感情労働としての看護と、ケア倫理の実践としての看護

有馬斉(立命館大学衣笠総合研究機構ポストドクトラルフェロー)

はじめに

 すぐれた看護を実践するためには、感情表現に長けていなければならない ——感情を適切に表現する力を、看護師の特長あるいは看護職の専門性を裏書きする特別な能力として捉える理解の仕方が、近年、医療の実践を分析の対象とする人文学の諸分野において、強調されてきた。とくに医療社会学と医療倫理学の二つの分野においては、看護と感情とのかかわりについての、それぞれに独自の概念を用いた分析が展開されてきた。この論文では、これら二つの分析を、対比させつつ、また、コメントを加えながら、紹介する。

 まず医療社会学の分野で(より精確にいえば医療社会学と感情社会学との接点において)は、看護師の仕事はしばしば「感情労働」として理解されてきた。同じ医療従事者のなかでも、医師の場合、患者に与えることができるのはおもに知識と技術にかぎられている。これとくらべて、看護師は、みずからの感情そのものを患者に提供することができる、というのである。たとえば、看護師の笑顔が、患者の不安をとり除く。看護師は、患者の気持ちに共感することをとおして、患者が心理的に要求していることを理解する。このように、看護職においては、感情や感情表現をうまく管理することが、労働の一部であるという。感情の表現が、それ自体、労働の成果として、与えられたり受け取られたりするというのである。今回の企画におけるパム・スミスとヘレン・カウイの両氏によるこれまでの研究や、今冊子に寄稿されている崎山治男氏の著作などは、こうした見方を強調している。
 つぎに、医療倫理学の分野では、看護師の仕事が、「ケア倫理」の実践として理解されてきた。従来のおもな道徳理論には、功利主義や義務論などがあるが、これらの理論においては、抽象的な原理・原則から具体的な行動規範をみちびくことができるかのように説かれているのが常である。ケア倫理は、こうした伝統的な道徳理論の前提を批判する新しい道徳理論のひとつとしてあらわれてきた。すなわち、道徳的に正しく行為するために必要なのは、抽象的な原理に固執することではなく、むしろ、当の行為から影響を受けうる周囲の人々やその時々の状況にたいする細やかな気づかい(care:ケア)である、というのである。ケア倫理を推奨する倫理学者は、他人の気持ちに共感する能力や、状況にたいして感情的に入れ込むこと(emotional commitment)が、正しい行為を実践するためには不可欠だと主張してきたのである。
 さて、医療に従事する人々は、患者に施す治療の内容を決定するときなど、とくに難しい道徳的な判断を迫られる場面にいきあたることが少なくない。しかし現実にも、抽象的な道徳の原理・原則を機械的に応用するだけでは、中々、だれもが納得のいくような良い結論は得られない。医療従事者が、患者にとっての最善の治療を知るためには、まず、患者ひとりひとりに特有の価値観や感情の持ち方、患者をとりまく特殊な環境や人間関係などを考慮しなければならない。ところで、医師を含む他の医療従事者よりも、もっと患者と密接な関係を築くことの多い看護師の方が、患者ひとりひとりのことを気づかうことができる。そこで、ケア倫理の立場に則って医療の倫理を研究する倫理学者は、とくに看護師の貢献に期待してきたのである。
 以上を繰りかえせば、医療社会学においては、看護師の仕事が「感情労働」として理解されてきた。医療倫理学では、同じ事柄が、「ケア倫理」の実践として理解されてきた。本稿では、まず、看護と感情とのかかわりをめぐるこれら二つの理解の仕方を、対比しながら概観し、両者のあいだの類似点と相違点とをあきらかにしてみたい。
 はじめの節では、「感情労働」という概念の概要を述べる。また、この概念が看護職に応用される仕方を確認する。
 つぎの第2節では、看護職を感情労働としてとらえる説明と、看護職をケア倫理の実践としてとらえる説明とのあいだの類似点を指摘する。すなわち、まず、どちらの説明においても、感情を適切にコントロールしたり表現したりする力が、看護職に就いている人の特長としてとらえられている。また、どちらの説明も、看護職をとりまく現実の状況にたいする批判と結びつきがあるが、両者の批判点にも、類似している部分が大きい。
 その後、これら二つの説明のあいだに存在する相違点を、ひとつ指摘する。相違点は、感情をはたらかせることが、看護に従事する人々の幸福や利益に及ぼすとされている影響の善しあしをめぐる見解の差にある。まず、第3節では、「感情労働」という概念が、それが用いられ始めた当初から、どちらかというと非人間的なタイプの労働を指す概念として、否定的な意味合いで用いられてきたことを確認する。事実、今でもこの概念を用いて看護師の仕事の特徴を説明しようとする人々の中には、看護職という仕事のことを、この職に就いている労働者の福利に否定的な影響を及ぼす仕事として捉えている人が少なくないのである。
 これと比べて、ケア倫理学者たちは、感情の扱いと主体の福利との関係を、感情社会学者とは正反対の仕方でとらえている。第4節ではこのことを確認する。理論としてのケア倫理を支持する人々は、ケア倫理の実践を、だれにたいしても推奨することのできる、どちらかといえば人間的な行為として理解している。ケア倫理を実践することは、主体の福利に良い影響を与えることだ、と考えられているのである。
以上のことを確認した後で、本稿の最後には、これら二つの説明のあいだに、なぜ今述べたような違いが生じるのか、その理由を考察する。

1 感情労働としての看護

 「感情労働」(emotional labor)という概念をはじめに用いたのは、アーリー・ホクシールド(Arlie Hochschild)である。ホクシールドが定義したところによれば、感情労働とは、(a)他人に適当な精神状態でいてもらうために、(b)自分の感情を引き出したり抑えたりすることを通じて、自分の表面上、何らか適当な態度を繕うことを要するタイプの労働である(1)。たとえば、飛行機の客室乗務員の仕事がそうである。客室乗務員のおもな仕事の一つは、乗客を適当な精神状態に保つこと、すなわち、乗客に安心感や居心地の良さを与えることにある。そのために乗務員は笑顔を絶やさない。厭な客が相手でも、怒りやいらいらする気持ちを面に出さないよう、否定的な感情は内側で抑えつけなければならない。
 ホクシールドは、感情労働を、たとえば壁紙を作る職人の仕事のような「身体労働(physical labor)」から区別して考えた。両者の違いは、労働の成果である生産物の内容にあるという。感情労働の場合、労働者の感情そのものが生産物の一部となり、売買の対象になる。これは、身体労働の生産物があくまで物質的であるのと対照的である。壁紙職人がどんな気持ちで壁紙を作っていても、当の気持ちは、それ自体としては、生産物として売買されたりしないからである(2)。
 米国の航空会社の客室乗務員訓練施設では、空港や客室で実際に生じうるさまざまな状況を想定した訓練が行われる。ホクシールドはこの訓練の様子を調査した。訓練生は、適切だとされる感情を引き出したり、不適切だとされる感情を抑え付けたりするのに有効な方法を学習する。たとえば、預け荷物を紛失して憤慨している乗客がいるとすれば、客の気持ちを静めるためには、相手の怒りに共感し、それを態度に示してやる(「お気持ちは分かります」という)ことが有効である。あるいは、わがままな乗客に嫌気が差してしまったときには、客のことを「まるで子どものようだ」と思って見れば、自分は寛容な気持ちでいることができるだろう(3)。訓練生は、サービスの質を上げるべく、このようにして、具体的な状況に即してさまざまに感情を管理するための方法を学習する。ホクシールドによれば、現代のアメリカにおいては、このように感情そのものを売買の対象とする労働(おもに対人サービス産業)に従事する人が、労働人口全体の3分の2を占めるという(4)。
 今企画の講演者の一人であるパム・スミス氏は、ホクシールドがこのようにして定式化した「感情労働」の概念を、看護職の職務内容に当てはめて、考察を展開した。スミス氏によれば、看護師の仕事もまた、感情労働として理解することができるというのである。たとえば、老人介護を専門とする病院(elderly care hospital)では、看護師の「ちょっとしたこと(little things)」にたいする気づかい(care:ケア)の有るなしが患者の生の質を大きく左右する(5)。患者にとって大切なことは、たとえば、補聴器がきちんと機能していることを折に触れて確認してもらえることであったり、コップをいつも清潔に洗っておいてもらえることであったりする。看護師の笑顔や、看護師に手を握ってもらえることが、患者の支えになることもある。また、悲しみや怒りや喪失感を経験している患者にとっては、看護師の共感に救われることもあるだろう。さらに、スミスによれば、看護師の気づかいの対象となるのは、患者だけにかぎられない。看護師は、自分と共に働く他の看護師のことも気づかわなければならない。相手の疲れや緊張に気を配り、互いに助けあう。このような相互の気づかいが、引いては、技術的な治療の効果を高めることにも役立つというのである。看護師の仕事にとって重要な部分を占める、こうしたちょっとしたことへの気づかい(=ケア)を、スミスは感情労働として理解したのである(6)。
 さて、スミスはこの理解をふまえて、看護師をとりまく現実の制度的また政治的な状況にたいする批判をいくつか展開している。看護職に就いている人の大半は女性である。そのため、スミスによれば、ちょっとしたことにも看護師が気づかいできるのは、看護師が女性として生まれつき備えている性質の自然な現れとみなされがちである(7)。スミスは、まず、この見方を批判している。スミスは、看護師の気づかいが感情労働として理解できるという。しかし、感情労働という概念が前提としているのは、感情労働に従事している労働者は、ときに自然な感情を抑え付けたり、人工的な感情を引き出したりしながら、自分の感情をコントロールしている、という理解である。たとえば、ホクシールドが調査した飛行機の客室乗務員は、はじめから我が儘な乗客に対しても常に寛容で共感的に振る舞えるような人間として生まれついていたわけではない。客室乗務員のそうした振る舞いは、少なくとも部分的には、方法論に則って訓練や学習を重ねた結果、自分の感情を管理できるようになって初めて身に付いた振る舞いであった。スミスは、看護師の気づかいについても、これと同じことが当てはまるというのである。
 さてしかし、現実には、看護師の気づかいは女性らしく・自然で・巧まない・直感的な振る舞いにすぎないといった見方は、一般にも広く浸透した見方だといってよいだろう。スミスによれば、看護職は現実に、こうした見方のために、不利益を被っている。とくにスミスは次の二つの不利益を指摘している。第一に、こうした見方をしていると、教育や訓練を通して、看護師にケアや気づかいを学習させるべきだ、という考えかたが出てこない。感情をうまく管理することができない看護師が、そのために現場で困難に行き当たるとして、看護師には感情管理の方法を学習することによってそうした困難を取り除くことができるという発想が出てこない(8)。第二に、このような見方からは、「ちょっとしたことに対する気づかい」が対価に値するものだという認識が出てこない。そのため、看護師が受け取っている給与額は、労働の内容を適切に反映しているといえない(9)。スミスはこうした状況を批判して、・感情管理の方法を体系的に学ばせる教育プログラムの作成と、・看護師の地位向上また給与額の引き上げを訴えた。

2 ケア倫理の実践としての看護

 医療社会学者は、感情を適切に管理し表現することのできる力を、看護職の専門性を裏書きする特殊な技術あるいは能力として理解している。前節ではこのことを確かめた。この節では、医療倫理学の分野でもまた、看護と感情との関係について、これと似た考えかたが強調されていることを確認したい。
 ここでは、パトリシア・ベナーとジュディス・ルーベル(Patricia Benner and Judith Wrubel)の論を例として挙げておこう。ベナーとルーベルは、看護師の仕事を、ケア倫理の実践として理解することができるという(10)。西洋の伝統的な知識観の中では、これまで、抽象度や一般性の高い理論的な知識ばかりが重視されてきた。今の医療の現場においても、注目を集めるのは、抽象的な科学の知識や、そうした知識を基にして開発される技術ばかりである。しかしこれらの科学技術だけでは実際の医療現場はなりゆかない。ベナーとルーベルによれば、生物医学が対象とするのは、細胞や臓器のレヴェルでの異常としての病気(disease)に限られている。これと比べて看護師は、ひとりひとりの患者が経験する出来事としての病(illness)を把握するというのである。そこで、たとえば、心臓移植術のような高度な技術を用いるにしても、施術後に患者が経験する居心地の悪さや苦痛を目敏く見つけ、それに対処する看護師のフォローアップがなければ成功しないというのである(11)。
 ベナーとルーベルは、このような看護師の仕事が必要とするタイプの知性を、理論的な知識から区別して、特に「身体内知性(embodied intelligence)」と呼んでいる(12)。看護師は、現実を一般的な理論を用いて説明するよりはむしろ、そのときどきの状況に身体で反応して、目の前の患者個人の生にとって重要な事柄を、そうでない事柄から区別し、重要な事柄だけに関心(concern)を寄せ、状況に入れ込みながら(commit)事態を理解する。さて、ベナーとルーベルによれば、身体内知性による現実理解を可能にするのは、感情の働きである。感情は、身体が状況について把握した情報を主体に伝える役割(身体内知性のいわば「言語」の役割)を果たすというのである(13)。看護師の仕事をケア倫理の実践として捉えたベナーとルーベルの論もまた、看護職の特長を、感情の用い方と結びつけている。
 さて、ベナーとルーベルもまた、以上の分析を踏まえて、看護職をとりまく現実の状況を批判している。論点は多くあるが、いくつか、とくに前節で紹介したスミスの批判点と内容の重なるものがある。たとえば、ベナーとルーベルが、一般的で理論的な知識と、身体内知性とを対比させていることはすでに確認したが、この対比は、そのまま医師と看護師とのあいだの関係にも当てはまる。現代は、理論的知識を重視する伝統的な西洋の知識観が支配的であるため、科学的な知識や技術の扱いに長けた医師の仕事だけが高く評価されてきた。ベナーとルーベルは、こうした風潮を批判している。身体内知性にも実践面で大きな効力があることを理由に、看護師の社会的な地位の向上と、病院内での権限の拡大を訴えている(14)。また、これまで看護教育のプログラムが、技術や合理性を重視している事態にも問題があると述べているのである(15)。

3 感情労働と自己疎外

 ここまでに、医療社会学と医療倫理学の二つの分野において、感情を適切に働かせる力が、看護師の仕事に欠くことのできない能力、あるいは看護職の専門性を裏書きする特別な技術として理解されていることを確認した。また、どちらの分野においても、このような理解の上に、看護職をとりまく現状が批判されてきていること、両者のこうした批判のあいだには共通する論点があることを指摘した。

 さてしかし、これら二つの分野における理解のあいだには、一つ興味深い相違点が存在する。本稿の残りでは、この相違について論じる。相違は、感情を働かせることが、看護職に就いている人の幸福や利益に及ぼす影響の善しあしをめぐる見解の差にある。まず、看護を感情労働としてとらえる医療社会学者たちは、看護職は働き手の福利に否定的な影響を与えるものと考えていることが多い。看護職という仕事が働き手に要求する義務の内容は、その意味で、どちらかといえば非人間的なものとして理解されがちである。これと比べて、道徳理論としてのケア倫理を支持する学者は、ケア倫理の実践を、行為主体の福利に良い影響を及ぼすものとみなしている。あるいは少なくとも、ケア倫理を実践することは、誰に対しても推奨されるべき人間的な営みとして理解されていることが多い。看護職に伴う職務と働き手の福利との関係に注目すれば、ここまでに見てきた二つの分析は、このようにちょうど正反対の見解を有しているのである。
 見解の相違は、何に由来するのか。あきらかな原因の一つは、社会学と倫理学のそれぞれが、看護職の特色を説明するために用いてきた「感情労働」と「ケア倫理」という二つの概念に本来から含まれていた意味の違いにある。これら二つの概念は、それぞれ、用いられ始めた当初から、一方は否定的な意味合いを備えていたし、他方には肯定的な含意があった。このことを、この節と次の節で確認する。
 先に「感情労働」と労働主体との関係の方から検討しよう。感情社会学の分野では、「感情労働」という概念には、もともと否定的な意味が与えられてきた。当の概念を創案したホクシールドは、感情労働を、労働主体の福利に否定的な影響を及ぼすタイプの労働として理解していた。この概念が看護職に適用された文脈でも、こうした理解の仕方は基本的に残っており、労働の一部として自分の感情を管理しなければならないことは、働き手がさまざまなストレスを覚える原因と考えられてきている。
 すでに述べたように、ホクシールドは、感情労働を、顧客を適当な精神状態に保つために自分の感情を管理することを要求するタイプの労働として定義した。もちろん、感情を管理するというだけのことであれば、日常的に誰もが行なっていることである。どの社会においても、さまざまな状況にかかわって、経験されるべき適切な感情の内容を指定する規則が不文律として存在する(たとえば「葬儀の席では大笑いしたりしない(16)」)。ホクシールドも、私たちがこうした社会的規則に則ってする日々の感情管理それ自体を問題視しているわけではない。
 ホクシールドが批判したのは、あくまで、労働としての感情管理である。企業や資本家の定める規則に従って労働者が自身の感情を管理する場合にかぎって、特別に倫理的な問題が伴うというのである。
 ホクシールドが指摘した倫理的な問題は三つある。第一は、仕事を始めたばかりの働き手に多くみられる問題である。感情労働を始めたばかりの働き手は、自分がサービスの一環として提供している感情を、自分の「真」の感情から区別するということができない。したがって、サービスの質を客から批判されることがあると、批判を自分個人の性格にたいする非難として受け止めてしまう(17)。ホクシールドは、労働者にこのような経験を強いるところに、感情労働の第一の問題があるという。
 さて、ホクシールドによれば、労働者は、今いったような経験を重ねていくうちに、仕事中の感情を、自分の「真」の感情とは区別して理解するようになる。しかし、問題はこれでは解決しない。仕事中の感情が真の自己の一部であることを認められなくなると、今度は、接客中の自分の態度が「不誠実(phony)」なものに感じられてくる、というのである。その結果、労働者はやはり、自分の性格に道徳上の欠陥があると感じてしまう(18)。
 自分のことを不誠実だと思ってしまうことは、大きな負担である。そこでホクシールドによれば、労働者は次に、自分の仕事が重要であることを努めて否定しようとするという。たとえば、接客が、自分と客とのあいだに真に人間的な良い関係を築くことを目的としているのだという考えかたを放棄してしまう。仕事の上の温かい人間関係は、ただの「幻想」にすぎない。つまり、不誠実なのは自分の態度ではなく、こうした「幻想」を作ることを要求する仕事の方だというわけである。あるいは、職務の重要性や意義まで否定しないとしても、労働者は、もはや仕事に真剣に取り組むことをしなくなる。いずれにしても、労働者は、自分の仕事や仕事をする自分に誇りを持つことができなくなってしまうのである(19)。
 感情労働に従事する人は、「真」の自己と、職務中の演技によって引き出された自己とのあいだにうまく折り合いをつけることができない。ホクシールドは、マルクスの言葉を借用して、感情労働が引き起こすこれらの問題をひとまとめに「自己疎外(self-estrangement)」の問題と呼んだ(20)。

 「感情労働」という概念には、それが用いられ始めた当初から、このように否定的な含意があったのである。後に、この概念を看護職に応用した人々も、看護師が職務の一環として感情を管理する行為のことを、看護師自身の福利の上に否定的な影響を及ぼすものとして理解している。
 武井麻子は、看護職に従事する人々の間で職業倫理として受け入れられている規則の多くが、感情の扱い方を規定するものだという。たとえば看護師は、患者の苦しみや悩みに共感的でいるべきだ。患者の前で、怒ったり泣いたりしてはならない。また、患者の排泄物や傷口をみても、吐き気を催すことは許されない。こうした感情規則を、看護師は、現場で共に働く上司から教え込まれるというのである。しかし、武井によれば、多くの看護師が、規則によって適当と定められている感情を、実際に内面においては経験していないにもかかわらず、表面的な態度や表情を繕うことしかできないでいるという。そのようなときの看護師は、自分のことを不誠実だと感じざるをえないというのである(21)。
武井もまた、看護師の仕事を感情労働として理解している。武井はさらに、感情をコントロールしようとする看護師の努力は、ほとんど、患者から感謝されたり、患者の側の感情管理(笑顔)によって報われたりすることがないと指摘する。中には、却って、怒りを看護師にぶつけたり、看護師に冷たく当たったりする患者もいるという(22)。武井によれば、感情労働が引き起こすこうしたストレスの重なりと、多くの看護師が経験する「バーンアウト(燃えつき)」、また、看護職に従事する人の自殺率の高さとのあいだには、連関があるという。武井は、患者に共感することを看護師に強いる感情規則は、その妥当性が再検討されるべきだと結論するのである(23)。
 パム・スミスもまた、看護師の感情労働が引き起こすストレスに言及している。看護師は、たとえば気難しい患者やどうしても好きになれない患者を相手にしていて、自分が感情規則に反する感情を内面において経験してしまうとき、不安やストレスを覚えざるをえない(24)。そこでスミスが強調するのは、病棟の婦長(あるいは師長)のリーダーシップの重要性である。ひとりひとりの看護師が患者のことを十分に世話することが可能であるためには、まず、看護師の感情労働を婦長が正当に認識し、評価することが不可欠だというのである(25)。
 感情労働は働き手の自己疎外を引き起こすというホクシールドの主張は、感情労働の概念を看護職に応用したスミスや武井の論においても、継承されている。もちろん、ホクシールドのこの主張を、その後の感情社会学者たちがまるで批判してこなかったというわけではない。崎山治男は、ホクシールドの主張にたいする従来の主な批判をまとめて紹介している。感情社会学者は、飛行機の客室乗務員や看護師の他にも、さまざまな職種に従事する人々をその研究の対象としてきた。その中で、スーパーマーケット等のレジ係も、やはり感情労働を行っているとみなすことができると指摘されてきたのだが、その一方で、レジ係の感情労働は、ホクシールドの指摘するような自己疎外の問題を引き起こしはしないことが明らかにされてきている、というのである(26)。
 さてしかし、崎山によれば、「感情労働は必ずしも自己疎外を招くとは限らない」というこれら近年の研究における発見は、レジ係の仕事に関する限りは妥当な見解だとみなすことができたとしても、同じ見解がそのまま看護職の場合にも当てはまると考えることはできないという。崎山は、レジ係の仕事と看護職とのあいだには、次の二つの差異が存在する。すなわち、第一に、レジ係の仕事の場合、職務内容を規定する感情規則の内容が、看護職の場合と比べて、はるかに単純である。また、第二に、レジ係に対しては、顧客(すなわちレジに並ぶ客)の側も、ごく単純な感情表現しか期待していない。その結果、レジ係の場合、働き手は、感情労働を行うことによって顧客を満足させることがそれほど難しくないというのである。したがって、レジ係は、従うことの不可能な感情規則や、自分の望まない感情規則を、他から無理やり押し付けられている(あるいは自分の感情を他律的に管理されている)と感じることがほとんどない。自己の感情からの疎外は、起こりにくいというのである(27)。
 しかし、看護職の場合は事情がちがう。看護師には、顧客(つまり患者)の感情に共感することが要求される。しかしひとりひとりの患者が抱く感情の内容は千差万別である。大きな病気をすると、人は自身の半生を省みるといわれる。各々の背景にさまざまに異なる生活史があるとすれば、それぞれが抱く感慨もまたさまざまに異なるはずである。看護師が、ひとりひとりの患者の感慨に共感しうるためには、まず、相手の背景にある個人史から理解しなければならない。崎山によれば、看護職に伴う感情規則の要求が、非常に複雑な内容を有するのは、こうした事情に原因がある。さらに、感情規則が複雑だと、顧客(つまり患者)の側も、看護師にどれだけのことを期待すればよいのか、容易に判断することができない。その結果、看護師にたいする患者の期待が、看護師の側の意図と噛み合わない場合が出てきてしまう。そこで崎山もまた、少なくとも看護職に関するかぎり、感情労働が自己疎外を引きおこすというホクシールドの見解は妥当だと結論している(28)。

4 ケア・美徳・幸福

 以上、感情社会学の分野では、感情を扱う仕事は、看護師本人の福利に否定的な影響を及ぼすものとして理解されてきたことを確認した。つぎにケア倫理の分析の方の検討に移ろう。ケア倫理学者もまた、感情社会学者と同じように、看護職の特色を、感情を適切に働かせる力にあると考えてきたことは、すでに述べた通りである。ところが、こと感情を扱う職務が、看護師本人の主体の福利に及ぼす影響の善しあしに限っていえば、ケア倫理学者は、感情社会学者とはちょうど正反対のことを主張している。本節ではこのことを確かめたい。
 功利主義や義務論といった、これまでの学界において支配的であった道徳理論を批判して、ケア倫理という新しい道徳理論の可能性をはじめに呈示したのは、教育学者のネル・ノディングス(Nel Noddings)である(29)。ノディングスによれば、他人を気づかう(care)こととは、他人にいま降りかかっている現実を、自分自身にとってもいつ降りかかるともしれない可能性とみなすことである。他人にとっての現実を、自分にとっての可能性と見なすことのできる人は、他人が苦しんでいれば、この苦しみを取り除かなければならないと感じ、また、他人が何か必要としていれば、必要に応じて自分が与えなければならないと感じるものだというのである(30)。ノディングスはさらに、これを別の箇所では次のように言い換えている。すなわち、他人を気づかうこととは、「他人と共に感じること(“feeling with”the other)」であり、また、他人の気持ちに「専心没頭(engrossment)すること」である。他人の痛みや不安を、当人が感じているそのままに自分でも感じることができれば、人はやはり他人の痛みや不安を取り除くよう動機づけられる(31)。そこで、道徳的に善い行いとは、他人にたいするこうした気づかいに動機づけられた行為であり、また、他人とのあいだのお互いを気づかいあう関係の維持を目的とするような行為だというのである。しかし、だとすれば、普遍性のある包括的な原理・原則に従うことを善しとするような従来の道徳理論は、妥当でないといわなくてはならない。他人との出会いにはさまざまな可能性があるはずだが、すべての可能性をあらかじめ視野におさめた原理など存在するはずがないからである。
 さて、以上のように述べて新しい道徳理論としてのケア倫理を定式化したノディングスは、事実、ケア倫理の実践を、あくまで肯定的に捉えている。ノディングスにとって、ケア倫理を実践することは、人間的で、誰にでも推奨されるべきことである。このことは、ノディングスが、どうしても好きになれない厭な他人を気づかうことと、自分自身のことを気づかうこととの関係を、どのように理解していたか、その仕方を見てみれば、いくらかあきらかになるはずである。
 性格の合わない人や、自分の好意や善意を喜んでくれない人・感謝してくれない人など、どうしても好きになれない他人というのはいるが、このような厭な他人のことを、上にいった意味で常に気づかう(care)ことは、容易なことではない。しかし、ノディングスによれば、本当の意味で自分のことを気づかう(care)人は、痛みや苦しみを抱えている他人がいれば、それが厭な性格の持ち主であっても、やはり助けるよう動機づけられるものだという。というのも、他人のことを気づかってやることができないでいるとき、私たちはそんな状態にある自分のことを厭に思うはずだからだ。自分のことを真の意味で気づかう人は、他人のことを気づかうことができない自分のことを厭に思う。ノディングスはこのことを、厭な相手であっても気づかうように私たちが動機づけられるのは、自分が倫理的でいられるかどうかということを私たちが気にするからだ(“it is because I care my own ethical self”)、と表現している(33)。言い換えれば、どうしても好きになれない他人のことを気づかうことができない人というのは、自分自身が倫理的であるかどうかなど気にしない(don't care)人のことだというのである。
 ノディングスによれば、ケア倫理を実践することは、私たちにとって本来、自然なことである(34)。しかし同時に、ケア倫理を実践することが自然にできない場合(すなわち、相手が厭な人である場合)でも、そこを敢えて実践することは、今いったような意味で、人間的で推奨されるべきことだというのである。
 そこで仮に、看護師の仕事を(ノディングスが定式化したかたちの)ケア倫理の実践として理解する見方を受けいれるとしよう。この場合、ノディングスであれば、看護師が患者の気持ちに共感(engrossment)し、共感によって動機づけられ、患者の痛みや苦しみを取り除くために行為することは、人間的で、推奨されるべきこととして理解するにちがいない。
 さらに、ケア倫理の実践は、ただ人間的で推奨されるべきこととして理解されているのみならず、場合によって、行為者の幸福や利益に良い影響を及ぼすものとして捉えられていることがある。そうした捉え方を端的に示すケア倫理学者による論述の例を、ひとつ紹介しておこう。
 ケア倫理学者のマイケル・スロート(Michael Slote)は、道徳理論としてのケア倫理を、別の道徳理論である徳倫理(virtue ethics)の一類型として理解している(35)。そこで、徳倫理をスロートがどのように理解しているかということから先に説明しよう。スロートは徳倫理を特徴づける要素を二つ挙げているが、ここでは一つだけ紹介する。義務論や功利主義といった近代の道徳理論にとって、倫理的に生きるということは、何らかの一般的な法則や規則や原理に見合う生き方をすることである。これにたいして、徳倫理においては、倫理的な生が、人が内面に具えている性質や性格の徳性の問題として捉えられている。言い換えれば、理論としての徳倫理の最大の焦点は、行為や発言といった人の外面的な振る舞いの善悪にあるのではなく、むしろ、その関心は、性格や動機といった行為者の内的な性質に注がれている(agent-focused)というのである(36)。

 このように徳倫理の特徴を述べた上で、スロートは、徳倫理の理論はさらに二つのタイプに分類することができるという。分類の要は、有徳とされる人の動機や性格といった内面的な性質と、道徳的に善いとされる行為や振る舞いとのあいだの関係にある。第一のタイプの理論によれば、行為の道徳的な善悪を判定するための基準は、当の行為がどのような性格の人によって為されたか、またどのような動機に基づいて行なわれたか、ということにある。すなわち、善い行為とは、有徳な性格の人がする行為や立派な動機に基づいて為された行いであり、逆に、立派な性格や動機によらない行為は、善い行為とはいえない、というのである。スロートは、このタイプの徳倫理を「行為者に基礎をおく徳倫理(agent-based virtue ethics)」と呼んでいる。これと比べて、第二のタイプ(スロートはこれを「行為を基礎におく徳理論(act-based virtue ethics)」と呼ぶが)の説くところによれば、行為の善し悪しを判定する際、考慮する必要があるのは、当の行為の内容だけである。行為者の内面的な性質は問題にならない。たとえば、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』は、徳倫理を構成する基本的なアイデアが初めて書かれた著作とみなされることが多いが、アリストテレス自身は、(もちろん有徳な性格の持ち主が道徳的に行為することを否定しはしないが、その一方で)有徳な性格の人でなくても、有徳な人の振る舞いを真似ることによって道徳的な行為をすることができると考えている節がある。したがって、スロートによれば、アリストテレスが定式化したのは、徳倫理の内でも、とくに第二のタイプであるという(37)。
 さて、ここで特に、スロートはケア倫理に言及して、ケア倫理を、第一のタイプの徳倫理と理解することができるという(38)。本稿のこの節でも述べたように、たとえばノディングスは、道徳的に善い行為を定義して、それは他人にたいする気づかい(care)に動機づけられた行為であると説いている。これは言い換えれば、行為や振る舞いが道徳的に優れたものだといえるかどうかは、行為の内容だけを調べても分からない、行為者の内面にある動機を吟味しなければ分からない、といっているのである。
 以上、スロートが、ケア倫理を徳倫理の一類型として理解する仕方を概観した。さて、では、スロートは、ケア倫理の実践と、主体の福利との関係をどのように見ているか。スロートは、まず、功利主義(より正確には帰結主義)や義務論といった他の主要な理論と比べたときに、徳倫理は、道徳理論としてより優れていると述べている。このことを論証する目的のために、スロートは徳倫理の長所をいくつか具体的に挙げている。ここで述べられている長所の一つが、行為者の福利の問題に関わっているのである。
 スロートによれば、功利主義や義務論の場合、これらの理論に忠実に従って行為しようとすると、人は、どうしても、自分自身の幸福や利益を犠牲にしなければならなくなるという。たとえば、功利主義の原則は、私たちに、自分を含めた全ての人ひとりひとりの福利を、どれも全く同じだけの価値を有するものとして扱うことを要求する。そこで、世界中の多くの人々が病や貧困のために苦しんでいるとき、人が功利主義の原則に忠実に従って生きようとすれば、常に大多数の貧しい人々の幸福や利益を増すことを優先し、自分ひとりの楽しみや幸福は、常に後回しにしなければならない(39)。また、義務論の創始者であるカントも、他人の福利を助長することは私たちの義務だが、自分自身の福利を同じように助長することは私たちの義務ではないと述べている(40)。
 これと比べて、スロートによれば、徳倫理の方は、私たちに多大な自己犠牲を強いることがないという。人のさまざまな性質や性格のうち、とくに美徳とみなされているものを考えてみると、その中には、一方では、優しさや情け深さや誠実さのような、他人の幸福や利益を増すことに役だつ性質も含まれるのは事実だが、他方で、用心深さや才能の豊かさや倹約の上手さといった、自分自身の福利を促進することに役立つ性質も多く含まれている(41)。徳倫理の創始者と目されることの多いアリストテレスも、他人を益する美徳だけでなく、自己自身の益になる美徳を強調した。徳倫理は、スロートによれば、私たちに、自分自身の福利と他人の福利とをバランスすることを要求するという。またスロートは、ここでとくにケア倫理の基礎を築いたキャロル・ギリガ(42)(Carol Gilligan)にも言及している。ギリガンもまた、他人だけでなく、自分にたいしても気づかいと責任を持つべきであるとする考え方を強調した(43)。
 スロートによれば、ケア倫理は、徳倫理の一類型として位置づけることができる。そのスロートは、同時に、徳倫理を実践する人には、自分自身の福利を軽視したり犠牲にしたりすることのないよう、バランスよく生きることが要求されると述べている。したがって、かりに看護師の仕事を(スロートの構想するかたちでの)ケア倫理の実践として理解する見方を受けいれるとすれば、看護師として働くことは、看護師本人の福利を促進することに役立ちこそしても、本人の福利に犠牲を強いるようなことは起こらないというべきであろう。

終わりに

 この論文では、医療実践を考察の対象とする社会学者や倫理学者が、近年、看護職の特色を、感情を適切に働かせたり管理したりする能力にあるとする見方を強調している事実を指摘した。とくに感情社会学の分野では、このことが「感情労働」という概念を用いて説明される。また、医療倫理学においては、同じことが、看護職の仕事をケア倫理の実践として捉えられることによって説明される。いずれの分野においても、看護師は、かりに技術の高さや知識の量では医師に劣るとしても、感情を巧みに扱うことによって、医療の現場で医師にも劣らないだけの貢献をすることが可能である、といったことが主張されてきた。さらには、こうした主張の上に、看護職の地位向上や、体系的な教育プログラムの確立の必要性などの訴えが重ねられてきた。

 看護職の特色についての、感情社会学と医療倫理学という二つの分野で示されてきた分析には、こうして共通する点が多くある。しかしその一方で、両者の分析のあいだには一つの興味深い相違点が存在する。本稿の後半では、この相違点をあきらかにして述べた。看護師の仕事を感情労働としてとらえる見方は、看護職に従事することが、看護師本人の福利に否定的な影響を及ぼす、どちらかといえば非人間的なことである、という考え方に結びつきやすい。これと比べて、ケア倫理の実践は、一般に、主体の福利に良い影響を及ぼす人間的な営みとして理解されている。看護師の仕事をケア倫理の実践として捉える見方を受け入れるとすれば、看護師の職務は、看護師本人の福利に良い影響を与えるものとして理解するのが自然だろう。このように、看護職が、働き手の福利に及ぼす影響の善し悪しについては、感情社会学と医療倫理学とは、ちょうど正反対の見解を導くように見える。
 本論文では以上のことを指摘し、説明することで、目的を果したものとする。さて、しかし、感情社会学者と、医療倫理学者とは、同じ事柄を説明しようとしているにもかかわらず、また、看護職を取り巻く現状への批判的な論点の内容も共通しているにもかかわらず、なぜ両者のあいだには本稿に指摘したような差異が出てくるのだろうか。また、これらの差異は、結局のところ、両者の分析のうち、どちらか一方だけが正しく、もう一方は誤っているということを意味するのだろうか。かりにそうだとすると、どちらの分析の方が誤っているといえるのか。最後に、これらの疑問に関して、少しだけ考察を延長し、簡単なメモを残しておきたい。
 看護を感情労働とみなす理解と、ケア倫理の実践とみなす理解とのあいだにある、以上に述べたような差異は、どこから生じたのか。原因として、いくつか可能性が考えうる。たとえば、次のように考えることができるかもしれない。ケア倫理の実践として理解されている場合の看護は、理想的な感情の扱い方を十分に習得した看護師の様子を描いている。これにたいして、感情労働という概念を用いて説明されているのは、理想とされる感情の扱いをまだ十分に習得しきれていない看護師の現実なのだ。──このように考えるとすれば、どうか。ここでとくに感情を十分に上手に扱うことができるようになれば、看護師には、もはや不安やストレスや燃えつきが起こらないものと考えることができるとすれば、感情社会学者だけが、看護師の仕事を、看護師本人の福利に否定的な影響を及ぼすものとして理解し、ケア倫理学者が同じようには理解していないことは、説明することができるかもしれない。感情社会学とケア倫理学とは、同じ看護師を対象としているとはいっても、より正確には、看護師の中でもそれぞれ職務の習熟度合いが異なる別々のグループを対象としているため、両者の見解は互いに矛盾しないものと理解することが可能であるかもしれない。
 あるいは、感情社会学の分析と、ケア倫理学の分析のあいだの相違が生じる理由は、もう少し別の仕方で説明できるかもしれない。すなわち、(しかしこれもよく考えてみると今いった第一の説明とそれほど変わらないかもしれないが)感情労働という概念によって説明している葛藤は、看護師の中でも、とくに、看護職に伴う感情規則の倫理的な妥当性に納得することのできない看護師だけが経験する葛藤なのかもしれない。これにたいして、ケア倫理の実践として描かれているのは、感情規則の倫理的な妥当性に心から納得できている看護師の様子である。このように考えることも可能かもしれない。「感情労働」という概念は、もともと、感情を管理することにも、自律的な場合と他律的な場合とがあるという区別の立て方を前提とした概念であるように思われる。すなわち、「感情労働」という概念を適応することが適切なのは、感情を経験している主体とは別に存在する他者(とくに企業や組織)によって、主体の感情が他律的に管理/コントロールされている場合である。しかし、現実には、かりに組織が個人に何らかの感情規則を強いている場合でも、感情を経験している当の個人が、組織の定める感情規則の倫理的な妥当性に心から納得しているとすれば、本人は、自分の感情が他者によって(つまり他律的に)管理されているという感覚を抱かないかもしれない。
 客室乗務員の場合と、看護師の場合とのあきらかな相違点の一つは、この点に関連しているように思われる。ホクシールドは、客室乗務員の感情労働を研究して、乗務員がしばしば「自己疎外」に陥ることを指摘した。客室乗務員に強いられる感情規則の場合、その倫理的な妥当性に疑問を抱く人も少なくないかもしれない。たとえばホクシールドは、女性の客室乗務員が、男性客にたいして「性的な含み笑い(sexualized smile)」を作ることを強いられると報告している。こうした個別の規則の妥当性に納得できない乗務員が、ホクシールドのいう「自己疎外」に陥ることは想像に難くない。
 看護師の場合はどうだろうか。看護師は、患者に笑顔を見せたり共感的であったりすることを強いられるという。しかし、こうした規則の倫理的な妥当性は、乗務員の規則ほど、疑われることは多くないのではないか。妥当性によく納得している看護師も少なくないかもしれない。感情規則の倫理的な妥当性に十分に納得できている看護師の場合、その様子をケア倫理の実践として理解することができるかもしれない。同時に、看護師の中にも、武井が指摘するような困難を多く経験してきた結果、規則の妥当性を疑うようになる人もいるかもしれない。感情労働という概念を用いることによって、本人の抱えている負担や悩みを上手く説明することができるのは、看護師の中でもとくにこうした後者のタイプの看護師の場合なのだと考えることもできるかもしれない。かりにこのように考えることができるとすれば、感情社会学とケア倫理学による二つの分析のあいだの相違を説明することが可能かもしれない。

◆註と文献
(1)A. Hockschild, The Managed Heart, University of California Press, 1983. p.7.
(2)同上, pp.6-7.
(3)同上, p.111.
(4)同上, p.11.
(5)P. Smith, Emotional Labour of Nursing, MacMillan, 1992. p.1.
(6)同上, pp.6-8.
(7)同上, p.2.
(8)同上, p.50.
(9)同上, p.11.
(10)P. Benner and J. Wrubel, The Primacy of Caring, Addison-Wesley, 1989. Preface, xi. ケア倫理の理解について、ベナーとルーベルは、キャロル・ギリガン(C. Gilligan, In a Different Voice, Harvard University Press, 1982)を引いて、ケアの倫理を、「権利」や「正義」といった概念をもちいる伝統的な倫理理論と対比している(pp.367-8)。
(11)Benner and Wruble, 前掲書. Preface, xv.
(12)同上, p.43.
(13)同上, p.96.
(14)Benner and Wruble, 前掲書. pp. 382-3 & 387-8.
(15)同上, p.402.
(16)Hochschild, 前掲書. Ch.2.
(17)同上. p.132.
(18)同上. p.134.
(19)同上. p.135.
(20)同上.
(21)武井麻子、「感情労働としてのケア」、川本隆史編『ケアの社会倫理学』、有斐閣、2005年、159-180頁. pp.168-9.
(22)同上. p.171.
(23)同上. p.176.
(24)Smith, 前掲書, p.59.
(25)同上, p.68.
(26)崎山治男、『「心の時代」と自己』、勁草書房、2005年. pp.126-. 崎山が引用しているのは、R. Leidner, Fast Food, Fast Talk: Service Work and The Routinization of Everyday Life, University of California Press, 1993 や M. B. Tolich, “Alienation and Liberation Emotions at Work: Supermarket Clerk's Performance of Customer Service,” Journal of Contemporary Ethnography, 22 (1993) 136-381 等。
(27)崎山、前掲書. p.128.
(28)同上. pp.128-131. 崎山はさらに、感情労働が看護師の福利に否定的な影響を及ぼすにいたる仕組みを独自の調査に基づいてさらに正確にあきらかにすることを試みている(第五章)。崎山によれば、看護職を支配する感情規則は二つのタイプに大別できる。看護師は、まず、患者の心理的ニーズを理解するため、患者ひとりひとりと個人的な信頼関係を築くことが要求される。しかしその一方で看護師はまた、治療に必要な指示を与えるために、あるいは、多くの患者のあいだに不公平がないように、患者といくらかの距離をとることも必要になってくる。このようにして親密さを増すことと、距離を取ることとの両方が、それぞれに異なるタイプの感情管理を要求する。二つの要求が互いに相容れない状況に陥ったとき、看護師は、自己の感情を自律的に管理できているという感覚が得られなくなり、自己疎外の問題が引きおこされるという。
(29)N. Noddings, Caring: A Feminine Approach to Ethics and Moral Education, University of California Press, 1984. ノディングスとほぼ同時期にケア倫理のアイデアを描いたのは、C. Gilligan, 前掲書.
(30)同上. pp.14-5.
(31)同上. pp.30 – .
(32)同上, p.5.
(33)同上, p.18.
(34)Cf. “Indeed, I am claiming that the impulse to act in behalf of the present other is itself innate (Noddings, 前掲書. p.83).”
(35)M. Slote, “Virtue Ethics,” in M. Baron, P. Pettit and M. Slote, Three Methods of Ethics: A Debate, Blackwell, 1997: 175-238.
(36)同上. p.177.
(37)同上. pp.178-9.
(38)同上. pp.225-9.
(39)同上. pp189 -190.
(40)同上. p.185.
(41)同上. p.186.
(42)Gilligan, 前掲書.
(43)Slote, 前掲書. p.195.

有馬 斉 20090319 「感情労働としての看護と、ケア倫理の実践としての看護」 安部 彰有馬 斉 『ケアと感情労働——異なる学知の交流から考える』,立命館大学生存学研究センター,生存学研究センター報告8,pp.193-214.