第3章 パンフレットからYoung Hemophiliac Club へ 血友病者本人の活動へのうねり

北村 健太郎

1.本章の目的

 2010 年4 月17 日から18 日にかけて、世界ヘモフィリアデーイベントとして、全国ヘモフィリアフォーラムが全国社会福祉協議会灘尾ホールにおいて開催された。血友病者本人とその家族で構成される全国ヘモフィリアフォーラム実行委員会によって運営され、開催報告書が作成された(全国ヘモフィリアフォーラム実行委員会編 2010)。全国ヘモフィリアフォーラムは、約30 年前、1976 年8月31 日から9 月4 日、血友病者とその家族の全国組織である全国ヘモフィリア友の会(以下、全友)1)も関わって開催された世界血友病学会議(国際血液学会議およびWorld Federation of Hemophilia[以下、WFH]会議)2)以来の国際的な集会であった。
 現在では、血友病者本人の活動や運動は当たり前になっている。しかし、WFH 会議が開催された1970 年代は、血友病者に血液製剤が普及し始めて、今までにない身体の自由をもたらし、活動範囲も大幅に拡大し始めた時期であった。他方、全友の運動に一定の成果が現れ、1969 年から血友病への医療給付が開始され、1972 年、給付の年齢制限が12 歳まで引き上げられた。全友の運動に積極的に参加する血友病者本人も現われたが、親中心の運動の限界を痛感しつつあった。若手血友病者3)は、全友の医療給付および血液製剤確保の運動の成果を率直に認めた上で、加えて若手血友病者に直接関わる就学、就職、結婚などの問題への取り組みが必要だと感じ始めた。これは、彼ら自身が問題に直面したことはもちろん、大西赤人君浦高入学不当拒否事件4)など、一第3 章部が事件として報道された影響があると思われる。これは後述する「青年の集い」の記録から読み取れる。
 本章では、1970 年代当時の若手血友病者本人の社会的自立を志向する動きを取り上げる。とりわけ、Young Hemophiliac Club(以下、YHC)の取り組みに焦点を当てる。若手血友病者の取り組みは各地域に生まれたが、なかでもYHC は「青年の集い」と連動していた。後に詳述するが、YHC の活動を関西地域の取り組みと捉えるのは狭い認識である。本章では、YHC の結成から網野合宿までの活動を述べ、YHC の歴史的意義を検討する。今回の基礎資料として、YHC の機関誌『アレクセイの仲間たち』5)、全友の会報『全友』などを用いる。

2.パンフレット『若者よ 集まれ!』

 1973 年秋、若手血友病者の有志5 人が『若者よ 集まれ!』というパンフレットを作成し、全国の若手血友病者に向けて発送した。呼びかけ人は、京都の山岡益幸、寺井博、寝屋川の池邨勝美、広島の坂田和如、寺井英一である。呼びかけ人5 人がそれぞれに思いを綴ってステイプラーで閉じて、手作りのパンフレット『若者よ 集まれ!』を作成した。「私達の統一見解」として、寺井英一が「血友病の若者と血友病患者に関わりのある若き心を持った人々への私達のメッセージ」という文章を書いている。
私達が、このようなことをやることになった、そもそもの発端は、昨年〔1972年──引用者注〕の埼玉での全国大会の折り、宿屋で一夜を共にしたことにある。⋯⋯私達は今年〔1973 年──引用者注〕東京にて行なわれた全国大会(=全国理事会)に出席し、そこである種の根底的な絶望感と言い様のない焦燥感を抱かないわけにはいかなかった。⋯⋯全国の血友病の若者に呼びかけて、新聞あるいはパンフレットをつくり、活発な交流をはかろうと考えた。また、全国的規模での若者達の話し合いも大切だろうと思っている。
とりあえず、私達は、私達の個々の思いをつづった呼びかけ文を発送する。血友病の若者と血友病患者に関わりのある若き心を持った人々の反応を心待ちにしている。
最後に確認事項として以下にまとめる。⋯⋯現状を見るに、今、私達を含め血友病患者家族は今までの運動ではとらえきれない多大な問題を抱えこんでいる。私達は少なくともそういった立場に立つ人の意見を聞きたい。そして、共に具体的にその問題に対処していきたい。そのような人々との交流を私達は望んでいる。
⋯⋯それ故、発行を予定している新聞あるいはパンプ〔ママ〕には投稿のすべてを一切ありのまま掲載する。「四畳半襖の下張」に類する作品でもノーカットで掲載する決意である。決して、新聞あるいはパンプは、あの全国会機関紙〔ママ〕「全友」の如く正座して読ませていただく様なものにはしたくない。
⋯⋯私達は、私達のやろうとしている事に対する、あなたの意見、ひとつの具体的な手段として私達が考えている新聞またはパンフの発行についてのあなたの意見、さらに今後取り上げていこうとする課題についてのあなたの意見、等々を待ち望んでいます。原稿用紙に書くも良し、ノートの切れ端に書くも良し、トイレットペーパーに書くも良し、書式は一切問わない。とにかく、生身のコトバが欲しい。
今何時? ハァーイ、新しい運動ドキョ(寺井英一 1973)。
 寺井英一が文章化した「私達の統一見解」は、「現在の全国会・地区友の会運動には何か大切なものが抜け落ちている」と指摘する。全友のそれまでの「医療給付の問題、AHG 確保のなどの医療体制の問題」などの運動を評価しながらも、「血友病患者の、そして姉妹を始めとする家族の心の問題に対しての取り組み」が充分ではないと言う。「我々十代後半から二十代にかけての若い者が、抱え込んでいる問題、教育問題・就職問題・結婚問題」が重要になってきており、若手血友病者自身がこれらの問題について積極的に取り組む必要を提起する。
 呼びかけ人の一人である坂田は、「自らの手で未来を 運動を!」と題する文章で「親の側の論理」と「子供の側の論理」を対置させ、以下のように述べる。
医療給付の問題、AHG6)確保などの医療体制の問題等、今までの運動を私は素晴らしいと思うし、今後も重要な課題に違いないとは思うけれども、その視点はどうも親の側の論理によるものの様な気がする。そして、就学、就職、結婚、様々な地点での人間関係、等々今ある数多くの問題は、精神的、社会的色彩が強く親の側の論理では決して理解、解決できないと言える。⋯⋯もっとも、これらの問題は⋯⋯今までの親の側の論理に立った運動があったからこそ顕在化したものに違いなく、私は決して今までの運動を非難するつもりはない。
しかし、今、運動が転期〔ママ〕にあることには間違いなく、現在の種々の問題を解決するには、まず親の側の論理から子供(=患者、姉妹)の側の論理への発想の転換が肝要であろう。
⋯⋯若者同士の話し合いが望まれる。私達の未来を親の側にあずけることはできない。私は、自らの手で、未来を、運動を切り開きたい。
親の心が子供にわからないのと同じ程度に、子供の心は親には決してわかりはしないのだ(坂田 1973)。
 坂田もまた、「親の側の論理」による「今までの運動を私は素晴らしいと思うし、今後も重要な課題に違いない」と認めながらも、「就学、就職、結婚、様々な地点での人間関係、等々今ある数多くの問題」は「親の側の論理では決して理解、解決できない」と言い切る。そして、これらの問題の解決のためには「親の側の論理から子供(=患者、姉妹)の側の論理への発想の転換が肝要」であり、「子供の側の論理に立った運動」の必要を説く。
 山岡は「教育問題・就職問題・結婚問題は、重大かつ困難な問題です。この様な深刻な問題に直面している若者が、今のように、各人バラバラで、これらの問題に対して意見や各人の経験を述べたり、相談したりする事もなく、どこに誰が居るのかもわからない状況で良いのでしょうか。⋯⋯来年、京都で開催される全国大会の前日ぐらいに、一つの所に泊り込んで話し合いたいと思っています。⋯⋯各種さまざまの問題を膝を交えて話ししたいと考えております」(山岡 1973)と若者の集会を呼びかける。寺井博は「全友にある体験発表は、我々患者にとって大そう価値あるものであると思う。ゆえにそれを大切にしたい。⋯⋯もっと日常会話で用いられるような平易な表現でリラックスしたものを書くようにすればどうだろうか。⋯⋯今、必要なことは、できる限り多くの人々にその体験をありのままに発表してもらうことではないだろうか」(寺井博 1973)と、平易な言葉遣いによる体験発表の必要性を主張する。池邨は、「学校生活、教育や職場などでの問題、若い人たちに関係のある問題」を「すべての若い血友病患者に共通した問題と考えて、お互いに経験を交流し、悩みやよろこびをわかち合い、解決し励まし合える」第一歩として、アンケートを作成した。
 呼びかけ人5 人は、第一に、自由な若手血友病者の意見や相談などを載せた新聞あるいはパンフレットの発行、第二に、若手血友病者が集まって気楽にいろんなことを話し合える集会の開催を具体的な計画として提示した。これまでの機関誌『全友』に寄せられた体験発表は、両親による体験発表がほとんどで血友病者本人によるものは少なかったし、若手血友病者が主催する全国レベルの集会は開催されていなかった。呼びかけ人5 人は、若手血友病者間の積極的な交流とその活発な活動を喚起した。

3.「青年の集い」の開催

 呼びかけ人5 人が提起した若手血友病者が主催する集会は、全友の第8 回全国大会前日の1974 年7 月27 日、京都の旅館で開催された。これが第1 回「青年の集い」である。「若者よ 集まれ!」という呼びかけは「青年の集い」という形に結実した。呼びかけ人の一人であった池邨がその記録をまとめている。
青年患者の有志5 人が、「若者よ集まれ!」というパンフレットを作り、各自の思いを載せて各地区会の青年に向けて送りました。⋯⋯そこで訴えたかった二つの具体的なこと、一つは、自分の話しことばで、リラックスして何でも書けるパンフレットを継続的に発行したいこと、二つは、全国の青年が集まって現在かかえている問題を討論する場を持とうということでした。
さいわい、49 年〔1974 年──引用者注〕に京都で全国大会が開かれるのでその前日にでも「青年の集い」を持つよう取り組んだわけです。
⋯⋯参加した人数は、患者や両親など含めて、全国から50 名近くになりました。宿泊は、36 名でした。
第一回目の集まりなので、何が話し合われるかわからないし、率直な意見交流をし、青年らしい明るい集まりにしたい、と考えていました。
各地区会の紹介、会の活動状況、悩み、がんばっていることなどを伝え合うことから始まりました。
東北では、青年部ができかかっていること、ベッドスクール7)のこと。
山口県では、患者の発見に苦労しておられること、患者同志〔ママ〕の団結を訴えておられたこと。
東京では、以前から青年の活動をやっていて、旅行会をしたこと。医療・結婚問題・将来の社会生活のことなど話し合っていること。
「友の会」活動も、青年が行なえる活動をしなければならず、青年の集いへの提案(青年の交流とテーマを決めての討論)や障害者と教育問題(大西君と岩下君の問題)について報告されました。
奈良の青年は、青年同志の横のつながりを強くしていきたいこと、近畿圏内での青年の集まりを作っていきたいこと。AHF8)をどこでもすぐに打ってもらえるようにしたい、と訴えていました。
⋯⋯青年のかかえる、教育問題、進路の悩み、与えられた仕事をコンスタントに片づけるのがむずかしい、という職場での苦労話、さらには、失恋の話、恋愛経験談もとび出し、率直に意見を交換し、励まし合いました。
患者自身が自立することの大切さ、恋人に病気を含めた全人間性を理解してもらう大切さなどが強調され、熱気を感じるふんい気でした。⋯⋯今後の方向など話し合いました。
大西赤人君に代表されるような教育問題、青年の集いの事務局、会誌の発行など意見が出ましたが、具体的には決定できませんでした。希望として『全友』に青年の声を反映させてほしいこと、青年に関わる問題をとり上げてほしいことが出されました。
10 時閉会。
その後、宿泊者20 名くらいで、夜遅くまで青年の集いの活動、組織的なこと、会誌の発行と交換など、意見の交流をしました(全国ヘモフィリア友の会 1975:37-38)。
京都での「青年の集い」を受けて、翌1975 年8 月23 日、「仙台で会おう」を合言葉に、仙台で第2 回「青年の集い」が開催された。以下は、東北ヘモフィリア友の会9)青年部長の千田重彦による記録である。

台風6 号の中、全国各地より患者、父兄、医師の方々など54 名の参加を得、仙台市榴ヶ岡の仙台郵便貯金会館において全国大会前夜祭「仙台で会おう」─青年の集い─を開催いたしました。
この青年の集いは前回の開催地京都において、関西の若い人々が集まり、全国に呼びかけを行ない有意義な討論を行なったのを受け、ぜひ東北の地仙台においても行なってほしいと要請があり、又我々東北ヘモフィリア友の会の青年達もやってみたいし、やってやれないことではない、これからは我々が大いに活躍しなくてはならない時期が来ているのではないかとの話がまとまり約6 ヶ月前より毎週準備会を持ち、討論内容について、受入態勢について、会場設定についてなど活動を始めた。
今回、テーマとして「教育と就職」ときめ、アドバイザーに西多賀養護学校の半沢健先生、国立療養所西多賀病院酒井秀章先生をおねがいし、5 時より会食をはさみ、8 時30 分まで、時間の短かさを感じながら話が迫中〔ママ〕した。
4 つのグループにわかれ、それぞれの中のリーダーを中心に自分の体験や考えなどがもれなく各人から出、熱中して声高くなるもの、涙ながす人なども中にはおった。学校入学時の差別、先生によって大きな違いのあるもの自らの気持により教育をあきらめたもの、体育においての点のつけ方のあまりに違いによるおどろきなど⋯又これまでの出血状態や友人のたすけ、家族の苦労、就職時の差別の多さに私も又悩みを深めた。各人の仕事先のあまりにも限定されている現実をじかに感ずることが出来た。しかしながら一方では大学へ行く者が多く、健康人とかわりなく勉学に励んでいる力強い話も多く、それぞれの症状において違いはあれ、効果著しいAHF、PPSB10)などをうまく使いこなすことによって何にの〔ママ〕不安もなく通学でき、中学、高校、大学へと進学出来そうである。
各グループでの話を報告していただき、その話を聞いての感想を両先生より話していただいた、その中で、「やはりよい薬が出来た現在、受身で生活するのではなく、⋯⋯社会の一員として安心して独立生活するように社会へ向かって働きかけをしなければならないのではないでしょうか」との言葉をいただいた。⋯⋯教育を身につけ、社会の中で生きるよう努力が必要だと力説する。
この討論の余波は夜中まで続き我々東北ヘモフィリア友の会青年部有志の室に関西の仲間達がおとずれ、諸々の活動について話は迫中〔ママ〕し、帰室したのは午前2 時をすぎたころであった。その後の腹ごしらえ、入浴、総括などして、東北ヘモフィリア8 人衆はついに一すいもすることなくまぶしい太陽の昇る朝を向かえた。
全国からかけつけていただいた皆様方には心から感謝申し上げ、⋯⋯心の隅にこの仙台での大会がすこしでも有意義であったと思っていただければありがたいと思います。お礼を申し上げ、これからますます全国の若い者が手を取りあって活躍、発展するよう希望します(全国ヘモフィリア友の会 1976: 45)。
 呼びかけ人5 人が『若者よ 集まれ!』を発送した当初は、呼びかけが全国の若手血友病者に届くのか、どれくらいの反応があるのか、不安な気持ちもあったと思われる。しかし、そうした不安は杞憂に終わった。
 5 人の呼びかけは、時機を正確に捉えていた。1974 年の第1 回「青年の集い」には「患者や両親など含めて、全国から50 名近く」が参加し、36 名が宿泊した。途切れることなく、翌1975 年の仙台に引き継がれ、第2 回「青年の集い」が「患者、父兄、医師の方々など54 名」が参加して行われた。血液製剤の普及によって、若手血友病者の主要な関心事は、医療から就学や就職へと、確実に移っていたのである。

4.Young Hemophiliac Club の結成

 第2 回「青年の集い」が開催される約1 ヶ月前、1975 年7 月27 日に第1 回の定例会を開き、血友病者本人の団体であるYoung Hemophiliac Club(以下、YHC)が結成された。全友や地域の友の会は「家族の会」という要素が強かった。それに対し、YHC は当初から「常に血友病患者すべてのために」という意識のもとに結成され、若手血友病者の手によって運営された。YHC の会員は近畿を中心として、最終的に東は名古屋、西は広島まで広がった。YHC 初代会長の簾谷正裕は、京都で開催された第1 回「青年の集い」からYHC 結成に至るまでの経緯を以下のように述べる。
病院などで知りあった人達と何回か会い、又、時には、先生と一緒に話しあい、一人でもその仲間をと呼びかけている内に、京都の全国会大会で、青年の集いがあることを知りました。そして、その京都でのきっかけに知りあった仲間の熱が日々に高まりました。その後、今日まで何もなかった訳ではありませんが、体調をくずしたり、少し意見のくいちがいなどで、休止したりはしましたが、地道に活動し、年令、職業、性格や、それぞれをとりまく環境のちがいを、同じ血友病患者であるということを共通のものとして、何度となく、話し合って、ついに本年7 月27 日(昨年、この日に青年の集いが開催)、正式にYHC(ヤング・ヘモフィリアック・クラブ)として発足しました(YHC 1975b: 4)。
 同年秋には、機関誌『アレクセイの仲間たち』(以下『アレ仲』)の発行準備に入り、呼びかけ人5 人が訴えていた「自分の話しことばで、リラックスして何でも書けるパンフレット」(全国ヘモフィリア友の会1975: 37)の発行が実現した。『アレ仲』準備号では、機関誌発行の意義が述べられる。
かねてより「YHC」の重要な使命として「YHC」の機関誌の発行を考えてきました。今現在、ヘモフィリア患者自身のための適当なコミュニケーションの場があまりにも少なすぎるのです。全国会は年に一度あるかなしで、⋯⋯地区友の会は理想的なのですが残念なことに、近畿では会の運営に直接たずさわっている方々のご尽力にもかかわらず、もうひとつ盛会を欠いており、これもまたコミュニケーションの場として不十分です。
⋯⋯最も悩み多き世代の青年層のヘモフィリア患者が、ヘモフィリアによる諸問題(教育・就職・結婚etc.)のために、一人で悶々とした日々をすごし、その問題を解消するすべを知らないままに放置されているのが現状ではないでしょうか。そこで、昨年の全国会の“青年の集い”を契機として、ヘモフィリア患者青年が中心となり、ヘモフィリア患者のコミュニケーションの場を作って、ヘモフィリア患者に立ちはだかる諸問題を解決していこうと結成したのが、機関誌編集・発行元の「YHC」なのです。
「YHC」は、コミュニケーションの場として、地区友の会のワクにとらわれず、定例会、月例会等を開いてまいりました。そして、もうひとつ、コミュニケーションの場として、機関誌の発行を参画しました。これなら、すべてのヘモフィリア患者が、距り的・時間的・身体的な都合で参加できないことはないと思います。
ヘモフィリア患者どうしが、この機関誌上で、お互いの悩みから、体験やらをはなしあったり、また熱心に討論したりして、相互の精神的交流が深まればと思います。
また、ヘモフィリアによる諸問題は、患者自身にとっても重大ですが、その家族(特に幼児のご両親については)にとっても重大である問題です。そんな患者と共有する問題についても、機関誌でとりあげてみようと思います(YHC1975a: 2)。
 「青年の集い」は、進学・就職・結婚の諸問題に直面した若手血友病者たち同士で意見交換をする機会を新たに創り出した。しかし、血友病性関節症で外出困難な血友病者も多かった。そのため、「距り的・時間的・身体的な都合」を越えて交流する場としての機関誌の発行が強く求められたのである。
 また、YHC 結成に中心的役割を果たした若手血友病者たちは、いわゆる青年期の悩みだけに注目したのではなく、その後に続く血友病児たちのことも念頭に置いていた。準備号では「ヘモフィリアによる諸問題は、患者自身にとっても重大ですが、その家族(特に幼児のご両親については)にとっても重大である問題」と言及されている。簾谷は機関誌発行の挨拶で、以下のように触れている。
私のこのような活動に心を動かしたのは、重傷の交通事故により、6 年5 ヶ月に及ぶ長期の入院生活で得た事が一番の理由です。⋯⋯特に、血友病の子供達は、私と同じ苦しみを持っているのに私の心を知っているかのようにほがらかに全てを忘れさすように、私には映りました。それは何よりもまさる励ましであり、心の治療でした。⋯⋯もの心つく頃から出血のくり返しでなかなか他の子供達と同じように出来ない。少しでも調子のよいとき、少しでも遊びたい自由になりたいそれが無意識ながらもそうさすのではないだろうか。と私なりに思いはじめました。⋯⋯手術が成功し社会復帰することができれば、私のこの経験が、これから成長し、あとにつづく血友病の子供たちや、その家族に、役にたてるのではないかと、思うようになってきていました(YHC 1975b: 3-4)。
 YHC は、「青年の集い」の呼びかけ人5 人が指摘した「ヘモフィリアによる諸問題(教育・就職・結婚etc.)」の解決を目指して結成されたが、個々の血友病者の「年令、職業、性格や、それぞれをとりまく環境のちがい」を見落とさなかった。「同じ血友病患者であるということを共通のものとして」血友病性関節症で外出困難な血友病者、数年後同じような問題を抱えると思われる血友病児も視野に入れた団体として結成されたのである。

5.“ ホーム・インフュージョン” への期待

 1976 年8 月31 日から9 月4 日にかけて、WFH 会議が日本で開催されることが決まった。そのため、その年の全友の全国大会は拡大理事会をもって、そのかわりとされた。医師の安部英は日本開催に至るまでの経緯を以下のように振り返っている。
1972 年、私がアルゼンチンのブエノスアイレスで開かれた第8 回のWFH 会議に出席しますと、その1 週間前にブラジルのサンパウロで開かれた国際血液学会議で、それの第16 回会議が日本で開かれることが決りましたため、1976 年これと同じ時に一連の血液関連会議としてWFH 会議を開くことを満場一致で要請されました。私は帰国して吉田先生はじめ諸先生に相談した上で正式に返事をするということで帰りまして、皆さんにはかりましたところご同意が頂けましたので、それから約3 年間の準備を重ね、皆さんの多大のご援助によりこの度の会議を極めて有意義に終ることができました(全国ヘモフィリア友の会 1977: iv)。
 WFH 会議の影響で全国大会が開催されないことが分かると、YHC は「青年の集い」を自主開催することを決定した。WFH 会議に先立つ8 月7 日から8 日の1 泊2 日の日程で、第3 回「青年の集い」が行われた。このときは、主として“ホーム・インフュージョン”について議論と意見交換がなされた。若手血友病者たちには“ホーム・インフュージョン”に対する不安を抱いていた。しかし、医療との適当な距離を保つ方法として、当時の若手血友病者は“ホーム・インフュージョン” の実施と普及に期待したのである。第3 回「青年の集い」の最後に、“ホーム・インフュージョン”の実施に関する大会決議を採択した11)。
血友病における関節内出血、あるいは筋肉内出血等の治療のポイントは早期治療にある。
“Home Infusion”はその理念において血友病治療の第一選択である。
我々血友病患者はHome Infusion の実施を心から願っている。
実施に至る諸問題の解決を厚生省はじめ関係各機関に強く要望すると共に理解ある医師の方々の暖かい御援助をお願いするしだいです(YHC 1977a: 14)。
 一方、医療関係者を中心とする部会でも“ホーム・インフュージョン”は重要な課題として議論された。YHC の代表として部会にも参加した医学生の西田恭治は、以下のような感想を述べている。
色々なプログラムや他国の人々とロビーでの交流で最も感じた事は、日本における“ホーム・インフュージョン”の認識の遅れです。
“ホーム・インフュージョン”という言葉は耳新しいものでしょうが、要するに家庭において患者自身、あるいはその家族が欠乏因子を注入する事です。⋯⋯利点のみを考えると、もし我々の手で欠乏因子を注入できていれば早期の治療が⋯⋯主な臨床問題となっている関節の変形を究極的に減らす事ができるように思われます。⋯⋯まだまだ多くの問題が残っています。しかし、デートリッヒ博士12)の報告では、“ホーム・インフュージョン”で早く処置される事によって、行なっている患者は行なっていない患者に比べて、学校や職場を休むことが少なくなったことをハッキリ証明してくれました。
しかし、“ホーム・インフュージョン”の利点はそのように数字で表われるものだけではないと思います。自分の体を今まで以上、広範囲にコントロールでき、生産的生活が十分に可能であるという意識、そして精神的な独立心が少しでも生じるという点が大きいでしょう。⋯⋯“ホーム・インフュージョン”にとって、理解ある医師(医療機関)との密接な連携は絶対に必要なものです。⋯⋯
私たち、“YHC”は8 月の「青年の集い」で、“ホーム・インフュージョン”の問題を2 日間にわたって話し合いました。“ホーム・インフュージョン”を欧米諸国のように進める上で困難な問題がいくつか挙げられましたが、心は皆が「オレもやってみたい!」と、いうことだったと思います。
“ホーム・インフュージョン”の長所がそれほどにまで魅力あるものだから、色々な困難も私たちの力できっと取り除くことが可能であると確信します(YHC1977a: 15-18)。
 1976 年は、日本の多くの血友病者が “ホーム・インフュージョン”という言語を獲得し、改めて医療との距離の取り方を考えた年であった。ジュディス・グラハム・プールらのクリオプレシピテート(cryoprecipitate)発見から約10 年が経ち、血友病医療は新しい段階を迎えていた。若手血友病者は“ホーム・インフュージョン”を基礎にして、社会参加の可能性を今まで以上に強く追求し始めたのである。

6.Young Hemophiliac Club の組織再編

 1977 年、「錆びた炎」問題13)は、当時の若手血友病者に大きな衝撃を与えた。若手血友病者たちは、血友病にたいする偏見をなくす会(以下、偏見をなくす会)を組織し、抗議運動を展開した。長編推理小説『錆びた炎』の作者である小林久三は、抗議を受けて第4 版から血友病の医学的説明は改訂した。しかし、血友病者が隔離保護をされて生活していると受け取られる誤った描写はそのまま残った(北村 2005)。その後の周囲の環境の変化もあるだろうが、「錆びた炎」問題の影響を受けて、YHC の組織再編が提案される。2 代目会長の西村俊宏は『アレ仲』第6 号でYHC 再編の提案理由を述べる。
会員構成を新たに「ヘモフィリア患者青年層」に限定し、地区会とは別個の活動を通じて、ヘモフィリア患者に有益なる事業を、青年患者自身の手により遂行して行くということです。⋯⋯YHC は、青年の会として独立して、活動を為し、その成果を地区会と分かち合うのが、よいと思うのです。青年患者と幼児患者の家族との交流は、やはり地区会で為すべきであり、幼児患者の家族同志の交流は、何よりまして、地区会で為すべきだと思うのです(YHC 1978a: 1-2)。
 1973 年の『若者よ 集まれ!』というパンレットに始まって、1974 年の第1 回「青年の集い」を経て、1975 年のYHC が結成される。「昭和50 年7 月、『YHC』は地区会と異った〔ママ〕ユニークな団体を目指して活動を開始した。任意団体という自由な立場で活動していく事。会の運営は青年患者自らが中心となってやっていく事。どんな事でも話し合える雰囲気の会にする事。血友病にこだわらずに若者の集団である事を前面に押し出す。など」(YHC 1978a: 3)が「『YHC』の“モットー”となった」(YHC 1978a: 3)が、その一方で「YHCは青年の会ながら、地区会的役も」引き受ける形で活動を開始した。しかし、大阪ヘモフィリア友の会(以下、大阪友の会)が継続的な活動を始めたことを受けて、YHC は会員を本来の「ヘモフィリア患者青年層」のみに改めることになった。以下、大阪友の会会長の田所勝美がYHC に宛てた書簡の一部である。私達大阪友の会も、昨年5 月開催された総会に於て、年に3 回か4 回程、懇談会を開いてはとの提案があり、8 月28 日に第1 回の懇談会を持ちましたが、其の席で、いつかし会14)や文園会15)、洛友会16)の方達にも呼びかけ、次回には参加していただき、共に話をしようという事になりまして、第2 回の懇談会を11 月3 日に市立労働会館で開きました。⋯⋯これからもYHC の方達と共に「家庭医療」「医療費公費負担の年令制限廃止」「救急病院に血液製剤の常備」等々種々の問題を解決していかねばなりませんので、よろしくお願いします(YHC1978a: 5-6)。
 YHC の組織再編には、「錆びた炎」問題の強い影響がある。伊地知健は『アレ仲』第6 号の編集後記に以下のように書く。役員、運営にたずさわる者一人一人が抱いていた不安が、現実のものとなり、YHC の活動ができなくなったのです。⋯⋯今迄あまり触れなかった問題であり、余りに突然で、皆さんおどろかれたことと思います。しかし私達にとってYHC とは何か、どんな形であるべきものなのか、根本から考えなおす時期に、きているのではないでしょうか。YHC の今後について、この記事をお読みになり、これをたたき台として、YHC の今後の姿を、見つけ出したいと考えています(YHC 1978a: 6)。
 明確には書かれていないが、伊地知の言う「抱いていた不安が、現実のもの」となったとは、「錆びた炎」問題を指していると考えて間違いない。YHC結成は、若手血友病者の団体の結成という目標を達成した。しかし、「錆びた炎」問題の顕在化によって、改めて「私達にとってYHC とは何か、どんな形であるべきものなのか」とYHC の活動方針が問われたのである。会長の西村俊宏をはじめとするYHC 理事たちは、大阪友の会の活動が活発になってきたことを見据えた上で、YHC の当初の結成目的に立ち返り、「青年の会として独立して、活動」していくことを再確認した。YHC は、ヘモフィリア患者が、社会的な自立を獲得し、社会に貢献できうるヘモフィリア患者となれるような状況を確立する為に存在すべきだと思います。それが、患者本人にとってはもちろんのこと、その家族にとっても最大の幸福ではないかと確信するものです(YHC 1978a: 2)。
 西村俊宏は組織再編の提案を述べた後、上記のように結んでいる。

6. 一人で旅行できる身体と問われた社会性

 1978 年夏、YHC は京都府網野町において、サマーキャンプ(以下、網野合宿)を行なった。8 月4 日から7 日の3 泊4 日の大掛かりなもので、合宿先にはYHC 理事の志田慎太郎の自宅が充てられた。部分参加も含めて、平均年齢21 歳の血友病者21 人が参加し、これに彼らの友人など7 人が加わった。網野合宿の感想を特集した『アレ仲』第7 号で、合宿参加者は一様に楽しかったという感想を述べる。初めての本格的な旅だったという血友病者も少なくない。今度の合宿は、おそらく僕にとって一生忘れることの出来ない素晴らしい思い出になることだろう。皆と一緒に海で戯れたことも、また野球をしたこともそうだが、それよりももっと嬉しかったのは、僕が家族の同伴もなく一人で旅行に参加出来たことだ。これは、家族の者も喜んでくれていた。というのは、車イスに乗っている僕は、今まで何処へ出かけるにも母と一緒だった。⋯⋯そんな気の弱い僕が生まれて初めて親と離れて、一人で旅行したのだ、たとえ皆と一緒だったとはいえ、僕にとっては大変勇気のいる事だった。⋯
⋯皆に負けないように出来るだけ自分の事は自分でやっていこうと思っている(YHC 1978b: 4-5)。
 合宿先として自宅を提供した志田は、今回の合宿を以下のように振り返る。遊んだ遊んだ。思い切り力一杯遊んだ。必殺遊び人、遊びの鬼でした。「本当に皆ヘモフィリア?」と首をかしげたくなるような元気のよさ!⋯⋯もっともAHF も乱れとんでおりましたが⋯⋯。□□□□ 17)ブラックジャック先生の活躍ご苦労様でした。⋯⋯己れ〔ママ〕の殻をつき破り“未知との遭遇”は一応成功したように思います。⋯⋯自分の位置と状況を把握し、他人との関係をうまく維持することは本当にむつかしいことだと思います。他人に依存しがちな自分をどうコントロールすればより緊張のある生活を展開できるか? 難かしい〔ママ〕ことです。しかし、難かしい〔ママ〕からこそおもしろいと言えるのかもしれません。同じ血の牢獄にぶち込まれた者同志〔ママ〕、互いに壁と壁を叩きあって、情報を交換し、励ましあっていざ「大脱走」⋯⋯冗談はさておき、己れ〔ママ〕の殻をどんどん突破してゆくのは大変なことです。頑張りましょう(YHC 1978b:10-11)。
 全員無事生きて帰ったこと、事故がなかったことは幸いであった。また、特別に体調が悪くなった者もいなかった。その陰には「AHF も乱れ」飛ぶ「ブラックジャック先生の活躍」があったらしい。以下は、「ブラックジャック先生」の独白である。ア〜ア、疲れたぜ。用意したAHF91 本のうち、85 本のAHF を使って、そのほとんどが初心者で、いちいち私が指導したのだからな。⋯⋯今回気づいた点をあげると、まず研究不足の者が少なからずいたことだ。医者に打たれる時にじっくり観察研究していかないと、自分では打てないな。次に冷静に判断できないとダメだな。⋯⋯さらに血管をキタエていないやつも多かったな。自分で打とうというからには、しばれば浮き上がってくるようにキタエていないとダメダ。⋯⋯初心者は医師又は適切な指導者がいっしょにいないとだめだな。いっしょにいてもあぶなっかしいのだから。まぁ今回は事故もなく(私がいたから当然だが)終ってほっとした(YHC1978b: 21-22)。
 1978 年当時、“ホーム・インフュージョン”は公認されていなかったから、網野合宿での輸注は厳密には非合法行為である。“ホーム・インフュージョン”(家庭輸注/自己注射)が公認されるのは1983 年である。当時普及していた血液製剤AHF は点滴輸注だったが18)、それでも旅行に持参できる程度の大きさであった。血液製剤を持ち運べる大きさだったことが、3 泊4 日の合宿を可能にした。
 しかし一方で、網野合宿は、血友病者たち自らが旅行に行けたという肯定的評価だけではなかった。合宿幹事を務めた西村聡文も含め、何人かの参加者が反省点を述べている。今回気ずいた〔ママ〕点は、やはり血友病は集団行動がニガ手ですな。これは学校の出席日数と関係があるのではないか。それから最后までいつ来ていつかえるのかわからんやつがおった。⋯⋯人が寝ようと思っているのに消灯以后さわいで酒飲んでいるやつもおったな。⋯⋯この自己中心型め。⋯⋯今回はみなさん初めてのことやから、無事帰ってきただけでO.K としようやないの。来年以后(あるかどうか知らんけど)をたのしみにしましょ(YHC 1978b: 6-7)。自分自身もっと動けたのではないかと、たとえばお茶、ジュースを飲んだ後のコップ湯のみ茶わんあきかんとかをかたづけるとか、朝食などは当番制にしてみんなでできたのではないか。(YHC 1978b: 12)
 彼らの言う反省点は、第一に、集団行動、全体としての行動ができていなかった点。第二に、自分でもできることをやらずに、他人にやってもらったのではないかという点である。西村俊宏は網野合宿の厳しい総括を『アレ仲』第8号に書く。
〜〜 合宿について〜〜
⋯⋯YHC は今まで、「何とかなるやろ」という発想法でやってきた。外部からは極めていい加減な体質と映るかもしれない。しかし、とにかく、やってきた。依存するというのは血友病患者の特質かも知れない。しかし甘えもいいところではないか。
みんなもっと出来ることがあるのではないだろうか。症状の差はあるだろうが、飲んだ湯のみ、あるいは空カンの処理、誰にでもできやしなかったか。
〜〜 今後のYHC 〜〜
YHC は、青年患者相互の親睦を当初考えていた。そして、親睦は、いちおうの成果をみた。
次に考えねばならないのは、青年患者の社会的自立である。今回の合宿で、いみじくも露見されたのは、血友病患者の社会性の希少さである。幹事報告にもあったように、集団行動が下手である。それは、患者を疎外してきた社会にも問題はあるだろう。しかし、居直ってもしかたがない。社会に、疎外せぬよううったえると共に、社会に適応する自身の人格を形成しなければならない。
⋯⋯YHC は、ひとつの社会、小さな社会。そのルールを破るものに、社会的自立はおとづれない〔ママ〕(YHC 1978c: 2-4)。
 西村俊宏は、網野合宿を振り返って「甘えもいいところではないか。みんなもっと出来ることがあるのではないだろうか。症状の差はあるだろうが、飲んだ湯のみ、あるいは空カンの処理、誰にでもできやしなかったか」とYHC 会員に問いかける。彼の一貫した厳しい姿勢は、「『錆びた炎』問題の渦中に会長就任した」(西村俊宏 1987)経緯と深く関係していると思われる。「錆びた炎」問題の抗議運動では、医学的説明は改訂させることに成功したが、隔離保護の描写はそのまま残った。おそらく、西村俊宏は「血友病者は隔離保護される存在ではない。これからの血友病者は、症状の個人差はあっても、自分のやれることから社会に関わっていく自立的な存在だ。それを実際の行動で示す必要がある」と強く意識していたと思われる。

7.できる/できないことの境界域の変動

 『アレ仲』2 冊分になる網野合宿とその反省は、単純に「血友病者本人ができること」を示したものではなく、事態はもう少し複雑である。
 血液製剤の登場以前は、血友病者は医療の中に完全に取り込まれておらず、血友病は積極的に医療行為を行う対象ではなかった。1966 年頃から血液製剤が使えるようになり、致命的な出血の回避と出血による激痛の緩和が最優先された。血友病の激痛が軽減されて、1967 年、血友病者とその家族は全友を結成し、血液製剤の普及を目指した。
 網野合宿の感想文の「これからも皆に負けないように出来るだけ自分の事は自分でやっていこうと思っている」「皆体力に関して少なからず自信を持った」「他人に依存しがちな自分をどうコントロールすればより緊張のある生活を展開できるか?」(YHC 1978b)などの部分を見る限りでは、「血友病者本人ができること」が良いことだと読めなくもない。しかし一方で、「自分の位置と状況を把握し、他人との関係をうまく維持することは本当にむつかしい」と冷静に見つめた上で、「自分をどうコントロールすれば」よいかと問うている。自分と他人との適切な距離を測ろうとしているのであって、他人の手助けを拒否し、すべて自力でできることを目指しているのではない。
 ここに、血友病者の「どっちつかず」なありようがある(田垣編 2006)。血友病者は健常者ではあり得ないし、また全面的な介助を前提とした生活様式の障害者/病者でもない19)。血液製剤が出現する以前から、血友病者は自分でできる部分とできない部分の間で生きてきた20)。そして、血液製剤の普及以降、血友病者のできる/できないことの境界域が大きく変動し始めたのである。
 その変動は、障害/病気が重くなって、できないことが増える変動ではない。血液製剤の効果による激痛の緩和、関節症の軽減によって、できることが増える変動である。血友病者本人たちが「自分でできる」と自覚するよりも先に、血液製剤を取り込んだ「新しい身体」へ、「できる範囲が拡大した身体」へと変貌していた。おそらく、血友病者も薄々は感じていたはずである。関節を動かしても痛くないとか、痛みの程度が軽いとか、日常生活で時折気付いていただろう。しかし、自ら積極的に動かないことを基本とする生活様式を自ら積極的に動くことを基本とする生活様式に変更することまではあまり意識されていなかった。それらは、網野合宿の反省や西村俊宏の自己批判に見ることができる。
 1970 年代後半、『錆びた炎』の小説や映画によって誤った隔離保護の描写、無力化された血友病児の描写が流布された直後であったから、なおさら積極的に社会参加することがYHC を構成する若手血友病者の間で意識されたと思われる。「錆びた炎」問題の抗議運動では、隔離保護の描写を訂正させたり、小林に公に謝罪させたりできなかった。網野合宿における「必殺遊び人」振りは、ある種「血友病者は隔離保護される存在ではない」という自負だったのだろう。けれども、好き勝手にやってよいということではない。「自分の位置と状況を把握し、他人との関係をうまく維持すること」が、若手血友病者の新たな課題として意識された。網野合宿で志向されたことや事後に反省されたことは、単純な「血友病者本人ができること」の肯定というよりも、血友病者のできる/できないことの境界域を設定し直し、各自の生活様式を見直すことであった。

8.YHC の歴史的意義

 1973 年の呼びかけ文に始まって、1974 年の小児慢性特定疾患治療研究事業の成立と第1 回「青年の集い」、1975 年の血友病者本人の運営団体であるYHC 結成、1976 年の“ホーム・インフュージョン”への期待、社会参加が容易な「新しい身体」への変貌。それぞれの意味合いは異なるが、様々な側面から血友病者の自立志向を後押しする出来事が続いた。血友病者は、極端に医療や親を否定するのではなく、それらと適当な距離を置く形での社会参加を目指した。
 呼びかけ人の一人であった寺井英一は、第3 回「青年の集い」がYHC 主催で行われたことに対して「初めて青年患者自らの手によって全国レベルで患者の集いがもたれた訳である。──これはおそらく画期的な意味合いを持っているにちがいない」「私は、YHC 会員の行動力に驚嘆し、狂喜し、羨望し、そして彼等の信条とする「何とかなるやろ」の精神の素晴らしさを目の当たりに見た」(YHC 1977: 30)と評価する。呼びかけ人5 人から始まった血友病者本人たちの活動は、形態を変えながら連なっていったのである。
 YHC の歴史的意義は、血友病本人が運営する団体として発足したこと、呼びかけ文や「青年の集い」に込められた思いを継承して県を越境した活動を行なったことである。
 社会に積極的に関わっていこうとした矢先の1977 年に「錆びた炎」問題が起こる。「錆びた炎」問題は、YHC メンバーを含む全国の若手血友病者を中心に、血友病者の社会参加を脅かす重大な問題として認識され、抗議運動が展開された。血友病者本人たちが運動の主体となって、マスメディアを相手に本格的に闘った出来事であった。
 その後、1980 年代に入って、HBV / HIV / HCV が顕在化する。特にHIV感染は、血友病コミュニティをHIV 感染/非感染という二つに切り裂いた。血友病者の生命を激烈に奪い、身体的/精神的苦痛を与えただけでなく、血友病者同士の関係や血友病コミュニティを破壊した(北村 2009)。日本の血友病コミュニティが一応の再生を果たして、全国ヘモフィリアフォーラム開催に至るまでには長い歳月を要した。立ち返ってみると、血友病者本人の活動の原点は、YHC を含む1970 年代の若手血友病者の活動にある。実際、1970 年代に若手血友病者として活動に参加した人たちが、現在の活動の第一線を担っている。今後、いかにこれまでの活動を継承していくかが課題となるだろう。

[注]
1)1967 年に全国各地の血友病者本人とその家族が集まって結成された。1982 年時点で会員数1867 名、39 都道府県にヘモフィリア友の会が結成されている(全国ヘモフィリア友の会 1982: 24-30)。その後、血液製剤によるHBV / HIV / HCV 感染への対応をめぐって、組織としての求心力を失っているが、明示的な解散はされていないと思われる。現在、ヘモフィリア友の会全国ネットワークが、全友に相当する全国的な活動をしている。
2)1963 年、カナダ在住の血友病者であるフランク・シュナーベル(FrankSchnabel)によって設立された、世界規模の血友病者とその家族の団体(World Federation of Hemophilia)。
3)本章では、10 代後半から20 代の血友病者を指す。
4)1971 年3 月1 日、大西赤人は埼玉県立浦和高校を受験するが、不合格となる。3 月9 日、大西宅を訪ねてきた浦和高校の高島教頭と数学教諭の説明に納得できず、赤人の父の巨人は不合格撤回を求めた。巨人の訴えに賛同した人々が、大西問題を契機として障害者の教育権を実現する会を結成して運動が拡大した。
5)機関誌『アレ仲』の名称の由来は、以下のように説明されている。スラッシュは改行を示す。「1918 年7 月、革命の熱冷めやらぬロシアで一人の少年が家族と共に銃殺された。燃えるような紅い血をとうとうと流して。死の刹那(一瞬)彼は何を考えたのであろう。⋯⋯/少年の名はアレクセイ。そしてその家族とはロシア最後の王朝、ロマノフ朝のニコライ二世皇帝一家であった。アレクセイは、その祖のビクトリア女王の血統を脈々と継承した血友病であったのだ。⋯⋯銃殺された時に流されたアレクセイの血はまさしく私達と同じく血友病の血であった。私達の体内をめぐる血と同じ⋯⋯。/⋯⋯/ YHC の機関誌の名称に「アレクセイの仲間たち」としたのは、アレクセイも私もそして、あなたも、同じ血友病であるという自覚をもって、様々な困難に対して、打ちかっていこうではないかとのねがいにより名付けられた。血友病を直視すること、それは、少し残酷かも知れない。一時でものがれられるものならのがれたいのが本音だ。しかし、あなたも私も、一生涯この血友病とかかわらねばならない。そうであるならば、私達みんなが手をとりあって、この血友病との果てしき闘いを始めようではないか」(YHC 1975: 12)
6)Anti-Hemophilic Globulin の略称(全国ヘモフィリア友の会 1970)。
7)宮城県立西多賀養護学校の愛称。1975 年当時、いわゆる難病の185 人の子どもたちが入院して治療を受けながら勉強をしていた(全国ヘモフィリア友の会 1976)。
8)Anti-Hemophilic Factor の略称(全国ヘモフィリア友の会 1976)。
9)1968 年1 月15 日、宮城県に設立された患者会。1970 年時点で会員約90 名(全国ヘモフィリア友の会 1971)。
10)日本製薬株式会社が製造していた第IX 凝固因子血液製剤(社団法人日本血液製剤協会編 1988: 44)。
11)第3 回「青年の集い」開催中に決議文を作る予定だったが、時間がなくなったので、討論内容や参加者の意見を踏まえ、主催者のYHC が後日に作成した(YHC 1977: 14)。
12)ロスアンゼルス整形病院の医師(YHC 1977: 15)。
13)1977 年、小林久三の推理小説『錆びた炎』の医学的に誤った血友病の記述に対し、東京ヘモフィリア友の会、血友病にたいする偏見をなくす会が抗議文を発表した。抗議を受けた小林、推理小説作家の森村誠一、評論家の権田萬治が反論した(北村 2005)。
14)奈良県立医科大学を拠点として作られた奈良県の血友病患者会。
15)関西医科大学附属滝井病院を拠点として作られた大阪府守口市の血友病患者会。
16)京都の血友病患者会。いち早く年齢制限を18 歳まで緩和させた(北村 2006b)。
17)印刷不明瞭。最初は実名を書いたようだが、後で消されたようだ。当時“ホーム・インフュージョン”が非合法であったことに配慮したものかと思われる。
18)血液凝固因子製剤を製造する基礎の血漿分画技術は、第二次世界大戦時下のアメリカ政府がアルブミンの戦地輸送を目的としてエドウィン・コーンに研究させたものである。だから、コーン分画の時点で軽量化は既に達成されていた(Starr 1998 = 1999: 145-161)。
19)もちろん、健常者と障害者/病者という二分法そのものが乱暴であり、そのような枠組みを吟味検討する必要はある。
20)頭蓋内出血の後遺症によって知的障害を負ったり、全身に麻痺が残ったりした場合には、他人による介助を必要とする生活様式になる。

[文献]
安積純子・岡原正幸・尾中文哉・立岩真也,1990,『生の技法──家と施設を出て暮らす障害者の社会学』藤原書店(増補改訂版1995,『生の技法──家と施設を出て暮らす障害者の社会学』藤原書店)
Barnes, Colin, Mercer, Geoffrey, and Shakespeare, Tom, 1999,Exploring Disability: A Sociological Introduction, Polity Press(=2004,杉野昭博・松波めぐみ・山下幸子訳『ディスアビリティ・スタディーズ──イギリス障害学概論』明石書店)
Bourdieu, Pierre, 1979, La distinction : Critique Sociale du jujegment Editions de Minuit(=1990,石井洋二郎訳『ディスタンクシオン──社会的判断力批判 I 』『ディスタンクシオン──社会的判断力批判II 』藤原書店)
Erik Berntorp, (ed), 2005, Textbook of Hemophilia, Blackwell Publishing Professional.
木野内荘三,1978,「小説『錆びた炎』問題始末──フィクションにあらわれた障害者差別」『障害者教育研究』1:101-119.
Haraway, Donna J., 1991, Simians, Cyborgs, and Women the Reinvention of Nature, London: Free Association Books and NewYork: Routledge.(=2000,高橋さきの訳『猿と女とサイボーグ──自然の再発明』青土社)
池邨勝美,1973,「アンケートにご協力を!」『若者よ 集まれ!』.軽度障害ネットワーク,2002, ”軽度障害ネットワーク”(2010.8.11, http://www3.kcn.ne.jp/~ottotto-/md/
北村健太郎,2005,「『錆びた炎』問題とその今日的意義」『コア・エシックス』1:1-13.
────,2006a,「血液利用の制度と技術──戦後日本の血友病者と血液凝固因子製剤」『コア・エシックス』2:75-87.
────,2006b,「全国ヘモフィリア友の会の創立と公費負担獲得運動」『コア・エシックス』2:89-102.
────,2007,『日本における血友病者の歴史── 1983 年まで』立命館大学大学院先端総合学術研究科先端総合学術専攻博士論文.
────,2008,「大西赤人君浦高入学不当拒否事件」『障害学研究』4:162-187.
────,2009,「侵入者──いま、〈ウイルス〉はどこに?」『生存学』1:373-388.
小林久三,1977,『錆びた炎』角川書店.
倉本智明,2006,『だれか、ふつうを教えてくれ!』理論社.
中根成寿,2006,『知的障害者家族の臨床社会学──社会と家族でケアを分有するために』明石書店.
西村聡文,1981,「『錆びた炎』テレビ放映中止に関する資料」YHC 内部資料.
西村俊宏,1987,「『今後のYHC 活動』に関する提言」YHC 内部資料.長宏,1978,『患者運動』勁草書房.
坂田和如,1973,「自らの手で未来を 運動を!」『若者よ 集まれ!』.
進藤雄三,2004,「医療と『個人化』」『社会学評論』54(4):401-412.
Starr, Douglas, 1998, Blood: An Epic History of Medicine and Commerce, Knopf.(=1999,下篤子訳『血液の物語』河出書房新社.)
杉本章,2001,『障害者はどう生きてきたか』ノーマライゼーションプランニング.
社団法人日本血液製剤協会編,1988,『血友病治療薬ガイドブック』社団法人日本血液製剤協会.
障害者の教育権を実現する会,2005,“障害者の教育権を実現する会”.(2010.8.11, http://www016.upp.so-net.ne.jp/cerp/
田垣正晋編,2006,『障害・病いと「ふつう」のはざまで──軽度障害者どっちつかずのジレンマを語る』明石書店.
田中耕一郎,2005,『障害者運動と価値形成──日英の比較から』現代書館.
寺井英一,1973,「血友病の若者と血友病患者に関わりのある若き心を持った人々への私達のメッセージ」『若者よ 集まれ!』.
寺井博,1973,「 これが真実だ!!←(これちょっとオーバーかも?)」『若者よ 集まれ!』.
土屋葉,2002,『障害者家族を生きる』勁草書房.
Wintrobe, Maxwell M., 1980, Blood, Pure and Eloquent, McGraw-Hill,Inc.(=1982,柴田昭監訳『血液学の源流II ──血液型・白血病・輸血の物語』西村書店.)
World Federation of Hemophilia, 2010, “World Federation of Hemophilia”( 2010.08.11, http://www.wfh.org/
山岡益幸,1973,「若者よ 集まれ!」『若者よ 集まれ!』.山岡益幸・寺井博・池邨勝美・坂田和如・寺井英一,1973,『若者よ 集まれ!』手作りパンフレット.
Young Hemophiliac Club,1975a『アレクセイの仲間たち』準備号.
────,1975b,『アレクセイの仲間たち』創刊号.
────,1976a,『アレクセイの仲間たち』2.
────,1976b,『アレクセイの仲間たち』3.
────,1976c,『アレクセイの仲間たち』4.
────,1977a,『アレクセイの仲間たち』5(“青年の集い”特集号).
────,1977b,「小説『錆びた炎』における問題点」,YHC 内部資料.
────,1978a,『アレクセイの仲間たち』6.
────,1978b,『アレクセイの仲間たち』7.
────,1978c,『アレクセイの仲間たち』8.
────,1979a,『アレクセイの仲間たち』9.
────,1979b,『アレクセイの仲間たち』10.
────,1979c,『アレクセイの仲間たち』11.
財団法人エイズ予防財団,2009,『血液凝固異常症全国調査平成20 年度報告書』財団法人エイズ予防財団.
全国ヘモフィリアフォーラム実行委員会編,2010,『全国ヘモフィリアフォーラム開催報告書』全国ヘモフィリアフォーラム実行委員会.
全国ヘモフィリア友の会,1967,『全友』創刊号.
────,1968,『全友』2.
────,1969a,『全友』3.
────,1969b,『全友』4.
────,1970a,『全友』5.
────,1970b,『全友』6.
────,1971,『全友』7.
────,1972a,『全友』8.
────,1972b,『全友』9.
────,1973,『全友』10.
────,1975,『全友』11.
────,1976,『全友』12.
────,1977,『全友』13(世界大会特集号).
────,1986,『全友』22.
全国自立生活センター編,2001,『自立生活運動と障害文化──当事者からの福祉論』現代書館.