「生きるに値しない生」とはどんな生か──メンバーシップの画定問題を考える

野崎泰伸

はじめに
 「生きるに値しない生」が存在するのであれば、当然「生きるに値する生」も存在する。「生きるに値しない生」という概念は、裏を返せば「生きるに値する生」の生きる権利を画定するものでもある。
 功利主義の主流は、「生命の質」をよりどころにしながら、「生きるに値しない生」の存在を肯定してきた。つまり、「生命の質」──意識があったり快苦が感受できたりすること──が低い生命は、「生きるに値しない生」なのである。そして、そのようなメンバーは、生きていても死んでもどちらでもよい、すなわち、生きることが権利ではない。よって、その生にかかわる周りの者の選好により、殺すことも正当化される。
 本稿では、以下のような3つの立場に注目する。
 (1)すべての生は無条件に肯定される
 (2)生のなかには肯定されるべき生と否定されるべき生がある
 (3)すべての生は無条件に否定される
 多くの功利主義者は、「生命の質」をよりどころにしながら(2)を正当化する。だが、論理的には(1)〜(3)の立場の違いは、「線引きの場所」をどこにするかという問題である。0か1かその中間かだけの問題なのだ。(2)を支持する者は、実はニヒリズム的な立場の(3)を拒否しながら、(1)という立場は非現実的だという理由で取らないからこそ、(2)を正当化しようとするのではないのか。この立場においては、倫理とは現実に可能なもののなかから見出すべきだという、いわば隠れた主張が見えてくる。
 私は、これらすべては正当化という営為によっては主張できないと考える。そのことを示すために、多少遠回りかもしれないが、私の言う「生の無条件の肯定」という概念をまずは説明するところから始めたい。なお、本稿で述べる「正当化」とは、権利概念とパラレルに理解される。すなわち、何らかの道徳的、あるいは法的基準をもって当該の判断を理由づけするものである。本稿での文脈に従って言いかえれば、「誰か(特権的な)人がいて、あるいは何か命題があって、ある人が生きてよいか、あるいは生きてはよくないかの正当な判断を下す」ということが「正当化」の内実である。

1.「生の無条件の肯定」とはどういうものか
 私の言う「生の無条件の肯定」とは、単に「あるがままのあなたをそのまま受け入れる」というような、対面相手への行為や、心理的側面だけに還元されるようなものではない。標語的にいえば、次のようなものである。

「もしも正義というものがあるならば、それは「生の無条件の肯定」である。正義とは、すべての生を無条件に肯定するものでなければならない」

 容易にわかるように、「生の無条件の肯定」というのは、「すべての生」を対象にしているところから、社会的なものである。「あなたが生きることを無条件に肯定する」ためには、どうしても社会的な整備も必要である。社会的な制度は言うに及ばず、社会的な価値観をも問題にしなければならない。たとえば、財がなければ生きていくことなど不可能であるし、特定の社会的集団の生を否定するような価値観の中にあっては、集団の中の当の本人は生きることを肯定されない。
 そしてそれを、正義であるというところにも特徴がある。ただ、このときに正義というものがもしあれば、それは「生の無条件の肯定」にしかならない、と主張しているのであって、そもそも正義が存在するかどうかはわからない。けれどもまた、正義などないと主張しているのでもない。存在するかどうかわからない、つまり、実体としてその存在の証明ができないものとして、なおそのうえで正義が存在するということに賭けているのである。
 また、正義の実行可能性などということも無意味である。じっさい、「すべての生を無条件に肯定する」というようなことは、現実的にはほとんど無理であるか、おそらくは困難を極めるであろう。それでも、もし正義というものがあるとすれば、「すべての生を無条件に肯定する」を正義である、と決めておくことに意味はある。なにか内容のあることを正義だと決めておかないことには、社会において「よい/わるい」の判断ができないからである。すなわち、現実に実行可能なものとして社会を動かそうとするとき、それがよいか悪いか判断しなければならないが、その判断の基準を定めておかなければ、そもそも判断ができないことになってしまうということだ。これでは、なにをしようが、あるいはなにをしまいが、なんでもかまわないことになってしまう。そうならないためにも、実行可能か否かにかかわらず、正義の実質的内容を決めておく必要はある。
 次に、「生の無条件の肯定」が、いわゆる「生命の神聖性」や、「生命至上主義」と呼ばれるようなものと違うということを指摘しておく必要がある。たとえば、「生の無条件の肯定」は、「末期の患者をどこまでも延命すべきだ」というような主張ではない。同じく、「不死の思想の肯定」でもない。「生の無条件の肯定」は、医療資源を使えるだけ使ってでもいのちをながらえることを正当化するようなものではない。
 生命の価値は、生命それ自体に内在してあるわけではない。より正確に言えば、生命という価値の中核は、生命があることによって他の価値を実現する可能性にある。たとえば、自由という価値も、その価値を享受する主体に生命が宿っていなければ、現実の社会においては意味をなさない。その意味で、生命という価値は、ほかの価値とは違った価値であるということはできる。ほかのあらゆる価値の基底でありかつ、それは外在的な価値なのではないだろうか。たとえば、生命の多様性は、生命に内在する価値ではなく、単に事実である。事実として生命のありようが多様なだけであって、多様さに価値を付与することなどできない。
 しかし、だからこそ、生命は大切な価値なのではないか。自由や平等は、生命の上にしか成り立たないのであるから。そして、自由や平等は、いちど奪われても、生命がある限り奪い返す可能性はゼロではない。しかし、生命はいったん失ってしまえば、それを取り戻すことはできない。そのようなものであるからこそ、無条件に肯定されなくてはならないのではないか。
 とはいえ、そのうえで、いくらでも長生きするのがよいと言っているわけでもない。そうした主張は、従来、功利主義的な観点から正当化されようとしてきた。私は、生きながらえて社会の負担になるからその生を閉じるべきだという思想の一切に反対する。そうではなくて、もう少し別の角度から、正当化とは別の方法によって立論できるのではないか。
 社会が、すべての生を無条件に肯定する方向へと向かうことは、前提である。これは、社会制度や価値観など、あらゆるところにわたってそのようにあらなければならないということである。そのうえで、「自分はもう生きることをじゅうぶんに味わった」と思うなら、その生を閉じることを否定する理屈を立てるのも、困難なのではないか。周りは、「死ぬな」とは言えても、それは死ぬことを禁じることではないだろう。すなわち、周りは生きることの支援を惜しんではならないが、にもかかわらず、生き続けさせる正当な理由はない、ということである。生き続けるための制度や思想を社会に根づかせるべきだというのと、目の前で生を閉じようとする人に、その選択肢をとることを禁止しないということとは、論理的には矛盾しない。
 ただし、この世に絶望したり、自分はダメだと思いながらの死については、話は別である。それらは基本的には、社会のせいである。絶望せざるを得ない、あるいは、自分がダメだという価値観を醸成してしまう社会に原因があると、まずは言ってしまってよい。絶望しようが、自分がダメだと思おうが、論理的には生きていることの価値を超えないはずなのである。生きていることを否定するような価値も、逆説的だが、生きているからこそ成立するのである。つまりは、事実としての生命を肯定することがあったうえでしか、生命を否定するという論理は成り立たないことになる。ただし、そうではあっても、現実には自ら生きることに絶望し、自分が生きていることを否定してしまう人がいるのもまた事実である。このことをどう考えるか。
 何かの理由で自分が生きていることをひどく否定し、自殺を考え、リストカットやオーバードーズをしてしまう人たちがいる。そのとき、一時的にはその理由づけに反対し、反対の理由づけによって生きることを肯定されてよい。たとえば、誰からも認められないという理由で自分が生きることを否定したりする者もいるだろう。そのとき、誰かがその人を具体的に認めることは、その人にとっては大きな肯定感につながるはずである。ただし、それは「人から認められる」という行為があるから、生きることを肯定してよいという、条件つきの肯定でしかない。条件つきの生の肯定は、その条件が反転したとき、生きることを否定する論理に変わってしまう。すなわち、既存の理由づけに反対し、それとは逆の価値を有する理由づけをもってきたとしても、生きることが条件つきで肯定されている土俵の上には変わりがない。人から称賛されることはときに、とてもうれしいことではある。しかし、だからといって称賛されることで生きることが肯定されるというのは、称賛がないとき、反転してそれは生きることを否定するものとなる。さらにそのうえで、生きることを無条件に肯定することと、「人から認められてうれしい」ということとは、必ずしも矛盾するわけでもない。
 功利主義は、「生命の質」の序列によって、「生きるに値するかどうか」を峻別し、殺してもよいいのちがあることを正当化する。それに対して、「生の無条件の肯定」は、まずは「生命の質」には社会構築的な部分があることを指摘する。つまり、意識の有無や感覚の有無は、社会環境によっても一定程度振幅をもつものであるし、なにゆえに意識や感覚が生命の価値を論じるときに特権化されるかについては、まさに社会構築的なのである。そのうえで、「殺してもよいいのちなどない、けれども殺す。そのことは正当化されない」という意味において、殺すことをいわば仕方のない調停や妥協として認めざるを得ない臨界点がある。だが、それは「価値がない生命であるから殺してもよい」のではない。生命には、上に記したような基底的で一回きりの価値はある。そしてそれはどんな生命にも平等に与えられている。その意味において、生命によって価値があるとかないとかいうのは、論理的にはおかしいはずである。殺してもよいから殺すのではなく、「ただ」殺す、「単に」殺す以外の何物でもない。なるほど、トリアージのように、救助に優先順位をつけなければならない場面もあるだろう。しかしそれは、限られた医療資源・人的資源・生存時間を勘案したうえで、いかに救助活動を円滑に行うかの指針のはずである。救助の優先順位をつけることと、瀕死の患者の生命に価値序列をつけることとを混乱してはならない。「生の無条件の肯定」はそういうときであっても、ただ淡々と医療資源や人的資源の拡充を求めるだけである。それが拡充されれば、瀕死の状態における──まだ完全には死んではいない──黒タグはもう必要ないかもしれない、私たちはそんなことを夢見ることができる。
 以上が「生の無条件の肯定」の概要である。その輪郭が明らかになったところで、次に、「生きるに値しない生」という概念と、生の肯定/否定をめぐる3つの立場について考察していきたい。

2.なぜ「すべての生は無条件に肯定される」と言えるのか
 1の議論で明らかにはしたが、もう一度「なぜ「すべての生は無条件に肯定される」と言えるのか」という問いについて考えよう。私は「もし正義というものがあるとすれば、それは「生の無条件の肯定」である」と述べた。これは、「なぜ肯定されるのか」という問いには答えられないことを意味する。言い換えれば、私はこの問いそのものを無意味にするために、「もし……」などと述べたのである、と理解することもできる。
 「なぜ肯定されるのか」については、何かの理由を根拠とした基礎づけや正当化という手続きによっては答えることができない、そのように私は主張するのである。なぜなら、そのように答えることができたとして、その理由が破たんしたり反転した途端、あるいは、その理由が認められなければ、生きることが肯定されることは論理的になくなるからである。「なぜ「すべての生は無条件に肯定される」と言えるのか」という問いの前に、「生の無条件の肯定」に賭けてみるのである。だからこそ、「もし……」というような言い草をするのである。
 このことは、「すべての生は無条件に肯定される」ことが正義であるということを認めない──すなわち、(2)(3)の立場にたつ──者の存在を認める。「正義であることを認めるか認めないか」という意味において、正義には臨界があることを示している。正当化という営為が不可能であれば、そうならざるを得ない。ただし、(1)を正義であると認める者と認めない者の間には、最終的には正義について共有できることはないことになる。
 (2)を主張するには、生きるに値する生とそうでない生との境界を定め、それを正当化しなければならない。しかしながら、なにゆえにそのような正しい境界が存在すると言えるのか。人間/非人間という分類から、意識の有無や快苦の有無という分類に変わったとしても、「正しい境界を設けて分類する」という土俵からは抜け出てはいない。他方、多くの場合「生きるに値しない」とされ、その生を終わらせることを正当化されるような重度の知的障害者や精神障害者も、適切な支援があれば快適に生活することが可能である。そのことは、少なくはない自立生活の実践例からも明白である。確かに、彼らは自分の意思を表現できないかもしれず、ゆえに生きたいかどうかすら、支援者にも本人にもわからないかもしれない。さらに加えて、時には「死にたい」と言うことすらあり得る。そうであるとしても、周りがそのことによって彼らを生かそうが殺そうがどちらでもよい、ということはあり得ない。なにゆえに、意識や快苦の有無が特権化されて、それがなければ殺してよいという論理になるのだろうか。それは、意識や快苦がじゅうぶんにある者のおごりではないだろうか。なにより、どれほど周りが負担であろうとも、「生きるに値しない」とされる人にいてほしい、生きて存在してほしい、と思う気持ちが人にはあるのではないか。だとすれば、もうすでに言葉の定義からして「生きるに値しない」ではない。負担である気持ちと、しかしながらそれでも生きていてほしいという気持ちとは両立する。なんとなれば、負担のほうは社会的に解決できる可能性すらある。
 もっと根源的には、私たちは「生きるに値する」からという理由で生きているのではないだろう。どんな理由が、私たちをして「生きてよい」ものとさせているのか。私たちは、たまたまこの世に生を享け、そしてたまたま現在まで生きてきてしまっただけではないのか。その意味では、いかなる生命──人間のみならず、動物も植物も、生きとし生けるものすべて──も平等なはずである。自己意識があるから(選好形成は自己意識がないとできない)、あるいは快苦が感受できるから、「生きるに値する」というのは、傲慢なのである。確かに、自己意識があって自分でなにがしかの判断が可能であるということは、その当人にとってもよいことかもしれないし、周りの負担を減らすことかもしれない。しかし、それはそれだけのことであるはずだ。負担だから殺してよい、殺すことを正当化できる、ということにはならない。
 ただ、この立場には「現実には生命の序列が決まってしまっていて、それによって世の中は回っている」という反論もなされよう。そして、その序列はどうしても意識中心主義、快苦中心主義にならざるを得ないのだと。こうした反論に、いかに答えるか。
 確かに、現実にはそのような面はある。しかしながら、殺されていくいのちも、「殺されるべきだから、あるいは、殺されるのに正当性があるから」殺されてよい、というのではないはずである。それは、殺す側の都合によって殺しているとしか言えまい。しかし、現実に決まってしまっているという生命の序列には、社会構築的な面がある。もっと言えば、殺す側の都合とは、いかに生命の序列を社会的に構築していくかの過程と結論にほかならない。それはどこまでいっても、恣意的に設定されるものであり、正当であるから設定されるものではないのだ。(2)の立場を正当化しようとする者は、現実を追認しているにすぎない。
 私たちは他の生命を殺さずに生きることは不可能である。他の生命を殺すのは、ほかでもない「私が生き延びるため」である。私たちは、自分の都合によって他の生命を殺しているにすぎない。まずはここを直視しなければならない。私が生き延びることと他の生命を殺さないことが天秤にかけられるとき、どうしてこの「私」が生き延びることを優先することを正当化できようか。そのような理屈はすべて、私の都合によるものではないのか。ここで私は、「それはいけない」と言っているのではない。また、仕方ないとして許されるべきものでもないだろう。ただ、そういうものとして殺し、また、そういうものとして私たちは生き延びてきたし、これからもそうだろうということである。これは、現状の追認では決してない。現状を許すのではなく、現状は許されないのだ。そういう現状の中を私たちは生きざるを得ないのである。そして、もしも「赦し」ということが可能であるとするならば、そのような現状の許されなさを通してでしかあり得ない、ということである。そのためには、可能な限り「私が生き延びることと他の生命を殺さないことが天秤にかけられる」という状況そのものをなくしていかなければならない。
 次に(3)の主張である。意外かもしれないが、これは(2)より断然マシな主張である。「この世に生を享け、そしてたまたま現在まで生きてきてしまった」という点においていかなる生も平等であることと、(3)の主張とは論理的に矛盾しない。生きることが否定されるとすれば、すべての生が無条件に否定されなければならない。そのうえでなお、私はすべての生が無条件に「肯定」されるような道を描きたいと思う。なぜか。
 そもそも、生命や生きて在ることというのは、肯定されるべき理由があるから肯定されるという類のものではない。その理由がなくなってしまえば、生きることは否定される。ゆえに、「なんらかの正当な理由があるから生きることが肯定される」という理屈では、その理由が反転したとたんに、生きることを否定する理屈になってしまうのである。
 正当化という手法には限界がある。それでは、どのような理屈が「生の無条件の肯定」を主張しうることになるのか。それは、じっさいのところ可能かどうかはわからない。だから、それが可能であることに私たちは賭けてみるしかない。もしも正義というものがあるとするならば、それは「すべての生を無条件に肯定するものである」、その正義に賭けてみる、ということなのである。
 これは、「生命は尊いから」とか、「生きることはかけがえのないことだから」というような理屈づけでもない。確かに、生命は尊いかもしれないし、「代わりが利かない」という意味においては、まぎれもなく誰かが生きるということは、その当人にとってはかけがえのないものである。しかし、それを理由にはできない、ということである。生命など軽いものだ、または、かけがえがないからこそ生そのものが負担である、というように反論されれば、それは信念同士の決着のつかない争いになるだろう。
 私が主張したいことは、生への肯定的な意味づけではない。意味づけがどんなものであれ、そういうものとして生そのものを肯定する可能性に賭けるよりない、ということである。価値があるから生命は尊い、あるいは、生命それ自身に内在的な価値が本源的にある、というように言わなくともよい。そうした言い方では、「それはどうして?」という問いに論理的に答えることができない。だからこそ、「生そのものを肯定する可能性」は、賭けなのである。そのような可能性を、誰がどうやって正当に測ることなどできようか。
 しかし、それではなぜ(3)ではなく、(1)への「賭け」なのか。(3)には、「あらゆる生命には本質的な価値などない」というニヒリズム的な背景がある。その意味では(1)もまたそうである。違うのは、その超克の方法である。生命は、殺し合ったりもするし、絶望を感じる時もある。殺し合うな、絶望するなという「説教」を垂れるのではない。私たちは、殺し合わなくてもすむ社会や、誰かを絶望に陥れることのないような社会を、夢想することはできる。確かに、殺し合ったり、一方的に殺されたり、あるいは絶望のただなかにある者たちにとっては、そのように夢想することすら困難で、かつしんどいことでもある。だからこそ、彼らに「希望を持て」などとは絶対に言えない。
 そもそも、未来が希望に値するから、未来に賭けるというものでもない。未来を信じることができるから、信じるのではない。生きることに希望が持てるから、希望を持ち生を肯定するのではない。そのようなすべてのことは、誠実に考えるならば、端的に言ってわからないというしかない。そのようななかにあって、それでも信じ、生を肯定するのである。「生の無条件の肯定」の主張は、正当化できないという意味で、いわば宗教のようなものでもあると言ってよいだろう。
 ただし、次のように考えてみることはできるのではないか。本稿を読むあなたは、いまいかなる状況下であろうと、とにかく生きており、本稿に対して賛意を示したり、批判的な意見を持ったりするだろう。そのようなあなたは、現に「生きている」ということである。さまざまな理由で死に瀕したり、また死にたいと思ったりしていても、とにかく「生きている」。仕方なくかもしれないが、とにもかくにも生きてしまっている。この事実は、私にはとても重く、また大きいものであると感じられる。なぜなら、理由のほうを変更すれば、死に瀕したり、死にたいと思う必要がなくなるかもしれないからである。理由のほうは、どれほど困難であっても、また非常に確率が低くても、変更の可能性がある。だが、いったん死んでしまえば、それを取り消すことは不可能である。これは、当事者の「死にたい気持ち」を否定するわけではない。当事者が死にたくなるのは、自分のほうを変更するほうが簡単であるからに他ならない。比喩的にいえば、自分のスイッチと社会のスイッチのどちらかを触らなければ生きていけないとき、自分のスイッチのほうを触るほうが簡単だからそのようにするにすぎないのである。社会のスイッチなど、そもそもあるかどうかすらわからない。あったことがわかったとして、どこにあるかわからないし、他にいくつかあるかもしれない。スイッチを触ったからといって、確実に当事者の抱える「理由」が消える保障はまったくない。自分ひとりでできることというのは、自分を終わらせることぐらいにはない。変えやすいから、自分を変えようとするだけなのである。
 ただ、これまでの歴史が示すように、苦難を耐えつつ、しかしながら生き延びてきた人たちがいる。また、苦難や困難を生きざるを得ない人たちの苦難や困難を少しでも減らそうと、努力してきた人たちがいる。「だから苦難に耐えろ」や、「そのような人たちが希望の救世主になってくれるであろう」というようなことを言いたいのでは毛頭ない。繰り返すが、希望があるから信じるのではないのだ。また、苦難に耐えるのは、自分にできることがそれぐらいしかないから、耐えているにすぎないのであって、決して耐えるべきであるから耐えているのではない。現状のただなかにあっては、耐えることぐらいしか自分には簡単にしのぐ方法がないからそうやってしのいでいるだけなのである。絶望は、希望を信じることができないからこそ生じてくる。ただし、希望に根拠がないのと同様に、絶望にも根拠はない。過去を悔いることはあっても、それは未来への絶望を意味するものではない。逆にいえば、どんなに幸福であったとしても、それは未来への希望を意味するものではないのだ。

 絶望も希望も、そのような意味において抱いたり信じたりするものであって、決して何か根拠があるからといって絶望したり希望を持ったりするものではないということである。ただ、私は少なくとも生きている間は幸せに生きたいと願い、また、私だけではないすべての生がその生きている間は幸せであれと願う。だからこそ、希望は持たねばならない。すべての生を無条件に肯定する社会こそが正義の社会なのだと、まずはあっけらかんに言うところからしかはじまらない、そのように信じるのだ。

3.肝苦りさ(ちむぐりさ)の倫理、あるいは、生命ノトウトサというドグマ
 次に、「生の無条件の肯定」という考え方を、いまひとつ別の角度から説明してみよう。上に説明した通り、この体系は「ある境界やある行為が正しいかどうかの判断基準」を、その論拠の正当性を求めるという営為によってはなされ得ないことによって編み出されたものである。とりわけ、「誰が生きるに値するのか」という、生死に関するメンバーシップの境界線において考察がなされた。
 なぜメンバーシップだけで通用する「同胞愛」ではいけないのか。メンバーの外の者をメンバー内に加えて、「同胞」を増やしていけばよいのではないか。ある意味、その通りである。しかしながら、文字どおり解釈するなら、「同胞」という概念はメンバーシップを固定し不動にするものである。そして、そこだけに通用する「倫理的配慮」つまり規範を正当化させてしまう。メンバー外の他者を放置することをよしとしないなら、「同胞」を増やすという、「同胞愛」それじたいを越えた、少なくともそれとは違う視点が必要なのである。言い換えれば、そのような視点をもつことによってこそ、「同胞愛」が芽生えてくるとも言えよう。そしてその視点とは、「同胞」であろうがなかろうが、メンバーであろうがなかろうが、その存在じたいを肯定するというものである。現実の社会においては、メンバーシップを定めるために法制度を制定しなければならない。法とは、法によって守られるべき存在とそうではない存在とを峻別するものであり、その限りにおいて法は救済の道具でもあるが、同時に排除の道具でもある。だからこそ、私の立場においては、法がすなわち正義であることはあり得ない。どんな法も、正義ではない。正義とは、法が定める境界線の正当性を揺るがし、再審に付す。このように、法による「理性的な」判断を根底から揺るがすという意味において、正義はまた狂気でもある。
 メンバーの「よそ者」をも歓待するという思想を描くために、ここでは沖縄に存在する「肝苦りさ」、そして「命どぅ宝」という概念を引き合いに出そう。肝苦りさとは、他者の痛み、苦しみを自分のそれとしてともに苦しむところに発する。たんなる同情や憐みのような「相手を見下す」感情ではなく、自分のはらわた=肝に深く刻み込むものとして、苦しさを共有しようとするものである。
 肝苦りさは、沖縄に存在する郷土愛、つまり「同じ沖縄人」という属性をもつことをその要件とはしない。誰であろうが、他者の生の痛みを自分のものとしてともに痛みを感じようとする。他者の「生」どころか、死者をすらみずからの生へと反芻しようとする営為である。
 肝苦りさの経験は、はらわたがよじれるほどつらいものである。それは「不可能な経験」であるからこそ苦しいのである。他者の苦しみを本当に知り、共有することなどできない。私たちが可能なこととは、「他者が苦しんでいる」という事実を観察するということにすぎない。だから、ともすれば「他者の痛みを分かち合う」ということじたいが、とても不遜で傲慢でもあり得る。そのような可能性を踏まえたうえで、自分も他者とともに生きようとする、これが肝苦りさの経験なのである。
 灰谷健次郎『太陽の子』に、次のような場面がある。沖縄戦で左手を失ったろくさん──ろくさんは兵隊ではなく、大工だった。日本の兵隊はろくさんたちに集団自決を求め、手榴弾を渡した。その爆発によりみんな死に、ろくさんは左手を失った──のもとに、小さいころ沖縄から大阪に移った知念キヨシ少年が現れた。ほどなく、キヨシ少年は警察の「厄介」になる。人を傷つけたり、いわゆる「非行少年」として描かれるキヨシに対し、警察は執拗に詰問する。ろくさんは、「悪いことをしたのなら、知念君を徹底的に調べればよい」としながら、「悪いことをせざるを得なかった理由も、徹底的に調べてほしい」と言う。警察は、ろくさんのこうした態度に対し、「郷土愛は否定しない」と述べている。加えて、「法の前には沖縄も何もない、平等だ」とも述べる。
 これに対し、ろくさんは「法の前に平等であることを本当に望んでいるのは、沖縄の人たちだ」と述べ、日本という国の法体系によって沖縄は捨て置かれているにもかかわらず、日本の法体系によって裁かれようとする、目の前のキヨシの上に降りかかっている不条理を鮮烈に指弾する。そして、こうしたろくさんの言動は、決して「郷土愛」などという偏狭なものではないように私には映る。つまり、法体系に守られる内側にとっては、法に捨て置かれた人びとが日本に存在するということを知らない、あるいは、見ようとしない。それは、そうせずとも法によって守られながら生きていくことができるからである。すなわち、ろくさんが指摘したことというのは、まさしく〈法外〉の「他者」との共生(の困難)という主題であり、それは「郷土愛」というメンバーシップ内における情念の話ではないのだ。
 他者を知ろうとするということは、他者の生きてきた証し、つまり生存の歴史に寄り添おうとすることである。他者とは、いまだ知り得ぬなにものかのことであるから、その時点においては「他者を知る」ということ自身が、語義矛盾なのである。どこまで知ることができるか、あるいは、そうした営みが不可能であるかすらわからない、そういうものとして「他者を知ろうとする」ということは位置づくのである。当然、自分にとって都合がよいものか悪いものかすらわからないのである。
 ろくさんは、「日本という国によって定められた法」によってキヨシが裁かれることを否定していない。それと同時に、そうした法体系を超越する視点──これこそ私が「肝苦りさ」の思想を支えるものであると解釈する──を提示しているのである。そしてこのことは、現存する法そのものが正当かどうかということを審問するものとなる。この場面は、ろくさんが「郷土愛」による同情、言い換えれば日本の法に対抗する沖縄の「掟」を提示するから感動する、のではない。むしろ、そうした二項対立的な思考から脱皮する、メンバーシップという「法」の境界の正当性を揺るがすものであるからこそ、それが感銘を呼ぶのではないのか。そして、そうした視点を正義の視点であると、私は解釈するのだ。
 さらに、沖縄には「命どぅ宝」という思想もある。沖縄戦を経て、いのちの大切さを訴えたものである。謝花直美は、「生きられる間は生きるべきだ」という言葉にも似た証言は、「軍の「玉砕」という論理が、「命」と「生きよう」という言葉で封じられた」(謝花 2008: 216)ということを明るみに出す、と述べる。また続けて、次のように述べる。

「また大城氏は、「命どぅ宝」という言葉が、戦争体験者が体験を語りだすときにも鍵になったと話す。七〇年代に県史の聞き取りを行った時、戦後二五年がたっていても、体験者は生き残って申し訳ないという自責の念から、体験を話すことができなかったという。「命どぅ宝」だということ、生き残った人々が沖縄戦を語り継いでいくことが、二度と国に戦争を起こさせないための力になるのだと伝えると、人びとは心のつかえがとれたように話し始めたという」(謝花 2008: 216-217)

 私は、被害者が何でも語るべきだとは思わないし、被害者が語ったからといって論理的にはそれが戦争を起こさせない力になるかどうかは、端的に言ってわからないとしか言いようがない。黙することを望むなら、黙してよい(山口 2009)。ただし、そのことと「証言したいなら証言してよい」ということもまた、論理的に両立する。謝花の指摘で重要なのは、「命どぅ宝」という思想が、「(自分が)生き残って申し訳ない」、すなわち死者である他者と「ともに生きる」ことの苦しさや痛みをともないながら生まれてきたということであろう。言い換えれば、「肝苦りさ」と「命どぅ宝」とは、双子の兄弟のようなものであると理解できる。それは決して単純な「いのちの礼賛」ではない。他者とともにあろうとすること、他者とともにあらざるを得ないこと、これらの困難のうえに立った「それでも生きられる間は生きよう」という思想なのである。
 すこしだけ述べておくべきことがある。いわゆる「選択的中絶」や「優生学/優生思想」、つまり、障害があるとわかればその生命を生かしても殺してもどちらでもかまわない、という思想についてである。これらは中核的には、「生まれてきてほしい人間の生命と、そうでないものとを区別し、生まれてきてほしくない人間の生命は人工的に生まれないようにしてもかまわないとする考え方」であるとまとめられる(森岡 2001: 354)。それでは、なぜ障害があるとわかれば中絶しようという考え方があるのか。それは、障害をもって生まれてくる者が私たちの社会を運営するには不都合だからである。すなわち、優生学の底流には、この「私たちの都合によって、未来の不都合を消し去ろうとすることをあたかも正当化し得る欲望」が存在することになる。これにどう立ち向かっていくかは、難しいところである。しかしながら、私たちの欲望は一枚岩ではないし、またそうした欲望そのものがけっして全否定されるべきだとは、私は思わない。森岡は、優生学の論理を延長していけば、たとえば「裏山が崩れて家が全壊するのを防ぐために、あらかじめ斜面に補強工事をして崖崩れがおきないようにしておきたいと考える」という「予防的無痛化」とつながる、と述べる(同: 356)。けれども、直感的に言ってこれは肯定されてよいのではなかろうか。だとすれば、森岡が一貫して批判する「私の身に降りかかってほしい出来事と、降りかかってほしくない出来事とを区別し、降りかかってほしくない出来事が起きないようにあらかじめ人工的な細工をしてもかまわないとする考え方」(森岡 2001: 356)は、優生思想にもその要素があるが、だからといってそのような考え方そのものを批判することには、森岡とは違い私は慎重である。一方でひとはそういう考え方を批判的にとらえ、森岡の言う「人工的な細工」に抵抗するような考えもあるだろう。また他方では、そうした考え方もまた、ひとがよりよく暮らし、生きていくために必要な場面がある。たとえば社会改良はそうした考えのもとで進められてきたことは否めない。確かに、歴史は優生学が社会改良のためにこそ説得力をもって存在し続けることを教える(米本他 2000)。けれども、優生学は「何のための社会改良か」に対して間違った答えを出しただけではないのか。それはまさに、(1)の立場を正義とするのか、あるいは(2)でかまわないとするのかの分水嶺なのである。社会改良が「生の無条件の肯定」を正義とする考え方に定位するなら、優生学は論理的に棄却されるのである。これによって、「予防」の意味を変えることができると私は考えるが、ともあれ、森岡の「無痛文明」をめぐる議論については、これだけでは語りつくせないので、いずれ深く考えてみたい。
 本筋に戻ろう。それらを踏まえたうえで、「生命の尊さ」こそが基底的にあり、それによって「他者とともにあろう」とするという理屈だては、間違っている。そのことはすでに説明したが、いまひとつの角度から光を当てることにする。
 ベンヤミンによれば、「人間による人間の暴力的な殺害の断罪を、戒律から根拠づけるひとびとは、正しくない」(Benjamin 1921=1994: 61)。私たちは、いま一度この地点に帰るべきなのである。すなわち、「戒律からは、行為への判決は出てこない」。殺すにせよ、殺さないにせよ、ただそれはたんに殺したり殺さないだけなのである。殺されるのは残念であり、殺されないのは幸運であった、ただそれだけである。「戒律は行為する個人や共同体にとっての判決の基準でもなければ、行為の規範でもない」。医療現場で生じてくる(とされる)いわゆる「倫理」問題は、患者の生命を守るべく一刻を争う状況の中にある。だとしてもベンヤミンの言うように「個人や共同体は、それ(=戒律──引用者註)と孤独に対決せねばならず、非常の折りには、それを度外視する責任をも引き受けねばならぬ」。医療現場は、まさに「非常」が「通常」であるのが日常である。生命を必死でつなぎ、状態を改善するのが医療の使命であり、戒律であるとしても、患者は死んでしまうかもしれない。そうした非常時において、どんな規範も行為を正当化するものではない。
 次にベンヤミンは、存在とたんなる生命について、興味深い考察を行う。

「存在がたんなる生命を意味するにすぎないのなら、(中略)存在のほうが正しい存在よりも高くにある、という命題は虚偽で、下劣だ。けれどもこの命題は、巨大な真理をもふくんでいる、かりに存在が(生命が、というほうがよいが)(中略)「人間」という確たる集合態を意味するものとするならば。そのときにはこの命題は、人間の不在は正しい人間の(むろん、たんなる)未到来よりももっと怖るべきことだ、といおうとしていることになろう。こういう二義性があるから、前記の命題にも、もっともらしさがあるわけだ」(Benjamin 1921=1994: 62)

 存在の価値とは、存在それ自体にあるとはいえない、ということになるだろう。だとしても、存在に価値がないとベンヤミンは言っているのではない。ここに注意したい。そして、ベンヤミンを敷衍するならば、存在の価値は、むしろ何ものにも還元できず、それ自体として無条件に認められ、肯定されるべきなのではないか。
 ベンヤミンは次のように続ける。

「人間というものは、人間のたんなる生命とけっして一致するものではないし、人間のなかのたんなる生命のみならず、人間の状態と特性とをもった何か別のものとも、さらには、とりかえのきかない肉体をもった人格とさえも、一致するものではない。人間がじつにとうといものだとしても(あるいは、地上の生と死と死後の生とをつらぬいて人間のなかに存在する生命が、といってもよいが)、それにしても人間の状態は、また人間の肉体的生命、他人によって傷つけられうる生命は、じつにけちなものである。こういう生命は、動物や植物の生命と、本質的にどんな違いがあるのか? それに、たとえ動植物がとうといとしても、たんなる生命のゆえにとうといとも、生命においてとうといとも、いえはしまい」(Benjamin 1921=1994: 62-63)

 たしかに、「人間というもの」と「人間の尊さ」、あるいは「生命」と「生命の尊さ」とは違うものである。しかしながら、「人間のたんなる生命」と「人間の状態と特性」とは、そう簡単に峻別できるものなのであろうか。むしろ、人間というものからたんなる生命だけを抜き出すこと、あるいは状態や特性だけを列挙し記述することには困難があるのではないか。

「もうひとつ考えておくべきことは、とうとい、とここで称されているものが、古代の神話的思考からすれば罪の極めつきの担い手であるもの、たんなる生命なのだ、ということである」(Benjamin 1921=1994: 63)

 ベンヤミンはここで生命とは「罪の極めつきの担い手」であるという。たしかにその通りである。しかし、「肝苦りさ」という思想が、「命どぅ宝」という思想とコインの表裏の関係であったように、けっして生命は罪そのものというわけでもない。同様に、生命は価値すなわち尊さそのものということでもない。生命とは、罪を担うことによってまさに「生きていく」のである。たしかに、死後の評価などにより生命なきあとも「生命の価値」が残ったりもするが、それは生き残った者の視点にすぎない。
 ただ、そのことをもって、ベンヤミンが「生命ノトウトサというドグマ」(Benjamin 1921=1994: 63)を軽んじているかといえば、そうではないように私には思える。なぜなら直後においてベンヤミンは次のようにも述べているからである。

「暴力批判論は、暴力の歴史の哲学である。この歴史の「哲学」だというわけは、暴力の廃絶の理念のみが、そのときどきの暴力的な事実にたいする批判的・弁別的・かつ決定的な態度を可能にするからだ」(Benjamin 1921=1994: 63)

 私もまた、1において「正義の実行可能性」に関して、同様のことを述べた。つまり、上記のベンヤミンの言明を、次のように解釈してみるとどうか。すなわち、「生命ノトウトサというドグマのみが、そのときどきの生命への暴力的な介入、あるいは不介入にたいする批判的・弁別的・かつ決定的な態度を可能にする」と。医療現場において現実に様々な出来事があったり、技術の「進歩」とともに、ともすれば理念に対して現実が先行してしまうかもしれない。しかしながら、理念は現実を追認するものであってはならない。もし理念がそうであるとすれば、理念の理念たるゆえんはない。そういう意味において、「生命ノトウトサというドグマ」という理念は、掲げられ続けねばならないのである。そしてそれは、未来に対する賭けなのだと言い換えてもよいだろう。

おわりに
 本稿では、私の言う「生の無条件の肯定」の内容を詳しく説明するなかで、生命に価値序列をつけたりする考えや、あるいは生きることを否定するような、いわばニヒリズム的な考えに対して、どういう立場が可能であるかを検討した。その結果、立場(1)?(3)はともに正当化不可能なこと、そして、そのなかでしかしなぜ(1)を選ぶのか、について議論した。そして、「肝苦りさ」「命どぅ宝」の思想と、ベンヤミンの「生命ノトウトサというドグマ」という概念を手掛かりに、「生の無条件の肯定」の内容について別の角度から説明を試みた。
 ただやはり、現実として希望を持ったり信じることが困難な者に対しては、こうした論は空を切るだろう。その点については、今後考えていきたい。

◆参考文献
Benjamin, Walter, 1921, Zur Kritik der Gewalt und andere Aufsatze, Suhrkamp.(= 野村修編訳,1994「暴力批判論」(『暴力批判論 他十篇──ベンヤミンの仕事1』,岩波書店: 27-65)).
Derrida, Jacques, 1999, Sur parole, instantanes philosophiques, l'Aube.(=林好雄・森本和夫・本間邦雄訳,2001,『言葉にのって──哲学的スナップショット』,筑摩書房.)
灰谷健次郎,1986,『太陽の子』,新潮社(初出は1978年、理論社より)
小林和之,2004,『「おろかもの」の正義論』,筑摩書房.
謝花直美,2008,『証言 沖縄「集団自決」──慶良間諸島で何が起きたか』,岩波書店.
森岡正博,2001,『生命学に何ができるか──脳死・フェミニズム・優生思想』,勁草書房.
────,2007,「生命学とは何か」,『現代文明学研究』第58号,447-486.
野崎泰伸,2007,「『生の無条件の肯定』に関する哲学的考察──障害者の生に即して」,大阪府立大学博士学位論文.
立岩真也,2008,『良い死』,筑摩書房.
Singer, Peter, 1993, Practical Ethics, 2nd. Edition, Cambridge.(=山内友三郎・塚崎智監訳,1999,『実践の倫理 新版』,昭和堂.)
山口真紀,2009,「〈自己物語論〉再考──アーサー・フランクの議論を題材に」,立命館大学大学院先端総合学術研究科『Core Ethics』Vol.5,351-360.
米本昌平・松原洋子・ぬで島次郎・市野川容孝,2000,『優生学と人間社会──生命科学の世紀はどこへ向かうのか』,講談社.