コメント5「《方法としての感情労働》をめぐる力学について」

天田城介(立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授)

 天田です。フロアの皆さんを見る限り、質問やコメントをしたくてウズウズしている方々がいるようですので、できる限り短く、簡潔にコメントをしたいと思います。
 私がお二人にお聞きしたいのは、おそらくすべてのコメンテーターを通約するような問題であると思います。本日のお話は、乱暴に言ってしまうと、結局のところ、「利害関係のない仲介者を介してコミュニケーションを円滑可能にすること」、あるいは「組織的に取り組むことによって比較的小さなコンフリクトのうちにコミュニケーションがスムーズに回るように調整していくこと」によって、それぞれの看護師やスタッフにかかる「負担」というものを可能な限り最小化していきましょうということであったと理解しました。そうした文脈において、その論点に対するコメンテーターからのいくつかの論点が提示されている状況であると私は解釈しています。
 そうであるとするならば、結局のところ、「感情のコントロール」という問題はポジティブな文脈でもネガティブな文脈でも捉えられる現実であり、その「感情のコントロール」によって出来する事態をいかに価値づけるか、価値づけることが可能かということが議論されているということになるかと思います。
 一つには、ポジティブな理解の文脈から言えば、いま私たちが現に置かれている状況や環境に身を委ね、そこに惹起する感情に任せていると、怒りを覚えたり、暴力的になったり、あるいはそのような感情からいじめなどの事態が生じたりということがある。だから、結局のところ、「感情のコントロール」を適切に遂行することを通じて、その場で引き起こる感情から生起する「暴力的な出来事」を事前に回避することが可能になるのであるという理解があります。そういう意味で、「感情のコントロール」を何がしかに「効果的」である行為として捉えることが可能である。こうした捉え方は、事実としてその通りであるという側面が実際にあります──むろん、その「感情のコントロール」にともなって疲弊してしまうなどの別の事態が現れることなどもあるかと予測されますが、さしあたりここでは措きます。平たく言えば、「暴力や残酷さの回避」というところから「感情のコントロール」に内在するポジティブな部分を見て取ろうとする「構え」です。
 もう一つには、ネガティブな事態として理解する文脈には、それこそ有馬さんの質問にもあったように、ホクシールドが指摘するように、あるいはそのホクシールドの「感情マネジメント(feeling management)」の概念の着想点となったE.ゴフマン(Erving Goffman)の「印象操作(impression management)」という概念で指し示されているように、私たちは、日々の実践を通じて、とりわけ印象や感情のコントロールを通じて、他者から私がどのように見られているのかを制御しようとします。そして、周知のように、そうした印象や感情を適切に制御せんとする行為それ自体が、その実、社会的に統制されているという理解があります。
 要するに、何が言いたいかというと、一方では自分の感情をコントロールすることは、それによって自身の感情を制御したり、そのから生起する暴力的な出来事に巻き込まれることを制御する力となるということがある。ただ同時に、その「感情のコントロール」それ自体によって別の現実がもたらされてしまったり、そのような「感情のコントロール」をしなければならないというように社会的にコントロールされているということがある。
 実際、ホクシールドが言及するように、ある人たちは「感情のコントロール」を強いられる状況にあるがゆえに、例えば、ニコニコしなければならない(と思っている)。にもかかわらず、ニコニコできない私に「罪の意識」を感じて「私って冷たいのかな」と感受してしまったりすることがある。あるいは、最初はがんばってニコニしようとしているけど、そのうちに本当ににこやかな思いになってしまうことによって、「いったい本当の私って何だろうか」というような「嘘の意識」を感じ取ってしまうことがある。そんなふうに「感情のコントロール」を課せられることによって私たちは自らのアイデンティティに軋轢や亀裂を生じさせてしまうことになる。そういうお話だったわけですね。いずれにしても、そうした感情(の表出やコントロール)が社会的に課せられていると同時に、そのような「感情のコントロール」による社会的帰結を描き出そうとする「構え」があります。社会学などは主として後者に力点を置いてやってきたところがあります。
 更に加えると、「感情のコントロール」という負担と負荷は、「割のあわない仕事」に就いていたり、「しんどい仕事」を押しつけられている立場にいる人々に対して大きく課せられているという現実があります。「ケア」と呼ばれる領域は、要するに、「手のかかる人たち」をめぐって生起する事態における感情の負荷を、その当人が自らの感情を押さえ込むように課すことで、あるいはそのケアを行う家族や支援を行う人たちなどに自身の感情を押さえ込むよう課すことで辛うじて成り立っているという現実があります。
そうであるとすれば、今日議論になっているのは、社会(科)学における「感情のコントロール」ということに対する価値づけをいかに考えるかという問題であると思うのです。それはたんに「感情のコントロール」が両義的な側面をもっているというだけではなく、そのような「感情のコントロール」がどの立場において、あるいはどういった力学の中で生じているのかを考えるかという問題ではないかと思うのです。これはこの問題を思考する上でとても重要なことではないかと私は思っています。これがコメントになります。
 ちなみに、補足しておくと、それは「文明化」論にも関わることであり、また「統制」という問題にも関わることでもあります。結局のところ、それらをひっくるめて、いかに考えるのかという話です──この点は崎山さんの本でも言及されていることで。
 繰り返しになりますが、「文明化」という話と、社会的に感情さえも統制されているんだという話を、その両面を、どのように位置づけ、価値づけるかということになります。それが今日の議論の全体を貫くような大きな論点だったと思うのです。以上、私は、質問というよりはコメントというかたちでまとめさせていただきました。
 最後にもう一つだけ。これは西川さんが指摘していたことですけれど、例えば、小さなコンフリクトのうちに事前に仲介者を挟んでコミュニケーションを円滑なようにしていくということは一つのやり方としてあり得ると思いつつも、小さなコンフリクトそれ自体が、結果的に、ケアする側とケアされる側の両者の関係をうまくいかせることになるということもやはりあり得るかと思います。感情をコントロールし得ないことで「雨降って地固まる」ではないけど、結果的に何がしかの別様の現実が生まれることがある。そして、それは事前に予測困難であり、どっちに転ぶかわからないものでもある。
 もしそうであるとすれば、感情のコントロールをする(できる)にしても、しない(し得ない)にしても、それは偶然的な部分を孕む、どっちに転ぶか分からない行為であるということになる。そのように予測困難な出来事を誰がどのように判断し得るのか、それを含めて社会制度に組み込むことができるのかいう問題は極めて難しい問題です。加えて、そのような偶発的な出来事の余地を残すことも、また概ね事前にコンフリクトを最小化するように調整役を組織的に配置するなどはどちらも必要であるにしても、それ自体を思考するよりは、むしろ、どのような職種や立場において、どういった人たちにいかなる性質の「感情のコントロール」が課せられているのかを考えるほうが大切ではないかと思います。
 すみません。ちょっと長くなりました。以上です。

◆編者註
(1)崎山治男『「心の時代」と自己──感情社会学の視座』勁草書房、2005年.

崎山:全体として、感情をコントロールしマネジメントをしていくことを、どのように考えるべきかということだったと思います。
第一に、感情コントロールやマネジメントには、特にケア行為における暴力や、さまざまなコンフリクトを抑制していくというような側面がまずあるということ。これはポジティブにもネガティブにも働きうる。ポジティブな面というのは、確かにケアにかかわる暴力を減少できるかもしれない。ただ、ネガティブな面として、感情をどうして社会的にコントロールしなければならないのか、ということを考える必要がある。
 ここからが第二の点になると思います。特にいじめであるとか小さなコンフリクトを仲介しなければならないことを、私たちはどのように考えるべきか。 ポイントは、小さなコンフリクトで事前に、カウイ先生の言葉で言うならば、マネージャーであるとか、労働調停委員がコンフリクトに介入していくのは、たしかに小さなうちにそれをとどめるという意味でいい点はあるかもしれない。ただ、もう一方では、かなり予測がつかない行為でもあると思います。そういういった後に悪い影響を与えてしまうかもしれない可能性、その未確定性をどう考えていけばいいのかという感じだったかと思います。

天田 城介 20090319 「《方法としての感情労働》をめぐる力学について」 安部 彰有馬 斉 『ケアと感情労働——異なる学知の交流から考える』,立命館大学生存学研究センター,生存学研究センター報告8,pp.73-77.