カトリックの教説から見る中絶問題──中絶に関わる諸事項の関連

池端祐一朗

はじめに
 ローマ・カトリック(以下、カトリック)の教説は論じられることが多々あるが、詳細に参照されることはあまりない。熊本市の医療法人聖粒会慈恵病院(以下、慈恵病院)が「こうのとりのゆりかご」を設置したときの事例もその一つである。「こうのとりのゆりかご」は慈恵病院がカトリックであることが影響していると言われているが、実際にはカトリックの教説から正確に理解をして来られなかった。そこで、「こうのとりのゆりかご」と慈恵病院の実践を取り上げつつ、カトリック教説からみる中絶問題について見ていくことにする。
 慈恵病院はカトリックの修道会(マリアの宣教者フランシスコ修道会)が設立した病院である。1978年4月に修道会から経営を移管、継承し、現在においても、病院の第一の理念として、「キリストの愛と献身の精神を信条とします」と掲げている。そのため、「こうのとりのゆりかご」の設置の背景として、慈恵病院がカトリック系(「キリスト教系」と述べられることもある)の病院であり、カトリックでは中絶が禁止されていることが理由として挙げられている。慈恵病院のホームページの産婦人科の診察内容でも、「当院はカソリック系の病院で妊娠中絶は行いません」と注意書きがあるほどである。しかし、このカトリックという背景は自明視されてきたために、「こうのとりのゆりかご」について家族や生命、社会や政策のあり方についての議論は数多くなされてきた一方で、カトリックの教説における教理が十分に検討されてこなかった。実際、「『こうのとりのゆりかご』検証会議」でもカトリックの教説についての検証は行なっておらず、「こうのとりのゆりかご」の利用状況と制度的な問題の検証に終止している(「こうのとりのゆりかご」検証会議 2008)。
 本稿では、これまで多くの議論で省みられることなく語られてきたカトリックの中絶に関する教説、そして中絶及び関連する生殖技術に関する教説を検討する。まず中絶に関するカトリックの教説の基本的な考えを概括し、教皇庁が批判に対してどのように応答してきたのかということを見ていく。

1.生まれていない人間を殺すこととしての中絶
 カトリックにおいて「人間」とは特別な存在である。人は他の動物と同じように土からつくられはしたが、そのかたちは神に似せてつくられた存在である(『創世記』1・26、2・7、2・19)とされており、「神は……命の息を吹き入れ」た(1)(『創世記』2・7)としている唯一の存在だからである。人間は神の似姿として存在している唯一の生物であり、地球上のものはすべて神が人に与えたもので、統治するものである(2)(International Theological Commission 2004=2006 n.60-61: 49-50)。また、カトリックの教説では、神聖な存在の人間の生命をコントロールすることが許されているのは創造主である神のみであり、神が定めた法則に反してはならない(Pope John Poul Ⅱ 1995=1996 n.52-55: 106-118 ; Congregation for the Doctrine of the Faith 1987 Introduction・Ⅰ, Introduction・Ⅳ-Ⅴ: 7-9, 14-17)。人間の生命は神聖で不可侵であり、地球上の他のどの生物よりも尊いものと考えられているがゆえに、「人間」は特段の注意を払われる必要がある。現行のカトリックの教説は、人間は受精した瞬間から人間である、つまり受精卵も人間であるという考えを示している。しかも生まれていない人間は罪のない人間である。中絶を行なうことは殺人であり、十戒の中の一つ、人間を「殺してはならない」という教えを犯すことになるとされる。特に、何の抵抗も出来ない罪のない人間を殺すことは、生まれている人間を殺すこと以上に許されるものではない(Pope John PoulⅡ 1995=1996 n.58-61: 119-124 ; Pope John PoulⅡ1994a=2005: 310)。さらに、中絶が市民法において認められていても、神の法を守らなければならないと教えており(3)(Pope John PoulⅡ 1995=1996 n.20: 39-40)、そのため、両親(あるいは母親)も医療関係者も、中絶を行なった場合には破門に処せられる(4)(Pope John PoulⅡ 1995=1996 n.62: 126-127)。当然、決して優生学的理由や経済的理由、あるいは両親やその周囲の人間の都合によって、中絶がなされてはならない。胎児診断技術は認められていないわけではなく、胎児が出生に至るのに役立つ場合にのみ限られる。

胎児に異常がありそうな場合、早期発見を可能にする胎児診断技術に対する道徳的な評価には、格別の注意が払われなければなりません。このような種々の技術が持つ複雑性を考慮して、正確で一貫した道徳的判断が必要です。子どもと母親の双方を傷つけるような不釣り合いな危険をもたらすことがなく、また早期治療を可能にし、あるいは心を落ち着けて、しかるべき情報を知らされたうえで出産できるように意図される場合、これらの技術は道徳的に合法となります。(Pope John PoulⅡ 1995=1996 n. 63: 128-130)

カトリックの教説は、もし経済的理由で中絶を考えるのならば、その子供は養子縁組をすればよいし、母体の体調的な理由で出産することが出来ない場合は胎児を出来るだけ安全な形で取り出して育てればよいと説く(Pope John PoulⅡ 1995=1996 n.93: 189 ; Pope Pius XI 1930 n.64)。どうしてもやむをえない場合においても、胎児の生命を出来得る限りの策を講じて救おうとしなければならず、胎児を救う努力をしないのであれば他の中絶と同じように殺人になるという見解も示されている(Pope John PoulⅡ 1995=1996 n.58: 120)。加えて、避妊を目的として用いられることもある、通経剤を用いて人工的に月経を起こすことは、着床している胚を中絶するという限りにおいて、避妊ではなく中絶の罪に陥ると教える(Congregation for the Doctrine of the Faith 2008 n.23)。
 このように、カトリックの教説はどのようなことがあろうとも、胎児を救おうとしなければならないと教える。胎児が人生を歩まずに終えるよりも、胎児が人生を歩んだ方が無条件に良いと考えているのである。さらに、教皇ピウス11世は1930年に回勅Casti Connubiiの中で、ユダの子のオナンの行ないと並列させて避妊や中絶を堕落した邪悪な行為であるとして、これらを正当化することを批判している(5)(Pope Pius XI 1930 n.53-55 n.64)。
 しかし、母親の生命が危ぶまれている場合など、どうしても中絶を行なわなければならない場合もある。一方で、カトリックの教説からすれば行なう必要のない中絶でも、実際には行なわれてしまう中絶もある。すでに行なわれてしまった中絶に対しては、何をしたところで、中絶によって失われた人間の生命はどうすることも出来ない。行なわれてしまった中絶に対して教皇庁は、母親を行なわれた中絶と向きあわせて罪であることを認めさせ、その上で母親にその過ちを悔い改めさせている。そうすることで、中絶された子供に対しても許しを求めることが出来ると考えている。その上で、前教皇ヨハネ・パウロ2世は中絶をした女性に対して次のように述べている。

他の人々からの友情に満ちた専門的な助言によって、さらに皆さん自身が味わった痛ましい経験の結果、皆さんは、すべての人がいのちの権利をもつことのもっとも雄弁な擁護者となりうるのです。これから子供たちの誕生を受け入れることによって、あるいは身近にいてくれる人を必要とする多くの人々を迎え入れ、世話をすることによって、いのちとかかわることをとおして、皆さんは人間のいのちに対する新しい見方を推進する人となるでしょう。(Pope John PoulⅡ 1995=1996 n.99: 202)

中絶された胎児の遺体の扱いに関しては、「胎児の遺体は、それが意図的に中絶されたか、あるいは自然の流産によるかにかかわらず、他の人間の遺体と同じように尊重されるべきである」(Congregation for the Doctrine of the Faith 1987 Ⅰ・4: 26)として、中絶された胎児に他の人間の遺体と同等の尊厳を認めている(6)。

いのちがあるところでは、愛の奉仕は徹して首尾一貫したものでなければなりません。愛の奉仕は偏見や差別を許容することはできません。それは、人間のいのちはどのような段階にあり、またいかなる境遇にあろうとも、神聖で不可侵だからです。人間のいのちは分割できない善なのです。ですから、わたしたちはすべてのいのちに対して、まただれのいのちに対しても、「気遣いを示す」必要があります。実に、いっそう深いレベルで、わたしたちはいのちと愛の根源そのものへ分け入る必要があるのです。(Pope John PoulⅡ 1995=1996 n.87: 177)

ヨハネ・パウロ2世はこのように述べた上で、「以上のことはすべて、一人ひとりが他人の重荷を担うよう励ます(ガラテヤ6・2参照)ことを目的とする」(Pope John PoulⅡ 1995=1996 n.88: 178)と述べている。
 以上にカトリックの中絶に関する主な教説の内容を代表させるとしよう。教説は、中絶をしないかわりに子どもを養子に出すことを教えていた。さらに、教説には、中絶をしない替わりに子どもを養子に出すよいう選択を肯定しているように読める箇所もある。この点で、「こうのとりのゆりかご」の設置の意図はカトリックの立場と整合する箇所があるかもしれない。「こうのとりのゆりかご」には、産みの親が子どもを育てない/育てられないことから起こる中絶を防ぐという目的があるためである。とはいえ、より詳細に検討すると、教説と「こうのとりのゆりかご」には微妙な差異もある。次章では養子に関わる教説を見ていく。

2.子どもへの愛
 家庭については、1980年のシノドス(世界代表司教会議)が家庭のもつ四つの普遍的な使命(人間共同体を作ること、生命に仕えること、社会の発展に参加すること、教会の生命と使命を分かち合うこと)を強調したことが、ヨハネ・パウロ2世による使徒的勧告『家庭』で述べられている(Pope John PoulⅡ 1981=2005 n.17: 35-36)。

 神の計画では、結婚は家族というもっと広がった共同体の始まりです。なぜなら、結婚と夫婦の愛は、子どもの出産と教育に向けて定められており、この出産と教育の中に栄光と誉れを見いだしているからです。
 愛はそのもっとも深いところで本質的にたまものです。そして夫婦愛は、二人が互いを「知り合うこと」によって「一つの肉」になるよう彼らを導きながらも、夫婦だけに終わるものではありません。なぜならそれは二人に、考えられる最大のたまもの、すなわち新しい生命を与えるための神の協力者となるたまものを与えてくださるからです。こうして夫婦は互いに自分を与え合いながらも、それのみにとどまらず子どもをも与え合うのです。子どもは愛の生きた実りであり、夫婦の一致が永遠であるしるしです。また父であり母であるという断ち切ることのできないきずなのしるしでもあります。
夫婦は親になるとき、神からのたまものとして新しい責任を引き受けます。親としての愛は、子どもにとって「天と地にあるすべての家族の源である」神の愛の、目に見えるしるしとなるのです。
 しかし、たとえ子どもを産むことができなくても、そのために夫婦の生活の価値を失うものではないことも忘れてはなりません。事実、子宝に恵まれないということは、その夫婦にとって人間の生命への別の重要な奉仕の機会となることもできます。例えば養子をとること、さまざまな形での教育的な仕事、他の家族や貧しい人々、障害のある子どもを助けることなどができます。(Pope John PoulⅡ 1981=2005 n.14: 29-30)

以上ではカトリックにおける家庭のあり方が示されている。子どもは「神からのたまもの」であり、育んでいかなければならない。夫婦は自らの子どもを授からなかったとしても、養子を受け入れることによって、「奉仕の機会」を得ることができる。子どもを「親が」「家庭で」育てるということを重視しているため、養子という形態が採用されるのである。さらにヨハネ・パウロ2世は、回勅『いのちの福音』において、以下のように論じている。

家族間を結ぶ連帯を非常に意義深いものとして表すのは、両親に見捨てられた子どもたち、あるいは深刻な虐待のうちにある子どもたちをすすんで養子縁組し、受け入れる態度です。親としての真の愛は、他の家族から子どもたちを受け入れるために血肉のきずなを喜んで超えようとし、子どもたちの幸福と従前な発育のために必要なら何でも与えようとします。(Pope John PoulⅡ 1995=1996 n. 93: 189)

カトリックの家庭像は、「血肉のきずな」に縛られてはおらず、「家族間を結ぶ連帯」によって結び付けられているものとされる。だが、「ただ経済上の貧しさから子どもの養育を断念する」場合には、「一定の距離を置いた養子縁組」を考慮すべきであり、必要な援助が与えられることで、両親は親子の「自然な状態」から引き離されることなく、自分達の子どもたちを支え、養育できるともしている(Pope John PoulⅡ 1995=1996 n.93: 189)。この場合、「親子の自然な状態」は血のつながりがある親子と考えられるだろう。つまり、血縁のない家族よりは血縁のある家族の方が望ましいということになる。
 しかし、全ての子どもが家庭で育てられるわけではない。ヨハネ・パウロ2世は、「生まれたばかりのいのちは、援助センター、および新しいいのちを歓迎する家庭やセンターにおいても世話を受けています」と述べている。さらに続けて、「このようなセンターの活動のおかげで、多数の未婚の母と困窮のうちにある夫婦は、新しい希望を見いだし、身ごもったばかりのいのち、あるいは生まれたばかりのいのちを受け入れる困難や恐れに打ち勝つための助けや支えを得」ることが出来ているのだと述べている(Pope John PoulⅡ 1995=1996 n.88: 179)。加えて、カトリックの家庭像を築かせるための手助けをすることを家庭以外にも求めている。

いのちの最初の段階については、受胎調節の自然的な方法を扱うセンターが設立され、責任ある親となることができるよう価値ある手助けが提供されるべきです。そこでは、すべての人が、また何よりも子どもたちがその権利において認められ、尊ばれ、さらにあらゆる決断が、自己を心からの贈り物とするという理想によって導かれるのです。結婚・家庭相談所は、人間、夫婦、そして性に関するキリスト教的な見方に立脚した人間学に基づいて実行される指導と予防という特有の働きによって、愛といのちの意味を再発見することにおいて、また「いのちの聖域」としてその使命を担うあらゆる家族を支援し、家族とともに歩むことにおいて、大いに貢献しています。(Pope John PoulⅡ 1995=1996 n.88: 178-179)

 ここで改めて、「こうのとりのゆりかご」という主題に戻ろう。「こうのとりのゆりかご」は、「いのちの聖域」を支援するセンターとして、どのように貢献しているのだろうか。
 カトリックの教説では、子どもを「親が」「家庭で」育てるということが重視されている。他方で、「こうのとりのゆりかご」は家庭を提供するためのものではなく、子どもの生命を守るものである。そもそも、病院は家庭にはなりえない。以下の引用は死に関するものであるが、ここで見るに値するものである。

 地上に存在するものが終焉に近づくとき、高齢者、とくに自分で自分の面倒を見ることのできない人々、そして末期患者たちが純粋に人道的な援助を享受して、とりわけ不安と孤独の中で苦悩する彼らが、自分達に必要なことにふさわしい対応を受けることができるよう、最適の手段を講じるのもまた愛なのです。このような事例においては、家族の役割は欠かせません。しかも、家族は社会福祉期間から多大な援助を受けることができます。また必要ならば、公共の組織や家庭で受けられる、相応の医療上のサービスや社会的なサービスを利用して、一時的に看護を肩代わりしてもらうこともできます。
とくに、病院、診療所、回復期患者保養所の役割を再考する必要性があります。これらの施設は、病人や死に臨む人々に看護を提供するだけにとどまるべきではありません。なによりもそれらの施設は、苦しみ、痛み、そして死が、その人間的な意味ととくにキリスト教的な意味において認知され、理解される場でなければなりません。修道者が職員として勤務する施設、あるいは何らかの形で教会に関係する施設において、このことはとくに明確に示され、実効あるものとならなければなりません。(Pope John PoulⅡ 1995=1996 n.88: 179-180)

 
すでに1章で見たように、カトリックの教説では、受精の瞬間から人間であり、受精以降の人間は生きている。慈恵病院は「こうのとりのゆりかご」を設置し、先に見た「援助センター、および新しいいのちを歓迎する家庭やセンター」に接続することで、(中絶を含む)何らかの理由で死ぬ可能性のあった子どもを助けるための手段を設けたことになる。さらに育てることの出来ない子どもは養子に出し、家庭で育てられることを望むが、家庭で育てられ得ない子どもの場合は、先に見た「センター」で育てられることも認めている。家庭に対しては家庭を子どもになるべく提供し、愛を提供するように求めているが、「センター」や「施設」には家庭を提供することは求められておらず、家庭を提供するための手助けをすることが求められている。
 だが、「こうのとりのゆりかご」は、子捨てを否応なしに受容しなければならない。以下は、ヨハネ・パウロ2世が子どもに向けて述べたものである。

悲しいことに、今、世界中のあちこちで、多くの子どもたちが、苦しみおびえているのです。この子どもたちは、貧しくておなかをすかしていたり、病気や栄養失調でいのちをおとしてしまったり、戦争の犠牲になったりしています。両親に捨てられ、帰る家もなく、あたたかな家庭もないままです。おとなたちのさまざまな暴力とおどしにあっています。多くの子どもたちの苦しみ、とくにおとなたちから受ける苦しみを知ったとき、知らない顔をしていることができるでしょうか?(Pope John PoulⅡ1994b=2005: 16)

ここでは、子捨ては「おとな」の「暴力」とされている。「こうのとりのゆりかご」は、奪われゆく子どもの「生命」に対して、「知らない顔」をせずに、子どもの「生命」を守ろうとするシステムである。他方でそこには、子どもの「生命」を守る側面と同時に、子捨てという「おとなたちの暴力」を誘発する側面もあるのである。さらにいうならば、例え子どもを守るシステムであるとしても、「こうのとりのゆりかご」を通した子捨てシステムを慈恵病院は合法的に構築したこということも出来るのである。また、これまで「施設」は看護を提供することだけを望まれているのではないということを見たが、「施設」で働く人々の職責については以下のように述べられている。

医師、薬剤師、看護師、病院付の司祭、男女修道者、管理責任者、ボランティアに携わる人、これらの健康管理業務に従事する人々には、固有の責任があります。このような職業に従事する人には、人間の生命を保護しそれに仕える者であることが求められます。現代の文化的、社会的潮流において、科学と医学の実現は、自らに本来備わっている倫理的な面を見失う危険性を帯びており、健康管理の職業は、時には生命を操作する立場に立ったり、あるいは死さえももたらすものとなりうるのです。……このような責任ある人々にとって最強の励みとなるもの、また最強の支援となるものは、健康管理の職業に本来的に伴う否定しがたい倫理的な側面のうちに見いだされます。この倫理的な側面は、古代の人々によってすでに承認され、今なお今日的な意義のある「ヒポクラテスの誓い」であり、これは人間の生命とその神聖さに絶対的な敬意を表すことを、自らのこととして引き受けることをすべての医師に求めます。(Pope John PoulⅡ 1995=1996 n.89: 181)

「施設」に対しては「看護だけ」ではないことを求める一方で、「施設」で働く個人個人に対しては、まずは「健康管理」に関する「固有の責任」を果たし、特に医師に関しては「人間の生命とその神聖さに絶対的な敬意を表すこと」を求めている。
 ここまで、「こうのとりのゆりかご」に関するカトリックの教説を検討してきたが、ここからは「こうのとりのゆりかご」の実践者たる慈恵病院の他の実践も取り上げて検討していくことにする。慈恵病院では、夫婦間の子どもを支援するための不妊治療が行なわれている。生殖補助医療は、カトリックの立場からすると、生命の創造に関わるために禁止されると考え得る。神が人間を創造するはずであるのに、人間が人間の創造をしていると考え得ることから、人間が神を演じているという批判がすぐに想起されるからである。だが、カトリックの教説で必ずしもすべての不妊治療が禁止されているわけではない。カトリックの教説においては、医師は「人間の生命とその神聖さに絶対的な敬意を表す」べきであるとされているが(Pope John PoulⅡ 1995=1996 n.89: 181)、どの医療技術であればこの「敬意を表す」ことに当てはまり、容認される技術であるのかということにについて、次章で検討していく。

3.中絶以外の人間の生命を操る技術
 現教皇ベネディクト16世は教理省長官当時、国際神学委員会委員長を兼任していた。教皇庁が設置している各委員会の報告書は、カトリックの教説を作成する際に参考にされている。その一つである国際神学委員会の報告書(International Theological Commission 2004=2006)は、最終的に彼が公表を許可したものであるが、「罪のない人間」を殺す行為として自殺幇助、積極的安楽死、中絶に加え、着床前診断を非難している。

93 人が死を自由に扱うことは、事実上、もっとも徹底的なしかたで、生命を自由に扱うことを意味します。自殺幇助、積極的安楽死、そして人工妊娠中絶は……例えどれほど悲惨で複雑な個人的事情があったとしても……、自分が選択した目的のために身体的生命を犠牲にすることを意味します。治療を目的とせずにヒト胚を用いる実験や、着床前診断による、ヒト胚の道具化も、これと同じです。着床前診断では、遺伝子の欠陥を発見あるいは除去するために、胚分裂の手法を用いて、遺伝子を同じくする複数のヒト胚が作成されます。今日ではもはや、霊魂の注入が受精より遅れて行われていることを裏付ける、いかなる科学的理由もありません。(International Theological Commission 2004=2006 n.93: 77)

着床前診断はヒト胚を道具化し、診断に使用した胚は一部であっても処分されるために、非難されているのだろう。不妊治療の中でも、生命の操作が含まれている治療法はカトリックの教説では禁止されている。だが、教説は不妊治療を認めていないわけではない。国際神学委員会では、結婚した男女の夫婦行為によって子どもが生まれるべきだとされており、夫婦行為の代替として不妊治療の一部も認められている(International Theological Commission 2004=2006 n.87-89: 73-74)。

人の治療を目的とした生殖細胞系列の遺伝子工学は、それ自体としては認められます。ただしそれは、釣り合いのとれないような危険を伴わないしかたでそれをどう実施できるかを想定できる場合と……釣り合いのとれないような危険とは、とくに実験段階における危険をいいます。例えば、多くの胚の滅失や、望まない結果が起こりうる場合です……、また、生殖技術を用いない場合に限ります。男性の精子を作成する幹細胞に対して遺伝子治療を行うことは、こうした技術の代替的方法として考ええることができます。その場合、夫婦行為を通じて、自分の精子を用いた健康な子どもを得ることができるからです。(International Theological Commission 2004=2006 n.90: 74-75)

「夫婦行為」の結果として子どもが生まれるようにする科学技術であれば、人間の生命を人為的に操作していることにはならないとされる。そのため、原則として「配偶者間の人工授精(artificial inseminate)は認められない。ただし、その方法が夫婦行為の代わりとしてではなく、夫婦行為の自然な目的の達成のためになされる場合は違う」(Congregation for the Doctrine of the Faith 1987Ⅱ・B・6: 46)とされ、また「夫婦の行為を助けるかまたはその自然な目的を助けるためのものでれば、倫理的に認められる」(Congregation for the Doctrine of the Faith 1987Ⅱ・B・6: 47)とされている。人工授精には、夫の精子を使うAIH(artificial inseminate with husbands semes)と、夫以外の精子を使うAID(artificial inseminate with donr's semes)がある。AIHは夫婦の子どもを授かることになり、「夫婦行為の自然な目的の達成」ために行なわれることが出来るが、AIDは生物学的には夫ではない男性の子どもを授かるため、夫婦行為の自然な目的は達成されない。そのため、カトリックの教説においてはAIHのみが人工授精で許され得る技術である。さらに体外受精(IVF : in vitro fertilization)に関しては、カトリックの教説において一切認められていない。

14. 体外受精はとても頻繁に胚の故意の破壊(destruction)を必然的に含むという現実が『生命のはじまりに関する教書』においてすでに示されている。体外受精がまだやや不完全な技術であるためであるという主張もある。しかしながら、後に体験したことは、すべての体外受精の技術が、まるで人間の胚が使用され、選択され、廃棄されるための単なる細胞のかたまりであるかのように進行するということを明らかにした。(Congregation for the Doctrine of the Faith 2008 n.14)

カトリックの伝統的な教えがほとんどの避妊法を認めないことで、カトリックの伝統的な教えは人口爆発を抑えることができず、性感染症の蔓延を食い止めることが出来ないという批判がある。そこで、特にHIV/AIDSに関して、2005年10月、ベネディクト16世は教皇庁を訪れたアフリカの司教達に向かって以下のような発言をしている。

人を殺すばかりでなく、大陸の経済的安定と社会的安定を深刻に脅かすAIDSウイルスと戦うための貴方たちの努力を今後とも継続するよう、私は強く主張します。カトリック教会はAIDSの予防と治療の両方において常に最先端にいます。教会の伝統的な教えはHIV/AIDSの広がりを防ぐ唯一絶対に安全な道筋であるとわかりました。この理由に対して、「キリスト教の結婚と貞節が備える交際、喜び、幸せ、平和、加えて純潔が与える予防手段は、忠実な信徒達、特に若者達に絶え間なくプレゼントされなければなりません」。(Pope Benedict XVI 2005 n.4)

カトリックの伝統的な教えがHIV/AIDSの広がりを防ぐ有効な方法であるとする研究としてKajubiほか(2005)がある。Kajubiほか(2005)では、コンドームの普及活動が本当にHIVへの感染予防となっているかをウガンダでの社会調査から検証している。Kajubiほか(2005)はコンドームを使用していない人よりもコンドームを使用している人の方が不特定多数と性交渉を持つようになり、結果としてHIV/AIDSがより蔓延しやすい状況になっているという。それに対し、カトリックの教説は避妊を禁止し、夫婦が子どもを授かることを目的とした夫婦行為以外の性交渉を禁止しているために、結果として、それを遂行する者は特定の相手と最低限の性交渉を持つに留める。ゆえに、Kajubiほか(2005)の結果によるのであれば、伝統的な立場を崩さないカトリックの教説はAIDSを含めた性病に感染しづらい状況を作り出し、「唯一絶対に安全な道筋」となるだろうと結論付けられるというわけである。ベネディクト16世も上記の発言のなかで、新しい技術よりも伝統的な教えの方が個人を強力に保護し得る方法であるということを述べているのであろう。
 カトリックの教説は時代とともに変遷してきたが、中絶に関する教説においても、ある変遷がみられる。現在のカトリックの教説は中絶を禁止しているが、中絶がある条件の下では特に禁止されていない時期があったのである。そのため、現在でも中絶は容認されるという解釈をしてもよいのかどうかについて議論がある。次章では、特によく議論され、実際に教説の解釈として採用されていたとされるトマス・アクィナスをめぐる議論を検討していくことにする。

4.教説に対するカトリックからの反論への教皇庁の見解
 初代教会において胎児の時期を問わず中絶が禁止されていたことは、すでにゴーマンによって示されており(Gorman 1982=1990)、現行の教説においても胎児の時期を問わず中絶を禁止していることは本稿においてもすでに示してきた。しかしカトリックの教説において、一貫して胎児の時期を問わず中絶を禁止してきたわけではない。
 ヨハネ・パウロ2世は「妊娠が判明しても一定の日数がたつまでは、一人の人間のいのちとはまだ見なすことはできないと主張することによって、人工妊娠中絶を正当化しようとする人がいます」(Pope John PoulⅡ 1995=1996 n.60: 122)と言及している。この言及は中絶と胎児の生命をめぐって行なわれる議論すべてに向けたものであると考えられるが、カトリックの神学的な議論に対するものでもある。神学的な議論においては、トマス・アクィナスが支持したアリストテレスの質料形相論をめぐって行なわれている議論が多く、身体である質料と霊魂である形相が人間として一致したときに、初めて人間となると論じられる。
 ヨハネ・パウロ2世はトマスの質料形相論に依拠した神学的な議論などを意識しているがゆえに、「いつ霊魂が宿るのかは……示すことができません」(Pope John PoulⅡ 1995=1996 n.60: 123)と言及する。さらに国際神学委員会は、トマス主義の質料形相論に依拠した中絶容認論に対して、以下のような反駁を行なっている。

30 啓示の中ではっきりと述べられた、身体と霊魂の統一性を主張するために、教導職は「実体的形相(forma substantialis)」という人間霊魂の定義を採用しました(ヴィエンヌ公会議ならびに第五ラテラノ公会議参照)。ここで教導職は、トマスの人間論に依拠したのです。トマスの人間論は、アリストテレス哲学に基づいて、身体と霊魂論を、単一の人間の物質的原理と精神的原理と考えました。こうした説明は、現代の科学的知見と相いれないといえるかもしれません。現代物理学は、物質が、もっとも基本的な分子の状態において、単に可能的なものにすぎず、組織化への傾向をもたないことを明らかにしています。しかし、高度に組織化された生命と無生物のさまざまな形態を含む、宇宙における組織化のレベルは、なんらかの「情報」が存在することを示唆しています。こうした推論は、アリストテレスのいう実体的形相の概念と、現代科学でいう「情報」の概念との間には、部分的な類似があることを示しています。したがって、例えば、染色体に含まれるDNA(デオキシリボ核酸)は、特定の種ないし個体の特徴に従って物質を組織するために必要な情報を含みます。同様に、実体的形相は、第一質料に、個別的なしかたで組織化するために必要な情報を与えます。わたしたちはこの類似を考えるときに適切な注意を払わなければなりません。なぜなら、形而上学的・精神的概念を、物質的・生物学的データと簡単に比較することはできないからです。(International Theological Commission 2004=2006 n.30: 26-27)

さらに教皇庁の生命アカデミーでは、以下のように述べて「トマスの人間論」を支持する立場とる論者を反駁する。

トマス(Thomas Aquinas 1224/5-1274年)の思想を信奉する論者の中には、立論の基礎を遅延入魂説(theory of delayed animation)に置き、理性的霊魂(rational soul)を受容しうるために身体が十分に組織される瞬間について問いを提起する者もある。理性的霊魂は、精神的な活動(spiritual activities)を展開する準備ができた身体にのみ存在することができ、この機能を行使するために必要な条件は、ある説によれば、大脳皮質の存在である。このような立論の結果として、受精時に形成された生物学的な有機体(生物学的活動能力のみがあり、理性的活動能力はない)は、理性的霊魂を受け入れる準備ができていないことになる。
この立場は、トマス主義のいくつかの学派によって、一つ一つ批判されている。それによると、アリストテレスによって、のちに聖トマスによって支持された遅延入魂説は、質料形相論の諸原理から論理的に導かれた帰結ではなく、むしろこの二人の著者の時代に用いることのできた限られた生物学的知識に本質的に依拠していた。この諸原理を正しく適用すれば、改訂された現代版の科学的知識によって即時入魂説を支持し、したがって新たに形成された人の完全な人間性を断言するに至る。(Pontificia Academia Pro Vita 2006=2008: 38)

 ローゼンブラットによれば、10世紀までに、地方の教会会議による法律が広範な教会法令集の中に統一されるようになると、アリストテレスが区切った40日と90日の各段階と、初めての魂の宿りという考えに呼応したという(Rosenblat 1992=1996: 88)。さらにローゼンブラットによると、教皇グレゴリウス9世は、1234年の教皇令に、教皇インノケンティウス3世からの手紙(1211年)を含めたが、その手紙は「生命をあたえられたvivied」胎児と、「生命をあたえられていないnon-vivified」胎児に区別をしており、この教会法の解釈者たちは、アリストテレス学派の定則を採用したという(Rosenblat 1992=1996: 93-94)。
 キャラハンによると、教会の会議の多数は5世紀から12世紀まで明白に中絶を非難した上で、「形相のあるformed」胎児と「形相のないunformed」胎児の区別が、非難に値する中絶であるかどうかの指標とされた。最初の教会法を編集するための十分に組織的な試みである教皇グラティアヌスの1140年のDecretumの発表とともに、区別は堅固に設けられ、影響を及ぼした。中絶することに関係した人々の中で、どのような人が殺人者であるのかという問題への答えとして、グラティアヌスは「魂が身体に入る前の中絶に至らしめる人は殺人者ではない」と述べた。グラティアヌスの立場はDecretumで保証している論評で支持された。曖昧な様式においてではあるが、すべての教会に対して正式に法を制定している、1234年の教皇グレゴリウス9世のdecretalsをもって、区別は支持された(Callahan 1970: 411-412)。
 先の本文中の国際神学会議の引用においては、「トマスの人間論」に依拠したヴィエンヌ公会議(1311-1312)と第五ラテラノ公会議(1512-1517)において「人間霊魂の定義を採用」したとされている。しかし、ローゼンブラットとキャラハンによれば、ヴィエンヌ公会議以前から、「生命をあたえられた」、あるいは「形相のある」胎児と、「生命をあたえられていない」、あるいは「形相のない」胎児との区分が教説をめぐる議論の中に存在していたことになる。さらに言うならば、トマス以前に、すでにアリストテレスの質料形相論は教説に取り込まれていたことになる。そのために、質料形相論や「人間論」をトマスに依拠するものだと解釈することは、いささか不当であるのかもしれない。
 現在ではカトリックの教説におけるトマスに関する言及に限ると、トマスの論そのものが評価されていることには変わりはない。しかし、トマスの論で採用されなくなったものもある。質料形相論もその一つである。解釈するその時々の「時代に用いることのできた限られた生物学的知識に本質的に依拠し」て「正しく適用」した解釈が教説においてなされており時代によって変化しているのだ。だが教説における解釈が変化しているにもかかわらず「正しく適用」していない神学者がおり、トマスの質料形相論と中絶をめぐった神学論争が現在も続いている。カトリックの信者の間での分裂と混乱がトマスの質料形相論と中絶をめぐって引き起こされている。

おわりに
 「こうのとりのゆりかご」は現在のカトリックの教説の考え方を背景に設立されたということが出来る。「こうのとりのゆりかご」は、子どもの生命を「守る」ということを目的として設立されたために、目的はある程度達成している。だが、預けられた子どもが家族を得ることが出来るかどうか分からない以上、子どもが家族の中で育つことを望んでいるカトリックの教説において最も望ましいものではない。とはいえ、最も望ましいものでないとしても望ましいことであるのだから、教説に反しているわけではない。さらに、「こうのとりのゆりかご」を設立し、運営している慈恵病院は「施設」である。「施設」は家庭を提供することは求められておらず、家庭を提供するための「手助け」をすることを教説で求められている。慈恵病院の実践は、看護を提供するだけではなく、子どもの生命を「守る」ことである。家庭を提供するための「手助け」をしているということは、「施設」としては教説に適っているのである。
 本稿で見てきたように、カトリックの教説は現在においても、変化し続けており、必ずしも一貫した見解を示しているとは言いがたいかもしれない。4章で引用した生命アカデミーの言及(Pontificia Academia Pro Vita 2006=2008: 38)でもあったように、カトリックの教説の見解は、それぞれの時代に用いることの出来た科学知識に本質的に依拠することで成り立っている。
 科学的な事実は反証可能である以上、現在の社会で科学的な事実として広く認知されていることは絶対的な論拠とはならない。教説を示す立場である教皇庁は、必要とあればなるべくこれまでの解釈に沿う形で今までにも変更した例はいくつもある。本稿で取り上げたものの中でも、「地球上のものは……統治するもの」であるという考えや、「人間の霊魂が成長のどの段階から宿るのかはともかくとして、受精した瞬間から一つの生命」であるという考えがそうである。さらに、絶対的なことであると信じられていることですら、コペルニクス的転回が起こらないとは限らないことを踏まえるならば、カトリックのこの姿勢は生き残り戦略としては有効な手段であっただろう。中絶という一つの問題を見ても、当事者や関係する事柄が、子ども、親、家族、法と実践、政治、「センター」、「施設」、「施設」で働く人々、他の医療実践と中絶など、多く複雑な関係図式をなしてしまう。それぞれに関わる科学的な学問研究だけを見ても多岐に渡り、膨大なものとなる。科学的な研究以外の諸学問を含めるとさらに一つの問題に関係する研究が多くなることは明らかである。そのような状況に対して、各アカデミーを設置し、様々な分野からの専門的見地を集めた上で、教説を発するのは有効な手段といえるかもしれない。
 カトリックの教説は、それぞれの時代の科学的な論拠をもって論じられてきた。避妊をしなくなることでどれだけHIV/AIDS を含む性感染症の拡大を防ぐことができるのか実際のところは疑問も残るが、すでにみたKajubiほか(2005)が示そうとしたのは、カトリックの教説が示す道徳的な行動が理にかなっている一例であった。
 カトリックの教説が議論を交えながら常に変化してきたことと、議論の蓄積があることを踏まえるならば、カトリックの教説の形成過程を見ることで、教説を把握する以外にも、どのような人々が対象となる問題であるのか、どのような事柄が関係してくる問題であるのか、これまで歴史の中でその時代ごとにどのように考えられて議論されてきた問題であるのかということなどを知ることが出来る。このように、カトリックがこれまでしてきた議論を省みることは、教説を正確に把握する以外にも学ぶところがあるだろう。

◆註
(1)本稿の聖書の引用は日本聖書協会『聖書 新共同訳』(2006年度版)を使用した。
(2)従来、人間は神の似姿として存在している唯一の生物であり、地球上のものはすべて神が人に与えたもので、人間が支配するものとされていること(『創世記』1・26-30)が、自然に対して配慮を一切しないことを容認しているという批判があった。しかし、国際神学委員会は2004年に、以下のような解釈を示している。
  
60 ……この自然法は、理性的被造物であるが人間が、宇宙を統治しながら、真理と善を探求するように駆り立てます。神の像として造られた人間は、神から特権を与えられたことによって初めて、目に見える被造物を支配することができます。人間は、神の統治をまねることはできても、人間が神に代わって統治することはできません。聖書は、人間がこのように、神の役割を奪う罪を犯さないように戒めています。人間が、人間をはるかに超えた神法から自分を切り離して、目に見える被造物を支配するなら、重大な道徳的過失を犯すことになります。そのような人間は、主人の代わりに管理人を努めるからです(マタイ25・14以下参照)。しかし、管理人に与えられている自由は、自分達にゆだねられたたまものを増やし、しかもその際、ある種の大胆な発想を用いるのに必要な自由なのです。

61 管理人は自分が行った管理の報告をしなければなりません。そして、神である主人は、管理人の行いを裁くことになります。管理人が用いた手段が、道徳的に正当で、効果があったかどうかが、神が下す判断の基準となります。科学も技術も、それ自体が目的ではありません。技術的に可能なことが、必ず合理的といえるわけでも、倫理的に許されることだといえるわけでもありません。科学と技術は、被造物の全体に対する、またすべての被造物に対する神の計画に奉仕するものでなければなりません。この神の計画が、全宇宙と、人間の行う活動に意味を与えるのです。被造物の世界に対する人間の管理は、神の支配にあずかる形で行われなければなりませんし、また、つねに神の支配に従属するものでなければなりません。人間はこのような支配を行うために、(一)宇宙を科学的に理解し、(二)(動物と環境を含めた)自然界に対する責任のある配慮を行い、また、(三)自然界の生物学的統合を守らなければなりません。(International Theological Commission 2004=2006 n.60-61: 49-50)

(3)ヨハネ・パウロ2世は信徒の生活実践に対して以下のように論じている。

「自らをかけて共通善のために働くべきであるとする堅固な決断」の具現として、連帯も、社会生活と政治生活に参加することをとおして実践される必要があります。ですから、いのちの福音に奉仕することは、家族がとりわけ家族の団体の一員であることをとおして、国家の法律と機関が、妊娠から自然死へ至るまでの生存権を決して侵害することのないように、むしろいのちを守り育てるようにするために活動することを意味します。(Pope John PoulⅡ 1995=1996 n. 93: 190)

また、ヨハネ・パウロ2世は、政治指導者に対しては以下のように言及をしている。

罪のない人の本性的権利である生存権を侵害する法律は不正であり、そのような法は法として無効なのです。それゆえわたしは、人間の尊厳を無視することによって社会の枠組みそのものをむしばむ法律を通過させてはならないと、すべての政治指導者たちに再び訴えます。(Pope John PoulⅡ 1995=1996 n. 90: 183-184)  

(4)旧教会法第2350条第1項では「堕胎をした者は、母を含めて、結果が発生したときは、裁治権者に留保される既定の破門制裁に処せられる。また、聖職者の場合は、さらに免職される」とされ、教会法第1398条では「堕胎を企てる者にして、既遂の場合は、判事的破門制裁を受ける」とされている。だが、以下の本文では、中絶をした母親について取り上げているように、必ずしも破門にされるわけではない。
(5)ここで非難されたオナンの行為については「オナンはその子孫が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないように、兄嫁のところに入るたびに子種を地面に流した。彼のしたことは主の意に反することであったので、彼もまた殺された」(『創世記』38・9-10)となっており、オナンは神によって殺されている。
(6) Harst(1989)は、胎児や死産で産まれた赤ん坊には洗礼や葬儀を行なわなず、実際には教会自身が尊重をしていないにもかかわらず、胎児や死産で産まれた赤ん坊が人間であると言うのは矛盾があると主張している。その後、同様の反論に対して、教説を示す立場である教皇庁はPope John PaulⅡ(1995=1996)やInternational Theological Commission(2007)で回答を出したと言える。

◆文献

Callahan, Daniel, 1970, Abortion: Law, choice and morality, Macmillan.
Congregation for the Doctrine of the Faith, 1987, Instruction on Respect for Human Life in Its Origin and on the Dignity of Procreation Replies to Certain Questions of the Day, Libereria Editrice Vaticana.(=1987,ホアン=マシア・馬場真光訳『生命のはじまりに関する教書』カトリック中央協議会.)
────, 2008, Instruction Dignititas personae on certain Bioethical Question, Libereria Editrice Vaticana.
Gorman, Michael J., 1982, Abortion and the Early Church: Christian, Jewish and Pagan Attitudes in the Greco-Roman World, Inter-Varsity Press.(=1990,平野あい子訳『初代キリスト教と中絶』すぐ書房.)
Harst, Jane, 1989, The History of Abortion in The Catholic Church: The Untold Story, Catholics for a Free Choice.
International Theological Commission, 2007, The Hope of Salvation for Infants Who Die without Being Baptised, Libereria Editrice Vaticana.
────, 2004, Communion and Stewardship: Human Persons Created in the Image of God, Libereria Editrice Vaticana.(=2006,岩本潤一訳『人間の尊厳と科学技術』カトリック中央協議会.)
Kajubi, Phoede, Moses R. Kamya, Sarah Kamya, Sanny Chen, Willi McFarland and Norman Hearst, 2005, ”Increasing Condom use withiout Reducing HIV Risk: Results of a Controlled Community Trial in Uganda,” Jounal of Acquir Immune Defic Syndr, 40(1): 77-82.
「こうのとりのゆりかご」検証会議, 2008,「「こうのとりのゆりかご」をめぐる課題と中間とりまとめ──検証結果の中間とりまとめ」.
(http://foster-family.jp/data-room/stock-file/20080908konotori-chukan.PDF 2009-09-06)
Pontificia Academia Pro Vita, 2006, L'Embrione Umano Nella Fase del Preimplanto: Aspetti scientifi e considerazioni bioetiche, Libereria Editrice Vaticana.(=2008,秋葉悦子訳『着床前の段階のヒト胚──科学的側面と生命倫理学的考察』カトリック中央協議会.)
Pope Benedict XVI, 2005, Address of hie Holiness Benedict XVI to the Bishops of South Africa, Botswana Swaziland, Namibia and Lesotho, on their“Ad Limina Apostolorum” Visit, Libereria Editrice Vaticana.
Pope John PaulⅡ, 1981, Familiaris Consortio, Libereria Editrice Vaticana.(=2005,長島正・長島世津子・糸永真一訳「家庭──愛といのちのきずな」『家庭──愛といのちのきずな』ペトロ文庫.)
────, 1994a, Litterae Familiis Datae, Libereria Editrice Vaticana.(=2005,糸永真一訳「家庭への手紙」『家庭──愛といのちのきずな』ペトロ文庫.)
────, 1994b, Letter of the Pope John Paul II to Children in the Year of the Family, Libereria Editrice Vaticana.(=2005,カトリック中央協議会出版部訳「子どもたちへの手紙」『子どもたちへの手紙』カトリック中央協議会.)
────, 1995, Evangelium Vitae, Libereria Editrice Vaticana. (=1996,裏辻洋二訳『いのちの福音』カトリック中央協議会.)
Pope Pius XI, 1930, Casti Connubii, Libereria Editrice Vaticana.
Rosenblat, Roger, 1992, Life Itself, Random House.(=1996, くぼたのぞみ訳『中絶──生命をどう考えるか』晶文社.)

◆ホームページ
医療法人聖粒会慈恵病院2008(http://jikei-hp.or.jp/2009-09-06