個別報告 裁判を通じての社会権(特に健康権)の実現

藤原精吾 (弁護士)

1 日本の裁判における社会権(健康権)適用の現状
 日本が批准をしている「経済的社会的及び文化的権利に関する国際規約」というのは、もちろん日本国に対する法的拘束力を持っています。しかしながら先程のHunt報告、棟居報告にもあったように、日本では健康権の法的活用、特に裁判アプローチにおいては、存在感が乏しいと言わざるを得ません。健康権に関する規約12条だけでなく、社会権規約に含まれるすべての権利保障が、日本の立法、行政、司法には十分に根づいていないのが現状です。

(1)裁判規範として適用しない判例
 1982年〜2004年の概観(文末社会権規約判決集)に見られるように、裁判所が社会権規約を法規範として適用したものはありません。
 日本の裁判所は社会権規約の条項の適用が主張されても、それを法的規範として判断基準にすることが、ほとんどない。例えば判例⑨⑫⑬は、外国人に生活保護適用を認めない法の規定が社会権規約に違反するかが争われたケースですが、裁判所は「外国人に対する生活保護の適用は、立法裁量の問題であって規約違反にはあたらない」としています。
 社会権規約の適用を否定する判決の論理過程には、誤解が含まれています。一つは「自動執行力」、つまり条約がそのまま日本の裁判所で直接適用できるかどうかという問題についての誤解です。憲法98条2項は、特別の国内立法を要せずに日本が批准した条約は国内法的効力を持つことを規定しています。裁判所はそのことを理解していません。Hunt報告でも、社会権についての裁判官のignorance、法的無理解が大きな問題点として指摘されました。
 もう一つは健康権や社会権規約は、国に社会政策の推進をする政治的責任を宣言したものであって、個人に対して即時に具体的権利を付与したものではない、という見解です。しかし、社会権規約委員会の一般的意見(general comment)14において、締約国は社会権規約に含まれる権利を、尊重・保護・充足する義務を負っており、具体的なケースにおいて、規約は裁判規範としての役割を果たすべきであると述べています。

(2)社会権規約委員会の勧告
 2001年8月、社会権規約の実施状況についての第2回日本政府報告書の審査が行われました。私もこれに立ち会いましたが、Hunt教授は社会権規約委員会の委員として審査にあたられました。
 委員会は審査の結果を、2001年9月24日付総括所見として公表し、日本政府に対して次のような厳しい指摘をしました。

「委員会は規約の何れの規定も直接の効力を有しないという誤った根拠により、司法決定において一般的に規約が参照されないことに懸念を表明する。」(パラ10)
「規約の規定が立法上および行政上の政策並びに意思決定過程で考慮に
入れられることを確保するため、締約国が環境影響評価と同様の“人権
影響評価“その他の措置を導入することも奨励される。」(パラ33)

社会権規約委員会は、日本の裁判所が社会権規約を参照していないということが問題である。それは無知によるものであって裁判官の教育をする必要がある、と勧告しました。もう1点は、立法及び行政上の政策、意思決定において社会権規約を参照するべきである、と勧告しました。
 司法と立法、行政は、現れる場面が違うわけですが、どの場面においても健康権を含む社会権規約が日本で活用されていない現状を変えていくことが課題です。
(3)「健康権」の認識
 皮肉なことですが、社会権規約12条、健康権に関する条項の定めは、「到達可能な最高水準の健康を享受すること」英語で、The state parties to the present Covenant recognize the right of everyone to the enjoyment of the highest attainable standard of health.です。対するに日本国憲25条は、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」、英語では、All people shall have the right to maintain the minimum standards of wholesome and cultured living.となっています。 
 最高水準と最低限度では、違いが出て当たり前と云いましょうか? これが日本国内と国際水準の違いを生んでいるのかと言いたくなります。
 日弁連では1980年11月8日に、「健康権」の確立に関する宣言を発表しました。そこでは、「健康権は憲法の基本的人権に由来し、……国、地方公共団体、医師、医療機関に対して積極的にその保障を主張することのできる権利である。……われわれは、医療現場はもとより、立法・行政・司法の国政の各分野においても「健康権」が真に確立され、患者のための医療が実現されて国民の健康が確保されることを期待し、その実現に努力する。」
と述べました。
 しかし、日本の裁判所は「健康権」という言葉を、使いません。棟居報告にありました残留性農薬の基準設定についての判例(食品残留農薬基準の設定告示処分取消請求事件、東京地裁平成9年4月23日判決判時1651号39頁)でも「健康権という言葉を独立した具体的権利と言うことができるか疑問である」と言っています。そのような程度の認識しか持っていないことが問題です。
 但し、
●煙草の輸入・販売事業禁止請求事件(名古屋地裁平成14年1月31日)では、
「人の生命、身体及び健康についての利益は、人格権としての保護を受け……、損害賠償、将来の加害行為を予防するための侵害行為の差し止めを求めることが出来る。」

●骨関節結核集団発生(医療行政国家賠償請求)事件
広島地裁尾道支部昭和60年3月25日判決判時1158号32頁では、
憲法25条に基づき制定された医療法により、都道府県知事、保険所長は医療行政上の権限を行使して地域住民の結核感染による生命・身体に対 する危険を未然に防止すべき作為義務を負う。

 というように、健康権のコンセプトを念頭においた判例も見られます。
 しかし、これらは、具体的な権利侵害ないしは危険が生じて初めて、権利性を生じる、というものです。

2 現在引き起こされている、健康権侵害の実例
 今、現に起こっているいくつかの問題を取り上げて、健康権が果すべき役割を具体的に考えたいと思います。

(1)生活保護制度における老齢加算の廃止
 国は生活保護費の老齢加算や母子加算を、2004年から段階的に減額し、2006年には老齢加算を、2007年には母子加算を全廃してしまいました。その結果、月額一万七千円も生活費が減った75歳以上の高齢者は、一日2食にし、銭湯は5日に1回、墓参りも行けず、友人の葬儀にも不義理をする暮らしを強いられています。  
 原告はその違憲性と規約違反性を訴えましたが、2008年6月26日東京地裁、同12月25日広島地裁は、生活保護法56条(不利益変更の禁止)について、「従来の保護基準を不利益に変更した場合であっても、裁量権の余地が認められ、必ずしも違法ではない」との判決を下しました。
 この判決の見解は、明らかに社会権規約12条についての一般的意見14のパラ32「健康に対する権利に関連して取られる後退的措置は許容されない、という強い推定が働く。……締約国は、……規約に規定された権利全体との関連でそれが正当化されることを証明する責任を負う」と述べた社会権規約委員会の見解に違反しています。
(2)障害者自立支援法(平成17年法123)で導入された福祉サービスの利用
 一律1割の自己負担(障害者自立支援法29条、58条)で、障害の重い者ほど、経済的負担が重くなり、社会参加がますます困難になります。公的な援助がなければ普通の社会生活が営めない者の社会参加をきわめて困難にする制度です。カナダの裁判所では、聾の人が医療を受ける時に手話通訳者の援助が制度として保障されないということは、カナダの憲法に違反する。手話通訳者がいなければ医療を受ける権利が保障されていないことになり、憲法違反であるという判断を示しています。
 応益負担を定める障害者自立支援法の上記規定は、一般的意見14(パラ26、43、50)に反すると考えられます。
 特に、「パラ43、(a)脆弱な集団のために、保健施設、物資およびサービスへのアクセスの権利を確保すること(中核的義務)」に違反することが明らかです。
 
(3)労働による過労自殺、精神疾患の多発
 労基法で定める法定労働時間は単に建前に過ぎず、労働者に無制限な残業を命じても違法として禁止されることがありません。その結果、過労死や過労自殺が多発しています。また職場で精神疾患を持つ人が増え、メンタルヘルスの確保が重要課題となっています。過労からくる健康障害や精神疾患の発生を原因から無くすには、一般的意見14(パラ4)「健康的な労働条件への権利」を法的規範と捉え、労働時間規制を法的拘束力のあるものにする必要があります。

(4)刑事拘禁施設に収容されている者の医療を受ける権利
 刑務所や拘置所に拘禁されている人たちが適切な医療を受けられない実情があります。
 全国には75箇所の刑務所等がありますが、その内20箇所においては常勤医の数が定員に達しておらず、常勤医が一人もいない刑務所が8箇所もあります。
2003年3月法務省が開示した、1995年〜2002年の8年間の1594例の刑事被拘禁者死亡事例によると、刑務所・拘置所で収容中に、
 ①医療を受けられないまま死亡したとされる事例
 ②保護房拘禁が死亡につながった事例
 ③劣悪な医療体制や看護への無配慮に起因する死亡事例(本人が喘息発作を知らせる為「扉を叩いている」行動が、規律違反であるとして「処遇部門取調べ室へ連行」して気管支喘息により死亡)があります。
このような現状は、一般的意見14、パラ50、「尊重義務の違反」に該当します。また、パラ43、(a) 脆弱な集団のために、保健施設、物資およびサービスへのアクセスの権利を確保すること(中核的義務)にも違反しています。

3 「健康権」を活用するためのアプローチ方法
 前項で見たような現状を、「健康権の侵害」と捉えることが、事態の改善、政策立案に役立つと考えます。
社会権規約委員会の一般的意見、14は、規約12条の有権解釈を述べており、締約国はこれを尊重する義務があります。
それは、法的な効力のみならず、健康権の具体的内容を示しています。これを権利主体である市民が自分の物にすることから始めようではありませんか。
そして、国際人権基準を国内に定着させるためには、①個人通報制度の導入(社会権規約についても選択議定書ができました)、②国内人権機関の設置、③裁判官の国際人権法教育、がきわめて重要です。

【表】社会権規約判決集(判決日順)(*省略しました)