あとがきにかえて──運動/研究をめぐる断想

経緯
 本報告書を終えるにあたり、末筆ながら「あとがき」にかえて、本報告書の成り立ちにかかわること、また、本報告書を貫く主題について若干のことを記したいと思う。グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点報告書第3号として発行された本報告書は、2007年12月8日に実施した「性同一性障害×患者の権利——現代医療の責任の範域」と題した研究シンポジウムに端を発している。その記録をかたちにするにあたり、関連する諸テーマについて書かれた論文も集めて構成しようと考え、北村健太郎氏と相談のうえ、医療従事者の視点、診療情報・カルテ開示、C型肝炎特別措置法にかかわる諸論文とGID医療にかかわる論文などで第二部を構成にすることになった。そのため、発行までに予想以上の時間がかかった。この場を借りて関係者に改めてお詫びをしたい。
 同シンポジウムは、2007年3月に京都地方裁判所に提訴されたGID医療過誤裁判が投げかけた諸問題を考えるために実施したものである。当日は60名近い参加者を得ることができ、この裁判のことをひろく知ってもらうだけでなく、第一部を読んでいただいたら分かるように、GID医療と医療過誤裁判に加えて、医療と身体を取り囲み様々な分断を書き込む制度の問題と、それに抗する諸実践の課題が提出された。それはいまだ十分に消化しきれていないものでもあるが、それらの論点をさらに深めるため本報告書を公にしたところもある。本報告書を通じて、さらに、問題意識を深化させる必要がある。

争点
 さて、本報告書の各論文を読んでいて改めて考えさせられたのは患者運動や医療被害を受けた人たちの当事者グループがことごとく法や医療などの制度によって「分断」させられていくということである。薬害エイズ(西田・福武論文西田論文)、C型肝炎(北村論文)、GID医療(高橋論文)、どれをとっても当事者間や当事者運動に分断線が入らないということはないように思われる。もちろん、あるマイノリティ集団がすべてまとまってグループを形成したり、統一された団体を通じて運動すべきだというのではないし、それは事実上不可能でもある。また、そのことが目的実現にとって効果的であるという保証もない。
 ところで、制度の分断、当事者の主体形成、それぞれにとって基準になるのは差異である。その差異によって属性が形成され、カテゴリーがつくられる。しかし、同じ属性、同じ集団のなかにも差異がある。個々人のなかにさえ差異やその変容があるのだから、それを集合性に練り上げた段階にあっても決してその差異はなくなるわけではない。しかし、制度は差異や属性を同定し、それに基づいて政策を立案し、法案をつくり、執行する。時に、それを通じて、差異は様々なかたちで歪められていく。一度つくられたカテゴリーは、すでにあるものとして、制度による土俵のうえに当事者を囲い込む。それによる分断が事態を再生産させていく。
 ただでさえ困難を抱えたマイノリティ・当事者たちに、分断を対象化し、乗り越えていくという困難が課される。これは不当な配分である。第一部でも議論されている医療被害を受けた側が医療のミスを証明しなくてはならないという法廷の力学と同じ構図が、マイノリティ・当事者のなかを貫いている。運動とはそういうものに向き合うことを要求される。この不均等なあり様が是正されるために争いが起こるのである。

研究
 マイノリティや当事者の運動はしばしばバッシングにさらされることがある。それは、第一部の勝村報告でも指摘されている。そして、それをメディアが助長する。また、あるグループに肩入れして、当事者間に分断を入れるメディアもある。そして、このような複雑な事情を抱える運動に加担することに対する忌避感が研究者にはある。立岩氏が「学問のための学問の意義を否定しないが、他方、人々のためにも学はあり、それはときに一方の側に付いて他方の側を批判することであることが、当然にある。それは自明のことである。であるならば、共同的な研究のプロジェクト自体がそのような部分に参加することもまた当然、原理的に正当である」(本報告書p.163)とするような研究は十分に進んでいない。なぜか。
 一概にはいえないのだが、今の研究者は運動に「亡霊」もしくは「幻想」のようなものを見ているのではないか。かつて、運動に加担し共に歩むことが当たり前だった研究者の影を陰に陽に見せられるとき、その圧力に屈しないでいようとし、また、加担しないでいようとすることが、それぞれの距離の取り方に反映し、研究の動機になっていたりもする。しかし、「傍観者でいるべきでない場面があるとともに、そのことと矛盾せず、冷静に解析するべき場面があるということ」(本報告書p.167)を両立させることがなんであるかはあくまで考えようとはしない。
 それ以前に、今の研究者は、運動それ自体に何かしらの違和感を(正当にも)持っているのかもしれない。ミルズの「新しい権力者」ではないが、確かに、運動内部の権力性が批判にされて既に数十年が経ち、運動の限界や抑圧性は明らかにされている。運動を研究することの意味・意義は総じて換骨奪胎されてしまったかのようにも見える。そこから何を始めることができるのか。一方で、少しずつ着手され始めてもいる運動・実践にかかわる研究とは、このような(歴史的)文脈を看過したところから始まっている。そのことがよいことなのか、そうでないことなのかは判断が難しい。
 マイノリティや当事者は研究(しばしば研究・教育機関の制度であるところの大学)の材料であり、「ネタ」化されてしまうこともある。現在進行中の「研究倫理」のための綱領づくりなどは、研究される者を守るものなのか、研究する者(あるいはその者が属する機関)を守るものなのかいまいち判然としない。ただ、当事者や運動団体も常に受け身の立場ではなく、研究者を利用することもある。両者に幸福な関係性が成立することはもちろんあるし、不和が生じることもある。たいてい研究する側は不信の目で見られる。それは当たり前のことでもある。研究がなくても実践は進まざるを得ない。向き合っているものが違うからである。研究が主である場合のかかわり方については不十分ながら最近論じる機会があったが(山本2008)、運動への(もしくはそれを研究することに対する)違和感はこのような事態に向き合うことで生じる「何か」に対する直観的な忌避へと繋がっているのかもしれない。

運動
 研究が運動・実践を記述することについて考えること以外に、研究それ自身の存立条件を運動の射程に置くことを考える必要がある。本報告書がグローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点の研究活動の一環であることはすでに述べた。1990年代以降の急激な大学改革の流れのなかで、「トップ30」から「COE」、さらに21世紀COEからグローバルCOEという研究・教育機関を選別する国の科学技術政策に対して、かつて旺盛になされていた批判はほとんど聞かれなくなった。与えられた環境のなかでやっていくしかないという諦めか、利用できるものは利用するという開き直りか、それはそれぞれの事情にもよるのだろう。「生存学」に関していえば、その問いはまったく霧消しているかに見える。ただ、様々な歪みを露呈させ不協和音を伴いながらも調達され続ける合意システムである立命館大学のなかにあっては、その存在は孤軍奮闘の感もある。
 「逆利用」や「内破」など威勢のいい言葉は久しく聞かない。一方で、「学問運動」や「研究アクティヴィズム」などという言葉が一部で聞かれ、大学を特集する雑誌もあるが、状況が見えているとは思えない楽観論が多い。大学付きの研究者と言った方が分かりやすいかもしれないが、そこには三つのタイプがあり、一つ目は物言わぬ者、二つ目は良心的な者、三つ目は実践的な者である。三つ目こそが、制度の境界線を行き来することで自らの存立条件を問うという重要な課題を見えなくさせる一番厄介な存在でもある。
 大学という制度にこだわらない研究者は世間にはたくさんいる。実践者が研究者であることもしばしばあり、その逆の場合もある。私が研究している部落問題や在日朝鮮人問題に関していえば、刺激的な作品や成果をあげる人はこのタイプの研究者に多い。本人の自覚の問題でもあるが、制度のどこに自分が位置付けられているのかを考えることは、個々の心構えや生き方の問題と済まされるものでもない。
 「生存学」もまたそのような制約のなかにあり、制度に対する批判性を帯びつつも、年間3000万円近くの税金が投入され、研究成果を刻々と出していかなければならない。果たして本報告書はその構造のどこに位置付くのか。決して明確に考えて編んだ訳ではない。それは制度のなかにいるものとしての怠慢でもある。ここ数年間にいくつかの文章を通じて、大学という制度のなかで、何が問われ、何ができるのか。それなりに考えてきたつもりではあった(山本[2006][2007b])。ただ、それより先に行こうとして行くことができていない。頭の中で考えるだけでは何も解決されないことは分かっているのだが、という感じもしている。制度のなかに10年近くもいることになるが、考えられるのはこの程度のことで、この場を簡単な整理の機会にさせてもらうかたちになった。この文章はそれ以上ではない。

謝辞
 最後に。本報告書を作成するうえで、同じ研究科に属する宇野善幸氏に原稿チェック・校正などで尽力していただいた。感謝したい。また、編集の際には生活書院の髙橋淳さんにお世話になった。大学における研究報告書はしばしば必要以上の時間がかかり消耗させられるが、今回は編集者の仕事の早さに大変救われたように思う。髙橋さんには改めて感謝したい。

文献
山本 崇記 2006 「『大学解体』の現在形——問いの地平はどこにあるのか」『現代思想』第34巻第5号、青土社
———— 2007a 「差別/被差別関係の論争史——現代(反)差別論を切り開く地点」(pdf) 『コア・エシックス』第3号、立命館大学大学院先端総合学術研究科
———— 2007b 「現代労働運動試論(二)——社会的学生/労働運動のための覚書」『PACE』第3号
———— 2008 「戦後日本における社会運動研究と反差別解放運動——部落解放運動をめぐる問いを通して」、<社会運動>研究会編『社会運動研究の現代的課題』