コメント2「《ケア×感情労働=専門性》という式の隘路について」

安部彰(立命館大学衣笠総合研究機構ポストドクトラルフェロー)

 安部と申します。今日は着席したままコメントさせていただきます。失礼します。
 僕は社会倫理学が専門ということになっておりまして、これまでは主にアメリカのリチャード・ローテ(Richard Rorty)という哲学者の思想研究に従事してきました。ここでは詳細は省きますが、そのローティの研究をつうじて「ケア倫理(ethics of care)」に興味を持ちまし。そうした経緯から、本日はコメンテーターのお役を仰せつかったのではないかと思っております。
 先ほど、スミス先生とカウイ先生から、とても興味深いお話を賜りました。ですが本日は僕の現在の関心に引きつけてコメントをさせていただいて、そのうえで両先生からご意見やご感想を頂戴できればと思います。
 ケアという、そもそも概念なのですが、多義的でなかなか厄介だなと思うんです。でも、ケアとは「相手の個別性を尊重すること」、つまり「個々の相手の状態、相手の心や感情にできるかぎり寄り添うという営為・態度である」、また「この意味でのケアというのは掛け値なしによいことである」と、こういってもおそらく異論はあまりないかとは思います。
 ですが、このよいことは現実にはさまざまな制約があったりして、たとえば人手不足で一人ひとりへケアがいきとどかないというようなことがあって、十全に果たすことが難しかったりするわけです。これは、「よいことというのは、なされればなされるほどよい」とするなら、とても残念なことだと思います。
 ところでケアというのは、看護の専門性だといわれたりもします。たとえば看護大学の学生さんのなかには、「身体のケアよりも心のケアをちゃんとできる看護師さんになりたい」、「心のケアのプロフェッショナルになりたい」とおっしゃる方もいるとお聞きしたことがあります。これは、心のケアは看護職の本業というか、こうした意識が看護教育をつうじて学生さんのうちに養われていることの証左である。つまりある意味で看護教育の成果というか、成功のあらわれなのかなと思います。
けれども、まず僕なんかは、身体のケアと心のケアというのはそんなふうに切り離せるものなのかなと素朴に思ったりもする。患者さんの身体への細やかな配慮というのは当然、患者さんの心や感情への細やかな配慮なくしてはいきとどかないだろうと。
 ですが、それはともかくといいますか、それ以上に僕が気になっているのは、看護の専門性ということ、それ自体についてです。つまり心のケアが看護の専門性だといわれたりする。しかしこれは別に看護だけじゃなくて、今日ケア・ワークと呼ばれるもの全般にみられる考え方というか、見解であると思います。たとえば介助(介護)でも同じようなことが最近いわれていて、またそこでは、そうした専門性なるものが仕事の社会的地位や職場・労働条件の向上要求というか、それと関連してその根拠とされる。この仕事は専門的である、要するに素人ではできないから価値がある、というわけです。
 歴史的にケアという営み/仕事は、主に家庭、それも女性がアンペイド・ワークとして一手に担ってきた/担わされてきたという経緯があって、そこから誰でもできるというか、要するにこれまで素人がやってきたし、やってこれたじゃないかという意識が社会のなかには、残念なことにもいまだ根強くある。でも、というかそうであるがゆえに、ケア・ワークに携わってきた(携わっている)人たちはその専門性なるものを強調する/強調されられることになる。そうした経緯というか事情は、たしかに僕もよくわかります。わかるというか、よく共感できるんですね。
 しかしそのうえで、けれどもそこには落とし穴があるというか、なかなか厄介な話だなとも思うのです。つまりそんなふうに専門性を強調することで逆に、「ケアというのは専門性になじまないのではないか」という懐疑が力をえているように思うわけです。「他者の個別性」といわれるように、他者とはまさに多様なあり方をしているわけですから、すべての患者さんをフォローする、かつ満ち足りたケアを提供することはとても難しい。また同じ理由から、どこまでやれば十全なケアといえるのか、これも一意的に決めることが難しい。そしてこれらによって、いわば揚げ足をとるように、「看護や介護の専門性といわれるところのものが実はそうでもないんじゃないの」といわれたりしているのではないかと。
 だとすれば思うに、専門性に訴えるやり方というのは、あまりうまくないのではないか。同じ目的を目指すなら、別の道を行ったほうがいいんじゃないかなと思うわけです。つまり「ケアが社会的に価値のある仕事だということ」と「ケアの専門性」は別の話だとしたうえで、「ケアとは事実として私たちが生き、あるいは生活するうえで必要不可欠な営み/仕事である、ゆえに社会的に価値があるのだ」とする。とのように、シンプルにというか、そっちの方がいいんじゃないかなと僕なんかは考えるわけです。以上です。

◆編者註
(1)ローティについては本冊子第三部に収録の拙稿、または「生存学」のホームページを参照。http://www.arsvi.com/w/rr01.htm
(2)一見、無関係にみえるローティの思想とケア倫理は、「距離」──身近/見知らぬといった私と他者との関係、他者の私へのあらわれの異なりに起因する倫理的配慮の差異──という論点を媒介に結びつく、というのが私の解釈である。これについては拙稿(「ケア倫理批判・序説」『生存学』vol. 1、生活書院、2009年)を参照。

崎山:安部さん、どうもありがとうございました。ケアということと専門性とがどのぐらい重なり合うのか、つまりは感情労働と専門性・ケアのつながりについてのお話かと思います。次は有馬さん、よろしくお願いします。

安部 彰 20090319 「《ケア×感情労働=専門性》という式の隘路について」 安部 彰有馬 斉 『ケアと感情労働——異なる学知の交流から考える』,立命館大学生存学研究センター,生存学研究センター報告8,pp.64-66.