まえがき

松原洋子
(立命館大学大学院先端総合学術研究科教授)

 生命倫理の問題群のなかでも、「出生をめぐる倫理」は特有の難しさを備えている。第一に、人の尊厳の座としての身体の境界が自明ではない。胎児と共生する妊婦は、一人とも二人とも言い切れない身体を生きている。したがって人の尊厳という原則を応用して、妊娠する身体と胎児に関わる倫理的課題(たとえば人工妊娠中絶)を解くことには限界がある。第二に、身体未満ともいうべき生命の現前である。体外受精でつくられた胚、中絶された胎児、胎内にある胎児治療の「患者」、早産された極度に未熟な新生児たちは、人と人ではないものの間にある。生かす、死なせる、解剖する、破壊する、廃棄することをめぐって、こうした存在の処遇が倫理的な争点になる。
 出生をめぐる倫理の困難は、身体という座のゆらぎにあるだけではない。生まれるという行為を決定する主体に、本人がなりえないという原理的困難もある。生老病死という四苦は出生に始まる。親が生まれてくる子の苦を推し量ることもあれば、子によってもたらされる苦を親が恐れることもある。子は自分の出生の可否を選べないが、親はある程度選ぶことができる。つまり出生に関わる決定は、親をはじめとする他者に全面的に委ねられており、本人は全く関与することができない。子の利益を親が捏造したり、子の福祉という名目で、社会が親の生殖を規制したりすることも起こりうる。出生の是非をめぐる論争は、本人不在の代理戦争にならざるを得ない。したがって「代理人」としての正統性と主張の妥当性を同時に吟味する作業が必要となってくる。
 そうした困難な課題に若手研究者たちが果敢に挑戦したのが、この論文集である。立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点・院生プロジェクト「出生をめぐる倫理研究会」のメンバーが寄稿した。院生プロジェクトとは大学院生が代表をつとめる研究プロジェクトで、院生やポスト・ドクトラルフェローが自主的に研究会や調査、執筆活動を展開して運営する。「出生をめぐる倫理研究会」は最も活発な院生プロジェクトの一つで、2008年度に作成した年次報告書に改訂を加えて中心メンバーの櫻井浩子と堀田義太郎がこの冊子を編集した。以下では「生命の選別」に関連する論文をいくつか紹介しておこう。
 胎児診断や着床前診断では、何らかの診断基準にもとづき出生させる/させないが判定される。医療としての妥当性を担保するために、胎児や胚の恣意的な選別は許されず、選別条件の正当化が求められる。これは出生させない理由、つまり死なせる・廃棄する理由の正当化を意味する。野崎泰伸「『生きるに値しない生』とはどんな生か」と堀田義太郎「出生前選別批判の可能性と限界」では、「生命の選別」概念が哲学的に検討される。
 野崎論文では「生の無条件の肯定」が正義であるという立場に「賭け」る。生命至上主義でも功利主義でもなく、また議論の分節化が生きる資格の条件付けを呼び込まないよう慎重に理路を選びながら、「生の無条件の肯定」を正面から論じている。これとは逆に堀田論文では、出生前の選別を肯定する議論を検討しながらその理論的限界を抽出し、そこからより確かな出生前選別批判の射程を設定しようとする。両論文とも生命の選別の概念が社会的に状況づけられていることをわきまえつつ、選別批判の規範的理論の構築を志向する野心的な試みといえる。
 一方、北村健太郎「『痛み』への眼差し」と櫻井浩子「妊娠22週児の出生をめぐる倫理的問題」は、生命の選別を歴史的・社会的観点から考察する。北村論文は、血友病の子どもを産むことを批判した1980年の「神聖な義務」というエッセイに、血友病患者団体がなぜ組織的な批判運動を展開しなかったのかについて、綿密な考証を行っている。「自発的優生学」と呼ばれる当事者自身の子孫に対する遺伝的配慮には、遺伝型以上に「痛み」という表現型の質が関係していた。したがって血液製剤の在宅自己注射(ホーム・インフュージョン)による激痛からの解放は、彼らの「自発的優生学」への姿勢を変容させうるものであった。さらに遺伝子組換え製剤で痛みをコントロールする血友病者たちは、世界経済・バイオテクノロジー・リスクマネジメントに規定される「充電式サイボーグ」であると北村は言う。優生主義論争では「自然な身体」への世代を超えた介入の是非が問われてきた。しかし、血液凝固因子の注入が常態となった血友病者の生存は、すでに「サイボーグ化」されている。だとすれば血友病者にとって優生主義の争点はどこに位置するのだろうか。北村は、ここから身体の政治をめぐる問いが新たに開かれることを示唆する。
 櫻井論文は、母体保護法における中絶可能期限である「妊娠22週未満」の意味を、新生児の生育可能性という観点から検証する。妊娠22週で生まれた超未熟児を生かすには、濃密な医療的介入が必要である。22週のラインは胎外での生存可能性によって引かれたものであるが、実際の新生児医療では23週以降に生育限界を認めているという。つまり22週での出生児は、法律と医療の狭間で患者になりうる資格を宙づりにされていることになる。一方、胎児治療においては、妊娠21週以前での治療実施が必要な疾患もある。このとき胎児は胎内にとどまったまま、患者として治療の対象となる。母体保護法については、これまで中絶の文脈で論じられることが多かった。しかし櫻井論文は、胎内外での胎児または超未熟児への医療的介入と生存可能性という観点から、母体保護法に新たな倫理的争点を見いだしている。そして、胎児治療と超未熟児医療の進展が、周産期の生命倫理という課題の難度と重要性を高めていることを私たちは知ることになる。
 これらの他にもカトリックの教説における中絶問題(池端裕一朗)、日本におけるポリオ生ワクチン獲得運動(西沢いづみ)、いわゆる「赤ちゃんポスト」の背景と養子・中絶問題(吉田一史美)に関する論考が掲載されている。論文としてはかなり荒削りなものもある。しかし、執筆者たちがそれぞれ自力で見いだしたこだわりのテーマについて、仲間と切磋琢磨しながら、のびのびと論じているのがこの企画の良いところである。読者の皆さんの厳しいご批判を仰ぎつつ、彼らの飛躍を見守りたい。