「立命館大学における感情労働の研究会から得た印象と感想」解題

安部彰×有馬斉

 本冊子を作成するにあたり、編者の依頼に応えて、パム・スミス氏とヘレン・カウイ氏(以下、「著者」)から連名で「立命館大学に於ける感情労働の研究会から得た印象と感想(Impressions and Comments Arising from the Meeting on Emotional Labour, Ritsumeikan University July 31st, 2008)」と題した論考をお寄せいただい。それを受け、英語を読むのが難しい読者の用に資するため、また題目にも示されてあるとおり、本論考は本企画——国際研究交流企画(本冊子第一部)と研究交流会(同第二部)——にて持ち上がった論点等にたいする著者の応答という性格が色濃いため——すなわちとくに印象に残った点や、そこで触発されて展開した考察などをまとめた形になっているため——特別に編者の解題を付することにした。
 はじめの「梗概(Abstract)」の節では、本企画を振り返って、その目的がおおよそ以下の三つの点にあったと述べられている。すなわち著者は、企画の目的を、・感情労働という概念を理論的な視点から、ケアや看護における感情の役割を検討するための概念的な道具として再検討すること、・「感情労働」と「職場におけるいじめ」の問題とのあいだの理論的な繋がりを確かめること、さらに、・組織内の感情管理と質の高いケアを実現するために効果的なリーダーシップやチームワークの問題を論じることにあったとまとめている。
 そして本文では、上述の論点についての著者のコメントが、1.「序(Introduction)」、2.「理論的な視点(Theoretical perspective)」、3.「組織の視点(Organizational perspective)」、4.「看護師の視点(Practitioners' perspective)」、5.「日本の日常に触れた印象(Impressions from participation in everyday life in Japan)」、6.「感想(Reflections)」の6つの節に分けて述べられている。以下では、各項の内容を要約し、本稿を読むための手引きとしたい。

 まず1節の「序」では、本企画の中で何度も言及されたホクシールドの感情労働論の大要が示されている。ここではホクシールドの議論をあらためて要約することはしない、著者は、医療現場の看護師がケアの質を高めるためにホクシールドのいう感情管理の訓練を受ける必要があることと同時に、感情が真に看護師本人のものであるべきこととのあいだの葛藤が本企画でも問題になったことを記してい。
 2節の「理論的な視点」では、感情労働にかんする近年の理論的な研究が扱われている。ホクシールドの議論をさらに展開させて、感情労働の類型を整理したBoltonの研究とTheodosiusによるホクシールド批判が紹介されている。とくにTheodosiusは、スミス氏の仕事にたいする一般的な見解、すなわちそれが看護職の感情労働の実態をあきらかにし、その評価を促したとする見解に反して、むしろ却って看護師の感情労働の本質を見えにくくしたと批判している。著者はこの批判に応えて、スミス氏の著書が当時認知されていなかった感情労働の認知を促したのはまぎれもない事実であり、ただ、この考え方がその後あまりに一般化したため、現在はとくに取り上げて論じられることが少なくなったにすぎないのではないか、といった主旨の反論を展開している。このあたりは、スミス氏の仕事をめぐる近年の議論や理論的な論争に関心を持つ読者には特別に興味深い箇所かもしれない。
 3節「組織的な視点」では、本企画で著者がそれぞれ行なった二つの講演の主題(すなわち「看護師の感情労働」と「職場におけるいじめ」)のあいだの繋がりが明解に説明されている。
 まずスミス氏の講演(本冊子第一部「感情労働とケアの技法—─証拠は何か?」)では、職場において、看護師が恐れや不安や絶望といった「不適切な感情」を面に出してしまうことが、病院や介護施設などの組織が提供するケアの質に否定的な影響を及ぼすことが論じられた。すなわち、「不適切な感情の表出が常態となっているケア・ホームや病院においては、看護師は患者にたいして感情的に献身的になれないし、その結果、患者の方も恐れや不安や絶望など、同様の感情を経験することになりやすい」のだが、この点に、カウイ氏の講演(本冊子第一部「職場におけるいじめについて」)が論じたいじめの問題との繋がりがある。つまり職場に適切な風土あるいは文化がない場合、本来は容認されるべきではない振る舞いであるいじめが起きやすくなるが、いじめは結局のところ不適切な感情の表出を招く。その結果、スミス氏も述べたように、組織が提供するケアの質も低くなる。こうした問題を解決するための方策として、個々のスタッフに他者の感情を尊重することを教える訓練や、組織レヴェルでもトラブルが起きた際の適切な介入のシステムを作ることなどの必要性が説かれている。これらの方策について、より詳しい分析は、本冊子収録のカウイ氏の講演に詳しい。
 4節の「看護師の視点(Practitioners' perspective)」と、5節の「日本の日常に触れた印象(Impressions from participation in life in Japan)」では、ケアの質を高めるための介護者の工夫や技術の問題が扱われている。
まず「看護師の視点」では、医療従事者のあいだで文脈に応じてさまざまに異なるタイプの感情労働が実践され、また重視されていることを明らかにした近年の研究が紹介されている。なかでも、Adamsと Eyers の共同研究が「感情労働の道具(emotion labour tools)」という概念を用いて説明した特別なタイプの感情労働が、詳しく取り上げられている。Adams と Eyers によれば、介護者や看護師が質の高いケアを提供するためには、ときに、自己の感情から自己を切り離す(detach)ことが有効であるという。たとえば、排泄物や分泌物などに催されうる嫌悪感や不快感といった感情を介護者が切り離すことによって、トイレや着替えといった、被介護者にとってだけでなく、介護者にとっても気まずくなりがちな状況に対処する。著者は、こうした「感情労働の道具」を用いることがひいては高齢者の尊厳を守ることにも繋がるだろうと述べている。
 続く「日本の日常に触れた印象」の最初に触れられている「高齢者の排泄ケア振興のためのクリニック(a Kyoto clinic for the promotion of older people's continence)」とは、8月1日に著者が揃って見学した排泄ケアに関する情報館「むつき庵」のことである(「むつき庵」と、見学した際の状況については、本冊子第二部を参照されたい)。「むつき庵」の代表である浜田きよ子さんが、「高齢者が怒っていたりいらいらしていたりするのは、おむつの状態が不快であることに原因があることもある」と話して下さったことが、スミス氏とカウイ氏には特別に印象深かったようである。この話については、本冊子第二部の冒頭でもカウイ氏が触れているが、この節では、著者がそのときのコメントの内容をさらに発展・展開させていることが窺える。本稿では、この論点は、とくに上述のAdams と Eyers の研究成果と関連づけて考察されている。すなわち、Adams と Eyers の考えるような「感情労働の道具」による人的なケアと、「むつき庵」に展示されているような「美しいデザインの(beautifully designed)」排泄用具を利用した技術な対処とが、相補的に活用されるべきことが述べられている。
 最終節「考察」では、本企画の議論のなかで挙げられた論点や、課題などが確認されている。「ケアする能力を看護師の専門性として捉えることは妥当か」という安部の論点(コメント2)、「感情労働は本当に労働者のアイデンティティの混乱を招くのか」という有馬の疑問(コメント3)、「どのようにすればケアや敬意や共感の文化を現場において実現することができるか」という西川氏や的場氏の問い(コメント1、コメント4)、「我々の感情をコントロールしているのは社会である」ことや、その善し悪しを問題視した天田氏の問題意識(コメント5)など、指定質問者が指摘したケアと感情労働をめぐる実にさまざまな論点を、著者が今後の課題として受け止めていることが窺われる。

◆編者註
(1)スミス氏とカウイ氏からの寄稿および掲載にさいして、サリー大学に寄留中の崎山治男氏にいろいろご尽力をいただいた。記して感謝したい。
(2)これについては、本冊子収録の有馬論文「感情労働としての看護、ケア倫理の実践としての看護」にも、かんたんな紹介があるので、そちらを参照されたい。
(3)これについては本冊子第一部の「質疑応答」等を参照のこと。

安部 彰有馬 斉 20090319 「「立命館大学における感情労働の研究会から得た印象と感想」解題」 安部 彰有馬 斉 『ケアと感情労働——異なる学知の交流から考える』,立命館大学生存学研究センター,生存学研究センター報告8,pp.141-144.