あとがき

 本冊子成立の経緯については「まえがき」を参照していただきたいのだが、参加者の相互交流/浸透を大切にしたいというパム・スミス先生とヘレン・カウイ先生たってのご希望もあり、少人数のアットホームな形式で催された国際研究交流企画は、ふたを開けてみれば、驚くほど盛況なる会となった。グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点(以下、「生存学」)のホームページでの告知がその効果をいかんなく発揮したことが一因かとも思うが、何よりも日本、とりわけ看護学/界におけるパム・スミス先生の多大なる影響力と学的貢献にあらためて感銘をうけたことを、編者らの忘れえぬ記憶としてまず書き留めておきたい。

 その国際研究交流企画の記録に、翌日のクローズドな研究交流会でのやりとり(以下、両者をあわせて「本企画」とする)、そこから各自がもちかえった問いにたいする応答論文を加えてできあがったのが本冊子である。自画自賛を恐れずにいえば、ここには「ケアと感情労働」という主題をめぐり今後研究を進めていくうえで、きわめて示唆に富む論考/論点が出揃ったと編者らは考えている。いいかえれば、かかる主題にかんして看護学・臨床心理学・社会学・倫理学のそれぞれが互いに今後引き受けていくべき課題が示されていると思う。そしてそれは、文字どおり、本企画=異なる学知の交流の賜でもある。以下、本冊子の結びに、その要点を振り返っておくことで、読者の用に資することとしたい。
 まずスミス氏とカウイ氏の共著論文が教えてくれるのは、看護という「現場」で、またさまざまな職業の「現場」で去来する感情とその管理──その双方のままならなさ──という「現実」と、その「現実」が豊かさと同時にあわせもつ問題──いじめなど──の解消に向け、あらためて地に足のついた/実証的な思考を鍛えあげていくことの重要性である。その甚大なる意義を確認するためにも、読者にはスミス氏とカウイ氏の研究報告と論考に繰り返しあたってほしい。また、その感情社会学史における意義についても崎山論文に詳しいので、ここであらためて屋上屋を重ねる愚行は控える。
 そのうえでしかし、編者らにとって印象深かったのは、両氏の問題意識がまさに、「現場」と「現実」にしっかりと根ざしたもの──にもかかわらず、ではなく──であるからこそ、そこからみれば異声とも響きかねない我々コメンテーターの問いが──というか日本語という異なる言語/意識のもと発せられた声であるから、文字どおり「異声」にほかならない──、ときにそうであるように、無意識的な防衛機制による「忘却の穴」(H・アレント)に落としこまれることなく、ちゃんと受けとめられたことである。「現場」から発せられる声はつねに/すでに真摯である。そうした「現場」の声と学問との対話をこれからも、これまで以上に豊かにしていく意義と意欲を、両氏はいわば行為遂行的に喚起してくれたと思う。
 そのようなスミス−カウイ氏による問題提起を、いわば正面から受けとめ応答したのが崎山論文である。周知のように、崎山氏はわが国における感情社会学を理論・実証の両面で牽引する少壮気鋭の若手研究者であるが、今回寄せられた論考は大きく3つの意義をもっているといえる。すなわち第一に、スミス−カウイ氏によって提起された論点の最良なる解題としての性格をもつ。また、それにとどまらず第二に、感情労働について、さらに包括的で沈潜した視点からの問題提起が展開されていることである。その意味で、本論文は──崎山氏のほかの著作とならんで──今後の感情労働研究には欠かすことのできない必読文献である。さらには第三に、感情労働という個別的な主題を扱うにとどまらない、ひろく現代社会論として読まれるべき論考であるという点である。つまり、ほかのいかなる現象でもなく、感情労働という事象をいわば除き穴にしてこそ、現代社会の形象が鮮明に見とおせることを説得的に示した論考である。
 さて、そこで展開された多岐にわたる議論を消化するには直接本論文をあたるに如くはないが、その要諦をごく簡単にまとめておけば、以下の3点になると思う。第一に、本論文では、今日にあっては主に感情労働論の文脈において論及されるにすぎない感情管理という実践が、正しくも我々の日常的な相互作用の場面に差し戻される。また第二に、我々の誰もが経験する「多様でままならない自己感情」にあらためて注目することで、「感情の用法」における(をとりまく)現代の概念的/社会的貧困が批判され、その彫琢が目指される。そして第三に、その「多様でままならない自己感情」が統御不可能であるにもかかわらず/であるがゆえに、それを肯定することに「社会」が──企業が、学知が、ほかならぬ当事者自身が──躍起になるさまが跡づけられ、そこに現代社会における「真の疎外」が剔抉される。
 なお、鋭い読者は気づかれたかもしれないが、感情労働を読み解く鍵は「多様でままならない自己感情」にあるとする崎山氏の見解と、第二部における三井さよ氏の一連の発言は奇しくも共鳴している──「エモーションという言葉が指しているのは、抑えられない、“I can't stand it.”と感じるとか、“I cannot control it.”と感じるような瞬間のことじゃないか……そういう瞬間がいっぱいケアリングの現場になかにあるということを、emotional labourという言葉が、ぴっと指したんだと思う」。「いろんな、いろんな思いが出てくるターミナルケアのときにも、感情労働だと看護職は強く感じている。ただ、そのときに問題になるのは、フィーリング・ルールに合わせて自分の感情を抑えるという話というのはないと思う……つまり、いろんな、わあっと感じる感情があって、このことを言いたくて、私はこんなにいっぱい感じるということを言いたくて、看護職の多くがemotional labourという言葉に飛びついたと理解をしたんです」。
 看護という「現場」のフィールド・ワークをかつてともにした両者のかかる一致はきわめて興味深いものであると編者らには思われる(その調査の内容については、崎山治男『心の時代と自己──感情社会学の視座』勁草書房2005年、三井さよ『ケアの社会学──臨床現場との対話』勁草書房2004年ほかをあたられたい)。読者のみなさんは、どうだろうか。
 他方で、同じくスミス氏とカウイ氏による問題提起に触発されつつ、崎山論文とはまた異なる視角から感情労働/感情管理について考究したのが天田論文である。このたびもまた天田氏一流の重厚で幾重にも重畳化された論理を約言するのは至難の業だが、暴挙を承知でやってみよう。
 たしかに「方法論としての冷徹・無関心な態度/ルーティーンワーク」は、ケアワーカーがその現場においてある種必然的に生きざるをえない現実──「感情の感受(怒りの感情)→暴力的な出来事」──を回避するうえで一定の効果をもつ。しかしながら、かかる方法論の実践がまさに呼びこんでしまう患者との「抜き差しならぬ関係」や「更なるアイロニカルな事態」を回避する戦略として、さらなる「方法論としての感情労働/感情管理」が採用されることになり、たしかにその戦略もまた、ケアワーカーの社会的評価や動機づけ、感情的/肉体的負担の最小化・軽減化に一定の効果をもつ。そしてそうした効果にたいする正のサンクションによって、「方法論としての感情労働/感情管理」の制度化、つまりその「エコノミー(政治経済)」への編入──ケアの社会化/有償化──が招来する。天田論考の力点の第一は、かかるエコノミーにおいて、「方法論としての感情労働/感情管理」の採用が「誰/何かにとっての利得と損失となっているという利害をめぐる現実」を押さえておくことの重要性である。
 そのうえで第二に、我々に要請されるのは、「方法論としての感情労働/感情管理」が胚胎する「否定的評価」についての踏みこんだ思考である。すなわち、1: まさしくそうした「方法論としての感情労働/感情管理」の採用によって新たに生じることになった感情的/肉体的負担──バーンアウト、感情の摩耗──の問題。2: それへの対応のためにも、かかる負担の社会的配置(分配)をいかに見定めるかという問題。さらには、3:「方法論としての感情労働/感情管理」それじたいの社会による統制/強制という問題。これらの問題が考えられるべき問題としてあるとされ、じっさい「感情労働の位置」(3節)では天田自ら・についての思考実践を試みている。
 以上のうえで第三に、しかし決定的に重要なのは、感情労働/感情管理が「何をいかに産み出しているのかについて思考すること」である。そして同時にそれは、生−権力の「老い衰えゆく人々」への作動、「ケアの社会化/有償化」の理由について考究することでもある。ここでも天田は、その課題を後期フーコーの「統治論」を徹底的(radical)に読み解きつつ自ら実践する。それにより導かれるのは、感情労働/感情管理が生みだしているのは、「国力増強」にも「秩序維持」にも「社会的なもの」にも直結しない〈何か〉、すなわち既存のエコノミーの根底にある「真の」エコノミーを生成(generate)する〈何か〉ではないか、あるいはあらゆるエコノミーの外部においてこそ生成する〈何か〉ではないか、との、きわめてスリリングな問題提起である。
 では「真の」エコノミー、あるいはその外部において生成する〈何か〉とは何か。編者らの考えでは、おそらくその手がかりは「老い衰えゆくこと」と「感情労働」の結び目にある。すなわち我々の身体/感情(的同一性)の「ままならなさ」と、その「偶然性への開かれ/自由」にあると思われる。なお、「ケアの社会化」という論点をめぐっては、『現代思想』の「特集:ケアの未来──介護・労働・市場」(2009年2月号)に、本論文でも触れられた天田氏による「統治論」のより詳細な展開をはじめとした、きわめて示唆に富む対談と論考が収録されている。本冊子とあわせて参照されたい。
 さて、あらためて確認すれば、本冊子の主題は「ケアと感情労働」である。先の崎山論文と天田論文が社会学的なアプローチから、かかる主題をめぐる議論の刷新を図るものであったとすれば、倫理学的なアプローチから同じく迫ったのが残る有馬論文と安部論文である。
 有馬論文で瞠目すべきは、何を措いても、ケアと感情労働という主題を媒介にメインストリームである(医療/感情)社会学・看護学と倫理学が交錯しているという現状の確認のもとに、その現状の理論的な精査が試みられている点である。
すなわち第一に闡明されるのは、社会学・看護学と医療倫理学との交錯である。看護ケアを感情労働として捉える見方は、一方において、看護職の専門性をどのように理解するかという問題とも関わっているが、こうした見方は──技術や知識などよりもむしろ──感情を巧みに働かせる力を、看護職の専門性を裏づける特殊な技能と捉える理解につながっている。だが近年では、看護職の専門性にかんして、こうした感情社会学における認識とほぼ同様の見解をもつ研究者が、実は医療倫理学の分野の研究者のあいだに現れてきている。
 また第二に、社会学・看護学と「ケア倫理」との交錯が明らかにされる。近年、倫理学者や教育学者なかにも、看護職の仕事を「ケア倫理」と呼ばれる道徳理論の実践として捉える研究者が出てきた。有馬によれば、感情社会学者もケア倫理学者も、両者が分析に用いる概念の違いにも関わらず、結論としては、看護職を取り巻く現状に対して、たがいに非常に似た批判を浴びせている。すなわち両者はともに、医師の方が看護師よりも高い専門性を有するという見方を批判して、両者の専門性に質的な違いがあることを指摘している。また、この指摘を踏まえて、看護師の社会的な地位向上や、新しい体系的な教育プログラムの構築の必要性を訴えるに至っている。
 かかる現状確認のうえで第三に、有馬は看護ケアに関する感情社会学者の理解と、ケア倫理学者の理解のあいだに、ひとつ「興味深い」差異が存在することを指摘する。すなわち感情を働かせる仕事が、看護師本人の福利に及ぼす影響の善し悪しについて、両者は正反対の結論を導いているというのである。有馬によれば、この差異は、両者が用いている概念──「感情労働」と「ケア倫理」──の違いに由来する。
 このように有馬論文は、とりわけ社会学と倫理学との接点に学問上のテクニカルな関心をもつ読者や、また看護師の地位向上といった現実的な訴えの背景にある論理に関心のある読者に、有用な視座を与えてくれるものである。
 ところで、そもそも感情と倫理はいかなる関係にあるのだろうか。崎山論文にも言及があるボルトンが区分しているように、感情管理は「慈悲的」な側面を(も)もつが、そのさいそれは他者への共感(共苦)を前提としている。我々は他者の苦しみに同調し、緩和するために自らの感情を統御することがある。しかし、いったいそれはいかなる機制によるのか。まずこうした疑問がある。他方で、現代は「感情の時代」である。そこでは、他者の苦しみを頭で「理解」するよりも、感情によってその苦しみに共振することに価値が置かれる。とすれば、倫理は──伝統的な倫理学が考えてきたのとは異なって──理性よりも感情と、より内在的な関係にあるのか。その真偽や是非はともかく、いずれにせよ「我々」のリアリティがそこにあるということは現代の社会学的な事実である。以上のような疑問と事実を起点としつつ書かれたのが安部論文である。
 その意義は偏に、感情と倫理という主題にかんして、主流派の位置をしめる進化倫理学とは異なる視座からその問題に迫ることである。すなわち感情と倫理の関係をめぐる、いわばオルタナティブ・ストーリーとしてのローティの非−基礎づけ主義的アプローチと、その先を追究する佐藤の現象学的アプローチの簡にして要をえた紹介を試みたことである。その試みの帰結については、同論文の「むすびにかえて」を参照してほしい。また、ローティや佐藤の議論に興味をもたれた方は何よりも原著にあたっていただければと思う。ここでは最後に、この論文を書きながら何度も反芻した編者(安部)の問いを書きつけておきたい。
 一方に、虐げられてきた者の痛みや怒りがある。他方に、虐げてきた者の怒りや痛みがある。我々はこれらそれぞれの感情が「わかる」。このほかにも、いろんな感情が「わかる」。いや、「わかった気になる」。だが、この「わかる/わかった気になる」ということがいかなることであるのかについては、よくわかっていないと思う。もちろん私には(も)わからない。そのうえで、けれども/だからこそ問いを発しておく。果たしてそれはいまだ不分明な客観的事実や人間本性に根ざしたことがら、つまりさらなる探究によって闡明されるものなのだろうか。それとも、「わかりたい」という、我々が他者へと差し向ける信/志向性の余剰がもたらす錯覚にすぎないのだろうか。ローティがいうように、連帯は──事実として──「発見」されるのだろうか、あるいは「創造」されるのだろうか。やはりよくわからない。ただ、にもかかわらず/だからこそ、この問題が依然考えられるべきものとしてあるとだけはいえると思う。我々はときに単独行として、ときに異なる学知との交流を経ながら、さらに思考を繰り延べていかねばならないことだけは疑いない。
 最後に、大谷いづみ氏により提起された重要な論点について触れておきたい。まず銘記されてよいのは、大谷氏による問題提起によって、スミス氏が『感情労働としての看護』を執筆した当時の社会/医療状況と、同書の(真の)ねらいが明らかになったことである。編者らは、実は編集過程でその事実に気づいたが、それによって『感情労働としての看護』の新たなる/別なる読みが開かれたと確信する。また、大谷氏による「ターミナルケアの/という語りの政治性」についての問題提起は、今日きわめてアクチュアルな論点であるといってよい。ふつう生死をめぐる価値観は極私的なものと考えられているが、それさえその個人が生きている社会が抱く価値観の影響下にある。このように「尊厳死」や「安楽死」は、社会学的な視座のもとであらためて再考されねばならない重要な問題だからである。編者らもその問題意識を共有しつつ共同研究を進めており、その成果の一部はすでに世に問うている(堀田義太郎・有馬斉・安部彰・的場和子「英国レスリー・バーグ裁判から学べること──生命・医療倫理の諸原則の再検討」、『生存学 vol.1』、生活書院)。今後はさらに、「自殺幇助法」「緩和ケア法」をめぐる彼の地の動向を追尾しつつ、イギリスの尊厳死・安楽死をめぐる現実と言説の精査と検討が継続される。興味のある読者にはそちらの仕事にもぜひ注目してほしいが、現状においてこの論点については、大谷氏による一連の著作とともに、立岩真也『良い死』(筑摩書房、2009年)が格好の手引きとなろう。

 以上の論点は、「ケアと感情労働」について思考/研究する人々のみならず、異なる身体の生の様式/技法の精査と異なる学知の相互交流によって触発された知見/視角のもとに「もうひとつの」社会を構想せんとする、我々「生存学」のメンバーにとっても看過できない課題である。じっさい編者らが主催しているケア研究会でも、メンバーが独自に、あるいは共同研究をつうじて、その課題に取り組んでいる。その旺盛でバラエティに富んだ活動内容についてはhttp://www.arsvi.com/o/c05.htm。また、未整備であるが今後充実する「ケア」http://www.arsvi.com/d/c04.htm、「感情/感情の社会学」http://www.arsvi.com/d/e01.htmのページもあわせて参照してほしい。今後は、研究会での「集積と考究」をもとに、「ケア」や「感情(労働)」をめぐる研究動向レビューの作成や、それらを論じる新たな視座の提起もおこなっていく予定である。なお、同研究会はすべての学ぶ人たちに開かれている。上記ホームページ、または本冊子をつうじて興味をもたれた方があれば気兼ねなくご参加ください。歓迎します。

 最後に、私事ながら謝辞を述べさせていただくことをお許しいただきたい。本冊子の真の生みの親ともいうべき方々へ。
 パム・スミス先生とヘレン・カウイ先生は、日々のご多忙をぬって、研究交流企画での我々のコメントと質疑にたいする応答論文をわざわざお寄せくださった。かかる僥倖によって、本冊子の彩りがさらに豊かになったことはもとより、多くの読者にとってもこのうえないプレゼントになったと思います。ありがとうございました。
 大谷いづみ先生と三井さよ先生には、研究交流会の記録の収録をご快諾いただきました。編集過程であらためて読み返してみるに、お二人からはとても啓発的な問題提起がなされていて、考えさせられました。編者らの今後の研究課題とさせていただきたく存じます。ありがとうございました。
 グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点リーダーである立岩真也先生には、いわばこの冊子のもとになる、そのおおもとの機会を与えていただきました。そのご厚恩とご学恩はもとより本件だけに限りようがないのですが、ありがとうございました。
 「生存学」プロジェクトマネージャーの片岡稔さんには日々、編者ら「生存学」のポストドクトラルフェローのみならず、先端研の院生も陰日向に大変お世話になっております。そのご厚恩はこの冊子においても例外ではありません。編者らは、片岡さんに常日頃から、駆け出しの研究者としてその成果を果敢に世に問うよう強く奨めていただいております。そのような教えのもと培われたレディネスがあればこそ、どちらかといえば世事に疎い編者らも、このたびのお話を躊躇なくお受けすることができました。ありがとうございました。
 いうなればヒュレーとしての単なる文字が活字というエイドスにこうして転変するには、また別の、けれども決定的な作業が必要です。だから本冊子を仕上げてくださった方々にも謝意を表させていただきます。生活書院の高橋淳さん、そして本冊子を担当してくださった「生存学」事務局の佐山佳世子さん、同事務局の荒堀弓子さん、植田香織さん。このたびは(も)大変お世話になりました。ありがとうございました。さらに、本冊子のもとになったのは国際研究交流企画のテープ起こしの原稿であったが、その英語部分の校正をローラ・シャオさんにお願いした。口語の調子を残しながらも、読みやすい文章になるよう丁寧にチェックしてくれたこと、感謝しています。
 末筆ながら、天田城介先生と崎山治男先生には、本企画でのコメントや寄稿のみならず、本冊子の編者を努める機会まで与えていただきました。また編集作業においても、文字どおり手取り足取り、多くをご教示いただきました。両先生のご厚恩とご学恩もまた、いまにはじまったことではないのですが、あらためて記して深謝いたします。ありがとうございました。

 こうしたいろんな方々との類い希なる出会いと大いなる助力のもとに、この冊子は成りました。この幸運なる偶然の結晶が、なるべく多くのみなさんのご関心を喚起/満たすことにささやかながらでも資するところがあれば、編者としては、なんていうか、最高です。

2009年2月
安部彰×有馬斉