配布資料 「自死遺族が自らの経験を語ることの困難——傷(wounds)が真実性を担保する時代のなかで——」

藤原信行(立命館大学大学院先端総合学術研究科院生)

0. はじめに─現代社会における「傷(wound[s])」と物語の真実性の倒錯した関係
 傷(wound[s])─さまざまな水準の傷がありうるが─は語り(narrative)ないしは物語(story)の真実性(truth)の証し(evidence)となる、という(Frank1995: xi=2002: 3)。この指摘自体は疑いのない真実である。だが現代社会において、傷と語りの真実性との関係は、いささか倒錯したものとなっている。
 現代社会では、傷がなければ語りないしは物語の真実性が徹底的に疑われる、という事態が生起している。土井隆義は、現代社会において心身の被傷が物語─とくにケータイ小説やセルフ・ノンフィクション─の真実性を担保していることを指摘する(土井 2008: 110-4)。さらに彼は、そればかりか現代社会では、自己の真実性を証明する傷としてのトラウマ経験が積極的に探求され語られるという、文字どおり倒錯した事態が生起していることに注意をうながす(土井 2008: 190-4)。
 本報告の目的は、かような状況のもとに生きる自死遺族たちが、傷の引き受けを回避しつつ、自らの語る経験の真実性を担保しようとすることにともなう困難を、ある自死遺族の語りに依拠しながら明らかにすることである。

1. ことばを奪われる/押しつけられる自死遺族たち
1.1 自死─徹底的に生起の偶発性(contingency)が否定される死

 他者の死に直面する経験は、いかなる死因によるものであれ、われわれに罪責感をいだかせるものである(若林 2003: 16)。だが、そのなかでも自死はほかの死因とは異なる特徴を有している。人間社会─とくに近代および現代─において自死は、当該現象の生起に本人ないし周囲の者たちよる選択的な作為/不作為、および結果の予期が関与しているとされている。ゆえに自死は、ほかの死因による死の経験と比較した場合、より徹底的に生起の偶発性が否定される。
 社会学者のエミール・デュルケムは『自殺論』のなかで「死が、当人自身によってなされた積極的、消極的な行為から直接、間接に生じる結果であり、しかも、当人がその結果の生じうることを予期していた」すべての死が自死であると定義している(Durkheim [1897]1960=1985: 22)。選択的な作為/不作為および結果の予期が定義の中心をなしているのは明らかである。またわれわれの社会生活においても、生命保険契約(自殺免責特約)や労災認定(業務に起因する精神疾患により希死念慮が生じたと認められない限り自死は労災と認定されない)をみれば明らかなように、自死は本人の選択的な作為/不作為、および結果の予期と深く結びつけられている。
 精神医学においては、自死は精神疾患とくにうつ病により生起するとされ、本人の選択的な作為/不作為および結果の予期は問題とされない。だが精神科医たちは、家族員や友人知人ら周囲の者たちが自死(およびその主因たるうつ病)のサインに気づき、精神科を受診させ、必要なサポートを十分に供給することにより自死は予防できる(裏返せば、自死の生起は周囲の者たちが必要な責務を怠ったためだとされてしまう)ことを強調する(大原 2001; 大野 2000; 高橋 2006; 筒井2004)。すなわち、自死が生起する/しないは、周囲の者たちの選択的な作為/不作為および結果の予期いかんであるというのだ。
 自死が本人や周囲の者たちの選択的な作為/不作為、および結果の予期と結びつけられることは、自死遺族たちに以下で述べるような困難をもたらす。

1.2 ことばを奪われる/押しつけられる自死遺族たち

 自死が本人や周囲の者たちの選択的な作為/不作為、および結果の予期と結びつけられることは、自死遺族たちに大きな困難をもたらす。副田義也が認めるように─あくまで現代社会において以下に述べることばが横溢していることを指摘しているだけであり、彼自身が正しいと思っているわけではないことを、留意していただきたい─現代社会において自死はしばしば忌まわしく恥ずかしい死であるとされる(副田 2001: 206; 2002: 30; 32)。このような自死の犠牲者を貶めることばは「自死は何らかの意志によるものとみなされ……事故死や病死と区別され……悲しむにあたらない」(時岡 2003: 122)という考え─選択的な作為/不作為、および結果の予期と結びつけられている─に基礎づけられている。このような状況のもとで「多くの自死遺児、自死遺児家庭が親の自死の事実を家庭外の人びとにかくし、話さず、ときには家庭内で家族同士ですら話題にしない」(副田 2002: 30)。遺族たちは犠牲者を貶めることばに囲まれるなかで、みずからの経験を語ること自体の困難に直面する。現代社会においては、かように自死遺族たちはことばを奪われているのである。
 ことばを奪われるだけではない。遺された者たちは、自死をめぐる特定のことばを押しつけられすらする。ハーヴェイ・サックス(Harvey Sacks)はロサンゼルス自殺予防センター(Los Angeles Suicide Prevention Center)への電話相談や警察の調書を分析し、自死の動機が家族に代表される親密な関係にある(べきである)とされる人々の作為/不作為に帰属されがちであると指摘する(Sacks 1972=1995; 1995)。しかもそのような動機付与から逃れることは困難であるという(Sacks 1995: 20)。また遺された者たちは、周囲の者たちから自死の生起した責任を追及されることが多い(若林 2003: 16)。そればかりか精神医学・臨床心理学的知識が生活の隅々まで浸透しているとされる現代社会では、自死を家族に代表される親密な関係にある(べきである)とされる人々の作為/不作為により抑止ないしは促進される〈リスク〉として理解することが、より強く求められている(毛利 2004; 永井 2004 1))。ようするに、自死遺族は〈遺族たちの不適切な作為/不作為により生起した〉ということばを、押しつけられるのである。
 自死遺族たちは、親密な関係にあった人を殺したのは自分であると考え、強い罪責感を引き受けさせられる(副田 2001: 205-6; 若林 2003: 15-8)。罪責感という傷を自死遺族たちが引き受けること─自死が生じた原因を自分のせいにすること─は、彼/彼女たちがことばを奪われ、かつ特定のことばを押しつけられる状況のもとで自明のこととされる 2)。たとえば自死遺族が上述したような精神医学的言説を受け入れることで、罪責感を強化・明確化してしまうように(藤原 2007b)。
 以上の議論をふまえるならば、つぎのことが言えるだろう。残念なことにわれわれの社会は、傷としての罪責感を受け入れない者を真正なる自死遺族とは認めない、あまりに残酷な社会なのである、と。

1.3 傷としての罪責感を引き受けることの回避と、その困難

 もっとも、真正さを保持しながら傷としての罪責感を回避ないしは低減する技法─傷としての罪責感を受け入れない者を真正なる自死遺族とは認めない残酷な社会をやりすごす─も存在する。それは、自らの自死の経験に、なんらかの「動機の語彙(vocabularies of motive)」(Mills [1940]1963=1971;Gerth & Mills 1953=1970 3))もしくは「正当化」図式(“legitimations”)(Berger &Luckmann 1966: 110-22=2003: 141-58)を付与し、それにもとづいて語ることである 4)。ジェームズ・ヘンズリン(James D Henslin)は、自死遺族たちが、(1) 自死は他者ないしは(組織・集団・社会など)非個人存在の圧力による、(2) 自死は不可避的であり近親者たちは無力に傍観するしかなかった、(3) 自死は愛他主義など善き動機にもとづいてなされた、(4) その死は実は自殺ではない、という動機ないしは正当化図式を用い、罪責感の中和(neutralize)を試みることを指摘する(Henslin 1970: 222; 228)。副田も、自死遺族たちが(1) 政治の失敗や不況などの社会的原因、(2) 疾病、(3) その死は実は自死ではない、という動機ないしは正当化図式を用いることを指摘する(副田 2001: 205)。また自死遺族のなかには、自らの経験を語りつつも動機/正当化図式の付与をあえて回避し、結果的に意味の宙づり状態を生きる者たちもいる(藤原 2007a)。すなわち、罪責感の引き受けを未決のまま延期し続けるということである 5)。
 自死遺族たちが罪責感を回避ないしは低減する技法は、おおむね以下の7 つの語彙ないしは正当化図式を自らの経験に付与し、それにもとづいて語ることである;①他人(ないしは特定の組織・集団)のせいにする、②社会のせいにする、③病気のせいにする、④不可避性を強調する、⑤愛他性ないしは自己犠牲によるとする、⑥自死であることを否認する、⑦動機/正当化図式を付与せずに語る 6)。だがそれぞれの動機/正当化図式の付与は、その可能性が文脈依存的であるのはもちろんであるが、それぞれ固有の困難をかかえているのではないだろうか。

2. 調査の目的、方法、および遺族について
 本報告では、岩手県A 町B 地区在住の自死遺族M さんへのインタビュー内容を検討することになる。以下で調査の目的、方法、およびインタビューに応じてくださった遺族の方(と自死の犠牲者、彼女/彼の暮らしている地域)について簡単に述べる。なお、本報告で引用・言及されるM さん(およびO さん)の語りは、あくまで彼女たちの立場からした場合に自明なものである。よって立場が異なれば彼女たちの語りは自明なものではない。報告者はM さん(およびO さん)の主張に与し、対立する主張をする人たちを攻撃することは、一切意図していない。

2.1 調査の目的、および〈心理学的剖検調査(psychological autopsy)〉7)との違い

 この調査の目的は、人が意味ある他者の自死に直面したときに、いかような動機を付与することにより、いかように罪責感を引き受ける、ないしは回避/低減するかを、それらの選択がもたらす固有の困難もふくめて解明することにある。
 なおこの調査は、精神医学領域で行われている心理学的剖検調査とは、以下の点において異なる。第一に、心理学的剖検調査は遺族らに面接調査を行うが、焦点はあくまで死者にある。だが報告者による調査は遺族に焦点が当てられている。第二に、心理学的剖検調査では(順不同に質問してよいが)質問項目が事前に決定されている(張 2006: 29-32)8) が、報告者による調査はそうではない。第三に、心理学的剖検調査は精神医学に基礎を置いているが、報告者による調査は社会学、とくに現象学的社会学およびエスノメソドロジーに基礎を置いている。

2.2 調査の方法と実際
 報告者は上述の目的にもとづき、2006 年3 月にM さんにたいしてインタビューをおよそ2 時間20 分おこなった。その際、M さんの隣人かつ同業者であるO さん─ M さんと報告者の間を取り持った─も同席している。インタビューはM さんおよびO さんの了解を得て録音し、逐語録を作成した。今回の報告で逐語録を使用することはM さんおよびO さんの了解を得ている。方言などわかりにくい部分には標準語に翻案したものを付した。
 O さんの本来の役割は、未熟な調査者である報告者がM さんに失礼をはたらかないように監視する〈お目付役〉であった。しかし第4 節以降の記述で明らかなように、お目付役のはずのO さんは、M さんの語りに積極的に介入している。O さんがインタビューに積極的に介入したことは、情報不足のため報告者には理解しがたかったM さんやN の生活史や、彼女の家族・親族・近隣関係、そして方言を理解するうえで大いに資することとなった。また、M さんが語ることを容易にしたことは疑いない。しかしO さんによる介入は、 Nさんの自死の動機を〈アルコール依存症〉に求める方向へと語りを水路づけようとする圧力となった恐れもある。ただし、この問題が調査目的の達成に影響を与えるといったことは、ほとんどないであろう。

2.3 自死遺族M さん、自死の犠牲者N さん、彼女/彼の暮らしている地域について
 今回のインタビューに応じてくださったのは、M さん(2008 年6 月現在で60歳代。農業)である。M さんは2000 年に夫のN さんを自死により喪った。Nさんは1930 年代の生まれで、高校卒業後会社勤務のかたわら家業である農業を手伝い、のちに農業専従となる。2000 年にその生涯を閉じた。M さんはNさんの死後、外出を控えるようになった。M さんはこれまで自死遺族のセルプヘルプ・グループに参加したことはなく、夫を自死で喪った経験を他者に語ったこともなかった。N さんの自死の動機をめぐって義父母との対立が今日に至るまで続いている。
 岩手県A 町B 地区は県庁所在地近郊の農村地帯である。岩手県は日本のなかでももっとも貧しく、またもっとも統計上の自殺率の高い県の一つであり、生活条件は決して恵まれていない。ただこの地区は、県庁所在地に近いため県内では相対的に就業・就学・医療環境に恵まれており、世帯数の減少・人口流出もほとんどない。住民たちの多くは同族団(まき)の結びつきを維持している。

3. 義父母との不和を語るM さん
 M さんの語りは、M さん自身と義父母との関係を主題として語られた。Nさんにかんする人物像やエピソードも、その主題との関連においてのみ言及された。彼女の語りは、N さんの自死を主題とはせずに進行した。まるで自死の経験を語ることを避けているかのようであった。
 M さん(とO さん)は、N さんが父母(M さんからすれば義父母)、とくに母に甘やかされて育ち、その後も亡くなるまで甘やかされていたと語る。またNさんがアルコール依存症であり、そのため自動車の運転も出来なくなり、働くこともできなくなったとも語った。だがそれらが語られたのは、M さんと義父母との関係においてであった。

(引用1:M さんが、彼女とN さんが深夜まで農作業に従事していたときに、M さんの義母/ N さんの実母が、N さんにのみ就寝を勧めたことを語る)

M: んだって、[夜]10 時まで仕事しででも、親が「父さん、俺風呂さ上がったんだし寝ろ」って言うっけ。お祖母さん[*義母]が。親が(だから、夜10 時まで仕事をしていて、それでもまだ仕事が終わらないときでも、義母は夫にだけ「風呂に入って寝ろ」と声を掛けるんです)。報: はいはいはいはい。
O: そうせばこの人一人でだえん(そうすれば、M さんが一人で仕事することになるでしょ)。
M: 俺一人してだえん。(私一人でしてたの。)筆: えっ?
M: そうせばほれえ、姑がそうんだよなはぁ。そうせば[M さんは]お祖母さんさ言うもん。[それでM さんが]「お祖母さん、あんまりだねえの?まんだ俺稼んでるんでねぇの?」って言えば、「はぁ、そっかあ」って言って、知らねえふりして素通りしてしまうのさ。お祖母さんどなはぁ。そうだったのさ。あんまり甘え、甘やがしたのさ。んだがら親が悪って俺は言うの(姑が夫だけに「風呂に入って寝ろ」と言ったことに、私は「まだ私は仕事がある(だから夫もまだ寝るべきではない)」と文句を言ったけど、義母は「ああ、そう」と言って、あとは知らんぷりして通り過ぎて行ったの。こんな感じで夫は甘やかされていたの。だから私は義母が悪いって言うの)。
(中略)
M: うんうん。んだって、おらほの親、だれぇ、[夫にだけ]「はぁ、寝ろ」ってへうっけ。それだば俺も憎ぐなるっけものなあ。どごのしぎに(うん、だから義母は夫にだけ「もう寝ろ」って声をかけるから。そうなると私も腹が立って。どういうつもりなんだか)。
O: んだがらやっぱりこういう風になるのは、甘い親なんだ(こうやって義母に甘やかされたから、あんな感じの人[*アルコール依存症]になったんでしょ)。
M: 甘いの。うんとほれぇ。甘やがしたの、なっても(義母はとにかく夫を甘やかしたの。とにかく)。

(引用2:M さんが、アルコール依存症となったN さんの飲酒を止めさせようとしたことで、M さんの義父母/ N さんの実父母と対立したことを語る)

M: 本当に。[夫の]親は気づかないわげだ。[私からすれば]「分がらないか」って。お祖父さんだのお祖母さんだの[に]分がらないかって言えば、「分がらね」って言うっけおん。そうせば俺は、あれぇ、憎まれだのさ(義父母は夫がアルコール依存症で酒を飲ませてはいけないことを全く認識していなかったの。私からすれば「なんで分からないのか」と思うけど。聞いてみても「分からない」って言うし。だから私は[夫から酒を取り上げたことで義父母に]憎まれたんじゃないの)。
O: んなんだな。そういうごどだおんね(だから義父母と喧嘩になるんだよねぇ)。
(中略)
M: で、お祖母さんだのお祖父さんさ言っても分がねがった(で、結局いくら義父母に言っても[夫がアルコール依存症であることは]分かってもらえなかったの)。
O: 分がねんだぢゃ(分かんないんでしょ)。
M: わ、やっぱりわが子だど思えばなはぁ、かえって、俺のごど憎がるっけもん(さすがにわが子が悪いと思いたくないのかな。かえって私のことを憎んで)。
報: なんで呑ませないんだ、っていうこと、ことなんですか……。
M: うん。結局なんで呑ませないんだっていうごどなんでしょうねえ。こんなに呑みてぇのに、なはぁ。
O: 呑みてえのになはぁ。結局さあ、私らはさあ、旦那のごど案じてだよ、具合悪ぐなられだら困るしおかしぐなられでも困るど思えば言ってるんだよ(N さんは呑みたいでしょうけど。妻の立場からすれば、夫のことを気遣って、具合が悪くなったり依存症になったりすると困るから、[呑むなと]言ってるのに)。
M: 案じてさぁ。うん。そうそうそう。
O: それを親は、た、ただただ甘やかして。息子は呑みてぇのに息子は、かわいそうに、って顔して。
M: ただたた、[義母は酒を飲ませてもらえないN さんが]かわいそうだど思って。けど……。
(中略)
O: してで、今の自分の子どもだげさは可愛がって(義母は自分の腹を痛めた子どもだけ可愛がって)。
M: 可愛がって酒まで呑ませたの。朝飯前がらね。
O: それが悪ぅおんや。
M: それが悪い、それが悪がったんだって[私は]言うんだって。

(引用3:M さんが、アルコール依存症のN さんから自動車の鍵を取り上げたことをめぐり義母と対立したことを語る)

M:[ 夫は]平気で呑んで走る。んだがら俺、最後に鍵取っ返した(アルコール依存症の夫は平気で飲酒運転をするので、最期は私が自動車の鍵を取り上げたの)。
O: んだえんが(そりゃそうでしょ)。
M: 鍵、取っ返したのゆぐねって、お祖母さんに言われだどもなはぁ(でも、自動車の鍵を取り上げたことが許せないって義母に言われたけど)。

(引用4:M さんが、アルコール依存症のN さんの飲酒を止めさせようとしたことが義母の反感を買っていたのではないかと語るなかで、自身が働けなくなったN さんの分まで働いていることに言及する)

M: ぐずぐず俺[が]「呑むな」って言えば、はぁ、恨まれる気する。お祖母(さん(おばあさん=義母)に(私がしつこく夫に「酒を呑むな」って言ったことで、義母に恨まれている気がするの)。
O: んなんだ。そのほど呑ませてくて朝がら呑ませでら人だものね(そうでしょ。そんなに息子に酒を呑ませたくて、朝から呑ませてたくらいの人だし)。
M: んだおん。朝飯前がら呑んでぐでぐでってれば、はぁ(そう。夫は朝飯前から呑んで、泥酔して。もう)。
O: 仕事にならねぇよね。本当はね。
M: 仕事になんないのさ。んだがら必死になって俺、機械で仕事して(仕事にならないから、自分が必死になって、機械を動かして仕事をしてるの)。
O: んだがらすごいんだぁ。[M さんは]稼ぐんだもんねえ。俺だば怠げで、俺なんか稼がねえって舅さんがごしぱらげる(すごいよねぇ。M さんは働き者だから。私なんかは怠け者で仕事しないって舅に怒られるくらいなのに)。

 M さんの語りの主題が義父母との関係にあることは、たとえN さんの自死に言及せざるを得なくなったときでも変わることはない。

(引用5:報告者がトイレから戻り、M さんとO さんに「なにか聞きたいことはないか」とうながされ、それに応えておこなった以下の質問にたいする、M さんの返答)

報: えーっと、えーっと、あの、それで、亡くなったあとですけれども。それで、そのことで、な、まぁ、あの、舅さんとか姑さんとか、が、あの、親類縁者とか、近所の人とかに、なにか……。
M: 言われだった。お祖父さんどお祖母さんに「んな殺した」って(義父母に「お前が息子を殺したんだ」と言われたけど)。
報: え、どういう、どうしてですか、それは?
M: んだがら、[M さんがN さんにたいして]なんぼ呑むな、呑むなって言ったのがゆぐねんだがな、お祖母さんにも言われだ。お祖父さんにも言われだの。お祖母さんに「んな殺したぢゃ、父さんのごど!」って、こう言われだの。そうしたっけ、お祖父さん「んな父さん殺したぢぇ!」って。俺お祖父さんどなにが話したったどぎ、そのどぎ言われだのね(だから、私が夫に酒を呑むなと言い続けてきたことが許せないんでしょ。義母には「お前が息子を殺したんだ!」って言われて。義父には「お前が息子を殺したんだ!」って言われて。私と義父がなにか話してたときに言われたの)。
報: で、そのときに、そういう風に、お前が殺したんだって言いますよね。そのときに、その、お前が殺したんだって言う理由とかは?だからそうなんだとかっていうようなことは?もう、いっしょになにか、言ったりとかは?
M: 言わない。私は。
(中略)
報: でも、それ、で、向こうは、「こうこうこういうことだから」っていう風な理由付けとかは、みたいなことは?ない?ただ……。
M: ない。ただ、んな殺したって。酒呑んでらのをほれぇ、俺、私は呑むな呑むなって言ったのが、ゆぐねくてそういう風に「殺した」って言ったんだな、ど思ったの(とくに理由は言わなかったけど。私が夫に酒を呑むなと言ってたことが許せなくて、そんな風に「殺した」なんて言ったんだろうって、私は思ったけど)。

 このようにM さんは、N さんとの経験を、ひたすら義父母との関係という〈主題〉に関連づけて語る。またM さん(とO さん)はN さんの自死に言及することは極力回避し、たとえ言及せざるをえなくなったとしても、義父母との関係のなかに還元する。そしてその後、一時間以上も〈嫁VS 姑問題〉─N さんの自死とは関係もなく!─が語られることとなった。M さんは〈自死遺族〉でもあるが、〈嫁VS 姑問題〉に数十年にわたって対峙している〈農家の嫁〉でもあり、ほかにもさまざまの役割ないしは立場を有する〈多元的な〉自己である。なによりもM さんにとっての世界の中心には、義父母との関係がある。夫の自死の経験という多大な困難をもたらす事態であっても─もしくは、であるからこそ─、その義父母との関係に関連づけることによってしか語り得ないのである。
 だが、まだこの段階でM さんは、N さんの自死の動機を確定しようとはしなかった。報告者は、M さんが、⑦動機/正当化図式を付与せずに語る技法、を採用するのではないかと考えた。だがそれは違っていた。

4. アルコール依存症を媒介にして、N さんの自死を〈他人のせい〉にする
 M さんは最終的に、アルコール依存症をN さんの自死の動機として選択した。だがこの選択は、③病気のせいにする技法を選択したことを意味しない。M さんが実際に行ったことは、アルコール依存症を媒介として、N さんの自死の動機を義父母(N さんからすれば父母)に帰属させることであった。すなわちM さんは、①他人のせいにする、ことにより、夫の自死を経験したことにともなう罪責感の引き受けを回避したのである。

(引用6:M さんとO さんに質問をするようにうながされ、それに応じた報告者がNさんのアルコール依存症と自死との関連が見出せないと問う)

報: あの、えーっと、その、旦那さんが亡くなったことと、その、アルコール依存症のことって、あまり関係が、あるのかないのか……。
M: アルコール依存症だがら、結局呑んだがら死んだのさなはぁ。
報: 呑んだから死んだというのは?
M: あ、だれぇ……[*口ごもる]。
O: だってそういう風にしか考えられねぇよなはぁ。
M: そういう風にしか考えられねぇんだおんなはぁ。
(中略)
報: うーん、じゃあ、まあ、そのことがなければ、亡くなったりはしなかったろうという?
M: そうだど思うよ。
O: 思うよね。ああいう風な感じの人だもの。
M: ああいうような感じの人だがらなはぁ。
O: べつに、本当にそういう風になはぁ、それごそ深く他人に言われだごど考えで大変だぁ、って人でもねぇっけすちゃ(N さんはべつに、そんなに他人に言われたことで深く思い悩む人でもないし)。
M: 考える人でもねぇ(思い悩む人ではない)。

 であるからこそ、N さんの自死にアルコール依存症という動機を付与するにしても、あくまで義父母との関係に関連づけるという語りの筋は維持される。いや、されねばならない。

(引用7:M さんが、N さんがアルコール依存症となったことと自死にいたったことを、義父母との関係に関連づける)

M: んだがら[N さん以外の家族員がイエで]呑むどぎはみんな一緒には呑まないで、って言われだったおん。病院で。んだがら、息子もお義父さんも呑まないの。そごではなはぁ。それでも、お義母さんは、何日が経ってがら「べっこぐれぇだ場合いんだぢゃ」ってそって、はぁ折れだのさぁ(医師から、家族の誰かがイエで酒を呑むときは、夫と一緒にいるときは避けろって言われたんで、息子も義父もその指示を守ってたんだけど、義母は何日か経ってから「少しぐらいならいいでしょ」と言って、夫に酒を呑ませたの)。
(中略)
O: やっぱりさぁ、甘いのだぢゃ。あのお義母さんが([N さんがアルコール依存症担って死んだのは]やっぱり義母が甘やかしたせいじゃないの)。
M: 甘い。甘やがしたのさぁ。呑ませねぇ気して俺もがんばって気ぃ付けで見ぃ見ぃしてらったの。言われできたがらさぁ……(甘い。甘やかしたの。医師からも言われるので、私が呑ませまいとして気をつけて見張っていたのに……)。
O: んだよね。家族がなはぁ、みんなしてあがねったらあがねんだ場合いんだども、ほらぁ、おふくろさんが……(そうだよね。家族がみんな呑むのをだめだって言ってるならよかったんだけど、結局M さんの姑さんがね……)。
M:[ 義母が]「べっこぐれぇだばいんだぢゃ」って言って、はぁ、そいづではぁ、あがねっけ([結局義母が]「少しぐらいならいいでしょ」と言って、そのせいで[N さんの]禁酒はうまくいかなかったの)。

 以上の語りから明らかなように、M さんはアルコール依存症を媒介とすることで、N さんの自死にかんして義父母、とくに義母に大きな罪があるという主張(claim)を正当化し、傷としての罪責感を回避することが可能となっているのだ。そうである以上、自死の経験の語りとは関連性がないように思われる〈嫁VS 姑問題〉の語りも、義父母、とくに義母を、実の息子を結果的に自死に追いやるにふさわしい存在として構築(construct)するうえで、不可欠の手続きなのである。
 ではM さんが、夫であるN さんの自死の動機を義母に帰属させることは、いかなる事態を招来するのであろうか。

5. おわりに─自死遺族が自死遺族であるがゆえの困難?
 M さんは、第2 章第3 節および第4 章(の引用5)で述べたように、夫であるN さんの自死の動機をめぐり、今日にいたるまで義母と対立している。この対立こそが、①他人のせいにする、という技法により、夫の自死の経験にともなう罪責感を回避したことの、代償である。M さんはこれからもずっと、義母(とその支持者たち)とN さんの自死の動機をめぐって戦うこと(war)─冷戦もふくめて─を継続せねばなるまい。
 われわれはこのようなM さんに、夫の自死の経験にともなう罪責感を引き受け、それがもたらす苦しみと闘い続ける(wrestle)ことをうながしたほうがよいのだろうか。どちらがよいなどと言うことはできない。いずれを選ぶにせよM さんは、なにがしかの困難を引き受けざるを得ない。
 どうやらわれわれの社会は、傷としての罪責感を受け入れない者を真正なる自死遺族とは認めないという以上に、残酷であり、倒錯しているようだ。なにしろ、彼/彼女たちに傷としての罪責感から解放されるかのように思われる方策を与えておいて、そのうえで出口なしの困難な状況に追い込むのだから。

〈註〉
1)1.1 における精神科医たちの流布する言説も参照のこと。
2)アーヴィング・ゴフマン(Erving Goff man)は、自らにとって不本意なことばを受け入れざるをえない事情を、以下のように述べている。人が物事の秩序づけられる特定の流儀を嬉々として受容する背後には……[秩序への]反乱者と見なされることを受容した場合の現実ないしは想像上のコストという、身も蓋もない事実が存在する……個人が惨めな相互行為上の協定を公然と受容するという、落胆させられるほど[優れた]理解力を示すという事実はいささかも疑いない(Goff man 1983: 6; 角カッコ内は報告者の加筆)。
3)本報告において「動機」というタームは、もっぱらこの「動機の語彙(vocabulariesof motive)」という意味で─すなわち、人間の言動やその結果生起する出来事の原因ではなく「ある状況に置かれた行為者や他の成員にとって……社会的・言語的行為にかんする問いへの、疑問の余地のない回答」(Mills [1940]1963:443=1971:347)という意味で─用いる。
4)人々の経験への動機ないし正当化図式の付与は、その経験に理由を与えるだけでなく、関係する人々に道徳的評価を遡及的に与え、さらにそれらの人々にたいして爾後に行うべきである(あった)適切な言動をも指示する(間山 2002: 155; 藤原 2008: 340)。よって動機ないしは正当化図式の付与は、経験を語るために不可欠である。
5)ただしこのような未決状態は、「世界がぐらつき……その主観的信憑性(plausibility)が失われる」(Berger 1967: 17=1979: 25; 訳文は訳書のものを一部変更)状態にとどまり、混沌(カオス;chaos)に直面し続けるということでもあり、きわめて困難である。
6)もちろんこれらの技法を複数組み合わせることは可能であるし、現実にも組み合わせて用いられている。
7)心理学的剖検調査とは、自死の疑いのある死亡事例を究明するための技術である。方法は、調査者たちが死者と関係が深いと思われる人々(家族員、親族、友人知人、会社/学校関係者など)に面接を行い、自死か否か、そして自死の場合はその動機と精神疾患の関与の有無、を判定する(Evans & Farberow 2003=2006:220-1;張 2006:26-32)。この心理学的剖検調査の問題点等を追究することは、必要ではあるが膨大な作業を必要とするため、本報告で取り上げることは不可能である。今後の課題としたい。
8)心理学的剖検調査はあらかじめ質問事項が決定されているために、調査者が知りたいことだけを聞くことになりがちである。したがって、語りそれ自体に内在する合理性や意義を理解することが妨げられる。

〈文献〉
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