Ⅱ 研究交流会「異なる学知のポリフォニー」

パム・スミス×ヘレン・カウイ×大谷 いづみ×三井 さよ×崎山 治男×有馬 斉×安部 彰

国際研究交流企画と施設訪問を振り返って

 崎山:本日はどうもお集まりいただいて、ありがとうございました。今日は、昨日のような大人数というかたちではなく、少人数で、昨日のご講演あるいはご自身の研究を踏まえ、特にイギリスのご事情などについて自由に意見交換ができればと思っています。
 通訳については昨日と同様、有馬さんにお願いする感じになるかと思います。有馬さん、よろしくお願いします。では最初に、昨日のミーティングの印象をカウイ先生とスミス先生からお伺いできればと思います。

 カウイ:昨日のディスカッションで特に面白かったのは、一つには、西川先生が言われたことだと思うのですが、感情というのはどこにあるものなのか、どこで起こるものなのかということです。感情は人の内面で起こるものと普通は思われがちだけれど、実は人と人との関係のなかで起こってくる。またどういう場所に人がいるかということと切り離して捉えることはできない。天田先生も言っておられたことですが、感情というのは結局、社会のありようによって変化してくる。社会がコントロールしているような部分もある。そういう論点がすごく面白かった。
 もう一つ。昨日のディスカッションのなかで面白かったのは、感情というのは自然な感情なのか、本当の/真実の感情なのか、そういう質問が出てきたことです。人が経験する感情、表出する感情は、どういう職業に就いているかによって変わってくる。そんなふうに、職業によって変わってくる感情というのは本当に自然なのか、本物なのか。そういう論点が興味深かったです。
 さらにもう一つ。今日午前中に、むつき庵というところへ行って──ここはいろんな100種類ぐらいのおむつがいっぱい出てくるところなんですけど──話を聞いたときに面白かったことは、じっさいここでは、おむつをめぐって怒ったり、いらいらしたりする患者さんが多いということでした。つまり患者さんの感情の原因というのを探らなければいけないという話が昨日のディスカッションでも出てましたが、それの一つの理由として、おむつの状態がよくないからというのがありえるんじゃないかということでした。おむつが蒸れているとか、気持ちが悪いとか、トイレに行きたくても行けないとか。そういうことのために、病院のなかを徘徊したり、怒りっぽくなったり、いらいらしている人がいる。そういったお話を聞いて、人と人とのかかわりだけではなく、そういうもっと物理的な条件が人の感情をコントロールしている側面があることをあらためて確認しました。
 最後に、日本でもたくさんの研究の蓄積があると思うのですが、日本語のものは読むことができないので、いずれ英語に翻訳されて、ヨーロッパやどこかで出版されれば嬉しいです。

社会による感情の統御はどこまで許されるか

 スミス:感情というのは社会が統御するという話について、「社会が制御することはいいことなのか、悪いことなのか」という質問が出たら、どんな社会を考えたって必ず個人の感情というのはある程度は制御されている、それは現実としてそうだといわざるをえない。そういったことがない、個人の感情が社会によって制御されないような社会というのは考えられない。まず現実としてはたしかにそのとおりなのだと思います。
けれども、その個人の感情を社会がどこまで制御するべきか。あまり制御しすぎるというのはよくないんじゃないか。それとも、それはそれでいいんじゃないか。そういうところは考えられるべき問題として残ります。たとえば社会の制御があまりに強いと、個人が自分の感情を押しこめければならない、抑えなければならない。そういうことが起こったときにどうするかという問題があると思います。

 崎山:おっしゃられたように、感情をマネジメントすることの評価といったものは、かなり複雑に考えなければならない。まったく感情がコントロールされない社会というのは想像できないけれども、その一方で、逆にケアをするうえで感情といったものをどこまで/いかにマネジメントするかという問題も、やはり重要であることは間違いない。そのあたりのことをどう考えるべきかは、たしかに大きな問題だと思います。

感情/ケアへのアプローチはひとつではないし、そうあるべきでもない

 スミス:感情労働について、昨日のディスカッションでのポイントをいくつか挙げてみたいと思います。
まず感情労働という概念は、定義あるいは枠組みとして実際にさまざまな現場で生じている感情について理解し、組織によるそのマネジメントをいかに構築していくか考えるうえで役に立つ。ただ定義や枠組みとして非常に役に立つものだと思うけれども、考えるべきことがらは、もっと細かくあるだろう。そこから発する問題意識というものがあります。
 それから、これはカウイ先生の報告からちょっと面白いなと思ったところを一つ挙げれば、感情には肯定的な感情と否定的な感情というのがあるということです。職場でのいじめについての研究ということで、否定的な感情に特に焦点が当てられているのが面白かったです。職場でのいじめについての研究は、感情社会学や社会学の伝統のなかで論じられようとしているところがあって、その意味では現場の問題である。今後、いじめの問題についての研究と感情社会学や伝統的な社会学とのあいだの対話が進んでいくのではないかという予感があり、大変興味深かったです。
 もう一つ。別の論点で昨日面白かったと思ったのは、自然なケアというものとプロフェッショナルなケアというものの対比に焦点が当たっていたことです。自然にケアするだけではなく、ケアする義務というのが出てくる社会で、家族にたいするケアが一方で義務として感じられることがあるし、病院のようなシチュエーションのなかでは、専門職としてプロフェッショナルのケアの義務といったものがある。そのような場合に、自然なケアとプロフェッショナルなケアはいったいどういう関係にあるのかということを考えるのも面白いかもしれない。
 さらにもう一つは、今日の朝、むつき庵へ行ったのがやはり印象に残りました。むつき庵で特に面白かったのは、高齢者の人にたいする介護の問題です。そこでは、高齢者の人たちのなかでも特にトイレへ行くのが困難な人たちを対象にしているわけですが、そういう人たちというのは偏見を受けていたり、周縁化されていたりする。そういう状況にあって、けれどもむつき庵の人たちの取っていたアプローチというのは、すごくポジティブなアプローチでした。そのアプローチの興味深い点を考えると、それは社会的なアプローチと呼んでいいんじゃないかと思います。これまでの私の研究は、いわばプロフェッショナルなアプローチとでもいうべきものでした。つまり専門職としてどういう技術を学習していけばそういう人たちにどういうケアを与えることができるか、そういう仕方で見てきたわけです。けれども、むつき庵の人たちがやっているのは、そういうアプローチとは少し違う。もうちょっと新しいアプローチだったと思います。
 カウイ先生が最後に一言つけ加えておられたように、むつき庵の人たちの話で面白かったのは「技術」のことです。別の意味の技術ですけど、たとえばおむつです。本当にいろんなおむつがつくられていて、いろんな会社の人たちがアイデアを出しあって、どんどんいろんなおむつが出てくる。それから、ポータブルトイレもありました。動いて、どこでも使えるトイレがあった。そういった技術の開発みたいなことともケアはかかわってくる。そういう社会的アプローチというのもあるわけで、とても興味深かったです。
 最後になりましたが、やっぱり私も、日本の研究が海外でもっと発表される機会があれば嬉しいですね。

感情管理じたいは善悪の彼岸にある

 安部:では僕からいいですか。ちょっと散漫ですけど、お話を聞いて思ったことを。
 まず、感情って自然なのかというのがあります。たしかに、怒ったり、喜んだりといった基本的感情のようなものは、人間も動物としてというか、それはたぶんあって。ただ「怒り」とか「喜び」っていうのは、感情の表出になるわけですよね。そうなると、表出がどういうふうに意味づけられるかというか、それは文脈によって変わるわけじゃないですか。たとえば涙を流す。すると「ああ悲しいんだ、嬉しいんだ、悔しいんだ」とか。いろいろあるけど、その文脈による。たとえば、生まれたての赤ちゃんが「おぎゃあ」と泣いている。あれを誰も悲しいとは思わないですよね。でも嬉しいというのとも違うような気がする。ではあれはいったい何なのだろう、なんてことを素朴に思ったりします。ともあれ何をいいたいのかというと、有馬さんとも以前話したことですが、そもそも「自然」な感情って何なのかというところが、まずはよくわからないなと思うわけです。
 次に、感情を管理、つまりマネジメントできるということは、要するに対象化できるということですよね。ということは、感情というと、ふつうはそのままならなさ、その制御不可能性が強調されるわけだけれども、そんなふうに対象化、つまり操作もできるわけです。かつマネジメントするうえで、やはりホクシールドの話ですが、ルールやコードみたいなものがあって、それに即してマネジメントすらできる。
ところで、こうした感情管理は誰もが/どこの社会でもやっているというとき、それを社会的なものといってはよいだろう。関係のなかで生じるものというか。そしてその意味では、対人コミュニケーションにおける感情管理という実践それ自体については、おそらく批判も肯定もないのだと思います。つまり価値的にはニュートラルなはずだといえるのではないかと思います。そうでないと畢竟、人と人とが関係すること、相互作用それ自体が良い/悪いという、なんだかおかしなことにもなるので。

誰にとっての良し悪しかが問題

 安部:けれども、そのうえでスミス先生もカウイ先生もおっしゃっているように、いい感情、悪い感情みたいなものがあるとは思います。もちろん感情の良し悪しをいうとき、そこにはすでにある種の価値づけがはいりこんでいるわけですが。だから重要な点はやはり、それがいったい誰にとっての良し悪しなのか、あるいはその評価を誰がするのかということです。本人なのか社会なのか。社会だと大きいので、自分が身を置いている集団、関係者にしましょうか。ただ、その場合も、たとえば感情を抑えることが周囲にとってはプラスかもしれないけど、本人にとってはすごくつらいことだとしたときに、それは良くない。そんなふうに、相反したりも当然するわけです。そのとき、じゃあ何のために感情を管理するのかという話になってくると、単純に考えるとやっぱり関係のため、関係の秩序というか、その集団や場の維持のためにやるわけですよね。それを目的として。
 この場合、これは天田先生が昨日おっしゃっていたことだと思うのですが、たとえば、しんどい仕事をしていて、同僚同士でお互いにケアしあって「何とか頑張ろうよ」「大変だけど頑張ろうね」という感じでやっていくことで、その場はなんとか丸く収まるかもしれない、うまくいくかもしれない。そのこと自体は、僕も悪いことではないと思います。けれども結局、ハード・ワークで働かなければならないという状況は何ら変わらない。それによってむしろ、その状況が不可視化することさえある。要するに、やはりそういう個々の関係というのも、それが置かれている社会的なというか、もっとマクロな場所/位置というものと同時にみていかないといけないというのが、昨日の天田先生のお話のひとつのポイントだったと思います。僕もそう思います。
 ていうか、ちょっとどころじゃないですね。かなり散漫でしたね。すいません(笑)。

自然/社会の線引きは可能か

 カウイ:はじめに安部さんがおっしゃった基本的感情みたいなことについては、たぶんダーウィンなどが、喜びとか怒り、嫌悪感とか悲しみといったものを挙げています。そういうのは、もしかしたらはっきりと定義することができるのかもしれません。悪いことをされたら泣くというのも、ある状況においてはもう感じずにはいられないような感情というものを、おそらく基本的な感情として定義できるのではないでしょうか。そのうえで赤ちゃんなども成長にするにしたがって、徐々にいろんな感情というのを学習していく。だから、そこのところのプロセスというのは、ある程度、線引きできるのではないでしょうか。

 安部:そこまでいれて自然ということなのかな。

 有馬:そうでしょうね。でも、そこが気になるところですよね。

 安部:僕はだから、「自然」をどういう意味で使っているのかなと。人間という種だったら誰しもがもっているもの、つまり普遍的性向みたいな意味でしょうか。つまり、僕は人間がべつに社会化されなくても持っているものが「自然」だ、というふうに一応理解して話をしているんですけど。

 有馬:そうですよね。ちょっとそれ、聞いてみますね。

 安部:それはまあいいですよ。うん、そこまではわかりました。

 カウイ:もう一つ。社会化された感情の例としては、たとえば昨日西川先生が挙げていた例などは、まさにそのものではないでしょうか。自分の上司に笑われたときに、「助けてくれと訴えているのに、笑うなんてどういうことなんだ」という感情を出すのではなくて、こっちも「へらへら笑い」というか、そういうへつらうような笑い方をしてしまう。こういうのは感情のコントロールでしょう。もちろん社会がうまくいくためには、感情というものはある程度、みんながコントロールしていかなければならないという側面もあるので難しい問題ではありますが。

 スミス:ダーウィン、ゴフマン、フロイトにはいろいろ理論的な話もあるので、そのへんを読んでいったらこのあたりは理論的にもっと面白い話があるかもしれません。
 それで一つ面白い例を挙げましょう。ホクシールドが9.11のテロのあと、どこだったかでメッセージを出したのですけれど。そこで言っていたのは、アメリカのメディアがいかに人々の感情をmanipulateしたかという……。

 安部:うん。怒りのほうに喚起したわけですね。

 スミス:そう、いかに怒りの方へ喚起していったか。これはもう明らかに悪い例として挙げることができるのではないでしょうか。
 もう一つ。ダイアナ妃のときもトニー・ブレアが事件のあとで自分の意見を表明したりするときは、なんだかいかにも政治家としてコントロールされた感情が出ているような気がしました。メディアも、その取りあげかたが人々の感情をあおる方向に、ちょっと偏った感情を出すようにやっていたところがあるんじゃないかと思います。

理性から感情へ

 安部:僕は一応、哲学的な立場としてはというか、好みとしてはというか、アンチ合理主義なので。あくまで一応です。合理主義が嫌いとかではなくて(笑)。理性より感情を重視するような流れといいますか。さかのぼれば、ヒュームとかスミスとか。最近だったら、たとえばレヴィナスとかケア倫理とかですかね。
 ともあれ、あえて理性より感情といいますか、そういう流れに与してものを考えているところがあります。いまお話にあったメディアによる感情操作とかもそうですが、要するに「けっこう人は感情でいろいろ喚起されるじゃない」というか、「そこで何か動いてしまうみたいなことが多々あるんじゃないか」と思うわけです。そういう意味では、やはりそもそも人間って不合理なのかもしれない。どちらかといえば僕は、人間というものをそういうふうにみています。だから、そんなに理性的な、近代の哲学が想定するようないわば立派な人というか、もちろん僕らにはそういう側面もたしかにあるんだけど、そんな人を前提にした社会理論の構想はちょっと考えにくいなと個人的には思ったりしています。

 有馬:そういうところに関心があるということですよね。

 安部:ですね。ただそのときに、じゃあ感情の「そもそも論」みたいなところにいくのかという話になってくると、僕自身はちょっと違うかなとも思うわけです。
たしかにそんなことを思ったこともあったというか、たとえば博士論文にも文献を挙げたのですが、エヴァンズ(Dylan Evans)という人がEmotion: A Very Short Introduction(邦訳:遠藤利彦訳『感情』岩波書店、2005年)というのをOxford University Pressから出しています。簡単な「感情科学の現在」の紹介みたいな本なんですけど。そこに基本的感情の話も出てきて、それはそうなんだろうとは思うんです。それで、その本に書いてあるわけではないのですが、それを読んで思うに、基本的な感情として、まずいくつかがある。そこからいろんな成長のプロセスを経て、たとえば人に共感するようになったり、痛い思いをしている人をみたら自分もそんな気持ちになって。それでそこから、痛いこと、人に痛みを与えるのはやめよう……というような、すごく乱暴にいってしまえば素朴なお話というか。そして「そのプロセスじたいも人間の自然なんだぜ」というようなお話といいますか。
 だけど自然っていうけど、それが本当に自然なものとしてあったらね、と思うわけですよ。「じゃあ何で、こんなふうになっちゃってるの、世の中?」と(笑)。つまりみんなが自然にそういう感情をもっているのであれば、要は「自然な」共感を「自然に」できるのであれば、みんなもっとわかりえてるはずじゃないの、でも現実はそうじゃないよね、と。まあこの返しじたいもかなり素朴なんですが、思うわけで。
 そういうわけで、基本的な感情や、基本的に人間は共感能力をもっているというようなところをいくら科学的な見地で裏づけても、というかそっちの方向に向かっても少なくとも僕自身にとってはあまり意味がないかなと。「ほらね、科学で人間をちゃんと客観的に調べたらこうなっているのだ。そもそもそういうデバイスがあるのだ」ということをいわれても、何かそっちにもちょっと乗れないというか。もちろんそれはそれで重要だとは思うんですけど。

情動と/の政治

 カウイ:人間が基本的に合理的な存在ではないんじゃないかというのは、たぶんそのとおりだと思います。そのうえで、そこからどういうことが問題となるのか。これから議論していきたいことが何かあるのでしょうか。

 安部:そうなんですよね。僕自身、これからどう進んでいこうかなというのが正直ありまして。
たとえば感情より、もっと基底的なものとしての情動に注目する流れが最近ありますよね。権力とかも、簡単にいうと、昔は理性に訴えかけて人間を動かしていたのが、行動を駆動するより根源的な契機、つまり情動にダイレクトにはたらきかけるようになってきている。たとえば現代思想などで、そういう話が出てきつつある。
この議論の面白いところは、そういういわば新手の権力を社会統制のさいに採用する、そちらのほうが社会秩序を円滑に保てるなら、ある種の政治的な観点からすれば、そう悪くない話だといえること。あるいは場合によっては管理される当事者の観点からしても、別にそんなに悪くないんじゃないのともいえたりするところです。
 でもそれには「人間はでも、動物じゃないぜ」といった感じで、合理主義者たちは反発するわけですよ。たとえば理性なるものを守りたい人たちというのは。その立場性というか、それはまあ別にどうでもいいんですが、要は何についてどういうふうに考えるかが、ポイントになってくるわけです。
つまり社会の秩序維持が目的というか、みんながそこそこうまく回っている、社会がうまくまわっているということが大事であれば、僕は一応ローティ的というか、プラグマティックにものを考えるのもありかなとは思うんです。いや、僕自身がそう考えているかどうかは別として、一応そういう立場でいくと、そんなふうにある種うまくいく方がいいんじゃないか、といいますか。もちろんそれは何を目的とするかによりますが、ただそれはそれとして、いわゆる倫理的な問題というのとまた別の位相の話として考えることもできるかなと思ったりもするわけです。
 というふうに、なんだかまたいろいろいいましたが、いずれにせよ「残酷さの回避(avoiding cruelty)」を掲げるローティの「正義」論にあえて乗ったうえで、crueltyをいかにして減らしていくことができるか、そのさいローティがいうように共感でどこまでいけるかについて、もっと突っこんで考えていきたいというのが、僕の現状でしょうか。
 ただつけ加えておくと、ローティは、共感はhuman natureだとはいわないんです。

 有馬:そう言っていましたね。でもそれは、human natureとしてshareしているんじゃないけど、たぶん共有されているだろうということなんですか。

 安部:human natureといったときは、ア・プリオリということですよね。そうではないといってるんです。

 有馬:でも、おそらく共有されているだろう。現実にはということですか。

 安部:うん。多くの人が残酷なふるまいを避けているところをみると、おそらく共感しているのだろうと。そういう感じですね。

共感の両義性

 カウイ:残酷さの回避というのは、つまり共感能力をうまく使えば、みんなが共有している共感が残酷さを回避するために有効なんじゃないかということでしょうか。
 それを聞いてちょっと思ったのですが、もしかしてそれは逆のことも言えるんじゃないでしょうか。自分の感情をうまくコントロールできない子どもは、実はいじめの対象になりやすいんですね。すぐに興奮したり、狼狽したり、そういう子どもはターゲットにされやすい。だから、そういう子どもたちに自分の感情をうまくコントロールできるように仕向けてやることが、その子が残酷な目にあう可能性を低くするのにかえって役立つ。
 そういうふうに考えると、みんながもともと共有している自然な感情よりは、うまく感情をコントロールすることができるようになることのほうが、実は残酷さを回避するのに役立つ。そういうこともありえるかもしれません。

 安部:そうなんです。共感というのは、あたりまえですけど両義的なもので。だから、それを残酷さの回避のほうに役立てようと思うと、ある種の仕掛けが必要で。それで僕は、博士論文でローティにおけるそれが何なのかについて考えてみました。
ローティは「他者の受苦への共感」や「他者との細部の類似性への共感」というわけですよ。簡単にいうと、みんな痛いのは嫌だよね、わかるよね、と。あとイデオロギー的な違いがあっても、親を大切にしていたりだとか、趣味や地元、実は共通の知人がいたりといったところで人と人はつながれる。むしろそういう小さなところに目を向けようじゃないか。大きいところというか、決定的に自他をわかつメルクマールと思われている信仰とか民族とか、そっちではなくて。そしてそのためには、自己の抱いている信念や価値の偶然性を認めること、すなわち彼のいう「アイロニー(irony)」というのが必要だと彼は考えていると僕はローティを読みました。つまり「他者の受苦への共感を拡張するためにはアイロニーというものを媒介させる必要がある」との解釈にもとづいて博士論文を書きました。ともあれ話を戻せば、一般的に共感というのは両義的なものだというのはたしかです。川本隆史さんなんかも、ローティの議論はそこが危ういと指摘しておられます。

 有馬:両義的というのは?

 安部:受苦、つまり僕らは苦しんでいる人だけに共感するわけじゃないですよね、という意味です。それこそだから、さっきの9.11の話がありましたけど、僕らは怒りにも共感するわけですよね。

 有馬:ああ、なるほど。

 崎山:つまり、おそらく重要なことというのは、感情が今日どういうふうに社会的に用いられているのかということについて、やっぱり考える必要があるということ。もう一つには、近年のように理性というようなところから諸科学が抜け出してきて、感情といったものを土台にしながら人間像を描こうとした際に、人間の尊厳であるとかケアといったものが、果たしてどこまで人間の本質と言えるのかどうかといったこと。この二点かと思うんです。
 それぞれを敷衍すると、第一に、感情をコントロールするということがよいことであって、特に感情労働を素晴らしく高めていけばいいというのは、たしかにそれはそのとおりなんだろうけれども、もう一方では、うまく感情をコントロールできない人が排除されたり、いじめの対象になってしまうといったことがあるだろう。この問題について、どう考えるかということ。
 第二に、1990年代ぐらいから哲学だとか社会哲学、あるいは社会学等で、ケアだとか感情といったものをベースとしながら人間像を構築してきたんだけれども、それでどこまでうまくいけるかどうかを考える必要があるだろうということ。この点については特に大谷先生と三井先生に、おうかがいしたいところです。

ケアの中核は感情なのか

 三井:二点目って何でしたっけ。最近のケアリングのこととエモーションが。

 崎山:感情だとかケアというものを中心にして人間像を打ち立てようとしているんだけども、それがどこまで成功しているか。
 三井:でも、私は感情を中心に人間像を打ち立てようとしているとはあまり思わないのですが。

 崎山:ケアリング、ケアといったものを人の本質だというふうに。

 三井:care ethicsだと、そう言うかもしれません。

 崎山:特にケア倫理というふうなところから、人間の本質というものはケアする存在だととらえて人間像を打ち立てるというふうな試みが近年なされていますが、その点について三井さんは、どう考えていらっしゃいますか。

 三井:さっきから全体に話がわかりきっていないところが、たぶんあるんだろうと思うんですけど。
 エモーションを中心にした人間像をつくろうとされていると、私はたぶんあまり思っていないんだと思います。ケアリングはたくさんのファクターからなっていますよね。エモーションだけではなくてmaterialやphysicalなど、いっぱいあります。だから、エモーションがそんなに中心だとは、あまり思っていないですね。
 ただ議論のレベルで、最近の理論がみんなそういうことを言っているというのは、わからなくもないように思います。認知症の方のケアに関しても、エモーションが議論の中心になるということはあるのかもしれません。ただそれは、理論というか、本での啓蒙のレベルであって、実際の実践現場のレベルでは全然そんなことはないという認識があります。
 むしろ、逆にだから理論のレベルで、どっとエモーション、エモーションと言っていることについて、いま現場のレベルから批判がいっぱい出ていると認識しています。だから何て言うか、理論家たちが変なことを言っているだけであって、というふうに思ってます。ちょっと私が偏っているのかもしれないけれども。はい。

向きあうことがケアというわけではない

 安部:批判というのは、どういうことですか。「ケアって感情だけじゃないよね」という感じですか。

 三井:そうですね、はい。

 安部:たとえば具体的には、どういう感じなんでしょうか。要は、いまおっしゃったみたいに「ケアにはいろんなファクターがあるんだよ、まとめてひとつなんだよ」みたいなことですか。

 三井:はい。例えば特養に行ったときに、そこの人に、個別性なんかどうでもいいのよと言われました。いや、私のいままでの研究を全部否定された感じですけど、そう言われて。1対1で向き合って人間を見るもんじゃないんだよと。そんなことでは生活はまわらない。雑踏ケアという言い方もありますけど、1対1で人間を、1対1でその人の気持ちにかかわるみたいなことをやればやるほど、事態はこじれる。息が詰まるし、ケアワーカーも結局いたたまれなくなってしまうんですね。現場は違うんだよ、そんなふうにはまわらないんだよ、と言われました。
 それよりは、今日行った町家のところでもそうですけど、みんなで何となく庭を見て、何となくしゃべっている。このことが大切なんだと言われました。これはもうエモーションとかと言っている感じではないですよね。何かもっとふんわりした何かですよね。atmosphereとすら言いたくないような、そんなようなものが大事だと。環境が大事だという言い方がけっこう出てきているんですけど、ただそれも、もうすでにやっぱり現場のなかでは批判もあって、環境、環境とばっかり言うな、という言い方もされていますしね。ケアを考える鍵は、現場レベルでは、すごくいっぱいあるんだと思うんですよね。
 ただ認知症に関してはエモーションのことがすごく取り上げられたことが大きな意味を持っていました。それによってはじめて、認知症にたいするケアリングの可能性が生まれたというふうに認識されたから、そのことがどうしても取り上げられがちなんだと思いますが。

「感情労働」という言葉/概念が切り拓いたもの

 三井:理論はどう現場を理解するのに使えるか。たとえば、emotional labourという言葉は、たしかに看護職にとって、とても重要なコンセプトだったんです。それは、本当にそうでした。私はたくさんのナースから、emotional labourという言葉を知って、これは私のことだとか、やっと言葉にしてくれたというふうに、すごく思いを込めて言われたことが何回もありますから。
 ただ、それはすごく私にとっては、ずっと謎だったんですけれども、本当を言うと。なぜかなと思っていました。その謎を解くためには、私はエモーションという言葉が指しているのは、抑えられない、“I can't stand it.”と感じるとか、“I cannot control it.”と感じるような瞬間のことじゃないか、日本語で言うなら、「感情」という言葉が示しているのはそういうことではないかと考えたんです。
 そういう瞬間がいっぱいケアリングの現場になかにあるということを、emotional labourという言葉が、ぴっと指したんだと思うんですよね。そのことによってケアワーカーたちは、自分たちがどれだけ自分をコントロールできないと思う瞬間があるのかを感じるのだし、自分が人を相手にしてやっている仕事なのだということを、その瞬間に直感で理解するんだと思うんです。
 だから、理論が役に立たないとはまったく思わなくて、それは現場にいる実践家たちが自分がやっていることをすぱんと理解するのに、すごく大事な道具だと思います。
 私は、看護職がemotional labourだというふうに言う事例は、だいたい二つに分けられると思っています。一つは患者が怒っていて、自分も怒りを抑えるとき。これが一つで、ただもう一つあって、ターミナルケアとかで患者が亡くなるというときに、悲しいときもあるし、怒っているときもあるし、ときには喜んでいるときもある。やっぱりありますよね、それはね。喜んでいるときもある。よく生きた、「いい最期だったね」と思うときもある。
 いろんな、いろんな思いが出てくるターミナルケアのときにも、感情労働だと看護職は強く感じている。ただ、そのときに問題になるのは、フィーリング・ルールに合わせて自分の感情を抑えるという話というのはないと思うんですよね。少なくとも、そうとは限らないと思って。それで、さっきのような言い方をしました。看護職は、ルールに合わせて同じような顔を保つことを大事にしているんじゃないと思ったんです。
 つまり、いろんな、わあっと感じる感情があって、このことを言いたくて、私はこんなにいっぱい感じるということを言いたくて、看護職の多くがemotional labourという言葉に飛びついたと理解をしたんです。emotional labourという言葉が、それを本当に直截に示したのでしょう。そう思うと、やっぱり理論はすごい力を持っていると思います。

「感情労働」の外部/他者

 大谷:ターミナルのときにルールに合わせてというところを、もうちょっと詳しくいっていただけます?

 三井:ルールに合わせてコントロールすることが大事な話として看護職は話すわけではないと思うんです。確かにそういうふうにも言いますけど。でも私は、そこが大事で看護職は語っているのではないと理解をしたんです。そうではなくて、亡くなってしまうことに対して、すごく動揺してしまうという、この自分と、どうつきあっていくかということを考えているのであって。ある一定のフィーリング・ルールに合わせた行動をその場でしなくてはならないということを中心に考えているわけではないように思います。

 有馬:ということはつまり言ってしまえば、もともとの感情労働の定義とは、ずれた感じで受け止められているということですか。

 三井:私はそう受け止めています。それはむしろ、感情労働という概念を看護の話に持ち込んだパムさんが、本当は言いたかったことのように思うし。だったらホクシールドの定義に拘泥する必要はないんじゃないかと思って。
 でも、感情労働の定義から完全にずれているわけでも、たぶんないと思うんですよね。怒ったり、悲しんだりするのも、そういう仕事だからでもあるから。決して懸け離れているとも思っていません。

 有馬:そうなんですよね。どういう状況のときに悲しむかというのは、その状況で特にすごくコントロールしているという意識がなければ、感情労働ではないというわけでもない気がするんですよね。

 三井:ないと思います。はい。

 有馬:あれ〔『感情労働としての看護』第6章「病院で死ぬこと」〕を読んでいた感じでは、そうですよね。

 三井:亡くなる方を見たときに、それはやはりナースとして亡くなられる方を見るわけですから、そのときに抱く悲しみというのは、それはやっぱり、raw feelingとは違うはずなので、そこ自体は感情労働だとは思うんですけど。

 有馬:なるほど、なるほど。

 三井:フィーリング・ルールにこだわりすぎては、とらえきれないかなと言いたいだけです。あ、でも、ちょっと何かよけいな話をしていますね。ごめんなさい。

 有馬:いや、何かちょっと面白くなってきた。

 安部:そうなんですよね。そのへんというのはだから、ターミナルケアの話なんかは逆にというか、とてもわかりやすくて。昨日まさに有馬さんが「看護職の感情労働のキャラクターって、特異性って何なんだ」といってましたけど、つまりそういう意味ではティピカルにあるわけじゃないですか。となると、じゃあ、たとえばフライト・アテンダントとかの話というのは、やっぱり位相が違うんだよな、ターミナルケアとかと比べると、と思うわけです。
 そうだし、たとえば便所掃除の人とかの感情労働というのが僕はあると思っていて。便所掃除って嫌じゃないですか。嫌っていうか、そんなふうに強力に感情が揺さぶられるというのは、やっぱりとてもベーシックなというか、有馬さんが生理的な嫌悪感という話をされていましたけ、そういった生理的なといわれるところのものがやっぱり関係するのかなと、ちょっと思ったりしたんですけど。有馬さん、どうですか。どう思われますか。

 有馬:感情労働の定義が、ということですか。

 安部:ううん。いま僕がいったようなことにかんして。そういう何か、強烈な感情の源泉みたいなものというと変だけど。違うとはいえそうですよね。

 有馬:職業的な場面で感じる感情と、ほかの場面で感じる感情は、ですか。

 安部:うん。強度といったらいいのかな。やっぱり人が死ぬとか死にかけているとか、そのときの感情と、それをどう統御するかということ。もちろん個人差はあるでしょうけど、一般的に難しい面がありますよね。

 三井:理論としての感情労働のすごさは、全部を理解するんじゃなくて、大事なポイントがどこかを理解する上でものすごく役に立つ。

 カウイ:実際には、たぶん看護師というのはターミナルの患者を見たときに、必ずしもそう強い感情を覚えるわけではないというのは、自身の経験からいっても、そう思います。私は昨年、母を亡くしました。そのときも、もちろん私はすごく悲しかったけれども、そこに居合わせた看護師たちを見ていたら、特にそんなにすごく強い感情を感じているようには見えませんでした。看護師の仕事ということを考えたときに、強い感情を覚えることというのは、その仕事にとって必要不可欠な要素かというと、そうでもないかもしれないなということですね。

 三井:カウイさんはdeep emotionがケアリングの、ナースの中心にあると言ってしまっていいのかと言っているんですよね。そうですね。たしかに、それはそうかもしれません。

 有馬:うん。三井先生がさっき言っていたように、看護師がターミナルの患者さんを見たときに、悲しみとか怒りとか、すごく強い感情をもつという話にたいして、答えておられるのだと思います。

 三井:そうですね。家族のほうが、感情はよっぽど強いという。たしかに、それはそうですね。

 大谷:それだけではないと。

 三井:そうですね。それだけではない。たぶん私は、他の感情労働と比較しているんだと思うんですね。だから、たしかに必要不可欠な要素かどうかはわからない。おっしゃるとおりです。

 大谷:それは最初の、現場はもっといろいろなものがあって、どれか一つにフレームが当たると、何かこう、それだけかというと、現場はもっといろいろあるのよという話に戻るというか、つながるんですよね。

 三井:個人的な関係のところに触れていると言っているんですね。そうですね。でも、パーソナルな関係とプロフェッショナルの関係というのが、どこまで明確に切り離せるものなのかは、わからないところもありますよね。personal relationshipとnurse-patient relationshipは入り混じっているともいえるのかもしれません。

「よい死」を教えることへの懐疑

 大谷:ここまでお話伺ってきて、二つのことを感じています。
私は教育現場でいわば返り血浴びるような毎日を長く過ごしてきたんですが、教育の場合も、教育現場で起きていることについて、何か一つに焦点を当てて理論化されると、それがすべての問題を説明したり、解決できるかのような言説が流行のように広まることがしばしばあります。マジックワードみたいになるんですね。で、それが形式化していくというか、あるいは一つの規範になるというような状況が起きます。でも、現場にいるとそれは違うよな、その概念で、あるいはその理論で、ある部分は説明できるかもしれないけど、でもそれだけではないな、とか、何かもっと違うものがあるという感じはずっと受けていたので、三井さんが話された現場の声というのは、すごくよくわかるんですね。
 そういう意味で、パム・スミスさんの『感情労働としての看護』を読むと、私、いま、「尊厳死」言説の編成史とか生命倫理学の導入史とかを研究テーマにしながら教員養成にもかかわっているんですが、たぶんこの感情労働というのを教育の場面や教員養成に当てはめても、ひょっとしたら受けるかもしれないという感じはあるんですね。
 他方で、教員養成において感情管理を規範化して教えるということに対しては、やはり危惧があるんです。危惧というか、懐疑というかね。それでこぼれ落ちてしまうものがたくさんある。それは例えば、先ほど出てきた感情のコントロールが「適切に」できない子どもとか教師が、結果的に排除されていくのじゃないか。それが一つです。
 もう一つはターミナルケアともかかわるんですが、例えば、キューブラー=ロスの死の受容の5段階というのが一時期、ずいぶん話題になりました。あるいはいまでも、でしょうか。キューブラー=ロスの仕事の重要性は確かです。でも、それを学んだ看護学生たち、看護師たちが、その5段階をきちんと踏んでいかない患者を「悪い患者」と見なしてしまうというようなことが起きた。
 いまdeath-educationとか「いのちの教育」とかが日本でも注目をされています。テレビゲームで育った子どもたちがヴァーチャルな生命観しか持っていない、人が死ぬということのリアリティーがわかっていない。だから、子どもたちが簡単に自殺したり人を殺したりしてしまう。だから、「いのちの教育」が必要なんだ、と、そんな声が急速に高まっています。
 でも、そもそも「死への準備」なんて、はたしてできるのかって、基本的には疑問に思うし、「よき死」を規範化して教えることによって、かえって「理想化された死」「理想的な死」を内面化した患者が、現実とのギャップに苦しんだりする。たとえば、十分準備して覚悟して安らかに死のうとホスピスに入ったはずが、寛解しちゃって、したはずの覚悟が宙に浮いてとまどう、なんてこともあるわけです。実際、件のキューブラー=ロス自身が、病に伏した晩年、自分がそれまで語ってきたことを簡単には受容できず、苦しみながら亡くなったという、そんなこともあるんですね。
 そういう意味で、ここで「パッケージ化された死」と、よく管理された「全人的な死」というのが、はたしてほんとにそんなに違うのか、全人的なケアそのものが、パッケージ化されてしまうということはないんだろうか。それ、私にはちょっとよくわからないというか、今ひとつ腑に落ちなかったことなんですね。

 有馬:大谷先生、最後の方でいわれた「パッケージ化された死」というところが、ちょっとわからなかったんですけど、どこに出てきましたかね。僕も一応、読んだんですが。

 三井:パッケージ化されたって、どうなっていたっけ。何だったっけ、原語。
崎山:たしか6章か7章だったと思う。

 三井:6章か、そこらへんに。究極の感情労働、死に関するというところですよね。
有馬:ああ、ありましたね。どういう意味で出てくるんでしたっけ、これは。

 大谷:原文がわからないんですが、感情を避けてルーティンのように患者さんに対処する「パッケージ化された死」にたいして、全人的なケアをすることが「もっともよく死を管理すること」と書かれてるんですが。

ターミナルケアの/という語りの政治性

 大谷:キューブラー=ロスにしても1960代の研究で、1980年代ぐらいから医療政策そのものが、医療費を削っていってますよね。アメリカでもイギリスでもそうですし、日本も少し遅れて、いまどんどん削減してます。
 そうすると「過剰な医療を断って自然に死ぬ」というけれども、そこでのメンタルなケア、家族の喪失のケアも含めて、ケアということそれ自体が、当時持っていた本来の意味合いでなく、まったく異なった意味を持ってしまうことになるんじゃないか。それこそ、ターミナルケアというものが社会的な文脈から切り離されて語られることの持つ政治性が気になります。
 その語りのなかでは、死にゆく本人にとっても自分の尊厳を守れるみたいなところがあって、市井の人びともその物語に寄り添ってしまうというか。でも、そこには権力関係が幾層にも複雑に絡み合っている。その複雑な絡み合いのなかで、感情にも配慮した「全人的なケア」というものが取りこぼしてしまうもの、コントロールしきれないものが徹底的に排除されていくのじゃないか、そんなことが気になります。

『感情労働としての看護』が書かれた文脈/背景

 スミス:実は、第6章の部分というのはこの本を書くときに一番はじめに書いた章で、そういう意味でちょっと思い入れのある章なんです。でも、この章について考えるときに大事だと思うのは、これを書いたのはもう20年も前で、もとになったフィールド・ワークもちょうど同じ時期にやられたので、その意味では、この本の内容や意味を理解するとき、あくまでその時点のものとして理解すべきところがあるということです。今後は、ここに書かれたことを読んで、そのうえでもう一度現場に戻って、それらをふまえてさらに分析を続けていくということができるかとも思います。
ここで学生の経験にもとづいて書いたのは、当時はフォーマルな、しっかり体系づけられたトレーニングと、そうでないタイプのトレーニングというのがあって、ということでした。じっさい、ここに描かれた学生たちというのは本当に、ちゃんとしたというか、フォーマルなトレーニングを受けないようなかたちで病院に入った、しかも死んでいくような患者をこれまで見たこともないような学生たちでした。そんな学生たちが、にもかかわらず、死んでいく人たちにたいして人間的なperspectiveを持ってかかわらなければならないという状況でした。

 崎山:つまり、この章はその難しさというものを描いたものだと。

 三井:間違えていたらあれですが、最後におっしゃっていたのは急性期が圧倒的に中心のなかで、もう周辺のように扱われている死にどう向き合っていくかという話でもあると。

 崎山:もう一つのポイントは、特にスミス先生がこの本を書かれた1990年代というのは病院が圧倒的に急性期であって、特に亡くなるというふうなことについて、あまり注意が払われていなかったことに対しての、ある種の異議申し立てとしての意味を持たせたかったという点にあるといえるでしょう。

◆編者註
(1)有馬斉「「生理的な嫌悪感」をめぐる混乱」『医学哲学・医学倫理』(日本医学哲学医学倫理学会)27号, 2007年, 71-81頁