第2部 先進諸国における健康格差対策「健康格差対策の枠組み:英米における政策展開の比較分析」

松田 亮三(立命館大学大学院社会学研究科教授)

はじめに
 私の報告のテーマは、ある社会の中で、どういう問題として健康格差対策を考えていくか、ということに関するものである。人々の健康に関わるさまざまな生活の格差(unequal lives)が健康格差をもたらすとすれば、それに対する対策も広範なものとならざるを得ない(Graham, 2007)。しかし、そのような広範な問題に対する政策、特に、政策全体の構想を形づくる枠組み(frame)をどのように構築していけばよいのであろうか。
 この問題には、日本において健康格差対策を構築するために何が必要かということを検討する中で突き当たった。この数年間、私は欧米の健康格差対策に関する政策文書や学術論文を読みながら、日本での健康格差対策の構築の可能性を考えるという作業をしていたわけだが、その中で、次のような問題を明確にしていくという課題が浮かび上がってきたのである。
 まず、格差という場合に、誰と誰の間の格差なのか。この、誰と誰、という問題は、言い換えれば、人口全体の中で、どの部分集団とどの部分集団とを比較するのか、という問題である。所得階層で区分するのか、教育歴や職業で区分するのか、あるいはエスニシティで区分するのか、ということである。
 次に、何についての格差かという問題である。健康状態の格差を最終的に縮小すべき対象にするとしても、習慣、住居、職業生活、ストレス、など健康に影響を与える様々な生活格差を縮小するという課題も関わってくる。健康状態に直接影響を与えるのは医療であるが、政策的には疾病の発症する前、健康状態が悪化する前に、上記さまざまな事項について介入していく必要がある(Diderichsen, Evans, & Whitehead, 2001; Graham, 2007)。この点では、健康格差対策を生じさせる生活格差はこの日本では何かということが問題となる。日本の社会の中で健康格差が生じているとすれば、それに関わる要因はどのようにつながっているのか、それをどのように理解するかが、政策形成上極めて重要な意味をもってくる。
 3つ目に、どの程度の格差が、あるいはどのように判別される格差が問題なのかという問題がある。少しでも差があれば問題なのか、ある程度大きな差があれば問題なのか、それともある基準に照らし合わせて合致するような差があれば対策を講じるべきか、ということである。最後の基準には、「不公平」(inequity)という用語を用いて明確化することが試みられてきた。ホワイトヘッドは、不健康な状態が避けうるものであるかどうか、そして、その不健康な状態をもたらす事項が社会的に公平かどうか、特に個人に選択権があるかどうかをもって、その健康状態が不公平かどうかを区別するという考え方を示している(Whitehead, 1990)。これに対して、これらの判定基準は実際に証明するのが難しいこともあり、社会格差が認められる社会集団について、健康状態の系統的な差異が認められれば、それは不公平な差として認められるとするブレイブマンらのような考え方もある(Braveman and Gruskin, 2003)。この考え方は、社会格差が認められる集団間における健康の差異を不公平とみなすという意味で、「誰と誰の間の」格差かという点を重視した考え方であり、「格差」それ自体の性質を個別に判定することを重視していない。
 以上のような点を少なくとも明確にしないと、漠然と健康格差対策をする、といってもあまり意味のある政策になるとは思えない。しかし、いったいどのようにして、この点を明確にしたらよいのだろうか?すでに、疫学では社会経済的地位(socio-economic position)が異なる集団間で、健康状態や生活上の健康リスク、などを比較する研究が行われてきている。そして、その研究は、西欧や北米、特に英国・米国で多くの研究が先導してきている。では、日本で、健康格差の対策を考えるための情報の収集や、政策形成をするときに、どのように考えていけばよいのか。既存の研究を参考にするのはよいのだが、どのような意味で参考にすべきなのであろうか?そして、さまざまな疫学研究によって、集団間の健康状態の格差を明らかにしていけば、それが即座に有効な健康格差対策の形成につながるのであろうか?
 ここで注意したいのは、単にすでに用いられてきている社会・経済的地位に関するデータを収集して、それによって疫学的検討をするだけでは、有効な健康格差対策を形成することは難しいのではないか、ということである。そして、これはこの報告でこれから述べることであるが、英国と米国の健康格差対策の形成を振り返ってみた場合に、どちらの国においても、健康格差の把握においても、そしてそれに対する対策についても、それぞれの社会に歴史的に積み重ねられた社会格差という課題をめぐる大きな文脈に、概ね合致するように健康格差対策は形成されている、ということがある。これは、政策が科学的知見だけでなく、政党、官僚機構、メディア、関係専門職などさまざまなアクターが交渉するなかで生じることを考えると、いわば自明なことでもあるが、健康格差の実態研究では忘れさられがちである。あるいは、社会格差をめぐる大きな文脈の中で、疫学のあり方自体も影響を受けている、ともいえる。その意味で、どのような文脈の中で、日本の健康格差対策を考えていくか、格差をめぐる社会的文脈は何なのかを視野に入れ、より大きな政策論と結びつけた健康格差対策の検討が必要ではないか、ということが、この報告の背景となっている問題である。
 本報告は、この問題を、英国イングランドとアメリカ合衆国における健康格差に関する政策展開、そしてそこでの政策形成の枠組みを比較分析することにより、検討する。
 まず、先進諸国における健康格差対策についての近年の主要な展開を概観した後、英国と米国における健康格差対策を比較分析し、最後に日本における健康格差対策の枠組み形成に向けた課題を述べる。

健康格差対策の展開
 貧困と不健康の悪循環は、近代公衆衛生が進展していく過程で取り組まれた課題であるが、第2次世界大戦後福祉国家の展開のもとで、相対的に忘れ去られた課題となっていた。しかし、福祉国家のもとでも、社会階層間の健康格差がむしろ拡大していることを英国のブラック報告ははっきりとしめした(Working Group on Inequalities in Health, 1980)。この報告はすぐには政策形成には結びつかなかったが、健康格差について欧州の関心を高めることとなり、実証・理論両面での議論がその後欧州では展開していく。
 1990年代ではWHO欧州地域委員会が格差縮小目標を打ち出し、1997年ブレア労働党政権の成立直後に設置されたアチソン委員会は、この問題についての総合的な検討を行った。一方、米国においても1998年健康乖離解消策が当時のクリントン大統領によって打ち出されるなど新たな進展を見せた。欧州各国では程度の差はあるが、総じて健康格差についての関心が高まり、2005年に英国がEU議長国となった際には、健康格差サミットを開催している。
 では、英国と米国ではどのような展開を示したのであろうか1)。両国は、社会階層と健康についての学術的検討の蓄積が多くなされ、また医療経済学も発達している。そうして、2000年前後に健康の格差(inequalities)(英国)または乖離(disparities)(米国)に関する公共政策を形成してきた。これら二カ国における政策展開をかいつまんで述べ、「誰の格差」か、そして「何の格差か」ということで対比させてみたい。
 
健康格差対策:英国の場合
 英国では1997年に労働党政権が成立し、健康格差についての独立委員会(アチソン委員会)が設置された。同委員会は所得、教育、雇用等への対策を含む総合的な対策を勧告した(アチソン報告)。政府は、1999年に実施計画を策定し、2001年に健康格差縮小の目標を打ち出した。それを受けて省庁横断的検討を行い、2003年には政策実施計画を再度策定した。これらを受けて、2005年に進捗状況分析・影響分析が行われている。
 政府の実施計画には、生活水準の向上と低所得の克服、家族の支援、地域での取り組みの促進、教育・乳幼児支援、雇用、住居の改善、ホームレスの人々の支援、犯罪の減少、交通対策と移動性の向上、健康的な生活習慣の普及(栄養・水道のフッ素化・タバコとアルコール・心の健康・若年妊娠)、NHSの取り組み、などが含まれていた。
 これらの詳細について述べる余裕はないが、ここで注目したいのは、その計画が主に注目しているのはどのような格差なのかということである。1999年の行動計画から、いくつか引用してみたい(DOH, 1999:2)。
   45歳から64歳までの年齢層で、25%の専門職女性、17%の専門職男性が、生活に不都合の生じる長期の病気を報告している。一方、不熟練労働者の場合は、女性で45%、男性で48%である。
   英国在住の子どもの3人に一人が、少なくとも一人の喫煙する成人と同居している。だが、低所得の家族では、この割合は57%となる。
   マンチェスターでの65歳以下の住民の虚血性心疾患による死亡率は、オックスフォードでの死亡率のほぼ3倍である。
 ここでは、職業階層間の格差、所得による格差、居住地による格差が、示されている。この引用だけで証明したことにはならないが、英国で健康格差が語られる際には、最近まで上記3つの格差に注目されることが多いように思われる2)。この場合に、注目される格差は、健康状態(ないし死亡率)の格差を中心に保健行動の格差、医療(とりわけプライマリ・ケア)利用の格差、さらには健康の規定要因としての社会経済状態の格差が注目されてきた。
 
健康格差対策:米国の場合
 では、米国の場合はどうであろうか。米国では、1985年にヘクラー報告が人種による健康乖離を指摘し、以後保健福祉省にマイノリティ健康対策室を設置するなど、人種間の健康乖離対策がマイノリティ健康対策として徐々に展開してきた。このことは、1990年に策定された米国の健康対策の総合目標である「健康な人々2000」に、健康乖離の縮小が述べられたことにもみて取れる。1998年には、クリントン大統領がエスニシティによる健康乖離対策の推進を表明し、1999年には公民権委員会が連邦のより積極的な関与を求めるなどの動きがあった。
 2000年には「マイノリティの健康と健康乖離についての法律(公法106-525)」が成立し、全国健康研究機構(NIH)のマイノリティ健康研究室が、全国マイノリティ健康・健康乖離研究センターに格上げされるなど研究面での強化が図られた。また同年改訂されてできた「健康な人々2010」では、健康乖離の解消が目標とされた。2003年からは連邦の医療サービス研究所(Agency for Healthcare Research and Quality )が、「医療乖離報告」を発行するようになった。
 米国で言われている健康乖離とはどのようなものであろうか。必ずしも一致した見解があるわけではないが、たとえば健康乖離集結に向けた全国協議会(National Partnership for Action to End Health Disparities)は、以下のように述べている。
   健康の乖離とは、米国におけるマイノリティと非マイノリティの健康状態の間で持続している差のことである3)。
 ここでは、健康の乖離がマイノリティと非マイノリティの間の差としてはっきりと位置づけられている。
 では、何の乖離が問題とされているのであろうか。
   アフリカ系アメリカ人、ヒスパニック/ラテン系、アメリカ・インディアンとアラスカ先住民、アジア系アメリカ人、ハワイ先住民と太平洋諸島住民、では、乳児死亡率、心臓血管疾患、糖尿病、HIV感染症とAIDS、がんへの罹患率、がより高く、予防摂取率、がん検診受診率がより低い。
 ここでは、健康状態の乖離が打ち出されている。ではこの対策はどうであろうか?英国のように社会経済の格差が問題となるのであろうか。実は、この点では、米国の文脈はまったく異なってくる。すなわち、乖離の原因の主要な問題は医療のあり方に帰するものとして議論されていく。
   (健康乖離の)原因は複雑であるが、もっとも主要な要因は、ケアへの不適切なアクセス、標準以下のケアの質、である。
 すなわち、健康乖離の対策としてなによりも医療サービス(といってもこの場合予防等も含めた広い意味での医療だが)へのアクセスとその提供場面での質の差異が注目されている4)。
 
考 察
 英国、米国のそれぞれについてみてきたが、2ヶ国の健康対策を比較すると何がみえてくるだろうか?両国ともに、健康格差を縮小するあるいは健康乖離を縮めようということになっているという点は、まず重要な共通点である。また、両国とも、方法の差はあるが、健康の不平等・乖離についてのデータ集積を公式統計の一部として行っている。国のレベルで、対策のイニシアティブがとられている。
 その上で、異なる点を中心に分析してみると、まず用語が異なる。英国では、不平等というそれ自体は中立的な内容を持っていても、社会的な不平等などの克服すべき問題と親和性の高い用語が用いられている。一方で、米国では乖離というやや中性的な用語が用いられている。もっとも乖離という用語がまったく中立的とは言い切れない面もある。
 次に、誰の間の不平等ないし乖離かということでは、英国では、社会階級、所得、地理が目立っており、米国では、人種、民族が、そして両方の国で、具体的取り組みの場の一つとしてコミュニティあるいは近隣(neighborhood)が取り上げられている。
 最後に、何の格差かという点では、両国ともに健康状態、保健行動、医療など広範な不平等・乖離に言及があるが、どちらかといえば、英国では社会・経済状態の不平等と保健行動の差が強調され、米国では診療場面における医療の質の差や予防サービスへのアクセスなどが強調される傾向がある。
 さらに、どういう差が問題か、ということでは、両国ともに健康状態や保健行動であり、医療についての不平等・乖離については、政策的問題としてはあまり立ち入った検討がなされたようではない。しかし英国では、後にオリバー博士が議論されるように、少なくとも理論的にはこの点についての検討がなされている。また、特に米国で医療の質についての差が問題になる時には、なぜ差が生じるのか、という因果の説明について差別(discrimination)と乖離(disparity)、差異(difference)を区別して対応することが理論的問題として提案されていることが特徴である。
 最後に、以上のようなことがどう考えられるかを検討しておく。最初に、科学的分析によって人口間の健康の不平等・乖離の証拠は集められるが、どういう人口が比較されるかは─少なくとも政策形成の場面では─異なりうる、ということがある。これがもっとも顕著に示されているのは、社会経済的地位による健康状態の乖離が大きいことが研究では示されているのにもかかわらず、健康乖離対策においては、正面からあまり議論されない、という米国の例である。
 次に、どのように不平等・乖離の原因と対策の枠組みをつくっていくか、それが、その政策の実際的重点を構築する時に異なってくるということである。もちろん学術的にも不明な点は多いのであるが、非常に多様な要因が関わっていると想定される場合に、何にまず取り組んでいくかを、政策を形成する時には定めざるを得ない、ということである。
 3つめに、実際に形成された政策は、ブレア労働党がすすめた社会政策、そしてビル・クリントン大統領がすすめた人種差解消策という文脈と緊密に結びついていると考えられる。その意味では、健康の不平等に関する政策形成には、科学的研究のみならず、歴史的・制度的な文脈におかれた政治的意思が重要な役割を果たすといってよいだろう。
 こうしたことをふまえて最後に述べたいのは、日本のようにこれから健康格差対策を考える社会では、その社会の歴史・制度的文脈において、社会的な差異が問題とされてきた集団に注目して、戦略的に取り組みを行うことが重要だ、ということである。では、日本ではどういう集団に注目していくのか、それは私一人で決めることではなく、民主主義的な議論によって定めていかねばならないことであろう。
 
〈参考文献〉
Braveman, P., & Gruskin, S. (2003). Defining equity in health. J Epidemiol Community Health, 57 (4), 254-258.
Department of Health(1999) Reducing Health Inequalities: An Action Report. London: DOH
Diderichsen, F., Evans, T., & Whitehead, M. (2001). The Social Basis of Disparities in Health. In T. Evans, M. Whitehead, F. Diderichsen & M. Bhuiya (eds.), Challenging Inequities in Health: From Ethics to Action (pp. 13-23). New York Oxford University Press.
Graham, H. (2007). Unequal Lives : Health and Socio-Economic Inequalities. Maidenhead: Open University Press.
松田亮三編著(近刊)『健康と医療の公平に挑む』勁草書房。
Whitehead, M. (1990). The Concepts and principles of equity in health(EUR/ICP/RPD 414 7734r). Copenhagen: World Health Organization, Regional Office for Europe.
Working Group on Inequalities in Health (1980). Inequalities in Health: Report of a Research Working Group. London, Department of Health and Social Security.

1)両国の健康格差対策そして医療格差対策の詳細については、松田(近刊)を参照されたい。
2)もちろん人種や出身地域による格差など、多様な文脈で議論されているが、政策において健康格差が語られる中では、これらの議論が前面に出されている場合が多いように思われる。
3)National Partnership for Action to End Health Disparitiesのウエブによる
  http://www.omhrc.gov/npa/templates/browse.aspx?lvl=1&lvlid=13. 以下の引用も同ウエブからのもの。
4)これは政策議論においての注目を述べたものであって、学術的にそのような見解が定まっているということをここで主張するものではない。