まえがき

 本報告書は、2008年7月31日に立命館大学衣笠キャンパスで開催された、国際研究交流企画「ケアの論理と倫理──看護・感情・労働」におけるパム・スミス氏(Pam Smith)とヘレン・カウイ氏(Helen Cowie)による研究報告とそれらに対する私たちのコメント、さらにはそこでの質疑応答を記録したものをまとめたものである。また、翌8月1日に同じく立命館大学にて開催された比較的インフォーマルな研究交流会における記録も収録されている。加えて、それらの交流企画・研究会に触発されながら、私たちはそれぞれに自らの研究との「対話」を深めた。コメンテーターを努めた安部彰氏、有馬斉氏、天田城介、司会を務めた崎山治男は本企画との「対話」を通じて、さらに思考すべき主題をそれぞれ独自に論文としてまとめあげた。また、スミス氏とカウイ氏には、当日の企画を振り返り、かつ示唆に富んだ考察をいただいた。
 本報告書は、それらを統合的に編集する形で刊行されたものである。こうした英国と日本における複数の研究者のあいだでの密度の高い国際的な研究交流を基盤にまとめられた本報告書は極めて刺激的かつ重要な論点を提示するものであり、それらが統合されつつ刊行される意義は非常に大きなものであると考える。そして、このような英国と日本における複数の研究者間での濃密な研究交流を可能にし、またその交流の成果を結実した形で世に問うことが可能となったのは、編者である安部彰氏と有馬斉氏による文字通りの多大なる尽力があったからに他ならない。その意味で、本報告書は編者たちによる成果でもある。
 全体構成やその内容については、本報告書を直接通読していただくとして、本国際研究交流企画が実現した背景、ならびにスミス氏・カウイ氏の業績について簡単に記しておくことにしよう。
 本国際交流企画は、主催者の一人である崎山治男が2008年9月より一年間、スミス氏の指導の下でサリー大学保健医療学部の客員研究員として研究を進めること、ならびにスミス氏の大和財団の助成を受けての2008年7月から8月にかけての訪日、カウイ氏の広島大学での在外研究という機会を捉え、構想・実現されたものである。スミス、カウイ両氏の強いご意向もあり、比較的小規模な国際研究交流シンポジウムという形となったが、当日のコメンテーターのご尽力、またフロアからの活発な質疑応答もあり、参加者総勢39名を数える盛会となったことにまず謝意を示したい。
 パム・スミス氏は現在、サリー大学保健医療学部教授。また同氏が所長を務めるサリー大学・看護・助産師研究教育センター(Centre for Research in Nursing and Midwifery Education)は、1990年代からの英国国民保健サービス(National Health Service: NHS)改革に関連する問題を調査し、またそれに携わる研究者・実践家を養成するために1998年に設立された。それはNHSにとどまらず、英国における看護・介護に関わる団体との密接な関わりを持ちながら、看護・介護の理念の探求だけではなく、身体・精神面におけるケアの困難の実態とそれを打開する方途、ケアの与え手・受け手の安全性、NHS内部における葛藤などについての分析を進めている。また、ヨーロッパにおける当該領域の国際交流拠点としても重要な役割を果たしている。
 スミス氏の業績は、日本においても版を重ねている『感情労働としての看護』(原著1992年、翻訳2000年)の中で、特に看護師の感情労働について、豊富な実践経験を生かした記述的研究という形で理解されているかもしれない。だが、それはあくまでも90年代に始まったNHS改革に対して看護師の労働の「実態」を告発する意図で、1988年にロンドン大学に提出された博士論文のごく一部を元に出版されたものである。実際には、上述したセンターのさまざまな企画にも関与している。また、大学院時の社会学研究や、1989年からの一年間、1993年からの半年間、米国カリフォルニア大学バークレー校でアーリー・ラッセル・ホクシールド氏(Arlie Russell Hochschild)の指導の下で進められた研究成果を生かしつつ、上述したセンターを拠点とした感情研究ネットワークグループ(Emotion Research Interest Group and Network)を主催し、感情研究についての多角的・学際的な検討を進める中心人物の一人でもある。
 ヘレン・カウイ氏は現在、サリー大学保健医療学部/広島大学大学院教育学研究科リサーチ・プロフェッサー(Research Professor)。著書に、Emotional Health and Well-Being: A Practical Guide for Schoolv(Sage, 2004)、New Perspective on Bullying(Open University Press, 2008)などがある。カウイ氏は上述したセンターと密接な関わりを保ちつつ、ケア、感情研究を感情労働とは異なる角度から進めている。また、英国におけるピア・カウンセリング、ピア・サポートといった概念・実践・運動研究の第一人者として知られている。その業績の独創性を記すならば、単にピアでの「支え合い」の重要性を指摘するだけではなく、逆にピアであるがゆえに孕み持つ関係の困難、暴力性を示しつつ、かつそれと感情研究との架橋を自身の研究の基盤である臨床心理学の知見をもとに試みている点にある。

 前述したように、本企画の内容やその成果は、この「まえがき」に続く一連の研究交流企画ならびにそれを受けての論文の中に豊かに示されているであろうから、読者にはそちらを参照しながら、それらへの見解と批判を仰ぎたいと思う。だが、このまえがきを締めくくるにあたって、本企画の意義を二点ほど、強調しておきたい。
 第一には、本企画が単純な研究者間での国際交流、日英での概念・情報の共有や交換にとどまらないものであったという点である。後に示されるように、本企画は日英でのケア・看護の制度や理念の違いを超え、ケアに携わる人々の困難とその解放の方途を、感情という視点を軸にして展開された。それは単なる国際研究交流という枠組みを超え、広くケアに携わる人々に共有されうる問題、すなわちケアする人々をいかに支えつつ、かつケアという営みを可能にしうるか、という普遍的な問いに開かれたものである。
 第二には、真の意味での学際的な交流が行われた点である。本企画に関わった人々の学問的基盤は、社会学・看護学・臨床心理学・医学・哲学・倫理学等々のさまざまな領域にまたがったものである。だが、ここで強調したいのは、単にさまざまな領域を横断しているという事実ではない。むしろ、さまざまな学問的かつ実践的な立場からケア・感情労働ならびにそれに関わる倫理・制度・理念をいかに構想しうるのかという「最大級の問い」に問題関心を収斂し、かつその具体的な方途を示そうとした点である。
本国際研究交流企画は、過去・現在・将来にわたって明らかにされつつある/明らかにされるであろうケアをめぐる困難とその打開へと開かれたものである。その成果が刊行される意義のみならず、ここから始まる問いと思考の普遍性の重要性は広く共有されるべきものであろう。私たちはその意義と価値は決して小さいものではないと自負している。
 また、そのことの意義と価値は本報告書に携わった私たち個々の研究にとって意味を持ちうるだけでもない。本報告書が「立命館大学生存学研究センター報告8」として刊行されることを通じて立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点の研究の推進にとっても核心的な主題を指し示すことになるであろうと強く確信するものである。

 最後に、私たちが思考すべき/格闘するための道筋を示してくれた本企画で貴重な研究報告をしてくださり、その後もさまざまに多大なるご尽力をしてくださったスミス氏ならびにカウイ氏にこの場を借りて厚くお礼を申し上げたい。お二人は単に訪日してイベントに参加するという形ではなく、真の意味で本企画に参加してくださり、終了後もそのことを非常に評価してくださった。さらには、本報告書作成にあたり新たに示唆に富む論考を寄稿していただいた。文字通り「ありがたい」ことであり、両氏の学問的誠意に深い敬意を示したい。
 また、本企画におけるスミス報告とカウイ報告に対して刺激的かつ貴重なコメントをしていただいた西川勝氏、安部彰氏、有馬斉氏、的場和子氏に対して深く感謝申し上げたい。
 さらに、本企画の成功を可能とし、本報告書の全ての編集の労をとってくれた安部彰氏ならびに有馬斉氏に心よりお礼を申し上げたい。この報告書が読まれるべきものになったのは、両氏による惜しみない貢献と努力のおかげである。ちなみに、編者たちは私たちとともに本企画を組織化・運営しつつ、スミス氏ならびにカウイ氏との連絡・調整を適切かつ的確に遂行し、当日の通訳までも務めてくれた(企画後の京都における介護現場の視察のコーディネートまでも務めてくれた)。両氏からはその謝意とともに、編者二人のクリティカルなコメントに対して高い評価がなされたことも付記しておく。
 そして決して忘れてはならないのは、立命館大学生存学センター事務局のスタッフの皆さんの多大なるご尽力である。本国際研究交流は立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点ならびに立命館大学生存学研究センターとの共催によって進められたが、スタッフの皆さんの惜しみない力添えなしには本企画は成功をみなかったであろうし、また、このような報告書をまとめることもできなかったであろう。この場を借りて立命館大学生存学研究センターのスタッフの方々に心よりの謝意を示したい。
 なお、国際研究交流企画「ケアの論理と倫理──看護・感情・労働」は、科学研究費補助金若手(B)「現代社会における心理主義化に関する社会学的総合研究」(代表者:崎山治男)ならびに科学研究費補助金若手(B)「戦後日本社会における〈老い〉と〈高齢化〉をめぐる表象と記憶の政治」(代表者:天田城介)が主催となり、立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点、立命館大学生存学研究センターが共催となって実現されたものである。また、本企画ならびに本センター報告は、上記「現代社会における心理主義化に関する社会学的総合研究」(代表者:崎山治男)ならびに「「戦後日本社会における〈老い〉と〈高齢化〉をめぐる表象と記憶の政治」(代表者:天田城介)、文部科学省グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点(拠点リーダー:立岩真也)、さらには科学研究費補助金基盤(B)「現代社会における対人援助に関する社会学的総合研究」(代表者:佐藤恵)ならびに科学研究費補助金基盤(B)「現代社会における統制と連帯──階層と対人援助に注目して」(代表者:景井充)の研究成果の一部でもある。

 「まえがき」がやや冗長すぎた。読者の皆さんには、このあとに続く「本文」をぜひとも通読・熟読していただくことで本報告書の面白さを感じてもらえればと切に願う。

2009年2月

天田城介 (立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授)
崎山治男 (立命館大学産業社会学部准教授/サリー大学保健医療学部客員研究員)