悟した。帯広から根室、そして漁船団で千島の択捉島へ内出血でいたむ膝をさすり、死への行進の毎日だったが今その激痛の思出〔ママ〕はない。千島の風土はきびしくて、濃霧の流れる日が多かったが、鱒や鮭がのぼる川辺の這松の中のテント生活は、暖い〔ママ〕戦友に助けられて生きのび、戦火もなく8月15日の敗戦の日を迎えた。両膝の内出血のため歩行不能になり、瀬石の三角兵舎(療養所)にタンカで運ばれたのは、たしか終戦の噂が流れた数日後であった。ここで原隊と別れてシベリヤのラーゲルへと行った戦友とは其の後会うことはなかった。その半数とは永遠に。
祈りとは神へではなく、奇蹟を祈る祈りであるとはツルゲーネフの言葉である。
苦痛から恐怖へ、絶望から死へとつらなる想念は、極限の中で昇華してゆくものらしい。自殺ではなく、戦死か戦病死を夢みて、他力に死をあづけていた一血友病兵士にとって、敗戦と捕虜と歩行不能という事態は、また死への想念への転換でもあった。生への執着が本能的であるとはいえ、この体での生はあの状況では奇蹟にひとしいものだった。
「ロシヤ兵の銃うちながらこの穴に近づくらしも命きしめる」(昭20)
ところが、私は戦前多少ロシヤ語を学習した事があった。読み書きは少しできても会話は幼稚というものだったが、生か死かという銃を前にして、タワーリシ、ズドラスチエ(同志よ、こんにちは)の言葉は、のどからほとばしる生命の叫びであったにちがいない。
「働かざるもの食うべからず」のボルシエビキの下で、捕虜として生きのびてこられたのは、このロシヤ語一つであった。千島からサハリンへと2年余の内出血と通訳の日々は、死のかわりに無残な痕跡を四肢に刻んだ。ダモイ(帰国)してからの日々は、輸血とモヒと入院の連続であったが、もう25年の日がたつ。激痛の思出〔ママ〕は忘れ易いものだが、あの当時の命のきしむような、底知れぬ恐怖へのおびえは深い傷あととなっているかのようである。(福川 1970)

 出血してから止血するまで激痛を伴うのが、血友病の最大の苦しみである。血液製剤は血友病者を出血時の激痛から解放し、大袈裟に言えば人生観の変化にも影響を与えた。1976年8月31日から9月4日にかけて、世界血友病学会議(国際血液学会議およびWorld Federation of Hemophilia[以下、WFH]会議)が日本で開かれることが決まった(17)。そのため、全友の全国大会は拡大理事会をもってあてることにした。全国大会が開催されないことが分かると、YHCは「青年の集い」を自主開催することを決定した。世界血友病学会議に先立つ8月7日から8日の1泊2日の日程で、第3回「青年の集い」が行われた。このときは、主として“ホーム・インフュージョン”について議論と意見交換がなされた。若手血友病者たちは“ホーム・インフュージョン”に対する不安を抱いていた。しかし、「医療との適当な距離」を保つ方法として、当時の若手血友病者は“ホーム・インフュージョン” の実施と普及に期待したのである。第3回「青年の集い」の最後に、“ホーム・インフュージョン”の実施に関する大会決議を採択した(18)。

血友病における関節内出血、あるいは筋肉内出血等の治療のポイントは早期治療にある。
“Home Infusion”はその理念において血友病治療の第一選択である。
我々血友病患者はHome Infusionの実施を心から願っている。
実施に至る諸問題の解決を厚生省はじめ関係各機関に強く要望すると共に理解ある医師の方々の暖かい御援助をお願いするしだいです。(YHC 1977: 14)

 一方、世界血友病学会議でも“ホーム・インフュージョン”は重要な課題として議論された。YHCの代表として世界血友病学会議に参加した医学生の西田恭治は、以下のような感想を述べている。

……色々なプログラムや他国の人々とロビーでの交流で最も感じた事は、日本における“ホーム・インフュージョン”の認識の遅れです。
“ホーム・インフュージョン”という言葉は耳新しいものでしょうが、要するに家庭において患者自身、あるいはその家族が欠乏因子を注入する事です。……利点のみを考えると、もし我々の手で欠乏因子を注入できていれば早期の治療が……主な臨床問題となっている関節の変形を究極的に減らす事ができるように思われます。……まだまだ多くの問題が残っています。しかし、デートリッヒ博士(19)の報告では、“ホーム・インフュージョン”で早く処置される事によって、行なっている患者は行なっていない患者に比べて、学校や職場を休むことが少なくなったことをハッキリ証明してくれました。
しかし、“ホーム・インフュージョン”の利点はそのように数字で表われるものだけではないと思います。自分の体を今まで以上、広範囲にコントロールでき、生産的生活が十分に可能であるという意識、そして精神的な独立心が少しでも生じるという点が大きいでしょう。……“ホーム・インフュージョン”にとって、理解ある医師(医療機関)との密接な連携は絶対に必要なものです。
……私たち、“YHC”は8月の「青年の集い」で、“ホーム・インフュージョン”の問題を2日間にわたって話し合いました。“ホーム・インフュージョン”を欧米諸国のように進める上で困難な問題がいくつか挙げられましたが、心は皆が「オレもやってみたい!」と、いうことだったと思います。
“ホーム・インフュージョン”の長所がそれほどにまで魅力あるものだから、色々な困難も私たちの力できっと取り除くことが可能であると確信します。(YHC 1977: 15-18)

 1976年は、日本の多くの血友病者が “ホーム・インフュージョン”という言語を獲得し、改めて「医療との距離」の取り方を考えた年であった。若手血友病者は“ホーム・インフュージョン”を基礎にして、社会参加の可能性を今まで以上に強く追求し始めたのである。このとき既に、血友病者は産業化の一部に組み込まれていた。「産業体制が次々と勝利を収めてくるにつれ、自然と社会の境界は不明確」になり、血液製剤は「システムに内在する政治的、経済的、社会的、文化的な矛盾そのもの」になっていった。リスク社会論の視角から言えば、血友病者の血液製剤によるHBV/HIV/HCV感染は「近代化に伴う危険が科学化の対象となることによって、潜伏していたものが顕在化」(Beck 1986=1998: 314-315)した事象である。1970年代後半から、血友病者やその家族、医療関係者は「血友病の未来は明るい」と漠然と思っていた。しかし、血友病患者会/コミュニティは、徐々に「AIDSにまつわる不安」(石田 1983)、「AIDS現象」(大西 1983)などと呼ぶ、抜き差しならない事態に立ち入る。やがて、HBV/HIV/HCVが弁別されるのだが、血友病者とその家族、血友病患者会/コミュニティが一段落を迎えるには、長い時間を必要とした(北村 2009)。

6. 遺伝子組換え製剤と世界経済
 製薬企業各社は、血友病の特徴に注目した遺伝子組換え製剤の研究に本格的に乗り出す。血液製剤によるHBV/HIV/HCVの単独感染あるいは重複感染は、血液の持つ伝播的特性に由来する。それに対して、血友病の欠損因子は第VIII凝固因子あるいは第IX凝固因子の単一因子に限られる。そこで、欠損因子以外の成分を完全に除去して、欠損因子のみを補充できる製剤を製造すれば、感染症の問題克服に近づくというのが、遺伝子組換え製剤の製品コンセプトである。HBV/HIV/HCV感染症の顕在化以降、製薬企業各社は「より安全な血液製剤」を基本的な共通了解として、企業の利益の範囲内で研究開発を行ない、現在に至っている。
 HBV/HIV/HCVの単独感染あるいは重複感染は、1970年代から「血液は、輸血を通して、血液製剤を通して、世界を駆け巡って」(小泉 2006: 180)おり、血液原料を取引するネットワークが張り巡らされていたことを証明した事態だった(Starr 1998=1999: 345-355)。血友病者の「静脈」は常に世界に開かれている。現在では、遺伝子組換え製剤が世界経済のネットワークを通過している。ここで、遺伝子組換え製剤と世界経済の最近の一事例を押さえておきたい。それは、日本の血友病患者会/コミュニティに動揺を与えた血液製剤ノボセブンの不採算品再算定である。以下、中央社会保険医療協議会総会の議事録から詳細を確認する(20)。
 2009年1月14日、中央社会保険医療協議会総会が開催され、医薬品の薬価収載が議題として取り上げられた。加藤薬価算定組織委員長の報告の一つに「注射用ノボセブン1.2mg及び同4.8mgの不採算品再算定について」があった。加藤の報告を要約すると以下のようになる。
 既に薬価収載されている「血液製剤ノボセブン」を、緊急に不採算品再算定を行なった。ノボセブンは、2000年5月に薬価収載された遺伝子組み換え活性型の血液凝固第VII因子製剤で、血液凝固第VIII因子や第IX因子に抗体が生じた血友病者の止血などに使用されている。遺伝子組換え製剤である本剤の製造工程では、細胞培養過程でウシ由来成分等が使用されているが、2003年以降、BSE対策による原材料の管理厳格化に伴うコストは、これまで企業努力に担われてきた。しかし、開発途上国を含む他国に比べて日本への出荷価格が低い状況で現時点では不採算となっている。現行薬価のままでは近々供給停止せざるを得ない。関係学会からは本剤に代替するものがなく、医療上必要不可欠であるとして、供給継続の強い要望が寄せられている。以上から、本件は2006年度(平成18年度)薬価制度改定で薬価算定基準に盛り込まれた「不採算品再算定の要件に該当する既収載品のうち、安全対策上の必要性により製造方法の変更等を行ったものであって、当該既収載品の薬価をそのまま適用しては不採算となり、緊急性があるものについては、薬価改定の際に限らず、当該薬価を改定することができる」という規定に該当するので、薬価引き上げが妥当と判断して原価計算方式による不採算品再算定を実施した。具体的には、原材料の管理厳格化に伴う本社からの移転価格の上昇相当分について不採算品再算定による引き上げを行なった結果、1.2mg製剤の改定薬価が116,501円、4.8mg製剤の改定薬価が433,103円となった(21)。約1.5倍の値上がりである。
 この加藤の報告に対し、勝村久司委員が二つの質問をしている。「第一に、日本国内では不採算でも、海外の薬価を含めて企業全体として本当に供給が困難であるのか。第二に、企業からの申し出の理由と関係学会からの要請はあったが、患者会の納得を得るなどはしているのか」。勝村の質問には磯部薬剤管理官が回答した。「第一に、ノボノルディスクファーマ社は、血液製剤の世界的供給を継続すると理解している。そういう情勢もあって、相対的に日本の薬価が他国に比べて低いことから不採算となり、日本への供給のみを止める計画を提示され、今回の不採算品再算定に至った。第二に、原価計算の個々のコストについては企業機密の部分が非常に多いので、今回は患者会の意見を特に聞いていない」。磯部薬剤管理官は、以上のように回答した。
 勝村委員は、「日本として凝固異常症患者たちに血液製剤の供給を継続するために、薬価を上げる方法以外に、制度の工夫などの方法もあり得るかもしれない。患者会から厚生労働省に対して要望は提出されていないか」と重ねて質問した。磯部薬剤管理官は「患者会から寄せられている要望は特にない。ただ、今回は現行薬価のままでは近々供給停止せざるを得ないという本社の強い意思があって、供給停止になることから、薬価引き上げに至った」と回答した。勝村委員は「同じような理由で薬価を上げたことがあるが、患者会に十分周知していなくて、結局、また薬価を下げたケースもあったと思う。海外と比べたら安いといっても、患者からすれば高い値段がさらに1.5倍近く上がるが、その点は患者会には伝えてあるという理解でいいのか」とさらに念を押した。
 磯部薬剤管理官は供給停止が企図された場合の対応について補足説明をした。企業から供給停止の計画が提示されたときは、関係学会や医療専門職の意見を聞くのが通例である。医療専門職の意見として必要不可欠な医薬品で薬価引き上げもやむを得ない場合、薬価引き上げを行なう。その際、患者の意見を聞くことは通常ない。その上で磯部薬剤管理官は、「勝村委員の意見は治療用ミルクの反省だと思われる。不採算品再算定する場合には、患者の大幅な負担増にならないように十分考えなければいけない。今回は、あくまで移転価格の上昇相当分の引き上げに留め、40%程度の引き上げに収めた。もう一つ、特に先天性の血友病者には公費負担制度があり、患者の自己負担の問題はまず起こらないとした上で今回の不採算算定に至っている」と回答した。勝村委員は、「患者の立場に立って努力することは結構だと思うが、やはり少人数の患者である場合が多いので、今後は患者本人たちとも一定協議をして、その上で議論ができたらよいと思う」と、より患者本人たちの意見が反映されることを希望した(中央社会保険医療協議会 2009a)。
 日本の血友病患者会/コミュニティに、ノボセブンの供給停止に関する一報が届いたのは、2008年7月末である。血友病患者会/コミュニティは、厚生労働省とノボノルディスクファーマ本社との交渉が決裂して、血液製剤が供給停止になることを恐れた。供給停止は避けられたが、血友病者たちは改めて自らの身体が世界経済の動きと直結していることを実感した。現在、ヘモフィリア友の会全国ネットワークは、ノボノルディスクファーマ日本支社とのコミュニケーションを図っている。これは進行している事態なので、今後の展開も追う予定である。

7. 「痛み」からの問い
 本稿では、血友病者を基点にして、血友病者の身体と血液製剤を媒介に、遺伝から世界経済までを論じた。血友病の出生と遺伝に関わる「神聖な義務」問題と、遺伝子組換え製剤と世界経済に関わる注射用ノボセブン不採算品再算定は、それぞれ独立した問題である。しかし、血友病にとって重要な「痛み」という観点から考えると、まったく無関係とは言い難い。最後に、血友病者をめぐる各論点が「痛み」を基軸としてつながっていることを整理する。
 第一に、「神聖な義務」問題で、血友病患者会/コミュニティが渡部に対して組織的に反論が困難だった理由を確認する。最大の理由は、自発的な親の決定であれば生まない選択が認められるという論点に関して、渡部に親和的な立場、自発的優生を容認する立場の血友病者やその家族が少なからず存在し、血友病者やその家族が羊水穿刺検査や保因者診断を完全に否定していなかった点である。だからといって、渡部に完全に同意したのでもない。例えば、血友病児を持つ父親であった壱岐在住の松嶋磐根の手記には、以下のように書かれている。

冬の夜、うめき苦しむ敬の足腰を帯でしばりつけ、一睡もせずに、おさえつけてやることもあった。どんなにか痛いのだろう。苦しまぎれにつかんだ障子のさんが何本も折れ、ふとんのカバーもビリビリにちぎれる。出血であたりは赤く染まり、食事は受けつけず、水を飲ませても吐いてしまう。
ひとたび発作が起こると、こんな状態が10日も20日もつづくのである。看病する親のほうが参ってしまうほどだった。
……いくらつきっきりでいても、痛みひとつやわらげてやることもできない無力さ、腹だたしさを察していただけるだろうか。(松嶋 1974: 178)

 血友病者は出血時の激痛を経験し、その家族は激痛に苦しむ血友病者を見守ることしかできなかった。血友病者もその家族も、子どもが生まれるなら同じような辛い思いをさせたくないという点で一致していたし、それはきわめて渡部に親和的な結論であった。しかし、その結論は、渡部とまったく違うところから発している。渡部は社会や国家のために子どもを諦めるという考えであるのに対し、血友病者やその家族は生まれる子どもに出血時の激痛を経験させたくないという考えである。あくまでも、血友病者やその家族の判断基準は、「身体が痛いか痛くないか」にある。
 第二に、血友病者と世界経済との関係では、1970年代後半から、血友病者の身体は血液製剤を通じて産業社会/世界経済の一端に組み込まれていた。それも、直接「静脈」に深く埋め込まれ、関係を断つことがかなり難しい。その状況が顕在化したのが、HBV/HIV/HCV感染だと言える。
 しかし、1970年代後半から1980年代初頭は、自らの身体と世界経済とのつながりに目を向ける余裕はなかった。“ホーム・インフュージョン”が普及したとき、比喩的に言えば、血友病者は自らの「新しい身体」「痛まない身体」を手に入れたのである。血友病者は、自らも気付かぬうちに血液製剤によって「動物?人間(生体)と機械」の融合(Haraway 1991=2000)に成功し、自らの生体内で生成できない凝固因子を必要に応じて外部から取り込む「充電式サイボーグ」となった。「痛まない身体」に変貌したことは嬉しい反面、血友病者たちに「戸惑い」を生んだ。自らの「新しい身体」とどのように向き合い、「自分をどうコントロールすれば」(YHC 1978a: 10-11)よいのかが、血友病者の新しい課題として意識された。それまで、血友病性関節症を悪化させたり、出血を恐れる親が過保護に育てたりなど、活動が制限された日常を送ってきた血友病者が多かった。しかし、1970年代の血液製剤の普及とともに血友病性関節症が減少して、血友病者の活動範囲が格段に広がった。仮に出血したとしても、血液製剤の輸注によってすばやく止血することができ、後遺症が残りにくくなった。
 血友病者は血液製剤を用いて「新しい身体」になり、自らのできる範囲が広くなった。そこで血友病者は「新しい身体」に適した「新しい生活様式」の模索を始めた。例えば、中京在住の大口洋一は「できる限りの事は自分でする。他人に甘えない。ただし無理な事は健康な人にたのむ」(YHC 1979: 2-3)という一つの答えを提示する。しかし、どこまで自分でやり、どこから他人に頼むのが心地よいのかは、個々の血友病者で違う。大口の回答は簡潔なようだが、その内実は多様かつ複雑である。
 1980年代に入って、血友病者が「新しい身体」に適した「新しい生活様式」の模索を始めた頃に、HBV/HIV/HCV感染が順を追って顕在化し、血友病者は自らの身体が産業社会/世界経済に結び付けられていることに愕然とする。製薬企業各社は、感染症の問題克服に近づくために、遺伝子組換え製剤を開発し、血液製剤は「ヒトの一部」から純粋な「工業製品」になりつつある。今回の血液製剤ノボセブンの不採算品再算定は、血友病者やその家族に、血友病者の身体が血液製剤によって世界経済と密接につながっていることを再認識させる契機になった。
 本稿では、遺伝にしても世界経済にしても、血友病者をめぐる各論点が「痛み」という鍵概念でつながっていることを示唆した。世界経済と直結した身体を持つ血友病者は、今後ますます産業社会との関係に鋭敏になっておく必要がある。しかし、血液製剤が普及してもなお、身体から切り離して置き換えられない「痛み」は、血友病者にとって思考の重要な基点となる。血友病患者会/コミュニティが、製薬企業とどのような関係を築くのかなど難題は山積している。「痛み」がない/少ないうちに想像力を働かせて、次の「痛み」に合わないですむように、回避する手立てを取らなくてはならない。

◆註
(1)血液製剤は、人の血液から作られた医薬品の総称である。大別すると全血製剤、血液成分製剤、血漿分画製剤がある(厚生省薬務局企画課血液事業対策室 1995)。本稿では、遺伝子組換えも含めて、当時の開発状況に応じて血友病者が使ってきた製剤のすべてを指す。厳密には時代や製法に応じて使い分けるべきだが、煩雑になるので特に区別する場合を除いて「血液製剤」を総称として用いる。
(2)稀に発病する女性もいるが、人数は極めて少ない。財団法人エイズ予防財団の平成20年度全国調査によれば、男性血友病者が5,093人に対し、女性血友病者は34人である。女性の場合、月経時や出産時に困難に見舞われる(財団法人エイズ予防財団 2009)。
(3)血液は感染しやすい物質であり、輸血初期の医師であるバーンハイムは、輸血を「手術室(シアター)」という言葉がふさわしい、奇跡の可能性と致命的な結果のあいだの綱渡りをするドラマだと表現している(Starr 1998=1999: 69)。
(4)1980年11月1日、12月1日、12月5日、1981年1月16日、5月1日、7月1日、10月1日、11月1日、12月1日の『上智新聞』に関連記事が掲載されている。
(5)1980年4月、大西が25年かけて書いた小説『神聖喜劇』が完結し、作家の埴谷雄高などから高い評価を受け、大きな話題となった。『週刊新潮』の「神聖悲劇」という見出しは、その話題作の題名をもじったものであることは言うまでもない。また、渡部の「神聖な義務」も、『神聖喜劇』「神聖悲劇」にかけた題名だと言う(上智新聞 1980)。
(6)渡部のエッセイ「神聖な義務」は、以下のURLから全文を読むことができる。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/d/h001003.htm
(7)「自発的受胎調節」という言い方は、「青い芝」の抗議文に対する渡部の返信に見られる(横田 1981)。
(8)渡部は、自発的な親の自己決定であれば生まないことも肯定されると言う。しかし、荻野美穂が指摘するように「人間社会における生殖というのは私的で個人的な営みどころか……きわめて政治的な権力闘争の場でありつづけてきた」(荻野 1994: 6)のである。渡部のように国家や民族、社会の文脈から論ずることは明らかに政治的であり、渡部の「自発的受胎調節」がどこまで文字通りに「自発的」な行為なのか、大いに疑問が残る。江原は「女性の自己決定権」のもとで、女性だけに「子どもの『品質管理』責任まで、押し付けられる。……周囲から責められる。それを避けようとして、出生前診断を受けると、『障害者抹殺』に加担することになる」(江原 2002: 25)陥穽を指摘する。
(9)YHCは、1974年夏、京都で行われた「青年の集い」をきっかけとして、翌1975年7月27日、近畿圏を中心とした血友病者本人の手によって結成され、運営された組織。YHC会員は近畿を中心として、東は名古屋、西は広島まで広がった。YHC機関誌『アレクセイの仲間たち』準備号には「最も悩み多き世代の青年層のヘモフィリア患者が、ヘモフィリアによる諸問題(教育・就職・結婚etc.)のために、一人で悶々とした日々をすごし、その問題を解消するすべを知らないままに放置されているのが現状ではないでしょうか」(YHC 1975)とある。会員数は1881年時点で約90名(西村 1981)。
(10)2003年9月4日(木)に、筆者が実施したインタビューによる。
(11)血友病性関節症とは、同じ関節に内出血を繰り返して、その関節の可動域が狭くなる、最悪の場合には硬直する症状である。体重のかかる足関節や膝関節に起こりやすく、結果として歩行困難になる。血液製剤の普及以前は、多くの血友病者が重度の血友病性関節症から出血に伴う激痛や歩行困難による日常生活の制限を経験している。
(12)1977年、小林久三の推理小説『錆びた炎』の医学的に誤った血友病の記述に対し、東京ヘモフィリア友の会、血友病にたいする偏見をなくす会が抗議文を発表した。抗議を受けた小林、推理小説作家の森村誠一、評論家の権田萬治が反論した(北村 2005)。
(13)1967年に全国各地の血友病者本人とその家族が集まって結成された。1982年時点で会員数1867名、39都道府県にヘモフィリア友の会が結成されている(全国ヘモフィリア友の会 1982: 24-30)。その後、血液製剤によるHBV/HIV/HCV感染への対応をめぐって、組織としての求心力を失っているが、明示的な解散はされていないと思われる。現在、ヘモフィリア友の会全国ネットワークが、全友に相当する全国的な活動をしている。
(14)西村は、YHCの大阪府医療費公費負担年令制限撤廃運動の実行委員長として、請願書提出の署名回収の作業を行なった。1978年8月末日で5700名の署名を集めた(YHC 1978: 18)。
(15)本稿では、10代後半から20代くらいの血友病者を指している。
(16)「痛み」は、私たちの身近なものだが、痛み「そのもの」を考察することは少ない。最近では、大野真由子がCRPS患者の慢性疼痛について論じている(大野 2008)。
(17)1963年、カナダ在住の血友病者であるフランク・シュナーベル(Frank Schnabel)によって設立された、世界規模の血友病者とその家族の団体(World Federation of Hemophilia)。
(18)第3回「青年の集い」開催中に決議文を作る予定であったが、時間がなくなってしまったので、討論内容や参加者の意見を踏まえ、主催者のYHCが後日に作成したものである(YHC 1977: 14)。
(19)ロスアンゼルス整形病院の医師(YHC 1977: 15)。
(20)以下では、第140回中央社会保険医療協議会総会議事録の話し言葉を書き言葉に変換し、趣旨が変わらない範囲で適宜用語を変えたり、順序を入れ替えたりしている。
(21)1.2mg製剤の現行薬価は81,197円、4.8mg製剤の現行薬価は301,858円である。アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス4ヶ国の平均薬価は、それぞれ1.2mg製剤が151,783円、4.8mg製剤が433,103円である。

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