資料:コメントのために

  立岩真也『良い死』(2008、筑摩書房)第2章「自然な死、の代わりの自然の受領としての生」第7節「肯定するものについて」の全文・注(pp.199-209,232-233)

  1 世界の受領
  安らかな死などと言わず、生者の悲惨から出発しもしながら、その人の存在を認めることがあったと述べた(第4節)。そして認める時、また自らの生を認めよと主張する時、それは、誰をも、どんな誰をも認めることになるのだと述べた。ひとつひとつの好悪の感情と別のところで、人の生存・生活を肯定しようという態度がある。それは天から降ってくるものだと考える必要はない。そうした態度をとることを人が欲望している(第5節)。同時にもちろん、人は様々を纏い、そうして纏っているものを気にすることから逃れられないし、逃れる必要もない。ただ、都合のよいように自らの基準を変えたり、何かを忘れたことにすることはできるし、そうすればよいと述べた(第6節)。
  ただそれにしても何を肯定するのか。私(あなた)がなんであれ、あなた(私)がどう思うのであれ、私(あなた)を生かせ(生かせよ)というあり方があることはわかったとしよう。しかし、そうして、なんであっても、と言って条件を取り外していって残るものは空白なのだろうか。私に様々な事情や感情があっても、それをそのままあなたに通してならない押しつけてならないと私が思っているという事実は認めた上で、そうして通さないことによって何が保存されるべきだと、何が肯定されるべきだと私は考えているのだろうか。また私はどうして私のしかじかによらず私が生きられるようであってほしいと思うのか。
  生きたい理由、生かせたい理由は、具体的には様々ある。それをここで集めて分類したりする必要はない。人の属性から、また人の属性に対する選好から、人を肯定することが必要でないことを述べたのだから、肯定されるべき属性を数えあげる必要はない。ただ、そのことは踏まえた上でも、なお幾つかをあげることはできよう。あるいは今まで述べてきたことから言えることがあるはずである。
  生物は本能として生存を求めるといったことも言われる。そういうものなのかもしれない。そして、人間たちが観念として死を知ってしまったことがある。そのことに関わる恐さがあり、それをふだんはそう気にしないとしても、例えばその到来の確実な時がわかってしまうといった場合にはやりすごすことも難しい。そのことは、とても当たり前のことではあるが大切なことであって、尊厳死を巡る議論において、こうして素朴に観念的な恐れがしばしばないかのごとく話が進むのは不思議なことでもある。
  どんな私であれ私がこの世に生息できるなら気が楽だと思うのではあるが、生き死にのことはやはりより深刻なことではあるのだから、そのことは忘れてはならないと、ごく当たり前のことを述べた。ごく当たり前だが看過されてしまうから述べた。よいことがべつだんなにもないとしても、恐いものは恐いのだから、そのことをないかのようにして話を進めるべきでないということである。そのことは忘れないようにした上で、より積極的な理由について。
  別の本に書いたことも含めこれまで述べてきたのは、そして次の章でも述べるのは、生がどれほどよいことであるのかと別に、それを(自ら)否定するその理由がさほどの理由でないということである。基本的にそのように考える方がよいと思っている。生を肯定する理由が失われた時に、死んでもよいということになる。生を肯定する理由が死を肯定する理由にもなってしまう。私に、また他人たちにそのような条件が付与されることを望んでいないことを前節までに述べてきた。
  ただ、そのことは、肯定するなにごとをも言えないということを示すものではない。例えば第4節で身体への加害を指弾した人たちは、人の身体を含む自然を肯定していたのだった。第1節に述べたことをみな受け入れ引き継いだ上でなお、破壊すること、あるいは破壊しなくても改変することがよくない、そのような意味で「自然」を言うことがある。世界があったらよいという感覚が私たちにはある。
  その感覚は何に発しているか。よくはわからない。幾つかがあるはずだが、それぞれがどれだけを規定しているのかはわからない。
  ただ一つに、人間は自然をけっして凌駕することはない。この事実は否定できない。人々はなにがしかのことをするのだが——そしてそれはたしかにときに途方もない効果、例えば全生物の死滅といった効果をもたらすこともできるのではあるが——それは常に、自然の全体の中で起こっていることの中では、ほんのわずかなことでしかない。その総和としての自然にけっして達することはできない。これは自明である。人間は自然を破壊することはできるのだが、それでも常に自然は人間たちよりも大きい。あるいは精妙であったり複雑であったりする。このことは私たちに畏怖の念を起こさせる。
  もちろん私たちはそれをそのままに受け取っているわけではない。たんに自然であるからではなく、美しいからよいものだと思うことがある。つまりもう一つ、人は自然が美しいと思ってしまう。同時にある部分を忌避してもいる。選別している、例えば腐ったものを避ける。生存に都合のよいようにそのように感じることになっているのだと言われると、そのようにも思う。では美しいと思う方はどうなのだろう。同様の説明があるのかもしれず、それはいくらか当たっているのかもしれない。またその「美意識」によって選択したり整形したりすることがある。そして手を加えない、偶然性に委ねるといった営みそのものが人の選択であり営みであったりもする。また、自然は暮らすための手段でもあるから、手を加える。それは必要なことである。そしてそうして変形された自然を、英国の風景にしても、日本の里山にしても、見ている。このことをもって、天然の自然といったものがないことが指摘されることはあり、それはその通りである。しかし、だからといって、そのことが自然の優位を覆したり、自然への畏怖をなくしたり減らしたりするなどということはない。
  そして、まったく明らかなことなのだが、この意味での自然への畏怖や世界に対する愛着は、生きていられる時間を短くすることを、その意味での「自然な死」を肯定することには結びつかない。その自然・世界を感受していることが長く続けばよいと思うからだ。死後に今の世界とはまた別の世界があって、そこでまた受け取れるものがあるとしても、そのことについて多くの人は十分な確信を持てているのではない。また、十分に信じられる人にとっても、その信心はこの世における世界の受領を止めたいと思わせることはない。
  『ALS』に「その先を生きること1」という章があって「世界の受信」という節がある。
  
  「見るものといえば病室の天井だけという状況に置かれつづける人がいる。そして、呼吸器を付けると天井を見たままずっと過ごすことになる(過ごすことにしかならない)から人工呼吸器を付ける付けないの決断はよく考えた上でした方がよい、と言う医師もいるし、学会のガイドラインにもそんなことが書いてある[499]。もっと率直な人の中には、呼吸器を付けて生きていてよいことはない(「低いQOL」しか得られない)、だから、付けない方がよいだろう(死んだ方がよいだろう)と言う人もいる。
  もちろん、それに対しては、もっと別のものが見られればよいではないか、「花鳥風月」に接することができるようであればよいではないかというのが、より素直な答である。
[419] 西尾健弥[269]は、日本ALS協会の事務局長をつとめた松岡幸雄に、生きていれば「春の桜、夏の海、秋の紅葉、冬の雪景色と四季折々の景色が楽しめるではないですか」と言われたという[269]。それがどれほどに受け止められたのかは書かれていないが、西尾の死後も残されている彼のホームページ(西尾[-1999])には庭の雪景色の写真と「(これは我家の庭の雪景色、この景色を眺めながら入浴します。)」という短い解説が付されている。
[420] 土屋とおる[247]。山梨県立中央病院。「病室で富士が見えるようになったのも、看護婦さんのはからいであった。長いこと天井ばかり見ていたのでは、気が滅入ってしまうからと寝台の位置を変えてくれたら、全く別の世界がひらけてきた。そこには富士が見えていた。」(土屋[1993 : 9])
  そしてむろん感覚は視覚だけでない。
[421] 知本茂治[399]。一九八八年七月、鹿児島大学医学部付属病院。「四年半ぶりにお茶が喉を通ったとき、いま使っているこのパソコンを初めて使ったときに覚えた興奮と同じ興奮を覚えました。それは『生活が広がる』という予感だったのです。」(知本[1993 : 135])
  一九九二年八月。「スズムシたちもじっとして動かない昼過ぎの一番暑いとき、病室に来た看護婦の赤松さんが、涼しげなガラスのコップを用意し、クーラーのスイッチを切り、お盆だからという変な、それでも私にしてみればうれしい理由によってビールを飲ませてくれました。[…]コップのビールはガラスの注射針で私の口の中に注がれ、食道に冷たい感触を伝えながら元気な泡と一緒に胃袋に入っていきました。[…]毎日お盆であればいいのにとも思いました。」(知本[1993 : 273])」([2004f : 275-276]、[ ]内の数字は『ALS』で引用した文章につけた通し番号)

  2 私に向かわなくてもよいこと
  その本では、その後もいくつかの引用を連ね、そして次の節は「送信」という題で、そのことについて記した。受信と送信とどちらが大切か。これは妙な問いではあり、そしてどちらも大切だというのが正解なのではあるだろう。ただ、送信は、痒い時にかいてくれと伝えるというように、まず手段として必要である。そしてその手段が自動的にうまく調達されているのであれば、つまり痒いと伝えなくてもかいてくれるのであれば、あるいは痒くなることがないのであれば、送信の必要もまた減ることにはなる。
  それ以外に、人は交信したいから交信する。それは多くの人にとって大切なことではあるだろう。この場合には、送受信の双方を要する。ただ——普通の意味合いにおいては——受信しかできない時にも、たとえば呼びかけられているなら、そこに呼びかけられそれを聞いている感じているという関係は成立している。
  それ以外に何があるだろう。自らを表出する。自らについて、また自らに起こっていることについて、なにごとかを考え、なにごとかを語る。そんなことをしたいことはあるし、またあってよいだろう。ただ、この場合でも、仕方なく語らねばならないということがある。つまり、相手が間違ったことを言うことがある。とくに自分に関わることについて、自分のことについて、間違いを語ることがある。それは間違っていることにおいて不快なことであり、その結果自らによくないことが起こることにおいて迷惑なことである。だから、本人が自ら違うことを、間違っていないことを語らなければならない。ただこの場合にはやむをえず語っている。先方が間違ったことを言わないのであれば、こちらとしても抗弁する必要はない。
  それ以外に、語りたいから語る。語りたいという思いがこの世にあること、そんな思いをもつ人がたくさんいるのは確かであり、そしてそれもよい。ただ、考えたり語ったりする営みに、それ以上の、それ以外の意義があるように言われるなら、よくわからない。
「語り」「ナラティヴ」が肯定され、称揚されることのわからなさの一つはそこにある。他人が、例えば医療者が、なにかおかしなことを言う。他方で、自分の言うことは聞かれない。それでは困る。そこで自分が語るからこちらを聞いてくれと言う。これはよくわかる。うれしいことがあったので、語りたくて語る。混乱しているので、辛いからそのことを語ったり、いくらかは楽になるかと思って、その混乱を語る。そんなこともある。それもよい。
  けれども、生きていることについて、病みながら生きていることについて、生きているが病んでいて、死に向かっていることについて、そのことを、あるいはそれがどんなことであるかを考えたり、考えたことを書いたりすること、自分にそして他人に向けて語ること、それらはみなわるいことではないが、格別によいことではない。またなされるべきことであるとも思われない。さらに、それが生きていたり、病んだり、死んだりすることの意味を与えるものであると思われない。
『唯の生』でも述べることだが、私は、生命が維持されていることそれ自体に格別の価値があるとは考えない。その意味では、絶対的な生命尊重の立場——が本当に存在しうるとして——には立たない。その生命になにかがあるから、なにかよいことがあるから、その生命はあった方がよいと考える。しかし、そのよさが、自分が何かを保っていること、自分を探したりわかったり伝えたりすることにあるとは考えない。自らを探求して何かが見つかることがあるかもしれないけれども、そうたいしたものが見つかるわけでもない。あるいは探求自体に意味があると主張されるのだろうか。とすればなおわからない。なぜそれがなされるべきなのか。その理由が、私にわかるように示されたことはない。
  世界の方が常に私よりも大きいし豊かである。だから、それを享受することの方がより大きくよいことだと考えるのが当然であると考える。そしてその世界は私の身体の内部でもあり、その世界の感受とは、身体の内部がいくらか暖かい感覚であったり、液体が体を通っていく感触であったり、体表に光が当たっていることを感じていることであったりする。私がいなくなっても世界は残るのだろうけれども、私において存在する世界は、私がいなくなったときに消えてしまう。それが惜しいと思う。
  他方に、無に向かう傾性といったものもまたあるのかもしれない。しかし、死は無の無でもあるのだから、無を望む人は死を望んでいるわけではない。多く、無の状態、というより静寂な世界が望まれている。世の中に様々なことが起こってしまうそのこと自体ではなく、起こっていることの中身が気にいらないのだ。この世には様々なことが起こり、そして疲れてしまう。そこでこの世から逃れたいと思う。人間界が辛いので、あるいはその世界に愛想をつかして、そこからいなくなろうとする。そしてそのようにこの世に起こり人々を煩わせている出来事は、人間的な出来事であり、さらに私に関わり私に貼り付いてしまった出来事である。忘れようとして忘れられない出来事もある。例えば強制収容所での体験があり、それから逃れることができず、そのために自死するしかなかった人がいる。その体験がなければよかった。しかしもうそれは起こってしまった。そのことから逃れるすべのないことはある。ただ、それはすくなくとも人間たちの問題である。
  起こらないこともできたのに起こってしまい、そしてそのことを、自分もまた人間であることによって、完全には切り離すことができない。それは、自らがどうすることもできなかったとしても人の行ないであったことによって、その人は打ちひしがれている。そこから逃れる術が確実にあると言えない。そして、ある人が死の手前でその経験を語ることは、証言・警告として有意義である。また、それを語ることを人々が懇願することもあって、そのことは、控えめであるべきではあるとしても、認められてよいことであるとしよう。ただ、その時でも、語るべきであると言えるかどうか。語られないと、人はまた悪事をしでかしてしまうだろうから語るとよいと言えるとしても、しかし、本来、具体的な証言がなくてもことのよしあしはわかるはずなのであって、ならば、やはり強く求めることはできないはずである。
  この近代という時代も始まってしばらくが経って、自らを保ち、育て、そして何かに打ち克つという物語がいくらか下品なものであることは感じられるようになった。そしてすくなくとも衰弱し死に向かう過程において、この物語を語ったり受け入れたとして、よいことはそうはない。そのことは自明である——自明であるにもかかわらず、とても多く語られているのだが。ただそのことをよくわかりながら、別の語り方によってではあろうし、その語り方は固定されていないのだろうし、その目標も定められることはないのだろうが、探求すること、そして語ることが推奨されることがある。そしてそのような語りが、近代の次の時代の語りであるとされることもある。
  しかし、語ってよいこと、事態を悪くしないために語るべきことがあることを、以上述べたように、おおいに認めるのだが、やはり、それを求める必要はないのだし、語りたくない人は語らなければよいのだし、語りようのない人は語りようがないと思えばよいのだし、既に語られない人は黙って生きていればよい。そして考えてみれば、この時代における自己とは、ずっと、なにか固定されたものでなく、探求される先に見出されるかもしれないもの、あるいは探求していくという行ないそのものが指し示すところのものではなかったか。だから私には、ここになにか格別に新しいことが起こっているとは思えないのだ★33。
  知ること、探すこと、探し続けることはわるいことではない。それがよい人には、よいことであるかもしれない。しかししなければならないことではない。自らの病の意味を探すことが病を抱えて生きていることの意味であるとされても、探しても見つかないことはある。その場合には見つかることが最重要なのでなく見つけようとすることが大切だと慰めてもらえるのだが、しかしそれでも何かが見出されると思えないし、その営みに意味があると思えないことがある。そのように思うのはもっともである。そして探す気力もないことがあり、すでにその種の営みを終了してしまった人がいる。病人に推奨される探求と表出の営みは、既に非力であり自身の身体や世界に対する物理的制御能力を失いつつある病人に配慮した営みではある。それでも、その奨めはよい奨めではない。自分のもとにあるものを探し出すより、自分を囲むものの中にいた方がよい。
  そして、世界をそのようにして受け取っているのは生きている一人ひとりである。その人それぞれに世界がある。人によって見えようが違うということはあるだろうが、同時に、それぞれの世界はそう大きくは違わないのかもしれない。しかし、繰り返すが、違いのあるなしとそれぞれが固有のものであるか否かとは別のことである。その世界に特別に存在するなにかによって、その世界の固有性が存在するわけではない。それは固有であるしかないものである。生命が終わるということはそのことが終わるということであり、消えてなくなるということである。それを失わせることはよくない。
  そのように考えず、別の準位に肯定されるものを置くことによって、ただ世界があってそれを感受している人の存在が否定される。そうして死が肯定される。それらが私たちの社会にあって選ばれる死のなかのどれだけに関わっているのかはわからない。ただ、様々を失う中での、あるいは失うことが予想される中での死の多くに、それは関わっている。そしてもちろん、まったく現実の困窮による死がある。その困窮は私たちの社会における所有・私有の制度のもとでの困窮である。それと接しながら、自らに対する不満による死が、いかほどかはあるようだ。しかし、それは自らを——満足せず自足せずしかしよりよき方向に向かうことも含め——肯定することがよいという教説——死の方に向かいがちな人の「自己評価」を高めることでそれを予防しようといった策も含む——のもとに発することではないか。それよりは——人間が世界に絡んでしまうとしばしばなかなかうまいぐあいにことは運ばないのではあるが——世界においてその受信者となっている方がよい。
  こうして、自然—人間界の様々なものを好きなようにすることは控えるべきではあるが、一身の生存のためのことは、いくつかのことに気をつけながら、した方がよいのだという、陳腐といえばまったく陳腐な処世の術が導かれる。

★33 この項をアーサー・フランク——二〇〇八年に立命館大学大学院先端総合学術研究科での集中講義・グローバルCOE「生存学創成拠点」主催シンポジウムのために来日——の『傷ついた物語の語り手——身体・病い・倫理』(Frank[1995=2002])を読んで書いている。その第6章「探求の語り」が私にはよくわからなかった。わからなかったというか、必ずしも受け入れる必要のない前提を共有して始めて理解できる章であるように思った。
   こうしたことを、たとえば「ポストモダン」の側にいると自らを規定する人たちについても、幾度も感じてきた。そんなこともあって『自由の平等』の第6章は書かれている。
   「第三に、もう一度自由が登場する。そこでは、行うことと在ることの両方から離れ、どこからも脱する自由という規定のされ方がなされる。その時点で、それはもう単純なリベラリズムではないのかもしれない。私が行うことは生産活動に限られず、もっと広いものを包接するものとして語られる。あるいは自己が生産に方向付けられることを批判する。それでも、信じることにしても、よいとするものにしても、それが自分の選択としてある限りにおいて認められるとするその論は、能産者でありすなわち所有者であるような私を私として残存させることになる。あるいは自己を表象する自由と言うとき、それがどこかを目指したものではないとしても、やはりそれは作り出そうとする。自己の実在を、またその獲得の可能性を素朴に信じないこと、支配し制御する方に行ってしまいがちな所有という言葉を使わないこと等、いくつか「進歩」はそこに見られる。そして与えられたものを脱ぎ捨てようとする。やがて、何にせよ作ってしまったらやはりそれは作られたものだとして、自らが何かであることから逃れることもまた言われることになるのだが、それもやはり破壊的であるとともに生産的なことなのであり、それによって私は駆動されることにもなる。」([2004a : 273])
   「そこに見られる」に以下の註を付した。
   「「人格とは、決して一度も充たされることのありえない計画=投影であるがゆえに、一つの願望なのである。」 (Cornell[2000:19=2002:34] )
  けっしてその願望を否定しないが、そうでなければならないものなのか。このことばかりを、この章で、他に[2000e]等々で、私は述べてきた。」([2004a : 346])
  ドゥルシラ・コーネルもまた同じ大学に講演にやってきた人であり、その時に同じことを質問した(質問してもらった)のではあるが、よくわかったというふうではなかったような記憶がある。「文化の違い」ですませたくはないのではあるが、いくらかの違いはあるのかもしれない。
  語りたくないのであれば、そして/あるいは語ってよいことがないのであれば、語らずにすませるためにも、私たちは、たとえば歓迎できない出来事が起こってしまった時に何を語ってしまうのか、それを分類し、並べ、それぞれの得失を計算したりする必要がある。山口真紀[2008]がその仕事を始めている。