個別報告 健康権の意義と課題

井上英夫(金沢大学大学院人間社会環境研究科教授)

1 何故、健康権か
 私がなぜ、健康権を主張しているのか。今日のテーマは「健康権の再検討」となっているが、再検討ということは検討された時期があるということである。
 1970年代初頭、今日も出席されている社会保障法学の小川政亮先生、そして医事法学の唄孝一、行政法学の下山瑛二先生などが健康権について議論をした。これは、労働災害、公害や交通災害が激化し日本で健康の問題がクローズアップされた時期である。特に公害事件等で裁判も起き、生命、健康が深刻な社会問題となったわけである。こういう状況の中で健康を健康権として議論しようという動きが出てきた。
 私自身の研究はとくに1983年に実施された老人保健法が契機になっている。当時は、高齢者医療費の「無料化」が「有料化」されたということで問題になったのであるが、実は、これが今日の医療崩壊につながる、あるいは医療保障という平等を実現すべき制度そのものの中に年齢による差別を持ち込んだ、そういう制度としての本質にかかわる問題だと思った。この問題を考えていく上では健康権という考え方が大事だということで研究したわけである。
 それ以降、国保の問題、地域医療、病院統廃合の問題、地域格差、いろいろな分野で健康権と医療保障の問題を論じてきた。この点、参考文献をぜひごらんいただきたい。
 私は、21世紀は健康権の世紀であると思っているが、そういうことで今回、こういう議論ができることはありがたいし、さらに大きな輪を広げて日本の中で健康権確立の大運動をしていく必要があるだろうと思う。

2 健康権は何故広がらないか
 先程、「裁判で健康権が認められない」という意見があった。ある意味で、日本ではあたりまえの話である。裁判上、健康権を主張している事件がほとんどないからである。私もいろいろな問題で裁判を起こそうと提起してきたが、日本でなかなかそういう裁判が起こせない。となると現在の裁判所が健康権を認めるわけはないのであるが、それ以上に裁判上議論になっていないというのが現状である。ということは健康権をにない、裁判を起こすような主体が日本の中で育っていないということでもある。私たち法学者ないし法律家はそれに対し責任がある。今日のような議論を通じてにない手を育てていく必要があるだろう。

3 憲法25条1項の構造──生存権と健康権
 そういう意味では憲法25条を、皆さんもじっくり読んだことがないのではないか。実は、法律家も弁護士もあまり読んでないのではないかと日頃感じているので、以下に憲法25条を上げておいた。

日本国憲法第25条
1項 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2項 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛
   生の向上及び増進に努めなければならない。

 国際条約と比較して見ていただければわかるわけであるが、私自身は、憲法25条はよくできた条文だと思う。ごく分かりやすい表現と構造で、生存、生活、健康の権利と国の保障責任を謳っている。まず、条文を素直に読むことが肝要である。

(1)なぜ、「健康」か
 私が健康権を主張しなければいけないというのは、国際人権規約等の国際条約にうたってあるからというのはもちろんであるが、憲法をよく読んでみると25条1項に「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と「健康で文化的」としっかり書いてあるからである。
 これをなぜ「生存権」という言い方をしないといけないのか。国際人権規約は、「経済的社会的及び文化的権利」である、まず。その中で12条では、「健康権」と明記しているのであるが、日本の憲法もちゃんと「健康で文化的」な生活と言っている。憲法の制定過程はこれからもっと明らかにしていかないといけないが、25条については研究が遅れている。9条についてはずいぶん進んでいる。25条については実はアメリカの占領軍というより、日本の人たちがこの条文をつくるのに大きな力を果たしている。特に当時の社会党の議員たちが貢献した。
 この条文は二つ検討すべきことがある。一つは「権利」という言葉を入れ、権利としての保障を謳っていること。もう一つは「健康で文化的」という言葉を入れたことである。健康という言葉がなぜ入っているか、さらに検証しなければならないが、実は社会党の議員だった長谷川 保という議員が、この条文作成に力を尽くしている。私は、本人にインタビューしている。亡くなる直前であったが、彼は戦前のセツルメント活動をして結核患者の救済活動をしていた。その経験からどうしても「健康」という文言を入れないといけないと考えたわけである。
 ただ英文ではwholesomeでhealthではない。そのへんはHuntさんに見解を後で伺いたいと思う。いずれにしてもこのような歴史の中で25条の条文ができたということが重要である。

(2)最低か最高か──「生存」権への疑問
 これをなぜ「生存権」と言わなくてはならないか。まず、「生活」であって「生存」ではない。
 文言に忠実に「健康権」でいいのではないか。もう一つは「最低限度の生活を営む権利を有する」ということで「最低限度」となっている。これは当時の経済状況、憲法ができた当時の状況を考えれば、こういう言葉が入るのは理解できよう。しかし、経済的社会的文化的権利に関する国際規約12条1項は、「この規約の締約国は、すべての者が到達可能な最高水準の身体及び精神の健康を享受する権利を有することを認める」と規定している。
 健康権は「最高限度」の保障が問題となる。確かにその前に「到達可能な」という言葉がつくわけであるが、とにかく「最高の健康水準を享受する」ことが健康権の内容となっている。憲法の表現と一見矛盾するようであるが、「最低限度」という言葉は、保障される生活の水準を表すと同時に「国家が保障すべき最低限度の義務」と読むべきだと思う。そう考えると、たとえば生活水準について、お金を払ってどの程度の生活をするか、その場合は「最低」生活保障でも良いであろう。しかし「健康については最高水準を保障することが国家の最低限度の義務だ」と解釈するべきである。
 そして、この健康権を具体的に保障するのが医療保障制度である。憲法25条では、社会保障、社会福祉、公衆衛生制度が例示されているのであるが、医療保障制度はこれらの制度にまたがって形成されている。
25条の表現は、「抽象的」だという議論があるが、このように解釈すれば、具体的で明確な政策の方向そして基準を提起していることになる。

(3)「到達可能な」の意味
 ただし「最高」という意味は、その国の資源(人、物、金)を動員しての最高である。だから「到達可能な」と限定がつくわけである。しかし、この点は、資源の十分な日本のような先進国を免罪するものではなく、むしろ発展途上国の経済、社会発展の現状に配慮したものである。
 したがって、重要なのは最高限度の医療水準を達成することが、仮にその国の資源を動員しても実現できない場合は、できないことについて政府が説明する責任があるということである。最近はやりのアカウンタビリティ、ちゃんと説明責任を果たさなければ、憲法違反すなわち健康権侵害のそしりを免れないということである。
 これは裁判で言うと「立証責任の転換」ということである。我々が裁判を起こして「国は最高水準を実現していないよ、その理由はこうだよ」ということを立証するのではなく、国の側がその「根拠」を説明すべきだ、ということになる。この解釈論は国際人権規約論等の解釈論を憲法解釈に導入することにもなるわけである。

4 憲法25条2項──向上・増進義務について 
 次に、憲法25条の第2項を見ていただきたい。第2項がまた、なかなかよくできた条文で、社会福祉、社会保障、公衆衛生の「向上及び増進」に努めなければならないとなっている。これは、国に「向上、増進義務を課している」ということだろう。そうすると、現在のような保障水準の引き下げ、対象者の削減、負担増大などの政策、法の改悪に対しては、この2項を適用すれば、別に国際条約を借りてこなくてもいい。
 「向上、増進」であって引き下げていいとは言っていない。引き下げるならそれについては政府として、国としてきちんと説明ができなければいけない。現在の財源が不足している、国にお金がありませんというような説明では説明にならない。そういうことを憲法は定めている。
 つまり「権利だ」ということの意味の中に「制度がないなら制度をつくれ」という主張ができる、「主張する権利」、すなわち立法・制度の請求権が含まれている。もう一つは「制度はあるのだが、それを利用できないなら利用させろ」という法・制度の適用を求める権利。さらにはいったん保障された権利が「剥奪、侵害される場合」、いわば権利回復を求める権利。それぞれレベルがあるわけであるが、そのいずれの場合にも、それなりに対応できる条文になっていると思う。
 だから「憲法25条が健康権の根拠である」と、はっきりと私たちは言うべきである。2項では「社会福祉、社会保障、公衆衛生」といっている。制度的に「憲法25条の1項の健康権をこういう制度で具体化しなさい」ということも憲法は言っている。それが医療保障の制度である。日本では、国民健康保険等による国民皆保険をはじめ、医療保障の制度は、国際的にも高い水準で形成されてきたわけであるが、それは憲法25条1項そして2項を具体化しているわけで、健康権の保障そのものにほかならない。

5 国際人権規約と健康権、日本国憲法
 あらためて、国際人権規約のうち経済的社会的文化的権利に関する規約12条を見ていただければ、健康権保障を明文をもって謳っている。1項、2項の関係も憲法よりもより具体的である。2項のd項を見ていただきたい。ここに狭義の「医療保障」が掲げられているが、全体にシンプルに「健康権」をどういうレベルでとらえるべきかを述べている。これをさらに具体化していくのが今日のテーマであり、基準=スタンダードの問題であるわけで、Huntさんの作業はこれをさらに具体化していくものだと思う。そういう意味で改めて国際人権規約と憲法25条を現在の状況に応じて解釈し、あるいはそれを活用していく必要があるだろう。

経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約 第12条
1項:この規約の締約国は、すべての者が到達可能な最高水準の身体及び精神の健康を享受する権利を有することを認める。
2項:この規約の締約国が1の権利の完全な実現を達成するためにとる措置には、次のことに必要な措置を含む。
(a)死亡率及び幼児の死亡率を低下させるための並びに児童の健全な発育のための対策
(b)環境衛生及び産業衛生のあらゆる状態の改善
(c)伝染病、風土病、職業病その他の疾病の予防、治療及び抑圧
(d)病気の場合にすべての者に医療及び看護を確保するような条件の創出

 以上が、シンポジウム会場での発言であるが、健康権の内容についてはほとんど触れるところがなかったので、拙著『患者の言い分と健康権』(新日本出版社、2009年、156頁以下)に収録した次の論稿を追加しておきたい。

 人間の尊厳、人権と健康権
1 人間の尊厳と人権保障
 第二次大戦の余塵くすぶる1948年、国連から発せられた世界人権宣言は、その前文において、「人権の無視及び軽侮が、人類の良心を踏みにじった野蛮行為をもたらし」たのであり、「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由・正義及び平和の基礎である」と述べた。ここに、人類は、未曾有の大量虐殺と残虐行為をもたらした第二次大戦への深刻な反省にたって、人権保障を柱に平和を築くことを誓ったわけである。
 1946年制定の日本国憲法もまた、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し」、基本的人権の保障、平和主義そして国民主権を柱とした。
基本的人権ないし人権とは、それなくしては人間らしさ(人間の尊厳)が保てないような人間の基本的ニーズ(Basic Human Needs)を満たすために認められた権利である。その必須性、重要性の故に各国の憲法において基本的な権利(Basic Human Rights)として承認されているわけである。こうした、現代の人権保障の基本理念が、人権宣言前文、日本国憲法第13条、24条などにうたわれている「人間の尊厳」(Human Dignity)である。
 人間の尊厳に値する状態とは、つきつめていえば自分の生きかたを自ら決める、すなわち自己決定の権利が最大限に尊重された状態といえよう。そして自己決定できるということは多様な選択肢が用意されていなければならない。家族の扶養、介護による在宅が強制されるような状態では、自己決定も意味をもたないからである。さらに、人間は、ひとりひとりが「唯一無二」の存在であって、他にとって代われない存在であるから尊厳を認められる。したがって平等も原理の一つとなろう。

2 社会保障権、健康権と医療保障
(1)社会保障権、健康権の承認
 先の世界人権宣言の第22条には社会保障を受ける権利が明記され、第25条で、さらに具体化された。そして国連の専門機関としてWHO(世界保健機関)が設置され、その1948年憲章は、「到達可能な最高水準の健康(the highest attainable standard of health)を享受することは、すべての人間の基本的権利のひとつ」であると明言し、政治的信条、経済的条件、社会的条件による差別を禁止している。ここに、健康権は、明確に人権としての地位を獲得したといえよう。なお、同宣言において「尊厳と権利」についての平等性が繰り返しうたわれているのも、あらためて注目されるところである(第1条、第2条、第7条)。
 そして、1966年に至り、国際条約としてこの「宣言」を豊富化し、実効性をもたせた「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」(第一規約)と「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(第二規約)からなる国際人権規約が採択され、日本も1979年に既に批准している。
人権規約の前文では、人間の尊厳が、社会・経済・文化的権利と市民的・政治的権利の双方の理念であることが明言されている。さらに、第一規約と第二規約の権利は、日本的な議論のように「社会権」と「自由権」として二分され、自由権が社会権に優越するというような関係にあるものではない。「自由な人間は恐怖及び欠乏からの自由を享受するものである」という世界人権宣言の理想は、すべての者が、市民的、政治的権利とともに経済的、社会的、文化的権利の両者を享有できてこそ初めて達成されることも前文の指摘するところである。
 この意味では、20世紀の第2次世界大戦後の半世紀は、日本風にいえば、自由権から社会権への歴史を踏まえ、両者が人間の尊厳理念の下に統一ないし総合化された、新たな人権の時代ともいえよう。
社会保障の権利について第一規約の第九条は明記し、「家族・母親・児童」についての権利も具体化し(第10条)、「相当の生活水準と生活条件の不断の改善についての権利」も認め(第11条)、保障されるべき生活水準も「最低生活」から引き上げている。
 そして第12条第1項は、「この規約の締約国は、すべての者が到達可能な最高水準の身体及び精神の健康を享受する権利を有することを認める。」と独立して健康権を明記したのである。その第2項は、健康権の完全な実現を達成するための措置として、①「死産率、幼児死亡率低下と児童の健全発育のための対策」②「環境衛生、産業衛生の改善」③「伝染病その他の疾病の予防、治療、抑圧」④「病気の場合にすべての者に医療及び看護を確保するような条件の創出」を例示している。

(2)日本国憲法と社会保障権、健康権
日本国憲法も、第二次大戦後の憲法として世界の人権保障の潮流をまともに受けとめている。憲法の基本原則として、国民主権、平和主義と並んで基本的人権保障を掲げていることは周知の通りである。とりわけいわゆる「自由権」の保障と並んで第25条の生存権保障を代表とする「社会権」ないし「生存権的基本権」の保障を定めたところに先進性があった。また、憲法第14条第1項は法の下の平等を定めている。社会保障権もこの憲法第25条に直接根拠を持つのであり、人権としての地位を得ている。また、健康権も「健康で文化的な最低限度の権利を営む権利を有する」という第1項の文言に明らかなように、憲法25条に直接的根拠をもつ。そして、この憲法第25条の生存権理念の具体的発展として、社会保障権と健康権のクロスするところに医療保障が成立しているのである。
 その意味で、健康権の根拠も、憲法前文、13条、25条、さらに批准した国際人権規約第一規約の12条に重層的に求めることになろう。さらに、憲法第25条、13条などの解釈もより発展させたものが求められている。
医療保障は、第一規約12条で言うところの健康権保障の「完全な実現を達成するための措置」の一つであり、中核となるものである。

3 健康権、医療保障の理念、原理、原則
 医療保障は、健康権保障の中核をなすものであり、また、拡大、発展してきた生活保障としての社会保障法の重要な一環を占めている。医療保障の発展を踏まえ、展望的に定義すれば医療保障は、「健康の維持・増進、傷病の予防、治療、リハビリテ−ション等の包括的な医療サ−ビスを、国民の権利として保障する制度」ということになろう。
そして、以上見てきたような、国際的な人権保障の動向、健康権や医療保障、社会福祉、介護保障の発展、国内の政策、生活実態、国民意識、様々な要求や運動の動向を踏まえると、医療保障の理念は人間の尊厳といってよいであろう。さらに、具体化した原理として、患者、住民の自己決定がありその前提となる選択の自由と同時に、生命、健康の価値の平等に立脚した平等原理が貫徹されなければならない。
そして、以下のような原則が、法の解釈・運用、さらには立法政策にあたって最大尊重されなければならない。①不断の原則、②地域の平等原則、③主体の包括性、平等性の原則、④負担の原則、⑤最高水準医療の原則、⑥公的責任の原則、⑦権利性の原則、⑧民主的運営・参加の原則。

4 日本の医療保障法の体系と特質
 医療保障法は、健康権保障法の中核をなすものであるが、日本では、患者、住民の健康、医療要求と時々の政策的意図、そして医学や関連領域の学問の発展によって、統一性なくバラバラに形成されてきた。他方、健康権思想の定着は未だ不十分であり、学説も統一的見解はなく形成途中である。
 しかし、公費負担により補足された社会保険のみを医療保障(医療費の経済的保障)とすることは、現代の発達した患者、住民の要求、医学にこたえ得ない。医療費保障から一歩を進め、包括的医療あるいは全人的医療と言われる拡大された、健康の維持増進、疾病、健康破壊の予防、治療、リハビリまでの一貫した医療そのものを保障する方向で考えるべきである。したがって、医療機関の適正配置を含め医療供給体制の整備も当然に含まれる。

(1)医療保障法の体系
保障内容として健康の維持・増進、予防、治療、リハビリテ−ションを対象にした法は、組織、給付、財政、権利救済の側面から次のようになっている。
①医療保障の組織に関する法?…医療法・保健所法等医療機関などの組織、人員、設備等に関する法と、医師法などの身分法、および看護婦確保法などの「マンパワ−」政策法とからなる。
 ②医療の給付に関する法?…(ア)保健所法、伝染病予防法等の保健・予防に関する法、(イ)医療保険、老人医療、公費負担医療、医療扶助等の治療・療養に関する法、(ウ)リハビリテ−ションに関する法
 ③医療保障の財政に関する法…?医療保障に要する保健・医療費を誰が、どのように負担するか、その管理、運営をどのようにするかが問題となる。
④医療保障の権利実現に関する法…?行政事件訴訟法や行政不服審査法及び医療保険立法などの権利救済規定と参加保障規定がこれにあたる。

(2)医療保障の特質 
 ①医療保障は、前述のような医療の給付をするものであるが、その目的が生命の保持と健康の回復、維持、増進にあるところに特質がある。ただし、社会保障をふくむ他の生活保障と密接な関係がある。
②そのサービスは、医師、看護師など医療担当者の労働を通じて提供される。この点では、介護・福祉サービスと共通する。
 在宅の場合顕著なように、一応医療の側の訪問看護、往診などと保健婦の家庭訪問と福祉からの介護サービスは、現在制度的にも区別されているが、本来患者サービスを受ける側にすれば総合的に保障されることを望むであろう。
 ③現在のわが国の医療保障は、 社会保険による現物給付が中心であるが医療費の保障ともなっている。その意味では、年金と同じ保険システムでありまた所得保障の側面も持つ。他方保険システムをとらずに直接的に医療(費——一部負担)を給付する公費医療制度と生活保護法による医療扶助の制度もあり、拡充されている。
④保険システムも公費負担医療も、その圧倒的部分が民間の医療機関によって担われており、公的に運営されている医療保険、公費負担と私的な医療供給体制とのギャップが大きい。この点も、福祉や年金など他の社会保障分野と比べて特色となっている。
 ⑤国際比較から 医療保障の方式は、国によって異なる。大きく分ければイギリス、イタリア、スウェーデンのような、国・自治体が直接医療を提供するナショナル・ヘルス・サービス型とドイツ、フランスのような社会保険方式とがある。後者は現物給付と療養費払い=償還制とに分かれる。このほか、高齢者(メディケア)、低所得者(メディケイド)を除いては私的保険に委ねられ、医療機関も営利企業化しているのがアメリカである。日本は、社会保険方式で現物給付を主柱にしているが、供給体制の点では私的医療機関の比重が高いのが特徴である。
 なお、介護保障についても、医療保障と制度的にも実態としても明確に区別できず、むしろ、総合的な保障こそ必要となっている。

◆参考文献
 註は省略したので、健康権について詳しくは以下の論稿を御覧いただきたい。
*井上『患者の言い分と健康権』新日本出版、2009年
*井上英夫、上村政彦、脇田滋編著『高齢者医療保障』労働旬報社、1995年
*井上監修『人権と医療──医師と法律家の対話』石川県保険医協会、2005年10月
*「マンパワ−からヒュ−マンパワ−=人権のにない手へ」医療・福祉研究16号、2007年2月
*「老人保健法と医療『再編』」週刊社会保障、1985年11月11日号
*「『老人医療』の動向と問題点」日本医事法学会編『医事法学3』日本評論社、1988年
*「高齢者医療保障の理念と原則──『在宅医療』の条件を巡って」小林三衛先生退官記念論文集『現代財産権論の課題』敬文堂、1988年
*「国民の健康権保障と国保『改革』」賃金と社会保障2009年5月上旬号
*「健康権と医療保障」講座『日本の保健・医療』第2巻『現代日本の医療保障』労働旬報社、1991年
*「健康権と高齢者の医療保障」日本社会保障法学会誌第9号、1994年5月
*「健康権と地域医療・住民参加」国民医療研究所所報42号、1999年
*「ハンセン病政策と人権」社会福祉研究、第91号、2004年10月
*「ハンセン病療養所将来構想の意義と課題」賃金と社会保障、1379号、2004年10月上旬号
*「ハンセン病」日本ソ−シャルインクル−ジョン推進会議編『ソ−シャル・インクル−ジョン−格差社会の処方箋』中央法規出版、2007年
*「格差=不平等・貧困社会とセーフティネット=人権」法の科学、39号、2008年9月
*「若者をめぐる社会保障政策の現状と課題」脇田滋・井上英夫・木下秀雄編著『若者と雇用・社会保障』日本評論社、2008年
*「生存権裁判と憲法25条」日本の科学者、43巻11号、2008年11月号