資料:アーサー・フランク本の一つの読み方

天田城介

※以下の文章は、2007 年5 月〜 2008 年12 月までの期間に合計20 回にわたった連載「世界の感受の只中で」『看護学雑誌』(医学書院)の第15 回目「病い・1」の小論にごく僅かの加筆・修正を施したものである。20 回の連載の全ての文章については天田城介のホームページ(http://www.josukeamada.com/bk/bs200705.htm)にて掲載しているので、他の回はそちらを参照されたい。

◆天田城介.20070701.「病い・1」(世界の感受の只中で・15)『看護学雑誌』(Vol.72No.07).614-618.医学書院.

「本書は、病む人々を傷ついた物語の語り手として描き出そうとするものである。私は、病いについての支配的な文化的観念が、受動的なもの─病む人を病気の『犠牲者』、ケアの受け手としてとらえる見方─から能動的なものへと移行することを願っている。病む人は、病いを物語へと転じることによって、運命を経験へと変換する。身体を他の人々から引き離す病気が、物語の中では、互いに共有された傷つきやすさの中で身体を結びつける苦しみの絆となる。」(Frank 1995=2002:3)

本書を取り上げる理由について

 この連載で何をいかに言わんとしてきているのかについては何度も繰り返し記述してきたので今回は略す─第12 回、第14 回などを参照されたい─。障害・老い・病いなどをめぐって考えるべき重要な論点の一つとして、前々回(第13 回)ならびに前回(第14 回)で示したように、それらの現実がいかなる力学とせめぎあいの中で現れてきたのかを「人口」「資源」「労働」「生産」「財の徴収」などを基軸にしてそのエコノミカルな機制を読み解く作業がある。だが、もう一つには、以上の問いと深く関係しながらも、それとは一応独立した問いとして、《病いの身体を生きること》それ自体をいかに考えるか、そのことをめぐる《倫理》をどのように思考し得るのか、ということがある。これもまた私たちが思考すべき問いの一つではある(が、第2 回で記したように、障害や老いや病気などを生きる身体を生きることそれ自体を記述することは、その実、相当に難しい仕事である)。今回紹介するアーサー・フランクの著書もそのような問いに自らの病む身体をもって格闘しつつ、その身体を通じて他者/神へと開かれていく倫理について思考を重ねた本である。
 なお、「広告」のようで恐縮だが、私も登壇する予定になっている、立命館大学グローバルCOE プログラム「生存学」創成拠点の特別公開企画「物語・トラウマ・倫理─アーサー・フランク教授を迎えて」という企画が2008 年6月7 日(土)に立命館大学衣笠キャンパスにて開催されるので、関心のある方はぜひ参加されたい(誰でも無料で参加可能。詳細は「生存学」創成拠点HP内のhttp://www.arsvi.com/a/200806.htm を参照)。ただ、この原稿は7 月1 日発行の『看護学雑誌』Vol.72 No.07 に掲載されるため、上記の企画を企画終了後に知った方々への情報提供も兼ねて、上記の企画でフランク氏がいかなる問いにどのように応答したのかについては後日この連載で簡潔に言及することにしよう。
 いずれにしても、上記のような企画があり、また私が所属する立命館大学大学院先端総合学術研究科の集中講義でもフランク氏が講義してくれることもあり、「アーサー・フランク研究会」なる研究会を教員と大学院生と行なっていることもあって、私は本書を読み直しているのだが、その率直な読後感を今回は極めて簡単に記すことにする。
 ただ、誤解なきように説明しておくと、本書を取り上げるのは、上記のような「私的な理由」のみからではなく、本書を通じて幾つも浮上する問いがあると思うからである。本書は「ナラティヴ」「語り」を単調に主張する本とは異なり、その「筋」は幾つかの複層的かつ重層的な構成となっているがために、それが本書に奥行きとの広がりを与えてもいると同時に、その全体構成を順接させることの「難しさ」を幾つも指し示しているからである。

病いの身体を生きることの事実と価値について

 フランク自身が「前言」にて「以下の各章は、病いがいかに物語を必要とするのかを論ずるところから始まる。身体はその物語の土台として要求され、病いの物語はいわゆる自己物語として呼び起こされる。中盤の各章では、病いの物語における三つの語りの類型を描き出し、それらの語りを身体の使用法として理解していく。そこでは、病いが何を語っているのかを示す。これに対して、最後の数章では、その語りが持っている力に視点を移す。ここでは、証言(テスティモニー)および証人(ウィットネス)とのかかわりにおいて、病いの物語の倫理的な課題を位置づけていく」(Frank 1995=2002:4-5)と要約するように、本書は大別して以下の3点を提示する。
 第一に、冒頭で記したように、「傷ついた物語の語り手」としての病者たちが病いを物語ることは、「病む人々が物語を語りたいと思うか否かにかかわらず、病いは物語を要求(コール)してしまう」という意味で「何が生じているのかを人々に語らねばならないという実践的な課題」のためであると同時に─実際、周囲に「患者」としてのみ扱われることに対して病者が「勝手に決めつけないでくれ!」と反論したり、他者に自分の病気のあり様や自らが置かれてきた(いる)事態を詳細に説明することによって周囲から受け取るべきものがよりマシなものになるなどの現実がある─、「自分は人生のどの地点にありどこに向かおうとしているのかという感覚を、病む人がその病いによって損なわれてしまった時には、物語がその損傷を修復しなければ」ならず、そのための「新しい海図や目的地を見いだすという実存的な課題」への方法である─病気になることで路頭に迷い、右往左往する中で自らの生を立て直すなどの現実も確かにある─、と論究する(Frank 1995=2002:83-84、245)。乱暴に言ってしまうと、要するに、病者たちが病いを語ることは実践的にも実存的にも要求されてしまっているものであり、またそれは事実として病者にとってよいことをもたらす、と言及するのである。
 第二に、「病いの物語」の類型として、①「再び健康になりたい」と願う病者の欲望は他者や社会がそれを強く期待するゆえに駆動されているものであり、その意味で私たちの社会において「支配的」な語りである「回復の語り」があり(Frank 1995=2002:114)、②「決して快癒することのない生命(ライフ)の像」を描き出し、その意味で「物語の語り手が生(ライフ)を経験していくままに語られ」、私たちがいかにして「苦しみの中に取り組まれてしまうのかを語る」「混沌の語り」があり(Frank 1995=2002:139-140)、そして、「苦しみに真っ向から立ち向かおうと」し、「病いを受け入れ、病いを利用しようとする」物語であり、「病い」を「探求へとつながる旅の機会」として照射する「探求の語り」を区分して詳述する(Frank 1995=2002:163)。むろん、これら「三つの語りの類型すべてが、交互に、そして反復的に語られる」ものであり、「万華鏡の中の模様のようなもの」(Frank 1995=2002:113)であるため、明確に弁別できるわけではないのだが、「探求の物語は、病者にその人ならではの声を与える」(Frank1995=2002:164)。「回復の物語」は「医療の勝利についての物語であり、[病者にとっては]その闘いに加わらないという一面において自己物語になるに過ぎない」のであり、また「混沌の物語」は、「苦しむ人自身の物語であり続ける」が、「その苦しみがあまりにも大きいために、自己はそれを語ることはできない」のに対して、「探求の物語」は「病む人自身の視点から語られ、混沌を隅へと追いやってしまうのである」(Frank 1995=2002:163-164)。
 そして決定的に重要なのは、こうした「探求の物語」の語り手である「探求する英雄/菩薩的英雄」が「偶発性」─ちなみに、ここでの「偶発性とは、統制されえない力に従属している身体の存在状況」(Frank 1995=2002:54)を指す─を受け入れて語ることこそが、平たく言えば、「探求の物語」を通じて《自らにおいてままならない身体》に「価値を見いだすこと」こそが「伝達する身体」の倫理的実践の一つとなり得るのであると主張するのだ。「物語は、伝達する身体が、今ある姿へと移り変わってきた自分自身を、これを通じてとらえ返すためのひとつの媒体となる。そして、その物語を通じて、身体は自己へとさしだす。自己の姿を回想することと、自己をさしだすことは不可分である。それはいずれも、他者を補うことによってのみ可能となるのである」(Frank1995=2002:177-179)。
 第三に、主に第六章の途中から第八章までにおいて言及されているのだが、「病いの語り」とりわけ「探求の物語」に基礎を置いた倫理的実践を論究した上で、「語りの倫理」の中心に位置する「傷ついた物語の語り手」たちの物語を倫理的たらしめている「傷」や「苦しみ」の倫理(学)的・神学的考究を行なっているのだ。つまりは、《自らのままならない身体》─身体は「傷」や「苦しみ」などのように自らでは統制し得ないものとともにある─を基底にして自らを物語ることは、〈何か〉に呼びかけられることにより「傷」や「苦しみ」が他者に対して開かれたものとなり得るし、そのことが「声なきものに声を与える」という意味で倫理的であるのだ、と論考するのだ。

〈語り-自己-他者〉を接続する倫理の難しさ

 以下、上記の3 つの主張のそれぞれについて、現実を踏まえるのであれば、あるいは価値を導出する論理の道筋としては、なかなかスッキリとした話にはならないことを示す。
 まず、第一の点について考えてみよう。極めて乱暴に言えば、ここでは、要するに、医療供給者があたかも「主人公(ヒーロー)」であるかのように語られてきた物語としてではなく、また病者自身も他者や社会が強く求めている「病気を回復したい」という欲望に囚われることで語ってきてしまった物語としてではなく、自らでは統制(コントロール)できない《ままならない身体》とともに、混沌の中でこそ自らの病気を物語ることによって、自らの生を立て直すことが可能となると指摘しているのである。もっと平たく言えば、《病者は自らの病いとともに生きる身体のままならなさにこそ価値を見いだすことで、自らの生を立て直すことが可能であり、またそれは病者にとってよきことである》と言及しているのである。
 確かに他者や社会の都合で勝手に自らの病いが語られることは腹立たしいし、不愉快だ。これは間違いない。その意味では、自らが語ることは確かに他者によって語られることよりは「マシ」であり、有効な手段である。だが、それは少なくとも「自ら語ること」が「よりマシ」である以上のことは指し示さない。だとすれば、【A】「よりマシ」ではなく、「自ら語ること」が積極的に「肯定」されることの意味についてより考えておく必要がある。
 更には、現実に自らの身体に起こっている病いについて「自ら語ること」によって「自らの生を立て直すことが可能である」こと、そのような事実があることもまた確かである。だが、【B】「生を立て直すことが可能である」としても、その立て直しを英雄的に語ることには病いを生きる当事者たちにとって大きな苦痛と負担をもたらすのもまた事実である。一方で当事者が自らの生を立て直すことが本人にとってよいとしても、そのための行為が大きな苦痛をもらたし、また自らでは担いきれない負担をもたらすこともまた事実として残る。また病いをめぐる当事者たちによる「身の処し方」は、大いに語るにせよ、沈黙するにせよ、やり過ごすにせよ、敢えて意味づけをしない宙吊り状態に置くにせよ、様々あり得るが、いずれにしても当事者たちに苦痛と負担を余儀なくさせている現実がある。だとすれば、【C】このような幾重にも深い苦悩と葛藤、苦痛と負担を余儀なくさせている社会のあり方を問うべきであり、必ずしも「語りによる生の立て直し」がよいとは言えない─この点は前述の企画に向けて山口真紀が思考を重ねてきている点である─。
 加えて、【D】当事者が語ることがその語り手のみに苦痛と負担を押しつけることになるだけではなく、皮肉にも、あるいは逆説的にも、そのことによって他者や社会との更なる葛藤・摩擦・亀裂・断絶・対立を惹起させてしまい、そのことで当事者の苦痛や負担を幾重にも増幅させてしまうという厄介な現実があるとすれば、それでも「自らが語ること」「自らが語り続けること」の実践的課題はどこにあるのかを考える必要があると思うのだ─この点は大谷通高が自らにおいて考えてきている点である─。
 ただ、本書の主張は上記のような「自らが語ること」が「生の立て直し」においてよきことを記述しながら、同時に、先述した第二の点、すなわち「探求の物語」を通じて《自らにおいてままならない身体》に「価値を見いだすこと」こそが「伝達する身体」の倫理的実践となることをより強調しているように思えるのだ。そうであるとすれば、著者は以下のように答えるかもしれない。つまり、「自らが語ること」による「生の立て直し」は、一方で本人に何がしかの利得や効用をもたらすが、他方では何がしかの損失や負担ももたらすものであるのだが、それ自体よりは、そのように語ることなくして、あるいは身体が何がしかを語る契機なくして、そもそも他者との交通可能性それ自体が開かれることがないのであり、その意味で「自らが語る」とは倫理的なのである、と。
 しかしながら、この点についてもやはり幾つも疑問が残るのだ。要するに、【E】私たちは自らの《身体のままならなさ》のもとにあり、自己も他者も自らにおいて「統制されえない力に従属している身体の存在状況」にあるゆえに、その意味において、その限りにおいて「自分自身と結びつき、偶発性を受け止め、他者に対してお互いに開かれ、他者とのかかわりの中で自らのために欲望するものとして存在すること」(Frank 1995=2002:179)が可能になるとの主張を「事実」として受け入れた上でも、なぜゆえに「自己を共有すること」それ自体が「倫理的である」と導出することが可能であるのか、その道筋(論理的接合)が私には不明のように思えてしまうのだ。

〈語り-他者-倫理〉を語ることの難しさ

 更に大きな話がある。フランク自身は「私は近代と脱近代との間に、厳密な時代区分を行なうことを提案しているわけではない」と前置きしつつも、病いの「探求の物語」の語り手は「脱近代的な道徳的人間」になり得ることを反復的に詳述する。実際に、彼はこう言う。
 「近代の精神は、医師とりわけ外科医を病いの物語の主人公=英雄としてきた。この近代主義的な見方の中では、英雄性(ヒロイズム)は忍耐にではなく、行為することにある。(中略)探求の物語が語られることによって、また混沌の物語に経緯が払われることによって、ヘラクレス的英雄から菩薩的英雄への移行、すなわち力をふるう英雄から苦しみを耐え抜いていく英雄への移行が要求される。物語は、他者に手をさしのべ、それ自体の倫理を確かなものにすることによって、忍耐を能動的なものへと転じさせる手段である。/こうした英雄性の様式の移行は、近代(モダニティ)の基本的前提を問い直すことになる。近代の英雄は行為の人であり、またバウマンが指摘するように抽象化された理想を追求する人である。こうした英雄にとって、病いを征服することはそれ自体において大義であり、その大義が個々の病む人にとっての目前の幸福にとってかわることもある。病いの物語の傷ついた英雄は、ただ自らの経験したことを語るだけである。個人的な経験を他の個人に提示することによって、病いを探求する英雄は、バウマンの言う脱近代的な道徳的人間、すなわち『他の人々の生活や福祉や尊厳』を求める人間へと近づいていく」(Frank 1995=2002:187-188)。
 でも果たしてそのように言えるか。うがった見方をすれば、【F】「近代/脱近代」という区分は措くにしても、現代社会においてこそ「菩薩的英雄」─自らの《身体のままなさなら》を受け入れ、他者とのかかわりの中で自らを欲望し、自らを立て直すような、「慎ましき思慮深いヒーロー」─が強く要求されているのではないか。そのような「菩薩的英雄」のような「苦しみを耐え抜く」、悟りを啓いたような「英雄」であることを求められている事態こそ─換言すれば、社会、とりわけ医療(供給者)にとって「都合のよい優等生」であることを望ましき病者であるかのように語ってしまうような力学こそ─現代社会において強固かつ遍在的に私たちに作用している力ではないか。このように考える時、本書の初期設定である「近代/脱近代」という問題構成もまた無効化してしまうように思うのだ。

私たちは何にいかに呼びかけられているのか/いないのか?
 
 更にドデカイ問題がある。フランクは本書の最後に以下のように語るのだ。
 「病いの物語に対する呼びかけは、私が第三章に描き出したあり方にとどまるものではない。そこで私は、何が生じているのかを人々に語らねばならないという実践的な課題と、新しい海図や目的地を見つけだすという実存的な課題について述べたのであった。レヴィナスは、私たちが呼びかけの第三の水準に耳を傾けることを要求する。それは、人と人との間に対して開かれていくことである。今まさに苦しんでいる他者は、言葉を発しながらも、自分自身の声を聴くことができない。自分自身の声を聞き取ることができるためには、すでに無用の苦しみの中に何らかの意味が見いだされていなければならないからである。しかし、それ自らを聴き取ることのできないこの言葉は、助けを求める呼びかけであり続ける。声なきものに声が与えられているのである」(Frank1995=2002:245-246)。
 そしてフランクは「探求の物語の生みの親はニーチェであった」と記した上で、「ニーチェよりもはるか以前の生みの親」として『創世記』における「ヤコブ」を引き、最後に、以下の4 点を指摘するのである。第一に、「自己は身体を役立たせること(uses of the body)を通じて形作られる」、第二に、「身体-自己は神に対して開かれた(spiritual)存在でもある」、第三に、「傷を負い神に対して開かれた身体-自己は、内在的(immanence)の契機のうちに存在している」、最後に、「神に対して開かれた身体-自己は、継続的な責任を担うものである」(Frank 1995=2002:246-247)。「ヤコブはペニエルを離れ、イスラエルとなる。脱近代的なるヤコブは、聖別化を循環的な進行過程として描きだす。抵抗は決して完全になしとげられてしまうことはない。自己は、自らの立つ土地を聖なるものとして再発見するために、闘い続け、傷を負い続けなければならない。生きることは神と闘うことなのである」(Frank 1995=2002:247-248)。
 これは倫理学的・神学的にそれなりに大きな問いではあるが、ここではそれらについては割愛するにしても、【G】そもそもなぜゆえに、「傷ついた物語の語り手は、魔力をなくした世界に再び力を授ける道徳的証人である。(中略)脱近代の時代は修羅場であっても空虚ではない。病いの物語が、完成の道をかいま見せるのである」(Frank 1995=2002:247-248)といえるのか。それらはホロコーストの証言といかに論理的に接続するのか。この点こそが問われなくではならない。あるいは、【H】上記をかりに受け入れるにしても、なぜゆえに「世界に力を授ける道徳的証人」が「傷ついた物語の語り手」であり、とりわけ「病いの語り手」であるのか。このことも私には不明であった。
 本書は、このような「一筋縄では解けない問題」を思考するための重要な契機を私たちに与える。更には、私たちは「病い」をめぐる事実と価値について、何をいかに思考し得るのか。すべきなのか。神学的・形而上学的思考を通じて倫理を考究することはどのようなことなのか。こうした困難な問いを回避してはならないことを教えてくれる好著である。

〈文献〉
Frank, Arthur W. 1995. The Wounded Storyteller: Body, Illness, and Ethics. The University of Chicago Press. =鈴木智之訳. 2002.『 傷ついた物語の語り手─身体・病い・倫理』ゆみる出版
─ 1991. At the Will of the Body: Refl ections on Illness. Houghton Miffl in Company.=井上哲彰訳. 1996.『 からだの知恵に聴く─人間尊重の医療を求めて』日本教文社
─ 2004. The Renewal of Generosity: Illness, Medicine, and How to Live.The University of Chicago Press
Bauman, Zygmunt. 1989. Modernity and The Holocaust. Polity Press. =森田典正訳. 2006.『近代とホロコースト』大月書店
─ 1992. Mortality, Immortality and Other Life Strategies. Stanford University Press.(Twenty-Third Edition)
─ 2000. Liquid Modernity. Polity Press. =森田典正訳. 2001.『リキッド・モダニティ─液状化する社会』大月書店
Giddens, Anthony. 1991. Modernity and Self-Identity: Self and Society in the Late Modern Age. Stanford University Press.=秋吉美都・安藤太郎・筒井淳也訳. 2005.『モダニティと自己アイデンティティ─後期近代における自己と社会』ハ-ベスト社
Kleinman, Arthur. 1988. The Illness Narratives: Suffering, Healing and the Human Condition.Basic Books. =江口重幸・五木田紳・上野豪志訳. 1996.『病いの語り─慢性の病いをめぐる臨床人類学』誠信書房
Levinas, Emmanuel. 1991. Entre nous: Essais sur le penser-a-l'autre. Grasset et Fasquelle /Le Livre de Poche. =合田正人・谷口博史訳. 1993.『われわれのあいだで─《他者に向けて思考すること》をめぐる試論』法政大学出版局