配布資料 「なぜ、セルフヘルプグループの参加者はグループ通いが長期化するのか」

中田喜一(立命館大学大学院先端総合学術研究科院生)

0. 問題の所在
依存症 1)の問題を抱えた人の中には、SHG に通い回復を目指す人がいる。その人たちは、Adult Children Anonymous(以下、ACA)や Alcoholics Anonymous(以下、AA)というSelf help Group (以下、SHG)に継続的に通い続けている。これらの人々はSHG に通うことが長期化する人々が比較的多く存在する。2007 年に大阪で開かれたAA コンベンション 2)やビックブックと呼ばれる彼らの告白体験記を見ても通い続けて三年、五年といった長期間AA に参加する人が大半であり、グループへ長期に通い続けている人々が比較的多い。
本論では、「依存症者のSHG 通いがどうして長期化するのか」という問いを物語論の視点からアプローチする。まず、SHG の物語論以前の先行研究を検討していく。伊藤 [2000] が指摘するとおり、これまで、多くのSHG に関する効果を論じる先行研究はSHG の本質的な機能を知識の伝達や情緒的効果として大雑把に議論を片付けてしまっている。これらの研究の批判的な論点として、近年SHG の効果を物語や語りの観点から分析しようという研究が数多く提出されてきている。
しかしながら、SHG の物語論的な効果の研究でさえ、自己と他者との関係をその回復の前提としながらも、個人から個人への知識の伝達と伝達することの意義や伝達されることの意義を通じて議論されている研究が多い。(伊藤[2000:96-97])
過去の物語論から欠落しているのは、物語特有の視点である。つまり、自己を語り、語り直し、そして、自己の物語を生きるなかで、それらの変化を自分の人生のひとこまとして不断に位置づけ直すという説明を可能にするという視点を見落としているのである。本論は、基本的に野口 [2000] らの構築主義的なナラティヴ・セラピーの分析枠組みを基本的なフレームワークとしながらもナラティヴ・セラピーに欠けているような自我論からの批判も浅野智彦 [2001] の議論に従って補っていく。
ナラティヴの視点は、浅野が指摘するように対自関係のパラドックスを隠蔽するような性格を有しうる。SHG を物語論的な視点で観察する研究のほとんどが、自己を物語として捉えていながら、浅野が指摘するような自己内部の対話のパラドックスを脱パラドックス化するために他者が必要という側面を明確に描き出していない。本論は、脱パラドックス化装置としてSHG があり、その論理的な帰結としてSHG 通いが長期化してしまうということを指摘したい。尚この研究において、長期化それ自体を問題とはせず、あくまで物語論の論路的な帰結としてそのような自体が起こる可能性があるということを指摘するに留めておきたい。今回用いるフィールドノーツは、私がACA、NA、OA、AA のミーティングに参加したものや昨年、京都で行われたアディクションフォーラム2007 3)に依存症当事者と共に実行委員として参加して得られたものである。

1. 依存症のセルフヘルプグループ
1.1 AA の歴史

SHG には、依存症者のSHG 以外にも様々なものがあるが、起源を遡ると、依存症のSHG であるAA にたどり着く。「Anonymous」という言葉が付けられているグループ名からも明らかなとおり、匿名性を原則とし、会費や入会金などは必要ない。さらには、AA は平等性を原則とし、お互いの名をニックネームで呼び合う。AA のメンバーになるための条件は、アルコール依存症でありかつそれをやめたいという願いだけである。SHG である。AA は、「12 ステップ」と呼ばれるプログラムを使用してミーティングをしている。AA は、12 ステップを使ってミーティングするアディクションのSHG の起源的な存在である。発祥地のアメリカやその他の国々においてもっとも長い歴史をもっていて、メンバーや地区のグループ数ももっとも多い。AA に所属するメンバーの拡大は、他の嗜癖の問題を取り扱うさまざまなSHG の設立を助けてきた。そして、これらのAA の後に設立されたグループの原理や方針に多大な影響を与えた。
依存症者のSHG は、アルコール問題に関してのみではなく、薬物問題のNarcotics Anonymous、過食問題のOvereaters Anonymous、ギャンブル問題のGamblers Anonymous、コカインの問題のCocaine Anonymous 4)
などがあり、これらは、AA を参考にした。そしてこれらのグループはAA の方式、すなわち「12 ステップ」の方法を取り入れているグループである。
AA の起源は、1935 年、米国のオハイオ州アクロンで二人の慢性的なアルコール依存症者のビルとボブによって作られた。この二人は、ニューヨークの株式仲買人とオハイオの外科医であり、1933 年に出会った。両者とも、何年もの間、飲酒を試みては失敗を繰り返していた。

1.2 12 ステップ系と非12 ステップ系という分類

SHG には、大きく分けて2つの類型がある。ひとつは、12 ステップを継承するグループであり、もうひとつはAA の伝統を継承しないすなわち12 ステップを採用しない非12 ステップのグループである。Katz がした指摘を受け取り、違いを明確に分けて論じていく必要がある。Katz [1993]は、SHGの分類をグループが取り扱っている問題、代表者、人種や性別や年齢、社会政策的な立場をとるか否かと多くの要素が分類に対して有効であると示しながら、基本的で重要な分類上の基準が、12 ステップを使用しているかどうかという点に求めている(Katz [1993=1997:11-27])。
AA は、オックスフォード・グループの理念をAA は継承しており、プログラムの12 ステップはスピリチュアルな概念を多く含んでいる。これらの、12ステップを使用するグループは、まず自己の無力を受け入れ、自己のハイヤーパワーを受け入れていくことを前提としたものであり、非12 ステップ系のSHG とは大きく異なっているのである 5)。

1.3 治療志向系と社会変革志向系という分類

さらに、岡知史 [1988] によるとSHG の機能として、グループのメンバーの考え方や行動を変えていく自己変容的機能と、グループのメンバーをとりまく社会的環境に働きかける社会変革的機能の二つに分けて考えることができるという(岡 [1988:12-16])。AA ではグループに参加して間もない時期は、アルコールへの嗜癖をやめ続けるために先輩メンバーにアドバイスなどを貰う。やがて、グループへの所属年数が長くなってくると、AA を知らない依存症者に伝える社会啓蒙活動の役割を担うのである。この二つの分類は明確に、社会変革を主体として活動しているグループと治療を主体として活動しているグループと類別できない。しなしながら、どちらをグループが主な活動目的としているかを捉えるときの分類基準としてみることができるように思われる 6)。

2. 既存のセルフヘルプグループの効果の語られ方
2.1 セルフヘルプグループの効果

本論の主な対象としては、アノニマス系で治療志向系であり、精神障害者のSHG においてメンバー数が多いグループである 7)。これまで、SHG という集団が参加者に与える効果という側面で語られてきた。たとえば、よく言われるものでは、T. Borkman は、SHG には専門家の体系化された知識とは違いメンバー自身の体験的知識(experiential knowledge)が存在していることを明らかにしている。
T. Borkman によれば「体験的知識」という言葉は「ある状況への直接の関与から習得された洞察は真である、という高度の確信」を示しており、そうした知識は専門的知識と異なり実際的で、長期的進展よりむしろ「今ここでの行動」に志向していて、生理・病理学的に限定されるよりむしろ心情的なものも含んだ全体的な知識である。
また、P. Antze は、SHG の集団に「イデオロギー」が存在することを指摘する。P. Antze は、各々のグループが「教え(teaching)」の体系を持っていることを指摘して、そのような、いわば知恵の総体を「イデオロギー」と呼んだ。彼によれば、SHG の参加者の根本的な認識や態度を変える解毒剤としての役割をイデオロギーが果たすという。従って、SHG に関わる専門職は、そのグループのイデオロギーを壊さないように気をつけなければならないと彼は戒める。例えば、AA の場合、「12 ステップ」や「ハイヤーパワー」などがそれにあたる。つまり、P. Antze の主張を要約すると、「イデオロギー」が首尾よく参加者に吸収されると、それは認識や態度の変容に影響を及ぼしうるということである(伊藤 [2000:93] )。
さらに、F. Riesmann はSHG において、「ヘルパー・セラピー・原理(helpertherapy principle)」の存在を指摘している(Riesman [1965:27-32])。一般的に、私たちは自分がある問題に対して困ったとき自分より知識や経験がある人間を選ぶ。しかし、このような解決方法は「相談する側」と「相談される側」という関係性を相談する以前から規定してしまう。また、このような上下関係が発生せずとも、恩や借りができるといった感情を想起させてしまう。つまり、被援助者になると関係性における地位が低くなったり、自尊心が奪われたりする。しかしながら、逆に援助者になった場合は有能感や自尊心が高まったりする場合が多く見られる。
また、徒弟制度としてAA を捉える研究も存在する。Lave [1991] らは以下のように述べている。
 
「AA において次第に古参者になっていく新参者の参加の形態の変化を描き出してくれる。AA において、周辺的参加から十全的参加へ進むプロセスに沿って導いてくれるもので、仕立屋の徒弟の衣類の目録が徒弟制を通して彼らが進歩していくための進行表の役割を持っているのと同様に大いに助けになる。」(Lave and Wenger [1991=1993:61])

Lave [1991] らの研究によると、回復には、自分自身と自分の問題をAA の見方で見ることを学ぶことを徒弟制の中で見出すとしている。
これら四つのSHG の効果についての議論を外観してきたが、この効果について批判が出ている。次節では、その批判を概観していく。

2.2 セルフヘルプグループの効果批判と回復の意味

伊藤によると、体験的知識や援助者療法原理および、「イデオロギー」にはある一定の共通モデルがあると指摘している。そのモデルにおいては、知識なり知恵といった教示的内容を持つメッセージがグループ内に何らかの実体として蓄積しており、参加者はそれを言語的な相互作用の中で吸収する。したがって、参加者の変容を決定づけるのは、それらのメッセージの質的な内容だ、ということになる。確かに、SHG には特徴的なディスコースがあるため、この説明は一見もっともらしくみえる。何が「イデオロギー」であり「体験的知識」であるのかも、それらがどのように蓄積されたり伝達されたりするのかも、確認するのが難しい。もちろん、明らかに教唆的な内容をもったディスコースや、グループ独特の抽象的表現が複数の参加者によって口にされることはあるが、それも比較的限定的に限られていて、大半の時間はむしろ教示的な内容と縁遠い個人的なエピソードに費やされる。そういった、エピソードのひとつひとつまでもが「体験的知識」としてグループ内に蓄積されているのだと主張するのは無理がある(伊藤 [2000:51])。 
確かにヘルパー・セラピー原則は援助する側が、自分たちのもっている体験的知識を利用して援助される側を導いている。それは、たとえばアルコール依存症者が新参者に対して、ミーティングのルールや司会のやり方といったことを教えていく。しかし、これはあくまでもすでに体験的知識を通じてある程度、嗜癖問題について回復した参加者が援助されるということしか述べていない。つまり、「なぜSHG で援助される側から援助する側になっていくのか」ということは何も述べていないのである。援助者療法原理は、他人に話すことで初めて自分自身にわかることがある、というごくありふれた体験に照らしてみてもたいへんわかりやすく説得力もあるので、SHG の機能としてしばしば引用される。しかし、実際のところ、この原理にはサーヴィスの与え手と受け手に関する固定概念を打ち破るという意図はあっても、SHG の機能に関しては、次のように限られたことしか述べていない。すなわち、ある程度グループ活動に積極的に関わるような段階に至った参加者は、自分より新しい参加者たちや、将来新しい参加者となるかもしれない人々に対して援助的な活動を行うことになりやすいが、そのことは逆に彼・彼女自身の動機付けや積極性を強化する効果がある、ということである(伊藤 [2000:92-93])。
また、Lave らの研究も結局のところ、何をどのように学んでいることが曖昧であり明確な学習のプロセスを示してない。彼らは徒弟制度の中で、先達の見方を周辺的な学習から参加しやがて自らのパースペクティヴにプログラムを内面化させるという議論を行っているがなぜ、SHG で可能なのかということを明確にしていない。このように、従来の議論において、必ずしもSHG の効果が的確に説明できていなかった側面がある。

2.3 依存症者の「回復」 の意味

依存症の当事者が、どのような状態になれば回復と呼んでいいのか。そのような当事者の側の認識無くしては議論ができない。特に、嗜癖問題に関するSHG の効果を論じることは、参加者の嗜癖問題の改善になんらかの寄与なくしてはありえない。それでは、SHG の当事者は、どのような状態が回復と呼べる状態と感じているのだろうか。そのことを確認していこう。
AA のメンバーが語る嗜癖問題の改善は、断酒を継続するだけではだめであり、たとえ断酒できていたとしてもそれは、本当に嗜癖問題が改善したとはいえない。飲んでいなくても、激しい気分の変調や一貫した気持ちでいられなければ、それは飲んでいたときと同じであると語る。いわば、飲んでないときも酔っ払っている状態(ドライ・ドランク)というのが、AA の主張なのである(葛西 [2007:114])。
 
「何度も、立ち直ろうと決心した。しかし駄目だった。今日が飲み納めだ、明日からは死んだ気になって頑張ろう、と本気になって決意はするのだが、翌日になると考えが変わっていた。朝起きた時の自分、会社にいる時の自分、飲み屋にいる時の自分、酔いがまわってきた時の自分、一体どれがほんとうの自分なのかわからなくなるほど、考えがころころ変わるのだ」(AA [2002:305])。このような、アルコホリックの告白を見てみても、ドライ・ドランク状態に苦しんでいるのがわかる。つまり、明日から死んだ気になってがんばろうと決意したとしても、翌日になったら死んだ気でがんばろうという気になれずまた再飲酒してしまいそうな気持ちになる。こういう状態においては、AA のメンバーは回復したとは見なさないのである。そして、本人にとってもこのような気持ちが度々変化するような状態を変化とみなさない。このようなメンバーと個人の相互関係でAA 内部での回復についての現実が構成されている。また、アルコホリックならまだ身体症状があるのでいいが、アダルトチルドレンの場合は、嗜癖問題になる場合もあれば、そうではなく「生きづらい」とか「対人関係が不安」といった本人の意識の問題が介在してくるので、いっそう回復とはどういう状態であるのかが分かりづらい。しかし、ここで重要なのはアダルトチルドレンやアルコホリックに共通するのは、客観的にどうであれ、「自分自身が納得し生きづらさが無くならなければ回復とは見なさない」ということである。このことは、物語として人を捕らえるときに重要な視点となってくる。なぜなら、他者から見られたときにどうなっていればよいかというよりは自分自身が納得するような自己に対しての物語を語れてはじめて回復するということを示唆しているのではないか。そうだとすると、その物語はSHG における回復の場合、メンバー同士がコミュニケーションを交わす中で生まれてくるものである。先行研究では、このような回復のコミュニケーション的な構成の点がこれまで曖昧であった。このような、先行研究の曖昧な部分を乗り越える研究として出てきたのが、SHG の物語論的な効果を論じた研究である。

3. セルフヘルプグループと物語論
3.1 セルフヘルプグループの既存の物語論考

SHG に関する物語論からの研究の特徴は、グループで語られる物語の構造的な特徴と語りが行われる場の特性、そしてその効果を同定するものである。C. Cain [1991] は、AA における個人の物語が語られる過程をアイデンティティの獲得過程にとらえた上で、新参のメンバーはグループの中でのベテランメンバーとのコミュニケーションによってAA の理念を学習して、語りを修正していくことを指摘している(Cain [1991:210-253])。
また、D. R. Mains [1991] は、糖尿病患者のSHG においてメタな水準で語る方向性を規定する規範の存在を指摘し、この規範を「メタ・ナラティヴ」という概念で表した。また、語られる物語がメタ・ナラティヴに合致するか否かにより、その人物がグループになれるかどうかということが決まるということを指摘している(Mains [1991:185-202])。
これらの物語論的な研究にも、伊藤 [2000] はP. Antze やT. Borkman の研究に対して批判したのと同種の問題が含まれていると指摘している。たとえば、伊藤によると、D. R. Mains のメタ・ナラティヴモデルに対しては、こう指摘する。確かにSHG には、それぞれ一定の目標なり考え方といったものがあって、語られうる物語の許容範囲を設定している。しかし中心的なメンバーが「メタ・ナラティヴ」を共有しているというD. R. Mains の説明はたいへん疑わしい。「結局のところ、グループ内で感情表出的な反応をひきおこし、頻繁に生産され消費される物語がそのグループで共有される物語だ、という至極大雑把な知見を提出しているだけではないか」と辛辣な批判をしている。またC. Cains のアイデンティティの獲得過程としてベテランメンバーが新参メンバーに与えるモデルも、グループには特有の理念がコードされた形で存在していて、個人は物語という媒体によって身につけるという構図である(伊藤 [2000:98-99])。
このように物語論的なSHG の回復の効果について論じた文献においてもそれ以前の効果を述べている研究と同様の批判がある。このような状況の中で、SHG の物語の効果を論じる研究において心理療法と同型の効果を論じる研究の流れが存在する。

3.2 ナラティヴ・アプローチと「言いっぱなし・聞きっぱなし」

ナラティヴ・アプローチとは、これまで、自然科学が依拠してきたような、論理科学的なアプローチとは違い、人間を受身的な観察対象として捕らえるのではなく、主体的な多様な可能性に開かれた存在というテーゼから出発する。このことを、White & Epston [1990] は次のようにいう。「論理科学モードは、個人性を受身的なアリーナとして、すなわち、非個人的な力、動因、衝撃、エネルギー移動等に対して反応する場として表現する。これらの研究によれば、人の外にあるか内にあるかはともかく、ある種の力が人に作用し、それらが人生の形を決定し構成していくことが当然視される」。一方「物語モードは、人を彼/ 彼女の世界の主人公または参加者と見なす。それは解釈行為の世界であり、そこではストーリーのすべての語り直しは新しい語りとなり、人々は他者とともに再著述に関与し、それゆえ、彼らの人生や関係をもつくっていくことになる」(White & Epston [1990=1992:106])。White & Epston は、既存の客観的世界が存在し、その立場からの観察者という態度を放棄し、他者の語る言葉そのものに耳を傾け、物語を形成していくべきだとした。
K. J. Gergen は、社会構成主義の立場にたつセラピーというのは、「多声性」に注目していると指摘している。「多声性」とは、困難な状況における「声」を多様にすることだという。ここで目的となるのは、何らかの「解答」や「新しいストーリー」を見つけることではなく、幅広い新たな選択肢を生み出すことであり、たくさんの「声」が身近にあることで、さまざまな行為の可能性がクライエントの前に開かれる(Gergen [1994=2004:258])という。SHG において、Gergen が指摘したような多声性を引き出す装置として、野口(2002)は、「言いっぱなし・聞きっぱなし」のルールを上げている。「言いっぱなし・聞きっぱなし」のルールを採用するAA やACA のアノニマス系のSHG について、ナラティヴ・アプローチとは名乗っていないが類似的な効果があるということを強調しての議論を展開させている(野口 [2002:164-168])。 

AA のメンバーもそのように、「言いっぱなし・聞きっぱなし」のルールを自分以外の参加者に受け入られることを期待している。たとえば、私が入ったACA のミーティングではある人が「言いっぱなし・聞きっぱなし」のルールを無視してある人に意見をいった。そうしたらある人は、その意見を言った人にたいしてとても逆上して注意した。「ここは言いっぱなし・聞きっぱなしのルールで自分が話している間は他の人間は聞いていなければならないのではないのか!」(フィールドノート 2007 年12 月)と。つまり、「言いっぱなし・聞きっぱなし」のルールは、それを逸脱すれば参加者の怒りを喚起するぐらい、参加者同士の期待としても内面化されているのである。

4. 語りを引き出す場としてのセルフヘルプグループ
4.1 探求の語りの補助装置としての12 ステップ

A. Frank [2002] は、語りを、「病いの語り」を三つに分類する。「回復の語り」(restitution narrative)、「混沌の語り」(chaos narrative)、「探求の語り」(quest narrative)である。この中で「回復の語り」はK. Plummer の『セクシュアル・ストーリーの時代』に描かれていたように、近代的なストーリープロットである。K. Plummer はSA(Sexaholics Anonymous) を事例にあげ12 ステップは「回復の語り」であるというように論じている。このような視点はアノニマス系のSHG が外部に発信する最終的なメッセージとして立ち現れてくる側面としては認められる。しかしながら、実際のSHG 内部において参加者は必ずしも「回復の語り」に単線的に向かっているわけではない。むしろ、回復に向かっての単線的なストーリーというより、は「探求の語り」に近いと思われる。Frank は、探求の物語(quest story)は、苦しみに真っ向から立ち向かおうとするものであるという。それは病いを受け入れ、病いを利用しようとする。病いは探求へとつながる旅の機会である(Frank [1995=2002:163])という。さらに、Frankは、ニーチェを現代の探求の語りの生みの親だという。ニーチェは、原因不明の慢性的な病状に苦しめられていた。そこで、ニーチェは自分の痛みに「犬」という名前をつけた。そのことは、痛みとの新たな関係へと導いていく(Frank[1995=2002:165])。

探求の語りは、病者であることの新たなあり方の追求について語る。病む人が、少しずつ目的の感覚を形作っていくことによって、病いは旅であったのだというとらえ方が浮上してくる。旅という言葉の意味は循環的に立ち現れてくる。自分がどんな旅をしてきたのかを見出すために、旅がなされるからである(Frank [1995=2002:165])。
Frank は、病いに名前をつけ、病いが一義的なものではなくて多様な捉え方ができると述べている。そして、自己の過去においてしてきた旅を再度語りなおす契機としてまた旅に出るという循環的なあり方を指摘している。これは、SHG においては12 ステップのプログラムと符号する考え方である。さらに、12 ステップは、ステップは不可逆的なものではなくて、可逆的なものでもあり同時進行的になる場合もある。たとえば、私の知っているACA 参加者は以下のように仲間に発言している。

「ツーステップダンスというのがあって、問題が改善してないのにステップ1 の次にステップ12 をやって、さらにひどくなる人がいるけど、それはあまりよくないからメッセージ活動をしながらもステップをしっかり踏まないといけない」(フィールドノーツ 2007 年10 月)

この、参加者は要するに12 ステップのプログラムを順番にすることを薦めながらも同時に複数のステップの実践していくことを語っている。このことは、単に回復の語りがカミングアウトされるのではなくて、回復を模索し探求しているのだといえる。つまり、12 ステップを順番にやるときもあれば、順番を遡ってやるときもあり、それは自己物語を紡ぐための一つのリソースとして機能している。つまりニーチェが「犬」と自己の病いに名前をつけたようにどのような名前の付け方が良いのかを依存症者たちはSHG に通って語り続けているのである。探求の語りを何度も何度もステップを踏みながら、実践されている。つまり、自己の病名を彼らは付け直しているのであり、そのために12 あるステップの往復運動をしているのである。このような、12 ステップのプログラムと「言いっぱなし・聞きっぱなし」によりミーティングが行われており、この条件下で「ユニークな結果」を産出することが、SHG の目的になってくる。

4.2 構築主義とナラティヴ・セラピー

野口 [2005] によると、社会構成主義がそのままナラティヴ・セラピーにつながるのではなく、構築主義の源流の一つである、バーガーら権力関係を人間が変化する最に必要だと論じたのに対し、ナラティヴ・セラピーはそのような権力の上下関係を放棄し、対等に対話していく姿勢を目指しているという。バーガーらの記述からは、宗教にしろ、セラピーにしろ、上位にいる人が下位にいる人を導き影響を及ぼしていくという構図が見て取れるが、ナラティヴ・セラピーはこのような上下関係を破棄することをひとつの重要な前提にしている。物語論とは、このような前提の元で、自己とは物語によって構成されている。だとするなら何らかの生きづらさもまた物語によって構成されているということになるので、物語の転換によって苦痛や嗜癖問題も緩和が可能であるという可能性を示した。
White & Epston [1990] は、人が「実際に生きた経験」とそれについて「語られた物語」について比較して、「実際に生きた経験」が「語られた物語」によってすべて語りつくせないという自己の絶対的な恣意性を指摘した。つまり、過去は完全には汲み取ることができないので、それには必ず穴が存在するという。この前提の元に、自己物語についてドミナントストーリーとオルタナティヴストーリーという類別をし、その上で語り手自身にとってオルタナティヴストーリーとドミナントストーリーのずれが大きい場合それが生きづらさとなっていると指摘する。ナラティヴ・セラピーの治療的な特色としてこのようなクライエントのドミナントストーリーから解放しその上で、彼らが語ってこなかった「生きられた経験」に馴染むようにオルタナティヴストーリーを引き出すということである。人々には豊かな生きられた経験があって、この経験のある断片だけがストーリーされて表現される、そして多くの生きられた経験が必然的に人々の人生や人間関係についてのドミナントストーリーの外側に汲み残されることになるといった考えに向けて、症例が進められていくことになる。ドミナントストーリーの外側に組み残された生きられた経験のいくつかの側面が、オルタナティヴストーリーの創生と再創生にとって豊かで肥沃な素材を提供することになる。(White & Epston [1990=1992:35])ここで重要になるのは、White& Epston がGoff man にならって、ドミナントストーリーの外側を「ユニークな結果 unique outcome」と定義したことである。ユニークな結果は、出来事、感情、意図、思考、行動といった全範疇にわたっていて、歴史的に、あるいは現在や未来において存在するものの、決してドミナントストーリーに組み入れられることはないという。
 
5. 脱パラドックス化装置としてのセルフヘルプグループ
しかし、ナラティヴ・セラピーと構築主義との相違も浅野によって指摘されている。浅野は、「自己が物語によって生み出されるとするとき、語っているのは一体誰か」という問いを立てて、こう答えている。
語りが自分自身についてのものである以上、自分が何者であるのかについてすでに何らかの了解をもっている「自己」が語っているのだと答えるほかあるまい。そうでなければそもそもその語りが自分自身についてのものであるとは言えなくなってしまうからだ。したがって、この間の事情を詳しく言い直せば〈自己が自分自身について語ることによって自己を構成する〉というようになるはずである。そうすると順序としては「語る自己→語り→自己構成」となるはずであり、「語る自己」は「語り」や「自己構成」に先立ってそこにいたことになるのではないか(浅野 [2001:195])。
構築主義において、浅野が指摘しているとおり語る自己が前提となってそののちに自己が構成される側面がある。アルコホリックの自己構成は、このことが顕在化しており、G. Bateson がアルコホリックの特性として次のような矛盾点を提出している。

リスクにプライドを求め、それを生活原理にすることは自己の破滅を求めることと変わらない。宇宙が自分に好意的かどうか、一度の賭けで知ろうとするのはよいだろう。しかし、この賭けを繰り返す─しかもそのたびに証明の条件を厳しくしていく─というのは、宇宙が自分を憎んでいることを証明するプロジェクトに乗り出すことにほかならない。〜中略〜彼らが認めようとしない、あるいは認めることができないのは、酔っていようが醒めていようが、アルコール依存症者の自己全体が、「アル中パーソナリティ」なのであり、そういう自己が、アル中と「戦う」 などということは、それ自体矛盾だという点である。(Bateson [1972=2000:436-425])

つまり、アルコホリックというパーソナリティ自体に自己言及的な側面があり、自己の問題を自己が構築しているという要素の指摘もすでにG. Batesonがしていたのである。しかし、ナラティヴ・セラピーの立場において、自己の経験を語る物語というのは、語る時点の自己を起点として常に過去はその起点に向かって語りを構成しているということである。常に、語る自己─語られる自己(ドミナントストーリー─オルタナティヴストーリー)との自己のパラドックスを解消してくれるのはその場において自己物語を聞いてくれる他者だということである。自己なるものは語りを通じて構成され、そのことを構成主義はフィクションだという。しかしながら、このフィクションが成り立つには、自己の「現在」と「過去」がたしかにつながっていることの証人が必要なのである。
このことを、AA やACA などのSHG の空間に当てはめて考えてみると、ミーティングにおいてある経験をP. Antze のいうようなイデオロギーの形式に当てはめて語ったとする。そうすると、現在の語る自己はそのイデオロギーによって問題のあるアルコホリックの自己を訂正し、より良いストーリーが設定される。しかし常に自己物語は、浅野が指摘するように現在の起点から過去に遡るためにどの起点が回復のために一番、最適なものかということの説明にはなってはいない。イデオロギーなるものが仮に存在したとしても、どのイデオロギーも自分の「生きた経験」が「語られた物語」を常につかみ損なってしまうために、回復のストーリーを語り続けることは困難になる。また、福重 [2004] もこの点について興味深い指摘をしている。

物語行為が、経験を取捨選択していく行為だとするなら、いかなる物語を構築するにしても残余となる経験を残さないことは不可能である。これは具体的にいえば、例えば、ミーティングにおいてある経験を語ったとして、それが後に「そうは言ったものの何か違う。私の経験は、また違うものではなかったのか」というような脆弱性を生じないという保証はどこにもないということである〜中略〜 SHG での語りは永久不変の完全な「回復」を提供してはくれない。しかし、その都度その都度の苦痛からは「回復」させてくれる。だからこそグループのメンバーは、その都度その都度の「回復」を求めて長期にわたってミーティングに出続け経験を語り続けようとするのである。(福重 [2004:312]) 

ミーティングの参加者が永久不変の回復がないということを、その時その時のミーティングの場においてのイデオロギーが変わってくるので回復もその場その場でしかありえず、頻繁に物語を書き換えることで苦痛を最小限に抑えられると指摘している。この議論は、私がフィールドワークをしていて出会ったほぼすべての人に当てはまるように思う。しかし、この議論に従いつつも証人としてのSHG の参加者がお互いに機能しているという状態であることを指摘できる。SHG が提供してくれる物語の雛形が、語る自己において、永久不変の「回復」を提供してくれないという側面は確かに、認められる。ミーティングのその場その場の語られ方を起点としての語る自己を内面化して語るメンバーは存在する。私がフィールドワークにいっていたACA の参加者は自分以外の参加者の語りを聞いてそのメンバーの発言内容に擦り寄る形で自己の物語を構成していた。具体的には、「ある参加者が女性だから、共依存的になってしまう」という語りを展開させていて、その後に続く参加者にその語りの結論の部分を共有させており、それに沿う形で他のメンバーが自己物語を語りだしたのである。(フィールドノート 2007 年12 月)
ミーティングにおいて参加者同士が、互いに自己物語の雛形を提供しあっているという部分は着目するに値する。しかし、それは対自関係だけの問題を取り扱っているだけにすぎず、対自関係のパラドックスの側面がSHG で解消されうるという部分が福重の議論では抜けている。この、脱パラドクックス化なくしては、SHG で何を語ったとしても自分が信じている自己像を強化するのみであり、語った物語を自己も他者も認めるような物語としては認識できないだろう。V. Burr [1997] は、このことを以下のようにいう。
われわれのストーリーの構築に当たって、われわれは共演者たちの積極的な意欲に大いに依存している。われわれが物語的説明を通じて、自分のアイデンティティを、自分が何者の見方を構築する、その限りにおいて、我々のストーリーは、われわれの説明で重要な役割を演じるほかの人びとのそれらと一致しなくてはならない(Burr [1995=1997:209])という。
我々の自己物語は、自分自身の特定の仕方で表現しようとする場合、その物語を聞いてくれる他者に依存する。つまり、他者が積極的に傾聴することが物語論的な自己論の前提用件なのである。このことは、私のフィールドでも出会った参加者が示しているとおり、「どんな語りであっても聞くという態度を保持しなければならない」というルール意識をメンバーが内面化しているということでも明らかなとおりである。つまり「言いっぱなし・聞きっぱなし」のルールがSHG 以外の場で自己物語を描くよりも描きやすいという特質がそこには存在するのである。

6. 結論
アノニマス系のミーティングで重要なのは、12 ステップが物語に緩やかな枠組みを与え、それを往復しながら傷に名前を与えていく。ミーティングでは「言いっぱなし・聞きっぱなし」において、傷を捉えなおす契機として「意図せざる結果」を利用しながらも、依存症者は自己物語を語っていくのである。しかしこのような、空間の中で語られる自己物語の前提として「語られる自己」と「語る自己」というパラドックスが存在しており、それを脱パラドックス化するのが目の前の参加者である。既存のSHG の回復の効果について、伝達的な要素だけを強調する物語論の研究が大半であり、自己内部のパラドックスをまるで無いように取り扱う先行文献がほとんどであった。本論では、まずこのような先行文献に批判を加え、彼らのSHG 通いが長期化を説明できるようなモデルを素描できたように思う。また本論で、記述仕切れなかった点として、このようなSHG の長期化が依存系以外のSHG でも起こりうることなのかどう

〈註〉
1)精神医学において厳密には、「依存」「乱用」「中毒」は、分類される。「依存」は、やめたくてもやめられないという精神状態のことを指す。「乱用」は過度な飲酒や薬物使用にも関わらず辞める意思がなく、法律、社会、対人関係が上手くいかなくなった状態を指す。「中毒」はそのような、意思や社会性といったものではなくて、たんに身体機能の障害を指す。本論が、「依存症」と使うときには、主に「依存」の状態が継続して現れる人と定義したい。ただし、これは医師がそう判断するのではなく、個人の生きづらさといった曖昧な状態でもそう呼ぶ。なぜなら、AC の場合、嗜癖対象が存在しない場合もあるからである。
2)2007 年6 月10 日に関西で開催された。尚、この日は、1935 年6 月10 日にAAの創設者であるビルウィルソンがAA を創設した日に因んでいる。
3)京都アディクションフォーラムは、 2007 年6 月16 日(土)と17 日(日) ひと・まち交流館 京都で開催された。二日間で100 名以上の市民と当事者が集まり、立場性の違いを乗り越えて、対話するという試みであった。
4)
Narcotics Anonymous 1953 年創立
Overeaters Anonymous 1965 年創立
Gamblers Anonymous 1970 年創立
Cocaine Anonymous 1979 年創立
(katz= 久保 [1993=1997] より作成)
5)アメリカにおいて、非12 ステップ系のグループは、1940 年代後半に、表面化しはじめた。精神遅滞、脳性マヒ、血友病、筋ジストロフィーなどのような、組織は、1950 年の初頭までに自助グループの組織として成熟していった。自発的に組織された地区の親たちのグループは互いに交流を求め1950 年代までに合同して、州および全国的な組織となった。(Katz [1993=1997:18])
6)「治療志向」というのは、内在的な言葉で慎重に使うべきなのかもしれない。つまり個人の側に責任があり社会の側になにも責任がないというようなスタンスを感じ取ってしまうような方向性を示してしまうが、ここでは依存症という特殊な症例の上でこの方向性を示したい。P.Conrad、J.Schneider が『逸脱と医療化』で述べているように、AA が逆に精神医学において「アルコール依存症」の病理のメカニズムを決定してきた歴史もある。
7)AA は、世界中に存在し、葛西 [2007] によると200 万人以上のアルコール依存症者が所属しているという。

〈引用文献〉
Alcoholics Anonymous, 1976, Alcoholics Anonymous( = 2002、AA日本出版局『アルコホーリクス・アノニマス─無名のアルコホーリクたち』AA 日本ゼネラルサービスオフィス)
Antze, P, 1976, “The Role of Ideologies in Peer Psychotherapy Organization: Some TheoreticalConsiderations and Three Case Studies,” Journal of Applied Behavioral Science.12(3):323-346
浅野智彦、2001、『自己への物語論的接近 家族療法から社会学へ』 勁草書房
Bateson, G, 1972, Steps to an Ecology of Mind, Harper & Row.(= 2000、佐藤良明訳『精神の生態学』新思索社)
Borkman, T, 1976, “Experiential Knowledge: A New Concept for the Analysis of Self-Help Groups,” Social Service Review, 50(3): 445-456
Burr, V, 1995, An Introduction to Social Constructionism, Routledge(=1997、田中一彦訳『社会的構築主義への招待─言説分析とは何か』川島書店)
Cain, C, 1991, “Personal Stories:Identity Acquisition and Self-Understanding in Alcoholics Anonymous,” Ethos, 19: 210-253.
Frank, A. W, 1995, The Wounded Storyteller: Body, Illness, and Ethics, Chicago: The University of Chicago Press.(= 2002、鈴木 智之訳『傷ついた物語の語り手─身体・病い・倫理』ゆみる出版)
福重 清、2004、「セルフヘルプグループの物語論的効果再考─「回復」することの曖昧さをめぐって」『現代社会理論研究』14: 304-317
Gergen, K. J, 1999, An invitation to Social Construction, London: Sage (= 2004、東村知子訳『あなたへの社会構成主義』ナカニシヤ出版)
伊藤智樹、2000、「セルフヘルプグループと個人の物語」『社会学評論』51(1): 88-103
葛西賢太、2007、『断酒が作り出す共同性』世界思想社
Katz, A. H. 1993, The Self-Help in America: A Social Movement Perspective(= 1997、久保紘章監訳『セルフヘルプ・グループ』岩崎学術出版社)
Lave, J and E. Wenger, 1991, Situated Learning, Cambridge University Press( = 1993、 佐伯胖訳『状況に埋め込まれた学習─正統的周辺参加』産業図書)
Mains, D. R, 1991, “The storied Nature of Heath and Diabetic Self-Help Groups,” G. L. Albrecht & J. A. Levy eds., Advances in Medical Sociology, 2, Greenwich: JAI, 185-202.
中田智恵海、2000、『セルフヘルプグループ─自己再生の援助形態』八千代出版
野口裕二、2002、『物語としてのケア─ナラティヴ・アプローチの世界へ』医学書院
─、2005、『ナラティヴの臨床社会学』勁草書房。
岡 知史、1988、「セルフ・ヘルプ・グループの働きと意義」『看護技術』34(15): 12-16
Plummer, K, 1995, Telling Sexual Stories: Power, Change and Social Worlds, London &
NewYork: Routledge(= 1998、桜井厚・好井裕明・小林多寿子訳『セクシュアル・ストーリーの時代─語りのポリティクス』新曜社)
Rappaport, J, 1993, “Narrative Studies, Personal Stories, and Identity Transformation in the mutual Help Context,” Journal of Behavioral Science, 29(2):239-256.
Riessman, F, 1965, “The Helper Therapy Principle,” Social Work. 10(2): 27-32.
White, M & D Epston, 1990, Narrative Means to Therapeutic Ends, Dulwich Centre Pub.( =1992、小森康永訳『物語としての家族』金剛出版)