(通訳)「職場におけるいじめについて」

通訳
有馬斉(立命館大学衣笠総合研究機構ポストドクトラルフェロー)
的場和子(立命館大学大学院先端総合学術研究科博士課程)

[*講演中に使われたスライドは(# 番号)というかたちで本文中に示した。スライドの内容は原文の終わりにまとめて収録してある]

 こんにちは。お会いできて大変嬉しいです。お招き下さってありがとうございます。立命館大学に来られてとても幸せです。私の今日の研究報告は、職場のいじめについてです。学校で起こる場合は、(日本語では)「いじめ」と呼ばれているそうですが、職場ではどうなのでしょうか。今日はいじめの影響についてお話します。いじめは、職場、とくに患者をケアする職場において、否定的な感情を引き起こします。
 最近まで、実はいじめの問題はあまり語られてきませんでした。これはタブーでした。全てではないにしてもほとんどの組織は、自分たちの組織にはいじめの問題はないといってきました。しかし、近年、ラジオやテレビなどのマスメディアから注目されるようになり、この現象のもっと詳しい分析が行われるようになりました。職場の多くの人々が、仕事に出かけることにたいして非常に否定的な感情をもっていることがあきらかになってきました。スカンジナヴィア、とくにノルウェイやスウェーデンやデンマークといったスカンジナヴィアの国々の人々が、今日私たちが知っているいじめについて、多くの先駆的な研究を行いました(#1)。
 現在、職場のいじめに関する文献は非常にたくさんあります。私たちは、いじめを定義するところから始めなければなりません。これまでに非常に多くの定義が出されています。個人としての人に向けられた否定的な行為である、という点を強調したものから、性差や民族でわけられた集団と関連づけたものまであります。また、セクシュアル・ハラスメントや人種ハラスメントといった言葉を用いるものもあります。
 しかし、すべての意味を包含する定義としては、「職場のいじめとは、個人や個人の所有物または集団や組織にたいして、実際に言葉で脅したり・感情面での脅威を与えたり・身体的な攻撃を与えたりすること、あるいは、実際にはそうしていなくてもそのような脅威として相手に受け止められるようなことをすること」というものがあります。こうしてみると、個人、集団、そして組織全体のレヴェルにおいて起こっていることが分かります。
 さて、パム・スミス教授は、ケアに従事する組織としての英国国民保健サービス(National Health Service, NHS)についてお話されました。スミス教授も述べていたとおり、毎年、イギリスのヘルスケア委員会(Healthcare Commission)が調査をしており、国民保健サービスのスタッフが経験しているむしろ否定的な経験について最新の統計が得られています。状況は、毎年の結果を比べてみると、良くなってきていればよいのですが、実際には、この4年間、横ばいか、あるいは悪くなってきています。
 このスライド(#2)を見てもらえればわかるのですが、スタッフにたいする最大の脅威は実は、彼らがケアしている相手、つまり患者や患者の家族から来ているのです。NHSのスタッフの23%は、何らかの形で患者からのいじめを受けていると報告しています。18%が、患者の家族からいじめを受けたと報告しています。8%が上司からのいじめ、13%が同僚のいじめで、これらは数字は少し小さいですが、やはり深刻です。実際、ヘルスケア委員会は、毎年、職場の文化を変えることの必要性と、そのためのもっとしっかりした政策づくりを勧告しているのです。
 スカンジナヴィアの研究者のひとりであるスタール・アイナーソン(Stale Einarsen)は、いじめを、いちどに起こることではなく、徐々に展開する過程として描いています。少しずつ展開するので、同時に、少しずつ許容されていってしまいます。きっかけは、多くの場合、職場で起こるなんらかの類の葛藤にあります。たとえば、私たちの国ではクリスマスの休日を家族と過ごしたいと思っている人々、あるいは外国人の看護師であれば元旦に自分の国に帰るとき値段が安い航空券を買えるよう余分に休日が欲しいのですが、そういう人たちが、有給休暇をいつ取るか、誰がいつ残業するか、といったことをめぐって言い争います。これは比較的小さなことで、だから比較的容易に解決することもできるのですが、扱いを誤ると、──パム・スミスがリーダーについて、良いリーダーシップについて話しましたが──、誰かが不利な状態に立たされたりします。たとえば、クリスマスの日に働かなければならない。安めの航空券を取ることができない。彼らは自分たちが不利な立場に立たされていると感じます。他の人々も、彼らのことを攻撃しやすい存在として、したがって、いつ働かせても構わない、他の人が誰も働きたくない時間帯でも働かせることができる、そんな存在として、見るようになります。時間が経つにつれて、こうした人々は、自尊心を少しずつ奪われ、脅かされ、怖がらせられ、ときには同僚から罰せられたりもするのです(#3)。
 もう少し詳しく言えば、これはアイナーソンが言っていることで、私も非常に正確だと思うのですが、初期のステージにおいては、いじめは見分けることが非常に難しいということです。あまりに些細なことなので、単に私の想像にすぎないとか、私の頭の中で起こっているにすぎないとか、本当には何も起こっていないなどと思われてしまいます。しかし、時間が経つにつれて、行動がもっと直接的になります。特に悪い場合には、標的にされた人、つまり被害者は、同僚から避けられたり、孤立したり、公の場で恥をかかされたりします。葛藤が続くと、周囲の人々は自分の方は損害を被らずに攻撃することができるようになり、もっと頻繁に攻撃するようになります。標的にされた人は、気持ちを挫かれ、精神的な問題を起こしさえして、対抗できなくなり、仕事の能率が下がってきます。そこで、周囲の人から、仕事仲間として期待できないなどと言われるようになります。このようにして悪循環に陥ってしまうのです(#4)。
 ひとつ例を挙げましょう。これはパム・スミス先生と、私と、それからもうひとりの同僚であるヘレン・アレン(Helen Allen)との三人で行った研究なのですが、その中で、アフリカやフィリピンやその他の外国からきた看護師が、このような扱いをしばしば経験していました。はじめ、彼らは何が起こっているのか正確に理解できなかったのですが、私はそのうちのひとりが言ったことに本当に心を動かされました。彼女は、「朝、職場へ行っても誰も自分にはおはようと声をかけてくれない」といったのです。おはよう、と言うのは簡単なことです。「誰からもおはようといわれない。だから私も誰にもおはようといいません。まるで自分は誰にも見えないかのようです。」
 このスライド(#5)は、人々が職場で経験するとされる、いじめの行動のさまざまなタイプを分類したものです(編者註:ホウエルとレイナー[Hoel and Rayner]の分類。いじめが、職場の地位を脅かすこと、個人攻撃を加えること、孤立させること、非現実的な仕事を与えること、価値を下げさせること、好ましくない身体的な接触をもつことの5つのタイプに分類される。上掲のスライドを参照のこと)。もっとも一般的ないじめのイメージは、身体的ないじめ、つまり、非常に目に付きやすくて、攻撃的で、人を怖がらせるような行動かもしれませんが、ご覧のとおり、実際にはそういうものでは全くないことがわかります。中には非常に捉えがたく、非直接的で、陰険なため、ほとんど頭の中の想像にすぎないとか、本当には起こっていないことだ、などと考えられてしまうものもあります。しかし、本人は感情的な傷を負います。しかも、どうしてそうなのかよく分からないのです。
 この分類は非常に役に立つと思います。たとえば、いじめられている人は、職場の地位を脅かされたり、公の場で恥をかかされたりします。一生懸命に働いていないと、周囲から言われたりします。自分の存在を小さくされてしまい、自分でも自分のことを小さな存在だと思うようにさせられてしまう。たとえば外国人の看護師にたいして、「あなたは看護師として仕事はできないが、それよりも給与も低く、階級の中で地位も低い、介護人(carer)としてなら働ける」などと言う人がいたりします。あるいは、「あなたは医療に携わることはできないが、介護人として薬を飲ませる仕事ならできるだろう」などと言われたりします。このようにして自尊心が傷つけられるのです。
 分類の次のタイプは、個人攻撃です。ケアワーカーや、看護師などのスタッフは、怖がらせるようなことを言われたり、名前で呼ばれて侮辱されたりします。たとえば、患者が「あの黒人の看護師に治療を受けたくない」と言ったりします。
 次に、孤立。先ほどすでに、誰からも「おはよう」と挨拶してもらえない人の例を紹介しましたが、これは非常に残酷な仕打ちです。社会的な排斥、つまり、話しかけないようにすることで、相手に、自分が人間ではないかのような感じを持たせるようにすることです。これはさらに、相手が会議に来るときに必要な知識や情報を教えてあげないようなことにも繋がります。ここでも、人の存在は、まるで誰の目にも見えないかのようになってしまいます。情報さえ持っていればできたはずの貢献を、することができないようにさせられてしまうのです。
 それから、非現実的な量の仕事を与えられることもあります。これはまた別のタイプのいじめの行動です。たとえば、人に、不可能な期日を与えて、仕事が間に合わず失敗するように仕向けます。人はこうして仕事の効率が悪い人間だとみなされるようになります。また、人の価値を低くすることや、人が失敗するように仕向けることも、これと関係があります。たとえば人に無意味な仕事を与えたり、人の仕事の価値を何らかの仕方で低く見せたりします。たとえば、「あなたが何を言っているか誰もあなたの言葉を理解できない」と言ったりするのです。こうしたことも、人に害を与えます。本人は他人をケアする自分の能力に自信が持てなくなります。
 最後のひとつは、好ましくない身体的な接触を迫ることです。セクシュアル・ハラスメントはそのあきらかな例ですが、これは、セクシュアル・ハラスメントに限りません。たとえば、上司があなたの肩に手を置いて圧力をかけること。これは許されることではありません。「私はあなたよりも優れている。だからあなたは私のルールに従って働かなければならないのだ」といっているのと同じことであり、好ましいことではありません。
さて、職場でこうしたことを経験している人々には、ときに非常に深刻な影響が出る可能性があります(#6)。こうした類のいじめを頻繁に受けると、人は病気になるかもしれません。もちろん、そうなれば事態はますます悪くなります。彼らは病気で、いつも休んでばかりいることになります。つまり、彼らは良い同僚だとはみなされなくなり、仕事の効率が悪く、頼りがいのない同僚である、ということになります。ここにも悪循環がみられます。
 病気で仕事を休みまでしなくても、恐れや不安や絶望やショックなどの深刻な感情的反応を伴うことがあります。こうした感情は、スミス教授が今日の報告で話されたような、感情労働につながるような感情ではありません。こうした状況においては、人々は非常に否定的な感覚を持つようになります。職場を怖がるようになったり、職場で脅かされるように感じたりします。こうした人々にとって、職場は居心地の良い場所ではありません。極端な場合には、こうした人の症状は心的外傷後ストレス障害に近い、という指摘もなされています。心的外傷後ストレス障害というのはご存じのように、ふつうはショックやトラウマのあとで起こるものですが、これと感情的な反応が非常に似ているのです。もちろん、長い期間に渡ってこうしたことを経験し続けると、良くない影響を伴います。
 さてしかし、こうした否定的な影響は、逆説的なことに、いじめの直接の標的にはなっていない人も含めた他の多くの同僚にも同時に影響が及ぶのです。また、直接の標的であるスタッフがここまでに述べたようなことを経験している場合、患者に対する影響も、けっして良いものではありません。さらに、こうしたことが起こっていることを見ているだけの周囲の人々にも同じような恐怖心が起こってきます。スタッフが経験する否定的な感情は、患者に対するケアの質にも影響を与えるのです。スタッフは、自分たち自身のことばかりが頭にあると、患者に注意を向けられなくなり、患者に感情的に奉仕することができなくなるため、結果として、患者は自分が放置されているように感じたり、人としてではなく物として扱われているように感じたりするようになります。患者の気持ちもこのようにして影響を受けるのです(#7)。
 何の介入もなく放っておかれると、ふつうはこうしたことが起こります。いじめられている人を助けようとする同僚も中には出てきますが、多くの人は、いろいろな理由があって、助けようとはしません。自分が次の被害者になるのを恐れているのかもしれないし、あるいはただ、知らない振りをしたり被害者を攻撃したりする大勢に従っているだけなのかもしれません。同僚からそんなふうに扱われている被害者のために立ち上がって擁護しようとすれば、大変な勇気が要ります。組合の中の人々が助けようとすることもありますが、しかし、多くの人は進んで組合に加担しようとしません。というのも、いじめの行動は、あまりにも目立たなくて、非直接的であり、実際に何が起こっているのかを正確に指摘することは難しいからです。そこで、すでに述べたように、いじめられている人は、少しずつ、仕事の効率が悪くなり、周囲から個人的に問題のある人として理解されるようになります。周囲から批難され、また「自分はこの仕事に向いていないんだ」と、自分のことを自分でも批難するようになるかもしれません。組織の中の他の人々は、ほとんど誰も、こうした人々から来る感情のダメージを理解しようとしません。そこで、実際のところ、現実には多くの人が職場を去ることになります(#8)。
 シャーロット・レイナー(Charlotte Rayner)の見積もりによれば、これは人事課をとおして辞めた人々にインタビューした結果からの見積もりですが、いじめが原因で職場を去った人は、4分の1、つまり25%にも上ることがあるそうです。これは人的資源とお金の大きな無駄です。
 そこで何か私たちにできることはあるでしょうか。幸運なことに、あります。重要なことは、これはよく組合が個人に勧めることでもあるのですが、実際に起こっていることを書き留め、情報として集めておくことです。日記に記したり、出来事を起こったままに記録に残したりすることです。一つ一つのものは大したものではないように思われるかもしれませんが、時間を経てそれが積み重なってくると、これがいじめとして現われてきます。どうしてそれが起こっているのか、原因についての情報を得ること、そして、とくにその職場においてどのような影響が出ているのか、また、問題を解決するために取りうる行動や介入のあり方について情報を集めること。できることは非常にたくさんあるのです(#9)。
 はじめに、いじめられた人々が正式に申し立てをする場合を考えましょう。これもひとつの対処の仕方です。彼らは上司とまず面会し、組合に自分たちの言い分を代表してもらうことができるようになります。私たちはこれを「仲裁(arbitration)」と呼んでいます(#10)。そのあとのプロセスは非常に形式的なものです。この方法の問題点は、組織に雇われている仲裁者が、このプロセスを支配してしまうこと、また、仲裁者が組織に対して義務を負っていることにあります。仲裁者は、罰を与えたり人を批難したりすることができるようになっています。結果として、たいていの場合、問題が勝ち負けの問題になってしまいます。しかしこれは良いことではありません。つまり、一方が勝ちます。それは被雇用者側かもしれません。すると被雇用者は職場に残ることになりますが、その後も被雇用者は、周囲からはトラブルを起こしがちな人として見られることになります。あるいは、被雇用者が負けるかもしれません。すると彼らは組織から排除されてしまいます。いくらかお金を渡されるか何かして、出て行くように言われます。どちらにしても、これは非常に気持ちの悪いものです。たいていの場合、結果はあまり良くありません。
 考えてみてください。仮にあなたが勝って、職場に戻ることが許されたとしても、申し立てがそもそも起こった原因はあなたにあるのだから、やはり上司はあなたのことを嫌ったままでいることでしょう。つまり、形式的にはあなたは勝ったのですが、実際には、おそらく、ほんの少しの間だけ職場に残ったあと、そこで幸せなままいることはできなくなるので、どちらにしても職場を去ることになるかもしれないのです。
 私は、これよりもっと効果的な別の方法を提案したいと思います(#11)。「労働調停(conciliation)」は、もっと早い段階における介入のことです。まるで裁判所に全員がいるような感じになる「仲裁」を待ったりせず、もっと中立的な立場から両者を導くことができるよう訓練を受けた仲介人あるいは和解調停者が、もっと早い段階で介入します。調停者は、組織の中でとくに地位の高い人というわけではないのですが、同僚から尊敬を集めており、誰かを非難したり、一方だけを罰したりしません。仲介人は、過去に起こった事柄に意識を持っていくのではなく、その代わりに、将来どのようにすれば私たちがもっと効果的に共に働いていくことができるか、ということを考えます。彼らの目的は、両者がどちらも勝つにすること、誰かが自分が負けたと感じて去ったりしないで済ませることにあります。いじめられた人も、いじめたとして訴えられた人も、どちらについても、です。
 例をひとつ挙げましょう。すでに先ほど挙げた例ですが、海外から来た看護師が、家族に会うためにフィリピンの実家へ帰りたがっている。しかし、もしも彼女には帰国するのにちょうど足りるだけの休みしか与えられず、月曜日には普段どおりの勤務に戻らなければならないとすれば、彼女は航空券代を200ドルも余計に支払わなければなりません。そこで彼女は、「お願いですから一日遅い飛行機に乗って、月曜日ではなく、火曜日に戻ることを許して下さい」と頼むのです。はじめ上司は「それはダメだ、彼らはいつも余分に休暇をもらいたがたっているのだ」と考えるかもしれません。しかし労働調停者がここにやってくれば、妥協点を見いだすことができるかもしれない。ひとつの可能性は、余分の一日分だけを有給ではなくすることです。他にも何か方法があるかもしれません。また、ここで上司は、貧しい家族を支えるお金を稼ぐために、家族やときには子どもまで国に残して来ている看護師が、そのことによってすでに行っている大きな感情労働のことを理解するようになります。労働調停者は、このような上司の理解を促すのです。そうすることによって、より大きな同情と理解が生まれることになります。看護師も、「相手は自分の状況を理解してくれた。自分の耐えてきた困難を、文句を言わずに理解してくれた」と感じるでしょう。こうして全員が良い気持ちになります。場の感情が良くなります。
 最後から二つ目のスライドは、イギリスの国民保健サービス(NHS)が展開してきた優れた実践の例です(#12)。その一つは、職場の全員が尊厳と敬意をもって周囲から扱われることが期待できるように、労働における尊厳に関する方針を立てることです。このような方針を立てることが、いずれ、いじめにあう人の割合を少なくするのに役立つよう願います。もうひとつのアイデアは、最高責任者に直接につながるホットラインを作ることです。これを使って最高責任者に電話をかけるのは、勇気が要ることでしょう。しかし電話はあります。最高責任者が、本当に公正な人で、他人の話にきちんと耳を傾ける人であれば、電話にも応じるはずです。その後、指示を受けた人が組織の文化や人種の問題に対応します。文化や人種の問題は、イギリスのような多民族社会では、異なる文化的背景を有する人々が共に働こうとするときに困難や葛藤が起こるため、大きな問題です。
 一つの委託会社に、10人の訓練されたサポート要員がいて、苦情や訴えについて、共感に満ちた支えと指示とを与える。これは、和解の一つのあり方です。サポート要員は、人が苦情を内に溜めて怒りをこらえられなくなる前に苦情を解消する目的のためにいます。非常に悪い状態が起こる前に、人々の態度を変えようと試みます。職場の感情教育のために必要な環境を整え、また、自分がいじめられていると思っている人や、他人がいじめられているのを見ている人、また加害者も含めて、すべての人にサポートを提供します。いじめる側の人も、大きなプレッシャーを感じている場合があります。彼らが人のことをいじめるのはそのためです。自分もまた、非常にストレスを感じているからです。組織が自分に無理な期日を押しつけてきているという感じがあるために、同じような振る舞いをする人々に対しては、より大きな同情や理解を示したりします。こうした行動にはいつも理由があるのです。
 また、多くのNHSの委託会社は、患者に対して「寛容度ゼロ」の方針を採用しています。つまり、「スタッフに対するいかなる攻撃的あるいは暴力的な行動も、一切許さない」というわけです。これは、私の感覚では、そしてまた学校におけるいじめに関する研究でも言われていることですが、あまり効果的な方法ではありません。しかしこれも一つの試みです。ほとんどの病院やクリニックが、「寛容度ゼロ」と書かれたポスターを貼り出しています。私は、これは特に攻撃的な患者や、その家族に対してはあまり効き目がないと思っていますが、しかし、これもNHSが取っているひとつの方策です。
 最後のスライド(#13)は、ここまでに述べてきたことの要約です。職場におけるいじめの起源を理解すること、そして、何が起こっているのか、その結果はどうか、標的になっている人だけでなく、それを見ている周囲の人も含めた職場全体の感情の雰囲気への影響はどうか、といったことを理解することが、非常に重要です。そして、関係を良くし、感情教育を促すことによって、感情労働が職場で正しく認識されるようにすることは、人々が自分の不幸にばかり気を取られずに済むようにするためにも、非常に大切なことです。もちろん、訓練なくしてこうしたことは実現しません。リーダーシップのスキルについて監督者が訓練を受け、彼らがその態度をモデルとして他のスタッフに示せるようにすること、また彼らが職場に存在している感情を理解できるようにすることが、非常に重要です。職場においては、感情は統制されていなくてはなりません。私たちは、患者をケアし、患者を支えるために、まさにそのために、職場にいるのです。私たちの感情が職場の至るところに撒き散らされている、というようなことではいけません。つまり、私たち働き手のことをケアする環境がまず必要なのです。そしてこれが、今度は患者やその家族を助けることにもつながるのです。
 みなさん、聞いて下さってありがとうございます。私たちの二つのセッションについてのディスカッションと質疑応答を楽しみにしています。ありがとうございました。

崎山:カウイ先生、すてきなプレゼンテーション、どうもありがとうございます。カウイ先生の研究報告から私たちは三つぐらい、特に組織や感情について、重要な示唆を得ることができたかと思います。
 まず重要な点というのは、いじめといったものは、決してわかりやすいものではなくて、複雑な要因が絡んでおり、やり方も非常に巧妙であることです。つまり、わかりやすい身体的ないじめだけではなくて、少しずつ人々の感情だとか自尊心を傷つけるようなやり方でやっていく、だからこそ難しいということがまず第一点かと思います。
 第二には、いじめという問題は決して個人の問題ではなく、むしろ組織として取り組むべき問題であるということがあります。それは必ずしも、組織の生産性を高めるということだけではなくて、組織レベルでメンタルヘルスへの意識を高めること。こういう観点から防がれるべきだということだと思います。というのも、たとえばマネージャーがいじめを防ぐのが非常に難しい。それは、一つには、いじめを判断するプロセスで強い力を持ったり、組織として結論を出さなければならないため、片方を非難したり裁いたりしてしまわざるをえない。だから、いじめの解決は、結果として、勝ち負けというかたちにしかならないという難しさがある。仮に労働者が「勝ち」、職場に残ることになっても、他の人々は彼らをトラブルメーカーと見てしまう。そうなると、「負け」になってしまうわけです。それは、組織が彼らに、退職手当を少し与えて解雇しようとしたりするからです。どちらにせよ、みんなが幸福になるというわけではない。たとえば、そんな状況であなたが「勝った」ことで、職場に復帰した場合を想像してみてください。あなたの上司たち(マネージャー)は、あなたが彼らへの不平不満を訴えたことを根に持ちますよ。そうなったら、制度上は「勝った」としても、居心地が悪くなるから、すぐに他の職場に移らなくてはならなくなります。こうした難しさがあるゆえに、いじめの問題にはやはり組織的に取り組む必要があるとのご指摘だったかと思います。
 第三には、いじめというものを現在取り除いていくためには、感情というものがやはり非常に重要になってくることです。いじめの犠牲者が陥っている感情について、単にそのいじめにあっているという苦痛だけではなく、さまざまな形でその後や生活するうえで起こってくるだろう感情の状態についてより想像力を発揮していくこと。特にいじめというものに仲介していく上司とか、労働調停委員の人々には、そういったことが現在求められているのではないかということが大きなポイントかと思います。
 どうも、みなさん。カウイ先生の研究報告を聞いていただいて、ありがとうございました。
 これから10分ぐらい休憩を取って、そののちに5人の提題者の方から5分ぐらい手短に、カウイ先生やスミス先生の研究報告をもとに疑問や意見を述べて頂き、そのあとフロアの方々との意見交換のようなものをできればと思います。
 ですので、ちょっと予定を変更します。終了時間、だいたい6時ぐらいというかたちにしようかと思っています。すみませんが、ご協力のほうお願いします。では、前半ちょっと打ち切りまして休憩に入ります。

(休憩)

崎山:では、感情労働についての議論を再開させていただきます。まず、5人の提題者の方々からの質問をおうかがいしたいと思います。最初に、西川先生からお願いします。

有馬 斉的場 和子 20090319 (通訳)「職場におけるいじめについて」 安部 彰有馬 斉 『ケアと感情労働——異なる学知の交流から考える』,立命館大学生存学研究センター,生存学研究センター報告8,pp.46-57.